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2021-05

3月28日~4月3日のみことば - 2021.03.28 Sun

いよいよ今年度も終わりになります。
今年度最後の礼拝はイエスさまの十字架の受難を思い起こす受難週礼拝です。
礼拝堂にて、直接・またライブ配信を通して画面越しにお会いしましょう♪
今週もみことばをどうぞ♪♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
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28日(日) マタイによる福音書12章43-45節
一言メッセージ:今朝のみことばも、昨日のみことばと続けて読んでみましょう。昨日の箇所でイエスさまは「悔い改めて、信じて従いなさい」と促されました。そして今朝の箇所です。イエスさまの言葉を聞いて自分の行いを悔い改め、生活を正した人がいる。でも彼は時間が経つと、彼はまた「これくらいは問題ないんじゃないかな」と自分を甘やかし、自分の都合に走った。「これくらい、これくらい」はどんどんと自制を奪い、結果的に、以前よりも過ちを大きくしてしまう。これが「出て行った悪霊が帰って来て…」という例話で語られています。神学者ウィリアム・バークレーはこの箇所で「律法は『~してはならない』という消極的な禁止事項を語るが、イエスは『御心に従いなさい』と積極的な促しを語る」と指摘します。つまり、信仰を単なる知識に留めるのでなく、実践することを促しているのです。私たち、信じて御心を生きる者になりたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは「信じて御心を生きる」ことを示されました。イエスさまの救いを信じて従いたいと願っても、それが一時的な感情の高ぶりのままだと、私たちは、すぐに自分を甘やかしてしまいます。だからイエスさまは私たちに「信じて従いなさい。御心を生きる者になりなさい」と促されます。立ち止まるのでなく、一歩ずつでもイエスさまに従いなさいと促してくださいます。神さま、イエスさまに励まされながら、一歩ずつ従います。どうぞ御心によって私たちを強め、信仰を喜びとする者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(月) マタイによる福音書12章46-50節
一言メッセージ:今朝の箇所は疑問が生じる箇所です。「イエスさまは家族に冷たくない?」と感じるからです。でも、改めてじっくり考えてみましょう。私たちは教会で「兄弟姉妹」と呼び合います。それはどういう意味ですか?それは、「私たちは神さまを父とし、イエスさまを長兄とした家族になった」からこその呼び方です。だから、どれだけ年齢が離れていても「兄弟姉妹」と言います(最近は「兄弟姉妹」には性別意識が強いため、「この呼び方を止めよう」との議論もあります。今朝は「神の家族」を強調するために、この表現を例に挙げました)。それは、私たちは神さまの家族にされたことを大事にしているからです。なのに、私たちは時に、血の繋がりを優先的に考えてしまう。だから今朝の箇所にも戸惑うのです。
  私が高校生、大学生の頃です。育って西南教会の中で、非常に「牧師の子ども」ということをプレッシャーに感じていました。自覚と違い、親からは「あなたは子どもたちの中で非常に自由に育った」と言われますが、でも、周囲から「将来はお父さんみたいに牧師さんやね」と言われることが重荷でした。今だから言いますが、大学生の頃、教会で人前に立つのが恐くてクリスマス礼拝の聖書朗読前に何度も礼拝を抜け出してトイレで落ち着こうとしたこともありました。でもそんな私が献身を決意した後、父が話してくれた言葉にとても安堵しました。聖書で神さまが人間に出会う際に自らを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介される箇所が多々あるのですが、父はその1つを示しながら、「これは『アブラハム、イサク、ヤコブ』という血の繋がりで『私はお前の神である』と言っているのではない。これは『わたしはアブラハムとも出会った、イサクとも出会った、ヤコブとも出会った。そのわたしが今、あなたとも出会う』と言って、人の前に現れてくださる言葉だ。お前はお前として、神さまと向き合いなさい。」
  今朝の箇所もそうです。イエスさまは血の繋がり以上に神さまによって結び付けられる繋がり、神の家族の繋がりが私たちに与えられていると示してくださったのです。久留米教会も大家族です。感謝ですが、私はこの喜びの家族に新たな方が次々と加わってくださることを祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は私たちに、神さまを父とし、イエスさまを長兄とした、神の家族の祝福を示してくれます。私たちは時に血の繋がりに固執してしまいますが、でもイエスさまは私たちを神さまの大家族としてくださいました。どうぞ久留米教会を、互いのために祈り合い、喜びも悲しみも、時には諫めさえも受け止め合う家族としてください。同時に、この繋がりに新たに加えられる方々を起こしてください。救い主であり、私たちの長兄、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(火) マタイによる福音書13章1-9節
一言メッセージ:13章はマタイ福音書にあるイエスさまの5つの説教群の3つ目です。たとえ話の説教です。3節にあるように、イエスさまは「たとえを用いて多くのことを語られ」るのです。内容については、明後日に説明があるので、今朝はあまり触れません。今朝考えたいのは、イエスさまのたとえの特徴です。福音書にはイエスさまが語った言葉が多々残されていますが、かなりの数、たとえ話を用いています。例えば、今朝の「種まく人」もそうですし、24節からの「独麦」もそうです。「空の鳥、野の花」、「地の塩、世の光」「私は良い羊飼い」「命の泉」「命のパン」などなど、次々に思い浮かびます。これらのたとえ話には1つの特徴があります。それは、聴いている人たちの生活に根差した話ばかりなのです。ここに大事な示唆がある。イエスさまの話は、どこか自分たちと隔たった出来事なのでなく、正に私たちの日常の生活で、「あるある」「分かるなー」と共感できて、だからこそ、聴く人々にしっかり問いかける話でした。仮に今、イエスさまが目の前におられたら、「コロナウイルスを思い起こしなさい」と言われたとさえ思います。ここに、みことばの読み方が示されていますね。私たちも、イエスさまのみことばを過去の話と聞くのでなく、「今の私の生活にどう当てはまるだろう」と考えながら、みことばと自分の生活に重ねて読みましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からイエスさまのたとえ説教に入りました。どうぞ、私たちがイエスさまの、生活に根差したたとえ話を聞いて、自分たちの日々の生活と重ねて受け止めることができますように。表面的な文言からグイと深めてみことばを聞く姿勢をお与えください。救い主イエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

31日(水) マタイによる福音書13章10-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、弟子たちがイエスさまに「なんでたとえ話をされるんですか?」と尋ねた箇所です。イエスさまの意図は端的に言えば、「だって、神さまのことを、そのままに話してもちんぷんかんぷんだから。だから、少しでも、『あー、なるほど』って分かってもらえるように、生活に根差したたとえ話を用いて話すの」と言われました。
  これ、自分たちのことと重ねてみると分かります。私たちが話を聞く時、自分の経験に当てはめて理解しようとします。でも、それはあくまでも自分の経験の範囲であり、既に解釈が生じています。例えば、今の時期、夜に外で「ニャギャー」みたいな声がすると、「どこかで赤ん坊が泣いてる」と考える人がいたり、「いや、猫が鳴いてるんだ」と理解する人もいる。それって、それぞれの経験で「ニャギャ―」という声を解釈しているわけです。これだけ、同じ言葉でも受け止め方が変わる。まして、神さまの御心、神さまの御国をイエスさまがそのまま語っても、私たちには理解できないでしょう。だから、イエスさまはたとえ話をよく用いるのです。たとえ話自体が、イエスさまの配慮でもあるのです。だから私たち、少しでもイエスさまの意図が分かるように考えながら聖書を味わいましょう。と、この話を解説するために、私も「ニャギャ―」というたとえを用いました。たとえって便利ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまがたとえ話を用いられるのは、私たちへの配慮と知りました。私たちはいつも自分たちの常識や思惑、願望によって物事を判断しがちです。でも、あなたの御心を、あなたの御業をどうぞ素直に受け止める私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4月1日(木) マタイによる福音書13章18-23節
一言メッセージ:今朝は「種を蒔く人」のたとえをイエスさまが自ら説明された箇所です。イエスさまが語った種を蒔く人とは、みことばを聞く人です。みことばを聞く人は多いのですが、その人の受け止め方の違いが、土壌の違いになる。道端に蒔かれた種は鳥に食べられますが、それは聞いても「我が事」と受け止めない人です。石だらけの所に蒔かれた種はすぐに芽を出しますが、土が少ないため根を張れません。それは、みことばを喜んでも、すぐに挫ける人でした。いばらの中に蒔かれた種は芽を出しても成長しません。それは、みことばを聞いても、すぐに世の中のことに翻弄され、みことばを忘れる人です。一方、良い土地に落ちた種は100倍、60倍、30倍と実りをつけます。その人は、みことばを我が事と受け止め、みことばを生きる人です。その人は祝福が多い。
  さて、このままでは聖書を読んだままになりますので、この物語のニュアンスをもうちょっと考えます。18節でイエスさまが最初に語った「御国の言葉を聞いて…」ですが、この「言葉」はギリシア語のロゴスという言葉ですが、おそらくイエスさまご自身が語っていたアラム語(ヘブライ語の方言。日本語のちっご弁みたいな感覚)ではダーバールという言葉です。そのダーバールは「ことば」だけでなく「出来事」という意味を持ちます。つまり、イエスさまは「みことばを聞く」ということを、具体的に聖書を読むことに加えて、日々の出来事で神さまの意志を模索することも含んで考えています。私たちも同じように、日々の出来事の中で神さまの御心を模索しましょう。さぁ、今日はどんなロゴス、ダーバールを見出すでしょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは素直に読みます。どうぞ聖書のみことばも、日々の出来事からも、あなたの御心を模索する私たちであれますように。どうか、あなたを正しく受け止め、従い、豊かな祝福をいただき、周囲と分かち合える私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) マタイによる福音書13章24-30節、36-43節
一言メッセージ:今朝は「毒麦」のたとえと説明の箇所です。内容は読んでください(笑)。その上で、思うことです。このたとえ話は「どうして世界にはなお、悪い出来事が多いのか」という問いに答える話です。それは刈り入れの時(神さまの国の完成時)まで混在しているからだと語られます。
ここで、少し観点を変えて考えましょう。今日はキリスト教の暦ではイエスさまの「受難日」、十字架にかかって亡くなったことを想起する日です。だから、イエスさまの十字架から考えてみたいのです。神さまは、イエスさまの十字架によって、罪人たちをも救おうとされた。今朝のたとえ話と重ねるならば、畑を全て整えて、救おうとされた。イエスさまは畑を丸ごと救いたいのです。「救いたい」というのは、ある意味では「まだ世界が救われていないから」です。それは今も同じです。私たちの時代はイエスさまの十字架と復活を知らされていますが、未だ神の国の完成には至っていません。ということは、まだ多くの人にイエスさまの救いをお伝えする時間が与えられている。お伝えするのは私たちです。私たちは自分がイエスさまの救いを聞いて満足するのでなく、この知らせを伝える役割もいただいている。だから勇気を出して、「教会来てみらん?聖書読んでみらん?」と声かけたいものです。必要なら教会のトラクトやギデオン聖書も使ってくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまの受難日であり、「毒麦」のたとえを読みました。重ねて読みながら、私たちはイエスさまの救いを知らされましたが、まだ伝えられていない人々のことも思います。どうか、「教会来てみらん?聖書読んでみらん?」と声かける勇気をお与えください。イエスさまの救いに感謝し、祈ります。アーメン。

