ペンテコステを喜ぼう♪ - 2023.06.03 Sat
5月28日の礼拝はペンテコステ礼拝でした。
「ペンテコステ」
名かな耳慣れない言葉だと思いますが、日本語で言うと「聖霊降臨日」です。
・・・なんか強そう(笑)
これは、キリスト教会にとってクリスマス、イースターに次ぐ特別な日の一つで「私たちに聖霊=神さまの霊が与えられたことをお祝いしよう」という日です。
聖霊っていったい何??と思われるでしょうが、実はクリスチャンにとっても一番理解が難しいと感じる人の多いトピックスです。
先日の礼拝のお話では、聖霊は何か超常現象的なことを起こすためのものではなく、私たちに神さまの事を思い起させてくれるものです、というお話を聞きました。
聖霊が与えられているから、私たちは神さまに心を向け、信じることができる。聖霊が与えられているから、神さまを身近に感じることができるのです。
気になる人は、ぜひペンテコステ礼拝のお話の音声配信やYouTube配信を聞いてみてくださいね。
聖書の中で「聖霊」は「鳩」や「炎」で表されることがあり、今年はそんなイメージの中で教会学校の小学生たちがペンテコステの飾りつけをしてくれました。
また、礼拝にはペンテコステのイメージカラーの「赤」のものを何か身に着けてきてくださいと呼びかけました。
受付には準備のない方のために赤い折り紙でワンポイントを。
(写真は礼拝後に取ったのでほとんど残ってませんでした 汗)
私たち「バプテスト教会」は、教会における細かな決まり事などをどちらかといえば避けて、シンプルに信じることを大切にする教派ですが、「こんな風に身に着けていると、ペンテコステをより憶えることができていいね~」なんて言う話もしていました。
何より、みんなちょっと楽しそう。
いろんな方法で、ペンテコステの喜びを分かち合うことのできた日でした。
かざりつけはもうしばらくかざっていますから、足を運べそうな方はぜひ教会に来て、実際に飾りつけを見に来てくださいね。よく見るといろんな鳩がいて面白いですよ(笑)
それでは、新しい週も皆さんに神さまの祝福がありますように♪
手話で聖書を読む会 - 2023.05.20 Sat
今日は午後からわたしたちの久留米教会を会場に「手話で聖書を読む会」が開催されました。
これは、私たちバプテスト教会につながる福岡市周辺の教会で作る「福岡地方バプテスト連合」の中の「手話の部」が主催している会です。
もともとはコロナ前に久留米で開催予定だったのですが、3年越しでようやく今日の開催となりました。
参加は20名ほど。手話は1度もやったことがない人から、手話通訳経験者、ろう者など、様々な人たちと集って楽しく学びました。
久留米教会からも6名ほど参加しました。グループに分かれての学びでは、手話賛美や「主の祈り」を手話で覚えるなど、それぞれに学びの時を持ちました。
普段祈っている主の祈りは、手話でこんな風に表すのか!!など、それぞれに新しい発見があったようです。
手話を覚えるのはなかなか大変なことですが、手話で表すことによって教会で語られる一つ一つの言葉が、また深みを増して理解できるような気がします。
また、いつろう者の方が教会に来てくださるかもしれません。
そんなときのためにも、少しずつ学んでいければいいなと思いました。
さあ、気づけば5月もあと1/3です!
寒暖の差もあり、新年度からの疲れが出やすいときですが、神様からもらった心と体をいたわりながら、焦らず一歩一歩毎日を歩んでいきましょう!
新しい週も、皆さんの歩みが神さまによって支えられ、守られますように♪
みことばメール一時停止のお知らせ - 2023.05.13 Sat
5月も半ばに差し掛かり、日中は半そででもいいくらい暑い日が出てきましたね。
新しい年度も本格的に始動し、皆さんも忙しい毎日をおすごしかもしれません。
さて、今回はちょっとお知らせです。
新型コロナウイルスの流行時から始まったみことばメール。
ブログでも1週間分を毎週まとめて掲載していましたが、しばらくお休みとなります。
まだ具体的にはいつかは決まっていませんが、再開しましたらまたブログに掲載しますので、
しばらく待ちくださいませ<(_ _)>
さて、2週前にお伝えしていた教会メンテナンスの写真をすっかり掲載し忘れていましたので、以下に掲載します~。
↑教会裏のほそーいスペース。お隣からの竹が進行中&雑草がすごいので、対策に草むしりと防草シートはりを行いました。このスペースにはエアコンの室外機もあるので、これで夏も室外機がふさがる心配がないと思うので安心です。
こちらは教会多目的ホールから庭に出られるガラス戸?の下の部分。
長年の雨風で表面が浮いてきたり、一部コンクリートが削れていたりしたので、修繕しました。
これは、浮いているところをはがしたところ。
コンクリートが削れているところに接着剤を付けてモルタルを塗っています。
壁に盛るのは難しい!!
