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2023-03

2月19日~2月25日のみことば - 2023.02.18 Sat

三寒四温。少しずつ温かい日が増えてきましたね。
温かくなってきたせいか、今日教会の外の階段の壁ににテントウムシがいるのを発見しました。
また、ふと見上げると教会の桜の枝のつぼみが少しずつ膨らみ始めていましたし、チューリップの球根からは葉が伸び始めています。
忙しくしていると見落としてしまいそうな変化。でも立ち止まって眺めてみると寒い冬を超えて春がそこまで来ていることを感じたのでした。
みなさんも、「春探し」してみてくださいね。

今週も、皆さんの歩みに神さまの守りと導きがありますように♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
 ・訳名選択     : 新共同訳
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19日(日) エレミヤ書14章13-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は偽預言者たちへの厳しい警告です。彼らは昨日の身勝手な民同様、自分たちの罪を本気で悔いず、それよりも神さまの約束を理由にして「神が私たちを見捨てるわけがない」と安直に救いを語りました。それゆえ神さまは彼らを「偽りの預言をしている」と断じます。そしてエレミヤに対して、「こう民に語れ」と17-18節を示します。「わたし(エレミヤ)の目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。」その涙の意味は、神さまの悲しみを代わって表現する意味と共に、エレミヤ自身の境遇の辛さも神さまは理解してエレミヤに寄り添っているのだと感じました。私はこの言葉に、牧会の役割を託された者として、胸が締め付けられます。牧師とは「教会のために一生懸命に祈りながら、『神さまはこの教会をどう導こうとしておられるのだろうか』と模索しながら牧会する者」です。だからこそ、時に、教会の人たちから「嫌われるかもしれない」と思いながらも「これは神さまの示唆とは違う」と苦言を呈したりする。そのことで教会にギクシャクを生じさせることになっても、「教会は人によって成れるものでなく、神によって成れるもの」と信じて牧会します。逆に自分たちの中では「神さま、私だって思うところはあるんですが」と祈りながら、「でも神さまの御心よりも己が都合を優先してはならない」と強く自戒します。17節で神さまがエレミヤに示した言葉は、エレミヤの預言者として祖国の滅亡を語らねばならない辛さや、様々な感情を全部、理解しての言葉と考える時、私は、私たちの心の奥底まで知っていてくださる神さまへの安心と共に、改めて「信じて従う」責務を覚えます。今日は日曜日、心してみことばの御用に当たります。10:30からご一緒に礼拝に集えることを祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は自分自身に突き付けられた言葉でした。教会のために祈りながら、だからこそ慣れあいでなく、御心に生きることを改めて示されました。今日は「牧師」という自分の役割から語りましたが、これはクリスチャン一人ひとりにも同じく問われる生き方です。神さま、どうか私たち一人ひとりが、あなたの御心を模索しながら一日一日を過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(月) エレミヤ書14章19節-15章4節
一言メッセージ:今朝も干ばつに際しての民の嘆き(14.19-23)と神さまの言葉(15.1-4)です。14.19-23は14.7-9と同じで、民は神さまに対して自分たちの苦境を訴えながら、「我々は自分たちの背きと先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました(20節)」と罪を告白し、21節で救いを願い、22節で「神さま以外に縋れるものがない」と訴えます。しかし神さまは、彼らが上辺の言葉に終始していると断じる。それが15.1-4です。15.1「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない」はとても厳しい言葉です。モーセは出エジプトの指導者で40年に亘って神さまはモーセと共に民を導き出しました。サムエルはサムエル記に記される、王政が始まる前の最後の「神の人(直接神さまと対話する指導者)」です。そんな人々が執り成しても、神さまは「顧みない」と宣言し、「わたしの前から彼らを追い出しなさい」とまで語る。神さまがそこまで民に怒りを燃やしたのは「マナセ」のためと書かれます。マナセは南王国で経済的に大繁栄しましたが、同時に、民の中で格差を作り、貧しい人々を蔑ろにした悪王です(列王記下22.10-16)。一見すると、イスラエルの罪はマナセ個人のためと指摘したように見えますが、私はそうではないと思う。マナセの悪政に止めず、逆に悪政の責任をマナセに負わせつつ、利益に走っていた民衆のことも指摘していると感じます。だからこそ2節の言葉のようになるわけです。映画監督・伊丹万作は1946年、病床で「戦争責任者の問題」という文章を発表しました(インターネットで調べるとすぐに出てきます)。伊丹は、戦中に熱心に戦争に賛同していた人々が、戦後手の平返すように「自分たちは騙された」と主張し、戦争責任を受け止めずに、むしろ被害者面していることを指摘します。彼の文章の一部を引用します。「『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」私たちは過去の過ちを繰り返さないように、真摯に神さまと向き合い、歴史を受け止めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたはイスラエルの民の上っ面の悔い改めを指摘し、内実は自分本位で、あなたに「自分たちを愛し、守る義務」を押し付けていることを示します。それは私たちにも通じる弱さです。神さま、私たちが安易に被害者面して身勝手な理屈を並べ立てないため、誠実な生き方と歴史を正しく見る目をお与えください。今の時代を次の戦前にせず、食い止められますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(火) エレミヤ書15章5-9節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤ自身の言葉ではなく、彼の弟子たちによる預言と考えられます。内容は凄惨です。目が留まったのは6節最後「(わたしは)お前を憐れむことに疲れた」です。神さまがエルサレムの民を救うべく、何度も何度も悔い改めを呼び掛けてきた。けれど民はその度に神さまを裏切り続けた。だから神さまは「憐れむことに疲れた」と語る。子育てしていますと、嬉しいこと、楽しいことも多いですが、疲れることも多々あります。恥ずかしながら、時に感情的になり、「そこまで言うこときけんのやったらウチから出て行け!」と怒鳴ることもある。子どもを大事に思うがゆえに余計に見限ることができず、感情が爆発するのですが、怒鳴った後、自分で落ち込みます。将来、我が子たちが親になり、同じように子どもを叱りつけた時、少し思い出してほしいのは、「それだけ真剣だし、親も疲れていた」ということです。きっと神さまも同じでしょう。民に対して真剣であるからこそ厳しい言葉を告げるし、疲れるし、深く嘆く。エルサレムの民はとうとう滅びるまで、神さまの真剣な呼びかけに気づきませんでした。私たちはそこまで行く前に、神さまの呼びかけに真摯に向き合う者でありましょう。神さまは私たちに対して真剣です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所であなたは率直に「憐れむことに疲れた」と語られます。それは、民に対して真剣であったからこその疲れです。神さま、あなたはきっと私たちにも同じように真剣に呼びかけてくださっているでしょう。どうぞ私たちはあなたの呼びかけに真摯に向き合い、あなたの救いを喜び、悔い改めるべきは正し、誠実に生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(水) エレミヤ書15章10-11節
一言メッセージ:エレミヤ15.10-21はエレミヤ書で5回にわたって記される、「エレミヤの告白」の1つです。今朝の箇所では、エレミヤの切実な挫折と神さまとの対話が描かれます。大事な箇所なので、3日に分けて読みます。今朝は10-11節です。10節で深い嘆きが書かれます。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。」ユダヤ人は基本的には与えられた命を神さまの創造の業と結びつけて「祝福」と理解します。でもここでエレミヤは自分の誕生を呪い、嘆いている。それくらいにエレミヤは追い詰められていた。具体的な内容は、人々から「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男」と罵られることです。具体的には、エレミヤが取り次ぐ神さまの預言が祖国滅亡であるため、人々から敵視され続けることです。彼は誰かの債権者になることも債務者になることもなく、生活は実直だったのに、神さまの預言者を仰せつかったばかりに、理不尽とも言える誹謗中傷に苦しむ。なのに11節では「敵対者のためにさえ幸いを祈ってきた」と嘆く。大変辛い言葉ですが、でも一方で、私たちはこの言葉に慰めも見出す。それは「預言者であっても、神にここまで嘆き呪うのだ」という人間の現実を見るからです。考えてみますと、マルコやマタイの福音書でイエスさまも十字架で死ぬ直前、「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と訴えました。エレミヤの嘆きに通じる言葉です。私たちはそこにも「エレミヤの嘆き、イエス・キリストの嘆きは空しく響いて終わりではない」ことを見出します。この叫びは神さまがちゃんと受け止めてくださる。いわばエレミヤもイエスさまも、神さまが受け止めてくださるとの信頼を持って嘆いている。私たちはここに、私たちを丸ごと受け止めてくださる神さまを見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは自分の誕生を呪い、預言者として生きる辛さを訴えました。確かにそれは辛くもあります。でも神さま、私たちは同時に、ここまで率直な思いさえ受け止めてくださるあなたを見出します。あなたはエレミヤにどう応えるか、明日以降も読み続けます。どうぞ私たちに生き方を見出させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(木) エレミヤ書15章12-16節