3日(土) マタイによる福音書13章31-35節
一言メッセージ:今朝のたとえでは、からし種とパン種の話がされています。どちらも、ちっぽけな存在ですが、大きく育つ種の話です。ちっぽけな信仰が生活の中で大きく育っていくように、天の国は小さな民の信仰からぐんぐん広がって行くと言われています。
今朝こだわって考えたいのは「パン種(イースト)」について、です。当時の女性たちは毎朝、パンを作ります。小麦粉と水を捏ねて、その中に、前日少量残しておいたパン種を入れて発酵させました。ここで興味深いのは、ユダヤ教の祭儀で用いられるパンは過越祭のように種入れぬパンであり、パン種入りのパンは不浄とされていたことです。でも人々はおいしいから食べていました。このあたりの大らかさは真似したいところですが、今朝面白がりたいのは、イエスさまはその不浄であるはずのパン種を、こともあろうに「天の国」に例えたということです。当時の人たちからすれば、衝撃的な言葉だったでしょう。でも私たちはそのイエスさまの発言の意図が分かる気がする。イエスさまは宗教的に「清くない」とされた人に寄り添い、彼らの友となり、彼らにも神さまの救いが実現すると告げ続けた。貧しくて、必死に毎日を生きる民にイエスさまは寄り添い、神さまの救いは彼らにも与えられることを告げたのです。それが、このパン種の譬えにも表れている。
私たちはこの物語から思わされるのです。神さまの救いを一部の者たちだけの救いにしてはいけない。この時代、この状況の中で、変わらない慰め、希望を求める多くの人たちにも福音を伝えたい、と思うのです。明日はイエスさまの復活を喜ぶイースターです。キリスト教の暦では今日は、イエスさまは墓に埋葬されています。私たちも静かに、でも、イエスさまの復活が何の始まったか、問うて過ごしたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のパン種のたとえは、私たちにイエスさまの福音があらゆる人たちに向けて示されていたことを分かち合いました。当時の社会では不浄とされたパン種をたとえに用いながら、民衆の隅々にまで福音が届くようにイエスさまは語られました。神さま、私たちもまた、福音をお伝えしたいと願います。しゃちこばって、偉そうに…ではなく、自分ばかり救われたかのような顔でなく、自分自身もイエスさまの救いを知り、どれほど喜んだか、信仰の原点を思い起こしながら、お伝えする者であれますように。イエスさまの十字架に感謝し、祈ります。アーメン。

***



春来る&3月21日~27日のみことば - 2021.03.19 Fri

3月も半ばを過ぎ、すっかり暖かくなりました。
教会・幼児園の庭の桜もついに開花!
子供たちが植えたチューリップも次々に花を咲かせています。
いよいよ春がきたなぁという感じ。
同時に花粉や黄砂もやってきて、鼻と目も「春が来た」と知らせてくれます(^^;)

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今度の日曜日(21日)は卒業礼拝としてささげます。
それぞれの学校での学びを終えて新しい出発をするひとたちに祝福を祈ります。
同時に教会は現在イエス様の十字架の苦難に思いをはせる受難節(レント)を過ごしています。
イエス様の苦しむ場面は聖書を読んでいても苦しく、人間の罪深さに心が痛くなるけれど、その人間のどろどろした醜さをもまとめて愛し、救ってくださったイエスさまのことに思いをはせるときに、そこには感謝と賛美が生まれます。受難節のとき、目を背けることなく人間の闇に眼を留め、それをも打ち破る神さまからの愛の光に感謝して過ごしたいと思っています。

もちろん今度の日曜日もライブ配信いたしますし、当日朝にはホームページの礼拝メッセージページからメッセージの音声を聞けるように準備いたしますので、当日参加できない方も是非聖書からのメッセージを聞いてみてくださいね。

新しい週も皆さんの上に神さまの祝福が豊かにありますように♪
では、今週のみことばをどうぞ!