こんな感じ。
明日(5月14日)に仕上げの塗装(ペンキ)をする予定です♪
写真は教会裏の草取り&会堂窓下壁修繕 しかありませんが、実際は教会の窓ふきなど普段できないお掃除も行いました。
今の会堂も建築して38年目。今年は折に触れて自分たちでできるメンテナンスをしていく予定です。
また写真を撮ったらこちらでもシェアしますね♪
お楽しみに。
それでは、新しい週も皆さんの上に神さまの豊かな導きがありますように(^^)/
5月7日~13日のみ言葉 - 2023.05.07 Sun
大型連休もラスト一日となりました。
土曜日からは久留米はあいにくの大雨。雨脚が弱まったと思ったら、またざあざあ降りの一日でした。皆さんは、ゴールデンウィーク楽しく過ごせたでしょうか。
コロナ規制がほぼなくなった連休、楽しい話題も多く聞かれましたが、そのさなかでの石川での地震には、びっくりしました。
地震に重ねて大雨のための土砂災害の警報も出ているようで心配です。
被災された方が一日も早く安心して過ごせるようにと祈ります。
明日、連休最終日は日曜日。
もちろん、久留米教会では休まず礼拝をささげます。
新しい週も神さまに心を向け、与えられている恵みに感謝し、課題には神さまの伴いと知恵を祈りながら歩んでいきたいと思います。
今週も日々のみことばをどうぞ!
エレミヤ書が終わり、今秋からエゼキエル書を読んでいきます。
***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択 : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択 : エゼキエル書
・章選択 : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)
7日(日) エゼキエル書1章1-3節
一言メッセージ:エレミヤ書を終え、今日からエゼキエル書に入ります。エゼキエル書はイザヤ、エレミヤと並ぶ「三大預言書」と呼ばれる、バビロン捕囚期の預言書です。1-3章はエゼキエルの召命物語ですが、今朝は箇所そのものより、エゼキエル書の特徴を記します。祖国滅亡前までのイスラエルは「エルサレムは神が臨在する都であり、神は神殿におられる」と考え、そのため礼拝の場(神殿)が人々の拠り所でした。しかし祖国が滅亡し、神殿は破壊されました。民も遠いバビロンに連行され、捕囚とされました。古代世界の一般の理解では、それぞれの国には守護神がいて、戦争で負けることは守護神の敗北と理解されましたから、他国の民は「イスラエルの神も敗北し、滅びた」と考えたはずです。しかし、イスラエルの民は捕囚の地バビロンで「自分たちの国が滅びたのは何故か」と考え始めます。そして至った結論は、エレミヤの預言を汲み、「自分たちが神を蔑ろにしたから、神は私たちの国を滅ぼした」でした。そして、その結論は「私たちが神に正しく立ち返るならば、神はきっと私たちを救い出してくださる」との展望へと発展していきます。そこで彼らは、それまでの「神殿」という場所を大事にした信仰から、礼拝や祭儀、割礼などの律法の遵守を重視する信仰へとスタイルを変えていくのです。非常に興味深い話ですが、バビロン捕囚の経験によってユダヤ教は洗練されていくのです。エゼキエルは正にそんな捕囚期をリードした預言者です。なので、エゼキエル書は1-24章で「ユダとエルサレムの罪と罰」という反省を、25-32章では「諸外国に対する預言」を、33-39章では「イスラエルの回復」を、40-48章では「新たなイスラエル」が語られていきます。さて、ご一緒にエゼキエル書を読み進めていきましょう。ちなみにエゼキエルは幻の記述が多く、それも民族的イメージの共有なので、私たちにはちんぷんかんぷんなので、そういう箇所は飛ばしながら読んでいくことにします。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日からエゼキエル書を読み始めました。祖国滅亡の絶望の中でイスラエルの民はあなたと向き合い、自分たちの罪を受け止め、悔い改め、あなたとの向き合いの中で未来への希望を見出していきました。私たちもエゼキエル書を読みながら、あなたがいかなる神であり、私たちにどう生きるよう促されるか、分かち合っていけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
8日(月) エゼキエル書2章1-10節