一言メッセージ:「エレミヤの告白」と呼ばれる切実な訴えの2日目です。12節の「鉄は砕かれるだろうか。北からの鉄と青銅は」は、北から襲ってくるバビロンの脅威を感じながら、「果たして預言のとおり、バビロンが倒される時が来るのか」というエレミヤの自問です。でも13-14節で神さまはバビロンによるイスラエル滅亡を告げる。だからエレミヤもその預言を人々に語ります。でも預言を語ることはエレミヤにとっては苦しくもある。だから15-16節で再びエレミヤは自分の苦しさを訴えます。15節の終わり「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えていることを知ってください。」16節でエレミヤは自分の過去を振り返ります。「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」はヨシヤ王の時代、神殿の壁から発見された申命記を神さまからの託宣と受け取った王が、申命記に基づいての宗教改革を始め、エレミヤがそのことを心から喜んだとの回顧です。エレミヤは「神さま、私はそれ以来、ずっとあなたの御言葉に忠実に生きてきたじゃないか」と訴えた。エレミヤは「私は神さまを信じ、誠実に生きてきたはずなのに、どうしてこんな目に遭うのか」という嘆きでした。私たちはエレミヤの嘆きを読みながら、どこか共感してしまう。自分たちにも「神さまを信じているのに、どうしてこんな苦労をせねばならないのか」と考えたことがあるだろうと思うのです。でも、私たちはその疑問の中で考えてきた。私たちの信仰は「信じる者だけが得をする」ご利益宗教ではない。イエスさまは私たちが信じる前に既に十字架にかかり、私たちを救ってくださった。私たちの行動に先立ってイエスさまは私たちを愛し、救ってくださった。神さまの愛と救いが先、私たちの応答は後です。ならば、「信じる者だけがご利益を受ける」のが私たちの信仰では無いのです。だから「信じているのにどうしてこんな苦労をするのか」は心情としてはとても共感しますが、私たちはその考えから脱却する。そして、私たちはこう信じるのです。「神さまは私たちを祝福し、必ず困難の先を見越して私たちを最善へと導いてくださる。この苦労は後々、『やっぱり神さまってすげぇ!』という前フリ。だから私たちはこの苦難にも寄り添ってくださるイエスさまと、この苦難の先にどでかい祝福を準備くださっている神さまに期待して、今日も生きる」です。未来への希望を持って今日を過ごし、明日のみことばへと読み繋ぎましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは「誠実に信じてきたのに、どうしてこんなに辛いのか」と訴えました。その言葉に私たちは深く共感します。でも一方で、私たちの信仰は自分だけのご利益でなく、あなたの導きが私も周囲も世界も全てを最善へと導く御業が起こるという信頼でした。神さま、あなたの御業を信じます。どうぞ御業を行ってください。私たちが困難の中でも信じて耐えることができますように。受難の先に復活を示してくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(金) エレミヤ書15章17-21節
一言メッセージ:今朝は「エレミヤの告白」の最終日です。今朝もなかなかに重たい訴えから始まります。17節でエレミヤは預言者であるがゆえに人々から虐げられ、孤独であったことを訴えます。18節では神さまを「裏切者」と呼ばわり、「当てにならない」とけなしたのです。その不敬とも言える言葉を受けて、神さまが語る言葉が19節からです。神さまはものすごいことを語ります。キーワードは「帰るところ」です。神さまはエレミヤに「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせる」と語り、「あなたが彼ら(人々)の所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と呼びかけました。どういうことか。エレミヤは「私は孤独だ。祖国の人々も、故郷アナトトの同胞も、預言者として神さまのみことばを取り次ぐ自分を敵対し、遠ざけている」と訴えます。でも神さまはエレミヤに「わたしの許こそが彼らの帰るべき場所だ。エレミヤ、あなたは今そこにいるのだ。だから、彼らが私の許に帰るために、あなたは今、留まりなさい」と告げたのです。これはエレミヤへの励ましであり、使命の再授与の示しでした。20節で神さまはエレミヤを「あなたを堅固な青銅の城壁とする」と宣言します。攻めるための武器でなく、守り耐えるための城壁です。エレミヤが民の中に踏みとどまることを神さまはご自分の御業の証として立て、「わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す」と宣言されたのです。先日までディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者についての研究本を読んでいました。ボンヘッファーはナチス・ドイツが台頭した1930年代初頭に既にヒトラーやナチスの危険性を指摘し、反対者として活動し、最後はヒトラー暗殺計画に加わったため、逮捕・殺害された人物です。ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画に加わったことは今でも「信仰者として正しい行動だったのか」との問いもあります。でもボンヘッファー自身は自らを「正しい」とは言わず、私たちが目指すべき「正しさ」とは、自分たちの判断でなく神さまの判断を仰ぐこととしています。彼は信仰者の生き方について、こんなことを書いています。「われわれがキリスト者であるということは、今日では、ただ一つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと人々の間で正義を行うこと。」ボンヘッファーにとって「祈ること」は日常生活での自分の悲嘆や限界を超え出て、神さまの御心に従って現実に固く立つことであり、その祈りによって私たちは「正義を行って」生きるべく促されているのです。神さまはエレミヤに「苦しいだろうが、あなたが立つべきところは私の御心。世間が騒ごうとも彼らは必ずあなたが立つ、私の御心に帰ってくる。だからあなたは私と共に立ち続けなさい」と告げました。厳しさの中にある希望です。そこに神さまは共に在ってくださるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは苦しみ訴えるエレミヤに「わたしの許にこそ立ち続けなさい」と告げました。私たちはその言葉に、あなたの御心に基づいて立つならば、苦境の中でも私たちは孤独でなく、必ず全てが御業の中で整えられていくこと、そのために私たちはなお信じて生きることを示されます。神さま、あなたの御言葉を信じ、従います。どうぞ御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(土) エレミヤ書16章1-13節
一言メッセージ:今朝は神さまがエレミヤに「このところで妻をめとるな、子を得るな(2節)」とか「弔いの家(滅びていく人々の中)に入るな(5節)」とか、「彼らとの酒宴に加わるな(8節)」と命じ、神の預言を語り続けるように告げます。そこで10節、民は「なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かすのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか」と問う。これに対して神さまは11-13節で端的に「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と答えます。非常に興味深いのは「お前たちがわたしを捨てたから」でなく「お前たちの先祖が」と告げていることです。12-13節を読むと、エレミヤと同時代の民も神さまを捨てている。けれど神さまは「先祖」から指摘します。エレミヤ時代の人々も神さまを捨てていたが、彼らは「これは先祖以来の慣習だ。ずっとやってきたのだから、悪いことであろうか」と考えていた。神さまはそこを指摘します。人間は弱いから「伝統、風習、慣習」といった形式はそのまま「良いもの」と考えがちです。でも神さまは「先祖の風習が私への背きであったことを知らず、どうしてお前たちは『我々が悪や罪を犯したとでも言うのか』と主張できるのか」と告げた。そこには、神さまの御心と照らし合わせて自分たちの生き方を顧みる大事さを教えられます。どうせ慣習があるならば、私たちは神さまという本質から物事を考える「慣習」を作りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たちの「伝統、風習、慣習」の盲点を指摘されました。ドキッとします。神さま、私たちに「いつもあなたの御心から物事を考える」新たな慣習を持たせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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2月12日~18日のみことば - 2023.02.12 Sun

