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2022-08

7月3日~9日のみことば - 2022.07.02 Sat

まさかの梅雨明けから、あつーい毎日が続いています。
付設幼児園の子どもたちはプール遊びにうれしそうですが、水不足が心配ですね。
日曜日から戻り梅雨?でまた雨になりそうですが、これで水を貯え、植物たちが潤えばいいなと思います。

さて、久留米教会では先週からニューフェイスが登場。
おそうじロボットルンバちゃんです。
現在協力してくださるメンバーで分担しながら教会堂のお掃除をしていますが、体力や時間的に奉仕が難しい方もおられます。また、今のような暑さの中で広い会堂の掃除は大変!
そこで、現在ルンバのサブスクをお試し中です。
椅子にぶつかり方向を変えながら一生懸命掃除する姿は何となく「ドジっ子」みたいでかわいくて、
ついつい「そっちじゃないよ!」なんて話しかけたくなってしまいます。
とりあえずルンバちゃんとは半年間のお付き合いの予定。これはいい!となったら購入しようかと考えています。それまでは、存分にルンバちゃんと仲良くしたいところ。
毎週礼拝をする大切な礼拝堂。文明の利器も使いながら、上手にきれいを保てたらと思っています。

皆さんも、暑い中でのお仕事や家事など、体調を壊さないように上手に手を抜いて、今週も元気に過ごしてくださいね。
それでは、今週も1週間のみ言葉をどうぞ!!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
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3日(日) イザヤ書1章1節
一言メッセージ:今日からみことばメールはイザヤ書に入りました。イザヤ書は66章に及ぶ、非常に長大な預言書です。しっかり読んでいくために、今日明日はイザヤ書のイントロダクションです。
  イザヤ書は66章ありますが、内容を検証しますと3つの時代に区分されることが分かっています。研究の便宜上、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと言われます。第一イザヤは1-39章、第二イザヤは40-55章、第三イザヤは56-66章です。第一イザヤ(1-39章)は1.1に記されるように、「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世」の紀元前8世紀が舞台です。第二イザヤ(40-55章)はユダ王国が滅亡し、国の主だった人々が捕囚としてバビロンに連行された捕囚時代があり、バビロンがペルシャによって滅ぼされる紀元前539年前後が舞台です。第三イザヤ(56-66章)はバビロン捕囚から解放された民が祖国イスラエルに帰還し、荒廃した土地に神さまを礼拝する神殿(サイズはずっと小さいですが)を再建した紀元前515年頃の話です。ですから、第一イザヤと第三イザヤでは300年の開きがあるのです。もちろん、一人の預言者が記したものではありません。明日もイントロダクションは続きますが、私たちはイザヤ書を読みながら、神さまはその時の時代状況は変われども、一貫して民と向き合い、語り掛け、御自分に立ち返って平安と具体的な平和を得るように呼び掛け続けてくださることを分かち合っていきましょう。それは今の私たちにも大事なメッセージです。毎日、楽しみながらイザヤ書を読み続けていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝からイザヤ書を読み始めました。私たちはイザヤ書を読み進めながら、いつの時代にも、あなたが常に民に寄り添い、導いて生きてくださる記録を見て参ります。どうぞ読み進めながら、私たち自身が今もあなたに寄り添われていること、現実の前に無力感に沈むことなく、あなたを見上げるからこそ勇気と真理と希望を持って生きる私たちとならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(月) イザヤ書1章1節

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一言メッセージ:今朝もイザヤ書のイントロダクションです。イザヤの出自は正確なところは分かっていませんが、「祭司」だったと考えられています。彼はある時、神さまの召しによって南ユダ王国にて預言者として働き始めます(6章)。昨日に引き続き1節を読みましたが、これは1-39章の第一イザヤ(これがいわゆる預言者イザヤ)の活動期です。彼の活動期は「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世」です。聖書はサラッと記していますが、これは非常に複雑な情勢での活動期になります。添付の図を見てください。図の左は南ユダ王国の王の名前と在任期間、真ん中は北王国の王とその在任期間、右はイスラエルに強い影響を与えた近隣国の王の名前です。名前の後に(A)と記載があるのがアッシリアの王を表しています。これを見ますと、イザヤが活動した期間はアッシリアが勢力を伸ばし、とうとう北王国を滅ぼす期間と重なります。イザヤは南王国の預言者ですが、自分たちのすぐ北で、兄弟国である北王国が滅ぼされていくのです。南王国も「次は自分たちが滅ぼされるのではないか」と、王も民も震え上がった時代なのです。イザヤはそんな時代に、近隣国の動向を見ながらも神さまの御心を預言し続けたのです。時々、クリスチャンの中には「信仰は政治に関わってはいけない」という方がありますが、大間違いです。だって、預言者はまさに激動する時代に、神さまの御心を語り伝えながら、政治活動を行っているのですから。さて、明日からいよいよイザヤ書を読み始めていきましょう。※以下の写真の完全データが欲しい方は言ってください。印刷物でもデータでも差し上げますよ。    
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイザヤの活動期はイスラエルにとって北王国滅亡という動乱期であることを見ました。イザヤはそんな動乱期に、あなたの御心に立って、「今、この時代、この状況で私たちはどう生きるか」を示しています。それは、信仰と言動を分けるのでなく、あなたを信じるからこそ、信じて生きる促しでした。神さま、イザヤ書を読みながら、私たちにも今の時代にあなたの御心をどう見出すか、教えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(火) イザヤ書1章2-20節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまが南ユダの民の罪を糾弾する箇所です。状況としては7-8節で他国による侵略を受け、田畑が荒れ、町々が焼かれ、「娘シオン(首都エルサレムのこと)が残った」と書かれます。おそらくこれは紀元前701年、アッシリア王センナケリブによるエルサレム包囲を指した言葉です。神さまはイザヤを通して、「ここまで国が衰えたのは、あなたたちが私を離れ、己が都合、思惑、ご利益に走った結果だ」と断じるのです。印象的なのは3節です。「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエル知らず、わたしの民は見分けない。」イザヤは家畜すら従順に主人に従うのに、知恵を持つお前たちが主人を見失うのか、と問うのです。それこそ5節にあるように、「自分たちが弱りつつあるのに。」私はこの言葉を聞きながら、今、参院選で与党を支持する人たちに同じことを言いたい。例えば、「ここまで国民の生活を苦しめているのに、どうして与党を支持するのか?」「与党は未だに『成長』という幻想を強調して、高齢者の年金は削り、一時の給付金で誤魔化そうとしている。本気で助けようと思うなら、立憲、社民、共産、れいわが言う『消費税減税』の方が遥かに的確。」「ウクライナの状況を見て不安に思う人をたきつけ、『憲法改正』と言う人々がいるが、『軍隊が国民を守る』という思い込みこそが幻想。自衛隊関係者も『外国から攻められた時に優先して守るのは要人と国の施設であって住民は二の次』と言っているのに」などなど、いっぱい言いたいことは出てきます。正に、今朝イザヤが告げるように、目先の出来事ではなく未来を見据えて、私たちは御心を求めて選択せねばなりません。私たち有権者の選択には子どもたち、孫たちの未来もかかっているのですから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは南ユダの民に「家畜は主人を知るのに、どうしてお前たちは目先の利権や不安に飛びついて、本当に従わねばならぬ私を見ようとしないのか」と問います。私たちはその言葉に、選挙を前にした私たちの状況を重ねて読みます。どうか私たちに、自分たちだけでなく子どもたち、孫たちの未来のための選択をさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(水) イザヤ書1章21-31節
