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2023-05

3月12日~18日のみことば - 2023.03.11 Sat

ここ数日で一気にあたたかくなりましたね。
いよいよ春がやってきたという感じがして、ワクワクします。

しかし、今日は日本に生きる私たちにとってはあの未曾有の大災害「東日本大震災」「東京電力福島第一原子力発電所事故」を思い起こすときでもあります。
12年前の今日、九州に住む私たちは、テレビから流れてくる情報に驚き、その報道をかたずをのんで見守り、祈ることしかできませんでした。
災害の前にいかに人間が無力であるか。私たちは何をしたらいいのか、戸惑い、何かしなければという思いと、自分の状況からくる制限に焦りを感じたりしたことを思いだします。

あのとき、たくさんの悲しみと苦しみ、恐怖の前に、神さまに「なぜですか」と食らいつくような祈りをも祈っていました。それは、はらってもはらってもまとわりついてくるような「不安」「恐れ」からくる祈りでした。この暗闇の中で、神さまあなたはどこにおられるのですかと私たちは繰り返し神さまに問うていました。
そうして、私たちがその祈りの先に見出したのは「いと小さきものに寄り添うイエスさま」でした。

なぜこんなことが起こったのか、わたしたちはすべてを知ることはできません。
しかし、そんな絶望の中でわたしたちの心に示されたのは「貧しい人に寄り添い、悲しむ人と共に悲しみ、自分も共に痛むイエスさま」だったのです。
はからずも、この時期教会はイエスさまの十字架の苦しみを覚える受難節。
この時期が来るたびに、私たちはあの震災の痛みと、しかし同時にそれに寄り添ってくださるイエスさまの姿を思い起こすのです。

まだまだ復興は道半ばであり、原発事故に関しては未だ「原子力緊急事態」は解除されていません。
そこにはまだまだ悲しむ方々があり、多くの課題があります。
わたしたちは、これらを続けて覚え、イエスさまがそうなさったように「悲しむ人と共に悲しみ、泣く人と共に泣く」ことを通して、今なお苦しみを負う方々に連帯し祈ります。
そして、神さまが一人ひとりに与えてくださった尊い命が何よりも大切にされる社会が実現するように祈り、声を上げていきたいと決意を新たにされるのです。

ぜひ、皆さんも共に祈りを合わせてくだされば幸いです。
今週も皆さんの上に神さまの先立ちと伴いがありますように。

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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12日(日) エレミヤ書22章1-9節
一言メッセージ:今日と明日はユダの王への言葉です。1-5節は王としての心得を語っています。そこでは社会的に弱い立場にいる人たちを蔑ろにせず、彼らが理不尽な苦しみを受けないように配慮することが書かれていきます。注目したいのは3節の弱い立場の人たちリストの中に「寄留の外国人」が書かれていることです。現代で言うところの、戦争などによる難民や亡命者、祖国では生活が厳しいために「出稼ぎ」に出る外国人でしょうか。最近、日常の様々な場面で海外の方と接する機会が増えました。人間はすぐに身内意識が働くためか、マイノリティー(少数者)の方々に対して差別的になる傾向は世界共通です。以前、ネット記事で秀逸な記事を読みました。アメリカの航空会社の旅客機での出来事です。ある便で、一人の白人男性が、隣席にアフリカ系の方が座ることになり、「私はコイツの隣は嫌だ。席を替えろ」と騒ぎだした。すると乗務員さんが近づいてきて語りました。「お客様、大変、不愉快な思いをさせて失礼いたしました。代わりの席をご準備いたしましたのでビジネスクラスにお移りください。」そして、アフリカ系の方をビジネスクラスに移動させたそうです。秀逸でしょ?文句を言っていた男性は「人種」によって人を価値づけました。しかし、乗務員は「人権」でモノを考えました。神さまが「寄留の外国人」を保護対象と示すのは、正に人種でなく、人権の事柄だからです。私たちの周りにも差別はあります。その時、私たちが判断せねばならないのは国籍や同族意識でなく人権であり、集団意識でなく個人としての相手への理解です。聖書の教えは現代においても極めて適切なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝の記述の中に、「人種や民族で相手を判断するのでなく人権の事柄として、個人として相手を受け止めること」の示唆を見出します。格差がひどい社会では、弱い者がさらに弱い立場の人を蔑視して己を高く見せようとする愚かさが顕著になりますが、私たちはいつも、あなたが与えてくださった一つひとつの命を尊び、共に生きることを心がけることができますように。私たち一人ひとりを救うべく、十字架にかかられた救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(月) エレミヤ書22章10-30節
一言メッセージ:今朝の箇所はヨシヤ王の死後、南ユダ王国の混乱と滅亡(捕囚)に至る流れを示しています。10-12節ではヨシヤの子シャルムが書かれます。シャルムは幼名で、彼の王としての名はヨアハズです。ヨシヤ王がエジプト軍との戦争で戦死した後、南ユダでヨアハズが王位に就きました。しかしバビロン軍と戦い破れたエジプト軍は退散する際、バビロンへの防衛線として南ユダを利用するため、ヨアハズ王を捕囚としてエジプトに連行します。それが10節にある「引かれて行く」です。13節以下は、ヨアハズの後、エジプト寄りの王ヨヤキムの話です。しかし彼はバビロンの力が強くなると、今度はバビロンに貢物を贈り、取り入ります。その結果、強国への貢物の費用が莫大なものとなり、国民はますます疲弊しました。24節以降出てくるコンヤ(ヨヤキン)はヨヤキムの息子です。彼は在位3ヶ月にして侵略してきたバビロンに倒され、第一次バビロン捕囚によって連行されていきます。それが25節です。ちなみに、今日の箇所では書かれませんが、その後、ヨシヤ王の末子であったゼデキヤが最後の王となりますが、彼は周辺国と共に反バビロンを企てたため、最後は滅亡に至ります。エレミヤは今朝、南ユダの滅亡していく様を語りながら、人々に考えさせます。15節はヨヤキム王への語り掛けの形を取りながら、読者たる私たちへの問いかけです。「あなたの父(ヨシヤ)は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった」と。幸いとは何でしょう。豊かさとは何を指すのか。さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」で、アフリカにて働く医師の言葉が歌われます。「この偉大な自然の中で病いと向かい合えば、神さまについて、ヒトについて考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれど何か、大切な処で道を間違えたようですね」1987年の曲ですが、そのメッセージはますます現代に響きます。みことばは私たちに問います。「幸いとは何か、豊かさとは何か」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。南ユダ王国の滅亡に至る流れの中で、私たちは「幸いとは何か。豊かさとは何か」と問われます。その問いを日々の生活に即して考えていけますように、日々みことばをください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(火) エレミヤ書23章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はバビロン捕囚からの解放預言です。「南ユダ王国が滅亡する前にここまで語られていたか」と思うと、神さまのみことばの凄さを感じます。1-2節では民を顧みなかった王たちへの叱責が語られ、3-4節では神さま自らが民を顧み、ちりぢりにされた場所から連れ戻すと宣言され、5-6節では一度倒されたダビデ王家を象徴的に描きながら復興を語り、7-8節では民の歓喜が語られます。私にとって非常に印象的なのは7-8節です。そこでは、人々がもはや神さまのことを「出エジプトの奇跡を行った神」ではなく、「私たちをバビロンから連れ帰った神」と呼ぶと言及されます。それは、神さまが昔話の神、神話的な存在なのでなく、今の私たちにとって確かに向き合い、関わってくださる神さまだと、人々が実感を持って呼ぶようになると言われるのです。ここに私は「私たちの信仰もかくありたい」と思う。神さまを実感もって「わたしの神さま」と言える信仰です。どうか皆さん、今日は、自分が神さまとどう出会い、信じたか、もしくは何故教会に通うことになったか、どうして今も通っているのか、を思い返してください。そこに「神さまとは私にとって今も共に生き、導いてくださる方」という喜びが再度湧き起ってきてほしいと思います。今日は神さまと再び、しっかり向き合う日です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは南ユダが滅亡する前にバビロン捕囚からの解放すら預言される方です。民はこれから滅亡と捕囚という苦しみを経験します。でもあなたはその苦しみが永遠に続くものではないことを最初に示されます。神さま、私たちも時に苦難を経験します。でも、苦難の際にあなたが私たちを祝福し、必ず幸いに導いてくださることを確信させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(水) エレミヤ書23章9-40節
一言メッセージ:今朝の箇所は非常に長いですが、エレミヤの預言者たちへの預言をまとめた箇所です。エレミヤは自らが預言者であるからでしょう、預言者への批判の言葉は痛烈です。今朝の箇所では8つのブロックにわけて読むことができますが、その内容は深いところで通底しています。すなわち、「預言者とは神のみことばを受け、語り伝える者であり、自らの願望や思惑を神のみことばとして語ることは決して許されない」です。逆を言えば、祖国滅亡に至るのに、民にとっても耳触りのよいように「私たちはアブラハム以来の救いの約束をいただいた民族だから、神が見捨てることはない」と語るばかりで、神さまに真摯に向き合わない預言者が多かったのでしょう。この言葉は牧師には特に直球ですが、でも全てのクリスチャンにも「あなたは誰を信じてクリスチャンであるのか?」と問うてきます。以前も書きましたが、フィリピンのボクサーであるパッキャオは敬虔なクリスチャンで、彼は「クリスチャンとはchrist(キリスト)と共にある者。もしキリストがいなければian(I am nothing 私には何も無い)だ」と語りました。私たちはイエス・キリストを信じ、神さまの救いをいただき、今を生きています。「神さまか、世の風潮か」という二者択一的でなく、「神さまの御心を持ってこの世、社会を生きる」者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、エレミヤの預言者たちへの痛烈な批判の預言集でした。その言葉は私自身も牧師として身を糺されますし、全てのクリスチャンにとっても「私たちは誰を信じ、いまを生きているのか」と原点を問い直されます。神さま、どうぞ私たちが、改めてキリストを信じて生きていることを思い起こし、今日も導きと恵みに期待して生きられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(木) エレミヤ書24章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は第一次バビロン捕囚の後に語られた預言です。エレミヤは幻で良いいちじくと悪いいちじくの入った2つの籠を見ます。良いいちじくは第一次捕囚で連行された人々を指しています。一方、悪いいちじくは第一次捕囚の後、バビロンに対抗しようと画策した王や指導者たちを指しています。エレミヤから見れば、バビロンによって滅亡になるのは、自分たちの国が神さまを蔑ろにして来たがゆえの当然の裁きであり、それは受けねばならない出来事です。でも、それに抗う人々はあくまでも自分たちの知恵や算段で神に対抗しようとしているのです。そんな箇所の中で私が目を留めたのは5-7節です。第一次捕囚の民はバビロンに連行される際、財産も地位も名誉も奪われましたが、神さまは彼らを守り、連れ戻すと語ります。7節にこう記されます。「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」何も持たずに捕囚として連行された彼らですが、解放時には、神さまを「主である」との確信と、「真心」を得て帰ってくる。それは、ある意味で財産よりも貴く、生きる上での支えとなるものです。数日前、「幸いとは何か。豊かさとは何か」との問いかけをしましたが、その問いの答えに通じる恵みですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばであなたは捕囚とされた民が必ず解放されること、そしてその際に「神を主と知ること」と「神さまと真摯に向き合って生きる真心」を取り戻させてくださることを読みました。あなたが与える試練であれば、厳しさの中に幸いへの気づきがあることを思います。神さま、私たちも様々な、あなたに問いかけたい疑問を持ちつつ生きていますが、どうかいつか、あなたの真意に気づく時をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(金) エレミヤ書25章1-14節
一言メッセージ:13節の「この巻物」は、おそらくエレミヤ書24章までの預言です。エレミヤがバルクという人物に命じて、エレミヤの23年分の預言をまとめさせたようです。そこで語られるのは、「民は神を蔑ろにし、異教礼拝(ご利益宗教)に走ってきた。それゆえ、神はバビロンの王ネブカドネツァル(ネブカドレツァルと表記)を僕として、南ユダを滅亡させる」です。エレミヤから告げられた預言の凄さというのは「世界を席巻しようとする強国の王すら、主の僕である」という大胆さであり、そこに至るまでの神さまの粘り強さです。私が最も注目したいのは3-4節です。「23年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。」「倦むことなく」との言葉が二度繰り返されています。ヘブライ語の字義通りに訳せば「朝早く起きて事を成す」です。神さまが夜明けを待ちきれないほどの思いで、民を何とか早急に立ち帰らせ、救おうとしてきた表現です。23年です。何と長く、粘り強い期間でしょう。神さまの熱意は変わることなく南ユダに注がれていた。けれど、彼らは神さまの熱意を気に留めず、無下にした。神さまの祝福を「当たり前」とする驕り、怖いですね。私たちは神さまの粘り強さへ驚きと同時に、「だからこそ、神さまに誠実であろう」と心がけたいです。今日も私たち、神さまと誠実に向き合ってスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは24章までを前半の預言としてまとめました。そこで語って来たのは23年もの間告げられた、神さまの「私に正しく立ち帰れ」との呼びかけでした。その粘り強い促しは今も世界に呼び掛けられているものです。神さま、私たち、先にあなたの呼びかけに気づき、信じた者たちだからこそ、未だあなたを知らぬ家族や仲間たちのことを思います。どうか、彼らにもあなたを信じるきっかけと信仰をお与えください。私たちにもその一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(土) エレミヤ書25章15-38節
一言メッセージ:今朝の預言は、神さまが怒りを「杯」に見立て、南ユダから始めて、世界中に滅びを宣言する預言です。17-26節では世界の各国が列挙され、27-29節では「この滅びは免れようがない」と断言され、30-38節では凄惨な場面が預言されます。この具体的な実行が25.9で語られたようにバビロン王ネブカドネツァルによって世界が席巻されていく様であり、だからエレミヤは25.1にあるように、この預言をネブカドネツァル即位1年目に語っています。歴史を見ますと、ネブカドネツァルは在位期間40年の間、世界中で戦争を起こし、バビロンによる支配を確立していきます。が、今朝の預言で非常に目が留まるのは26節にて、そのバビロンすら最後には滅びていくと書かれていくのです。私はここに、「戦争とは何なのか」と感じます。世界を侵略する理由は富や地位。名誉などかもしれません。でも、平家物語が冒頭で「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」と語るように、人の栄華など一時期のものに過ぎず、権力の衰えと共に支配する者は没落していくものです。ならば、人は何のために覇権を握ろうとするのか。今朝の箇所において、エレミヤが語る預言は「最後、誰も勝者がいなくなる。あなたはそこで何が本当の幸いと思うか」と問うているように思えてなりません。21世紀になり、未だ戦争を終わらせられない私たちにエレミヤの言葉は、強く響いてきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のエレミヤの預言では、神さまの怒りが全ての民を飲み込み、最後には支配者バビロンすら滅びていく様が語られました。その時、誰が勝者なのでしょう。人間の力への渇望は一体、何を生み出せるのでしょう。どうか、本当の平和を来らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***






