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2022-10

7月17日~23日のみことば - 2022.07.16 Sat

各地で雨の被害が報じられています。
空梅雨から一転、戻り梅雨?それとも、すでに夏の豪雨なのでしょうか。
ともかく、被災された地域の方々が一日も早く安心した生活に戻れるようにお祈りしています。
まだまだこれから夏本番。
感染者も増えていますし、皆さんの安全と健康が守られますようにとお祈りしています。
教会も、気を付けつつ礼拝を継続します。
会堂に来るのが心配な方は、ホームページでメッセージ音声を、YouTubeでメッセージ動画を配信していますから、どうぞご活用くださいね。

それでは、今週のみ言葉をどうぞ!!

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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


17日(日) イザヤ書7章1-9節
一言メッセージ:1-17節は大事な箇所なので、二日に分けて読んでいきます。この箇所における南王国は非常に切迫した状況です。北王国、アラム、ペリシテの連合軍が攻めてきたのです。新共同訳聖書の後ろに記される地図1「聖書の古代世界」を参照ください(時代は違いますが、位置関係を知るためです)。当時の世界は、チグリス川中流域を中心に勢力を誇っていたアッシリアが強国でした。アッシリアは北イスラエル王国、アラム、ペリシテに莫大な貢物を要求し、従属させようとしました(地図5「南北王国時代」を参照)。それに反発した三者は互いに結託して反アッシリア同盟を結び、南王国にも同盟に加わるように迫ります。しかし、ここがアッシリアの上手なところで、アッシリアは南ユダ王国には貢物を要求しませんでした。後にエジプトと戦うことになる際に、政治的・軍事的な緩衝地帯とするつもりだったし、同時に、仮に北王国などが反旗を翻したとしても、多大な圧迫を受けていない南ユダはすぐに同盟に加わって強大なアッシリアに反旗を翻さないだろう、という外交戦略でした。この戦略が見事に当たります。北王国、アラム、ペリシテが反アッシリア同盟を組み、南王国に加盟を求めますが、南ユダは拒否。反アッシリア同盟は自分たちの背後の南ユダ王国がアッシリアと戦う際の脅威になると考え、だから今朝の箇所にて南ユダ王国に攻めてきたのでした。2節を見ますと、南王国の王家(ダビデ家)も民衆も震え上がっています。その時、イザヤはアハズ王と面会し、神さまの言葉を告げます。3節「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。彼らはすぐに滅ぶ。彼らがどれほど脅威に思えようと、私があなたを守る」と。今朝注目するのは9節の終わりです。イザヤは「(信じなさい。)信じなければ、あなたがたは確かにされない」と告げます。「信じる」のヘブライ語の「アーマン」です。この言葉を厳密に訳しますと、受身形で「固く信じさせられなさい」です。分かりにくい表現ですが、「信じさせていただく理由を得る」ことは「神によって固く支えられなさい。神さまが守ってくださる」と、神さまの行動があるからこその約束になるのです。今朝わたしたちはここに神さまと私たちの相互関係を見出します。神さまは私たちの信仰にしっかりと応えてくださる方です。今朝は礼拝の日ですが、今朝も共に神さまを固く信じ、神さまによって強く支えられましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。神さま、人は危機的状況に陥る時、あなたを忘れ、自分の力、周囲の力への注視と算段ばかりに終始してしまいます。でも、あなたはそんな動揺する南王国に「私を信じなさい。わたしはあなた方を守る」と呼び掛けてくださいます。神さま、その促しは今も変わらず与えられています。どうぞ私たちを守り、御心のままにお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(月) イザヤ書7章10-17節
一言メッセージ:昨日の続きです。反アッシリア同盟が南王国を攻めてきた時、神さまはイザヤを通してアハズ王に「自分を信じなさい。私が守る」と呼び掛けました。イザヤは続けて「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と告げます。アハズはその言葉にどう反応したか。12節で彼は「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と告げます。一見すると「主を試さない」は敬虔な言葉にも見えますが、アハズは「神という不安定な存在に頼らない」と拒否したのです。実際この後、アハズはアッシリアに貢物を贈り、反アッシリア同盟を攻めてもらうことで、自国への侵略を阻止します。しかし、後にこれが愚策であったことが明らかになります。反アッシリア同盟を撃退したはいいものの、その後、南王国がアッシリアによって重い従属を強いられるようになるのですから。神さまはそんな歴史の流れを知るからこそ、それを回避させるべく、イザヤを通してアハズ王にさらに信じられるように「しるしをあたえる」と約束されたのです。それが14節後半です。この言葉に私たちは何か思い出しませんか?これはマタイ1.23、イエスさまの誕生の時に引用されるインマヌエル預言のことばです。あのイエスさま誕生に繋がる「わたしはあなたがたと共にいる」預言はこの状況、つまり祖国存亡の危機の中で、動揺し怖じ惑う人々に対して語られたのです。神学者カール・バルトはこのインマヌエル預言について「神はイエス・キリストにおいて永遠に罪人と共にあることを覚悟された」と語っています。私たちはアハズを反面教師とし、神さまが本気で私たちと共に生きてくださっていることを喜びながら、新たな週を歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは驚きました。あなたが救い主誕生を語られた預言は、祖国存亡の危機に動揺する人々に「私があなたと共にいて救う」と語られた言葉でした。アハズや南王国の民はその言葉を受け止めませんでした。でも神さま、今わたしたちはあなたの預言がイエスさまにおいて成就し、今の私たちはあなたに寄り添われて生きていることを思います。どうぞ、今週もあなたが共にいて、私たちを生かしてくださっている感謝を思って過ごすことができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(火) イザヤ書7章18-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の箇所14-17節で神さまが「わたしは南ユダ王国を救う」と語った預言の内容部分です。神さまは、神さまを捨て、力と策に頼り、アッシリアからの独立を画策する北王国、アラム、ペリシテへの滅亡を語ります。注意したいのは21-22節で、国は滅びても人々は「子牛一等、羊二匹の命を救い」、その家畜が出す乳や野の蜂の蜜で生き残ると語られていることです。25節でも荒廃した土地に人々が足を踏み入れるには多大な労苦をせねばならないのに、家畜には自然のままの放牧地となっていきます。神さまのことばは完全な滅びでなく、国が亡びながらも民はその時になって「生かされると知る」と告げるのです。それまでの「富や栄華に固執する生き方」は崩壊しますが、不思議とその時にこそ「日々、神さまの守りによって生かされていた」ことを体験していく。そこに、日々生かしてくださる神さまへの感謝と、他者と共に支え合って生きていく実感が生まれるのです。聖書が示すこの「感謝と共生の生き方」は現代の世界にも必要なこと。今朝は改めて神さまへの感謝と、他者と共に生きていくことを喜びスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は北王国の滅びの預言でしたが、その言葉には、それまでの「富や栄華に固執して」きた北イスラエルが、あなたに生かされていることを体験してあなたへの感謝に生きること、だからこそ他者と共に生きる者とされていくことの示唆がありました。神さま、私たちはみことばから「感謝と共生」の大切さに気付きます。どうぞ今日の一日、あなたへの感謝と他者との共生を意識して過ごせますように。ウクライナに一日も早い平和を実現ください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(水) イザヤ書8章1-4節
一言メッセージ:昨日まで読んでいた箇所は、反アッシリア同盟に怯え切った南王国に「安心して神に信頼し、守られなさい」との流れのことばでした。それは、南ユダ王国に対しては現実的に「アッシリアに取り入って安全を模索してはいけない。それは結局、自分たちの首を絞めることになる。あなたたちにとって最善の選択はただ神さまに頼ること」というメッセージでした。そんなメッセージを体現するように、今朝の箇所でイザヤに息子が誕生します。名前は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(「分捕りは早く、略奪は速やかにくる」という意味)」です。我が子につける名前としてはひどい意味ですが、これは南王国への公的な警告なのです。「アッシリアに頼ると、結果、南王国自身も早急に衰退していく」と告げたのです。聖書研究によれば、イザヤはこの子が7.14で神さまが救いの約束として与えてくださった「男の子」だと考えていたようです。だからこそ彼は8.18で「わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、…主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」と語っているのです。イザヤは神さまが示した未来の希望を人々が喜んで受け止め、国は立ち返ると思ったことでしょう。けれど、民はあまりにも目先のことに執着し、苦難の先にある祝福を信じない。目先ばかりで未来を観ない民に、イザヤの切実な訴えは続いていきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤが告げた預言は、未来の祝福でした。けれど、王も民も目先の利に留まり、国は正されません。神さま、わたしたちはイザヤの預言を見ながら、「私たちは目先に捉われず、神さまが約束くださる未来の祝福を信じ、ワクワクしつつ歩もう」と思います。どうぞ、私たちの毎日を目の前の出来事に誠実に向き合いつつ、未来のお約束を覚え続ける日々としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(木) イザヤ書8章5-15節
一言メッセージ:5-8節は神さまの託宣の形式が語られる言葉。「シロアの水」はエルサレムのギホンの泉からの湧き水でエルサレムの籠城時の生命線となる水です。今朝の箇所で「民はシロアの水を拒み」とは神さまの「守る」という約束を拒み、反アッシリア同盟に屈してしまう状況を指す言葉です。イザヤは13節などで「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」と訴えながら、14-15節で「神さまを畏れないなら、神さまが民の“つまずきの石、妨げの岩”となってしまう」と警告するのです。「神さまが民の躓きの意志となる」とはどういう意味でしょう。それは「神さまは目で見えず、手で触れられないから、民が不安に陥り、分かりやすい確証を欲してしまう」です。心情的には分かりますが、でも、そこで私たちは冷静に考えましょう。身近で触れられるものは本当に頼りになるのか。「溺れる者は藁をも掴む」のが人間ですよ。歌手のさだまさしさんのステージトークで好きな話があります。コンサートの合間の移動日のこと、台風が接近しているが、どうしてもその日のうちに移動せねばならず、飛行機に乗ったそうです。突然の強風に煽られ、飛行機は上昇したり、エアースポットで下がったりと、不安定な飛行だった。隣ではマネージャーがガタガタ怯え、飛行機が上下する度に「ひぃっ!」と声を上げて座席の手すりを握りしめる。それを見ながらさださんが言ったそうです。「バカだねぇ。堕ちる時には手すりも一緒に堕ちるのに。」ものすごい的確な指摘でしょ?そうです、堕ちる時には手すりも一緒に堕ちるのに、その手すりにしがみついて身の安全を確保してしまうのが人間です。イザヤの指摘は同じです。「本当に助かりたいなら、人間に頼ってどうすんだ。神さまに頼らんと意味がない」って。私たちは神さまを信じたのは、このお方が私たちの神であり、イエスさまが救い主だと信じたからです。「だったら大事な時にこそ信じんでどうする?」なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはイザヤの言葉から「本当に信じ、頼るべき相手は誰か」と問われました。私たちはあなたを信じながら、危機の時にあなたを忘れてジタバタ足掻いていたかもしれません。神さま、あなたを信じます。どうぞいつも、私たちに信頼と期待を強く湧き起らせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(金) イザヤ書8章16-23節前半
一言メッセージ:今朝の箇所は16-18節と19-23節で分けて読む箇所です。16-18節は13節で「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」と語った言葉のとおり、イザヤと弟子たちが神さまに誠実に生きる記述です。注目したいのは17節です。当時の社会は経済格差が広がり、弱い立場の民は奴隷に身を落として人身売買され、富む者、権力を持つ者の横暴ははびこっていました。でもイザヤは17節で「神さまの御心と程遠い現実が今、起こっているが、それでもなおわたしは、主に望みをかける」ことを語りました。ここに私たちは「信じるとは」を教えられます。信じるとは「私の願いどおりだから」行えるものでなく、自分の願いと違う現実においてなお貫くことです。一方、19-23節は民の反応です。彼らは神の分かりやすい反応(超常現象、目を見張るような奇跡)が起こらないため、自分たちで超常現象を求め始めます。「口寄せ(いたこ)」や「霊媒」です。20節にあるように、彼らは「聖書のみことばにはまじないの力は無い」と軽視し、分かりやすい超常現象に縋ろうとしました。この姿は時代を超えて、人間の弱さを示します。人は誰でも自分を超える絶対者を求めますが、残念なことに多くの人はその絶対者を目先のご利益やまじないや超常現象という分かりやすさで測ろうとする。その結果、本当に信じられて、頼るべき方を見過ごしてしまう。イザヤは23節で言います。「彼らに苦悩を逃れる術はない。」私たちは「本当に信じ、頼るは神さま」を再確認しながら、今日をスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。民は分かりやすい超常現象(口寄せやまじない)に走り、イザヤはまっすぐにあなたを信じ抜きました。頼るべき相手を知らぬ者と知る者の違いでした。神さま、私たちもイザヤたちと同じく、あなたを信じます。どうぞ今日もあなたに誠実に向き合い、一日過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(土) イザヤ書8章23節後半―9章6節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさま誕生を待つ期間(アドベント)で読まれることが多い箇所です。それは5節の「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」がイエスさま誕生と重なって読まれるからですが、イザヤ書の状況で言えば、この記述はヒゼキヤという若い王の即位時の言葉と考えられます。非常に大事な箇所なので2日に分けて読んでいきます。
今朝は状況的なアプローチで読みます。8.23後半に「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」、2-4節では戦争終結の描写が描かれます。これは前王アハズ時代に北王国、アラム、ペリシテが反アッシリア同盟を組んでアッシリアと戦争した(シリア・アッシリア戦争)後に関連する描写です。戦争によってアッシリアは反アッシリア同盟を滅ぼし、その土地を支配します。23節はその、それぞれの土地を指しています。「海沿いの道」はペリシテ、「ヨルダン川のかなた」はアラム、「異邦人のガリラヤ」は北王国です。23節にて神さまは、そんな支配された地域の解放の兆しを語るのです。1節以下もそうです。南王国もアッシリアを使って反アッシリア同盟を撃退し、外交上は成功したかに見えましたが、アッシリアは今度、南王国に従属を求め、多額の貢物を要求してきました。その結果、南王国の民は絶望し、それが1節の「闇の中を歩む民」であり、「死の陰の地に住む者」という表現に繋がっていました。しかしイザヤは「その時代が終わる」と語る。それがヒゼキヤ王の即位です。イザヤはこの王を通して神は南王国を救ってくださると見ています。それも4節の描写では、民は戦争の道具を焼き捨て、「もうこれで二度と戦争はしない」と解放まで期待したのです。では、イザヤのこの期待の根拠は何でしょう。それは6節です、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる(神さまの情熱が民に平和を実現させる)。」私たちも神さまの平和の実現を切望します。神さまが実現くださる平和、そのために私たちは今、何ができるのか。まもなく8月、平和を覚える月です。今わたしたちは、一刻も早いウクライナの停戦や、私たちの国が二度と戦争できる国に戻らないこともよりいっそう、しっかりと祈り始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は南ユダ王国の政策の大失敗によってアッシリアの支配を受けていた状況が、神さまの情熱によって終えられていく預言でした。神さま、私たちはイザヤの言葉を読みながら、現代の社会においても続く戦争や、権力者の間違った政策によって民が苦しめられている状況を思い起こします。神さま、どうぞ私たちにもあなたの平和を実現し、お与えください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。


