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2020-09

戦中・戦後の記憶 +8月16日~22日のみことば - 2020.08.17 Mon

8月も半ばを過ぎ、いよいよ暑い毎日です。
皆さん体調を崩しておられませんか?

さて、ブログの記事でも触れていた通り久留米教会では毎年8月は平和を覚える月間として礼拝をささげています。メッセージの内容も平和メッセージとなっています。
また、今年は週報(教会の礼拝プログラムやお知らせの載っているプリント)の四面に「戦中・戦後の記憶」として教会のメンバーの方に文章を載せていただいています。
今回はその文章もここに載せることにします。
どんどん戦中・戦後のことを語れる世代が少なくなる中、大事な証言です。
私たちもこの証言を受け止め、引き継いでいきたいと思います。

~戦中・戦後の証言①~
 終戦10ヵ月前に生まれた私には、戦争の記憶は全くありませんが、耳にしてきた断片をつなぎ合わせてみます。
 両親は結婚後北九州に住んでいました。戦況が厳しくなるにつれ、八幡製鉄所や山田弾薬庫が標的になり、危ないということで、父の実家に疎開したようです。疎開先は、久留米の藤山町。私には2歳上の兄がいて身重の母は大変だったと思いますが、祖父母や伯父伯母達に守られての出産だったと想像します。母の実家はというと、久留米駅近くの問屋街にありましたが、終戦間際の8月11日の空襲で焼けだされ、母方の親族もまた藤山の父の実家で世話になったようです。
 大変な苦しい中で、助けられたり、助け合ったりの時代だったようです。

~戦中・戦後の証言②~

 戦争が終わった時、私はまだ2歳。祖母と二人暮らし。終戦後のことしか分かりませんが、書いてみます。
 祖母は父の帰りを待っていたように亡くなりました。伯母さん達家族が上海から熊本に引き揚げてきて、従姉妹二人が我が家でくらしはじめました。そして従姉妹の父が結核で亡くなり、上の従姉妹も結核になり病院で亡くなりました。下の従姉妹と私、小学生になり復員してこられる方を、学校から、学校近くの駅に何度か迎えに行ったことを覚えています。
 放生会に参道のたいこ橋の手前で傷病兵の人が白い服を着て、アコーディオンを弾く姿を何度も目にしました。戦争が終わっても、傷ついた人達が私のまわりにもいたことを思いおこされました。



***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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16日(日) 詩編116編1-19節
一言メッセージ: 今朝は敗戦記念日から明けた16日であり、神さまと向き合う礼拝の時です。今朝の116編はそんな一日の始まりにふさわしい詩です。
  116編の詩人は1-11節で、何らかの危機に直面しています。具体的には分かりませんが、「死の綱(3節)」とあるので、死を意識するほどの危機のようです。けれど、そんな中で彼は神さまを「呼ぶ(2節、4節、13節、17節)」のです。そして12-19節は、危機を脱した詩人が神さまに感謝すべく、神殿で感謝の献げものをしています。
  116編で注目したいことは2つ。1つ目は10-11節で詩人が、「激しい苦しみ」に襲われて、自分の境遇を惨めだと痛感していますし、不安のために「どうせ人は欺く」と不信感に苛まれていることです。時々、「信じれば、惨めさや不信感に陥ることなく、いつも平安に生きられる」と思う人がいますが、私たちの実態はそうではありません。信仰を持っていても、時に惨めさや不信感に陥る。では信仰者と信仰の無い者とは何が違うのか。信仰者は惨めさや不信感に苛まれながら、それでも神さまを信じられるのです。「私が惨めであっても神さまがおられる。神さまが自分に目を留め、必ず救ってくださり、全てを整え導いてくださる」と信じるから、私たちは自分の限界を超えた希望をいつも感じられる。これが私たちの信仰の強さなのです。
  2つ目に注目したいのは詩の中で4回繰り返される「呼ぶ」という言葉です。ヘブライ語のカーラーが使われていますが、その意味合いは「声に出して語り掛ける」です。十戒に「主の名をみだりに(いい加減に)唱えてはならない」とあるように、イスラエルの民にとって神さまを呼ぶことは非常に重たい事柄でした。でも詩人は神さまを何度も何度も「呼ぶ(カーラー)」する。それは、自分の都合で神さまを利用するような呼びかけではなく、神さまと人格的に向き合う行為でした。言い換えるならば、生涯をかけて神さまを信じ、向き合い続けるのです。その時、詩人は神さまが自分に手を差し伸べ、顧み、整え、救い、導いてくださった。だからこそ、彼は神さまに感謝の献げ物を携え、神殿(礼拝)へと向かうのです。
  今朝は敗戦記念日から一夜明けた16日です。戦後75年、私たちは未だ神さまの平和を実現できていません。それどころか、今の政治の風潮は昨日の総理の平和式典でのコメントしかり、歴史を歪曲し、戦争を容認するような動きも強くなっています。私たちはそんな政治を前に無力さ、惨めさも感じそうです。でも、その中で私たちは信仰を新たにされるのです。神さまの平和は今も変わりなく示され続けている。争いでなく共存を、敵意でなく愛を行うべく、私たちは今朝も神さまと出会う(カーラー)することから平和を歩み始めるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の116編は私たちに生き方の大事なヒントを与えてくれます。惨めさや不信感の時にも私たちはあなたを信じ、あなたと向き合い続けます。その時、あなたは私たちを強くし、状況を必ず整え、救い、導いてくださいます。神さま、戦後75年、未だあなたの平和を実現させることができていませんが、でも、私たちがあなたと向き合いつつ、声を上げ続けます。どうぞ、あなたの平和を世界に実現してください。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