3月5日~11日のみことば - 2023.03.04 Sat

3月に入りました。
各地の高校でも卒業式が行われたようですね。
今年はノーマスクでの卒業式が行われたところも結構あったようです。
大変な中でも、素敵な青春を過ごすことができていればいいなと思いながら、ニュースを眺めていました。

久留米教会の中でも、今年は小学校、中学校、高校、それぞれに卒業を迎える子たちがいます。
それぞれ受験を乗り越えた子、今まさに真っ最中の子も。
一人一人にとってまさに新しい出発の時、また人生での大切な節目を迎えています。
そこに至るまでには、きっと悩み、もがき苦しむときもあったでしょう。また、挫折するようなこともあったかもしれません。
日本全国の受験生たちの中には、希望の学校に合格できず、複雑な気持ちで今を過ごしている子たちもいるだろうと思います。

教会では「神さまの導き」という言葉を使うことがあります。
そして、それは時に自分の意志とそぐわない方向へ進まざるを得ない場合にも使われます。
もちろん、すべてのことを「神さまの導き」と考えるのは乱暴ですし、注意が必要です。
しかし、実際に、その時はわからなくても、後から振り返ると自分では不本意だった道へ進んだことが実は今の自分にとって、とても大切だったと思えることがある。
そういったことを振り返る時、「ああ、自分では気づかなかったけれど神さまはちゃんと私に必要な道を備えていてくださったんだな」と驚きと感謝を思わされるのです。

今、新しい道を歩みだそうとしているたくさんのひとたち。自分の希望にかなった道を歩もうとする人にも、不本意な道を歩もうとしている人にも、きっと今からの道に神さまの導きがありますようにと祈りたいなと思わされています。そして、その道に必ず神さまが伴っていてくださることも、ぜひ知ってもらいたいなと思っています。