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21日(日) マタイによる福音書11章25-30節
一言メッセージ:今朝の箇所はとても有名な箇所ですが、私たちは昨日までの流れを思い起こしながら読みましょう。昨日までの箇所でイエスさまは「あなたがたには神さまの救いが示唆され続けているのに、多くの人が自分たちの都合や思惑ばかりに捉われ、神さまの御心を悟ろうとしない」と言われていました。その流れで今朝の箇所なのです。イエスさまは、この神さまの救いが「幼子に示された」と語ります。それは、「どれだけ律法を遵守できるかが救われるかどうかの基準だ」とか「病気の者は神さまから見放されたんだ」といった人間の判断基準で神さまの御心を捻じ曲げるのでなく、ただただ純粋にイエスさまのみことばを信れば良いと告げられたのです。
  そして、イエスさまはあの有名なみことばを語ります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛は家畜の肩にかけて地面を掘り起こす際に使う農耕具です。イエスさまの時代、この軛は並列で二連立てのものが一般的でした。つまり、イエスさまの言葉は「疲れた者は私のところにおいで。あなたが抱え込んだ人生の重荷ではなく、神さまから与えられる人生を私が示し、私があなたと一緒に生きる」との約束でした。このみことばもイエスさまらしい。徹底的に、私たち人間と共に生きる救い主イエスさまの姿が示されているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、イエスさまが私たちに徹底的に寄り添い、生きてくださる救い主だと示されました。今の時代、コロナによって多くの人が人との繋がりが希薄になり、孤独感を感じています。でもあなたは「私が決してあなたを見捨てない。だからおいで」と招いてくださいます。神さま、どうか私たち、あなたに繋がっていることを喜び、信じて歩む者であれますように。また、あなたに繋げられた兄弟姉妹と共に生きている祝福も改めて感じさせてください。今日は日曜日、礼拝の時です。どうか会堂とネットを繋いで、共に礼拝に与れますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(月) マタイによる福音書12章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所も、昨日の「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい」とのみことばを意識して読みましょう。さて、今朝の箇所では、安息日にイエスさま一行が麦畑を通った際に出来事が書かれています。弟子たちは空腹のあまり、「麦の穂を摘み」、手で揉みほぐして食べ始めました。すると、ファリサイ派の人たちが「あんたの弟子は何てことをしよるとか!」とイエスさまに詰め寄ります。ちなみに「いかんこと」とは、人様の麦畑から勝手に収穫することではなく、安息日に労働と考えられていた麦摘みをしたことです。ユダヤの掟では、生活弱者が飢えてしまわないように、収穫時に一部はわざと収穫せず、貧しい人のために残していましたし、落穂は拾っても良いとされていました。また、鎌ではなく、手で摘む分は認められていました。だから、ファリサイ派は麦を摘んだことを指摘したわけではありません。彼は「神さまを礼拝する安息日には一切の労働が認められない。麦摘みは労働にあたる。だから律法違反だ」と責めたわけです。そこで、イエスさまは言います。「あのさぁ、ダビデがサムエル記上21章で神殿のお供え食った記事、読んだことあろう?また民数記28.9では祭司は安息日に仕事しても仕方んなかってある記述も知っとる?つまりさ、はっきり言うけど、律法は人が神さまの祝福をいただいて生きるためのものであって、人を縛りつけて苦しめるもんじゃないとたい」と告げたのです。
  さて、ここで昨日のみことばを思い起こしましょう。イエスさまは言いました、「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからだ。」それは正に、「人々が、神さまの御心に従うと思いながら形骸化させ、内実を失わせた決まり事で人が苦しめられる、そんな状況じゃなくて、神さまの本来の御心に立ち返って、自由と祝福を享受して生きられるようになりなさい。そのために私のもとに来なさい」なのです。イエスさまに従う、そこに本当の祝福があります。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまがファリサイ派の人と議論なさった物語から、神さまの御心が見失われたルールは人を縛り上げることに気づかされました。考えてみると、私たちにも、意味が見失われながら「伝統、ルール」という理屈だけで守られる慣習が多いように思います。でも、今わたしたちが経験しているコロナは、そういうルールを見直すチャンスでもあります。神さま、どうぞ今、私たちがあなたに御心に立ち返り、神さまに従うからこそ得られる本来の喜びを再発見することができますように。またどうか、多くの人がイエスさまを信じて、あなたによる自由と祝福を得ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(火) マタイによる福音書12章9-14節
一言メッセージ:これも昨日同様、「神さまは何のために律法を与えられたのか」というイエスさまの問いかけの物語です。イエスさまが会堂に入ると、そこに手の動かない男性がいました、イエスさまは物語の終わりに彼の手を癒すのですが、注意して読みますと、彼自身はイエスさまに「手を癒して欲しい」とは言いません。ファリサイ派の人々が「安息日に病を治すのは律法に適っているか」と問うために、彼をダシに使ったのです。手の動かない人の視点で見れば、何て悲しい言い方でしょう。彼は手が動かないことで「神さまに罪を犯した罰だ」と言われてきた。でも彼は神さまに向き合いたいと願い、安息日に会堂にやってきていた。彼自身はイエスさまに「癒して欲しい」とは言わない。彼は神さまと向き合う安息日に、自分の都合を言ってはならないと自制したのでしょう。けれど、ファリサイ派はその彼を利用して、イエスさまを追い込もうとした。イエスさまは彼の口惜しさを受け止めてくださった。イエスさまは即座に、穴に落ちた羊の例を挙げて、「誰でも助けるじゃないか。まして、人間は羊よりはるかに大切なものだ」と語ります。言い方を変えれば、「彼もまた神さまの憐れみをいただく人間だ」と宣言された。そして、彼の手を癒します。それは病の癒しだけでなく、人と扱われなかった彼の人権の回復でした。物語の終わりは残念です。ファリサイ派は神さまの御心、御業を理解するのでなく、自分たちの面子や思惑を潰されたことを恨み、イエスさまは殺害する相談を始めるのです。
  私たちは物語を通して考えさせられます。私たちは、物語のファリサイ派のように、自分たちの願望ありきで神さまを判断するのか。それとも、自分たちの理解を超えた神さまの御心に従うのか。さて、どちらの生き方でありたいですか?
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまがファリサイ派の自分勝手な思惑に尊厳を踏みにじられた人が、イエスさまを通して神さまの御業に与った物語を見てきました。私たちは今、自分たちの生き方を振り返ります。ファリサイ派のように、自分の思惑、願望ありきであなたを見ることがありませんように。私の思惑でなく、あなたの御心を喜び、信じ、従う私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(水) マタイによる福音書12章15-21節
一言メッセージ:昨日の箇所にて、イエスさまを殺害しようとするファリサイ派のたくらみを知ったイエスさまは、さっさとその場を離れます。けれど、こっそり立ち去ることはできず、大勢の群衆が従います。イエスさまは「バレるからついて来るな」と言うことなく、彼らから姿をくらませることもせず、彼らの病をすべて癒し、「言いふらさないでね」とだけ強めに言い聞かせるだけです。本気で逃げようとするならば、どうにも中途半端な対応に思えます。でも、そんなイエスさまの様子をマタイ福音書はイザヤ42.1-4を引用して、こう説明します。「イエスさまは神さまの御心を行うために来られた。イエスさまは誰かを排除するのでなく、自らの命を奪おうと騒ぐ者すら糾弾しない。大通りを普通に歩けないような課題を抱えた罪人たちに寄り添い、受け入れる。神を知らぬ者たちも彼に望みを抱く。」私はこのイザヤ書の引用に、自分の意に沿わぬ者を排除するのでなく、全ての者を受け入れ救おうと願うイエスさまの姿を見出す思いです。どうぞ今朝、仕事や学校、買い物など、あらゆる場面で出会う人々を見ながら思い起こしてください。イエスさまはこの全ての人を救おうとされたし、今も呼びかけておられるのだ、と。その時、私たちもまた、イエスさまの救いをお伝えせねばと思わされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまの行動をイザヤ書42.1-4から読みました。イエスさまは意に沿わぬ者を排除するのでなく、ご自分の命を狙う者さえ救われることを願われました。人々に神さまの御心と御業を示し、今も私たちを救いへと招いてくださるイエスさまに感謝します。どうぞ私たちも、自分たちが出会う人たちにイエスさまの救いの一端でもお伝えすることができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(木) マタイによる福音書12章22-32節
一言メッセージ:今朝の箇所は、若干話が入り組んでいます。22節は「そのとき」と始まりますので、昨日の箇所の続きです。イエスさまの周りに集まった病人がみんな癒されていますが、22節の病人は「目が見えず口が利けない」という重複の病でした。イエスさまが彼を癒すと、ファリサイ派の人々が「あれは悪霊の親玉ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」と騒ぎ、イエスさまを「悪霊」呼ばわりしたのです。難癖ですが、当のイエスさまは彼らの悪意を見抜き、ユーモアで返します。ニュアンスを強調して訳しますと、「悪霊の力で悪霊を追い出すと、内輪もめが起こると。あなたたちが私を『悪霊の力で悪霊を追い出している』と誤解しているのは、そもそも自分たちが悪霊の力で悪霊を追い出しているからかな?でも違うんよ。私は神さまの力で悪霊を追い出して癒している。それはね、神さまの救いがあなたたちのすぐ傍に来ているってことの証だ。(ベルゼブルの別の意味が「家の主人」であることをシャレにして)だいたいさ、家に押し入って強盗するには、家の主人を縛り上げないとできないもんよ。だからね、俺は強盗みたいに、ベルゼブル(家の主人)を縛り上げて、叩き出してるんだ(笑)。」イエスさまは自分を「強盗」に例えるユーモアで、ファリサイ派をやり込めつつ、最期に強い警告を語ります。31-32節「ついでに一言いうから、よく聴きなよ。人間相手の過ちは必死に赦しを乞えば赦されるにしても、神さまに対する冒瀆は赦されないように、人の子(わたし)を批判するのは赦されても、神さまの御心を蔑ろにすることは赦されないからね。よく考えなよ。」
  今朝は、イエスさまの中で笑って流せるところと、流せない部分が明確に見える箇所でした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で、イエスさまはご自分を批判する人々にユーモアで相対しながら、神さまを軽んじることを強く警告しました。物語を見ながら、私たちは自分たちを振り返ります。私たちも自分の思惑や願望によって、時にあなたの御心を蔑ろにしていることがあったならば、どうぞ、いつもあなたの御心を求めて生きる私たちとなれますように。あなたの与えてくださる整えに期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(金) マタイによる福音書12章33-37節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまのファリサイ派の人々への警告です。簡単に言えば、「正しいことを語るならば、行いも正しなさい」です。私が神学生時代に研修させていただいた教会に、アメリカ人の宣教師の方がおられました。日本語ペラペラの方で、彼女と話していた際に、「日本語のキリスト教っていう表現はあまり正しくないです。正確にはキリスト道です。だって、イエスさまの言葉は単なる教えじゃなくて、『こう生きていきなさい』っていう促しですから」と話してくれました。2002年当時は、戦後まもない日本伝道のために多大な尽力し、私たち日本バプテスト連盟の支援し続けてくれたアメリカの南部バプテスト連盟が極端に右傾化していた時期で、執行部が「女性が牧師や宣教師であることは好ましくない」という時代錯誤な主張をし、女性牧師や女性宣教師を解任する動きが出ていました(おそらく、時代背景的に9.11同時多発テロ以降のアメリカの風潮が影響していたと思います)。彼女自身も宣教師の資格をはく奪され、アメリカに帰国せねばならないか…という時期でした。でも彼女は、南部バプテスト連盟の主張を拒否し、西南大の教授として日本に留まり、今まで通り、日本の教会のために実直に働き続けました。最後には西南大学の学長を務め、アメリカに帰国しましたが、私は彼女が教えてくれた「イエスさまのことばは、私たちに生き方を促しています」という言葉が、とても心に残っています。彼女もまた「キリスト道」を歩んだ方でした。私たちもそうありたいものです。大きな働きを行わなくても構いません。でも日々の小さな出来事で、イエスさまの御心を誠実に行う者でありたいと願います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまは「正しい言葉を語るならば、行いも正しなさい」と勧めてくださいました。私たちは信仰を単なる知識にはしません。イエスさまの御言葉を生きる者でありたいと願います。大きな働きはできませんが、一日一日、小さくともあなたにお応えする生き方をさせてください。私たちの救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(土) マタイによる福音書12章38-42節
一言メッセージ:イエスさまから「神さまの御心に従って生きなさい」と言われたファリサイ派や律法学者の人たちは、「そこまで言うんだったら、お前が神の派遣した者だという、目に見える証拠を出せ」と騒ぎます。イエスさまは「神を知らぬ者たちほど『証拠だ』何だと騒ぐ」と語り、ヨナ書と列王記上10.1-13の物語を引き合いに出します。イエスさまが語る「しるし」は、ご自分が十字架で死に葬られることと語ります(厳密に言うと、イエスさまが葬られてから復活までの期間は二日間です。三日目には復活していますから。だから「三日三晩」はヨナ書に引っ張られた記述です)。さて、注目したいのは、ヨナ書と列王記の記述で、ニネベの街と南の国の女王が言及されていることです。実はニネベとはイエスさまから遡ること750年の昔、北イスラエル王国を滅ぼした敵国アッシリアの首都です。ヨナ書の深いテーマは「自らを滅ぼす者のために救いを告げに行くヨナ」なのですが、イエスさまはこの話を引用しながら、神を知らぬ民(異邦人)さえ、ヨナの言葉に悔い改めたと示します。また南の国はアフリカの国ですが、女王はソロモン王の知恵を聞くためにやってきて、神を信じます。イエスさまは「どちらも、元来、神を知らぬ者たちであったのに、彼らは神を信じ、悔い改めた」と示し、それこそが「ヨナにまさるもの」「ソロモンにまさるもの」と語ります。この「もの」というギリシア語に注目しますと、人を指す言葉ではなく、何らかの現象を指すための言葉です。おそらく、イエスさまの意図では「神の選びにあぐらをかき、内実、神を蔑ろにするユダヤ人ではなく、神を知らぬ民であってもその福音を知り、信じ、従う者たちによって新たな世界が始まる。それこそが神の国だ」と告げようとしたのでしょう。今朝の箇所のポイントを示すならば、「悔い改め、信じて従いなさい」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは改めて、イエスさまから「信じて従いなさい」と促されました。どれほどの善行を積んできたかではなく、どれほど秀でた人間であるかでもなく、信じ、悔い改め、従い生きる者をイエスさまは喜んでくださいます。神さま、どうぞ、私たちをさらに深くあなたを信じる者とならせてください。弱い者でありますが、あなたを信じる兄弟姉妹の交わりに励まされながら、どうぞ共にあなたに従う私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***