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7月10日~16日のみことば - 2022.07.10 Sun

7月10日は選挙の投票日ですね。
皆さんは、投票に行かれますか?(もしくは、期日前投票に行かれましたか?)

投票日直前にとてもショックな事件があり、心が揺さぶられています。
しかし、このような事件に触れて一層、暴力によって問題を解決することはできないし、
決してしてはいけないことであると痛感させられます。
神さまはわたしたちに言葉を与えてくださいました。私たちは対話をすることができる者なのです。
議論を投げ出したくなる時や、言葉に詰まるとき、言葉にすることが難しい時も、決してこの対話から逃げてはいけない。忍耐強く向き合っていかなければならないと感じています。

主よ、どうかあなたのもとに召された魂を慰めてください。
この地に人間の限界によって描かれる「正義」、力による「正義」ではなく、神さまあなたの真の正義と平和が実現しますように。
この選挙にあなたの御心がなりますように。

今週もみ言葉にききつつ、歩んでいきましょう。
※写真は3日の公団のお花。教会員の方のお庭や畑でとれたお花を活けてくださいました。きれい。

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10日(日) イザヤ書5章1-7節
一言メッセージ:今朝は参院選の投票日ということもあり、今日明日の箇所を入れ替えて読んでいきます。というのも、この箇所は今日読んでおきたい大事な警告だからです。今朝の箇所は1つの例え話となっています。注意して読みたいのは1-2節と3節以下の「わたし」が違う人物であることです。1-2節の「わたし」は預言者であり、「わたしの愛する者」とは神さまを指しています。そこでは、預言者が「神さまは素敵なブドウ畑を持っていた。十分に管理して育てていたのに、実ったのは酸っぱい(腐った)ぶどうだった」と嘆いています。では3節以下の「わたし」は農夫である神さま自身です。神さまは「わたしは精いっぱい手入れをしてきたが、どうしてぶどう園であるイスラエルは正しい実りを実らせなかったか。正しい実りを生まないならば、その畑を放置する」と語るのです。7節でイザヤは6節までの例え話を解き明かし、ヘブライ語の韻を踏んで「主が待っていたのは『(ただしい)裁き(ミシュファート)だったのに現実は『流血(ミスパハ)』、『正義(ツェダカー)』を願ったのに『叫喚(ツェアカ)』が生じた」と嘆くのです。なぜ、イスラエルはそんな惨事に陥ったのか。それは8節以下にあるように「富める者(権力者)」の横暴の故です。権力を持つ者がいかなる者か、正しく政治を行うか、私たちもしっかり判断して一票を投じましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちの国では参議院選挙が行われます。この選挙の後3年間、国政選挙はありません。だからこそ、3年間の政治を決定づける大事な選挙です。どうぞ、あなたの裁き(ミシュファート)と正義(ツェダカー)をより明確に実現できる動きを起こしてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン

11日(月) イザヤ書4章2-6節
一言メッセージ:今朝の昨日は順番を入れ替えて聖書を読んでいます。今朝の箇所はとてもイザヤらしい預言の言葉と思います。全体として希望のメッセージですが、その希望は2節で「その日には、イスラエルの生き残った者にとって…」とあるように、イスラエルが滅亡した後に希望を見いだすことが言われているのです。滅亡前の人々にとって希望とは祖国が生き残ることであったでしょうし、滅亡することは絶望と感じていたはずです。そういう意味では、祖国が滅ぼされた時点で民は落胆し、生きる気力も失いかけたはずです。けれどイザヤは「そこにこそ神の希望がある、主の若枝は育つ」と告げる。かつて恩師の関田寛雄牧師は「キリスト教信仰はいつも『にもかかわらず』の希望」と語りました。私たちの願い、望みが潰えても、その先になお神の希望は与えられている。正に今こそ「にこかかわらず」の希望を追い求めていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝はあなたの希望の不思議さを分かち合いました。あなたは私たちの望みの尽きる時になお望みを湧きおこらせてくださる方です。私たちはそこに「望みは神さまにこそある」と知らされます。神さま、どうぞあなたの御心を私たちの社会に、世界に実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(火) イザヤ書5章8-24節
一言メッセージ:今朝の箇所では6つの「災いだ」との言葉が続けられます。それは、裕福な都市貴族たちの横暴への裁きの言葉です。では6つの「災い」は何を意味しているでしょうか。1つ目は8-10節で、貴族が土地を独占する様子です。この背後では貧しい人々が借金のカタに土地を奪われ、生活の術を奪われていく状況があります。神さまは経済格差が生じ、貧しい人々が生きていけず、自己責任のように切り捨てられていく社会を「災い」と告げました。2つ目の「災い」は11-17節で、朝っぱらから酒をかっくらう貴族です。彼らは神さまの御心を思わず、民を顧みないため、15節にあるように「人間(弱い民)が卑しめられ」ていくのです(2.9にも出てくる言葉)。3つの「災い」は18-19節で、「むなしいもの(偶像)」を神としてご利益を求めていく行為です。4つ目の「災い」は20節、自分の都合によって正義が捻じ曲げられていく社会です。5つ目の「災い」は、富む者、利益だけに固執する馬鹿が「私は賢い」とふんぞり返っている状況です。6つ目の「災い」は、自分の都合だけで驕り高ぶる者です。この6つの「災い」は古代イスラエルに語られたはずなのに、そのままの今の日本にも当てはまっています。なぜか。それは、人間の欲はいつの時代も変わりなく、独占的、独善的だからです。「わたしや身内を優先して」という心理は誰の心にも生じるものです。だからこそ、神さまはそんな自分本位なまま権力を振り回す人間を「災い」と語りながら、「神と共に、他者と共に生きる」世界を訴えるのです。今後も紀元前8世紀の富むイスラエルに語られた神さまのみことばを、今のわたしたちの社会と重ねながら読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてあなたは、富と権力を集中する貴族に6つの「災い」を語りました。その言葉はそのまま、今の日本にも当てはまることを思います。神さま、私たちは歴史に、またみことばに学びます。どうぞあなたが警告された過ちに戻ることないように、私たちに私たちが生きる社会を整えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(水) イザヤ書5章25-30節
一言メッセージ:研究者によれば、今朝の箇所は9.20の後に繋がる箇所だったと言われます。9.7-20は、神さまが北イスラエル王国への裁きを語った言葉ですから、当然、今朝の箇所も北王国に向けての裁きとなります。時期は、北イスラエル王国やアラムが反アッシリア同盟を結び、南王国を引き込もうとして失敗し、南王国が引き寄せたアッシリア軍と戦うことになったシリア・エフライム戦争の直前です。ですから、26-30節の「遠くから襲来してくる敵」はアッシリアを指しています。この預言は当時の人々には「そんなわけない」とあざ笑われる内容だったと思われます。だって「神が敵国を使って、自分を信じる国を滅ぼす」なんて、理解できない内容だったからです。しかし私たちはちゃんと区別しながら考えておきたい。神さまは国や王政を滅ぼしますが、民を滅ぼし尽くすとは言っていないのです。国とは所詮、人が都合によってつくった制度としての群れで、この制度は福利厚生などの充実は人々が助け合って生きるための大切な制度ですが、一方、その弱さは仲間意識が強くなりすぎて群れ同士の対立や敵対関係を生み出しやすくなります。例えば、日本は1902年にはロシアの侵攻に対抗するためにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)のに、1941年の太平洋戦争時には「鬼畜米英」と宣伝に、イギリスも鬼畜生扱いし、その宣伝に乗っかった日本人たちは本気でイギリスを敵意の対象にしていたことなどです。この群れ意識は時に神さまの御心をも見失わせます。それこそ「神は敵国アッシリアを用いて、御自分の国を滅ぼすわけがない」という思い上がりです。今朝の箇所はそんな私たちにピシッと「神とはいかなる方か」を示します。神さまは正義の方であり、私たちが勝手に敵対する国々をも治める方なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はアッシリアによる北イスラエル王国滅亡預言でした。イザヤの言葉を聞いた人々は「神が敵国を用いてご自分の国を滅ぼすなんてありえない」とあざ笑ったでしょう。でも、そこには大きな誤解があります。あなたは正義の神であるのに、その正義を勝手に群れ意識に落とし込んで、「自分たちは裁かれない」との傲慢さを生んでいました。神さま、私たちはいつもあなたに対して甘えと同時に節度を、親しみと共に敬意を忘れずに信じ従う者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(木) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:今朝の箇所はイザヤが預言者として召命を受けた物語です。大事な箇所なので3日に分けて考えていきたいと思います。ある時、イザヤは幻を見ます。その幻は天上にて行われている神の神殿の光景です。神殿の上方にはセラフィムが飛んでいます。セラフィムは蛇の胴体で人の顔を持ち、手足と6枚の羽根を持つとされる想像上の生き物です(むちゃくちゃ気持ち悪い)。6枚も羽があるのに、2枚で顔を覆い、2枚で足を覆っているので非効率的な飛び方ですが、これは「神の姿を直接見たら死んでしまう」という理解と、「足は汚れる箇所なので、神に対して足裏を見せることはできない」との理解によるのでしょう(飛び方を想像するとますます気持ち悪い)。セラフィムに関しては「天的な存在ですら、神の前に畏れおおいと示していた」くらいに理解したらいいです。そんな神の荘厳な神殿にイザヤは突然、来てしまったという幻です。話を理解するため、6章ではイザヤが見たものを5つに分けて物語を読みます。イザヤが見た1つ目のものは「神の姿」です(1節)。3節でセラフィムは神に対して「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、血をすべて覆う」と語っています。「聖なる」はヘブライ語のカドーシュで、それは「汚れていたものがきれいになる」という意味の「清い」ではありません。「そもそも汚れなどと無縁の、あらゆる存在と隔絶された聖なるもの」という「聖さ」です。さらに「栄光」はヘブライ語のカーボードで、それは「重さ」とも訳されます。つまり、「主の聖なる威光は世界の隅々まで威厳をもって覆い尽くす」と言うのです。イザヤはそんな絶対的に聖く、威厳に満ちた神さまを見たのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイザヤ書6章から、イザヤの召命体験を読み始めました。大事な箇所だから3回に分けて読んでいきます。神さま、どうぞこの箇所を通して、私たちにも今、与えられている祝福と示唆を分かち合うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(金) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:昨日からイザヤの召命体験を読んでいます。この箇所を理解するために、私たちはイザヤが見たものを5つに分けて読んでいます。昨日見た1つ目は「神さま」でした。全き聖なる方をイザヤは見たのです。今朝はその続き、イザヤの見た2つめ、3つめを分かち合います。イザヤが見た2つめは「自分自身の罪深さ」です。5節でイザヤはこう言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」昨日分かち合ったように、ユダヤ人は「神さまは極めて尊い方であり、そのお姿を直接見たら死んでしまう」と考えていました。だからイザヤは「あぁ、わたしは神さまを見てしまった。死んでしまう」と叫んだのです。非常に興味深いのは、イザヤが「わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者」と語っていることです。振り返りますと、イザヤは元々祭司と考えられています。神さまの御用のために神殿で働いていた人物ですから、彼は「自分は人々の中で、まだ神に敬意を持つ者」くらいに思っていたかもしれません。でも彼は神さまを見て、その偉大な威光を知った時、「あぁ、私も罪深い民の一人に過ぎなかった」と己の姿を悟ったのです。イザヤが見た2つめのものは「自分自身の罪深さ」でした。嘆くイザヤに6節、セラフィムは祭壇の炭火を火ばさみで取ってくると、イザヤの口に触れさせて言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」どうして炭火に触れたら赦されるのか分かりませんが(皆さんは炭火に触れるなんて危険なことは絶対にしないでね)、大事なことは、イザヤは赦されたということです。神の前に罪深い人間であった自分すら赦し、救ってくださる神がいる。イザヤが見た3つめのものは「赦し」です。続きはまた明日読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイザヤが見た2つ目、3つ目を読みました。イザヤが見たものは「自分自身の罪深さ」であり、そんな自分さえも「赦し」、救ってくださる神さまでした。明日も続きを読みますが、どうぞ私たちに深い示唆と今を生きる希望とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(土) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:イザヤの召命物語から、彼が見た5つのものを見ています。1つめは「偉大なる神」でした。偉大なる神さまを見たイザヤは「私は滅ぼされる」と叫びます。彼は2つ目、「自分自身の罪深さ」を見たのです。しかし3つ目、イザヤはそんな罪深い自分さえも「赦し」て救ってくださる神さまを経験しました。彼が見た3つ目のものは「赦し」でした。今朝は4つ目、5つ目を分かち合います。イザヤが見た4つ目は「同胞の姿」です。8節、イザヤは神さまが問う声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くべきだろうか」と言います。それは神さまのみ言葉を取り次ぐ預言者を求める言葉でした。イザヤは「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と申し出ます。神さまは9節で「行け」と語り、イザヤを預言者に指名します。しかし不思議なことに続けてこう言われるのです。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」神さまのみことばを伝えるならば理解してほしいし、救われてほしい。しかし神さまは「彼らは理解しない」と語ります。イザヤが見た4つ目のものは「頑なな同胞の姿」です。彼らは神さまのみことばを聞こうとしないのです。しかしイザヤは食い下がります。11節「主よ、いつまででしょうか。」それは希望に満ちた問いです。そこには彼自身の体験があるでしょう。昨日の箇所のように、自分は祭司であり、神さまの御用のために働いており、神さまの御心に適う者だと自負していたイザヤは「私も罪人の一人に過ぎなかった」と理解した。しかし、その自分さえ救われたのです。だからイザヤは問います。「神さま、わたしが救われたのですから、きっとこの民も救われる時は来るでしょう。その時はいつですか」と。神さまが語った言葉は11-13節です。そこで神さまは「南王国が滅亡した後」の救いを語ります。南王国の滅亡後はバビロン捕囚があり、国の主だった人たちがバビロンに連行されます。残されるのは荒廃した土地、街、見捨てられた民たちです。しかし、13節、神さまはその残されたイスラエルに「切り株が残る」と言われます。ダビデ王家の残骸です。しかし、その残骸が「聖なる種子」と語られます。つまり、神さまはこの滅亡し、崩壊したと言われるイスラエルのただ中に、なお希望が芽生えてくると語ったのです。イザヤが見た5つ目、それは「救いの希望」でした。この「切り株」の預言はイザヤが語る神の国の預言11章に繋がっていきます。そこに見られるのは、今の私たちが本当に必要としている神の平和の預言なのです。また11章に手続きを語っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝までかけてイザヤが見た5つのものを見てきました。イザヤは頑なな同胞の姿と共に、しかし、神さまの救いは必ず実現していくとの希望を見いだしました。神さま、私たちもまた、あなたの希望を欲します。どうぞ、この国に、この世界に、私たちの人生に、あなたの平和を実現ください。御業に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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7月3日~9日のみことば - 2022.07.02 Sat