トルコ・シリアで起こった地震は死者数が2万4千人を超えるとの報道がなされています。
家族を失った方々の悲しみ、生活が破壊され途方に暮れる方の苦しみや不安を思うと、胸が苦しくなります。
今はまず救助活動やけがをされた方の治療や避難のための様々な支援が一つひとつ整えられることを祈るばかりです。
また、シリアでは国内の政治状況混乱による内戦のために国内外からの支援に支障が出るのではないかとの報道も聞こえてきます。戦争はこんな状況の時にも人々に影響を与えるのだということを知り、地震被害だけでなく平和への祈りも祈らされる思いです。
毎週教会学校の礼拝で子どもたちが自分たちで考えるお祈りの言葉にもたびたび「戦争がなくなりますように」との言葉が祈られます。
子どもたちと共に誰もが安心して生きられる世界を願って祈っていきたいと思います。
ぜひ、皆さんも共に祈りを合わせてください。


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12日(日) エレミヤ書11章18-22節
一言メッセージ:エレミヤ11.18-12.6は「エレミヤの訴え」という一つのまとまった箇所ですが、非常に大事な箇所なので、二日に分けて読みます。今朝は11.18-22です。ここでエレミヤは「自分は無垢な小羊のように何も知らず、屠り場に連れていかれようとしていた(19節)」と素直に嘆いています。具体的に何を指すかと言うと、21節にあるようにアナトトの人々がエレミヤを脅し、殺害しようとしたことです。非常にショックなことはアナトトとはエレミヤの故郷です。彼にとっては昔から知っている故郷の仲間たちなのに、彼らはエレミヤを排除しようとします。理由は、エレミヤの預言が祖国滅亡であったため、アナトトの人たちも南ユダの中で白眼視されていたことと、バビロンによる祖国滅亡が実現するまで期間があるため、エレミヤの活動初期は「あいつは人騒がせなだけで、嘘偽りを語る人間だ」と嘲られていて、それが故郷の恥でもあったことです。エレミヤは仲間と思っていた故郷の人々に命を狙われ、20節で神さまに祈ります。「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め(全てご存じであること)、正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。」このエレミヤの言葉は激しいようですが、大事な部分は最後、「わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします」と語ったことです。神さまに判断を委ねたことです。明日、この続きを読みますが、今朝私たちは私たちの腹の奥底までちゃんと知っておられる神さまに、私たちの全てを吐露しましょう。神さまはちゃんと受け止めてくださいます。今日は日曜日、神さまと向き合い、礼拝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは故郷の人々に命を狙われ、強いショックを受けました。でも神さま、エレミヤは自ら復讐しようとしません。あなたにご判断を任せました。それはあなたこそが全てを理解し、最善を行ってくださるからです。神さま、私たちもあなたに全てをお委ねします。私たちの悔しさも痛みも、素直さも誠実さも、醜さも弱さも全て受け止め、最善を実現してください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(月) エレミヤ書12章1-6節
一言メッセージ:今朝は昨日の11.18からの続きです。今朝の箇所でエレミヤは神さまに問いかけます。1-2節「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです。」ここには深く傷つき、もう何もかも嫌になっている人間エレミヤの姿が描かれます。正しいのは神さまであることは分かっている。でも悔しい。精いっぱい一生懸命に働き、努力し、忍耐し、国を滅びないようにと活動しているのに、その全てが無駄に感じられ、自分の無力さに苛まれている。4-6節では「いつまで南ユダの民は荒れ果てたままなのか。故郷の者たちにすら裏切られるならば、どうして首都エルサレムの民に悔い改めさせることなどできようか」と嘆きます。エレミヤの視点で物語を読むと、私たちは彼に同情しますし、「そうだ、私たちが精いっぱいやったって無理なこと、無駄なことが多いのだ」と共感します。でも神さまの視点で読んでください。神さまはこれだけ悲しみ、傷つき、呻き、嘆き、自信を失ったエレミヤの訴えを黙って受け止めているのです。私は双方の視点に慰めを見出します。私たちはエレミヤのように率直に嘆く時もあっていいし、でも、その時にも私たちを受け止めてくださっている神さまに安心していいのです。エレミヤの訴えはどうなるのか。また続けて、共にみことばを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、エレミヤはくたびれきり、自信を失い、あなたに不平不満をぶちまけて、呻きました。その姿に私たちも共感します。精いっぱい生きているつもりなのに、どうしてこんなにうまくいかないのか…と嘆きたい時もあります。でも、だからこそ私たちはエレミヤの姿に「それでもいいんだ」との慰めと、そんなエレミヤをも黙って受け止めてくださるあなたに安心も見出します。神さま、どうぞ私たちも受け止め、あなたの最善へと導いてください。救い主イエスさまの御名で、安心して祈ります。アーメン。