3月14日~20日のみことば - 2021.03.14 Sun

3月も半ば。教会の桜もそろそろ開花の予感!
今週もみことばに養われながら歩みたいと思います。

**日々のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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14日(日) マタイによる福音書10章16-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は私たちにとってあまり喜ばしくない、迫害と苦難の預言です。イエスさまの福音を告げることが人々の怒りや敵意の対象になると書かれます。現在の私たちから見れば、信仰のゆえに命の危険を感じる苦難はありませんが、でも、信仰ゆえに「何だか規制されているように見える」といった誤解を受けるということはある。根本的なことですが、信仰と人間の本能とは相反する部分があるからです。「自由」は本来、責任を伴いますが、多くの人が「身勝手」とはき違えがちです。例えるならば、自分の自由を押し通すために、他人の自由を踏みにじることは「自由」ではなく、身勝手に過ぎません。では本当の「自由」、誰にとっても祝福に満ちた最善の解放とはどこで得られるのか。それは、神さまの御手の中でこそ与えられるものです。なぜなら、神さまに従う自由は、人には乗り越えがたい困難さえ整え、未来における祝福を約束してくれるからです。人は目先の出来事に翻弄されがちですが、信仰は人間の理解の及ばぬ先に目を向けることを求めます。人は感情に捉われがちですが、信仰は時に、感情を超えた決意を求めるのです。例えば、以前も紹介しましたが、公民権運動の中でキング牧師が語った説教「汝の敵を愛せ」では、イエスさまの「汝の敵を愛せ」とのみことばを取り上げながら、「私たちは自分たちを暴行する敵を好きになれない。好きになるは感情の事柄だ。けれど、イエスさまは私たちに『好きになれ』でなく『愛せ』と語られた。それは決意の出来事だ」と語りました。その結果、キング牧師の運動から50年後、アメリカではオバマさんというアフリカにルーツを持つ人が大統領になるという変化を生み出しました。信仰は私たちに感情を超えた要求をします。けれど、その要求に従うからこそ、自分たちの理解や限界を超えた神さまの御業が実現するのです。
イエスさまもそうでした。人々から誤解を受け、迫害されると弟子たちに語りながらも、25節で言葉遊びをしています。ベルゼブルは悪霊の親玉(9.34参照)という意味ですが、そもそもの言葉はベエルが「家」、ゼブルは「主人」です。イエスさまは弟子たちに「人々は私のことを悪霊の親玉のように言うが、それに従うあなたたちも同じようにが敵意は燃やされるだろう。でも、笑い飛ばそう。だって、あなたたちが私並みに思われているってことだ。こりゃ、すごいことじゃないか(爆笑)」と笑ったのです。苦境でのユーモア、その根底にあるのは「人がどれだけ騒いでも、真理は神さまにこそあるんだから、大丈夫」との信頼です。大事なことは、他人からあれこれ言われて動揺するのでなく、私たちが信じ従うのは誰か、です。私たちは神さまに従っているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは時に、信仰ゆえに誤解を受けることがあります。でも神さま、イエスさまは誤解を受けていてもユーモアを交えて語って下さいました。神さま、私たちは追い込まれ、余裕を失う時も、いつもあなたを信じ、従っていることを忘れず、あなたによる希望をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(月) マタイによる福音書10章26-31節
一言メッセージ:今朝は昨日の続きのみことばです。イエスさまは「周囲の人々を恐れ、翻弄されてはならない。あなたは人々を信じ、従っているのでなく、主なる神さまを信じ、従っているのだから。だから、後ろめたく隠れるのでなく、堂々と福音を実践しなさい」と促されます。
  そんなみことばの中で注目したいのは29節です。先日、恩師の青野太潮先生が最新の著書『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』(ヨベル新書)を献呈くださいました。恩師から「ちゃんと勉強するように」と促されたのですが、その中で29節にびっくりする指摘がされていました。この「(一羽の雀さえ)父のお許しがなければ、地に落ちることはない」を原文で読むと、「お許しが」という言葉は翻訳者の補足であり、原文は「一羽の雀であっても、父なしには落ちることがない」なのだそうです。その意味は「父が一羽の雀にすら伴い、共に苦難を経験してくださる」のです。その最も明確な現れが十字架のイエスさまです。私たちは今朝のみことばを通して、苦難の中でも共なって下さる神さまの姿を見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはみことばから、苦難の中で私たちを見捨てるのでなく、苦しみに伴ってくださる神さまの姿を知らされました。あなたは私たちをどこか遠くから見ているだけでなく、私たちと共に生きてくださるお方です。どうか私たちはそんな神さまをいつも身近に感じ、あなたの御心を模索しつつ、生きる者であれますように。私たちの救い主にして、永遠の同伴者イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(火) マタイによる福音書10章32-33節
一言メッセージ:今朝のみことばも昨日の続きとして読むと、より分かりやすいです。苦難の中で共にいてくださるイエスさまは、わたしたちがいついかなる時にも「わたしはイエスさまを信じている」と言い表すことを喜んでくださる。以前、ある牧師の説教集を読んでいる時に衝撃的な記述に出会いました。彼は、私たち人間が神さまの御心に従わない罪人であることを語りながら、その私たちがこの世での命を終え、天に帰る時に神さまの前に立たされ、自分も生涯を振り返る時の光景を、こう語りました。「その時、私たちの傍らに御子イエス・キリストが立ち、父なる神に対してこう告げるでしょう。『父よ、この者は確かにあなたの御心を悟らず、己が願望に生きてきた罪人です。しかし、にもかかわらず、この者はわたしが愛し、救わんと願い、十字架にかかって贖った者です。父よ、この者は私に属する者なのです。どうぞ、この者を赦し、お救いください』と。私たちの救い主は神の前にて私たちの側に立つ方です。」このイエスさまのイメージに、私は度肝抜かれながら、共感しました。私たちも素直に、イエスさまを信じ抜く者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、自分たちがあなたの御心に反れる罪人であると思い起こしました。けれど、あなたはそんな不完全な私たちであっても、あなたを信じ抜く者を喜び、ご自分の仲間、ご自分に属する者と言い抜いてくださることを知りました。イエスさまの深い愛に感謝します。どうぞ私たちもいつ如何なる時にもイエスさまを信じる者であり続けられますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(水) マタイによる福音書10章34-39節
一言メッセージ:マタイ10章のイエスさまの「弟子派遣説教」も佳境に入ってきました。今朝の箇所も信仰に生きることと、己の本能に生きることの異質性が際立つ箇所です。イエスさまは「わたしは争いをもたらすために来た」と語ります。神さまに従うか、自分や周囲の都合に従うか、という選択が迫られるのです。でも、誤解してはいけません。神さまに従うことは、自分や周囲の都合を切り捨てることではありません。38-39節で言われるように、「イエスさまに従う者は、かえって全てを得るのだ」と言われるのです。言うなれば、「あなたは神さまに従って、あなたの家族や友人や全ての事柄において、神さまの最善の判断と整えをいただいて生きるか、それとも己が都合を優先し、限られた出来事だけで生きるのか」と問われるのです。
今、私は42歳。献身して神学部に入ると決めてからまもなく20年になろうとします。不思議なもので、私は神さまに従う決意をしてから、強い不足を感じたことがありません。いや、一時的な必要を感じることがありますし、必要以上は与えられません。でも、必要分は満たされますし、何より、未来に対する安心がある。「あなたに従って生涯を献げたのですから、あとのことは、どうぞひとつよろしくお願いしますね!」という厚かましいまでの信頼があるのです。みことばは真実です。どうぞ皆さんも安心して、信じて、委ねてみてください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは最初に読んだ時には少し不穏に感じました。あなたの従うことが争いを生じさせると感じました。でも、イエスさまの意図は敵対関係ではなく、あなたの御心に従うことによって、全てが整えられていくとの促しでした。神さま、私たちは先の見えぬ不安の中で臆病になりがちです。でも、あなたは私たちの見えぬ先さえ見据えながら、「信じなさい、従いなさい」と促されます。どうぞ、日々、あなたを信頼し、従う私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(木) マタイによる福音書10章40節-11章1節
一言メッセージ:イエスさまの「弟子派遣説教」のラストです。イエスさまがこの説教の最後に語ったのは、協力者たちへのススメの言葉です。弟子たちを受け入れる者をイエスさまもまた喜び、受け入れるとの約束の言葉です。42節で「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と書かれています。この「冷たい水一杯」は当時の水がめを思い起こす必要があります。当時は今のように蛇口を捻れば水が出るわけではありませんから、朝夕に井戸に出向き、水がめに水を汲み、家の甕に入れて使っていました。家の水甕には幾種かあったのか、ここで言われた水は多孔質といって、水がにじみ出るように細かいヒビが入った甕の水です。水が少しずつ滲み出るのですが、そのことによって水の冷たさが保持された水です。滲み出るから、また朝夕には汲みにいかねばならない。だから、家族用の飲み水なのです。イエスさまはそんな「冷たい家族用の冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は…」と語り、神さまに従う者を家族同様に対してくれる人に神さまの祝福は大きいと告げたのです。今の世知辛い世の中において、信仰による家族の存在の有難さを思い起こします。さぁ、今日も兄弟姉妹、共に祈り合いながら、繋がっていることを覚えて歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは「弟子派遣説教」の終わりを読みながら、あなたによる家族を受け入れ合うことを分かち合いました。今の社会は世知辛く、人と人との距離が遠くなっている時代ですが、でもイエスさまは信仰による家族が神さまの御前にしっかりと繋がっていることを示してくださいました。神さま、どうぞ私たちが、あなたによって繋げられた家族であることを喜び合い、ますます共に生きる者であれますように。またどうぞこの繋がりに新たな方々も加えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(金) マタイによる福音書11章2-19節
一言メッセージ:イエスさまがバプテスマのヨハネの弟子とやり取りをし、続けて弟子たちに語る箇所です。どちらの話にもイエスさまに共通するのは、「人間は己の都合や理解で物事を判断する。しかし、あなたたちは今、わたしが何を語り、何を行い、何を示しているのか、真っすぐな眼で見極めなさい」という示唆でした。
  今の時代は情報に溢れた時代です。調べものしようと思えば、ネットですぐに分かる時代です。けれど、ネットの弱点は情報があり過ぎて、見解が割れるケースが多い。例えば、コロナ禍当初を思い起こしますと、「トイレットペーパーが無くなる」というデマが流れ、買いだめする人が出て来ました。そんな折に、教会に注文していたトイレットペーパー100個が届いて大笑いしましたが、これなんて、人間がいかに情報に流されやすいかという一例です。情報が多くなりすぎますと、人間は自分にとって都合の良い情報ばかりを選びやすくなります。今と言う時代はそういう特徴があるでしょう。でもイエスさまは言われます。「あなたたちは、神さまが今何を語り、何を行い、何を示しておられるのか、を何にも捉われない真っすぐな眼で見極めなさい。」私たちは冷静に、神さまに立って物事を判断するように心がけましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、情報に翻弄されず、あなたに御心を模索して生きること、冷静さと信仰を持って生きることを諭されました。コロナに対しても正しく恐れ、対処することができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(土) マタイによる福音書11章20-24節
一言メッセージ:今朝の箇所、イエスさまは悔い改めない町々を叱ったと記されています。このイエスさまの怒りを理解するには、「奇跡とは何か」を知る必要があります。
  イエスさまの奇跡を経験した人々にとっての奇跡とは「問題が解決された」という出来事だと受け取ったでしょう。でもイエスさまの意図は「奇跡は、神さまの御業を目の当たりにして、神さまに誠実に立ち返るための機会」でした。だから、イエスさまは町の人々が奇跡を通して、神さまに立ち返ることを求めた。けれど、町の人々が自分たちの課題が解決したら、その後は神さまそっちのけになった。そのことをイエスさまは怒って指摘したのです。でもこの怒りは裏返すならば、「神さまに従えばいいのに。なんてもったいないことを…」という促しです。
  このイエスさまの怒りについて、私たちも自分たちに当てはめて考えてみたいと思います。私たちは、それぞれの過去を振り返りますと、神さまによって問題の解決をいただいたり、知恵や助けをいただいてきました。それが過去の課題解決で「良かった、よかった」で留まっているならば、もったいない。神さまの御業は過去の一回きりの出来事なのでなく、今の私たちに繋がっている神さまの守りの1つなのです。言うなれば、私たちは今も神さまの御手の中で歩めているのです。そこでは過去の後悔も、今の課題も、未来への不安も、神さまの御手による整えを期待できるはずなのに、神さまを意識しないならば全てを自分の力で解決せねばならないと勘違いしてしまう。それはもったいないのです。私たちは神さまの御業を過去の点で捉えるのでなく、今に続く線で受け止めたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、あなたの奇跡が、単なる課題解決ではなく、あなたに立ち返るためのチャンスだと気付きました。あなたの守りは過去の一回だけの出来事ではなく、今もずっと続いている祝福と気付きました。神さま、御手の中で生かされていることを感謝します。あなたの御手の中にあるからこそ、私たちは過去の後悔も、今の課題も、未来の不安も、あなたにお委ねしながら歩むことができます。どうぞあなたの最善のご判断の中で私たちをお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***