一言メッセージ:今朝は主なる神がエゼキエルを召し出した際の言葉が記載されています。神はエゼキエルに「人の子よ、自分の足で立て」と命じます。「人の子」は福音書ではイエスさまが自らを指して使った言葉ですが、エゼキエル書で使われる際の意味は、徹底して「超越者なる神さまと異なるちっぽけな人間」を指す言葉です。それは捕囚となり、ちっぽけにされたイスラエルの民も状況を指す言葉でした。でも、その民への預言者として、神さまはエゼキエルを選ぶのです。預言者の召命の中で神さまは「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす(3節)」と告げます。この時の民の多くは、まだ祖国滅亡の理由が「自分たちが神さまを蔑ろにしたから」という反省よりも「神は私たちとの契約を守らず、私たちを見捨てた」という理解が強いようです。だからエゼキエルに対しても敵意と害を持って抵抗すると言われます。でも神さまはエゼキエルに「彼らを恐れてはならない(6節)。あなたはわたしの言葉を語らなければならない(7節)」と告げるのです。さて、そんな箇所の中で今朝、私たちが注目したいのは8節です。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。」預言者は人々に語るために、先ず自らが神さまのみことばをしっかりと聞き、従わねばならない。自分の願望、思惑、算段で語るのが預言者でなく、神さまの御心を聞き、託されたみことばを語る存在なのです。それが1節の「自分の足で立つ(神に力づけられ、神の促しに応えて自立する)」ことでもあるのです。今日から新しい一週間が始まりますが、私たちもみことばを聞き、受け止め、自らの足で立って歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。エゼキエルを召し出したあなたは「先ず、私のことばに聞き、そして自らの足で立て」と促しました。それは今の私たちへの示唆でもあります。新たな一週の働きの始まり、私たちもみことばに押し出され、しっかり立って歩み出せますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
9日(火) エゼキエル書3章1-15節
一言メッセージ:今朝はエゼキエルの預言者としての召命記事の最後の部分です。昨日同様、「人の子よ、私があなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい(10節)」と語られ、預言者自らが先ず神さまのみことばに聞く者であると繰り返し強調されます。さて、そんな箇所の中で非常に興味深いのは1-3節。神が「この巻物(神のみことば)を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と促されていること、そしてその巻物は「蜜のように甘かった(3節)」という記述です。神さまのみことばを取り次ぐために、自らが神のみことばをいただくというのは前述の10節と同じなのですが、3節の「それは蜜のように甘かった」は、神のみことばがエゼキエルを何よりも慰め、力づけ、生かしてくれるものだった、という意味です。でも同じ今朝の箇所では6節以下で語り掛ける相手である同胞は頑固で、預言者もたじろぎそうな存在として描かれていますし、一方で14節では神の促しによって預言するべく連れていかれる時には「苦々し」く思っているのに、「主の御手がわたしを強く捕えていた(神の強制力をひしひしと感じていた、14節)」とも書かれている。この記述は、神に従うことの恐れや葛藤を描きながら、それでも神のみことばが自分を生かす力だと感じていることを示しています。不思議ですね、神さまのみことばは私たちを無暗に甘やかすのでなく、私たちを励ましつつ、現実に向き合わせるのです。預言者とされたエゼキエルがここから民とどう向き合い、どう語り、行動するか。続けて読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エゼキエルの召命物語を読みました。そこで見出したのは、あなたのみことばを語るために、私たち自身がみことばを先ずいただくこと、そのみことばは私たちを強め、生かし、育て、現実に向き合わせる力でした。神さま、どうぞみことばをいただいて、私たちも日々の生活に向き合っていけますように。いつもみことばの力添えをください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
10日(水) エゼキエル書3章16-21節
一言メッセージ:今朝の箇所は「預言者の務め」と題される箇所です。神さまはエゼキエルを「見張り」とし、「悪人に『このまま好き勝手やり続けたら、神の怒りを買って滅ぼされるぞ』と警告しなさい。警告しなかったら、私はお前も罰する。でも、警告したのに、それでも悔い改めないで滅ぼされたら、それはその者自身の責任」と語る。また「正しい人が出来心で罪を犯す時」にも同じように語ります。これ、エゼキエルからしたら「そこまで責任を負わねばならないのか!」と文句を言いたくなる命令です。だって、相手を思って警告しても逆に敵意を持たれ、突っかかって来る相手もいるのですから、「関わりたくない」と思うでしょう。でも、この命令は預言者の立場で考えては意図が分かりません。