まさかの梅雨明けから、あつーい毎日が続いています。
付設幼児園の子どもたちはプール遊びにうれしそうですが、水不足が心配ですね。
日曜日から戻り梅雨?でまた雨になりそうですが、これで水を貯え、植物たちが潤えばいいなと思います。

さて、久留米教会では先週からニューフェイスが登場。
おそうじロボットルンバちゃんです。
現在協力してくださるメンバーで分担しながら教会堂のお掃除をしていますが、体力や時間的に奉仕が難しい方もおられます。また、今のような暑さの中で広い会堂の掃除は大変!
そこで、現在ルンバのサブスクをお試し中です。
椅子にぶつかり方向を変えながら一生懸命掃除する姿は何となく「ドジっ子」みたいでかわいくて、
ついつい「そっちじゃないよ!」なんて話しかけたくなってしまいます。
とりあえずルンバちゃんとは半年間のお付き合いの予定。これはいい!となったら購入しようかと考えています。それまでは、存分にルンバちゃんと仲良くしたいところ。
毎週礼拝をする大切な礼拝堂。文明の利器も使いながら、上手にきれいを保てたらと思っています。

皆さんも、暑い中でのお仕事や家事など、体調を壊さないように上手に手を抜いて、今週も元気に過ごしてくださいね。
それでは、今週も1週間のみ言葉をどうぞ!!

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3日(日) イザヤ書1章1節
一言メッセージ:今日からみことばメールはイザヤ書に入りました。イザヤ書は66章に及ぶ、非常に長大な預言書です。しっかり読んでいくために、今日明日はイザヤ書のイントロダクションです。
  イザヤ書は66章ありますが、内容を検証しますと3つの時代に区分されることが分かっています。研究の便宜上、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと言われます。第一イザヤは1-39章、第二イザヤは40-55章、第三イザヤは56-66章です。第一イザヤ(1-39章)は1.1に記されるように、「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世」の紀元前8世紀が舞台です。第二イザヤ(40-55章)はユダ王国が滅亡し、国の主だった人々が捕囚としてバビロンに連行された捕囚時代があり、バビロンがペルシャによって滅ぼされる紀元前539年前後が舞台です。第三イザヤ(56-66章)はバビロン捕囚から解放された民が祖国イスラエルに帰還し、荒廃した土地に神さまを礼拝する神殿(サイズはずっと小さいですが)を再建した紀元前515年頃の話です。ですから、第一イザヤと第三イザヤでは300年の開きがあるのです。もちろん、一人の預言者が記したものではありません。明日もイントロダクションは続きますが、私たちはイザヤ書を読みながら、神さまはその時の時代状況は変われども、一貫して民と向き合い、語り掛け、御自分に立ち返って平安と具体的な平和を得るように呼び掛け続けてくださることを分かち合っていきましょう。それは今の私たちにも大事なメッセージです。毎日、楽しみながらイザヤ書を読み続けていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝からイザヤ書を読み始めました。私たちはイザヤ書を読み進めながら、いつの時代にも、あなたが常に民に寄り添い、導いて生きてくださる記録を見て参ります。どうぞ読み進めながら、私たち自身が今もあなたに寄り添われていること、現実の前に無力感に沈むことなく、あなたを見上げるからこそ勇気と真理と希望を持って生きる私たちとならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(月) イザヤ書1章1節

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一言メッセージ:今朝もイザヤ書のイントロダクションです。イザヤの出自は正確なところは分かっていませんが、「祭司」だったと考えられています。彼はある時、神さまの召しによって南ユダ王国にて預言者として働き始めます(6章)。昨日に引き続き1節を読みましたが、これは1-39章の第一イザヤ(これがいわゆる預言者イザヤ)の活動期です。彼の活動期は「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世」です。聖書はサラッと記していますが、これは非常に複雑な情勢での活動期になります。添付の図を見てください。図の左は南ユダ王国の王の名前と在任期間、真ん中は北王国の王とその在任期間、右はイスラエルに強い影響を与えた近隣国の王の名前です。名前の後に(A)と記載があるのがアッシリアの王を表しています。これを見ますと、イザヤが活動した期間はアッシリアが勢力を伸ばし、とうとう北王国を滅ぼす期間と重なります。イザヤは南王国の預言者ですが、自分たちのすぐ北で、兄弟国である北王国が滅ぼされていくのです。南王国も「次は自分たちが滅ぼされるのではないか」と、王も民も震え上がった時代なのです。イザヤはそんな時代に、近隣国の動向を見ながらも神さまの御心を預言し続けたのです。時々、クリスチャンの中には「信仰は政治に関わってはいけない」という方がありますが、大間違いです。だって、預言者はまさに激動する時代に、神さまの御心を語り伝えながら、政治活動を行っているのですから。さて、明日からいよいよイザヤ書を読み始めていきましょう。※以下の写真の完全データが欲しい方は言ってください。印刷物でもデータでも差し上げますよ。    
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイザヤの活動期はイスラエルにとって北王国滅亡という動乱期であることを見ました。イザヤはそんな動乱期に、あなたの御心に立って、「今、この時代、この状況で私たちはどう生きるか」を示しています。それは、信仰と言動を分けるのでなく、あなたを信じるからこそ、信じて生きる促しでした。神さま、イザヤ書を読みながら、私たちにも今の時代にあなたの御心をどう見出すか、教えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(火) イザヤ書1章2-20節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまが南ユダの民の罪を糾弾する箇所です。状況としては7-8節で他国による侵略を受け、田畑が荒れ、町々が焼かれ、「娘シオン(首都エルサレムのこと)が残った」と書かれます。おそらくこれは紀元前701年、アッシリア王センナケリブによるエルサレム包囲を指した言葉です。神さまはイザヤを通して、「ここまで国が衰えたのは、あなたたちが私を離れ、己が都合、思惑、ご利益に走った結果だ」と断じるのです。印象的なのは3節です。「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエル知らず、わたしの民は見分けない。」イザヤは家畜すら従順に主人に従うのに、知恵を持つお前たちが主人を見失うのか、と問うのです。それこそ5節にあるように、「自分たちが弱りつつあるのに。」私はこの言葉を聞きながら、今、参院選で与党を支持する人たちに同じことを言いたい。例えば、「ここまで国民の生活を苦しめているのに、どうして与党を支持するのか?」「与党は未だに『成長』という幻想を強調して、高齢者の年金は削り、一時の給付金で誤魔化そうとしている。本気で助けようと思うなら、立憲、社民、共産、れいわが言う『消費税減税』の方が遥かに的確。」「ウクライナの状況を見て不安に思う人をたきつけ、『憲法改正』と言う人々がいるが、『軍隊が国民を守る』という思い込みこそが幻想。自衛隊関係者も『外国から攻められた時に優先して守るのは要人と国の施設であって住民は二の次』と言っているのに」などなど、いっぱい言いたいことは出てきます。正に、今朝イザヤが告げるように、目先の出来事ではなく未来を見据えて、私たちは御心を求めて選択せねばなりません。私たち有権者の選択には子どもたち、孫たちの未来もかかっているのですから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは南ユダの民に「家畜は主人を知るのに、どうしてお前たちは目先の利権や不安に飛びついて、本当に従わねばならぬ私を見ようとしないのか」と問います。私たちはその言葉に、選挙を前にした私たちの状況を重ねて読みます。どうか私たちに、自分たちだけでなく子どもたち、孫たちの未来のための選択をさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(水) イザヤ書1章21-31節
一言メッセージ:神さまは南ユダに「どうして遊女になってしまったか」と問います(21節)。ここでいう「遊女」とは、従わねばならない神さまを離れて、金、名誉、己が都合に走る民を総称した表現です。23節では「支配者」など強い者が利権を得るために暴挙を行い、一方、「孤児、やもめ」といった社会的に弱い立場にいる人たちが顧みられないことが指摘されています。先日、新聞を読んでいますと、「シングルマザーの家庭では今回の物価高が家計に直撃し、子どもに望む食事を食べさせてあげられない」とか「月8万円の年金の半額が家賃に取られ、残り4万円を切り詰めて生活する高齢者は、病気になると文字通り死活問題」という記事がありました。イザヤ書の記述は現代日本と重なって聞こえます。神さまはそんな南ユダに対して、「災いだ(24節)」と断じ、国への裁きを語ります。けれど、その裁きについて、私たちは27節に希望を見いだします。「シオン(イスラエル)は裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの業によって贖われる。」神さまは国の滅びを通して民を赦し、生かすのです。「悔い改める者は恵みの業によって贖われる」の「贖われる者」とは、神さまの贖いを必要とする者であり、それは「かつては神さまを蔑ろにして来た者」です。つまり、罪人でさえも神さまは赦し、救いを与えると約束くださったのです。神さまの救いが約束された今、わたしたちもまた、社会を諦めちゃいけません。神さまの御心の実現のために、私たちは今何ができるか、今、周囲にどう神さまの福音を伝えられるか、問われています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは罪人さえも救うとの約束をされました。そして「だからこそ悔い改めよ」との促しをくださいました。神さま、今私たちはイザヤ書の状況と自分たちの国、世界を重ねます。特に今度の日曜日は参院選があります。今回を逃すと今後3年間、国政選挙はありません。だからこそ、この選挙を未来のために大事に選択する時とできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(木) イザヤ書2章1-5節
一言メッセージ:今朝の箇所はミカ書4章にも記される、「終末(神の国)の平和」の預言です。預言者ミカもイザヤと同時代人で、彼は北王国にて活動しました。その二人が同じ預言を語っていたということは、この預言が当時、神さまが民に与えた力強い希望の預言だったからです。内容は「完成された神の国の姿」です。諸国の民が大挙しながら神の許にやってきます。彼らは口々に言います、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道(生き方)を示される。わたしたちはその道を歩もう。」神の示す具体的な生き方が4節です。「主は国々の争いを在裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」神の示す「神の国」とはあらゆる争いが放棄されていく世界です。そこでは「剣、槍」といった命を奪い合う道具は炉で溶かされて「鋤、鎌」という農耕具に生まれ変わります。それは「命を奪い合うのでなく、共に生きる」という示唆です。かつて命を奪い合った者たちがこれからは「共に生きよう」とする世界です。現代社会から見れば「理想論であって現実でない」と言われるかもしれません。でも、それこそ思い上がってはならない。神さまは私たちに理想を示し、その理想実現のために私たちは生きている。目先で妥協して生きるのではないのです。今度の選挙は改憲の是非が焦点の1つです。自民党憲法草案を読みますと、「二度と戦争の惨禍を繰り返させない」ために「戦争の放棄」という神の御心に通じる理想を謳った現行憲法は、その憲法を守るための力として「国民に主権」を与えました。極めて高い理想を謳っています。今、私たちが守るべきものは現行憲法です。この憲法に生きることが今、日本が世界に示す最大の貢献です。今度の選挙、私たちは考えて一票を投じましょう。イザヤは5節で語りました。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」私たちも、周囲の人にも「憲法守ろう」とお伝えください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは神の国が平和で、戦いが放棄され、誰もが共に生きる世界であることを分かち合いました。今わたしたちは、その実現のために、現行憲法という極めて大きな力が与えられていることを思います。どうぞ先ずはこの憲法を守らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(金) イザヤ書2章6-22節
一言メッセージ:今朝の箇所はイザヤが南ユダの支配階級の堕落を批判した箇所です。その内容は北王国滅亡期を指す預言と考えられます。アッシリアの脅威が拡大する中、アラムや北イスラエル王国、ペリシテの都市国家は結集して反アッシリア同盟を結成し、南ユダ王国にも加盟を求めます。しかし南王国は拒否します。すると反アッシリア同盟はアッシリアと戦う際の背後の脅威を除こうと、南王国に攻め込みました。南ユダは怯え、アッシリアに貢物を贈り、反アッシリア同盟を背後から攻めてもらい、危機を回避しようとしたのです。目先の対策をした結果、戦後、南王国はアッシリアに従属せざるを得なくなりました。イザヤは近視眼的な南ユダの支配者を批判します。それが6-9節の記述であり、イザヤは力や富に頼る社会は「人間が卑しめられ、人は誰も低くされる」と告げるのです。イザヤはこのような社会に対して神さまが何も言わないことについて、6節で「あなた(神)はヤコブの家を捨てられた」と語ります。この「捨てられた」は「見限った、切り捨てた」ではなく、「放置した、するようにさせた」という意味です。つまり、神さまは南ユダが落ちるところまで落ちて「自分たちは神さまを蔑ろにした」と気づくまで、彼らを放置したと考えたのです。それでもイザヤは預言者として民に訴え続けます。22節「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ち(保障)があるのか。」その場しのぎの軽い言葉と建前で隠した身勝手な権力志向への批判、選挙前の私たちには大事な指摘ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤは「富や権力による支配は、人間が卑しめられていくだけ」と語ります。その示唆は特に安倍政権以降、痛烈に実感しています。明後日の参院選では、人間を卑しめる政治への警告が実現しますように。そのために私たちにも「否は否」と示す勇気と力をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(土) イザヤ書3章1節-4章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は南ユダ王国と首都エルサレムへの裁きの言葉です。これは、昨日語った時代背景と関係しています。反アッシリア同盟の侵略を回避するためにアッシリアに貢物を贈った南ユダ王国は、反アッシリア同盟の壊滅後、アッシリアの圧迫外交を受けているのです。1-3節にあるように、勇士、戦死の他、国の主だった者たちが排除されて独立する根拠を失い、アッシリアに屈せねば生き残れない状況にまで落ちるのです。神さまはそんなイスラエルに対して15節「何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひき潰したか」と、「どうして民を滅びるまで放置したか」と詰問するのです。しかし神さまの呼びかけ空しく、16節以下、支配者たちは未だに自分たちの財産と権力に固執し、国が危機的状況に陥っているのに「私は大丈夫」と考えているのです。今回の選挙戦が始まる直前の6/22、私は9党の党首による公開討論を見ました。その際、違和感を持ったのは自民、公明、維新の党首たちがそれぞれの経済対策を訴える中で「成長による分配」という方向性で話すのです。でも、年々出生率が下がり、現役世代が減り、加えて長引く不況とコロナによる大打撃の中で「成長」が大前提にされることに違和感を持ちました。今はそうではなく、国民の生活を顧みて、保障や生活の再建が経済対策として先決のはずなのに、まるで「成長できない者は自己責任」と言わんばかりで嫌気を感じました。今朝の箇所でイザヤが批判した古代イスラエルの権力者の横暴と弱い民の切り捨ては現代と変わらないように見えます。さぁ、今わたしたちはこの時代、この社会の中で、神さまの御心をどう理解し、その実現に近いものは何と見るのでしょう。明日は投票日、どうぞあなたの一票を行使してください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は弱い民を切り捨て、「自分たちは大丈夫」とふんぞり返る権力者への批判の預言を読みました。神さま、イザヤ書を読み始めて一週間、私たちはイザヤの言葉に今の自分たちの時代を見出します。だからこそ神さま、私たちは今、あなたの御心をしっかりと見定め、あなたの御心に近い選択を行うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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6月26日~7月2日のみことば - 2022.06.25 Sat