14日(火) エレミヤ書12章7-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまがイスラエルの民の反意を嘆き、裁きと救いを告げる言葉として書かれていますが、内実は、エレミヤの預言を真剣に受け止める人たち(弟子?)がエレミヤの預言から過去を顧み、現状に忍耐し、将来に展望を抱く言葉です。いうなれば、神さまがエレミヤを通して告げられた言葉を「エレミヤはこう告げたよね」と繰り返し確認しながら記した言葉です。7-13節は、神さまがイスラエルを嘆く言葉です。神さまはイスラエルに生きるに素晴らしい土地も生活も与えたのに、彼らは自分たちの欲のために互いを貪るように格差を作り、周囲の強国にすり寄って生き抜こうとして、結果的に災いを招いている。それゆえ、14-17節で神さまはイスラエルを滅ぼし、その後に救うと語りました。今朝私たちが目を留めたいのは15節「わたし(神さま)は彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる」です。ここには、人々の「神さまは私たち一人ひとりにちゃんと目を留めていてくださる」という信仰が見出せます。彼らは自分たちの過ちをしっかり認め、でも自分たちの本気の悔い改めをちゃんと受け止めてくださるとの神さまへの信頼、だからこそ神さまと一対一でちゃんと向き合おう、とする信仰があったのです。私たちも今日一日、神さまがちゃんと見守っていてくださることを想起してスタートしましょう。神さまの御業は必ず最良の時と仕方で実現しますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤの預言を真剣に受け止めていた人々は、あなたときちんと一対一で向き合っていました。あなたと個々に向き合うからこそ生き方を正しつつ、信仰の友との交わりに励まし合い、支え合っていました。神さま、私たちも同じ信仰をいただいています。どうぞ今日の一日、私たちも教会の皆もお守りください。離れていても祈り合える仲間たちに感謝し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(水) エレミヤ書13章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は象徴的預言の箇所です。1つは「麻の帯」の話、もう1つは「ぶどう酒の甕」の話です。神さまはエレミヤに麻の帯は買い求めさせ、挙句、長い間、岩の裂け目に放置するように言われます。そうすると当然、腐って役に立ちません。考えたら、むちゃくちゃ無駄な話です。私たちが同じことをさせられたら、「なんでこんな無駄なことを…」と問うでしょう。でも、それをこそ神さまは示したかった。神さまにとって、イスラエルは新品の衣服のように、在ることが嬉しかったはずです。でも、その帯がいつの間にか無くなり、見つかった時にはもはやダメになっていた。神さまは民に対して「私にとってお前たちは新品の帯のように嬉しい存在だったのにお前たちは私に聞き従わなかった」と嘆きます。もう1つは「ぶどう酒の甕」の話です。この「ぶどう酒」は神さまの怒りです。神さまはイスラエルの民に「お前たちは酒に泥酔して判断を見失ったように、私を捨て、己が欲(異教信仰)を神にした」と叱ります。どちらも厳しい指摘ですが、大事なことは16-18節で、神さまはそれでもエレミヤを通してこの民に、「聞け、耳を傾けよ、高ぶるな(驕るな)」と呼び掛け、「あなたたちの神に栄光を帰せよ」と促しているのです。神さまは憐み深い方、民が滅びることを「良し」とせず、悔い改めて立ち帰ることを願い続けてくださる。私たちも神さまの呼びかけをしっかりと聞き、招きに応え、誠実に生きる者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、あなたは民が滅びることを望まず、立ち帰って生きることを喜びます(エゼキエル33.11)。私たちも日々、驕ることなく、あなたと誠実に向き合って生きる者であれますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(木) エレミヤ書13章18-22節
一言メッセージ:今朝の箇所は「王と太后(王の母)」への言葉ですが、この箇所もエレミヤの弟子が記した言葉と考えられます。この「王と太后が捕囚で連れていかれる」は紀元前597年にヨヤキン王とその母、また国の主だった人々が第一回バビロン捕囚で連行される様を語った言葉です(捕囚は紀元前597年と紀元前587年の2回あった)。エレミヤ自身は王と太后の捕囚はエレミヤ22.24-30で非常に厳しく批判しています。だから今朝の憐みの書き方は、エレミヤ自身でなく弟子の文章だと考えられます。弟子の書き方がエレミヤと違うのは、弟子が読者に対して「人はどうして、悪い結果をもたらすと知りながら、悪を犯すのか」を問いたかったからでしょう。弟子はその答えも知っています。それは「驕り高ぶったから(13.15)」です。「自分が偉い、思惑を圧し通せる力を持っている」と勘違いした時、人は神さまを見失い、好き勝手をはじめるのでしょう。その結果が悲劇を招くと知っていても、遠い未来より手近な今日だけに盲目的になって。神学者D.ボンヘッファーは「我々がキリスト者であるということは、祈ることと、正義を行うことによって成り立つ」と書いています。祈ることは私たちに「神さまこそが絶対者」と確認させてくれます。そして「神さまの御心である正義を行って生きよう」と私たちを正してくれる。私たちは今日も祈って、正義を行ってまいりましょう。さて、今日から週の後半です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤの弟子は「人はどうして悪い結果が生じると知りながら、悪を犯すのか」と私たちに問います。それは「人が驕り高ぶるから」です。神さま、私たちはあなたに日々祈ります。私たちは祈りによって、自分たちが力ある者のように驕ることなく、神さまこそが絶対者であると確認し、謙虚になれます。どうぞ今日も祈って、あなたを覚えて一日を過ごせますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(金) エレミヤ書13章23-27節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤその人の言葉です。だから、かなり厳しい。エレミヤは「クシュ人(黒人の人たち)」が肌の色を変えられるか、「豹がまだらの皮を変えられるか」と問います。もちろん、変えることができません。同じように、エレミヤはイスラエルが神さまに逆らい、罪を犯し続けたから、「神の裁きは避け得ない。安易に『平和』と語るな(6.14との関連)」と語ります。でも、私は27節の最後の言葉に目を留めます。エレミヤは「災いだ、エルサレムよ。お前は清い者とはされない。いつまでそれが続くのか」と嘆きますが、「いつまでそれが続くのか」という言葉は裏返せば、「いつかは神さまによって清められる」という期待を含む言葉です。人間には肌の色も変えられない。でも、神さまに不可能は無い。エレミヤは神さまに期待するからこそ、裁きをも真摯に受け止めようとします。私たちも、神さまの救いを信じたのですから、神さまの導きを期待して、己が罪とも向き合い、悔い改めましょう。救いは必ず成れり、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは厳しくイスラエルを糾弾しますが、それはあなたが必ずいつか救ってくださると信じ、期待するからです。私たちも同じです。あなたの救いを喜び、整えと導きを信じるからこそ、己が罪とも向き合います。どうか、イエスさまに伴われているから、教会の仲間たちが共にいてくれるからこそ、勇気をもって罪とも向き合えますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(土) エレミヤ書14章1-12節
一言メッセージ:ここは干ばつによって苦しむ民と神の告知が書かれる箇所です。1-6節は干ばつによって人も動物も苦しむ様子が描かれます。7-9節で民は神さまに悔い改めます。7節「我々の罪が我々自身を告発しています」は、自分たちが神さまに背を向け、やりたい放題で生きてきたことを悔いているようです。しかし8節から彼らは言います。「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい、人を救い得ない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。」ここで言わんとしたことは「神さま、あなたは私たちの神ではないのか。私たちの街の中には神殿もあるではないか。ならば、どうしてあなたは無能を晒し、私たちを救わないのか。早く救うのが役割ではないか」です。彼らは悔い改めている風を装いながら、「義務を果たせ」と神さまに迫った。ゆえに10節で神さまは「彼らはさまようことを好み、足を慎もうとしない」と告げ、「民が自分たちで勝手に私から離れ、未だ私を見誤っている」と指摘します。ゆえに11-12節で神さまはエレミヤに、彼らのための執り成しの祈りを禁じました。今朝の言葉は私たちにも厳しく響きます。キリスト教信仰とは神さまとの交換条件ではありません。ご利益宗教は「これだけのものを神に献げたら神が報いてくれる」という応報的な信仰です。「これだけのことをしないと救われない」という点ではカルトすら、この思考法を利用します。しかし私たちの信じる神さまは、交換条件で私たちを救うのでなく、神さまの自由な意志と愛によって私たちを救い(旧約では律法で、新約ではイエスさまの十字架)、だからこそ応答を求める神さまです。私たちは信仰を交換条件と勘違いしてはいけません。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にて、イスラエルの民はあなたの救いを「義務」と言わんばかりに要求しました。でもあなたは彼らを「さまようことを好む」と指摘し、信仰を交換条件とはき違える過ちを明確にされました。神さま、私たちもまた信仰を「交渉」とはき違えず、あなたの救いと愛に感謝して日々を生きられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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2月5日~11日のみことば - 2023.02.05 Sun