一言メッセージ:神さまは南ユダに「どうして遊女になってしまったか」と問います(21節)。ここでいう「遊女」とは、従わねばならない神さまを離れて、金、名誉、己が都合に走る民を総称した表現です。23節では「支配者」など強い者が利権を得るために暴挙を行い、一方、「孤児、やもめ」といった社会的に弱い立場にいる人たちが顧みられないことが指摘されています。先日、新聞を読んでいますと、「シングルマザーの家庭では今回の物価高が家計に直撃し、子どもに望む食事を食べさせてあげられない」とか「月8万円の年金の半額が家賃に取られ、残り4万円を切り詰めて生活する高齢者は、病気になると文字通り死活問題」という記事がありました。イザヤ書の記述は現代日本と重なって聞こえます。神さまはそんな南ユダに対して、「災いだ(24節)」と断じ、国への裁きを語ります。けれど、その裁きについて、私たちは27節に希望を見いだします。「シオン(イスラエル)は裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの業によって贖われる。」神さまは国の滅びを通して民を赦し、生かすのです。「悔い改める者は恵みの業によって贖われる」の「贖われる者」とは、神さまの贖いを必要とする者であり、それは「かつては神さまを蔑ろにして来た者」です。つまり、罪人でさえも神さまは赦し、救いを与えると約束くださったのです。神さまの救いが約束された今、わたしたちもまた、社会を諦めちゃいけません。神さまの御心の実現のために、私たちは今何ができるか、今、周囲にどう神さまの福音を伝えられるか、問われています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは罪人さえも救うとの約束をされました。そして「だからこそ悔い改めよ」との促しをくださいました。神さま、今私たちはイザヤ書の状況と自分たちの国、世界を重ねます。特に今度の日曜日は参院選があります。今回を逃すと今後3年間、国政選挙はありません。だからこそ、この選挙を未来のために大事に選択する時とできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(木) イザヤ書2章1-5節
一言メッセージ:今朝の箇所はミカ書4章にも記される、「終末(神の国)の平和」の預言です。預言者ミカもイザヤと同時代人で、彼は北王国にて活動しました。その二人が同じ預言を語っていたということは、この預言が当時、神さまが民に与えた力強い希望の預言だったからです。内容は「完成された神の国の姿」です。諸国の民が大挙しながら神の許にやってきます。彼らは口々に言います、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道(生き方)を示される。わたしたちはその道を歩もう。」神の示す具体的な生き方が4節です。「主は国々の争いを在裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」神の示す「神の国」とはあらゆる争いが放棄されていく世界です。そこでは「剣、槍」といった命を奪い合う道具は炉で溶かされて「鋤、鎌」という農耕具に生まれ変わります。それは「命を奪い合うのでなく、共に生きる」という示唆です。かつて命を奪い合った者たちがこれからは「共に生きよう」とする世界です。現代社会から見れば「理想論であって現実でない」と言われるかもしれません。でも、それこそ思い上がってはならない。神さまは私たちに理想を示し、その理想実現のために私たちは生きている。目先で妥協して生きるのではないのです。今度の選挙は改憲の是非が焦点の1つです。自民党憲法草案を読みますと、「二度と戦争の惨禍を繰り返させない」ために「戦争の放棄」という神の御心に通じる理想を謳った現行憲法は、その憲法を守るための力として「国民に主権」を与えました。極めて高い理想を謳っています。今、私たちが守るべきものは現行憲法です。この憲法に生きることが今、日本が世界に示す最大の貢献です。今度の選挙、私たちは考えて一票を投じましょう。イザヤは5節で語りました。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」私たちも、周囲の人にも「憲法守ろう」とお伝えください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは神の国が平和で、戦いが放棄され、誰もが共に生きる世界であることを分かち合いました。今わたしたちは、その実現のために、現行憲法という極めて大きな力が与えられていることを思います。どうぞ先ずはこの憲法を守らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(金) イザヤ書2章6-22節
一言メッセージ:今朝の箇所はイザヤが南ユダの支配階級の堕落を批判した箇所です。その内容は北王国滅亡期を指す預言と考えられます。アッシリアの脅威が拡大する中、アラムや北イスラエル王国、ペリシテの都市国家は結集して反アッシリア同盟を結成し、南ユダ王国にも加盟を求めます。しかし南王国は拒否します。すると反アッシリア同盟はアッシリアと戦う際の背後の脅威を除こうと、南王国に攻め込みました。南ユダは怯え、アッシリアに貢物を贈り、反アッシリア同盟を背後から攻めてもらい、危機を回避しようとしたのです。目先の対策をした結果、戦後、南王国はアッシリアに従属せざるを得なくなりました。イザヤは近視眼的な南ユダの支配者を批判します。それが6-9節の記述であり、イザヤは力や富に頼る社会は「人間が卑しめられ、人は誰も低くされる」と告げるのです。イザヤはこのような社会に対して神さまが何も言わないことについて、6節で「あなた(神)はヤコブの家を捨てられた」と語ります。この「捨てられた」は「見限った、切り捨てた」ではなく、「放置した、するようにさせた」という意味です。つまり、神さまは南ユダが落ちるところまで落ちて「自分たちは神さまを蔑ろにした」と気づくまで、彼らを放置したと考えたのです。それでもイザヤは預言者として民に訴え続けます。22節「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ち(保障)があるのか。」その場しのぎの軽い言葉と建前で隠した身勝手な権力志向への批判、選挙前の私たちには大事な指摘ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤは「富や権力による支配は、人間が卑しめられていくだけ」と語ります。その示唆は特に安倍政権以降、痛烈に実感しています。明後日の参院選では、人間を卑しめる政治への警告が実現しますように。そのために私たちにも「否は否」と示す勇気と力をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(土) イザヤ書3章1節-4章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は南ユダ王国と首都エルサレムへの裁きの言葉です。これは、昨日語った時代背景と関係しています。反アッシリア同盟の侵略を回避するためにアッシリアに貢物を贈った南ユダ王国は、反アッシリア同盟の壊滅後、アッシリアの圧迫外交を受けているのです。1-3節にあるように、勇士、戦死の他、国の主だった者たちが排除されて独立する根拠を失い、アッシリアに屈せねば生き残れない状況にまで落ちるのです。神さまはそんなイスラエルに対して15節「何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひき潰したか」と、「どうして民を滅びるまで放置したか」と詰問するのです。しかし神さまの呼びかけ空しく、16節以下、支配者たちは未だに自分たちの財産と権力に固執し、国が危機的状況に陥っているのに「私は大丈夫」と考えているのです。今回の選挙戦が始まる直前の6/22、私は9党の党首による公開討論を見ました。その際、違和感を持ったのは自民、公明、維新の党首たちがそれぞれの経済対策を訴える中で「成長による分配」という方向性で話すのです。でも、年々出生率が下がり、現役世代が減り、加えて長引く不況とコロナによる大打撃の中で「成長」が大前提にされることに違和感を持ちました。今はそうではなく、国民の生活を顧みて、保障や生活の再建が経済対策として先決のはずなのに、まるで「成長できない者は自己責任」と言わんばかりで嫌気を感じました。今朝の箇所でイザヤが批判した古代イスラエルの権力者の横暴と弱い民の切り捨ては現代と変わらないように見えます。さぁ、今わたしたちはこの時代、この社会の中で、神さまの御心をどう理解し、その実現に近いものは何と見るのでしょう。明日は投票日、どうぞあなたの一票を行使してください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は弱い民を切り捨て、「自分たちは大丈夫」とふんぞり返る権力者への批判の預言を読みました。神さま、イザヤ書を読み始めて一週間、私たちはイザヤの言葉に今の自分たちの時代を見出します。だからこそ神さま、私たちは今、あなたの御心をしっかりと見定め、あなたの御心に近い選択を行うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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6月26日~7月2日のみことば - 2022.06.25 Sat