さあ、新しい週もみことばを聞きながら、深呼吸して1歩1歩歩んでいきましょう♪

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5日(日) エレミヤ書18章18-23節
一言メッセージ:今朝は「エレミヤの告白」という、エレミヤから神さまへの切実な訴えです。エレミヤ書で「告白」は5箇所あります。①11.18-12.6、②15.10-21、③17.14-18、④18.18-23、⑤20.7-18です。今朝の箇所は18節がエレミヤを邪魔者と考える人々が彼を排斥しようと企む言葉で、19-23節はエレミヤが神さまに「彼らを滅ぼしてください」と怒って訴える箇所です。エレミヤの怒りは情的に共感できますが、今朝わたしたちが注目したいのは18節、エレミヤを邪魔者と考えた人々のことです。彼らはエレミヤを神さまから遣われた預言者と認めてはいます。しかし、彼らは「エレミヤだけが預言者じゃない」と考え、排斥しようとします。それは、エレミヤの預言が苛烈過ぎて、自分たちの都合や既得権益を侵害するからです。ここに彼らの問題が見えます。彼らは自分たちの都合が第一であり、神さまの御心は二の次です。それが、自分たちを救うための御心であっても、自分の方が大事になっていました。私たちは彼らの姿を反面教師にしましょう。私たちは大事な順序を間違う時、生き方を間違えてしまいますから。今日は日曜日、礼拝の日です。会堂で、ネットで、事情によっては時間を異にしても、礼拝を守りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは神さまの御心よりも、自分たちの都合を優先する民の傲慢さ、思い違いに怒りました。神さま、私たちも思い違いをすることがあります。素直に悔い改めます。どうぞ私たちにあなたを第一とする生き方を忘れないようにしてください。私たちの模範であるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(月) エレミヤ書19章1-15節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤが壺を買い求め、長老や長老格の祭司に持たせてベン・ヒノムの谷に遣わし、預言の宣告と共に、壺を破壊するように指示する話です。ベン・ヒノムはエルサレムの西から南にかけて街を囲むように位置する谷で、異教礼拝の儀式として人身御供が行われていた場所です。神さまは預言を通して、そんな悪しき風習を糾弾します。5節「わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった。」神さまは命を祝福し、育む方だから、自分の利のために他者を犠牲にする人身御供は神さまの意に適うはずもないのです。さて、今朝の箇所で不思議なのは「どうしてエレミヤ自身がそこに行かずに長老たちを代理で遣わすのか」です。理由は簡単で、エレミヤの語る預言が祖国滅亡だったので、彼は神殿に近づくことが禁じられていたのです。だから、エレミヤは代理の人を遣わします。が、さらに興味深いのは、エレミヤがそうしてまで、民が拒む預言を伝えようとする動機です。「神さまに命じられた」という理由もあるでしょうが、私が感じるのは「エレミヤは本当に祖国を愛していた」です。祖国を愛し、同胞を救いたいがゆえに、彼らにとって耳障り良くてもその場しのぎな偽りを語ろうとせず、厳しくとも神さまの祝福に至るための真理を語り抜いたのです。私たちもその場しのぎの薄っぺらな言葉でなく、内実のある神さまのみことばに耳を傾けて今週も歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。一週の働きの始めに、あなたは厳しいみことばをくださいました。私たちは耳障りの良い言葉が好きです。でも、本当に大事なことは耳障りでなく、あなたの御心をこそ第一に聞くことです。私たちの望む言葉でなく、あなたの御心を聞かせてください。週の働きの始まりに、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(火) エレミヤ書20章1-6節
一言メッセージ:「この国は神の御心に背いたから滅亡する」と預言し続けたエレミヤは、時の神殿最高指導者であるパシュフルによって鞭で打たれ、一晩投獄されました。翌朝、パシュフルはエレミヤが懲りたであろうと考えて解放しますが、エレミヤはパシュフルに「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る(マーゴール・ミッサービーブ)』と呼ばれる」と語ります。古代世界において名前を変えることは、「変える者が変えられる者を支配している」という意味を持ちました。つまり、エレミヤは「主なる神がお前を支配し、お前に四方から恐怖が襲い掛かって来るようにされる」と宣言したのです。驚くのは4節後半、エレミヤは祖国を滅ぼす相手を、それまでの「北の国」でなく、「バビロン」と初めて名指しで語りました。パシュフルは心臓を掴まれるほど驚いたでしょう。自分の権威と懲罰をもってエレミヤを黙らせようとしたら、かえって自分が神の裁きを宣言されたのです。今朝わたしたちはこのやり取りを読みながら、パシュフルを反面教師にしたいと思います。自分の考えが本当に神さまの御心に沿うものかどうか、吟味したいのです。もし「神さまの御心に沿うと思う」ならば、「神さま、間違っているならばどうぞ諫め、正してください」と祈りつつも、周囲が何を言おうと貫けばいい。もし「御心に適うものじゃない」と思えば、早々に方向転換すればいい。怖いのは、自分の願望を「神の御心」と言い訳することです。この一点だけ注意して今日もスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはパシュフルとエレミヤの記述に「自分たちは本当にあなたの御心に沿っているか」と振り返ります。もし御心に沿っているならば、私たちを勇気づけ、貫かせてください。もし御心に沿っていないなら、素直に方向転換する勇気をお与えください。御心がなりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(水) エレミヤ書20章7-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は「エレミヤの告白」の最後5つ目です。エレミヤは7-13節で、自分と神さまとの葛藤や対立を率直に語り、「あなたの勝ち(7節)、わたしの負け(9節)」と語りました。エレミヤは預言者として神さまのみことばを取り次ぐことに疲れ、「もう辞めたい」と何度も思ってきました。それは、エレミヤの語る預言が祖国滅亡預言だったので、誠実に神さまのみことばを取り次げば取り次ぐだけ、同胞から敵意や誹謗中傷を受けてきたからです。エレミヤだって、わざわざ好き好んで敵対したくない。でも、神さまはエレミヤに「語れ」と命じ続けました。そして14-18節で率直に嘆きつつも、預言者を続けようと決意したのです。その確信は11節「主は恐るべき勇士としてわたしと共にいます」と感じたためです。人々がどれだけ騒ぎ、敵視しようと、神さまに勝つことはできない。その神さまは、虐げられる民を救うため、自らも彼らと共に生きていることを示すため、エレミヤを彼らの代表のようにして生かし、用いている。私たちもいつもいつも、神さまに感謝ばかりは祈れません。悔しさや憤り、疲れ、嘆きだってある。ならば、どうぞ神さまに素直に投げかけてください。どれだけ嘆き悲しんでも、でも神さまはいつもあなたと共に居てくださるし、あなたを用いて御業を行われる方です。神が共にいてくださる、それが私たちにとって最高の力です。エレミヤ同様、感謝の笑みと諦めの苦笑いを持って、今日もスタートです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは率直にあなたと対立し、自分の葛藤も投げかけました。でもあなたはそのエレミヤをいつも強め、立たせ、用いられました。神さま、私たちも時に、自分たちの中に簡単に飲み込めない思いを抱えます。あなたはそんな私たちをも丸ごと受け止めてくださり、共にいて、1つずつ整えてくださるでしょう。期待し、信じて従います。御心を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(木) エレミヤ書21章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所で、南ユダ最後の王ゼデキヤは祭司をエレミヤに派遣します。この時、エルサレムはバビロン軍によって包囲されています。王はエレミヤを通して主の託宣を聞き、あわよくばエルサレムを包囲するバビロン軍を追い払うような御業を期待します。しかしエレミヤが伝えた神の言葉は「神はバビロンを用いて、この国を滅ぼされる」という、期待と真逆の言葉でした。5節の「わたし(神)は手を伸ばし、力ある腕をもってお前たちに敵対し、怒り、憤り、激怒して戦う」は王にとって絶望的な言葉だったでしょう。今朝の箇所で注目したのは8節です。神さまは祖国滅亡後の預言として、「わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く」と告げ、どちらを選ぶか問います。死の道は祖国に留まること、命の道はバビロンに捕囚として連行されることです。捕囚は、祖国を奪われ、自分たちのプライドも地位も財産も全てを奪われる、絶望的な事柄です。逆に、留まれば少なくとも先祖伝来の土地から離れないで済む。でも神は捕囚を「命の道」と告げました。このことをどう捉えましょう。私は思います。「己がプライド、また固執したい様々な出来事があろうが、たとえ這いつくばろうとも神さまの導きに従うことに未来はある。一時的な挫折はあっても、神は必ずそこから私たちを救い出し、祝福に導いてくださるから」。神さまを根拠として生きる時、未来は必ず開かれるのです。未来を拓く神さまに期待して一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の預言は南ユダの人々にとって絶望的に響きました。でも同時に、滅亡とバビロン捕囚、そしてそこからの解放を知る私たちには、一時的に自分の誇りとするものが奪われても、神さまを根拠とした時、未来は必ず切り開かれることを覚えます。神さま、口で言うほど簡単に割り切れないことと、分かっています。でもどうか私たち、いついかなるとき、どんな状況においても、あなたの導きを信じて生きることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(金) エレミヤ書21章11-14節
一言メッセージ:申命記17.18-20には「王に関する規程」が書かれます。内容を要約すると、「律法(神の御心)を絶えず学び、実行すること。そうすれば、王位は長く保たれる」です。今朝の箇所12節前半は正にそうです。「ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人を虐げる者の手から救い出せ。」言い換えるならば、「政治とは、民を労わり、誰もが等しく、安心して生きるためのもの」です。しかし権力者は時に身勝手な理屈で民を支配し、搾取します。だから、今朝の箇所12節後半-14節において、王が民を虐げるならば、神さま自らが「わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いる(14節)」と宣言し、「わたしは火を放ち、火はすべてを焼き尽くす」と滅亡を語りました。今の世界を見て、神さまはどう思うでしょう。そして私たちは今の社会に対して、どう行動するように促されているのか。今朝は問いかけられる箇所です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに私たちは「政治とは民のためにおこなうもの」であると改めて見ます。けれど現実はみことばとあまりにかけ離れ、生きること、食べることすら当たり前でない人々が増えています。神さま、あなたは今の社会をどう見られるでしょうか。どうぞ私たち一人ひとりが主権ある国民として、この国をどう正していけるか、問い直す一日を過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(土) 東日本大震災から 12 年を数えての祈り
今日は東日本大震災から12年目の日です。震災発生後、日本バプテスト連盟では「現地支援委員会」が発足し、2021年度まで10年間、支援活動をしてきました。今は東北地方連合が被災支援委員会を作り、働きを引き継いでいます。今年も彼らから「一緒に祈ってほしい」と祈りが送られてきました。今日のみことばメールは、彼らの祈りを一緒に祈りたいと思います。以下、原文です。
主よ、東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故から 12 年が経ちます。これまでの主の寄り添いと導きに感謝いたします。そのような中、昨年 3 月 16 日に発生した福島県沖を震源とする震度 6 強の大きな余震に 12 年前の大震災を想起しました。さらに先月 2 月 6 日、トルコとシリア国境付近で起こり甚大な被害をもたらしている大地震を覚え、心を痛めています。私たちは今もなお、震災と震災の間を生きていることを思い、被災された方々のために共に祈りを合わせます。
主よ、私たちは 12 年前の大震災によって失われた 15,900 人1と、関連死した 3,786 人1の命を覚え、いまだに行方不明となっている方が 2,523 人2と、その安否確認ができないでいるご家族関係者のことを思います。さらに津波や原発事故によって避難を強いられている方が 31,438 人3おられます。震災から 12 年を経過しても「原子力緊急事態宣言」は発令中であり、福島の原発立地地域では避難指示が解除され、新たに特定帰還居住区域が指定されましたが、なお帰還希望者の減少、インフラ整備の遅れなどで町の回復には至っていません。どうか主よ、避難者の皆さんの将来への道筋と希望を与え、導いてくださるようお願いいたします。また、国の復興予算は前年を大幅に下回り、地方自治体における必要とされる復興事業も縮小せざるを得なくなっています。必要な復興支援が確保されるようお支えください。
主よ、東京電力福島第一原子力発電所における廃炉作業は遅々として進まず、今春の「ALPS(アルプス)」汚染処理水の放出が決まりました。福島県のみならず、宮城県でもようやく回復してきた漁業における深刻な被害が懸念されています。また、宮城県の東北電力女川(おながわ)原発 2 号機は住民の、リスク懸念をよそに来春の再稼働となり、国は全国の原発の 60 年延長利用に舵を切りました。主よどうか、日本各地で想定されている巨大地震や、薄れつつある原発への危機感を私たちが失うことなく、取返しのつかない事態が再び起こることのないようお導きください。そして、その備えを私たちが忘れず、目を覚ましていくことができますように。
主よ、新型コロナウイルスの感染拡大も、様々な規制が緩和され収束に向かうかに見えます。しかし失われる命は留まることなく、基礎疾患がある方や高齢者、幼児などへの影響が懸念されています。また、現在起こっているミャンマーでの軍事クーデター、ロシアによるウクライナ侵攻など、各地での争いと暴力は全世界に暗い影を落とし、また多くの人権問題を起こしています。戦争による核の脅威やエネルギー問題、環境破壊による温暖化は、私たちの生活に脅威と不安を与え続けています。主よ、どうか主の平和がありますように。そして私たちを和解のつとめに仕える者としてください。
主よ、これからも私たちが被災された方々のことを忘れず、世界で起る新たな苦難の中で苦しみ痛む人たちに寄り添っていけるよう、私たちの信仰を新たにしてください。いつもあなたが共にいてくださることを忘れず歩む私たちでありますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