これは、語り掛けられる相手の立場で考える命令です。端的に言うと、神さまは悪人だろうが正しい人であろうが、滅びてほしくないと思っているのです。だから、その者が罪を犯す時、「あなたも神さまの祝福の中で生きててほしいから、悔い改めな」とエゼキエルに促させるのです。私たちを愛し、生かす神がいて、その役割を担うのが預言者なのです。先の箇所になりますが、エゼキエル33.11も読んでみてください。私たちももしかしたら、時に預言者となって、おせっかいを焼くこともありますよね。どうぞ祈って、勇気出して、「あのさ、教会に来ん?神さまのこと、一緒に学んでみよう」と声かけてみましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所を読んだ時、「なんて理不尽な」と思いました。「あなたの御用を担うとこんなに責任を押し付けられるのか」と怯えました。でもその真意は、あなたが一人も滅ぼしたくないからこそ「声をかけ合って生きよ」でした。私たちはその真意を大事に思いつつ、時に自分も預言者のように他者に世話を焼きます。どうぞ勇気をください。十字架にかかってまで私たちを救われたイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
11日(木) エゼキエル書3章22-27節
一言メッセージ:今朝の箇所は24.27や33.12と関連する象徴預言について語った言葉です。後代の付加と考えられるので、エゼキエルの召命早々の事柄ではありません。言葉を語るのが預言者であるのに沈黙するように命じられるのは矛盾のようですが、実はそれこそが象徴的なのです。それまでは26節にあるように、民の罪を指摘し、悔い改めるように促してきたけれど、神さまから示される語るべき言葉を語り終えた後、エゼキエルは人々がその言葉にどう応えるか、沈黙して問うように命じられたのです。先日、大学講義が終わって帰って来る電車内で、結構な大声で話す二人連れがおられた。片方が、自分の苦労話をしていました。結構な声量だったので話が耳に入って来て、読書に集中できない。諦めて、ぼーっと車窓を眺めながら聞こえてきた話に感じたのは「さも、いっぱい苦労している風に話すけど、中身は大したことない」でした。人間だれしも「私は、私は」と自分の話を聞いてほしいものです。でも、騒ぐからこそ軽く見られ、逆に、沈黙するからこそ大切なこととして伝わるものも多々ある。エゼキエルは神さまから沈黙を命じられます。「語るに時あり、黙するに時あり」なのです。私たちも語るべき言葉と黙すべき時、考えさせられますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたはエゼキエルに語る言葉と黙する時を示されます。それは民に、あなたのみことばを聞く時と、いかに応えるか問う時を作るためでした。神さま、私たちが祈りながら、あなたに応えられないと思う時、それは問われている時なのかもしれません。どうぞあなたへの願いを語るばかりでなく、あなたのみことばをしっかり考え、応える者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
12日(金) エゼキエル書4章1-17節
一言メッセージ:4-5章はイスラエル滅亡を振り返るための象徴預言です。1-3節は「エルサレムが包囲されたことの象徴行為」、4-8節は「捕囚の象徴行為」、9-17節は「包囲された街での欠乏や困窮の象徴行為」です。続きは明日の箇所ですが、読むと、滅亡の厳しさがよく見受けられます。そんな箇所の中で目を留めたいのは、4-6節です。神さまはエゼキエルに390日間、左わきを下にして寝るように命じ、次に40日間、右わきを下にして寝るように命じます。この390日はソロモンの神殿奉献から祖国滅亡までの390年の期間であり、40日は滅亡後の捕囚期間を象徴する日数でした。読みながら思うのは「40年で390年を贖うのか」です。民は祖国滅亡と捕囚がどれだけ苦しいか、神さまに訴えていたでしょう。でも、その期間は40年と示されます。一方、滅亡に至るまで民が神さまに背き続けた期間、同時に、神さまが忍耐して「きっといつか分かるはず」と期待した期間は390年でした。人々は今自分が経験している辛さを訴えますが、滅亡に至るまでの神さまの忍耐の期間もあったのです。エゼキエルはそうやって、民の不信仰と神さまの忍耐を示しました。同時に40年は「神さまが民を解放される時が来る」との示唆でもありました。厳しさの根底に愛があることを感じ取れる記述ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エゼキエルは祖国滅亡を振り返り、民の過ちを示すべく象徴行為を命じられました。その中で民が感じたことは、あなたの愛と忍耐だったことでしょう。人は苦しい時に、自分の「今」だけを訴えます。でもあなたは、より広い視野で私たちに、過ちも気づかせてくださいます。それは厳しい事柄ですが、同時に、罪の自覚の先にあなたは救いを与えてくださいます。神さま、どうぞ私たちも己の弱さや罪も自覚しつつ、それでも救ってくださるあなたを感じられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