6月も間もなく終わりになりますね。
今週は様々なことに心がざわつく1週間でした。

いよいよ始まった参議院選挙。争点はいろいろありますが、改憲に対する考えは一つの大きなポイントです。
ウクライナにおける戦争によって、「日本ももっと武力を持つべきだ」という風潮が高まっているように思います。政府も5年以内に防衛費を2倍に以上にする方針を表明したと報じられています。
しかし、そもそも武力を上乗せすることが平和につながるのでしょうか。
わたしたちの身の回りを見渡せば、7人に1人の子どもは貧困状態だといわれます。子ども手当や保育の無償化、高校無償化など少しずつ進んではいますが、今も奨学金という借金に苦しむ人たちもいますし、経済的理由で満足に学べない人たちも多くいます。また、介護の問題で頭を悩ませている人、必要な支援が受けられない人なども。老後には2000万円の貯蓄がないと生活できないとも言われる、この今の日本で防衛費を2倍にということに疑問を持ちます。
しかも、それを提言しているのが、あの安保関連法によって「解釈改憲」を強引に行い日本が戦争に参加できるように道筋を作り、武器禁止の三原則をなし崩しにして「人を殺す道具」で金儲けできるシステムを作り、唯一の戦争被爆国でありながら核兵器禁止条約に参加しない、そのような政府であることにより強い危機感を感じるのです。

また、6月23日は沖縄慰霊の日でした。
戦時中、最後の捨て石とされた沖縄の痛みを、私たちはどれだけ考えているのだろうか。
今も、あの小さな島に米軍基地の約7割がおかれていることを、私たちはどう考えるのだろうか。
今も、沖縄の戦後は続いていること。その責任を今日本に生きる私たちがおっているのだということ。そして、今さらにその重荷を負わせ続けようとしていること。
「亡くなられた御霊に、謹んで哀悼の誠をささげます。」との言葉を語りながら、行っていることは…。
本当に、亡くなっていった方の命を思うならば、その人たちの願った平和を実現していくことにこそ、誠実さがあるのではないかと考えます。


「政教分離」という言葉の下、日本のキリスト教世界でも政治に声を上げることをよく思わない人たちもいます。
しかし、聖書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3章16節)と語っています。神さまは「自分を信じる者だけを」愛したのではなく、この「世」を愛されたとあるのです。ですから、私たちクリスチャンもまた、イエス・キリストを信じる者として、自分の置かれているこの「世」において、自分たちが何を選び、何を語り、何を行っていくのかを真剣に考えることを神さまは望まれているのだと信じるのです。
(本来の「政教分離」とは、政治的権力と教会とは1つになってはいけないというキリスト教の過去の反省からくる原則であり、「教会は政治に口を出してはいけない」というものではありません)

選挙のニュースが流れるたびに、様々なニュースを見聞きするたびに、わたしたちはまず祈ります。
「神さま、私たちの生きるこの世は様々な課題に満ちています。主よ、私たちを、そしてこの世を憐れんでください。そして、私たちがこの時代にあなたの御心を行うために、何を選び取るべきかを教えてください。み言葉をよく読み、よく聞き、祈り、恐れからではなく、あなたへの信頼と平安の中で選びとっていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」