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2月26日~3月4日のみことば - 2023.02.25 Sat

間もなく2月も終わります。
毎日様々なニュースが聞こえ、心がざわざわします。
トルコ・シリアの地震のニュースは減ってきていますが、今も家族の安否のわからない方々や特にシリアの情勢不安定のために安心して避難生活を送ることのできない人たちがいることを思います。
わたしたちにできることは多くはありませんが、祈りや募金などで少しでも支えることができればと願います。

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教会学校でも、子どもたちが地震の被害のために祈っています。
わたしたち大人も一緒に引き続き祈っていきたいと思います。


今週も皆さんそれぞれにおかれたところで共に祈り、みことばにきいていきましょう!

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26日(日) エレミヤ書16章14-節
一言メッセージ:今朝の箇所はバビロン捕囚からの解放預言です。非常に目を惹くのは表題にあるように、バビロン捕囚からの解放を「新しい出エジプト」と捉えていることです。このエレミヤの預言は衝撃的です。それまで、民は「神さまはかつて先祖を救い出してくださったけれど、今やその影も形もない」と嘆いていた。神さまを「私たちには関係ない」と諦めた気持ちでしか考えていなかった。でもエレミヤは「神さまは今も生きておられ、今の私たちの苦難に対しても、かつてと同じく救いの御業を実現してくださる」と示したのです。主なる神さまは生きておられるのです。私たちは自分たちが困難に直面している時、また社会が不穏である時に、「聖書は神さまを力強く語るけれど、私たちはそんな実感がない」と疑ってしまう。でもエレミヤは語るのです。「主なる神が、今、あなたの人生において御業を成される。神は生きておられる」と。私たちは目先のことで右往左往するのでなく、神さまを期待して待てばいいのです。神さまはエレミヤを通して告げます。21節「それゆえ、わたしは彼ら(民ら)に知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる。わたしの手、私の力強い業を。彼らはわたしの名(存在)が主(絶対者)であることを知る。」今日は日曜日。主なる神さまと向き合うべく、共に礼拝に集いましょう。10:30に会堂とネットでお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは「主は生きておられる」と改めて私たちに示してくれました。私たちは自分たちの課題や状況が困難であればあるだけ、「神さまはおられるのか」と疑います。自分たちの我慢や忍耐の限界を棚に上げ、神さまを疑います。でも、今日私たちは「主は生きておられるから信じ続ければいい」と示されました。神さま、あなたを信じます。どうか御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(月) エレミヤ書17章1-4節
一言メッセージ:今朝の箇所の表題は「ユダの罪と罰」です。南王国が2節「アシェラ(アシュタロテなどとも表記。土着信仰の女神で、雨をもたらすと信じられたバアルと組みで信仰され、雨が大地に降って作物が育つ過程を、バアルがアシェラと性交して子どもが生まれる様で理解して信仰。いわゆる、ご利益的な信仰。)」を拝んでいた罪を告発し、それゆえ3-4節で祖国が滅亡することを語っています。今朝私が注目するのは1-2節「ユダの罪は、心の板に、祭壇の角に、鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に明記されるものとなる」です。これは「今の世代の過ちが未来永劫に記憶され、子孫たちがその罪を知る」という意味です。私はこの言葉に今の私たちへの示唆も見出すのです。私たちは自分たちを無力で、ちっぽけな存在と考え、すぐに目先の事柄や感情に動かされます。でもエレミヤの示唆は、そんな私たちも「子どもたち、孫たちに対して責任を負っている」と告げる。私たちの言動は未来の子どもたちの模範となるのか、それとも残念極まりない罪とみられるのか。そう捉える時、私たちは今を生きることの責任を感じます。子どもたち孫たちに誇れる未来を遺すためにも、私たちは今を誠実に生きるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは未来への責任を考えました。私たちの言動は子どもたち、孫たちの未来を左右するかもしれません。特に、原発や憲法改悪は子どもたちを切実に追い詰めるでしょう。神さま、私たちは未来への責任を負っているからこそ、あなたに誠実に生きる者でありたいと思います。どうぞ今日も私たちに目を留め、御心に従わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(火) エレミヤ書17章5-8節
一言メッセージ:今朝は「主に信頼する人」という箇所です。エレミヤは「神に逆らう者は人間の力を信頼するが、そこには未来への保証がない。一方、主に信頼する人は、自分たちの限界や算段を超えて神の絶対的な祝福と導きをいただいて生き続ける」と語りました。それこそ「干ばつの年にも憂いなく、実を結ぶことをやめない」木々のように。先日、大好きな博多華丸・大吉の漫才で面白い話題があった。大吉さんが「ドラえもん」好きで詳しいのですが、華丸さんが「もし、ドラえもんの秘密道具を一個もらえるとしたら何をもらったら良か?」と切り出したのです。彼は続けてこう語る。「私ももう50を超えましたけん、そりゃ、子どもみたいなこと言うて…とは思います。でも、この年になると、辛い出来事を前にして、『あぁ、ドラえもんがいてくれたらなぁ』って思ったりすることもあるとです。」漫才では「ドラえもん」でしたが、私たち風に言えば「人生経験重ねてきましたけれど、誰でも時に、どうしようもなくて、『神さま…』って祈りたくなる時って、あるでしょう」ということです。そんな人々に対して、エレミヤは言う。「主に信頼したらよかやんね。」何故なら「主がその人のよりどころとなられる(7節)」からです。この「よりどころ」は単なる気休めでない。岩波訳では「頼み(根拠)となる」と訳されています。今日も、私たちの根拠である神さまを思いながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝エレミヤは「人間を信頼する人」と「主を信頼する人」を比較しました。考えてみると、私たちは誰しも時に、自分の手に負えず、周囲の協力すら助けにならぬ出来事に直面するのに、多くの人が、その時に本当に頼れる神さまと出会うことを後回しにしています。神さま、私たちはそういう人たちより一足早く、あなたを知り、信じ、平安をいただいています。どうか家族や友人、周囲の人たちにも、あなたを信じるからこその平安と希望を伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3月1日(水) エレミヤ書17章9-13節
一言メッセージ:今朝は「人間の心を知り尽くす神」という箇所です。エレミヤは人間について考え続けたのでしょう。彼が出した1つの結論は「人の心はとらえ難く病んでいる」です。同じ問題に直面したのがパウロです。彼はローマ7.15や19-25節で「人間は自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをする」と語っています。「私たちの心は『神の律法に従う』という法則を知っているのに、体は『罪の法則』に縛られている」とも表現しています。エレミヤもパウロも、「私たちは『こうありたい、これが正しい』と分かっているのに、それが困難を伴うものであったり、損になりそうなことであったり、願望と違う事柄であったら、見て見ぬふりしてしまうのだ。それが私たちにとって将来的に良くないことであるとわかっているのに」と語りました。そうなのです、私たちは神さまを信じたら善いと分かっているのに、一歩踏み出すことを躊躇させる自分もいる。でもエレミヤは10節で神さまの言葉を取り次ぎます。「心を探り、そのはらわたを究める(奥底まで知っている)のは主なるわたし(神)である」と。そのことばに私はホッとします。神さまは、私のいい加減さや恐れ、弱さも全部知っていてくださる。そのうえで「信じなさい。私を信じて生きたらいい」と促してくださる。私たちの問題を承知の上で、なお引き受けてくださる。であれば、私たちは安心して信じたらいい。信仰とは「誤りなく生きられるから信じる」ものではなく、「誤り多いながら、その自分から、委ねて、神さまに応答して生きること」なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたが私たち以上に私たちをご存じの方であってくださること、だから、自分の弱さすら委ねて信じて生きてよいことを分かち合いました。神さま、ただただあなたを信じます。どうか私たちを、みことばと礼拝を喜び、日々あなたの導きに期待して生きる者へと成らせてください。今日の一日もお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(木) エレミヤ書17章14-18節
一言メッセージ:エレミヤ書には「エレミヤの告白」と呼ばれる嘆きの言葉が5箇所あります。1つ目は11.18-12.6で、2つ目が15.10-21で、今朝の箇所が3つ目です。ここでエレミヤは「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしは癒されます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」と呼び掛けます。15節以下を見ますと、この時のエレミヤは「私たちの国は神によって北の国(バビロン)が攻め寄せてきて、滅ぼされる。私たちが神を蔑ろにしてきたからだ」と告げていましたが、その預言が実現しないために、人々から「主の言葉というならば、早く実現させてみろ」と揶揄されていたようです。冷静に考えて、エレミヤを揶揄した民は愚かです。その言葉が実現したら滅びるのは自分たちなのに、「本当だったらやってみろ」と語る。彼らが考えねばならなかったのは、「自分たちはいつ滅ぼされても仕方ない罪を犯している。でも、その災いを踏み留めてくださっているのは神さまであり、神さまが今も悔い改めを呼び掛け続けてくださっている」だった。現代でも、私たちは「戦争できる国にさせてはいけない」と言い続けていますが、こう主張しますと「日本は何があろうと戦争しないから、今の動きでも大丈夫」と言う人々がいます。そのくせ、自民党の改憲案が何を示しているか知りもせず、「憲法は古い」と主張する。原発も同じ構図です。私たちは神さまのみ言葉から社会を冷静に見極めねばなりません。今日も「神さま、御心を実現してください」と祈り、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、エレミヤが自分を揶揄する人々がいかにいい加減で、願望と無理解ばかりで、神さまの示唆に基づかないものかを指摘し、嘆きました。神さま、私たちはそうならないために、あなたの御心を模索して生きます。どうぞ御心こそ実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(金) エレミヤ書17章19-27節
一言メッセージ:今朝の箇所は「安息日の遵守」を呼び掛ける言葉です。この箇所はおそらくエレミヤの預言ではなく、後代の付加です。というのも、安息日規定が強調されるようになるのは、南王国が滅びた後のバビロン捕囚の時期だからです。バビロン捕囚の際、ユダヤの民は自分たちが神さまを蔑ろにしてきた罪を痛感しました。そこで改めて神さまに立ち帰ろうとしますが、既にエルサレム神殿は破壊されているし、何より自分たちはバビロンに連行されている。つまり、先祖伝来の礼拝所が無い。そこで彼らは「場所」に重きを置くのでなく、「礼拝する日」を重視し、安息日規定を強調するようになりました。さて、私たちは今日、この箇所から何を聞きましょう。コロナのため会堂に集えない人もいる今、また職種によっては日曜日もお仕事の人もいるし、遠方からネットで礼拝に参加くださっている人々もいる状況で「日曜日は会堂にて礼拝を守らねばならない」と縛り付けることが適切とは思いません。私が思うのは「そもそも安息日は、一週間の働きの中で神さまを覚えて礼拝することを大事と伝えている」という原点に帰り、「週の中で一日、それぞれの場、それぞれの時に礼拝を守ろう」という示唆です。単なる「お客さん」的に礼拝を眺めるのでなく、自分自身が礼拝者として神さまとしっかり向き合っての礼拝であってほしい。そのために、youtubeのアーカイブはお役に立てると思います。時と場は異なっていても一緒の礼拝に繋がりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「礼拝を大事に守る」ことを分かち合いました。コロナの国内感染が始まり4年目になり、私たちも「それまでの礼拝は日曜日に会堂に来れる人のためだけの礼拝だった」と反省しました。でも今は、時も場も異なっていても一緒に礼拝できるチャレンジを始めています。神さま、どうか私たち一人ひとりが礼拝を大事に守り、いつも、あなたとも教会とも、繋がっていることを確信させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(土) エレミヤ書18章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまがエレミヤに陶工の家に行くように命じるところから始まります。陶工は器を作るも、気に入らなければ壊し、土に返し、また作り直していました。神さまはエレミヤにそんな陶工の仕事を示し、「イスラエルの家に言え。私はこの陶工のように、お前たちにも成し得る。ある時、お前たちを断罪してもお前たちが悔い改めるなら、私は思いとどまる。一方、お前たちを祝福していても、お前たちが悪を行い、わたしに聞き従わないならば、幸いを思い直す」と預言するように命じます。これに対して民は11節以下では、神さまの呼びかけを聞かず、「我々は我々の思い通りにし、かたくなな悪い心のままふるまいたい」と反論したため、神さまは彼らへの裁きを告げるのです。この箇所を読みながら思い起こすのは、創世記2.6-7のアダム創造の物語です。神さまがアダムを、泥をこねて作りました。まさに陶工のように、です。神さまは泥をこねて人を形作りますが、仕上げに「その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」とある。この描写が告げるのは「人間は本来、塵芥に過ぎない存在。しかし、神さまはそんな人間を熱心に創造し、彼らを生かすべく『命の息(神の命)』を吹き入れてくださった。人は神さまと向き合い、神さまに命をいただいてこそ、本当の意味で『生きる』存在なのだ」です。にも拘わらず、今朝のエレミヤ書では、人間は自分たちの創造者を軽んじる。それは本末転倒な生き方なのです。新共同訳ではコヘレトですが、口語訳の伝道の書12章1節は名訳です。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」今日が私たちのこれからの人生において、最も若い日です。ここからの人生を祝福に充ちた日々に変えるべく、作り主である神さまをしっかり覚えましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は創世記や伝道の書を思い起こすみことばでした。私たちは時に驕り高ぶり、創造主なるあなたを忘れ、自分たちの能力や環境に依拠して、自分があなたに並び立つような勘違いに陥ります。神さま、どうぞ私たちの愚かさを正し、あなたに正しく向き合う者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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2月19日~2月25日のみことば - 2023.02.18 Sat

三寒四温。少しずつ温かい日が増えてきましたね。
温かくなってきたせいか、今日教会の外の階段の壁ににテントウムシがいるのを発見しました。
また、ふと見上げると教会の桜の枝のつぼみが少しずつ膨らみ始めていましたし、チューリップの球根からは葉が伸び始めています。
忙しくしていると見落としてしまいそうな変化。でも立ち止まって眺めてみると寒い冬を超えて春がそこまで来ていることを感じたのでした。
みなさんも、「春探し」してみてくださいね。