3月7日~13日のみことば - 2021.03.05 Fri

いよいよ3月!
卒業を迎えられる(迎えられた)皆さん、おめでとうございます。
新型コロナウイルスの影響で、いろんな制限がある中でのラストイヤー。何かと不自由を感じることが多かったと思います。日本、いえ世界が戸惑う中で、いつも通り過ごせない悔しさ。それでも進んでいく時間。今の状況の中で自分がどのように立ちふるまっていくのか、何をして何をしないのか、新しい生活の中で揺さぶられる1年だったと思います。
でも、そんなときだからこそ皆さんが学ぶべき業を終えて卒業されることにひとしおの思いもあるのではないでしょうか。ぜひ、自分をたくさんたくさんほめてあげてくださいね。

卒業を迎えるあなたも、そうでないあなたも、新しい1週間、またみことばに励まされながら歩んでいきましょう♪

**日々のみことば***

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7日(日) マタイによる福音書9章14-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイに時々ある、幾つかの短い例話が並んでて、「さぁ、共通するメッセージは何でしょう?」パターンの箇所です。ちょっと前に読んだ箇所では、5.38-42の「悪人に歯向かうな」といって非暴力抵抗が勧められた箇所もそうでした。では、今朝の箇所は何がメッセージなのでしょう。
  14節ではバプテスマのヨハネの弟子がやってきて、「どうして断食しないの?『神さまに立ち帰れ』と語っている僕らも、『律法を守れ』と主張するファリサイ派も、断食は大事にしてるのに?」と尋ねます。断食は自らの誠実さを神さまに訴える善行でした。そこでイエスさまは答えます。①15節、「結婚式の祝いの時に悲しむ人はいないでしょ?今はそういう時。そのうち、花婿が奪い取られる時がくれば、誰もが悲しくて『神さま、なんで?』と断食する時はくる。」イエスさまは自らが十字架で死んだ時の混乱を語りながら、「でも今は神さま救いの宣言が語られる時。喜ぶ時」と語りました。②16節、古い布と新しい布です。イメージするために昨年のアベノマスクを思い出してください。「洗うとすぐに縮む」と大不評でした。あの現象と同じく、「古い服の継ぎに新しい布を使うと、洗った際に縮んで服をダメにする」と言うのです。③17節も似た話です。新しいぶどう酒は発酵が進みますから、密封された空間で膨張します。古い革袋はその膨張に耐えれずに避けてしまう。イエスさまは3つの話を並べ、「今は神さまから与えられた救いの宣言の時。苦しみを分かち合う前に、神さまの救いを告げ知らせ、喜び合う時」とイエスさまは告げたのです。
  では今の私たちはこのみことばに何を考えましょう。それは「その時その時に神さまが私たちに示すメッセージを模索しよう」です。今日は日曜日、礼拝の時です。日々の労苦や課題はあっても、神さまと向き合うことで新たな力と示唆をいただく時。今朝も共に礼拝に与りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所に私たちは、その時その時にあなたが何を示唆されているのかを模索することに気づきました。今日は日曜日。どうぞあなたと向き合うことができますように。10:30の礼拝で、都合があわなければyoutubeのアーカイブで礼拝に集うことができますように。礼拝による慰めと力添えを皆がいただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(月) マタイによる福音書9章18-26節
一言メッセージ:マルコ版と比べて、話がかなり省略されているのが今朝のマタイ版の箇所です。基本構造は同じで、2つの話が組み合わさっています。1つはある指導者(マルコでは会堂長ヤイロ)の娘の復活、もう1つは12年出血が続く女性の癒しです。
  指導者の娘はマルコと違い、物語のスタート時点で亡くなっています。父親はイエスさまに「おいでくださって手を置いてくだされば生き返るでしょう」とすがります。イエスさまは一緒に行くのですが、その時、12年出血が続く女性が近づいてきて、イエスさまの服の房に触れて癒される。律法では「血は命」だとされていますから、異常出血が続くことは、命が損なわれ続けていると理解され、何らかの罪による穢れが原因だと思われていました。穢れに対する人々の反応は非常に冷たい。今で言う「自己責任」や「家族の問題」とされるばかり。マルコでは彼女は医師や祭司を回って治療を続けますが、全財産を使い果たしても癒されなかったのです。彼女は藁にもすがる思いでイエスさまに近づく。正面からでなく「後ろから(20節)」なのも、穢れていると思われる者が他者に触れることは禁じられていたからです。彼女はタブーを破ってまでも救われたいと願った。イエスさまは彼女が触れたことに気づくと、彼女を責めるのでなく、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げます。マルコと違うのは、この言葉の後に彼女は癒されているところですが、ともかく彼女はイエスさまによって癒しをいただいたのでした。
  さて話は戻ります。指導者の娘の家に行くと、葬儀が始まっていた。笛を吹き、悲しみ騒ぐ人たちにイエスさまは言う。「少女は死んだのではない。眠っているだけだ。」人々はあざ笑いますが、イエスさまは彼女の手を取り、復活させられました。
  どちらの話にも共通するものはイエスさまの宣言が癒しに先駆けられていることです。この出血も死も、人の力、常識では覆せない現実です。けれど、なお諦めずに助けを求める人々をイエスさまは見捨てず、現実を覆す御業を為してくださる。葬儀に集まる人々のようにあざ笑う人々はいても、彼らは黙る。自分たちの常識で測れない御業を経験するからです。人の理解を超えるから奇跡、神さまの御手の業だから神業。今日も奇跡、神業を期待し、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはあなたの御手の中、神業の中で生かされていることを感謝します。どうぞ、今日の一日もあなたへの期待の中で歩ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(火) マタイによる福音書9章27-31節
一言メッセージ:今朝のみことばは、癒しの話です。二人の盲人がイエスさまに「癒してください」と願い、イエスさまは癒される。イエスさまは「人々に言っちゃだめよ」と言うのに、彼らはみんなに「見て、僕ら、癒された~♪イエスさまがやってくれた~♪」と言いふらしちゃう、という話です。目を開いてもらった二人には「あんた、何で言うとね?」と思うし、イエスさまにも「言うてほしくなかったら、癒さん方がよかったんやない?」という疑問が沸く。でも、どちらも心境を考えると理解できるのです。私たちも、身体が回復されたら嬉しいし、感謝を伝えたいものです。そして、イエスさまの立場で考えても、助けを必要とする人が目の前にいれば、放っておけないものです。私には、どちらの気持ちも分かる気がする。そんな物語の中で1つだけ注目しましょう。盲人たちにイエスさまが問う言葉です。「わたしにできると信じるか。」「理解するか」ではありません。人の理屈、理解を超え、でも信じるか、と問うのです。昨日の箇所では亡くなった少女の復活前、人々はイエスさまをあざ笑いました。常識では死者が復活するなんてあり得ないから。でも不思議です。彼らに復活信仰はある。彼らは復活を信じていながら、それが現実に起こるとは意識していなかった。イエスさまは強く問います。「あなたは信じるか、わたしが人の理解や常識を超えた神さまの御業を示すと信じるか?」その問いは今日、私たちにも投げかけられます。あなたは自分の常識や経験を超え、イエスさまを信じているか、と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはイエスさまから「信じるか」と問われました。いつも自分たちの常識や経験に捉われがちな私たちに、あなたの理解を超える神さまの御業を信じるか、と問われます。神さま、私たちはあなたを信じます。どうぞ、あなたの御業を私たちに行ってください。私たちの理解を超える喜びを実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(水) マタイによる福音書9章32-34節
一言メッセージ:今朝は口のきけない人の癒しです。イエスさまはいつものように、人を癒される。その御業に驚嘆した人たちは大騒ぎする。すると34節、ファリサイ派の人たちは「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と騒ぐ。今朝はここに注目したい。私たちは自分たちの理解や経験は絶対ではないことを知らないといけません。理解できない出来事があると、何でも自分の経験や常識の中に無理やりはめ込もうとするのは人間の悪いところです。分からないことは恥ではない。分からないなら素直に驚嘆し、周囲に教えてもらったらいい。神さまの御業ならば喜んで感謝すればいい。そうしなければ、大事なものを見失うのです。正に今朝のファリサイ派のように、神さまを信じるがゆえに律法を遵守しようとするのに、律法を遵守する自分たちを誇るあまりに神さまの御業を、事もあろうに「悪霊の頭の力」と断じてしまう。今朝の箇所は「人の振り見て我が振り直せ」のように、ファリサイ派の傲慢見て自分たちの傲慢を改めねば、と思わされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばもありがとうございます。今朝は人間の傲慢さを思いました。あなたの前に私たちはちっぽけな存在でしかないのに、プライドに捉われ、あなたの御業を自分たちのちっぽけな理解の枠に当てはめ、誤解してしまいます。神さま、どうぞ私たちを日々驕り高ぶりから解放し、知らぬを受け入れ、新たを喜び、御業に素直に感動し、神業を行われるあなたに期待する、そんな私たちにならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(木) マタイによる福音書9章35-38節
一言メッセージ:私は今朝のみことばを読みながら、今の時代と重なって読めてきます。イエスさまは町や村を残らず周り、神さまの御言葉を伝え、病人に寄り添い、貧しい人々の友になります。その時、人々はそれまで表情が固まっているようだったのに、神さまのみことばを聞き、心ほぐれ、涙が滲み、抑え込んできた思いを吐露していく。イエスさまはそんな出会いを経験しながら、切実に思う。「こんなにも今、みことばを必要とする人々が溢れているのに、伝える者が足りない。」
さて、ここで注目したいのは37-38節。イエスさまは弟子たちに「あなたたちが行きなさい」と言うのではなく、「神さまに働き手を送ってくださるように祈りなさい」と告げるのです。
  今日は東日本大震災から10年目の記念日です。あの日も金曜日でした。あれから10年、被災された方々は今、何を思っているでしょうか。10年前に失った大事なものを思い起こし、打ちひしがれるのでなく、希望を見出していたほしいと願います。人間、本当につらい時、欲しいものは傍にいてくれる存在であり、いつ如何なる時にも変わることのない希望なのです。正に、それはイエスさまという存在であり、神さまのみことばです。
  2021年3月11日の今日、私たちは東日本大震災を思い起こしつつ、また自分たち自身も新型コロナウイルスという災害の真っただ中にいる。その時に、私は今朝のイエスさまのみことばを痛感します。「神さま、どうか、この時代にあなたのみことばを伝える働き手を送ってください。あなたの希望を伝える者を起こしてください。もし私たちで良いならば、どうか今、私たちを創り変えてください。困難の中で自分のうちに籠るのでなく、いかなる時にもあなたを見上げ続ける者に、何があろうと心折れずに立ち続ける自分たちであらせてください。神さま、どうか、今を生きる人々をお救い下さい」と祈らされるのです。今日は3.11、東北の友を想って過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は3.11、東日本大震災から10年です。あの日、私たちは海岸に迫りくる津波の映像を前に言葉を失いました。水が家や車を飲み込んでいく様、生活や命が奪われていく様を見ました。あれから10年、東北の方々の心はまだ痛んでおられますし、私たち自身も新型コロナウイルスという災害に直面しています。神さま、今の時代もイエスさまの言われたように働き手が必要です。どうか、傷つく者と共におり、みことばを告げる者を起こしてください。私たちで良いながら、どうぞあなたの整えの中で、御用に用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(金) マタイによる福音書10章1-4節
一言メッセージ:今朝の10章はマタイ福音書のイエスさまの5つの大きな説教集の2つ目の始まりです(1つ目は5-7章の山上の説教)。この10章のテーマは「弟子派遣説教」です。今朝はその直前でイエスさまが12弟子を選んだという箇所になります。さて、ありがちな誤解なのですが、イエスさまの弟子はこの12人だけではありません。他にも、イエスさまの手助けをしている人たちがいます。また、マグダラのマリアのように従っていた女性たちも大勢います。どうもついて来るスタイルの弟子や各地に定住している弟子を含め、大勢の弟子がいたのです。そうなると「では、この12弟子とは何か」という疑問が沸く。実はこの12弟子という仕組みはイエスさまのメッセージが込められた存在です。旧約時代、イスラエルはヤコブの息子たち10名(12人の息子からヨセフとレビを除いて)と、ヨセフの息子(エフライムとマナセ)を含めることで、12部族が制定されます。これがイスラエルです。イエスさまは人々にこの12部族をイメージさせ、神さまの御国において新しいイスラエルが始まることを示すために12弟子を選ばれたのです。イエスさまはここでも民の生活のただ中で神さまの救い、神さまの御国が始まることを示されたのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは12弟子について考えました。イエスさまは神さまの御国の始まり、神さまの救いの到来を、12弟子を選ぶことによって示されました。弟子たち自身は特別、秀でた人物たちではありません。普通の人たちです。いや、ユダを考えると、イエスさまを裏切るさえもいる。でも、イエスさまはそんな人々を選びながら、神さまの御国を象徴する存在としてくださいました。今、私たちは12弟子を見ながら、あなたの救いがユダのような罪深い者さえも含んでくださっていることを知ります。神さま、どうぞ私たちの社会に御国を来たらせ、お救いください。あなたの御業の実現を心から祈ります。アーメン。