6月も間もなく終わりになりますね。
今週は様々なことに心がざわつく1週間でした。

いよいよ始まった参議院選挙。争点はいろいろありますが、改憲に対する考えは一つの大きなポイントです。
ウクライナにおける戦争によって、「日本ももっと武力を持つべきだ」という風潮が高まっているように思います。政府も5年以内に防衛費を2倍に以上にする方針を表明したと報じられています。
しかし、そもそも武力を上乗せすることが平和につながるのでしょうか。
わたしたちの身の回りを見渡せば、7人に1人の子どもは貧困状態だといわれます。子ども手当や保育の無償化、高校無償化など少しずつ進んではいますが、今も奨学金という借金に苦しむ人たちもいますし、経済的理由で満足に学べない人たちも多くいます。また、介護の問題で頭を悩ませている人、必要な支援が受けられない人なども。老後には2000万円の貯蓄がないと生活できないとも言われる、この今の日本で防衛費を2倍にということに疑問を持ちます。
しかも、それを提言しているのが、あの安保関連法によって「解釈改憲」を強引に行い日本が戦争に参加できるように道筋を作り、武器禁止の三原則をなし崩しにして「人を殺す道具」で金儲けできるシステムを作り、唯一の戦争被爆国でありながら核兵器禁止条約に参加しない、そのような政府であることにより強い危機感を感じるのです。

また、6月23日は沖縄慰霊の日でした。
戦時中、最後の捨て石とされた沖縄の痛みを、私たちはどれだけ考えているのだろうか。
今も、あの小さな島に米軍基地の約7割がおかれていることを、私たちはどう考えるのだろうか。
今も、沖縄の戦後は続いていること。その責任を今日本に生きる私たちがおっているのだということ。そして、今さらにその重荷を負わせ続けようとしていること。
「亡くなられた御霊に、謹んで哀悼の誠をささげます。」との言葉を語りながら、行っていることは…。
本当に、亡くなっていった方の命を思うならば、その人たちの願った平和を実現していくことにこそ、誠実さがあるのではないかと考えます。


「政教分離」という言葉の下、日本のキリスト教世界でも政治に声を上げることをよく思わない人たちもいます。
しかし、聖書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3章16節)と語っています。神さまは「自分を信じる者だけを」愛したのではなく、この「世」を愛されたとあるのです。ですから、私たちクリスチャンもまた、イエス・キリストを信じる者として、自分の置かれているこの「世」において、自分たちが何を選び、何を語り、何を行っていくのかを真剣に考えることを神さまは望まれているのだと信じるのです。
(本来の「政教分離」とは、政治的権力と教会とは1つになってはいけないというキリスト教の過去の反省からくる原則であり、「教会は政治に口を出してはいけない」というものではありません)

選挙のニュースが流れるたびに、様々なニュースを見聞きするたびに、わたしたちはまず祈ります。
「神さま、私たちの生きるこの世は様々な課題に満ちています。主よ、私たちを、そしてこの世を憐れんでください。そして、私たちがこの時代にあなたの御心を行うために、何を選び取るべきかを教えてください。み言葉をよく読み、よく聞き、祈り、恐れからではなく、あなたへの信頼と平安の中で選びとっていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」