今週も皆さんの上に平安がありますように。


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26日(日) ホセア書6章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所を読む際にはしっかり注意して読んでください。1-3節は民の悔い改めの言葉のようですが、新共同訳の表題は「偽りの悔い改め」です。彼らは「さぁ、我々は主のもとに帰ろう。我々は御前に生きる」と語りますが、彼らの言葉は上っ面だけで、何を悔い改めねばならないのかが分かっていません。実際、3節の後半で彼らは「主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と語りますが、ここは聖書の神さまとバアルを混同しています。ご利益信仰であるバアルは乾いた土地であるイスラエルに豊作をもたらすための神と信じられており、それは雨期の始まりである春の雨と考えられていました。つまり3節は、「悔い改めよう」と言いながら、神さまとバアルを混同したままの口先の言葉に過ぎないのです。この民の言葉に対して4-6節で神さまは「お前をどうしたらよいのか」と嘆きます。神さまの切実な呼びかけは6節です。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえ(儀式)ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物(多額の費用)ではない。」私は今朝の箇所から、二人の教師を思い出します。一人は私が目標とする牧師、日本基督教団の関田寛雄牧師です。彼はいつもみことばにも人にも誠実で、常に民衆の側に立って理不尽な権威には「否」と言い続けてきました。その生き方は青山学院大学の夜間部の教員で、同時に川崎の「在日朝鮮人」集落での長年の牧会にも表れていますし、2年ほど前はテレビで見た、川崎のヘイト言動禁止を求めた原告団の団長として記者会見にも表れていました。私にとって大事な目標となる恩師です。一方、思い出したもう一人は「こんな風にはなりたくない」という教役者です。「私たちはことばに生きる」と威勢よく言い、口数は多いのですが、都合悪くなるといつも責任転嫁して逃げる。最近もある会合で発言を聞きましたが、他人をけなすことで自分がひとかどの人物であるとアピールするような言葉ばかり。「ことばに生きる」のでなく「ことば遊びに終始する」姿に、「私はこうならないようにしよう」と感じる反面教師でした。神さまは上っ面は見抜く方です。神さまに誠実に生きる私たちでありましょう。偽りの悔い改めにそんなことを思いました。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは偽りの悔い改めで神さまをやり遂せると考えた愚かな人々の言葉と、神さまの嘆きを読みました。あなたは私たちに真っ正直に向き合うことを望まれます。私たちは決して御前に胸張れるような者ではありませんが、でもいつも弱さや至らなさを抱えながらもあなたに誠実に向き合う者であれますように。私たちの傍らまで下り、寄り添い、救ってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(月) ホセア書6章7節-7章16節
一言メッセージ:神さまはイスラエルの罪をがっつりと指摘します。バアル信仰に影響され、神さまを蔑ろにしてバアルに走る言動は「淫行」と表現され、バアル信仰の行為である性行為や自傷行為(7.14)は罪だと列挙されています。また、7.11のようにエジプトとアッシリアという強国の間を行ったりきたりと画策する様の指摘もいつも通りです。その中で、目を惹くのは7.2「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない」と言及される部分です。どうして人々は神さまの怒りを「意に介さない」のか。本心からバアル信仰に染まり、聖書の神さまを意識的に蔑ろにしているためか。いいえ、彼らはどうも、「自分たちは神さまを信じ、従っている」と思っていたようです。彼らはバアル信仰と聖書の神さまの信仰が混同していることが分からないだけであって、自分たちでは「私たちは敬虔」と思っているのです。ではなぜ、彼らは神さまの怒りを「意に介さない」のか。それは、彼らが盛大に、贖罪の献げ物をしていたからです。贖罪の献げ物が豪勢であればあるほど、自分たちの罪は赦してもらえる、と考えていたのです。実際、彼らの時代、経済格差は広がり、裕福な人は贅の限りを尽くして生活しています。だから、贖罪の献げ物だって、費用は惜しまなかった。でも、それが無理解であり、「高慢(7.10)」でした。神さまが本当に欲したのは6.6「愛であり、神を知ること」なのです。私はこの描写に今の世界の風潮を感じます。金や権力を持つ者の横暴がまかり通り、民の命や尊厳がないがしろにされる世界は到底、神さまの御心に沿うものとは思えません。彼らは今「わが世の春」を謳歌しているのでしょうが、神さまは現代も同じように語り掛けられる。「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。」私は「この時にも神さまに誠実に生きていかねば。神さまの御業は私たちの小さな言動からでも大きく育っていく」と思い起こすのです。まもなく7月、参院選があります。自分たち、子どもたち、孫たちの未来のため、冷静に先を模索しましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたはイスラエルの罪を指摘します。その中で私たちは、神さまの赦しを既定路線と侮り、高価な献げ物で何でも赦されると高慢になる民の姿に、現代の風潮が重なりました。神さま、あなたはきっと、今も「すべての罪を心に留めている」と言われるでしょう。神さま、どうぞ今の時代を、世界をお救いください。私たちに御心を求めて決断できる知恵をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(火) ホセア書8章-9章6節
一言メッセージ:最近のみことばはイスラエルの罪の指摘の言葉が続いています。ちょっとしんどいですが、読めば読むほど、私たちは自分たちの生き方を問い直されます。8.1-2は北王国が戦争前に国家祭儀として神さまに戦勝祈祷をする場面が描かれています。しかし、神さまは、彼らの祈りも拒絶します。4-6節は「なるほど」と思うのですが、神さまは「お前たちは王を立てたが、それはわたしが指名した王ではない」と突き放します。北王国の最後の時期は、次々と親アッシリア派、親エジプト派の人々がクーデターを起こし、王が代わりますが、それは人の都合の王であって、神さまが立てた王じゃないのです。また神さまは「お前たちは神を拝むが、それはお前たちが勝手に使った偶像に過ぎない」と言う。北王国は金の子牛像を数体作り、各地に祭壇を築いて拝ませていましたが、牛はバアルを意味する偶像でもあったのです。神さまはそんな罪を指摘し、4節で彼らの罪の根本をズバリ指摘します。「彼らのパンは自分の欲望のためだ」です。政治も宗教も正義も、自分たちの欲望のために捻じ曲げていることを神さまは指摘したのです。太平洋戦争後、A級戦犯の死刑に立ち会った唯一の日本人、花山信勝さんが著書『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』で、亡くなる3週間前の東条英機の言葉を残しています。
「世界平和」は人間の欲望をなくした時に初めて達成できる。人間の欲望というものは本性であって、国家の成立ということも「欲」から成るし、「自国の存在」とか、「自衛」とかいうような、きれいな言葉でいうことも、みな国の「欲」である。それが結局、「戦争」になるのだ。
 欲は社会も政治も宗教も正義も捻じ曲げます。神さまは北王国の「欲望」を指摘しました。それは「気づいて立ち帰れ」との呼びかけなのです。私たちは北王国への罪の指摘を読みながら、神さまの「立ち帰れ」との呼びかけに真摯に向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは人の欲が正義をねじまげ、神さまの御心に盲目にさせていることに気づきました。神さま、もし私たちが欲のためにあなたの御心を見失い、理不尽を通しているならば、どうぞ正しく立ち返らせてください。自分の欲にも、周囲の欲にも気づかせ、あなたの御心を模索し、いつも柔軟に正しく対応できる私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(水) ホセア書10章1-15節