13日(土) マタイによる福音書10章5-15節
一言メッセージ:今朝の箇所から10章の終わりまでがイエスさまの「弟子派遣説教」です。読み始めから私たちはびっくりします。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の道に入ってはならない。」私たちは「えっ?ユダヤ人以外は無視なの?」と驚く。でも誤解してはいけません。ユダヤ教的な理解では、ユダヤ人が世界の救いのために最初に選ばれた、と思われていました。これは順序の問題です。5-6節は「ユダヤ人以外の排斥ではなく順序」なのです。
  大事なのは7節以降です。イエスさまはあれこれ準備して万全を期して伝道…ではなく、ひょいと伝道することを告げます。注目したいのは11節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかとよく調べ…」と語りました。それは、伝道の理解者のリサーチであり、何よりみことばを必要としている方を見極めるように、とのススメです。誰も相手にしないのであれば、14節「足の埃を払い落とし」て去るように言います。あっさり、次の必要としている人に告げるように言われます。それほどに、神さまの救いの時は近づいているから、でした。
  先日、鳥栖の濱野先生が経済学者の島田恒さん(関西学院大学神学部客員講師、教団の信徒さん)との共著『教会のマネジメント』を読みました。教会の使命の確認と、使命に適した体制や行事の確認、みんなでどう取り組むか、などヒントいっぱいでした。いつか皆さんと分かち合いたいですが、その中でも「福音を必要としている人は誰かを定め、どう伝えるのが適格か」ということも語られています。イエスさまの今朝の言葉にも通じます。
  今、私たちの周りでイエスさまの福音を必要としているのは誰でしょう。そして、どう伝えるのが適当でしょう。私たちは今、「考えてごらん」と促されていると思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、私たちの周りでイエスさまの福音を必要としているのは誰で、どう伝えるのが適当か、と問われました。私たちは「伝道」と聞くと、何だか難しいことのように思ってしまいます。でも、どうぞ身近なところから、ひょいとみことばをお伝えすることができますように。どうぞ、聴いてもらえるチャンスと適切な伝え方を考えさせてください。いのちの御言葉と、軽いフットワークをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***





2月28日~3月6日のみことば - 2021.02.26 Fri

2月も終わり、まもなく3月です。
ようやく暖かくなり春を感じる日が増えてきましたね。
付設幼児園の子供たちが植えたチューリップの球根もつぎつぎと芽を出し始めました。
イースター(復活祭)の讃美歌に「球根の中には」という讃美歌があり、1番の歌詞は「球根の中には花が秘められ さなぎの中から命輝く 寒い冬の中春は目覚める その日その時をただ神が知る」です。今は何かと忍耐のときですが、球根から花が開くように今の忍耐もいつの日か報われるときが来ることを願いつつ、その日その時を知る神さまに祈りつつ歩みたいと思います。
今週も皆さんの上に神さまの守りがありますように♪