今週も皆さんの上に平安がありますように。


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26日(日) ホセア書6章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所を読む際にはしっかり注意して読んでください。1-3節は民の悔い改めの言葉のようですが、新共同訳の表題は「偽りの悔い改め」です。彼らは「さぁ、我々は主のもとに帰ろう。我々は御前に生きる」と語りますが、彼らの言葉は上っ面だけで、何を悔い改めねばならないのかが分かっていません。実際、3節の後半で彼らは「主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と語りますが、ここは聖書の神さまとバアルを混同しています。ご利益信仰であるバアルは乾いた土地であるイスラエルに豊作をもたらすための神と信じられており、それは雨期の始まりである春の雨と考えられていました。つまり3節は、「悔い改めよう」と言いながら、神さまとバアルを混同したままの口先の言葉に過ぎないのです。この民の言葉に対して4-6節で神さまは「お前をどうしたらよいのか」と嘆きます。神さまの切実な呼びかけは6節です。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえ(儀式)ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物(多額の費用)ではない。」私は今朝の箇所から、二人の教師を思い出します。一人は私が目標とする牧師、日本基督教団の関田寛雄牧師です。彼はいつもみことばにも人にも誠実で、常に民衆の側に立って理不尽な権威には「否」と言い続けてきました。その生き方は青山学院大学の夜間部の教員で、同時に川崎の「在日朝鮮人」集落での長年の牧会にも表れていますし、2年ほど前はテレビで見た、川崎のヘイト言動禁止を求めた原告団の団長として記者会見にも表れていました。私にとって大事な目標となる恩師です。一方、思い出したもう一人は「こんな風にはなりたくない」という教役者です。「私たちはことばに生きる」と威勢よく言い、口数は多いのですが、都合悪くなるといつも責任転嫁して逃げる。最近もある会合で発言を聞きましたが、他人をけなすことで自分がひとかどの人物であるとアピールするような言葉ばかり。「ことばに生きる」のでなく「ことば遊びに終始する」姿に、「私はこうならないようにしよう」と感じる反面教師でした。神さまは上っ面は見抜く方です。神さまに誠実に生きる私たちでありましょう。偽りの悔い改めにそんなことを思いました。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは偽りの悔い改めで神さまをやり遂せると考えた愚かな人々の言葉と、神さまの嘆きを読みました。あなたは私たちに真っ正直に向き合うことを望まれます。私たちは決して御前に胸張れるような者ではありませんが、でもいつも弱さや至らなさを抱えながらもあなたに誠実に向き合う者であれますように。私たちの傍らまで下り、寄り添い、救ってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(月) ホセア書6章7節-7章16節
一言メッセージ:神さまはイスラエルの罪をがっつりと指摘します。バアル信仰に影響され、神さまを蔑ろにしてバアルに走る言動は「淫行」と表現され、バアル信仰の行為である性行為や自傷行為(7.14)は罪だと列挙されています。また、7.11のようにエジプトとアッシリアという強国の間を行ったりきたりと画策する様の指摘もいつも通りです。その中で、目を惹くのは7.2「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない」と言及される部分です。どうして人々は神さまの怒りを「意に介さない」のか。本心からバアル信仰に染まり、聖書の神さまを意識的に蔑ろにしているためか。いいえ、彼らはどうも、「自分たちは神さまを信じ、従っている」と思っていたようです。彼らはバアル信仰と聖書の神さまの信仰が混同していることが分からないだけであって、自分たちでは「私たちは敬虔」と思っているのです。ではなぜ、彼らは神さまの怒りを「意に介さない」のか。それは、彼らが盛大に、贖罪の献げ物をしていたからです。贖罪の献げ物が豪勢であればあるほど、自分たちの罪は赦してもらえる、と考えていたのです。実際、彼らの時代、経済格差は広がり、裕福な人は贅の限りを尽くして生活しています。だから、贖罪の献げ物だって、費用は惜しまなかった。でも、それが無理解であり、「高慢(7.10)」でした。神さまが本当に欲したのは6.6「愛であり、神を知ること」なのです。私はこの描写に今の世界の風潮を感じます。金や権力を持つ者の横暴がまかり通り、民の命や尊厳がないがしろにされる世界は到底、神さまの御心に沿うものとは思えません。彼らは今「わが世の春」を謳歌しているのでしょうが、神さまは現代も同じように語り掛けられる。「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。」私は「この時にも神さまに誠実に生きていかねば。神さまの御業は私たちの小さな言動からでも大きく育っていく」と思い起こすのです。まもなく7月、参院選があります。自分たち、子どもたち、孫たちの未来のため、冷静に先を模索しましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたはイスラエルの罪を指摘します。その中で私たちは、神さまの赦しを既定路線と侮り、高価な献げ物で何でも赦されると高慢になる民の姿に、現代の風潮が重なりました。神さま、あなたはきっと、今も「すべての罪を心に留めている」と言われるでしょう。神さま、どうぞ今の時代を、世界をお救いください。私たちに御心を求めて決断できる知恵をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(火) ホセア書8章-9章6節
一言メッセージ:最近のみことばはイスラエルの罪の指摘の言葉が続いています。ちょっとしんどいですが、読めば読むほど、私たちは自分たちの生き方を問い直されます。8.1-2は北王国が戦争前に国家祭儀として神さまに戦勝祈祷をする場面が描かれています。しかし、神さまは、彼らの祈りも拒絶します。4-6節は「なるほど」と思うのですが、神さまは「お前たちは王を立てたが、それはわたしが指名した王ではない」と突き放します。北王国の最後の時期は、次々と親アッシリア派、親エジプト派の人々がクーデターを起こし、王が代わりますが、それは人の都合の王であって、神さまが立てた王じゃないのです。また神さまは「お前たちは神を拝むが、それはお前たちが勝手に使った偶像に過ぎない」と言う。北王国は金の子牛像を数体作り、各地に祭壇を築いて拝ませていましたが、牛はバアルを意味する偶像でもあったのです。神さまはそんな罪を指摘し、4節で彼らの罪の根本をズバリ指摘します。「彼らのパンは自分の欲望のためだ」です。政治も宗教も正義も、自分たちの欲望のために捻じ曲げていることを神さまは指摘したのです。太平洋戦争後、A級戦犯の死刑に立ち会った唯一の日本人、花山信勝さんが著書『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』で、亡くなる3週間前の東条英機の言葉を残しています。
「世界平和」は人間の欲望をなくした時に初めて達成できる。人間の欲望というものは本性であって、国家の成立ということも「欲」から成るし、「自国の存在」とか、「自衛」とかいうような、きれいな言葉でいうことも、みな国の「欲」である。それが結局、「戦争」になるのだ。
 欲は社会も政治も宗教も正義も捻じ曲げます。神さまは北王国の「欲望」を指摘しました。それは「気づいて立ち帰れ」との呼びかけなのです。私たちは北王国への罪の指摘を読みながら、神さまの「立ち帰れ」との呼びかけに真摯に向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは人の欲が正義をねじまげ、神さまの御心に盲目にさせていることに気づきました。神さま、もし私たちが欲のためにあなたの御心を見失い、理不尽を通しているならば、どうぞ正しく立ち返らせてください。自分の欲にも、周囲の欲にも気づかせ、あなたの御心を模索し、いつも柔軟に正しく対応できる私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(水) ホセア書10章1-15節