今週も、皆さんの歩みに神さまの守りと導きがありますように♪

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19日(日) エレミヤ書14章13-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は偽預言者たちへの厳しい警告です。彼らは昨日の身勝手な民同様、自分たちの罪を本気で悔いず、それよりも神さまの約束を理由にして「神が私たちを見捨てるわけがない」と安直に救いを語りました。それゆえ神さまは彼らを「偽りの預言をしている」と断じます。そしてエレミヤに対して、「こう民に語れ」と17-18節を示します。「わたし(エレミヤ)の目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。」その涙の意味は、神さまの悲しみを代わって表現する意味と共に、エレミヤ自身の境遇の辛さも神さまは理解してエレミヤに寄り添っているのだと感じました。私はこの言葉に、牧会の役割を託された者として、胸が締め付けられます。牧師とは「教会のために一生懸命に祈りながら、『神さまはこの教会をどう導こうとしておられるのだろうか』と模索しながら牧会する者」です。だからこそ、時に、教会の人たちから「嫌われるかもしれない」と思いながらも「これは神さまの示唆とは違う」と苦言を呈したりする。そのことで教会にギクシャクを生じさせることになっても、「教会は人によって成れるものでなく、神によって成れるもの」と信じて牧会します。逆に自分たちの中では「神さま、私だって思うところはあるんですが」と祈りながら、「でも神さまの御心よりも己が都合を優先してはならない」と強く自戒します。17節で神さまがエレミヤに示した言葉は、エレミヤの預言者として祖国の滅亡を語らねばならない辛さや、様々な感情を全部、理解しての言葉と考える時、私は、私たちの心の奥底まで知っていてくださる神さまへの安心と共に、改めて「信じて従う」責務を覚えます。今日は日曜日、心してみことばの御用に当たります。10:30からご一緒に礼拝に集えることを祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は自分自身に突き付けられた言葉でした。教会のために祈りながら、だからこそ慣れあいでなく、御心に生きることを改めて示されました。今日は「牧師」という自分の役割から語りましたが、これはクリスチャン一人ひとりにも同じく問われる生き方です。神さま、どうか私たち一人ひとりが、あなたの御心を模索しながら一日一日を過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(月) エレミヤ書14章19節-15章4節
一言メッセージ:今朝も干ばつに際しての民の嘆き(14.19-23)と神さまの言葉(15.1-4)です。14.19-23は14.7-9と同じで、民は神さまに対して自分たちの苦境を訴えながら、「我々は自分たちの背きと先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました(20節)」と罪を告白し、21節で救いを願い、22節で「神さま以外に縋れるものがない」と訴えます。しかし神さまは、彼らが上辺の言葉に終始していると断じる。それが15.1-4です。15.1「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない」はとても厳しい言葉です。モーセは出エジプトの指導者で40年に亘って神さまはモーセと共に民を導き出しました。サムエルはサムエル記に記される、王政が始まる前の最後の「神の人(直接神さまと対話する指導者)」です。そんな人々が執り成しても、神さまは「顧みない」と宣言し、「わたしの前から彼らを追い出しなさい」とまで語る。神さまがそこまで民に怒りを燃やしたのは「マナセ」のためと書かれます。マナセは南王国で経済的に大繁栄しましたが、同時に、民の中で格差を作り、貧しい人々を蔑ろにした悪王です(列王記下22.10-16)。一見すると、イスラエルの罪はマナセ個人のためと指摘したように見えますが、私はそうではないと思う。マナセの悪政に止めず、逆に悪政の責任をマナセに負わせつつ、利益に走っていた民衆のことも指摘していると感じます。だからこそ2節の言葉のようになるわけです。映画監督・伊丹万作は1946年、病床で「戦争責任者の問題」という文章を発表しました(インターネットで調べるとすぐに出てきます)。伊丹は、戦中に熱心に戦争に賛同していた人々が、戦後手の平返すように「自分たちは騙された」と主張し、戦争責任を受け止めずに、むしろ被害者面していることを指摘します。彼の文章の一部を引用します。「『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」私たちは過去の過ちを繰り返さないように、真摯に神さまと向き合い、歴史を受け止めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたはイスラエルの民の上っ面の悔い改めを指摘し、内実は自分本位で、あなたに「自分たちを愛し、守る義務」を押し付けていることを示します。それは私たちにも通じる弱さです。神さま、私たちが安易に被害者面して身勝手な理屈を並べ立てないため、誠実な生き方と歴史を正しく見る目をお与えください。今の時代を次の戦前にせず、食い止められますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(火) エレミヤ書15章5-9節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤ自身の言葉ではなく、彼の弟子たちによる預言と考えられます。内容は凄惨です。目が留まったのは6節最後「(わたしは)お前を憐れむことに疲れた」です。神さまがエルサレムの民を救うべく、何度も何度も悔い改めを呼び掛けてきた。けれど民はその度に神さまを裏切り続けた。だから神さまは「憐れむことに疲れた」と語る。子育てしていますと、嬉しいこと、楽しいことも多いですが、疲れることも多々あります。恥ずかしながら、時に感情的になり、「そこまで言うこときけんのやったらウチから出て行け!」と怒鳴ることもある。子どもを大事に思うがゆえに余計に見限ることができず、感情が爆発するのですが、怒鳴った後、自分で落ち込みます。将来、我が子たちが親になり、同じように子どもを叱りつけた時、少し思い出してほしいのは、「それだけ真剣だし、親も疲れていた」ということです。きっと神さまも同じでしょう。民に対して真剣であるからこそ厳しい言葉を告げるし、疲れるし、深く嘆く。エルサレムの民はとうとう滅びるまで、神さまの真剣な呼びかけに気づきませんでした。私たちはそこまで行く前に、神さまの呼びかけに真摯に向き合う者でありましょう。神さまは私たちに対して真剣です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所であなたは率直に「憐れむことに疲れた」と語られます。それは、民に対して真剣であったからこその疲れです。神さま、あなたはきっと私たちにも同じように真剣に呼びかけてくださっているでしょう。どうぞ私たちはあなたの呼びかけに真摯に向き合い、あなたの救いを喜び、悔い改めるべきは正し、誠実に生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(水) エレミヤ書15章10-11節
一言メッセージ:エレミヤ15.10-21はエレミヤ書で5回にわたって記される、「エレミヤの告白」の1つです。今朝の箇所では、エレミヤの切実な挫折と神さまとの対話が描かれます。大事な箇所なので、3日に分けて読みます。今朝は10-11節です。10節で深い嘆きが書かれます。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。」ユダヤ人は基本的には与えられた命を神さまの創造の業と結びつけて「祝福」と理解します。でもここでエレミヤは自分の誕生を呪い、嘆いている。それくらいにエレミヤは追い詰められていた。具体的な内容は、人々から「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男」と罵られることです。具体的には、エレミヤが取り次ぐ神さまの預言が祖国滅亡であるため、人々から敵視され続けることです。彼は誰かの債権者になることも債務者になることもなく、生活は実直だったのに、神さまの預言者を仰せつかったばかりに、理不尽とも言える誹謗中傷に苦しむ。なのに11節では「敵対者のためにさえ幸いを祈ってきた」と嘆く。大変辛い言葉ですが、でも一方で、私たちはこの言葉に慰めも見出す。それは「預言者であっても、神にここまで嘆き呪うのだ」という人間の現実を見るからです。考えてみますと、マルコやマタイの福音書でイエスさまも十字架で死ぬ直前、「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と訴えました。エレミヤの嘆きに通じる言葉です。私たちはそこにも「エレミヤの嘆き、イエス・キリストの嘆きは空しく響いて終わりではない」ことを見出します。この叫びは神さまがちゃんと受け止めてくださる。いわばエレミヤもイエスさまも、神さまが受け止めてくださるとの信頼を持って嘆いている。私たちはここに、私たちを丸ごと受け止めてくださる神さまを見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは自分の誕生を呪い、預言者として生きる辛さを訴えました。確かにそれは辛くもあります。でも神さま、私たちは同時に、ここまで率直な思いさえ受け止めてくださるあなたを見出します。あなたはエレミヤにどう応えるか、明日以降も読み続けます。どうぞ私たちに生き方を見出させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(木) エレミヤ書15章12-16節