13日(土) エゼキエル書5章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所もイスラエルの滅亡を振り返る箇所です。髪の毛や髭は繁栄を表していて、その1/3は燃やし、1/3は剣で切り、1/3は風に散らすように指示されます。それは、イスラエルが滅亡する際に、民の1/3は疫病や飢餓で、1/3は戦火で、1/3は祖国から捕囚として連行されたり、逃亡したりする様子を象徴するものでした。何がそこまで神の怒りを買う行為だったのでしょう。それは明日の箇所6章にある「偶像礼拝」です。自分の利益を求めて、神ならぬ物を神とし続けた行為と期間(ソロモンから数えて390年!)に神は怒ったのです。そんな神さまの怒りを告げたのが13節です。「そのとき、主であるわたしが憤れるだけ憤り、熱情をもって語ったということを彼らは知るようになる。」「熱情」と言えば聞こえがいいが、ニュアンスは「妬み」です。深い愛のゆえに不誠実を相応に罰する神の感情です。私たちも他人に一生懸命話すのに、向き合ってもらえないと腹が立ちます。神さまも同じです。私たちは、神さまに誠実に向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、あなたは熱情の神です。深く強い愛だからこそ、逆に不誠実な民へは憤りも感じる時もあるでしょう。その気持ち、よく分かります。だからこそ私たちもあなたに正しく向き合う者であれますように。それでもきっと時々、少々のところは目をつぶってください。でもあなたの赦しを打算的に捉えず、大事なところはちゃんとあなたと向き合いますから。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
***
4月30日~5月6日のみことば - 2023.04.29 Sat
4月も終わりを迎えました。
早くも連休を迎えている方もいるでしょうか。
4月から始まった生活に少し疲れの出てくる季節でもありますから、どうぞ皆さん、体調に気を付けてお過ごしくださいね。
教会では、明日4月30日礼拝後に教会堂などの修理や普段できないお掃除をする「メンテナンスデー」を行う予定です。
今の会堂も建って38年目。今年度は少しずつできるお手入れをしていく予定です。
また、忘れなければ写真を撮ってアップしたいと思いますので、お楽しみに!
そのためにも、どうか今降っている雨が早めにやみますように。。。
それでは、新しい週のみ言葉をどうぞ!!
***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択 : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択 : エレミヤ書
・章選択 : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)
30日(日) エレミヤ書49章1-6節
一言メッセージ:49章はたくさんの民族への裁きの言葉です。1-6節がアンモン(ヨルダン川の東地域。創世記30章でアブラハムの甥のロトをルーツにする民)、7-22節がエドム(死海の南東、エドムが裁かれる理由は直接には書かれないが、オバデヤ書は彼らがエドムがエルサレム陥落時にバビロン軍と共に包囲していたことを激しい敵意で記す)、23-27節がダマスコ(イスラエルの北、アラムの首都。国はアッシリアによって滅ぼされ、アッシリア、その後バビロンに従属を強いられる。エルサレム包囲時にエドム同様、バビロンに動員されていた)、28-33節がケダルとハツォル(アラブの遊牧民)、34-39節がエラム(驚くことにバビロンの東なので、直接的にはイスラエルに関係無さそうだが、この地にもユダの民が住んでいた)に向かっての言葉です。長いうえに、それぞれの民族の事情もマチマチなので、今回は難解でした。それで調べものをしたら、榎本保郎氏の『旧約聖書一日一章』に面白い記述を見つけました。彼はアンモン人に注目し、彼らの首都ラバは世界にも類の無い天然の要害で、ゆえにアンモン人は「どんな軍でもラバを落とせないと自負していた」と記します。しかし、榎本氏はこう記します(要約します)。「彼らは平面でモノを考えてきた。しかし、神による裁きも恵みも上からやってくる。人の思惑を超えて、神は働きかけてくる。」なるほど、と思います。人間が己の知恵、力、功績、財、その他あれこれ誇っても、神さまの御業はそんな思惑を超えて実現する。それは誠実に生きる者には幸いな励ましだし、神さまに不実に生きる人には恐れでしょう。私たちの思惑を超えて働く神さまは今、この世界に何を成そうとされるのでしょう。私は期待して、神さまの御業を祈りたいと思います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はたくさんの民族への裁きを読みました。榎本氏の指摘のように、神の裁きも恵みも人の思惑を超えて実現します。だからこそ、私たちは驕ることなく、あなたに誠実であらねばと思わされます。どうぞ今日も一日、あなたに誠実に生きる私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