一言メッセージ:神さまは1節でイスラエルを「伸び放題のぶどうの木」と表現します。手入れされないので、育っても実が成熟しないのです。そんな、自らを律しない姿が2節「偽る心」と指摘されます。ヘブライ語では「二心」とも訳せる言葉でして、「神さまとバアル」「敬虔と私欲」というように、常に自分の願望ありきで神を選択するような姿勢がイスラエルの民の中にあったのです。彼らの身勝手な「偽る心」は3節では責任転嫁として現れます。北王国が滅亡する時には「私たちには正しい王がいなかった。自分たちが悪いのではなく、指導者が悪かった」と言い訳しますが、神さまは「王がいたとしても何になろうか」と指摘します。「お前たちは二心で、本当に信じ従うべき私を見ず、己が欲、都合で生きてきたではないか」と言うのです。さて、ここで「二心」から考えてみましょう。私はずっと「神さまの御心を第一にしなさい、信じて従いなさい」と言い続けています。それは「あなたの意志も願いも捨てなさい」ではありません。「神さまを信じ選ぶことでこそ、願いの最善は得られる」と言っているのです。マタイ6.25-34を見ますと、イエスさまは「神を知らぬ者はいつも『何を食べようか』『何を着ようか』と思い悩む。しかしあなたたちは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と告げました。その理由は32-33節にあります。「あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな加えて与えられる。」最善は神さまから与えられるのです。今日のホセア書10.12も同じです。「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように。(神に誠実に応えて生きる時、神があなたの傍らに来てくださり、あなたに恵みを与え、生きる糧を与えてくださる。)」二心は時代を超えて、いつも私たち人間のテーマです。私たちも一歩ずつ、神さまを信じ従うことを選択していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは民の「二心」を指摘されます。私たちの中には自分たちの幸せや身内の祝福を願う思いが多々あります。でも、だからこそ私たちはあなたを信じ、従います。あなたに従うからこそ幸いと必要は充たされ、共生できるからです。神さま、私たちに最善をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(木) ホセア書11章1-11節
一言メッセージ:1節はとても印象的な言葉です。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」は、神さまがエジプトで奴隷であったイスラエルの民と養子縁組した、という言葉です。養子縁組だと縁が薄いイメージが湧きますが、そのイメージとこの箇所の意味は真逆です。バアルなどのご利益宗教は、生殖的関係や血縁的関係で神と民の関係をイメージさせますが、「養子縁組」は神さまと民の契約関係を強調する表現です。そこには強い意志が表されています。実際、3-4節で神さまはイスラエルを「あんよが上手♪」と育てたと語ります(3節の「わたしだ」は「他ならぬこのわたしだ」という強調があります)。「軛」は家畜を使役するための道具ですが、軛をしたままでは食事ができません。神さまはそんな奴隷状態のイスラエルの民から軛を外し、解放し、自ら身をかがめて、同じ目線で食事を与え、養ってくださる。それほどに民を愛してくださったのです。しかし2節、5-7節、民は神に立ち返ることを拒否し、バアルや強国を頼るから残念ですね。今朝、私が皆さんと分かち合いたいのは「養子縁組」です。神さまは、単なる血縁や約束で仕方なしにイスラエルの民を救うのではなく、自らの強い決意によって民を救ってくださるのです。それは、私たちを救うために、御自身の独り子イエスさまが十字架で亡くなるほどの強い決意であり、愛でした。私たちは今日、自分たちの今を改めて振り返りたい。私たちが神さまに救われたのは「当たり前」じゃないのです。神さま自らが5節終わりの「憐れみに胸を焼かれる」と記したほどの痛みを伴いながら、それでも貫いて抜いてくださった愛による救いです。だから私たちは自分自身も周囲の人々も、何より神さまも大事にしながら生きるのです。さぁ、今日もそんな一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「養子縁組」という言葉から、あなたがどれほど深い愛と決意を持って私たちを救ってくださったかを想起しました。私たちは普段、周囲との比較で一喜一憂して生きています。でも、それ以前にあなたの丸ごとの愛に包まれて生かされていることが、私たちの大前提でした。神さま、あなたに深く感謝します。どうぞ今日も感謝と希望に満ちて過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7月1日(金) ホセア書13章1-15節
一言メッセージ:13章はホセアの時代を非常に分かりやすくまとめてくれています。1-3節で北王国は常に指導者という一人物が主導権を持っていました。人々はその指導者の言い分に思考停止で従った結果、その指導者が推進したバアルというご利益信仰に走ってきたのです。自分たちにとっても、ご利益は都合が良かったし、神さまに裁かれる時にも「自分たちは知らなかったんだ」と言い訳できると考えたのでしょうか。神さまはそんな民に対して、2節「それらはみな、職人の細工」に過ぎないことを告げます。しかし己が都合を優先する民は神さまの声を聞かないのです。4-5節で神さまはご自分を強調しながら、「わたしこそあなたの神、主。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」と訴えます。けれど、民は神さまの祝福を当たり前と考えると「高慢になり」、神さまを忘れたのです。「当たり前」は怖いものだな、と思います。「当たり前」は感謝を忘れ、義務で相手を縛り、より多くの利益を求めます。私は親になってまもなく11年ですが、子育てを始めてから、自分が親に育ててもらったのが当たり前じゃなかったことを痛感してきました。子育ての喜びも大きいし、多いけれど、「こんなにも苦労し、こんなに悩んできたのか」と痛感する労苦も多いのです。イスラエルの民は神さまの祝福を当たり前と考えた時、そこに高慢が生まれ、より多くの利益を得るためにバアルに走り、その利益を守るために目に見える強国を頼り、強国の庇護を得るためにおもねるようになりました。すべての歯車が狂ったのは「当たり前」という高慢さがスタートです。「ありがたい」は「有り得難い」からきていると言われますが、私たちは今日も神さまの「当たり前じゃない」恵みに感謝をもってスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、あなたの祝福は「当たり前じゃない」ことを私たちに伝えます。あなたがどれほどの決意を持って、私たちを愛してくださったか。それは独り子イエスさまの十字架ほどの大きな決意でした。神さま、あなたの救いに改めて感謝します。どうぞ私たちがいつもあなたへの感謝を忘れずに生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(土) ホセア書14章1-10節
一言メッセージ:ホセア書も最後となりました。2-8節を読むと、神さまの怒りが「イスラエルを滅ぼして終わりの怒り」ではなく、「懲らしめによって正しく生き直すことを願っての怒り」であることが分かります。5節の「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」との神さまの言葉はとても印象的です。現代社会は他人を評価することは多いですが、評価によって相手を切り捨てることも多い社会です。「使えるか、使えないか」といった利用価値で人を判断し、「価値無し」と断じたら簡単に排除するのです。でも、大事なことを忘れています。人は成長するし、変化するものです。時に「年を重ねると人は変われない」という言葉も聞きますが、私はそうじゃないと思っています。「変わりにくくなる」とは思いますが、変われないわけじゃない。何故ならば、神さまがいつも私たちを信じ、期待してくださっているからです。「この者たちは必ず私を知り、私を信じ、私に従う」と信じてくださっている。だから人はきっといつでも変われる。その時に大事なことは神さまとの真剣な出会いです。ホセア書1-3章に戻りますが、当初、ホセアも社会風潮の中で当然だった「淫行」に何の疑問ももたず、ゴメルと結婚しました。しかし、その自分が神さまの御心に背いていたと知った時、彼は自分にも周囲にも神さまにも腹を立て、ゴメルを離縁しました。しかし神さまはそのホセアをそれでも受け止め、癒し、立ち上がらせ、もう一度ゴメルを妻として連れ戻し、共に生きることを促しました。それは、周囲から見れば、恥ずかしい弱い男の姿でした。確かに当時の社会では弱くてみすぼらしい姿だったでしょう。でも、まさにそんな姿をさらしながら、神さまが私たちを愛してくださった。ホセアはこうして預言者となっていきました。私たちも同じです。神さまを信じる時、私たちはそれまで自分を縛っていた恥も外聞も放り投げてでも、神さまによって変われる。信じることは解放です。今日はご一緒に、その感謝を改めて実感しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセア書を読み終えました。あなたの怒りは民を、そして私たちを愛し、立ち返らせるための怒りでした。神さま、あなたに立ち返ります。どうぞ私たちを喜び、受け止めてください。感謝と期待をもって、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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6月19日~6月25日のみことば - 2022.06.18 Sat