一言メッセージ:神さまは1節でイスラエルを「伸び放題のぶどうの木」と表現します。手入れされないので、育っても実が成熟しないのです。そんな、自らを律しない姿が2節「偽る心」と指摘されます。ヘブライ語では「二心」とも訳せる言葉でして、「神さまとバアル」「敬虔と私欲」というように、常に自分の願望ありきで神を選択するような姿勢がイスラエルの民の中にあったのです。彼らの身勝手な「偽る心」は3節では責任転嫁として現れます。北王国が滅亡する時には「私たちには正しい王がいなかった。自分たちが悪いのではなく、指導者が悪かった」と言い訳しますが、神さまは「王がいたとしても何になろうか」と指摘します。「お前たちは二心で、本当に信じ従うべき私を見ず、己が欲、都合で生きてきたではないか」と言うのです。さて、ここで「二心」から考えてみましょう。私はずっと「神さまの御心を第一にしなさい、信じて従いなさい」と言い続けています。それは「あなたの意志も願いも捨てなさい」ではありません。「神さまを信じ選ぶことでこそ、願いの最善は得られる」と言っているのです。マタイ6.25-34を見ますと、イエスさまは「神を知らぬ者はいつも『何を食べようか』『何を着ようか』と思い悩む。しかしあなたたちは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と告げました。その理由は32-33節にあります。「あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな加えて与えられる。」最善は神さまから与えられるのです。今日のホセア書10.12も同じです。「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように。(神に誠実に応えて生きる時、神があなたの傍らに来てくださり、あなたに恵みを与え、生きる糧を与えてくださる。)」二心は時代を超えて、いつも私たち人間のテーマです。私たちも一歩ずつ、神さまを信じ従うことを選択していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは民の「二心」を指摘されます。私たちの中には自分たちの幸せや身内の祝福を願う思いが多々あります。でも、だからこそ私たちはあなたを信じ、従います。あなたに従うからこそ幸いと必要は充たされ、共生できるからです。神さま、私たちに最善をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(木) ホセア書11章1-11節
一言メッセージ:1節はとても印象的な言葉です。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」は、神さまがエジプトで奴隷であったイスラエルの民と養子縁組した、という言葉です。養子縁組だと縁が薄いイメージが湧きますが、そのイメージとこの箇所の意味は真逆です。バアルなどのご利益宗教は、生殖的関係や血縁的関係で神と民の関係をイメージさせますが、「養子縁組」は神さまと民の契約関係を強調する表現です。そこには強い意志が表されています。実際、3-4節で神さまはイスラエルを「あんよが上手♪」と育てたと語ります(3節の「わたしだ」は「他ならぬこのわたしだ」という強調があります)。「軛」は家畜を使役するための道具ですが、軛をしたままでは食事ができません。神さまはそんな奴隷状態のイスラエルの民から軛を外し、解放し、自ら身をかがめて、同じ目線で食事を与え、養ってくださる。それほどに民を愛してくださったのです。しかし2節、5-7節、民は神に立ち返ることを拒否し、バアルや強国を頼るから残念ですね。今朝、私が皆さんと分かち合いたいのは「養子縁組」です。神さまは、単なる血縁や約束で仕方なしにイスラエルの民を救うのではなく、自らの強い決意によって民を救ってくださるのです。それは、私たちを救うために、御自身の独り子イエスさまが十字架で亡くなるほどの強い決意であり、愛でした。私たちは今日、自分たちの今を改めて振り返りたい。私たちが神さまに救われたのは「当たり前」じゃないのです。神さま自らが5節終わりの「憐れみに胸を焼かれる」と記したほどの痛みを伴いながら、それでも貫いて抜いてくださった愛による救いです。だから私たちは自分自身も周囲の人々も、何より神さまも大事にしながら生きるのです。さぁ、今日もそんな一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「養子縁組」という言葉から、あなたがどれほど深い愛と決意を持って私たちを救ってくださったかを想起しました。私たちは普段、周囲との比較で一喜一憂して生きています。でも、それ以前にあなたの丸ごとの愛に包まれて生かされていることが、私たちの大前提でした。神さま、あなたに深く感謝します。どうぞ今日も感謝と希望に満ちて過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7月1日(金) ホセア書13章1-15節
一言メッセージ:13章はホセアの時代を非常に分かりやすくまとめてくれています。1-3節で北王国は常に指導者という一人物が主導権を持っていました。人々はその指導者の言い分に思考停止で従った結果、その指導者が推進したバアルというご利益信仰に走ってきたのです。自分たちにとっても、ご利益は都合が良かったし、神さまに裁かれる時にも「自分たちは知らなかったんだ」と言い訳できると考えたのでしょうか。神さまはそんな民に対して、2節「それらはみな、職人の細工」に過ぎないことを告げます。しかし己が都合を優先する民は神さまの声を聞かないのです。4-5節で神さまはご自分を強調しながら、「わたしこそあなたの神、主。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」と訴えます。けれど、民は神さまの祝福を当たり前と考えると「高慢になり」、神さまを忘れたのです。「当たり前」は怖いものだな、と思います。「当たり前」は感謝を忘れ、義務で相手を縛り、より多くの利益を求めます。私は親になってまもなく11年ですが、子育てを始めてから、自分が親に育ててもらったのが当たり前じゃなかったことを痛感してきました。子育ての喜びも大きいし、多いけれど、「こんなにも苦労し、こんなに悩んできたのか」と痛感する労苦も多いのです。イスラエルの民は神さまの祝福を当たり前と考えた時、そこに高慢が生まれ、より多くの利益を得るためにバアルに走り、その利益を守るために目に見える強国を頼り、強国の庇護を得るためにおもねるようになりました。すべての歯車が狂ったのは「当たり前」という高慢さがスタートです。「ありがたい」は「有り得難い」からきていると言われますが、私たちは今日も神さまの「当たり前じゃない」恵みに感謝をもってスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、あなたの祝福は「当たり前じゃない」ことを私たちに伝えます。あなたがどれほどの決意を持って、私たちを愛してくださったか。それは独り子イエスさまの十字架ほどの大きな決意でした。神さま、あなたの救いに改めて感謝します。どうぞ私たちがいつもあなたへの感謝を忘れずに生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(土) ホセア書14章1-10節
一言メッセージ:ホセア書も最後となりました。2-8節を読むと、神さまの怒りが「イスラエルを滅ぼして終わりの怒り」ではなく、「懲らしめによって正しく生き直すことを願っての怒り」であることが分かります。5節の「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」との神さまの言葉はとても印象的です。現代社会は他人を評価することは多いですが、評価によって相手を切り捨てることも多い社会です。「使えるか、使えないか」といった利用価値で人を判断し、「価値無し」と断じたら簡単に排除するのです。でも、大事なことを忘れています。人は成長するし、変化するものです。時に「年を重ねると人は変われない」という言葉も聞きますが、私はそうじゃないと思っています。「変わりにくくなる」とは思いますが、変われないわけじゃない。何故ならば、神さまがいつも私たちを信じ、期待してくださっているからです。「この者たちは必ず私を知り、私を信じ、私に従う」と信じてくださっている。だから人はきっといつでも変われる。その時に大事なことは神さまとの真剣な出会いです。ホセア書1-3章に戻りますが、当初、ホセアも社会風潮の中で当然だった「淫行」に何の疑問ももたず、ゴメルと結婚しました。しかし、その自分が神さまの御心に背いていたと知った時、彼は自分にも周囲にも神さまにも腹を立て、ゴメルを離縁しました。しかし神さまはそのホセアをそれでも受け止め、癒し、立ち上がらせ、もう一度ゴメルを妻として連れ戻し、共に生きることを促しました。それは、周囲から見れば、恥ずかしい弱い男の姿でした。確かに当時の社会では弱くてみすぼらしい姿だったでしょう。でも、まさにそんな姿をさらしながら、神さまが私たちを愛してくださった。ホセアはこうして預言者となっていきました。私たちも同じです。神さまを信じる時、私たちはそれまで自分を縛っていた恥も外聞も放り投げてでも、神さまによって変われる。信じることは解放です。今日はご一緒に、その感謝を改めて実感しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセア書を読み終えました。あなたの怒りは民を、そして私たちを愛し、立ち返らせるための怒りでした。神さま、あなたに立ち返ります。どうぞ私たちを喜び、受け止めてください。感謝と期待をもって、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***