5月1日(月) エレミヤ書50章1-46節
一言メッセージ:50-51章は「諸国民への裁き」の最後、バビロンへの裁きです。聖書研究ではこの預言はエレミヤに遡るものでなく、バビロン捕囚のただ中で迫害のために苦しむ民を励ますべく、「もうまもなく神の救いは実現する。バビロンは滅び、我々は救い出される」と語った預言者の言葉と考えられています。じゃあ、エレミヤの預言でなければ読む価値はないか。いいえ、他の預言者の言葉ですが、この箇所は大事な指摘をしています。それはバビロン滅亡の理由です。預言者は29-32節でバビロンが滅ぶ理由を「神に向かって傲慢にふるまったから」と指摘します。エレミヤの預言でもこの預言者でも、バビロンはイスラエルを滅ぼすために神に選ばれた僕です(51.20-23参照)。しかし、バビロンが神の僕であったからといって、「じゃあ、何をやっても赦される」わけではない。僕は主人の意志に従うことが求められます。しかしバビロンは驕り高ぶり、「自分たちの国の神マルドゥク(2節の「ベル」はマルドゥクの別称)こそが世界の神」と宣伝し、さらにバビロン王自身を神として拝ませました(ダニエル3.5-6参照)。そんな傲慢を預言者は指摘しました。
宗教や学校(教育)の分野はハラスメント事象が発生しやすいと言われます。それは「先生」と呼ばれる者が権威化しやすく、周囲が傲慢さを指摘しにくくなるからです。権威化も一種の自己神格化であり、神さまへの傲慢です。だからこそ「先生」と呼ばれる者は自戒を、また周囲は適切な指摘をすることが必要です。私たちは神さまへの節度を持って歩みたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者はバビロンを「神の選びを特権と勘違いし、やりたい放題行った傲慢さゆえに滅んだ」と指摘しました。人は驕り高ぶり、調子に乗ります。でも神さま、どうか私たちはあなたへの誠実さと謙虚さを忘れずに過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
2日(火) エレミヤ書51章1-58節
一言メッセージ:昨日の箇所から続く、バビロン滅亡の預言です。内容的には昨日とさほど大きな違いはありませんが、8節に注目します。「にわかに、バビロンは倒れ、砕かれた。バビロンのために嘆け。その傷に乳香(薬として使われた)を塗れ。いえるかもしれない。」バビロンは必ず滅亡する。しかし神さまはそのバビロンが「癒えるかもしれない」と語ります。ここでいう「癒える」は直前の7節を見ると、バビロンが誰もが憧れる「金の杯」に譬えられ、「これが全世界を酔わせた。それゆえに国々は狂った」と書かれます。意味するところは「全世界がバビロンという超大国の軍事力、政治力を前に、『力こそが全て』との考えにとりつかれてしまった」です。それが8節で「癒えるかもしれない」というのは、バビロンが滅びたとき、「力こそが全て」との誤った考え方が覆され、何が私たちにとって最も大事だったかを悟る、ということです。神さまはバビロンが滅びた後の世界が真の神さまに気づき、神の平和へと歩み始めることを期待したのです。そのためでしょう、今朝の箇所でもバビロンの軍事力が徹底して否定されていきます。ここにはイザヤ2.1-5の神の平和の実現のイメージが重なっているのかもしれません。世界が神の御心によって生きることを学び、武器を手放し、命を育み合う農耕具に打ち直し、共に生きていこうとする世界。今も私たちが追い求める世界の姿です。イザヤ書は明日、番外編として読んでみましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はバビロン滅亡預言の後半を読みました。そこでは徹底して力が否定されています。残念ながら、未だ世界は争い絶えず、力への過信が続いています。でも神さま、私たちは平和を諦めません。どうぞ、一歩ずつでも平和実現に向けて前進することができますように。平和の主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。
3日(水) イザヤ書2章1-5節