寒波が過ぎ、少し暖かい日が続くようになってきました。
気づけば2月!!はやい~!!
そろそろと飛び始めるという花粉に気をつけつつ、2月もみことばを聞きながら元気に歩んでいきましょう♪

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5日(日) エレミヤ書8章4-13節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまが民の背信を指摘する箇所です。10節後半から12節のことばは6.13-15と一緒の言葉です。神さまは民が過ちを認め、立ち帰ることを願って呼び掛けます。目に留まることは2つです。1つは8-9節、「神さまのみことば(律法)を持っていても、その言葉に誠実に向き合い、生きようとしなければ意味が無い」です。以前も書きましたが、神学生時代、牧師であった祖父から「“しっている”と“している”は違う」と教えられました。いくら大事な事柄を「知っていて」も、行動していなければ意味がないのです。もう1つは5-6節、「いつまで背いているのか、偽りに固執し、立ち帰ることを拒み、正直に語ろうとせず、悔いることもない(過ちを認めてやり直そうとすること)」との指摘です。今年も大学講義は終わりましたが、学生たちに何度も語ったことは「人間は過ちを犯す」でした。聖書には様々な人物が描かれますが、一点の過ちも無く、清廉潔白な人間はいません。皆失敗し、後悔を抱え、無様で弱い姿が描かれています。でも神さまはそんな人間に「いつまで背いているのか」と問います。言い換えれば、「もう私に戻って来なさい」と促しておられるのです。人間は過ちを犯すが、そこから立ち返り、やり直すことができるのも人間であり、神さまがそう促してくださる。それが「悔い改め」です。プライドなど自分を縛り付けるものから解放される時、私たちはきっともっともっと自由に、神さまの祝福を感受できるでしょう。悔い改めは生き直しの第一歩です。今日は日曜日、礼拝に集いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは「知っている」と「している」の違い、そして「あなたは私たちを過ちから立ち直らせ、生き直させようとしてくださる」ことを分かち合いました。あなたの祝福と救いに感謝します。どうぞ私たち、プライドなど、あなたの救いの前に不要なものを1つずつ取り外し、あなたの与えてくださる自由を感受できますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(月) エレミヤ書8章14-23節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤと別の預言者の言葉です。詳細は分かりませんが、彼はエルサレム陥落の様子を経験し、嘆きます。14-15節では民の嘆きと恐怖、16-17節はバビロンの襲来、18節が預言者の嘆き、19節後半は神さまの怒り、20-23節は預言者の嘆きを描きます。22節はバビロンによって包囲されるエルサレムを横目に、隊商が薬や物資を積んでエジプトに向かう。預言者は「それが私たちのところに来てくれれば助かる命があるのに」と嘆き、23節ではとめどなく涙が流れることを告げています。今朝の箇所で私が目を留めるのは19節で神さまの怒りの言葉です。「なぜ彼らは偶像(願望)によって、異教の空しいものによって、わたしを怒らせるのか。」言い換えれば、「最も大事な本質を思い返せ」と読めます。世間では様々な価値あるものが宣伝されますが、私たちは本質から見ないと、思考が整理できません。分かりやすい事で言えば、選挙前に「関心があるテーマは何か?」というマスコミアンケートの記事を見ると、決まっていつも「経済」が上位に来て、「社会福祉」とか「国防」とか「教育」「子育て」が続き、かなり下部に「憲法」が入ったりします。いつも不思議なのです。「憲法」は、私たちの国が二度と戦争の惨禍を経験しないために「武力放棄の平和」を明記し、政府のコントロールを抑えるために「国民に主権」を与え、権力によって主権が侵害されないように「基本的人権の尊重」を保障しました。この原則に従って「教育」や「社会保障」の方針が作られているし、どれだけ経済が発展しても弱い人、困窮した人が見捨てられないために「文化的で最低限度の生活」が保障されている。つまり、憲法があってこそ生活が成り立っているのに、人々は憲法を軽んじるから、政府の横暴に指くわえて傍観してしまっている。本質を見失うと、人は事柄の順序を見失うのです。神さまはイスラエルの民に告げます。「あなたが信じ、従うべきは私である」と。私たち、本質を見失ってはいけません。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは「あなたを神と信じ、従うことが基本」と読みました。イスラエルの民はあなたを蔑ろにし、国を滅ぼしました。今の時代もあなたの御心と離れ、次の戦前になりかねない危惧を感じます。神さま、どうか私たちを励まし、あなたの平和を成り立たせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(火) エレミヤ書9章1-15節
一言メッセージ:今朝の箇所も南王国の堕落預言です。最近こういう厳しい記述が多いですが、大事な箇所なので丁寧に読みましょう。1-2節で神さまは南ユダを「裏切る者の集まり」と評します。事実、3-8節では民が互いを仲良しそうに装っていても、内実は互いを陥れようと策謀を巡らしていると指摘されます。それだけ互いへの信頼が崩壊しているのです。9-10節はそんな南王国の滅亡が語られます。今朝目に留めるのは11節です。「知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたか。」過去に学ぶように促す言葉です。歴史とは何のために学ぶのでしょうか。単に過去の出来事を知るためでしょうか。私は「未来を正しく生きるため」だと思います。聖書を読んでいて感じますが、時代は数千年違い、常識や文化は変化しても、人間の心情や行動は同じような失敗を繰り返しています。非常時の反応や調子に乗る姿など、「人間って変わらないんだな」と思うことばかりです。先日も書きましたが、人間は過ちを犯す生き物です。だから、過去に起きた過ちの例を知り、自分たちが同じ過ちを繰り返さないために学び、いかに対応すれば正しくやり直せるか、を模索することが歴史を学ぶ意義です。預言書に厳しい指摘の言葉が続いていますが、私たちは厳しい指摘を繰り返し読みながら、自分たちも過ちを繰り返さないために、また過ちを犯したならばどうやり直したらいいか、聖書に聞いていきましょう。ちなみに11節の問いかけの答えはちゃんと今日の箇所の中に記されています。どうぞご探してみてくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。最近、エレミヤの厳しい預言が続いてます。若干げんなりもしますが、それは、時代が変われども人間が過ちを繰り返す存在だと知らせ、自分からの戒めるために、また過ちからやり直すための示唆なのでしょう。どうぞ今日もみことばに聞き、自分を見返して過ごせますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(水) エレミヤ書9章16-25節
一言メッセージ:今朝の箇所16-21節は累々と並ぶ南ユダの民の死の光景が擬人化されて描かれます。心痛む内容ですが、22-25節は後代の付加ですが、ここは非常にすごいことが記されます。22-23節「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るが良い、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」「誇る者は神を知ることを誇れ」と、25節終わりの言葉「心に割礼のないイスラエルの家を罰する」との言葉をあわせて考えてみましょう。これは当時のユダヤ人にとってとんでもない記述です。2つの言葉は「心に割礼(神さまへの誠実な生き方)があり、神を知ることを人生の誇りとして生きる者を神は喜ぶ」と示します。現代のクリスチャンの私たちには「そうだね」ですが、古代のユダヤ人にすれば、「ユダヤ民族だからこそ神は救ってくださる」という民族理解でしたから、「民族や律法の遵守が決定的でない」という記述は衝撃だったことでしょう。おそらく、著者自身にも葛藤があったのか、25節最後から2行目には「割礼の無い諸民族をことごとく罰し」と、割礼の必要も書き添えられています。でもここに新約聖書のパウロに繋がる、福音の広がりの発芽を感じます。神さまの御心は民族主義をも超えていく。それが民族主義の真只中で示されたのでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は新約聖書に、また私たちの今の信仰に繋がるようなみことばでした。あなたの救いは古代ユダヤ人の「民族的な選び」という固定概念を超え、「割礼」という儀式の必要性をも超え、全ての人々に向けて広げられてきました。そんな過程を今日、私たちは読みました。神さま、あなたの救いはいかなる人にも与えられています。どうぞ、一人でも多くの人があなたの救いを知り、「主を知ること」を誇り、信じることができますように。私たちを救うべく十字架で死なれたイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(木) エレミヤ書10章1-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は、まことの神である聖書の神さまと、人が作った像に過ぎない異民族の神を比較する言葉です。2-5節は神自身の語り掛け、6-15節はそれを聞いた預言者の語りという構成です。この「偶像の神は所詮、人間が作った像に過ぎず、何かを叶える力などない」という表現はイザヤ書でも度々取り上げられました。繰り返されるのは、それだけ、人間が偶像を拝むことを止めないからです。なぜ人は偶像を拝むのか。それは、自分の願望を神の御心だと正当化するためです。それに対して、今朝の箇所でも書かれますが、神さまは「真理の神、命の神、永遠を支配する神(10節)」です。真理はエメットという言葉で、ヘブライ語アルファベット最初のアレフ、真ん中のメム、最後のタブを組み合わせです。その語源は「初めから、途中も、終わりまで一貫して変わらないもの」です。つまり「真理の神、命の神、永遠を支配する神」とは「天地創造の初めから神の国の完成に至るまで、全ての時間において変わらぬ神であり、生きとし生けるすべての命を治める方」という意味です。そこでは、人間が自分の都合のため神さまをコントロールすることなど不可能で、逆にただ、神さまの愛と導きの中で、私たちは祝福をいただいて生きていることが描かれます。ここが大事です。私たちの都合のために神を作るのが偶像であり、神さまの愛の中で生かされていることを喜び生きることが信仰です。私たちは今日も信仰者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は偶像と真の神さまの違いを記しました。