6月19日~6月25日のみことば - 2022.06.18 Sat

梅雨入りしたのに、ここ数日ピカピカに晴れている久留米です。
その前に雨が降ったので、植物が元気!
素晴らしいことですが、同時に雑草(最近は猫じゃらし!)も元気に!!
草むしりのタイミングをうかがっています(笑)

気候の変化する時期、皆さんも無理せず過ごしてくださいね(^^)/
それでは、今週のみことばをどうぞ!!


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19日(日) ホセア書1章1-2節
一言メッセージ:今日からホセア書を読んでいきます。今日は、1章全体ではなく、ホセア書全体を網羅するように1.1-2だけを読んでいきます。ホセアはアモスの少し後の北王国で活動した預言者です。彼は2節で「淫行の女(ゴメル)」との結婚を指示されます。ホセア書を理解するには、この「淫行」の意味を知る必要があります。これは「ゴメル自身が浮気性だった」と考えるのでなく、当時の北王国の状況から理解した方が分かりやすい。当時の北王国は神さまへの礼拝とバアル、アシェラ信仰が混同されており、バアル、アシェラ信仰では性行為が儀式や献げ物とされていましたので、聖書の神さまへの礼拝でも性行為が献げ物扱いされていました。おそらくゴメルは、儀式的な意味で性行為を行っていたのでしょうが、神さまはそれを「淫行」と断じます。では、なぜ、神さまはホセアをそんなゴメルと結婚するように命じるのか。それは、「ホセアが淫行の女ゴメルと結婚し、後に離婚するが、再度、ホセアは復縁する」という一連の行動を通して、神さまの裁きと救いを象徴的に示すためでした。神さまは北王国の間違った信仰を怒って裁くが、彼らが自分たちの過ちに気づいた時に、もう一度、御自分の民として受け入れてくださることを示そうとしたのです。さて明日からは具体的にホセア書を読み始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からホセア書を読み始めました。あなたは「愛の神」であると同時に「正義の神」です。民の過ちを黙認して赦すのでなく、罪は罪として明確にしながら、しかし悔い改めてご自分に戻ってくる者を喜んで迎え入れてくださる方です。ホセア書を読み進める中で、私たち自身の生活と重ねながら、過ちは過ちと気づき、あなたに素直に立ち帰ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(月) ホセア書1章2-8節
一言メッセージ:ホセアは神さまの命によって「淫行の妻」ゴメルと結婚し、3人の子どもが生まれます。子どもの命名は親にとって非常に大事なものです。子どもの名前には意味や願いが込められているからです。しかし、ホセアの子どもの名前は3人とも非常に不可解な意味を持つ名前でした。長男はイズレエルの名の意味は2.24にあるように「神が種を蒔く」です。けれど、北王国の人々にとって「イズレエル」との名前は血なまぐさい歴史を思い起こさせます。当時のイエフ王朝の祖イエフが、バアル宗教を国教化していたオムリ王朝関係者を皆殺しにした場所がイズレエルなのです(オムリ王朝で有名なのはエリヤ、エリシャ物語に出てくるアハブ王とイゼベル王妃)。しかし今や、そのイエフ王朝がバアルと神さまへの信仰を混同している。神さまはホセアの長男の名によって北王国への裁きを告げます。ホセアの第二子は長女ロ・ルハマです。ヘブライ語のロは否定を意味する言葉で、彼女の名の意味は「憐れまれぬ者」です。神さまは北王国への裁きに情けをかけない(決して赦さない、6節)と断言します。第三子(次男)の名はロ・アンミです。意味は「我が民ではない者」ですが、この名前はホセアにとっても非常にショックだったでしょう。8節には命名理由で「あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ」とあります。この「あなたたち」にはホセア自身も加えられているからです。それまでのホセアは「北王国は神の裁きにあるが、自分たちは神によって守られるだろう」と考えていました。裁きを他人事と思っていました。しかし、ここでホセア自身も当事者だと気づいた。ある研究者の意見では、ホセアがゴメルと結婚を命じられたこと事態が神さまのホセアに対する試みだった、と言います。それは「淫行の妻」と自然に結婚するのか、それとも異を唱えるのか、という試みです。「淫行」は昨日見たように、バアル宗教と神さまへの信仰が混同されて儀式化した性行為です。そんな「淫行」そのものが神さまへの反意なのです。なのに、セアが「淫行の女性」とすんなり結婚したことは、ホセア自身がそういう社会風潮に何の疑問も持っていなかったことの証となったのです。「神さまが命じたからじゃないか」と思う気持ちもありますが、一方で、神さまは私たちに「自ら考え、思いをしっかり持つこと、そして従うこと」を求める方でもある。さて、「自分も裁かれる側」と悟ったホセア、ここからどうするでしょう。明日以降も続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセアはゴメルと結婚し、3人の子どもが生まれました。しかし子どもたちの名前を通して、ホセア自身、自分も習慣や風習に馴染み、神さまへの信仰が変質していたこと、自分も裁きの対象だと気づきます。ホセアは傷つき、苦しみます。でも、だからこそ私たちはここからホセアがここから何を考え、どう生き方を整えていくか、自分と重ねながら読むことができます。明日からもみことばを深く読ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(火) ホセア書2章1-15節
一言メッセージ:1-3節はホセアに反対する立場の預言者たちの言葉を、ホセアが痛烈に皮肉った言葉と言われています。彼らは国が繁栄しているのは「神の祝福」と考えていたため、ホセアの子どもたちの名の逆を自分たちに当てはめます。すなわち、血なまぐさい歴史のあるイズレエルでなく、「人々は海の砂のように数えることができないほど増える」であり、自らを「ロ・アンミ(わが民でない者)」ではなく「生ける神の子」と考え、「憐れまれぬ者(ロ・ルハマ)」でなく「憐れまれる者(ルハマ)」と考えたのです。しかし、4-15節でホセアはそんな人々の傲慢と神さまへの背きを徹底して糾弾します。注目したいのは7節でホセアは「淫行の女性」だけでなく、「彼らを身ごもった者(相手の男性)は恥ずべきことを行った」と言います。この言葉はホセアが自らを指した言葉でもある。ホセアは自らも、神の御心を知らなかったことに虚無と怒りを感じ、同時に、そんな結婚をさせた神さまへも怒りを感じ、叫んでいるのです。ホセアはゴメルを離縁します。それくらいに、ホセア自身も傷つき、自暴自棄だったのです。しかし興味深いことに、そのホセアが同時にイスラエルの救いの預言を語っているのです。特に注意したいのは9節です。「彼女は愛人の後を追っても追いつけず、尋ね求めても見出せない。その時、彼女は言う。『初めの夫のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった』と。」淫行を重ねてきた妻(イスラエルを指す)が自分の過ちと虚しさに気づき、「初めの夫のもとに帰ろう」と言うのですが、この「夫」という言葉はイーシュという言葉です。主人という言葉には「バアル」という言葉もあるのに、ホセアはバアル宗教と関連する「バアル」でなく「イーシュ(夫)に帰ろう」と言っているのです。ここに、悔い改めていくイスラエルの姿と、悔い改めを受け入れる神さまの姿を、ホセアは語っていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、自分の罪に気づき、悲しみ、苦しみ、同時に怒るホセアの姿に自分たちの姿が重なります。風習や習慣は私たちの生活に入り込み、あなたの御心とズレていることに気づかせません。でも神さま、あなたは傷つき、怒るホセア自身を通して、民が本当に従うべき神さまに立ち返ってくることを示してくださいました。神さま、続けてホセア書を読んでいきますが、どうぞ私たち自身があなたを知り、あなたに立ち返り、正しく生き直す機会となりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(水) ホセア書2章16-25節
一言メッセージ:ホセアの言葉は北イスラエルが神さまの御心から反れ、バアル信仰と神への信仰を混同している姿を痛烈に指摘します。ホセア自身もそのことに傷つき、痛み、同時に怒っていたことは昨日記しました。さて、ここで私たちは自分たちのことを思い起こしましょう。私たちが誰かに対して怒る時、「あいつとは縁を切る」とか「もう、あんなやつ、俺とは無関係だ」と思うことがあります。それは「関係を断絶する」という怒りです。怒りは関係を絶つのです。2.4などを見ると、ホセア自身も自分の妻を「お前たちの母」と語り、「妻」と表現しませんでした(直後の「彼女はもはやわたしの妻ではない」も関係断絶の言葉でした)。しかし、今朝の箇所をしっかり読んでいきますと、神さまはそんな「淫行の女性」との関係修復を示します。16節では神さまは「淫行の女性」のことを「彼女」と三人称で語りました。まだ直接には向き合えていないのです。しかし、18節「その日が来れば」と、向き合う時が来ることを預言し、「その日」には「彼女」が「あなた」という言葉に変わります。神さまがちゃんと「淫行のイスラエル」と向き合ってくださった変化なのです。18節でも「あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや、『わが主人(バアル)』とは呼ばない」と語り、信仰の混同が解消され、神さまに正しく帰っていくことが預言されていきます。今朝、私たちは罪ある私たちをも愛し、向き合い、正してくださる神さまを知らされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でわたしたちはあなたが、あなたへの背きの罪をも赦し、向き合い、自分たちの罪に気づき、立ち返ることを喜び、受け止めてくださる方と知りました。あなたの懐の深さと忍耐の偉大さを感じます。引き続き、ホセア書を読んでいきますが、どうぞ私たちにいつも必要な示唆と生き方の整えをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(木) ホセア書3章1-5節
一言メッセージ:今朝の箇所はホセアが神さまの命によって、離縁した妻ゴメルを再度、自分の妻とする物語です。それはホセアの言動を通して、神さまの意志を体現する象徴預言です。「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子(バアル祭儀で用いられたもの)を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』」神さまはホセアの言動を通して、神がそれでもイスラエルを再度赦し、救おうとする姿を示したのです。この時のゴメルは「銀15シェケルと大麦1ホメルを払って、買い取る(2節)」と書かれていますが、これは奴隷の値段です。つまり、彼女は奴隷に身を落としていた。そんな女性にホセアは3節「お前は淫行をせず、他の男のものともならず、長い間(生涯)わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」と告白し、再度自分の妻とします。当時の社会観から言えば、情けない、恥ずかしい姿です。でも、その行動は正に、神さまがイスラエルを愛し、再度赦し、受け入れる姿そのものなのです。神さまの愛は自らが嘲られても相手を愛し抜く愛です。この愛は今、私にも、あなたにも神さまが与えてくださっている愛です。皆、愛されて生かされていることを覚えましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はあなたの愛の深さをこれ以上ないほど示します。あなたは偉大な神であるのに、人々の嘲りや恥とも苦ともせず、あなたに背いて生きていた私たちを赦し、救ってくださいました。今日、あなたの愛が今も私たちに与えられていることに感謝し、一日を過ごせますように。感謝と期待を持って祈ります。アーメン。

24日(金) ホセア書4章1-19節
一言メッセージ:4章以下は1-3章のホセア預言をさらに細かく見ていくようなものです。だから、時系列で3章の続きと読む必要はありません(そう読むと混乱します)。
  今朝の箇所を読みますと、イスラエルの民が神さまへの信仰(礼拝)とバアル信仰が混同していたことが指摘されています。具体的な「淫行」に加えて、2節の「欺き、人殺し、盗み」は十戒に背く内容です。けれど彼らは「豊作祈願の献げ物」としての幼子の人身御供を「殺人」と考えず、アモス2.6で「貧しい人が靴一足の値段で売り買いされる」様子を当然の社会文化と考えていました。加えて、本来、過ちを指摘して社会を正さねばならない祭司さえ9節では「民と同じ」と指摘されています。社会の風習、風潮、伝統に盲目的に馴染んでしまい、神さまを見失わせていたのです。古い教団賛美歌345番「義の太陽はさしいでぬ」の3番の歌詞にドキッとします。「ひかり仰げば今さらに、たえず移ろうしきたりと、やがて過ぎゆく習わしに、深くなずみし、愚かさよ」。意味はこうです。「神を仰げば、今さらに自分の姿がよく見えてくる。それまでの私は、いつも移ろいゆく伝統や、やがて忘れられていくだけの習慣に、どっぷりと馴染み、神さまが見えていなかった。愚かだった。」ホセア書が指摘する民への警告を見ながら、私たちは今、改めて神さまの御心、示唆から自分自身も振りかえりましょう。その時、社会の「~べき」「~ねばならない」が案外と、どうでもよいものだったことに気づき、解放されていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはホセア書を読みながら、自分たちの姿を振り返らされます。私たちは社会の伝統や風習の中で、本当に大事にすべきものと、そうでないものとの区別がつかず、かたっ苦しく、見当違いな生き方に絡めとられていた部分に気づきます。神さま、どうぞ私たちが改めて、あなたを第一とし、あなたによる喜びと解放に満ちた生き方へと進むことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(土) ホセア書5章1-15節
一言メッセージ:5章は北王国が滅亡していく歴史的流れを踏まえて読む箇所です。ホセアはヤロブアム2世の晩年から北王国滅亡のかけての預言者ですが、その時代のイスラエルは次から次へと王が代わります。ヤロブアム2世の死後、息子のゼカリヤは6か月でシャルムのクーデターによって殺害され、イエフ王朝は終わります。その後、シャルムもメナヘムによって1か月で滅ぼされ、メナヘムの息子もペカによって滅ぼされ、ペカもホシェアに…とコロコロ変わっていく。これらのクーデターの背後にあったのは北の強国アッシリアに近づくか、それとも南のエジプトに近づいて独立を守るか、といった政策の違いです。ペカは反アッシリアの王でしたが、彼はクーデター後にアラム王レツィンと反アッシリア同盟を組織(小国がまとまることによってアッシリアに対抗しようとした)。南ユダ王国にも加盟を求めますが、南ユダはそれを拒否。同盟は南ユダに「自分たちに加わらないなら」と攻め込みますが、南ユダは生き残りのためにアッシリアに大量の貢物を送って、反アッシリア同盟を背後から攻めてもらいます。反アッシリア同盟はこれに敗れます。加えて、この時、南ユダ王国は北王国に攻め入って領土を切り取りますが、戦後はその南王国もアッシリアに従属を迫られます。この流れが8節以下に影響を与えています。複雑でしょ?さて、箇所そのもので注目したいのは1節以下、ホセアは「祭司たち」への厳しい裁きを語ります。祭司たちは「自分たちは神の託宣がある」と驕り、でもその言葉の内実は自分たちの利権となっていました。ホセアはその姿勢が国を滅亡させる「罠、網、穴(1-2節)」となっていると指摘しています。神さまへの信仰が己の都合と結びつくことへの警告です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセア書5章を歴史的な流れで読むと、危機の中で人があなたを見失い、自分たちの画策に終始していく姿が見えてきます。神さま、どうぞ私たちはいつもあなたをこそ第一とし、己の生き方を振り返り整える者であれますように。悔い改めを受け入れてくださるあなたを信頼し、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。


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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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