一言メッセージ:「エレミヤの告白」と呼ばれる切実な訴えの2日目です。12節の「鉄は砕かれるだろうか。北からの鉄と青銅は」は、北から襲ってくるバビロンの脅威を感じながら、「果たして預言のとおり、バビロンが倒される時が来るのか」というエレミヤの自問です。でも13-14節で神さまはバビロンによるイスラエル滅亡を告げる。だからエレミヤもその預言を人々に語ります。でも預言を語ることはエレミヤにとっては苦しくもある。だから15-16節で再びエレミヤは自分の苦しさを訴えます。15節の終わり「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えていることを知ってください。」16節でエレミヤは自分の過去を振り返ります。「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」はヨシヤ王の時代、神殿の壁から発見された申命記を神さまからの託宣と受け取った王が、申命記に基づいての宗教改革を始め、エレミヤがそのことを心から喜んだとの回顧です。エレミヤは「神さま、私はそれ以来、ずっとあなたの御言葉に忠実に生きてきたじゃないか」と訴えた。エレミヤは「私は神さまを信じ、誠実に生きてきたはずなのに、どうしてこんな目に遭うのか」という嘆きでした。私たちはエレミヤの嘆きを読みながら、どこか共感してしまう。自分たちにも「神さまを信じているのに、どうしてこんな苦労をせねばならないのか」と考えたことがあるだろうと思うのです。でも、私たちはその疑問の中で考えてきた。私たちの信仰は「信じる者だけが得をする」ご利益宗教ではない。イエスさまは私たちが信じる前に既に十字架にかかり、私たちを救ってくださった。私たちの行動に先立ってイエスさまは私たちを愛し、救ってくださった。神さまの愛と救いが先、私たちの応答は後です。ならば、「信じる者だけがご利益を受ける」のが私たちの信仰では無いのです。だから「信じているのにどうしてこんな苦労をするのか」は心情としてはとても共感しますが、私たちはその考えから脱却する。そして、私たちはこう信じるのです。「神さまは私たちを祝福し、必ず困難の先を見越して私たちを最善へと導いてくださる。この苦労は後々、『やっぱり神さまってすげぇ!』という前フリ。だから私たちはこの苦難にも寄り添ってくださるイエスさまと、この苦難の先にどでかい祝福を準備くださっている神さまに期待して、今日も生きる」です。未来への希望を持って今日を過ごし、明日のみことばへと読み繋ぎましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは「誠実に信じてきたのに、どうしてこんなに辛いのか」と訴えました。その言葉に私たちは深く共感します。でも一方で、私たちの信仰は自分だけのご利益でなく、あなたの導きが私も周囲も世界も全てを最善へと導く御業が起こるという信頼でした。神さま、あなたの御業を信じます。どうぞ御業を行ってください。私たちが困難の中でも信じて耐えることができますように。受難の先に復活を示してくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(金) エレミヤ書15章17-21節
一言メッセージ:今朝は「エレミヤの告白」の最終日です。今朝もなかなかに重たい訴えから始まります。17節でエレミヤは預言者であるがゆえに人々から虐げられ、孤独であったことを訴えます。18節では神さまを「裏切者」と呼ばわり、「当てにならない」とけなしたのです。その不敬とも言える言葉を受けて、神さまが語る言葉が19節からです。神さまはものすごいことを語ります。キーワードは「帰るところ」です。神さまはエレミヤに「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせる」と語り、「あなたが彼ら(人々)の所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と呼びかけました。どういうことか。エレミヤは「私は孤独だ。祖国の人々も、故郷アナトトの同胞も、預言者として神さまのみことばを取り次ぐ自分を敵対し、遠ざけている」と訴えます。でも神さまはエレミヤに「わたしの許こそが彼らの帰るべき場所だ。エレミヤ、あなたは今そこにいるのだ。だから、彼らが私の許に帰るために、あなたは今、留まりなさい」と告げたのです。これはエレミヤへの励ましであり、使命の再授与の示しでした。20節で神さまはエレミヤを「あなたを堅固な青銅の城壁とする」と宣言します。攻めるための武器でなく、守り耐えるための城壁です。エレミヤが民の中に踏みとどまることを神さまはご自分の御業の証として立て、「わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す」と宣言されたのです。先日までディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者についての研究本を読んでいました。ボンヘッファーはナチス・ドイツが台頭した1930年代初頭に既にヒトラーやナチスの危険性を指摘し、反対者として活動し、最後はヒトラー暗殺計画に加わったため、逮捕・殺害された人物です。ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画に加わったことは今でも「信仰者として正しい行動だったのか」との問いもあります。でもボンヘッファー自身は自らを「正しい」とは言わず、私たちが目指すべき「正しさ」とは、自分たちの判断でなく神さまの判断を仰ぐこととしています。彼は信仰者の生き方について、こんなことを書いています。「われわれがキリスト者であるということは、今日では、ただ一つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと人々の間で正義を行うこと。」ボンヘッファーにとって「祈ること」は日常生活での自分の悲嘆や限界を超え出て、神さまの御心に従って現実に固く立つことであり、その祈りによって私たちは「正義を行って」生きるべく促されているのです。神さまはエレミヤに「苦しいだろうが、あなたが立つべきところは私の御心。世間が騒ごうとも彼らは必ずあなたが立つ、私の御心に帰ってくる。だからあなたは私と共に立ち続けなさい」と告げました。厳しさの中にある希望です。そこに神さまは共に在ってくださるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは苦しみ訴えるエレミヤに「わたしの許にこそ立ち続けなさい」と告げました。私たちはその言葉に、あなたの御心に基づいて立つならば、苦境の中でも私たちは孤独でなく、必ず全てが御業の中で整えられていくこと、そのために私たちはなお信じて生きることを示されます。神さま、あなたの御言葉を信じ、従います。どうぞ御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(土) エレミヤ書16章1-13節
一言メッセージ:今朝は神さまがエレミヤに「このところで妻をめとるな、子を得るな(2節)」とか「弔いの家(滅びていく人々の中)に入るな(5節)」とか、「彼らとの酒宴に加わるな(8節)」と命じ、神の預言を語り続けるように告げます。そこで10節、民は「なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かすのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか」と問う。これに対して神さまは11-13節で端的に「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と答えます。非常に興味深いのは「お前たちがわたしを捨てたから」でなく「お前たちの先祖が」と告げていることです。12-13節を読むと、エレミヤと同時代の民も神さまを捨てている。けれど神さまは「先祖」から指摘します。エレミヤ時代の人々も神さまを捨てていたが、彼らは「これは先祖以来の慣習だ。ずっとやってきたのだから、悪いことであろうか」と考えていた。神さまはそこを指摘します。人間は弱いから「伝統、風習、慣習」といった形式はそのまま「良いもの」と考えがちです。でも神さまは「先祖の風習が私への背きであったことを知らず、どうしてお前たちは『我々が悪や罪を犯したとでも言うのか』と主張できるのか」と告げた。そこには、神さまの御心と照らし合わせて自分たちの生き方を顧みる大事さを教えられます。どうせ慣習があるならば、私たちは神さまという本質から物事を考える「慣習」を作りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たちの「伝統、風習、慣習」の盲点を指摘されました。ドキッとします。神さま、私たちに「いつもあなたの御心から物事を考える」新たな慣習を持たせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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2月12日~18日のみことば - 2023.02.12 Sun