梅雨入りしたのに、ここ数日ピカピカに晴れている久留米です。
その前に雨が降ったので、植物が元気!
素晴らしいことですが、同時に雑草(最近は猫じゃらし!)も元気に!!
草むしりのタイミングをうかがっています(笑)

気候の変化する時期、皆さんも無理せず過ごしてくださいね(^^)/
それでは、今週のみことばをどうぞ!!


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19日(日) ホセア書1章1-2節
一言メッセージ:今日からホセア書を読んでいきます。今日は、1章全体ではなく、ホセア書全体を網羅するように1.1-2だけを読んでいきます。ホセアはアモスの少し後の北王国で活動した預言者です。彼は2節で「淫行の女(ゴメル)」との結婚を指示されます。ホセア書を理解するには、この「淫行」の意味を知る必要があります。これは「ゴメル自身が浮気性だった」と考えるのでなく、当時の北王国の状況から理解した方が分かりやすい。当時の北王国は神さまへの礼拝とバアル、アシェラ信仰が混同されており、バアル、アシェラ信仰では性行為が儀式や献げ物とされていましたので、聖書の神さまへの礼拝でも性行為が献げ物扱いされていました。おそらくゴメルは、儀式的な意味で性行為を行っていたのでしょうが、神さまはそれを「淫行」と断じます。では、なぜ、神さまはホセアをそんなゴメルと結婚するように命じるのか。それは、「ホセアが淫行の女ゴメルと結婚し、後に離婚するが、再度、ホセアは復縁する」という一連の行動を通して、神さまの裁きと救いを象徴的に示すためでした。神さまは北王国の間違った信仰を怒って裁くが、彼らが自分たちの過ちに気づいた時に、もう一度、御自分の民として受け入れてくださることを示そうとしたのです。さて明日からは具体的にホセア書を読み始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からホセア書を読み始めました。あなたは「愛の神」であると同時に「正義の神」です。民の過ちを黙認して赦すのでなく、罪は罪として明確にしながら、しかし悔い改めてご自分に戻ってくる者を喜んで迎え入れてくださる方です。ホセア書を読み進める中で、私たち自身の生活と重ねながら、過ちは過ちと気づき、あなたに素直に立ち帰ることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(月) ホセア書1章2-8節
一言メッセージ:ホセアは神さまの命によって「淫行の妻」ゴメルと結婚し、3人の子どもが生まれます。子どもの命名は親にとって非常に大事なものです。子どもの名前には意味や願いが込められているからです。しかし、ホセアの子どもの名前は3人とも非常に不可解な意味を持つ名前でした。長男はイズレエルの名の意味は2.24にあるように「神が種を蒔く」です。けれど、北王国の人々にとって「イズレエル」との名前は血なまぐさい歴史を思い起こさせます。当時のイエフ王朝の祖イエフが、バアル宗教を国教化していたオムリ王朝関係者を皆殺しにした場所がイズレエルなのです(オムリ王朝で有名なのはエリヤ、エリシャ物語に出てくるアハブ王とイゼベル王妃)。しかし今や、そのイエフ王朝がバアルと神さまへの信仰を混同している。神さまはホセアの長男の名によって北王国への裁きを告げます。ホセアの第二子は長女ロ・ルハマです。ヘブライ語のロは否定を意味する言葉で、彼女の名の意味は「憐れまれぬ者」です。神さまは北王国への裁きに情けをかけない(決して赦さない、6節)と断言します。第三子(次男)の名はロ・アンミです。意味は「我が民ではない者」ですが、この名前はホセアにとっても非常にショックだったでしょう。8節には命名理由で「あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ」とあります。この「あなたたち」にはホセア自身も加えられているからです。それまでのホセアは「北王国は神の裁きにあるが、自分たちは神によって守られるだろう」と考えていました。裁きを他人事と思っていました。しかし、ここでホセア自身も当事者だと気づいた。ある研究者の意見では、ホセアがゴメルと結婚を命じられたこと事態が神さまのホセアに対する試みだった、と言います。それは「淫行の妻」と自然に結婚するのか、それとも異を唱えるのか、という試みです。「淫行」は昨日見たように、バアル宗教と神さまへの信仰が混同されて儀式化した性行為です。そんな「淫行」そのものが神さまへの反意なのです。なのに、セアが「淫行の女性」とすんなり結婚したことは、ホセア自身がそういう社会風潮に何の疑問も持っていなかったことの証となったのです。「神さまが命じたからじゃないか」と思う気持ちもありますが、一方で、神さまは私たちに「自ら考え、思いをしっかり持つこと、そして従うこと」を求める方でもある。さて、「自分も裁かれる側」と悟ったホセア、ここからどうするでしょう。明日以降も続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセアはゴメルと結婚し、3人の子どもが生まれました。しかし子どもたちの名前を通して、ホセア自身、自分も習慣や風習に馴染み、神さまへの信仰が変質していたこと、自分も裁きの対象だと気づきます。ホセアは傷つき、苦しみます。でも、だからこそ私たちはここからホセアがここから何を考え、どう生き方を整えていくか、自分と重ねながら読むことができます。明日からもみことばを深く読ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(火) ホセア書2章1-15節
一言メッセージ:1-3節はホセアに反対する立場の預言者たちの言葉を、ホセアが痛烈に皮肉った言葉と言われています。彼らは国が繁栄しているのは「神の祝福」と考えていたため、ホセアの子どもたちの名の逆を自分たちに当てはめます。すなわち、血なまぐさい歴史のあるイズレエルでなく、「人々は海の砂のように数えることができないほど増える」であり、自らを「ロ・アンミ(わが民でない者)」ではなく「生ける神の子」と考え、「憐れまれぬ者(ロ・ルハマ)」でなく「憐れまれる者(ルハマ)」と考えたのです。しかし、4-15節でホセアはそんな人々の傲慢と神さまへの背きを徹底して糾弾します。注目したいのは7節でホセアは「淫行の女性」だけでなく、「彼らを身ごもった者(相手の男性)は恥ずべきことを行った」と言います。この言葉はホセアが自らを指した言葉でもある。ホセアは自らも、神の御心を知らなかったことに虚無と怒りを感じ、同時に、そんな結婚をさせた神さまへも怒りを感じ、叫んでいるのです。ホセアはゴメルを離縁します。それくらいに、ホセア自身も傷つき、自暴自棄だったのです。しかし興味深いことに、そのホセアが同時にイスラエルの救いの預言を語っているのです。特に注意したいのは9節です。「彼女は愛人の後を追っても追いつけず、尋ね求めても見出せない。その時、彼女は言う。『初めの夫のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった』と。」淫行を重ねてきた妻(イスラエルを指す)が自分の過ちと虚しさに気づき、「初めの夫のもとに帰ろう」と言うのですが、この「夫」という言葉はイーシュという言葉です。主人という言葉には「バアル」という言葉もあるのに、ホセアはバアル宗教と関連する「バアル」でなく「イーシュ(夫)に帰ろう」と言っているのです。ここに、悔い改めていくイスラエルの姿と、悔い改めを受け入れる神さまの姿を、ホセアは語っていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、自分の罪に気づき、悲しみ、苦しみ、同時に怒るホセアの姿に自分たちの姿が重なります。風習や習慣は私たちの生活に入り込み、あなたの御心とズレていることに気づかせません。でも神さま、あなたは傷つき、怒るホセア自身を通して、民が本当に従うべき神さまに立ち返ってくることを示してくださいました。神さま、続けてホセア書を読んでいきますが、どうぞ私たち自身があなたを知り、あなたに立ち返り、正しく生き直す機会となりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(水) ホセア書2章16-25節
一言メッセージ:ホセアの言葉は北イスラエルが神さまの御心から反れ、バアル信仰と神への信仰を混同している姿を痛烈に指摘します。ホセア自身もそのことに傷つき、痛み、同時に怒っていたことは昨日記しました。さて、ここで私たちは自分たちのことを思い起こしましょう。私たちが誰かに対して怒る時、「あいつとは縁を切る」とか「もう、あんなやつ、俺とは無関係だ」と思うことがあります。それは「関係を断絶する」という怒りです。怒りは関係を絶つのです。2.4などを見ると、ホセア自身も自分の妻を「お前たちの母」と語り、「妻」と表現しませんでした(直後の「彼女はもはやわたしの妻ではない」も関係断絶の言葉でした)。しかし、今朝の箇所をしっかり読んでいきますと、神さまはそんな「淫行の女性」との関係修復を示します。16節では神さまは「淫行の女性」のことを「彼女」と三人称で語りました。まだ直接には向き合えていないのです。しかし、18節「その日が来れば」と、向き合う時が来ることを預言し、「その日」には「彼女」が「あなた」という言葉に変わります。神さまがちゃんと「淫行のイスラエル」と向き合ってくださった変化なのです。18節でも「あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや、『わが主人(バアル)』とは呼ばない」と語り、信仰の混同が解消され、神さまに正しく帰っていくことが預言されていきます。今朝、私たちは罪ある私たちをも愛し、向き合い、正してくださる神さまを知らされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でわたしたちはあなたが、あなたへの背きの罪をも赦し、向き合い、自分たちの罪に気づき、立ち返ることを喜び、受け止めてくださる方と知りました。あなたの懐の深さと忍耐の偉大さを感じます。引き続き、ホセア書を読んでいきますが、どうぞ私たちにいつも必要な示唆と生き方の整えをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(木) ホセア書3章1-5節
一言メッセージ:今朝の箇所はホセアが神さまの命によって、離縁した妻ゴメルを再度、自分の妻とする物語です。それはホセアの言動を通して、神さまの意志を体現する象徴預言です。「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子(バアル祭儀で用いられたもの)を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』」神さまはホセアの言動を通して、神がそれでもイスラエルを再度赦し、救おうとする姿を示したのです。この時のゴメルは「銀15シェケルと大麦1ホメルを払って、買い取る(2節)」と書かれていますが、これは奴隷の値段です。つまり、彼女は奴隷に身を落としていた。そんな女性にホセアは3節「お前は淫行をせず、他の男のものともならず、長い間(生涯)わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」と告白し、再度自分の妻とします。当時の社会観から言えば、情けない、恥ずかしい姿です。でも、その行動は正に、神さまがイスラエルを愛し、再度赦し、受け入れる姿そのものなのです。神さまの愛は自らが嘲られても相手を愛し抜く愛です。この愛は今、私にも、あなたにも神さまが与えてくださっている愛です。皆、愛されて生かされていることを覚えましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はあなたの愛の深さをこれ以上ないほど示します。あなたは偉大な神であるのに、人々の嘲りや恥とも苦ともせず、あなたに背いて生きていた私たちを赦し、救ってくださいました。今日、あなたの愛が今も私たちに与えられていることに感謝し、一日を過ごせますように。感謝と期待を持って祈ります。アーメン。

24日(金) ホセア書4章1-19節
一言メッセージ:4章以下は1-3章のホセア預言をさらに細かく見ていくようなものです。だから、時系列で3章の続きと読む必要はありません(そう読むと混乱します)。
  今朝の箇所を読みますと、イスラエルの民が神さまへの信仰(礼拝)とバアル信仰が混同していたことが指摘されています。具体的な「淫行」に加えて、2節の「欺き、人殺し、盗み」は十戒に背く内容です。けれど彼らは「豊作祈願の献げ物」としての幼子の人身御供を「殺人」と考えず、アモス2.6で「貧しい人が靴一足の値段で売り買いされる」様子を当然の社会文化と考えていました。加えて、本来、過ちを指摘して社会を正さねばならない祭司さえ9節では「民と同じ」と指摘されています。社会の風習、風潮、伝統に盲目的に馴染んでしまい、神さまを見失わせていたのです。古い教団賛美歌345番「義の太陽はさしいでぬ」の3番の歌詞にドキッとします。「ひかり仰げば今さらに、たえず移ろうしきたりと、やがて過ぎゆく習わしに、深くなずみし、愚かさよ」。意味はこうです。「神を仰げば、今さらに自分の姿がよく見えてくる。それまでの私は、いつも移ろいゆく伝統や、やがて忘れられていくだけの習慣に、どっぷりと馴染み、神さまが見えていなかった。愚かだった。」ホセア書が指摘する民への警告を見ながら、私たちは今、改めて神さまの御心、示唆から自分自身も振りかえりましょう。その時、社会の「~べき」「~ねばならない」が案外と、どうでもよいものだったことに気づき、解放されていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはホセア書を読みながら、自分たちの姿を振り返らされます。私たちは社会の伝統や風習の中で、本当に大事にすべきものと、そうでないものとの区別がつかず、かたっ苦しく、見当違いな生き方に絡めとられていた部分に気づきます。神さま、どうぞ私たちが改めて、あなたを第一とし、あなたによる喜びと解放に満ちた生き方へと進むことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(土) ホセア書5章1-15節
一言メッセージ:5章は北王国が滅亡していく歴史的流れを踏まえて読む箇所です。ホセアはヤロブアム2世の晩年から北王国滅亡のかけての預言者ですが、その時代のイスラエルは次から次へと王が代わります。ヤロブアム2世の死後、息子のゼカリヤは6か月でシャルムのクーデターによって殺害され、イエフ王朝は終わります。その後、シャルムもメナヘムによって1か月で滅ぼされ、メナヘムの息子もペカによって滅ぼされ、ペカもホシェアに…とコロコロ変わっていく。これらのクーデターの背後にあったのは北の強国アッシリアに近づくか、それとも南のエジプトに近づいて独立を守るか、といった政策の違いです。ペカは反アッシリアの王でしたが、彼はクーデター後にアラム王レツィンと反アッシリア同盟を組織(小国がまとまることによってアッシリアに対抗しようとした)。南ユダ王国にも加盟を求めますが、南ユダはそれを拒否。同盟は南ユダに「自分たちに加わらないなら」と攻め込みますが、南ユダは生き残りのためにアッシリアに大量の貢物を送って、反アッシリア同盟を背後から攻めてもらいます。反アッシリア同盟はこれに敗れます。加えて、この時、南ユダ王国は北王国に攻め入って領土を切り取りますが、戦後はその南王国もアッシリアに従属を迫られます。この流れが8節以下に影響を与えています。複雑でしょ?さて、箇所そのもので注目したいのは1節以下、ホセアは「祭司たち」への厳しい裁きを語ります。祭司たちは「自分たちは神の託宣がある」と驕り、でもその言葉の内実は自分たちの利権となっていました。ホセアはその姿勢が国を滅亡させる「罠、網、穴(1-2節)」となっていると指摘しています。神さまへの信仰が己の都合と結びつくことへの警告です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセア書5章を歴史的な流れで読むと、危機の中で人があなたを見失い、自分たちの画策に終始していく姿が見えてきます。神さま、どうぞ私たちはいつもあなたをこそ第一とし、己の生き方を振り返り整える者であれますように。悔い改めを受け入れてくださるあなたを信頼し、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。