神さま、私たちは弱く、いい加減ですから、時に自分の願望を正当化するために偶像を拝みます。でも、真の神さまはあなただけです。どうぞ私たちがいつもあなたと誠実に向き合い、生きるものであれますように。また私たちの姿を通して、周囲の人々があなたを真の神と知ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(金) エレミヤ書10章17-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は5つの断片を繋いだ箇所です。17-18節の断片は神さまが南王国の滅亡を語る言葉です。目を惹くのは18節で神さまが「見よ、今度こそ、わたしはこの地の住民を投げ出す」と語った部分です。「今度こそ」と語ったのは、神さまはここに至るまで何度も何度も民に「過ちを認め、悔い改めるように」と促してきたからです。神さまの愛情深さを感じます。19-20節の断片は、エレミヤが祖国滅亡に際して、「わたしは傷を負う…」と嘆きながら、「しかしこれは私の病、わたしはこれに耐えよう」と覚悟する場面です。エレミヤはこれまで神さまの促しに従って何度も何度も民に悔い改めを求めてきました。でも民はエレミヤの言葉を拒絶してきました。であれば、エレミヤは「だから私は言っただろうが。この滅びはお前たちの責任であって、私は知らない」と自分だけエルサレムから退避したって良かったかもしれない。でもエレミヤはそうではなく「これは私の病、わたしはこれに耐えよう」と民のただ中に踏みとどまると告げています。預言者は神さまの「インマヌエル(神、我らと共にいます)」を体現しているのです。21-22節の断片は指導者が愚かであったためバビロンが襲来してくるとの預言です。23-24節はまたエレミヤの神さまへの祈りです。とても興味深いのは24節で「主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わたしが無に帰することがないように」と願います。エレミヤは自分たちの罪に対してはきちんと向き合わねばならないと理解しています。でも同時に、「罪の向き合いが神さまの救いに至ることですよね?」と確認しています。神さまを信頼するがゆえに裁きを受け、神さまを信頼するがゆえに救いを期待する。それも信仰です。25-26節の断片はおそらくエレミヤの後代の言葉です。私たちは今朝の箇所に「民と共に罪を自覚し、その裁きを受けつつ、神さまの救いを願い続ける」エレミヤの信仰を見出しました。いつも、どんな時も、神さまの救いを期待し続ける、そんな信仰を私たちも持ちたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエレミヤの信仰を見出しました。エレミヤはあなたを深く信頼するがゆえに、己の罪とも向き合い、裁きの先の救いを期待しました。神さま、私たちもあなたに信頼し、今日も一日をスタートします。どうぞ、困難には導きを、罪には自覚を、悔い改めにはそれに見合った行動を、そしてあなたの整えをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(土・休) エレミヤ書11章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、ここ最近と同様、南ユダへの裁きの言葉です。今朝は少し視点を変えて、みことばを読みます。14節で神さまがエレミヤに語る「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない」という言葉は厳しいですが、神さまがそう言われる背景には、何度も何度も悔い改めを求めてきたのに一向に聞かず、異教礼拝に走り、やりたい放題に神さまを蔑ろにしてきた民にしっかりと罪を受け止めさせ、悔い改めて、正しく生き直させるために、あえて痛みを経験させる神さまの意図があるからでしょう。実際、南ユダは滅亡し、裁きを経て、神さまによるバビロン捕囚という解放を経験し、神さまの御心に立ち帰りました。では、私たちの国はどうか?私たちの国は77年前に敗戦し、何を学んだのでしょう。私は「日本の敗戦は神の御心だ」なんてことは想いません。でも、戦前の日本が神さまの御心から離れていたことを考えると、私たちは神さまの平和実現のため、敗戦から学び、決して忘れてはならないことがあるはずなのです。今朝は2月11日、「建国記念の日」です(「建国記念日」ではない)。元々は紀元節という日本の神話に基づく日でしたが、戦前は紀元節から派生した「天皇は神であり、国の中心であり、日本は神国だ」という理解が強要されたため、日本は侵略を正当化し、とんでもない戦争の惨禍を引き起こしました。だからキリスト教会は今日を「信教の自由を守る日」と銘打って、各地で平和集会を行います(筑後キリスト者平和の会も10:00から荒木教会を会場に、北九州の岩崎牧師を講師にカルト問題を扱う集会を行うそうです。良かったら是非)。この日に私たちが確認したいことは「国は国民をコントロールするために一定の価値観を強要してくる。その価値観に沿わない者を『非国民』だの『危険思想』だと断じて、排斥しようとしてくる。そうさせないために、憲法は個々人の尊厳と思想信条の自由を保障した」です。私たちはマインドコントロールするカルトも国も、その過ちを正しく見抜き、神さまの信仰に立って、個々の尊厳を守り抜きましょう。それが敗戦を通して学んだ1つ真理です。今日は「信教の自由を守る日」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日は2月11日、「信教の自由を守る日」です。日本は敗戦で国の暴走を終えることができました。そのために多大な命を失い、奪い、生活を崩壊させ、自国他国の大勢の人の未来を奪いました。神さま、二度と同じ過ちを繰り返さないために私たちは歴史に学び、未来を守るべく、あなたに従います。どうぞ私たちに御心と平和の確かなヴィジョンをお示しください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(日) エレミヤ書11章18-22節
一言メッセージ:エレミヤ11.18-12.6は「エレミヤの訴え」という一つのまとまった箇所ですが、非常に大事な箇所なので、二日に分けて読みます。今朝は11.18-22です。ここでエレミヤは「自分は無垢な小羊のように何も知らず、屠り場に連れていかれようとしていた(19節)」と素直に嘆いています。具体的に何を指すかと言うと、21節にあるようにアナトトの人々がエレミヤを脅し、殺害しようとしたことです。非常にショックなことはアナトトとはエレミヤの故郷です。彼にとっては昔から知っている故郷の仲間たちなのに、彼らはエレミヤを排除しようとします。理由は、エレミヤの預言が祖国滅亡であったため、アナトトの人たちも南ユダの中で白眼視されていたことと、バビロンによる祖国滅亡が実現するまで期間があるため、エレミヤの活動初期は「あいつは人騒がせなだけで、嘘偽りを語る人間だ」と嘲られていて、それが故郷の恥でもあったのでしょう。エレミヤは仲間と思っていた故郷の人々に命を狙われ、20節で神さまに祈ります。「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め(全てご存じであること)、正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。」このエレミヤの言葉は激しいようですが、大事な部分は最後、「わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします」と語ったことです。神さまに判断を委ねたことです。明日、この続きを読みますが、今朝私たちは私たちの腹の奥底までちゃんと知っておられる神さまに、私たちの全てを吐露しましょう。神さまはちゃんと受け止めてくださいます。今日は日曜日、神さまと向き合い、礼拝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは故郷の人々に命を狙われ、強いショックを受けました。信じていたし、預言者として心身ともに苦しんでいたからこそ仲間たちの交わりに心身ともに元気をもらいたいと思っていたのに、故郷は彼を陥れようとしました。でも神さま、エレミヤは自ら復讐しようとしません。あなたにご判断を任せました。それはあなたこそが全てを理解し、最善を行ってくださるからです。神さま、私たちもあなたに全てをお委ねします。私たちの悔しさも痛みも、素直さも誠実さも、一方で醜さも弱さも全て受け止め、最善を実現してください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(月) エレミヤ書12章1-6節
一言メッセージ:今朝は昨日の11.18からの続きです。今朝の箇所でエレミヤは神さまに問いかけます。1-2節「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです。」ここには深く傷つき、もう何もかも嫌になっている人間エレミヤの姿が描かれます。正しいのは神さまであることは分かっている。でも、でも悔しい。精いっぱい一生懸命に働き、努力し、忍耐し、国を滅びないように、踏みとどまれるようにと活動しているのに、そのすべてが無駄に感じられ、自分の無力さに苛まれている。加えて、昨日の箇所では信じていた故郷の人々にさえ裏切られた。4節で「いつまでこの地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか(いつまで南ユダの民は荒れ果てたままなのか)」と呻き、5-6節では「徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか(故郷の者たちにすら裏切られるならば、どうして首都エルサレムの民に悔い改めさせることなどできようか)」と嘆きます。エレミヤの視点で物語を読むと、私たちは彼に同情しますし、「そうだ、私たちが精いっぱいやったって無理なこと、無駄なことが多いのだ」と共感します。でも神さまの視点で読んでください。神さまはこれだけ悲しみ、傷つき、呻き、嘆き、自信を失ったエレミヤの訴えを黙って受け止めているのです。私は双方の視点に慰めを見出します。私たちはエレミヤのように率直に嘆く時もあっていいし、でも、その時にも私たちを受け止めてくださっている神さまに安心していいのです。エレミヤの訴えはどうなるのか。また続けて、共にみことばを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、エレミヤはくたびれ切り、自信を失い、あなたに不平不満をぶちまけて、呻きました。神さま、その姿は私たちも同じです。精いっぱい生きているつもりなのに、どうしてこんなにうまくいかないのか…と嘆きたい時もあります。でも、だからこそ私たちはエレミヤの姿に「一緒だ、それでもいいんだ」との慰めを見出しますし、またそんなエレミヤをも黙って受け止めてくださるあなたに安心も見出します。神さま、どうぞ私たちも受け止めてください。そして、どうぞあなたの最善へと整え、導いてください。救い主イエスさまの御名で、安心して祈ります。アーメン。