一言メッセージ:今朝は5/3、憲法記念日ですので番外編です。戦後、日本は新たな憲法を作り、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行しました。現行憲法になり、戦前の大日本帝国憲法と何が変わったか。「国民が天皇の臣下とされた臣民でなく国の主権者となった」とか、「国家などの権力によって個々人の尊厳が踏みにじられないように基本的人権が守られるようになった」など、様々な変化がありますが、最も大きな事実は、戦後78年、私たちの国は戦火を経験せずに過ごしてこれたことです。何故なら、この憲法が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し(憲法前文)」て、制定されたからです。つまり原稿憲法の目的は、二度と戦争を起こさせず、国民一人ひとりの命と尊厳を守り、世界に平和を実現することなのです。戦争を行いたい人たちは様々な理由をつけて(近隣国の脅威など)、憲法を変えようとします(本気で近隣国の攻撃を懸念するならば、先ずミサイル一発で大惨事になる原発を無くすことが必須なのに、そこは決して廃炉にしない。これも政治家の改憲理由が言い訳でしかない証拠です)。だから、安易に改憲させないために、現行憲法は国民に主権を託し、「不断の努力(第12条)」を求めて、平和を実現していこうと定めました。私がこの憲法を誇りに思うのは、前文の中で平和実現の手段についてこう語っているからです。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われらの安全と生存を保持しようと決意した。…(略)…われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちの生存する権利を有することを確認する。」現行憲法は、平和は自国だけで実現できるものでなく、他国と共に作るものであると理解し、だからこそ互いに信頼し合うことから平和を実現しようと呼び掛けます。そのため、第9条では、武力で平和は実現できないからこそ「戦争の放棄」と「軍の不所持」まで明記しました。世界中の誰もが、子どもたち、孫たちが安心し、「誰とでも仲良くなれる」と促し合って共存する世界を目指したのです。その考えは今朝のイザヤ2.1-5が示す、神の平和と重なります。イザヤは「国々が神の示す平和を学び、争いを放棄し、命を奪い合う武器を打ち直して、命を育む農耕具に作りかえて共に生きる世界を目指す」、そんな平和を神の国と語り、目指すべき理想と示しました。今、憲法を変えようとする動きがありますが、私は、みことばに立つからこそ今の改憲には応じてはならないと思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日は憲法記念日ですから、番外編でイザヤ2章を読みました。イザヤが記した、あなたの平和の幻は、現行憲法が目指す世界平和と重なります。現行憲法はあなたのみことばを実現するべく、1つの国家的決意であり、手段です。神さま、どうかこの憲法を堅持し、あなたの平和実現を一歩ずつでも進めさせてください。平和の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
4日(木) エレミヤ書51章59-64節
一言メッセージ:今朝はエレミヤがバビロン滅亡を記した巻き物をセラヤ(エレミヤの書記バラクの兄弟。祭司長。32.12、52.24参照)を託し、連行されるバビロンにてイスラエルの民に語り聞かせ、バビロンの肥沃な土地を潤すユーフラテス川に投げ入れるという預言の象徴行動をとるように命じる箇所です。エレミヤはこれまで、「バビロンは神の僕であり、神の御心として祖国イスラエルを滅ぼす」と語り続けてきました。しかし同時に、バビロンが神さまの祝福をいただいて繫栄するかと言えば、そうではなく、29章では、連行されるイスラエルの民に「家を建て、子孫を増やし、定住せよ」と勧めつつも、29.10では「70年の時が満ちたら」バビロンは崩壊し、民は解放されるとの預言も語っていました。エレミヤの預言は面白いし、私たちへの示唆に富むと思います。彼が預言活動を始めて以降、ある意味で、非常に冷静にイスラエルと周辺国の状況を分析しています。イスラエルがエジプトとバビロンの間で「どちらの陣営に着けば生き残れるか」と画策する様を見ながら「今こそ神さまに立ち帰り、祈り、いかに対処すべきかを模索する時」と呼び掛けました。けれど王や貴族はエレミヤの言い分を聞かず、祭司や民が「私たちの国はアブラハム以来、神の救いを約束された民だから、滅びることなどない」という希望的観測で自己正当化に走ると、「この国は神の僕バビロンによって滅びる」と預言しました。ではバビロンによって滅ぼされて終わるのかと言えば、そうではなく、「バビロンもまた、己の力を驕り、神を蔑ろにして滅びる。そして民は神さまによって解放される」と語りました。エレミヤはいつも冷静に、現状だけでなく未来を見定めています。