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6月12日~18日のみことば - 2022.06.12 Sun

いよいよ九州北部も梅雨入りしました。
しばらくは雨が続きそうですね。
久留米はここ数年、夏の大雨で様々な被害が出ています。
幸い教会に被害は出ていませんが、今年は水害が起こりませんようにうにと願うばかりです。

季節の変わり目、体調を崩しやすい時でもありますから、どうぞ皆さんの健康も守られますように!
それでは、今週のみことばをどうぞ♪

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12節(日) アモス書3章1-2節
一言メッセージ:預言者アモスが活動した紀元前8世紀の北イスラエル王国はヤロブアム2世という王の下、大繁栄の時代を迎えていました。国土はかつてないほどに広がり、経済は活発でした。しかし、その内実は経済格差が広がり、貧しい人が奴隷に落とされ、靴一足の値段で売買される状況です(2.6参照)。国の指導者たちは権力にしがみついて横暴を極め、裕福な民は盛大な献げ物をすればすべての罪が許されると高を括り、祭司たちも利益に走っていました。神さまへの礼拝もバアルやアシェラへの信仰と混同され、神殿にて性行為が献げものと解されている始末です。そこで預言者アモスは1-2節で語ります。「イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け。地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する。」読んで、「あれ?」と思いませんか?神さまが選んでくださったのなら、「すべての罪を赦す」と言ってくださると想像したのに、神さまは「罰する」と宣言した。何故か。それは、神さまの落胆と怒りのためです。神を知らぬ民への怒りではなく、出エジプト以降、ずっと向き合い、助け、共にいたイスラエルの民が神さまよりも自分たちにご利益を与える宗教を「神」として拝み、己が欲を社会制度で正当化している。だから神さまは、そのすべての罪を正しく裁くと宣言されるのです。神さまの裁きに厳しさを感じますが、同時に私たちは「裁きの後の約束」も知っておきましょう。アモス書を読み進めますと、神さまは国の滅亡の後に、もう一度、民が正しく神さまに立ち返り、復興することを語ります。つまり、この神さまの裁きは「整えるための戒め」なのです。宗教改革者マルティン・ルターはこう語っています、「みことばは、私たちを救うために裁き、生かすために殺す」と。当時のカトリック教会が救いを金で売買する姿を見て、ルターはアモス同様に叫んだのです。私たちはアモスの警告を正しく受け取り、己を振り返りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。アモスの言葉は民を正しく立ち返らせるため、整えるための裁きの宣言でした。神さま、私たちはアモスの言葉を読みながら自分たちを振り返ります。私たちにも過ちは多々あることでしょう。どうぞ救うために、己が罪に気づかせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(月) アモス書4章1-13節
一言メッセージ:神さまの裁きの言葉は続きます。今朝、注目したいのは6節、8節、9節、10節、11節で繰り返される、「私はお前たちに○○(いろいろな災難)を行った。しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」です。神さまは裁きの前に何度も何度も、民に過ちに気づくようにきっかけを与えているのです。でも、自分たちの風習や伝統、欲と都合を優先し、神さまを考えない民は悔い改めのきっかけにも気づかない。そこで神さまは言われます、12節「それゆえ、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。」怖い言い方ですが、でも読み方を変えると、神さまはここでも民を見捨てるのでなく、なお「出会おう」としてくださるのです。求道中の方と話していて、「いつか洗礼を受けたいと思っているんだ」と聞くことがあります。その度に「もったいない」と思うのです。信じたから状況が悪くなるもんじゃなし、かえって神さまの整えを感じるし、期待して生きられる。あなたが神さまと出会い、本当に充実した人生を歩むために神さまと早々に出会えばいい。9年前、予備校の先生だった林修さんの言葉「いつやるの、今でしょ」という言葉が流行語になりました(もう9年前なんですね)。同じ気持ちです。いつ信じるの?今でしょ!
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で、あなたは「それでもお前たちはわたしに帰らなかった」と繰り返しながら、でも「わたしと出会う備えをせよ」と、出会いを促してくださいます。神さま、私たちの中にも求道中の仲間たちがおります。まだあなたを知らぬ人々もいます。どうぞ、少しでも早くあなたを信じ、安心して、期待して生きる人生を始めさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(火) アモス書5章1-15節
一言メッセージ:アモスは神さまの言葉を取り次ぎます。今朝の箇所で印象的なのは4節、6節と14節です。4節「わたしを求めよ、そして生きよ」、6節「主を求めよ、そして生きよ」、14節「善を求めよ、悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主は、お前たちと共にいてくださるだろう」です。気づくのは「神さまを信じること」と「生きること」がイコールで結ばれていることです。先日12日の礼拝説教で創世記2章から「私たちはいかに生きるべきか」を考えました。創世記2.7には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という記述があります。人はそもそも塵芥に過ぎない存在です。でもそんな私たちに対して神さまは鼻から命の息を吹き込むため、真正面から向き合ってくださる。さらに「息」という言葉はネシェマーという言葉で、本来の意味は「呼吸」です。神さまから息を吹き入れられた人間は、息を吸い、吐く。それは神さまからもらった命で応答していくことを意味します。そして創世記はこう語ります。「人はこうして生きる者となった。」聖書において、「信じることと生きること」は等しいのです。「信じている」と言っても、信じたように生きていないのは、もったいないのです。ぜひ信じて、神さまに期待して、生きてみましょう。もし大きく一歩踏み出すのが怖いなら、先ずは小さな一歩からでもいい。神さまが私たちの勇気を込めた一歩を喜び、きっと、「あぁ、神さまに期待して良かった」と思える一日を与えてくださる(ただし、私たちの願望どおりではない。ここは神さまの主権に委ねる事柄ですもんね)。さぁ、信じて生きる一日を始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「信じることは生きること」と分かち合いました。あなたを信じる時、私たちはどこか臆病で、あなたに大きな期待をせずにいるのかもしれません。でも、あなたはそんな私たちに「わたしを求め、生きよ」と呼び掛けてくださいます。神さま、小さな一歩からあなたを信じ、期待し、踏み出します。どうぞ私たちを祝福し、「あなたを信じて良かった」と言える一日を過ごさせてください。また、どうぞあなたの示唆に気づく一日であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(水) アモス書6章21-27節
一言メッセージ:神は北王国の民の礼拝を7回にわたって強く拒絶します(21節「憎み」「退ける」「喜ばない」、22節「受け入れず」「顧みない」、23節「遠ざける」「聞かない」)。それは、彼らの礼拝が神さまへの信仰をバアルやアシェラ信仰と混同したものであり、また「罪を犯しても豪華な献げ物をすれば、問題ない」と高を括っていたからです。そして神さまは24節で民に悔い改めを求めます。24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」この言葉はとても具体的なイメージを持った言葉です。「正義」は「神さまの御心に基づく判断」を指す言葉で、それは「洪水のように」、飲み込み、壊して流すのです。神さまは、民が神さまへの不誠実な礼拝をしている現状を「神の正義によって押し流し、排除せよ」と語ります。一方、「恵みの業を大河のように」と語る。「恵みの業」は「神の御心に基づいて、互いに当たり前に生きていける社会」を指しています。そんな「当たり前に生きる社会」は「大河のように」です。「大河」は生きるために必須な水を安全に与えてくれる秩序をもった水です。神さまは、神さまに向き合い正しく生きず、命がないがしろにされる社会に正義を洪水のように押し流し、誰もが当たり前に生きられる社会を秩序ある大河のように静かに、確かに、尽きぬことなく流れさせよ、と言われたのです。この言葉を、私は日本や世界の現状への示唆にも感じます。ウクライナには早急な停戦を、同時に、日本でも世界でも、弱い者が虐げられる格差は是正され、現憲法が指示する「健康で文化的な最低限度の生活」が世界どこででも約束される社会であってほしいと祈るのです。御心にはほど遠い現実ですが、私たちは一歩ずつでも前進していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたの「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」との示唆は2800年経った今も極めて具体的な示唆です。神さま、どうぞ私たちの社会にあなたの平和を実現させてください。一歩ずつ堅実に、社会を正す、そんな私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(木) アモス書7章10-17節
一言メッセージ:アモスの強烈な預言の言葉に、社会の人々は嫌な顔をしました。当時の北王国は経済的に豊かだったため、有力な人々にとっては都合の良い社会だったからです。そこで、ベテルの祭司アマツヤはヤロブアム王に「アモスがあなたを批判しています」と訴え、排除しようとします。アマツヤの言葉は12節からです。彼はアモスに「北王国から出て行き、南王国にでも行ってしまえ。ここは北王国の王の聖所、神殿だ」と告げます。一方、アモスは「今、主の言葉を聞け(16節)」と答えます。二人は対照的です。アマツヤは王や王国の神殿、自分の祭司という地位など、権威でアモスを黙らせようとします。一方、アモスは「私は農夫だが、その農夫に主が預言するように言われた。だから、今、主の言葉を聞け!」と、神さまを根拠にして語るのです。私たちバプテスト教会は徹底的に権威を客観視し、万人祭司という考え方を大事にします。「すべての人が神さまと向き合い、神さまの示唆をいただいている。だから『権威だから』と従うことはしない」と考えるのです。どれだけ立派な人間だって、所詮は人間。必ず間違う存在だから、バプテスト教会では牧師や長老格の信徒の考えも一意見とし、皆の対話による決断を重視するのです。わたしたちは、一人ひとりが「神さまは私に今、こう告げておられるのだと思う」との自覚的信仰を持って対話するのです。私は改めて「バプテスト教会って良いなぁ」と実感しています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。アモスは人の権威に屈服せず、ただ「神さまのご命令」に従いました。私たちはその姿に、万人祭司を大事にするバプテスト教会の姿を重ねます。神さま、どうぞ私たち一人ひとり、あなたと真正面から向き合い、あなたの示唆を模索し、互いに協力し合う教会であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(金) アモス書8章9-12節
一言メッセージ:7章から9章にかけて、アモス書では5つの幻の話が記されています。今朝は4つ目と5つ目の幻の間に記された話ですが、非常に印象的な箇所です。9節、11節の「その日が来ると」の「その日」とは神さまの裁きの時です。その時に、神の警告に耳を傾けなかった民は「飢え」に襲われると言います。それも「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ(11節)」です。私はこの言葉にゾッとします。この2年4カ月を思い返してください。私たちは新型コロナのただ中で、仕事や人々との関りなど不安はいっぱいありました。でも、心くじけず、いつも元気に過ごしてこれたのはなぜだったか。それは、みことばがいつも私たちの傍らにあったからです。日曜日の礼拝も、このみことばメールも、皆さんが日々行っておられるディボーションでも、みことばはいつも豊富でした。そのみことばが一切なく、「みことばに飢え渇く」と想像すると、それがどれほどの落胆、失望、絶望の状態かとゾッとするのです。その時に聞こえてくる希望は、その場しのぎの気休めに過ぎない。何があろうと決して揺るぎない確約ではないのです。今日、私たちは改めて、みことばが与えられていることに感謝しながら、一日をスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、終わりの日には「主の言葉を聞くことのできぬ飢え渇きが襲う」との預言を読みました。それは私たちにとって、大きな恐怖です。でも逆を言えば、あなたのみことばは今日も私たちには豊富に与えられています。神さま、改めて、みことばを感謝します。どうぞ日々、私たちにみことばを通しての希望をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(土) アモス書9章7-15節
一言メッセージ:アモス書も今朝で終わりです。アモス書は、神さまの怒りを印象的な言葉で語ってきました。今朝、注目したいのは7節です。神さまはイスラエルの民に「わたしにとってお前たちはクシュ(エジプト南方、今のスーダン)の人々と変わりがないではないか」と告げました。この言葉が意図しているのは、当時の北イスラエルの民が「私たちはアブラハム以来、救いを約束された民だから、神の怒りを買うことがない」と考えていたことへの反論です。キリスト教の歴史を見ますと、この「自分たちは既に救われたから、神は私たちを怒らない」という理解は度々登場します。例えば、宗教改革者ジャン・カルヴァンの弟子たちもそうでした。カルヴァンが宗教改革を行ったのは、十字軍の遠征に失敗し、深刻な資金難に陥ったローマ・カトリック教会が免罪符を販売し、「神さまの救いを金で売り買いできる」としたことへの反論からでした。だから、カルヴァンは「救いは神によってもう既に決められている」という予定論を主張したのです。しかし、それから数十年後、カルヴァンの弟子たちは「救いは神によってもう既に定められているならば、救われた私たちは何をしたって問題ない」と考え、自堕落な生活をしたのです。同じ問題は実はⅠコリントでもパウロも指摘しています。キリスト教の歴史で度々出てきたのです。神さまへの畏敬を見失う信仰は己が都合の正当化に利用されてしまいます。アモスはそんなイスラエルの民に、「神の前にお前たちは、神を知らぬ民と何ら変わらないほど小さな存在に過ぎない。しかし、そのお前たちを愛し、祝福し、導いてくださった神さまだからこそ、誠実に向き合え」と告げたのです。実際、11節以降、神さまは北イスラエルだけでなく南ユダ王国も滅亡することを預言し、その後に神さまによる回復を預言したのでした。私たちは神さまへの畏敬をもって、今日も過ごしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。アモス書は厳しい預言の言葉が続きましたが、その最後にアモスは人の驕りを指摘し、神さまへの畏敬を示しました。神さま、アモスの示唆に従い、私たちも改めてあなたを畏れ敬います。どうぞ、私たちの過ちは正し、御心に沿うところは喜び、導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***