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1月29日~2月4日のみことば - 2023.01.29 Sun

大寒波が過ぎ、まだまだ寒くはありますが、少しほっとしています。
久留米でも2~3センチくらい雪が積もり、幼児園の子どもたちが一生懸命雪を集めて小さな雪だるまや雪ウサギを作っていました。大人はあまり積もらなくてほっとしましたが、子どもたちにとっては物足りない量だったようですね。
心配して対策した外の水道も破裂したりすることもなく済みました。
皆さんのところは寒波の被害は大丈夫だったでしょうか?
寒さは今しばらく続きますが、少しずつ寒さが和らいでいくといいなと思います。

そういえば雪の降った日は、教会の受験生の受験日でした。
雪のために時間が繰り下げになったようですが、受験生の皆さんは天気もいつもとは違う緊張感でチェックしているんだろうなと思いました。
長い人は3月ぎりぎりまで続く受験シーズン。
新しい歩みを決める大事なとき。
今年は教会の中にも数名受験生がいますから、彼・彼女らをはじめ受験生の皆さんがベストを尽くせるようにお祈りしています。
そして、結果にかかわらず、1人ひとりの人生を神さまが豊かに導いておられることを知って新しい歩みを始めることができますようにとも、お祈りしたいと思います。

まだまだ寒い日が続きます。皆さん、どうぞあたたかくしてお過ごしくださいね。
それでは、今週のみことばをどうぞ!

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1月29日(日) エレミヤ書6章1-12節
一言メッセージ:1-9節はバビロン襲来預言です。3-5節ではエルサレムを包囲しようとするバビロン兵の言葉が記されています。それほどにバビロン軍は差し迫っています。6-9節では神さまの警告が語られてます。けれどエルサレムの民は誰も預言を聞かず、エレミヤの深い孤独が嘆かれるのが10-12節です。今朝、私が注目したいのは11節です。エレミヤは誰も警告を聞こうとしないことに怒り、疲れ果てています。そして「通りにいる幼子、若者の集い」に語り掛けます。ここで言われる「幼子、若者」とはどういう意味か。それは「自分たちの未来の選択権を持たない者」です。自分たちの未来が極めて危うい状況なのに、大人たちが真剣に神さまの御心を模索し、決断しないため、犠牲になる幼子や若者たちです。2015年の夏、私は度々、西鉄久留米駅前で安保関連法(戦争法)反対署名を呼び掛けていました。当時、長男が4歳、次男が1歳。従来の憲法の自衛権理解を変え、「集団的自衛権の行使容認」を閣議決定で押し通した安倍政権に危機感を持ち、「子どもたちの未来を守らないと!」と街頭に立っていました。ある日、中学生の子たちが書名しながら語った言葉が衝撃でした。「どうか止めてください。僕らの未来のことなのに、僕らには決定権(選挙権)が無いから。」その年の9月19日未明、国会を取り巻く何万人ものデモの声を聞きながら、安倍政権はこの法案を強行採決しました。私は今でも子どもたちに申し訳ないし、今からでも安倍政権が強行した様々な法律を廃止したい。エレミヤも同じ気持ちだったでしょう。でも、ここからが私たちとエレミヤの違いです。エレミヤの預言は後に実現しました。でも私たちはまだ未来を変えることができる。そのために、今日もみことばに聞きましょう。今日は日曜日、礼拝の時です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは祖国滅亡を預言しますが、大人は聞きませんでした。神さま、私たちはエレミヤの時代と違い、子どもたち、孫たちの未来を左右する選択肢を持っています。どうか、あなたの示す平和のための決断をさせ、社会を整えさせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(月) エレミヤ書6章13-21節
一言メッセージ:今朝の箇所後半は神さまが南ユダ滅亡を決断した言葉です。でも今朝私たちが注目したいのは前半13-16節です。13-15節は神さまが南王国をどう見ていたかを記します。「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは我が民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、わたしが彼らを罰するとき、彼らはつまずく。」神さまは誰もかれもが「利益」優先で生きていること、神さまの御心を模索する役割の預言者や祭司すら堕落し、彼らは耳に痛いエレミヤのような預言は聞かず、安直に「大丈夫、私たちの国はアブラハム以来の救いの約束をいただいているから、滅びるわけがない」と無責任に吹聴していること、さらに残念なことに、堕落しているのに未だに「自分たちが敬虔である」と勘違いしていることを指摘します。でも、それでも16節で神さまは民に語ります。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」「さまざまな道」が口語訳聖書では「分かれ道」です。未来を分かつ分岐点です。神さまはまだ南王国の民を諦めていません。彼らが悔い改めることを信じてくださる。それがこの呼びかけです。残念ながら16節の終わりで、民は「(私たちは)そこを歩むことをしない」と神さまを拒絶し、だから神さまは南王国滅亡を決断します。私は今「私たちも歴史の分岐点に立っている」と感じます。人の命や尊厳が踏みにじられ、仮想敵国への不安が煽られ、戦争できる国へとどんどん戻されていく今、私たちの国は戦前に舞い戻るか、戦争の教訓を覚えて戦後を続けていけるか、大きな分岐点です。子どもたち、孫たちの未来のため、私たちは御心に聞いていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが南王国をそれでも諦めず、最後まで語り掛けてくださった箇所を読みました。神さま、今の日本も「戦前に舞い戻るか、戦後に踏みとどまるか」の分岐点にいます。二度と愚かな過ちに立ち戻らないために、あなたの御心である平和実現を模索させてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(火) エレミヤ書6章22-26節
一言メッセージ:今朝の箇所は「とうとう国を滅ぼす敵が攻めてきた」という預言です。印象的なのは22-23節や25-26節で、敵が突如としてやってきたように書かれていることです。これはおそらく、エルサレムの人々の心境です。「自分たちの国はアブラハム以来、神の救いが約束された国だから亡びるわけがない」と思っていたのに、強大な敵に襲われてパニックに陥った(24節)。ここで目に留まるのはエレミヤがこの出来事を「産婦のようにもだえる」と表現したことです。「鼻からスイカが出るような」と言いますが、頭でのイメージと実際は大きくかけ離れていて、立ち会い出産時、妻の痛がり様に私の心が折れました。エレミヤは祖国滅亡を出産に譬えました。そこには「出産だから、痛みの先に大きな喜びがある、祖国滅亡の先に神さまの祝福がある」と示したのかもしれません。その信仰は私たちも同じです。神さまは憐み深い方であり、今は困難に直面していても、その先に必ず神さまの祝福の未来がある。だから私たちも神さまを信じるがゆえに、困難や課題、過去の後悔にも向き合うことができる。信じるからこそ悔い改めることができる。信じることは、新たに生かされて生きることなのです。さぁ、今日も生かされてスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは憐み深い方です。私たちを見捨てず、困難の先に祝福を与えてくださる方です。どうぞ私たちを日々強め、あなたを信じて一歩ずつ御心を模索して生きる者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2月1日(水) エレミヤ書6章27-29節
一言メッセージ:神さまはエレミヤに「私はあなたをわが民の中に、金を試す者として立てた(27節)」と語ります。「金を試す者」とは、金を溶かして不純物を取り除く職人です。神さまはエレミヤを、イスラエルの中から神さまに背く風潮、言動を取り除くべく、バビロンによる滅亡時にも民にみことばを語り続ける者として立てたのです。この言葉はとても重たい。金を溶かすためには、職人自身も高熱を発する炉の傍にいなければならないし、金の純度をあげるために工程を何度も何度も行わねばなりません。とても辛い作業です。きっと神さまはエレミヤに「お前にはたくさん苦労をかける」とも告げたのです。でも同時に思い起こしたいのは、1章の召命物語です。神さまはエレミヤを「母の胎内に造る前から知っていた」と語り、エレミヤの弱さも至らぬところも、強い部分も信頼できる部分も、全部を知ったうえでエレミヤを預言者に選びだしました。だからエレミヤが辛い経験をしながらも「金を試すことができる」と確信しておられたのです。私たちは弱いですから、目の前の辛さに心奪われて、「神さまは私にできもしない無茶をさせる」と思い込む。でもみことばをそんな私たちを励まし、「わたしが共にいて守り導く。あなたは必ず乗り越えられる」と後押ししてくれます。私たちも、自分なりに神さまの信頼に応える「金を試す者」」でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは弱いから、時に自分の手に負えないと思うと「できないのに…」と嘆きたくなります。でもあなたは私たちをちゃんと理解し、乗り越えられるから試練を与えられます。神さま、どうか困難の中でもあなたの信頼を思い起こし、立ち向かえる私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(木) エレミヤ書7章1-15節
一言メッセージ:今朝はエルサレム神殿での預言です。時代状況としては、最後の敬虔な王ヨシヤがエジプトとの戦いで戦死し、王位を継いだ息子ヨアハズはエジプト王に廃位され、エジプトに都合のよい王としてヨヤキムが即位した時代です。激動の状況変化の中でも、神殿には大勢の人々が礼拝にやってきます。エレミヤはその人々に今朝のことばを語りました。「皆、主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの道(生き方)と行いを正せ。」具体的には「互いの間に正義を行うこと。寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招かないこと(5-6節)」、「盗まず、殺さず、偽って誓わず(9節)」、バアルのように偽りの神に走らないこと、です。非常に印象的な箇所は4節です。エレミヤは「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と語りました。一見、「主の神殿」は誠実な言葉のようですが、聖書の神さまと他の神々への礼拝とが混同されていた状況を考えると、「あなたがたが本当に向き合って生きるべきは他の神々でも、建物(神殿)でもなく、ただただ神御自身である」です。私たちも聖書の神さまその方と真摯に向き合いましょう。己が都合・願望を神さまと混同せず、聖書の神さまと他の信仰を量りにかけるようなことはせず生きるとき、私たちは神さまの御手の中で整えられながら生きていることを実感できるでしょう。今日も一日、スタートです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは神殿に集う人々に向かって、「唯一の神さまと真摯に向き合い、誠実に生きよ」と促しました。ものすごく基本ですが、この基本を忘れて生活すると私たちは道を誤り、自分の都合や願望、周囲の人々の言動や力をあなたに並ぶほどに強大なものと勘違いしています。今日も私たちは、あなたと誠実に向き合って過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(金) エレミヤ書7章16-28節
一言メッセージ:今朝の箇所は私に衝撃です。神さまはエレミヤに対して「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのための嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない」と厳しく語ります。もちろん、それが神さまの本当に望む事柄ではないでしょう。でも、この言葉は「民はそこまで神さまを怒らせた」ことを示しています。理由は「天の女王(18節)」への礼拝がずっと行われていることです。「天の女王」とはバビロンやアッシリアで信仰されていた女神で、エレミヤが語った数十年前、南ユダがマナセ王の時代にアッシリアの影響下にあった時期に入り込んだ宗教です。今朝の箇所を読んでいて感じることですが、もしかしたら民は礼拝を、礼拝というより風習、行事的に考えていたかもしれません。事実、神さまは21-23節で生贄の肉が云々を語ります。それは「神さまに従うには、こういう儀式的な事柄を行っておけば大丈夫」とでも考える民への警告で、だから神さまは23節で出エジプト時からずっと言い続けてきた神さまの促しである、「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」を改めて語りました。この記事を私たちはどう見ましょうか。私は伝統、風習、形式の危険性を感じます。伝統、風習は内実を考えずに形式だけでも行えます。でも、それを当たり前にすると、神さまを第一とする生活が崩れて行く危険も多分にあるのです。以前お話ししましたが、10数年前、久留米で若手が何人も執事を担っていると聞いた他教会の年輩の方から「久留米はどうやって若手が執事を担うようになったか」と尋ねられました。そこで、執事を「執事任期後の2年は被選挙権がない」という制度と、「教会の伝統の出発点は『その時代、その状況下で神さまに従うにはどうすればいいか』と祈って検討した結果です。であれば、大事なことは形式の引き継ぎでなく、『今の時代、今の状況下で、今度はどう神さまに従うのか』と改めて考えることであり、言わば、祈りの姿勢を引き継ぐことこそが伝統と考える」と伝えました。すると彼は顔色を変え、「形にこそ祈りは宿るんだ」と怒鳴って離れていきました。その後、その教会では30代から50代の方々が次々、教会を離れていきました。私たちは形式以前に本質を忘れてはなりません。神さまは生きておられ、今私たちに何を示されるか、日々模索して過ごしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、あなたは今も生きて、私たちに働きかけてくださる方です。その示唆を知るべく、私たちは日々みことばを読み、自分の人生と重ねて、示唆を模索していきます。形式や伝道、風習とも適切に向き合わせてください。私たちを祝福し、導き、イキイキと生かしてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(土) エレミヤ書7章29節-8章3節
一言メッセージ:昨日は「伝統・風習が行き過ぎて、神さまの御心と大きくかけ離れる危険性」を分かち合いました。今朝の箇所はその最たる指摘の箇所です。人身御供、幼児犠牲の風習です。古代世界では多かったそうですが、追い詰められた時の願掛けとして、我が子を神への献げ物として殺害する風習です。神さまの御心とまったくかけ離れた迷信なのに、歴代誌下28.3や33.6では時の王アハズとかマナセが自分の子に「火の中を通らせた(焼き殺した)」と記述され、列王記下16.3でもマナセの行動が記されています。神さまは31節で「このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない」と断言します。神さまは私たちに命を与えてくださる方です。にも拘わらず、ピンチに追い込まれた人間は「私がどれだけ犠牲を払ったかで、神が動いてくれる」と思い込み、迷信に走る。私たちを救うための犠牲はイエス・キリストの十字架のみ、です。私たちは伝統や風習、迷信、己が不安に流されて暴走しないように、何よりも神さまの御心をこそ日々求めましょう。7.23「わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所であなたは迷信的風習にケリをつけてくださいました。人間は愚かで、時に神さまと交渉するかのように「大きな犠牲を払えば、神が動いてくれるに違いない」と考えます。その考えが先ず愚かだと私たちは知らされます。あなたの愛を素直に信じ、導きに期待し、御心を模索し、誠実に生きる、そんな生き方をさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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1月22日~28日のみことば - 2023.01.21 Sat