トルコ・シリアで起こった地震は死者数が2万4千人を超えるとの報道がなされています。
家族を失った方々の悲しみ、生活が破壊され途方に暮れる方の苦しみや不安を思うと、胸が苦しくなります。
今はまず救助活動やけがをされた方の治療や避難のための様々な支援が一つひとつ整えられることを祈るばかりです。
また、シリアでは国内の政治状況混乱による内戦のために国内外からの支援に支障が出るのではないかとの報道も聞こえてきます。戦争はこんな状況の時にも人々に影響を与えるのだということを知り、地震被害だけでなく平和への祈りも祈らされる思いです。
毎週教会学校の礼拝で子どもたちが自分たちで考えるお祈りの言葉にもたびたび「戦争がなくなりますように」との言葉が祈られます。
子どもたちと共に誰もが安心して生きられる世界を願って祈っていきたいと思います。
ぜひ、皆さんも共に祈りを合わせてください。


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12日(日) エレミヤ書11章18-22節
一言メッセージ:エレミヤ11.18-12.6は「エレミヤの訴え」という一つのまとまった箇所ですが、非常に大事な箇所なので、二日に分けて読みます。今朝は11.18-22です。ここでエレミヤは「自分は無垢な小羊のように何も知らず、屠り場に連れていかれようとしていた(19節)」と素直に嘆いています。具体的に何を指すかと言うと、21節にあるようにアナトトの人々がエレミヤを脅し、殺害しようとしたことです。非常にショックなことはアナトトとはエレミヤの故郷です。彼にとっては昔から知っている故郷の仲間たちなのに、彼らはエレミヤを排除しようとします。理由は、エレミヤの預言が祖国滅亡であったため、アナトトの人たちも南ユダの中で白眼視されていたことと、バビロンによる祖国滅亡が実現するまで期間があるため、エレミヤの活動初期は「あいつは人騒がせなだけで、嘘偽りを語る人間だ」と嘲られていて、それが故郷の恥でもあったことです。エレミヤは仲間と思っていた故郷の人々に命を狙われ、20節で神さまに祈ります。「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め(全てご存じであること)、正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。」このエレミヤの言葉は激しいようですが、大事な部分は最後、「わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします」と語ったことです。神さまに判断を委ねたことです。明日、この続きを読みますが、今朝私たちは私たちの腹の奥底までちゃんと知っておられる神さまに、私たちの全てを吐露しましょう。神さまはちゃんと受け止めてくださいます。今日は日曜日、神さまと向き合い、礼拝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは故郷の人々に命を狙われ、強いショックを受けました。でも神さま、エレミヤは自ら復讐しようとしません。あなたにご判断を任せました。それはあなたこそが全てを理解し、最善を行ってくださるからです。神さま、私たちもあなたに全てをお委ねします。私たちの悔しさも痛みも、素直さも誠実さも、醜さも弱さも全て受け止め、最善を実現してください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(月) エレミヤ書12章1-6節
一言メッセージ:今朝は昨日の11.18からの続きです。今朝の箇所でエレミヤは神さまに問いかけます。1-2節「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです。」ここには深く傷つき、もう何もかも嫌になっている人間エレミヤの姿が描かれます。正しいのは神さまであることは分かっている。でも悔しい。精いっぱい一生懸命に働き、努力し、忍耐し、国を滅びないようにと活動しているのに、その全てが無駄に感じられ、自分の無力さに苛まれている。4-6節では「いつまで南ユダの民は荒れ果てたままなのか。故郷の者たちにすら裏切られるならば、どうして首都エルサレムの民に悔い改めさせることなどできようか」と嘆きます。エレミヤの視点で物語を読むと、私たちは彼に同情しますし、「そうだ、私たちが精いっぱいやったって無理なこと、無駄なことが多いのだ」と共感します。でも神さまの視点で読んでください。神さまはこれだけ悲しみ、傷つき、呻き、嘆き、自信を失ったエレミヤの訴えを黙って受け止めているのです。私は双方の視点に慰めを見出します。私たちはエレミヤのように率直に嘆く時もあっていいし、でも、その時にも私たちを受け止めてくださっている神さまに安心していいのです。エレミヤの訴えはどうなるのか。また続けて、共にみことばを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、エレミヤはくたびれきり、自信を失い、あなたに不平不満をぶちまけて、呻きました。その姿に私たちも共感します。精いっぱい生きているつもりなのに、どうしてこんなにうまくいかないのか…と嘆きたい時もあります。でも、だからこそ私たちはエレミヤの姿に「それでもいいんだ」との慰めと、そんなエレミヤをも黙って受け止めてくださるあなたに安心も見出します。神さま、どうぞ私たちも受け止め、あなたの最善へと導いてください。救い主イエスさまの御名で、安心して祈ります。アーメン。