**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

28日(日) マタイによる福音書8章5-13節
一言メッセージ:イエスさまの傍に一人の百人隊長が近づいてきたことから今朝の物語は始まります。百人隊長とはローマ軍の隊長であり、当時の社会的な地位でみれば、かなりの「お偉いさん」でした。しかし彼は自分の僕の中風の癒しを願うため、イエスさまに懇願します。とても不思議なことに、彼はイエスさまが「そら大変、すぐ行こう」と言われるのに、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と辞退し、「ただ一言、『癒されよ』と命じてください」と願います。これ、どういうことかと言えば、ユダヤ教的な文化では異邦人と交わることはその人が汚れてしまうと考えるため、交わりそのものを禁じていました。百人隊長は社会的身分ではかなり上の人なのに、とても謙遜にユダヤ教的な文化を尊重し、イエスさまにへりくだりつつ、神さまの御業を信じていたのです。イエスさまは10節「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と称賛し、百人隊長の願い通りに癒しを宣言しました。この物語の中でイエスさまが「良し」となさったのは、社会的地位に左右されず、神さまの前にへりくだる信仰です。そして、イエスさまはそんな信仰に感心し、病人自身でなく、彼の信仰の故に御業を行ってくださるのでした。私たちはこのみことばに、大切な可能性を見出します。私たちもこの百人隊長のように、自分たちの大事な家族や友人の救いを純粋に祈れると感じるのです。ぜひ、以下の祈りの〇〇の部分にあなたの祈りたい方の名を当てはめて祈ってみてくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは百人隊長の信仰の物語を読みました。イエスさまは彼の信仰のゆえに、彼の僕を癒してくださいました。神さま、今、私たちはこの物語に励まされ、同じように祈り、願います。どうぞわたしの大事な○○をお救いください。どうぞ私たちと共に御前に集い、礼拝することができるように御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3月1日(月) マタイによる福音書8章14-17節
一言メッセージ:時々、「キリスト教に入ったら、家の宗教を否定したり、墓を拒否したり、家族を蔑ろにしたりしないといけないのでは?」という疑問を持つ人と出会います。結論を言えば、そんなことはありません。例えば、私の家も母方の祖父母は仏教徒でした。祖母は私が生まれて半年で亡くなったので、佐世保の母の実家に行った際には骨が納められていたお寺さんに出向き、花を手向けたりしていました。祖父が亡くなった後は親戚のお寺さん(母方の遠縁がお寺の住職さん)に祖母ともども、遺骨を移して永代供養をお願いしています。祖父たちの納骨の時には近しい親戚が集まりましたが、お寺で14人中クリスチャンが10人、内、牧師2人いました。でも我が家は「お寺さんにお願いするなんて」みたいな感覚は何一つ感じません。私が大事にしているのは「“人は死んだら仏(神)になる”という理解ではなく、自分のルーツにありがとうと感謝する気持ちと理解すること」であって、家の宗教や墓や家族を蔑ろにすることは全く求めません。その区別をしっかりつけながら、自分のルーツに感謝しています。
実際、今朝の箇所を見ると、イエスさまは信じて従う者の家族のこともちゃんと理解し、働きかけてくださっています。イエスさまは弟子のペトロの母の病を知り、駆け付け、自ら手で触れ(手当てした)、癒されました。イエスさまは「家族を棄てろ」と言うのでなく、「何よりも先ず神さまを信じ、従いなさい。そうすれば全ては整えられる」と示されました。
その上で、今朝の最期に17節のイザヤ53.4の引用に注目しましょう。ここは「苦難の僕」と呼ばれる箇所です。一人の神の僕が一身に人々の罪を背負って死に、全ての罪人を救うと記される箇所です。マタイ福音書はその箇所を引用し、「イエスさまは私たちの実際の生活の様々な出来事においても、私たちを負い、担ってくださる(「病を取り去り、無くした」のではなく「自らが背負い、担った」ということにも注目したい)」と示したのです。私たちは今日もイエスさまに背負われ、担われています。安心して、感謝して、一日を始めていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは、「イエスさまを信じると家族を棄てねばならない」といった誤解を解く物語を読みました。イエスさまは「人間を神にしてはならない」と示されますが、自分の家族や家を大事にすることをイエスさまも大事にしてくださいました。神さま、私たちは安心してあなたに従い、また周囲の大事な家族や仲間たちにもあなたをお伝えできます。どうぞ、どうぞ私たちの家族や仲間たちにもあなたの救いを実感させ、信じさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(火) マタイによる福音書8章18-22節
一言メッセージ:今朝の箇所は、昨日の「イエスさまは私たちの家族のことを大事に思ってくださる」というメッセージと相反するように見えるみことばです。でも、そうではありません。新共同訳聖書の表題に示されるように「覚悟」、言い換えるならば「姿勢」を問うたのです。
  今朝の箇所を読む際に、3つのことを覚えながら読みたいと思います。1つ目はイエスさまの基本理解です。イエスさまは4.17で「神さまの国はもうすぐにでも実現するかもしれない。だから、早急に悔い改めて神さまを信じなさい」と語っています。今朝の箇所を読む上で覚えたい1つ目のことは、この切迫した「信じなさい」という感覚です。
2つ目は、今朝の物語が起こった時間です。今朝の箇所には、この出来事がいつ起こっているのかが記されていません。でも直前の16節を見ますと、「夕方」と記されています。そこから大勢の群衆が集まってきて、次々に癒しを求められ、イエスさまは癒し続けていました。けれど、今朝の箇所でイエスさまは弟子たちに「(ガリラヤ湖の)向こう岸に渡ろう」と言われます。ユダヤ社会では一日は日暮れから始まります。つまり、「夕方」とは一日の終わりの時間でした。
3つ目は、昨日の物語や6.33で見たように、「神さまに従うことが最優先されれば、必要は皆加えて与えられる。だから神の国と神の義を最優先しなさい」でした。
この3つを覚えて、改めて今朝の物語を読むとこうなります。イエスさまは律法学者に「狐には穴があるが…人の子には枕する所もない」と語りましたが、それは「今、神さまの救いまで時間がない。だから、悠長に構えずに、神さまに従うことを最優先しなさい」でした。「父を葬りに行かせてください」と語る弟子には「神さまによる復活は既に約束され、間もなく迫っている。あなたの悲しみが祝福に変わろうとしていることを先ず覚えなさい」でした。イエスさまはいつも私たちに最善を示し、「信じて従いなさい」と示されるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは「あなたを信じ、イエスさまに従うことは、人生も家族も棄てる厳しいこと」との誤解を生じさせていました。でもイエスさまの真意は「何よりも神さまの御心に従いなさい。その時、全ては整えられる」でした。神さま、私たちはあなたを信じ、イエスさまに従います。どうぞ私たちの不安も困難も後悔も、全てがあなたの御手の中で整えられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(水) マタイによる福音書8章23-27節