1月も後半になりました。
お正月からしばらくは1月の割にぽかぽかとした陽気でしたが、この1週間は久しぶりの雨模様。
来週は大寒波により、久留米でも最低気温-6度の予報が出ていて、外の水道の対策をしなければ!と今からひやひやしています。
皆さんも、どうぞ水道や車、そして風邪対策をしてお過ごしくださいね。

そういえば、教会の礼拝堂のエアコンが新しくなる前は、冬に会堂が寒すぎて耐えられず、しばらく多目的ホールで礼拝をした年もありました。
(その時の記事は ⇒こちら
そう考えると、やはり新しいエアコンは優秀!
礼拝堂でちゃんと礼拝できることもありがたいことです。

今はエアコンがきいて温かいですが、一応礼拝堂にはひざ掛けなども準備していますから、どうぞ安心してお越しくださいね。

新しい1週間も寒さに負けず、体も心も温かく歩んでいきましょう♪
心のぽかぽかには今週のみ言葉をどうぞ!!

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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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22日(日) エレミヤ書4章5-8節
一言メッセージ:エレミヤは「北からの敵」が襲来することを預言します。が、ここでいう「北からの敵」とは誰を指すのでしょうか。歴史的に考えると、記述の時代は北イスラエル王国が既にアッシリアによって滅ぼされて100年程度が経ちます。そのアッシリアも今や新興国であるバビロンやメディアによって劣勢となり、エレミヤのいる南ユダ王国はアッシリアの圧迫が軽減化したため、かつての北イスラエル王国領土を切り取り、勢力拡大している時代です。そんなときに「北からの敵」として想定されるのは、後に南王国を滅ぼすバビロンと考えるのは時期尚早です。おそらくエレミヤが警告しているのはスキタイ人の侵攻です。スキタイ人はアッシリア時代の末期に古代中近東地域で猛威を振るった騎馬民族です。結果としてスキタイ人は南ユダ王国を侵略してきませんでしたので、エレミヤの預言は外れたように見えます。だから人々はエレミヤを「人騒がせなだけで、あたりもしない預言を振りかざす奴」と考えたでしょう。しかし、今朝注目したいのは8節、エレミヤはこの預言の中で「主の激しい怒り」を感じ取っています。人は自分たちの目先の事柄、予感できる出来事で物事を判断しようとします。でも預言者は目先でなく、事柄の根底で神さまの御心を感じ取り、行動しています。今日から数日、「北からの敵」の預言を読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤの預言は結果的にはこの時には実現されませんでした。だから人々はエレミヤを軽んじたでしょう。でも神さま、あなたの御心は目先の出来事への対処ではなく、根底でイスラエルの民の神さまへの向き合い方を見抜いておられました。神さま、私たちも目先の出来事に翻弄され過ぎず、あなたの御心から出来事を捉えようとできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(月) エレミヤ書4章9-22節
一言メッセージ:昨日からの「北からの敵」という預言の続きです。今朝の箇所で神さまはエレミヤに「その日が来れば(9節)」と語ります。国の主だった指導者たちが一斉に心折れ、「神に欺かれた。わたしたちは『平和が訪れる』と約束されていたのに、今や喉元に剣を突き付けられている」と嘆き泣くのが「その日」です。具体的に何を指しているのか。考えられるのは、南王国で最後の敬虔な王ヨシヤの戦死でしょう。時代状況を言いますと、アッシリアを滅ぼしたバビロンは広大な支配地域を得ようとします。それを阻止するべく、アッシリアの残党と組み、バビロンに対抗しようとしたのがエジプトでした。エジプトは大軍団を北上させ、イスラエルを経由してバビロン軍と戦おうとします。北上の最中、エジプト軍に挑んだヨシヤ王はあっさりと戦死してしまうのです。この出来事は19節を見ると、エレミヤ自身にとっても非常にショックな出来事でした。彼もまた嘆き悲しんでいます。しかし同時に、エレミヤは冷静にヨシヤ王無き後のイスラエルがどう対応すべきかも語ります。14節「エルサレムよ、あなたの心の悪を洗い去って救われよ」です。激動が予見される状況の中でも、ヨシヤ王が進めていたように宗教・政治改革を続け、神さまに誠実に向き合う国づくりを呼び掛けます。それは、大国アッシリアすら状況変化によって存亡する、人の世の儚さでなく、神さまという永遠の主による安定と守りを得るための、具体的な提言でした。しかし、大国の威光の陰で生き残ろうと画策する指導者層はエレミヤの言葉に耳を傾けません。エレミヤは22節でそんな彼らを嘆くのです。「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない。」今朝はどうぞもう一箇所、箴言3.5-6を開いてお祈りください。正しい分別を得るための諭しの箇所ですから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。昨日から「北からの敵」の箇所を読んでいます。エレミヤはヨシヤ王の死後、混乱する南王国にて「自分の分別に頼らず、神の御心を尋ね求めよ」と呼びかけました。しかし、目先の算段で動く指導者たちは、あなたの御心ではなく、政治外交で生き残ろうと画策し、挙句、後に国を滅ぼしていきます。神さま、真の知恵はあなたから与えられるものです。どうぞ私たちは冷静に、真摯に、あなたの御心を模索し、物事の決断を行うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(火) エレミヤ書4章23―31節
一言メッセージ:今朝は「北からの敵」の最後の部分です。ヨシヤ王の死後、怖じ惑う南王国は生き残りをかけて南の大国エジプトにすり寄ります(30節で「眼の縁を黒く塗り」はエジプト女性の化粧)。南王国の指導者は、ヨシヤ王の戦死後、ヨシヤ王を殺害したエジプトの庇護の下で、今度はバビロンから保護してもらおうとする画策したのです。しかし、この目先の対応は後にさらなる大問題へと発展します。ヨシヤ王を戦死させ、勢いにのって北上したはずのエジプト軍は、バビロン軍との戦闘に敗北し、エジプトに逃げ帰ります。その結果、南王国は後に、エジプトの対バビロン防衛線の最前線に組み込まれ、滅亡していくのです。エレミヤはそんな未来をも見越し、31節で嘆きました。何度も語ってきましたが、私たちは目先の出来事で右往左往してはなりません。また、私たち自身も小手先の小細工で物事を切り抜けようとしない方がいい。大事なことは、私たちを愛し、守り、導いてくださる神さまの御心を模索し、信じ、従うことです。エレミヤが語った4章の「北からの敵」預言はエレミヤ書を読み進める中で、少しずつ現実になってきます。私たちはその時、民の混乱する姿を冷静に反面教師とし、自分たち自身の在り方を考えていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。人は時に「私たちは知恵があり、未来を見越して適切に行動できる」と驕ります。でも神さま、本当の知恵はあなたにこそあります。私たちはあなたの知恵と示唆をいただきながら生きていきたいと願います。どうぞ、いつもみことばを通して、あなたの示唆をお示しください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(水) エレミヤ書5章1-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は「エルサレムの堕落」が指摘される箇所です。当時、エレミヤはまだ存命中のヨシヤ王の改革に賛同し、推進しようとしていました。では、ヨシヤ王の改革とはいかなるものだったか。それは、神殿の修理中、壁の中から申命記の巻き物が発見されたことに端を発します。ヨシヤ王はその申命記を神さまからの託宣と受け取り、申命記に沿って改革しました。その最も中心的な内容は申命記6.4-5、現在の久留米教会の年間聖句でも取り上げられる「最も重要な掟」の第一です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」神さまを唯一の主と仰ぎ、信じ、従うこと、それがヨシヤ王の改革の中心でした。だから、エレミヤの言葉は神さまを唯一の主としない民に対しての厳しい指摘が続きます。今朝、注目したい言葉は2節です。「『主は生きておられる』と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。」これは「だったら誓わなければいい」と言いたいのではありません。「神さまを唯一の主と受け止めないから、あなたたちは自分を正当化するために神さまを利用する」と批判したのです。神さまは私たちの都合のためにいる存在ではありません。私たちを愛し、導いてくださる方だからこそ、私たちはきちんと神さまと向き合うのです。神さまに従うこと無しに「救ってくださる方」と気軽に考えると、神さまを見誤ります。それは神さまを信じているのでなく、己が願望を正当化しているだけの生き方ですから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はとても重たかったです。あなたを唯一の主と受け止めないと、人は身勝手にあなたを自己正当化のための道具にしてしまいます。あなたを、私たちの都合を叶えるためのシステムとしか受けとめなくなります。その結果の堕落をエレミヤは痛烈に指摘しました。どうぞ今朝、私たちはみことばに諭され、自分を振り返ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(木) エレミヤ書5章10-14節
一言メッセージ:今朝も「エルサレムの堕落」の箇所です。昨日に続き、12-14節も厳しい指摘です。神さまは「北イスラエルも南ユダもどちらも自分を欺いた」と語ります。彼らが「主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずがない。剣も飢饉も起こりはしない。預言者の言葉はむなしくなる。『このようなことが起こる』と言っても実現はしない」と語るからです。だから14節、神さまは語ります。「彼らがこのような言葉を口にするからには、見よ、わたしはわたしの言葉をあなた(エレミヤ)の口に授ける。それは火となり、この民を薪(たきぎ)とし、それを焼き尽くす。」神さまは彼らに訓戒的に罰を与えると宣言される。あくまでも「訓戒的」な罰です。子育てを想像しましょう。子どものわがままを全て叶えていくと、子どもはどう育ちますか?きっと「親は自分の願望を叶えるだけの存在。口では厳しく言っても、結局は自分の願いを叶えるんだ」とつけあがり、鼻もちならないワガママな、自己主張だけの人間になるでしょう。そうさせないために、親は愛するからこそ「ダメなものはダメ」としつけます。神さまも同じです。必要以上に怯えることはありませんが、でも、神さまへの畏敬を忘れた時、神さまは保護者として私たちを躾けられるのです。神さまに誠実でありましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所を通して、私たちはあなたを親に譬えました。あなたは私たちを愛するがゆえに、度を越したワガママを厳しく指摘されます。厳しく見えますが、でも私たちは逆に捉えます。私たちが本当に堕落しないために、親身になって整えようとしてくださるのだと受け取ります。私たちがあなたのみことばを真摯に受け止め、誠実に生きようと一歩踏み出せますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(金) エレミヤ書5章15-19節
一言メッセージ:今朝の箇所は「エルサレムの堕落」を語った5章の中で、4章の「北からの敵」と繋がる箇所です。神さまはエルサレムを滅ぼすべく、北から強国が迫ってくると語りました。注目するのは19節です。神さまは北からの国(バビロン)が祖国を滅ぼした際、預言者に「民にこう告げよ」と語ります。それは「あなたたちはわたしを捨て、自分の国(祖国)で異教の神々に仕えた。そのように(だから同じように)、自分のものでない国で(バビロンに連行された後)他国民に仕えねばならない。」神さまは祖国滅亡と民の奴隷化を宣言されました。厳しい裁きの言葉ですが今朝も昨日に続き、見方を変えましょう。神さまの裁きは見捨てるためでなく、民が悔い改めるための教育的な裁きです。つまり、未来は裁きのままで終わらないのです。事実18節で神さまは言われる。「そのときですら、わたしはお前たちを滅ぼし尽くしはしない。」宗教改革者マルティン・ルターの言葉を再度書きます。「みことばは生かすために殺し、救うために裁く。」救いのための裁きです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は南王国滅亡の預言であり、バビロン捕囚の宣告でもありました。でも、その言葉は民を見捨て、滅ぼすことが目的でなく、民が正しく神さまの御心を理解し、立ち帰るための言葉です。あなたは罪人をも救いたいと願ってくださる方です。私たちもイスラエルの民同様に驕り高ぶる者ですが、みことばを通して、私たちの生き方も振り返り、整えることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(土) エレミヤ書5章20-31節
一言メッセージ:厳しい言葉が続きますが、今朝も「エルサレムの民の堕落」が指摘されます。21節で神さまはエレミヤにこう語るように言います。「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても見えず、耳があっても聞こえない民。わたしを畏れ敬いもせず、わたしの前におののきもしないのか。」神さまは具体的に何を指摘しているのか。それは24節に端的に書かれます。「彼ら(民)は、心に思うこともしない。『我々の主なる神を畏れ敬おう。雨を与える方、時に応じて秋の雨、春の雨を与え、刈り入れのために定められた週の祭りを守られる方を』と。」一見すると敬虔なことばのようですが、実はご利益宗教であるバアル神は「豊作のために雨をもたらす神」と考えられていました。つまりこの言葉は、御自分とバアルの区別が付かず、混同している民の様子が指摘されているのです。私たちはここに、「自分では『正しい』とか『仕方ない』と思っているけれど、それが神さまの目に本当に正しいことなのか」と自問自答させられます。今朝の30-31節は、私が2011年の東日本大震災後、福島第一原発事故後に関連してゾッとして読んだ箇所です。事故後、放射能汚染が大変なことになっているのに、電力会社や大手広告会社、御用学者、政府などなど、いわゆる「原子力ムラ」の人々はなおも被害を矮小化し、原発による利益と核兵器製造可能な状況を残そうと躍起になっていました。その姿に30-31節が重なって読んだのです。「恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっている。預言者(未来に責任を負う者)は偽りの預言をし、祭司(社会倫理を司る者)はその手に富をかき集め、わたしの民(民衆)はそれを喜んでいる(それを正しいと思い込んでいる)。」そして神さまは最後に告げます、「その果てに、お前たちはどうするつもりか。」私たちは唯一の神さまとしっかり向き合いながら、自分たちの在り方、社会の在り方を今一度、問い直す必要がある。御心を模索し、御心に促されて、御心を実践しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所に私たちは、自分たちの「正しさ」や「常識」が本当にあなたの御心に即しているのか、改めて問われます。私たちはもしかしたら、自分たちの習慣や常識、願望に依拠しているだけで、あなたの御心と離れていたかもしれません。だからこそ神さま、あなたの最後の言葉「その果てに、お前たちはどうするつもりか」は重たく響きます。今日、私たちは自分たちを振り返り、あなたの御心を思い起こして過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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