14日(火) エレミヤ書12章7-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまがイスラエルの民の反意を嘆き、裁きと救いを告げる言葉として書かれていますが、内実は、エレミヤの預言を真剣に受け止める人たち(弟子?)がエレミヤの預言から過去を顧み、現状に忍耐し、将来に展望を抱く言葉です。いうなれば、神さまがエレミヤを通して告げられた言葉を「エレミヤはこう告げたよね」と繰り返し確認しながら記した言葉です。7-13節は、神さまがイスラエルを嘆く言葉です。神さまはイスラエルに生きるに素晴らしい土地も生活も与えたのに、彼らは自分たちの欲のために互いを貪るように格差を作り、周囲の強国にすり寄って生き抜こうとして、結果的に災いを招いている。それゆえ、14-17節で神さまはイスラエルを滅ぼし、その後に救うと語りました。今朝私たちが目を留めたいのは15節「わたし(神さま)は彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる」です。ここには、人々の「神さまは私たち一人ひとりにちゃんと目を留めていてくださる」という信仰が見出せます。彼らは自分たちの過ちをしっかり認め、でも自分たちの本気の悔い改めをちゃんと受け止めてくださるとの神さまへの信頼、だからこそ神さまと一対一でちゃんと向き合おう、とする信仰があったのです。私たちも今日一日、神さまがちゃんと見守っていてくださることを想起してスタートしましょう。神さまの御業は必ず最良の時と仕方で実現しますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤの預言を真剣に受け止めていた人々は、あなたときちんと一対一で向き合っていました。あなたと個々に向き合うからこそ生き方を正しつつ、信仰の友との交わりに励まし合い、支え合っていました。神さま、私たちも同じ信仰をいただいています。どうぞ今日の一日、私たちも教会の皆もお守りください。離れていても祈り合える仲間たちに感謝し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(水) エレミヤ書13章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は象徴的預言の箇所です。1つは「麻の帯」の話、もう1つは「ぶどう酒の甕」の話です。神さまはエレミヤに麻の帯は買い求めさせ、挙句、長い間、岩の裂け目に放置するように言われます。そうすると当然、腐って役に立ちません。考えたら、むちゃくちゃ無駄な話です。私たちが同じことをさせられたら、「なんでこんな無駄なことを…」と問うでしょう。でも、それをこそ神さまは示したかった。神さまにとって、イスラエルは新品の衣服のように、在ることが嬉しかったはずです。でも、その帯がいつの間にか無くなり、見つかった時にはもはやダメになっていた。神さまは民に対して「私にとってお前たちは新品の帯のように嬉しい存在だったのにお前たちは私に聞き従わなかった」と嘆きます。もう1つは「ぶどう酒の甕」の話です。この「ぶどう酒」は神さまの怒りです。神さまはイスラエルの民に「お前たちは酒に泥酔して判断を見失ったように、私を捨て、己が欲(異教信仰)を神にした」と叱ります。どちらも厳しい指摘ですが、大事なことは16-18節で、神さまはそれでもエレミヤを通してこの民に、「聞け、耳を傾けよ、高ぶるな(驕るな)」と呼び掛け、「あなたたちの神に栄光を帰せよ」と促しているのです。神さまは憐み深い方、民が滅びることを「良し」とせず、悔い改めて立ち帰ることを願い続けてくださる。私たちも神さまの呼びかけをしっかりと聞き、招きに応え、誠実に生きる者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、あなたは民が滅びることを望まず、立ち帰って生きることを喜びます(エゼキエル33.11)。私たちも日々、驕ることなく、あなたと誠実に向き合って生きる者であれますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(木) エレミヤ書13章18-22節
一言メッセージ:今朝の箇所は「王と太后(王の母)」への言葉ですが、この箇所もエレミヤの弟子が記した言葉と考えられます。この「王と太后が捕囚で連れていかれる」は紀元前597年にヨヤキン王とその母、また国の主だった人々が第一回バビロン捕囚で連行される様を語った言葉です(捕囚は紀元前597年と紀元前587年の2回あった)。エレミヤ自身は王と太后の捕囚はエレミヤ22.24-30で非常に厳しく批判しています。だから今朝の憐みの書き方は、エレミヤ自身でなく弟子の文章だと考えられます。弟子の書き方がエレミヤと違うのは、弟子が読者に対して「人はどうして、悪い結果をもたらすと知りながら、悪を犯すのか」を問いたかったからでしょう。弟子はその答えも知っています。それは「驕り高ぶったから(13.15)」です。「自分が偉い、思惑を圧し通せる力を持っている」と勘違いした時、人は神さまを見失い、好き勝手をはじめるのでしょう。その結果が悲劇を招くと知っていても、遠い未来より手近な今日だけに盲目的になって。神学者D.ボンヘッファーは「我々がキリスト者であるということは、祈ることと、正義を行うことによって成り立つ」と書いています。祈ることは私たちに「神さまこそが絶対者」と確認させてくれます。そして「神さまの御心である正義を行って生きよう」と私たちを正してくれる。私たちは今日も祈って、正義を行ってまいりましょう。さて、今日から週の後半です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤの弟子は「人はどうして悪い結果が生じると知りながら、悪を犯すのか」と私たちに問います。それは「人が驕り高ぶるから」です。神さま、私たちはあなたに日々祈ります。私たちは祈りによって、自分たちが力ある者のように驕ることなく、神さまこそが絶対者であると確認し、謙虚になれます。どうぞ今日も祈って、あなたを覚えて一日を過ごせますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(金) エレミヤ書13章23-27節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤその人の言葉です。だから、かなり厳しい。エレミヤは「クシュ人(黒人の人たち)」が肌の色を変えられるか、「豹がまだらの皮を変えられるか」と問います。もちろん、変えることができません。同じように、エレミヤはイスラエルが神さまに逆らい、罪を犯し続けたから、「神の裁きは避け得ない。安易に『平和』と語るな(6.14との関連)」と語ります。でも、私は27節の最後の言葉に目を留めます。エレミヤは「災いだ、エルサレムよ。お前は清い者とはされない。いつまでそれが続くのか」と嘆きますが、「いつまでそれが続くのか」という言葉は裏返せば、「いつかは神さまによって清められる」という期待を含む言葉です。人間には肌の色も変えられない。でも、神さまに不可能は無い。エレミヤは神さまに期待するからこそ、裁きをも真摯に受け止めようとします。私たちも、神さまの救いを信じたのですから、神さまの導きを期待して、己が罪とも向き合い、悔い改めましょう。救いは必ず成れり、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは厳しくイスラエルを糾弾しますが、それはあなたが必ずいつか救ってくださると信じ、期待するからです。私たちも同じです。あなたの救いを喜び、整えと導きを信じるからこそ、己が罪とも向き合います。どうか、イエスさまに伴われているから、教会の仲間たちが共にいてくれるからこそ、勇気をもって罪とも向き合えますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(土) エレミヤ書14章1-12節
一言メッセージ:ここは干ばつによって苦しむ民と神の告知が書かれる箇所です。1-6節は干ばつによって人も動物も苦しむ様子が描かれます。7-9節で民は神さまに悔い改めます。7節「我々の罪が我々自身を告発しています」は、自分たちが神さまに背を向け、やりたい放題で生きてきたことを悔いているようです。しかし8節から彼らは言います。「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい、人を救い得ない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。」ここで言わんとしたことは「神さま、あなたは私たちの神ではないのか。私たちの街の中には神殿もあるではないか。ならば、どうしてあなたは無能を晒し、私たちを救わないのか。早く救うのが役割ではないか」です。彼らは悔い改めている風を装いながら、「義務を果たせ」と神さまに迫った。ゆえに10節で神さまは「彼らはさまようことを好み、足を慎もうとしない」と告げ、「民が自分たちで勝手に私から離れ、未だ私を見誤っている」と指摘します。ゆえに11-12節で神さまはエレミヤに、彼らのための執り成しの祈りを禁じました。今朝の言葉は私たちにも厳しく響きます。キリスト教信仰とは神さまとの交換条件ではありません。ご利益宗教は「これだけのものを神に献げたら神が報いてくれる」という応報的な信仰です。「これだけのことをしないと救われない」という点ではカルトすら、この思考法を利用します。しかし私たちの信じる神さまは、交換条件で私たちを救うのでなく、神さまの自由な意志と愛によって私たちを救い(旧約では律法で、新約ではイエスさまの十字架)、だからこそ応答を求める神さまです。私たちは信仰を交換条件と勘違いしてはいけません。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にて、イスラエルの民はあなたの救いを「義務」と言わんばかりに要求しました。でもあなたは彼らを「さまようことを好む」と指摘し、信仰を交換条件とはき違える過ちを明確にされました。神さま、私たちもまた信仰を「交渉」とはき違えず、あなたの救いと愛に感謝して日々を生きられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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