それはいつもいつも「神さまはこの時、この状況で私たちに何を示されるのか。そして私たちをどう導こうとされるか」と模索し続けたからです。エレミヤは目の前の出来事で翻弄されません。過去を知り、広い目で今を見定め、同時に未来を思い描いている。それが信仰に生きる姿なのです。私たちは目先に翻弄されず、信仰の目で自分も世界も見極めて生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエレミヤが翻弄される社会の中で極めて冷静に、同時に神さまを知るからこそ悲観的に終わらず、困難の先にある導きに目を留め、だからこそ今をどう生きるのかと考えていました。神さま、私たちにもエレミヤのように過去を知り、今を冷静に見定め、未来を思い描く信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
5日(金) エレミヤ書52章1-30節
一言メッセージ:エレミヤ書最後の52章はエルサレム陥落と王国滅亡の記録です。最後の王ゼデキヤは、それまで服従していたバビロンに反旗を翻します。その知らせを受けたバビロン王ネブカドネツァルは自ら出陣し、エルサレムを包囲します。この包囲は1年6か月に及び、エルサレムは深刻な食糧不足に陥り、とうとう陥落します。ゼデキヤ王は捕えられて、目の前で息子たちと将軍たちが処刑され、続けて自らも両眼を潰され、足枷をはめられてバビロンに連行され、死ぬまで牢に入れられます。また、バビロン軍は街も王宮も神殿も焼き払い、あらゆる財産、神殿の装飾品を奪いとり、民の主だった人々を捕囚として連行していきました。何もかもむしり取り、破壊し尽くしたのです。こうしてダビデ王以来の都エルサレムは陥落しました。最後の記述は悲しいだけに見られますが、そうではありません。ここにきて、エレミヤの言葉が希望として認識されていく。エレミヤはバビロンに投降する者にこそ未来があると語ってきました(27.6-17、38.17)。また、神殿の祭器、装飾品も戻ってくるとも語っていました(27.21-22)。つまり、神さまの救いの約束は今も変わらず続いている。だから、ここから問われるのは民の方です。「あなたはこの滅亡の状況に絶望して終わるのか。それとも、エレミヤを通して語られた神のみことばに希望を見出し、解放を待って生きるのか」と。みことばは私たちにも告げます、「あなたは目の前の出来事に一喜一憂して生きるだけか。それとも、困難に直面してもなお神の希望に生きるのか」と。私たちは今、みことばとどう向き合い、受け取りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所では淡々とエルサレムの陥落、王国滅亡が語られました。けれど、ここからこそエレミヤの言葉が民の中で響きます。あなたが与えてくださる救いは、バビロン崩壊後に実現するからです。人は弱く、目の前の出来事に翻弄されがちです。でもあなたを信じる私たちは、困難のただ中でも、その先にあるあなたの希望を見失わずに生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
6日(土) エレミヤ書52章31-34節
一言メッセージ:今朝はエレミヤ書のラストです。ヨヤキンはゼデキヤの前の王で、即位3ヶ月で廃位され、第一次捕囚にてバビロンに連行されていた王です。バビロンのネブカドネツァル王の在位中は獄中の辛い生活が続いたようですが、ネブカドネツァルが死んだ後、彼は新たな王によって情けをかけられて出獄し、王の配慮によって平和に暮らした、との記述です。昨日見たゼデキヤ王とは対照的な最後です。さて、この記述がエレミヤ書の最後に置かれたのは何故でしょう。それは、読者に希望を感じ取らせようとしたからでしょう。捕囚を強いられ、悲惨なままで終わるのでなく、ネブカドネツァルの死によって時代状況が変化してきたこと、その変化の中でダビデ王家の末裔が生きながらえていることが、民にとって解放と祖国への帰還の希望を残したのです。
人生は映画やドラマとは違います。だから、2時間見たら結末で終わるものでなく、その後も人生は続く。だから、時にハッピーエンドの後の困難もあるけれど、逆に悲惨な状況のまま終わるのでない。神さまの導きはその悲惨な中でも働いているのですから。私たちも困難を経験する時にも、悲嘆に暮れるのでなく、「神さまはここからどう導いてくださるか」と期待して問う信仰者でありたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝でエレミヤ書を読み終わりました。長い箇所でしたが、目先の出来事に翻弄されず、あなたのお約束と導きを信じ、誠実に生きることを学びました。どうぞ、私たちに状況を冷静に見定め、未来を信じ抜く信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
***