6月5日~12日のみことば - 2022.06.05 Sun

6月に入りました。
なんだか、早くも夏のような暑さの久留米です。
朝晩との気温差で体調を崩しがちになりそう。。。
皆さんどうぞ、ご自愛ください。

今日は先日の教会のお花の写真のおすそわけ。

202205flower.jpg

いろんな色のお花たちに元気をもらいました♪

今週も、時々休憩しながら、一日一日ゆっくり過ごしていきましょう。
それでは、今週のみ言葉をどうぞ!!

***

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5日(日) 列王記下23章31-35節
一言メッセージ:長く読み続けてきた列王記もいよいよ終わりに差し掛かりました。南王国の希望だったヨシヤ王の死後、南王国は20年ほどで滅亡します。今朝からの箇所は、その滅亡の物語です。ヨシヤ王がエジプト軍との戦いで戦死した後、人々はその息子ヨアハズを王としました。一方、ヨシヤ王を滅ぼしたエジプト軍はイスラエルを北上してアッシリアの残党と組み、バビロン軍と戦います。けれど、結果は敗北でした。エジプト軍はまたイスラエルを通って自国へと帰る。今朝の箇所はその際の物語です。エジプト王ファラオ・ネコ(名前はかわいい)はバビロンがさらに攻めてくると予想し、エジプトの防衛線にするべく、南王国に自分の意に従う王を据えます。だから即位3カ月のヨアハズを退位させ、ヨヤキムを即位させました。ヨヤキムはエジプトへの貢物を課せられ、その貢物のために民に重税を課し、さらに南王国は弱体化していったのです。読むだけで悲しい箇所ですが、今朝私たちは聖霊降臨(ペンテコステ)の礼拝に集います。だから本メールでも希望を分かち合いたいです。聖霊降臨という世界で初めて教会が誕生した時、実は弟子たちはエルサレムの一軒の家に隠れていました。イエスさまが約束くださった聖霊が下るまで、彼らは民衆に捕らえられ、イエスさま同様に殺害されることを恐れていたのです。しかし、聖霊はそんな彼らを力強く励まして教会を作らせ、閉じこもるどころか世界への福音宣教へと押し出していったのです。人の目に見える滅亡や恐れも、神さまの御業によって逆に大きな飛躍へと用いられます。私たちは南王国の滅亡だけに目を留めるのでなく、その先にある神さまの希望に目を留めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。南王国は大国の力関係の中で翻弄され、滅亡へと歩みました。けれど、あなたはその滅亡の先に救いと希望を実現される方です。私たちも目先の出来事に翻弄されず、御業を求め続ける者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(月) 列王記下23章36-24章7節
一言メッセージ:エジプトによって王位に据えられた南ユダ王国の国王ヨヤキムは11年、王位にありました。彼に課せられたのはエジプトへの貢物と対バビロンの防衛線でしたが、エジプトの見立てどおり、バビロン王ネブカドネツァルはエジプトを攻めるべく、南王国に大軍で押し寄せてきました。ヨヤキム王は敗れて服従しますが、3年後にバビロンに反旗を翻します。エジプトからの援軍を得たのです。しかし結果、南王国とエジプトの連合軍は敗北し、ヨヤキムは殺害されます。列王記著者は「それはマナセが行った罪と、罪のない者の血を流させたため」と記します。イスラエルの人々はヨヤキムに代わって、その子ヨヤキンを王に据えますが、もはや後ろ盾のエジプトは力を失いました。人々はバビロンに脅威を感じていきます。このあたりは先々、エレミヤ書を読んでいきますが、今私たちが考えるのは、このような不安な時に私たちは何に希望を見いだすか、です。明日も何が本当の希望かを模索しながら、続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。南王国はエジプトとバビロンの間で翻弄され、王が次々に代わります。その度に人々は「どちらにつけば生きながらえることができるか」と考えました。でも神さま、人の力は所詮、その場しのぎにしかなりません。本当の救いはあなたにこそあります。どうぞ私たちに、いつもあなたに立ち返る信仰と、あなたの導きを期待し続ける信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(火) 列王記下24章8-17節
一言メッセージ:ヨヤキンは18歳で即位し、3カ月だけの王位でした。というのも、先の対バビロン戦争に敗北し、後ろ盾だったエジプトが撤退した後、南王国はバビロン軍に取り囲まれたのです。ヨヤキン王は降伏します。バビロン王はイスラエルの宝物を奪い取ったうえで、王と王族、職人(技術者)と兵士をバビロンに連行します。第一次バビロン捕囚です。バビロンは新たにヨヤキンのおじマタンヤ(当時21歳)をゼデキヤと改名させて王位につけました。改名させることは支配の証でした。このゼデキヤが南王国最後の王となります。ダビデから23代続いたダビデ王家(正確には女王アタリヤはダビデ家ではないので22代)が滅びるのです。さて、ここにきて列王記で何度も何度も見てきた言葉に注目したいと思います。それは9節の「主の目に悪とされることを行った」です。時代や王によって、それは「バアルなどの異教礼拝」であり、「経済格差が広がることで弱者がないがしろにされる」だったり、複合だったりします。では、この滅亡時期のおもな「主の目に悪とされること」とは何でしょう。それは「大国の間を右往左往し、本当に頼るべき相手を見失っていること」です。ヨシヤ王以降の記事では王が神さまに御心を問う記述は一切出てきていません。神を求めない王国の滅亡は間もなくです。明日もご一緒に続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。読み続けました列王記もいよいよ南王国最後の王に入りました。すでに「国」といっても自治能力は無く、バビロンの植民地です。明日からも続きを読んでいきますが、神さま、どうぞあなたがこの追い詰められた時にも何を語り、何を示唆されているか分かち合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(水) 列王記下24章18節-25章21節
一言メッセージ:最後の王ゼデキヤはバビロンに反旗を翻しました。この経緯はエレミヤ書に詳しいですが、これはイスラエルの民の親エジプト派が「エジプトに従ってバビロンから独立しよう」とけしかけたのです。しかし、エジプト軍は援軍を派遣せず、エルサレムはバビロン軍に包囲され、兵糧攻めを受けて戦意喪失。資料では人肉食も起こったようです。こうしてエルサレムは陥落。王や主だった人々は逃亡しますが、捕えられ、王子たちはゼデキヤの前で殺害され、ゼデキヤも両目をつぶされてバビロンに連行されていきます。加えて、バビロン軍は王宮も神殿も民の家屋も徹底的に破壊します。民の心をぽっきり折るためです。13節以下、詳しい記述が続きますが、気になることは、出エジプト以来、常に幕屋や神殿に納められてきた「神の箱(十戒を納めていた)」の記述が無いのです。おそらく9節の火によって消失したと思われますが、こうしてイスラエル王国は歴史から滅亡しました。「諸行無常の響きあり」ですが、でも、ここで私たちは誤解してはいけません。国家は所詮、人が作った区分けです。国は滅びても民は滅びていない(12節)。このちっぽけで、社会的に虐げられた民は、国が終わっても神さまと向き合いながら、なお生き続けるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。南王国は滅亡しました。でも、神さま、民は生き残っています。私たちは「国」や「民族」といった形に興亡を見ますが、でも、あなたの前に「国」や「民族」は単なる器にすぎません。それよりも、あなたは一人ひとりの民と真正面から向き合ってくださる方です。私たちは集団や形にとらわれず、常に向き合い続けてくださるあなたを意識しながら自分たちの状況を受け止める者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(木) 列王記下25章22-30節
一言メッセージ:南王国の最後の王ゼデキヤがバビロンに連行された後、バビロンの王はゲダルヤを総督とします。ゲダルヤはヨシヤ王の書記官だったシャファンの孫です。彼は取り残された民を集め、細々ながらも、民が安全に暮らせる体制を作ろうとします。しかし、同意できない王族のイシュマエルは、アンモン王の命によってゲダルヤを暗殺するのです。経緯はエレミヤ書40-41章に詳しく記されていますが、総督ゲダルヤが暗殺されたことで民はますます混乱に陥りました。民はバビロンの復讐を恐れ、エジプトに逃れ、国は人も済まぬ荒地となったのです。エレミヤ書では、預言者エレミヤは「神がバビロンを使者とし、イスラエルを滅亡させられるが、神はこの荒廃の中から、もう一度、民の国を復興してくださる」と告げました。けれど、彼の言動は「親アッシリア」としか理解されず、エジプトに連行され、処刑されたとあります。何とも救いようのない終わり方に思えますが、列王記は最後27-30節で、第一次バビロン捕囚で連行されたヨヤキン王の晩年を記します。ヨヤキンは連行されて37年後、当時のバビロン王の恩赦で出獄し、バビロン王の手厚い庇護を受けたとあるのです。さて、どうして列王記の著者は最後にヨヤキンの話を記したのでしょう。それは、民に1つの希望を示すためだった、と思う。その希望とは「国が滅びた。しかし、神はなおダビデ家のヨヤキンを遺し、復興という一抹の希望を民に示した」だと思うのです。実際、イエスさま時代には「救い主はダビデ家の末裔」というイメージは強く残ります。本当に不思議です。神さまは、どうしようもない滅亡の中にすら希望を示しているのです。明日からは時代を遡り、列王記で見てきた王の時代に、みことばを取り次ぎ続けた預言者たちを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、長かった列王記も読み終わりました。最後は悲しい滅亡の記事でしたが、あなたはヨヤキン王のその後を語らせ、民に復興という一抹の希望を示されました。あなたは貧しく低くされた民を見捨てず、そのただ中にも希望を示し、実現されます。それはまるで、貧しい夫婦の家に救い主を生まれさせた出来事そのままです。神さま、明日からもみことばを分かち合っていきますが、私たちにまた確かな希望を示してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(金) アモス書1章1-15節
一言メッセージ:昨日まで読んできた列王記は、ソロモン王の治世から分裂による南北王国時代、北王国の200年の歩みと、南王国の350年の歩みが記されていました。この間、私たちは「北王国の〇〇王の時代は…」「南王国の何代目の△△王は…」という報告をサラッと読み進んだのですが、正直、振り返っても「どんな王がいて、どんな時代だったか」、いまいち覚えてない。覚えている預言者はエリヤとエリシャがバアル信仰を推し進めた北王国のアハブ王と王女イゼベルと対決した物語くらいです。そこで、今日からは旧約聖書の様々な預言書を取り上げながら、「〇〇時代に活躍した□□という預言者は…」と読んでいきましょう。最初に取り上げるのはアモス書です。アモスは紀元前8世紀の北王国で活動した預言者です。この時代の北王国の王はヤロブアム2世で、領土が非常に拡大し、経済的にも富栄えていた時代です。一方で国内では経済格差が広がり、貧しい人々が奴隷にされ、宗教的にも弱い人々が顧みられないどころか、宗教者たちも一緒になって民を踏みにじっていた時代です。そんな時代にアモスは声を上げるのです。1.1を見ると、アモスは羊飼いだったようです。彼は素朴なまでに民に寄り添って、みことばを取りつぎます。1章では神さまの裁きの言葉です。対象は、3-5節はダマスコというイスラエル北部の国、6-8節はガザ、9-10節はティルスという地中海沿岸部にある異民族の街への裁きです。9-10節のエドムはイスラエル南部の民族、13-15節のアンモンはイスラエルの東に住む民族です。アモスの預言はイスラエルの周辺国への裁きの言葉から始まります。最初、聞いていたイスラエルの民は「そうだ、周辺国は神の国である私たちにちょっかいをかける敵対者だ。神の裁きを受けて当然だ」と考えたでしょう。でも、そのことばは明日の2章でブーメランとなって戻って来るのです。明日、続きを読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からは預言書を読み始めます。そのはじめに、歴史的に最も古い時代を記したアモス書から始めます。列王記で読んできたサラッとした記述をさらに深めながら、いつも民を思うからこそ声を発する神さまを学び続けることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11節(土) アモス書2章1-16節
一言メッセージ:昨日の続きです。北イスラエル王国の民は、預言者アモスを通して語られる裁きがイスラエルの周辺国への裁きなので、「そうだ!もっと言ってくれ」と思ったでしょう。けれど今朝の箇所2章で、裁きの言葉はブーメランのように戻ってきます。1-3節で近隣民族エドムへの裁きでしたが、4-5節は袂をわけた南王国へ、そして6-16節は自分たち北王国への裁きの言葉でした。記述からは当時の北王国の様子がよく分かります。北王国では経済格差が広がり、その結果、借金のカタに奴隷に身を落とす人々が「靴一足の値(6節)」で売買され、「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ(7節。厳密にヘブライ語を読むと、「踏みつけられ続けている」)」ていました。「父も子も同じ女のもとにかよい」とは、バアルやアシェラ信仰が聖書の神さまの信仰と混同されただけでなく、バアルやアシェラの礼拝では性行為が宗教儀式とされていたため、神殿にて神殿娼婦(神殿男娼)との性行為が行われていました。「父子がそろって通い」は神殿娼婦に父子が通う様子です。この不品行に8節、正すべき祭司たちは彼ら自身、貧しい人々から取り上げた衣やぶどう酒で宴会している。神さまの怒りは非常激しく、明日以降の箇所でも厳しく糾弾されます。さて、今朝の箇所で分かち合いたいことは、イスラエルの民は自分たちの過ちに気づいていないことです。彼らは「神殿で礼拝しているよ。奴隷だって、彼らがしっかりと生活できないからじゃないか(奴隷にすることで、自立した生活をできない人を保護しているのだ、という理解もあった)」と考えていたことでしょう。でも、彼らが「神さまも喜んでいるはず」「これは正しい」と思っていることは、自分たちが作り上げた風習や伝統、社会制度でしかない。神さまはそんな彼らにはっきりと「悪」と告げます。アモス書を学びながら、私たちも自分たちを振り返りたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で北王国の民は神さまの裁きの言葉が自分たちに降りかかり、驚愕したでしょう。彼らは風習や伝統を正義と誤解し、あなたの御心と勘違いました。あなたはその罪をきつく指摘されます。神さま、私たちも自分たちを振り返ります。どうぞ苦笑できる範囲くらいでの過ちであれますように。そして、ちゃんと振り返り、正しくやり直す私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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