一言メッセージ:昨日の物語の続きです。8.5以降、カファルナウムに入って百人隊長の僕を癒し、ペトロのしゅうとめを癒し、大勢の病人を癒し、舟に乗り込んでガリラヤ湖を渡ろうとしたイエスさまはよっぽど疲れ切っていたのでしょう、舟の中でぐっすりと眠り込んでしまった。舟がガリラヤ湖を進みますと、途中、激しい風のために転覆しそうになる。当時の舟は10数人乗りの手漕ぎの舟ですが、操船するのはついこの間までプロの漁師だったペトロたちです。その彼らにして、「やばい、沈む」と恐怖するような大風でした。彼らは25節で「主よ、助けて」と訴えて起こす。イエスさまは起き上がると、「信仰が薄い!なぜ怖がるか」と叱ると、風と湖を叱って鎮めるのです。この話の大事なポイントは「イエスさまの寝起きが悪かった」ではなく、「なぜ信じ抜こうとしないのか」ということです。今、弟子たちは誰と共にいるのか?イエスさまです。にも拘わらず、彼らは自分たちの経験や常識に捉われました。でも、彼らも恐れながらも、大事な選択をしています。それは「主よ、助けて下さい」とイエスさまに頼ったことです。もし彼らがイエスさまに頼らなければ、イエスさまは「信仰が皆無の者たちよ!」と叱ったでしょう。でもイエスさまは彼らがギリギリでまだ信じていることを認めておられた。だから「信仰の薄い者」なのです。さて、私たちの信仰はどうでしょう。8.5の百人隊長のように「これほどの信仰は見たことがない」と言われるか、それとも「薄い」のか、はたまた「皆無」なのか?「薄く」とも、信じ抜く者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語で私たちは自分たちの信仰を振り返ります。決して賞賛されるような信仰者ではないと自覚していますが、でもどうか「薄い」と叱られながらもいつもあなたに頼る私たちであれますように。どうぞ如何なる時にもあなたを見失わないで生きる者であらせてください。時に今、コロナ禍で多くの人が希望を失い、先の展望が見えずに苦しんでいます。その中で、私たちは薄くとも、あなたを信じ、従い続けることを周囲に示すことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(木) マタイによる福音書8章28節-9章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の「ガリラヤ湖の向こう岸」での物語です。28節で「ガダラ人の地方」とありますので、ユダヤ人の居住地ではありません。後に「豚」が出て来ますが、ユダヤ人は豚を穢れた生き物と見ていましたから、飼育しません。その豚が飼育されているとなると、やはりユダヤ人ではない人たちの住む土地です。さて、イエスさまがやってくると、悪霊に憑りつかれた人が二人出てきて、「神の子、かまうな」と騒ぎます。ここで「神の子」と叫んでいるのは、当時「霊的な存在の名前を知ることで相手を支配できる」と理解されていたことと関係して、イエスさまの素性を宣言することで、少しでも優位に立とうとした叫びでした。でもイエスさまは「知らんがな!」と言わんばかりに悪霊を二人の人から追い出すのです。豚に乗り移った悪霊が豚ともども崖から飛び降りて死んだことで、町の人たちがイエスさまのところにやってきます。てっきりお礼のひとつも言うのかと思いますが、彼らはイエスさまに「出て行ってくれ」と言うのです。こうしてイエスさまはまた舟に乗って、対岸のカファルナウムに帰るのです。
  さて、この物語で大事なポイントが1つ。そもそも、イエスさまは何故夕方から(昨日のみことばメールを思い起こしてください)ガリラヤ湖を渡ったのか。イエスさまの本拠地がカファルナウムだとすると、何のために湖を渡ったのか、理由が分からないのです。でも、そこで発想の転換をしましょう。イエスさまがガリラヤ湖を渡った理由は、この悪霊に憑りつかれた二人の人を救うためだったのではないか?同胞のユダヤ人でもないし、彼らは墓場に住み、町の人たちから見捨てられた存在でした。でもその彼らをもイエスさまは救いたいと願い、嵐の舟中で寝入るほどくたびれきっていたのに行動くださったのです。今朝の物語にて示される本当に奇跡は「悪霊が追い出された」よりも「イエスさまは見捨てられた民にここまで親身に寄り添われた」ことなのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまがどれほど一人ひとりの人間に向き合ってくださったを知りました。悪霊に憑りつかれ、町の人たちや家族さえ見捨てた人にもイエスさまは自ら出会い、救いに来てくださいました。神さま、私たち自身もイエスさまに出会っていただき、救いを知りました。あの感動を思い起こしました。神さま、ありがとうございました。加えてお願いします。どうぞ私たちの大事な家族や友人、まだ出会っていなくともあなたを必要とする人々にもこの救いを伝えさせてください。久留米教会が多くの人と「共に礼拝し、共に生きる」よう用いられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(金) マタイによる福音書9章2-8節
一言メッセージ:今朝は有名な「中風の人の癒し」物語です。細部はマルコ2.1-12の方が詳細です(2019年にマルコ版で落語的説教をしたくて取り上げました。サゲで皆さんに笑ってもらえませんでしたので、そのうちまたチャレンジしますからね(笑))。マルコで読みますと、4人の友人が中風の男を癒して欲しいと戸板に乗せてやってくるのですが、既に人がいっぱいでイエスさまの前まで病人を連れて行けない。そこで屋根を引っぺがして癒してもらおうとします。「なんて無茶な!」という物語ですが、実はイエスさまの反応も飛んでいます。イエスさまは2節、病人を連れてきた「その人たちの信仰を見て」、喜び、病人を癒すのです。けれど、そんな癒しの行為を見ていた律法学者は「神を冒涜している」と思うのです。何故なら、当時、「病気は何らかの罪のために神さまの守りから外れた人が悪霊に憑りつかれてかかるもの」と思われていましたから、病の癒しは「神さまから権限が与えられた祭司の専売行為」と思われていたのです。だから、祭司で無いイエスさまが癒しを宣言したことに、律法学者は「神さまへの冒涜」と考えたのです。イエスさまは「杓子定規にモノを考えた挙句に本質が見えなくなってる。ほら、ちゃんと気づかんね」と示したのです。私たちもちゃんと目を見開いて、神さまの御業に気づく者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまが、泥臭くても、親身になって他人のことを案じる人を喜び、神さまの御業を行ってくださった物語を読みました。一方、イエスさまは杓子定規に規定でモノを測ろうとした律法学者には「本質を見なさい」と示しました。神さま、どうぞ私たちも「今、イエスさまの御心を模索しながら、誰とともに、どう生きるのか」を考え、行動する者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(土) マタイによる福音書9章9-13節
一言メッセージ:何気ない物語のようですが、実はこの物語ってものすごい話です。イエスさまはたまたま道を歩いていて徴税所に座るマタイを見つけ、「従ってきなさい」と声かけたように書かれています。でも徴税人はローマ帝国の手先として既定の税金を集めるだけでなく、さらに自分の収入を上乗せしていました。だから同胞から毛嫌いされていました。でもイエスさまはそんな徴税人マタイに自ら声をかけ、弟子にしたのです。マタイは喜び、徴税人を止めます。先ずは自宅で大宴会。その場には徴税人や罪人がわんさか集まります。おそらく、身を売って生活する男女や、ヤクザまがいの人たちもいたでしょう。彼らは皆で仲間であるマタイが救われたことを喜び、宴会していた。すると、律法遵守をモットーにするファリサイ派が眉をしかめ、イエスさまの弟子たちに言うのです。「おたくの先生は何であんな連中と一緒に食事をして、仲間になってるのか」と。するとこの発言を聞きつけたイエスさまが語る。ホセア書6.6を引用しながら、「医者を必要とするのは健康な人間じゃなくて病人やろうもん。じゃあ、神さまを本当に必要と考えるのは誰やろうな。」このイエスさまの言葉で私たちが今最も聞きたいのは13節「(ホセア書の御言葉が)どういう意味か、行って学びなさい」と言われたことです。「行って学ぶ」とは「出会いなさい」です。現代の私たちに向けて言うなれば、「教会の中のことであれこれする前に、今、神さまの救いを必要としている人たちに出会い伝えるべく、ほら、一歩踏み出しなさい」です。ずっと語っていますが、本当に今、コロナ禍で多くの人が「変わらないもの、永遠のもの、私をモノ扱いしない救い」を必要としています。今ほど福音が必要とされる状況は無いのです。だから、私は皆さんにお願いしたいのです。どうか、あなたの周囲で福音を必要とする人に神さまを伝えてほしい。教会のトラクトを配ってくださっても、youtubeを紹介してくださっても、礼拝に連れてきてくださっても、毎朝のメールを転送してくださっても構いません。一人で伝えられる人は少なくても、皆が声をかけてくだされば、多くの人にイエスさまのことを知ってもらえる。イエスさまは今日も徴税人のように「えっ?この人にも?」という人に出会っておられます。私たちもそんなイエスさまに倣いたいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、徴税人マタイがイエスさまに声をかけていただき、弟子になった物語を読みました。周囲が「えっ?あいつに?」と驚いても、イエスさまは福音を必要とする人に自ら出会い、救いを告げてくださいました。神さま、今の時代も多くの人があなたの救いを欲しています。本人が気づいていなくても、不安定な時代の中で変わらぬ希望を求めています。どうぞ、私たちにお伝えする勇気を与えてください。かつて私たちに福音を伝えてくださった先達と同じだけ、私たちにも勇気をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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