17日(月) 詩編117編1-2節
一言メッセージ:今朝の117編を読んでの最初の感想は「短い!」です。でも、117編は短いながら、内容は豊かです。117編には民族主義的な思想はなく、「全ての国、全ての民」が神さまを賛美することを求めます。その神さまは私たち人間の力、理解、常識、想定を超えて、そして時の流れすら超越する、力強い神さまです。先週、私たちは戦争の記録をテレビやニュース、その他いろいろな時に見てきました。誰もが「もう二度と戦争をしてはならない」「核兵器なんて必要ない」と思うのに、日本政府は戦争できる国づくりを進めているように見えますし、世界的な「核兵器禁止条約」にも同意しません。平和の願いすら、政治の道具にされています。でも、今朝の詩編は、そんな政治的駆け引きすら超えて、ただただ偉大な神さまの前に世界が共に集い、共に生きることが詠います。神さま、どうぞ私たちの社会にあなたの平和を実現してください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。117編はすべての国、すべての民があなたを賛美し、あなたの偉大な御業によって平和な世界が実現することを願いました。神さま、私たちも同じ思いです。どうぞあなたの平和を来たらせてください。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

18日(火) 詩編118編1-29節
一言メッセージ:118編は昨日と打って変わって長いのですが、内容は喜びの詩です。この詩は大勢の会衆が一緒に賛美しているイメージです。1-4節は全体の賛美ですが、5-21節は個々人が自分の体験に基づいて、「わたしは神さまに救われた」と単数形で歌っています。そんな個々人の体験が歌われた後、22節からは会衆による大合唱となっています。個々人の救いには様々なケースがあるようですが、共通している思いは22節「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった(「『こんな役に立たないもの』と思われていた、取るに足らぬ存在、事柄、人が神さまの救いのきっかけとして用いられていった」)という驚きです。神さまの御業は本当に不思議な仕方で実現していくことを118編は歌っています。
  私たちは誰しも思い起こしたくない失敗や後悔があります。キリスト教の歴史でもそうです。初代教会の指導者ペトロたちは、イエスさまが十字架にかけられる時、イエスさまを見捨てて逃げ出しました。本来ならば、そんな大失敗は想い起したくもなかったでしょう。でも、その話は全ての福音書が記しています。何故か。それは、正にそんな大失敗、後悔こそが、救いのきっかけになったからです。キリスト教が「許しの宗教」と言われるのは、最初の指導者たちであるペトロたち自身が、イエスさまを見捨てるという許されざる罪を犯しながら、でもそのイエスさまによって許され、救われ、もう一度イエスさまに用いられていったという不思議な御業によって、でした。
  人間は必ず失敗をします。現代社会はそんな失敗を許さず、裁きます。でも、神さまは許し、もう一度立ち上がらせてくださるのです。わたしもあなたも、そうやって立ち上がらされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。118編は神さまの偉大な、そして不思議な御業を歌います。自分たちの目には、もはやどうしようもない、諦めざるを得ない苦境でさえも、あなたは不思議な仕方をもって私たちを救ってくださるのです。118編は大会衆の賛美ですが、神さま、今、わたしもこの賛美に加わります。私もあなたに救われた経験、その喜びを思い起こし、あなたの賛美に加わります。ちっぽけな私たちですが、どうぞ生涯、あなたを信じ、従い抜くことができますように。救い主であり、隅の親石となってくださったイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

19日(水) 詩編119編1-8節
一言メッセージ:今日から始まる119編は全部で176節にも及ぶ長大な詩です。すごいことに、119編もヘブライ語のアルファベット1文字につき8節ずつ、各節の冒頭が指定のアルファベットから始められる、すごいアルファベット詩です。さらに驚くのは、各節に「律法」を意味する8つの単語のどれかが入っているのです(8つは「律法」「法」「言葉」「掟」「命令」「定め」「指図」「仰せ」)。これほどの詩を一回で読むのは無茶なので、8節ずつ、読んでいきましょう。
  1-8節は「幸いな人とはどんな人か」を語ります。それは「律法の道(人生)を歩む人」です。4節では「命令を守る」とありますから、人によっては、律法を守ることを「堅苦しい、押し付けられた」と感じる人がいるかもしれません。でも、そこで「もし、全てが自分の思い通りに生きることになったら…」と想像してみてほしいのです。一時的には、自分の願い通りであることは楽しいでしょう。けれど、私の思うがままと、他者の思うがままが必ずどこかでぶつかり、対立や争いが起こる。そうなると、もはや収拾がつかないでしょう。こう考える時、神さまの律法の意味が一端でも分かるのです。神さまの律法は、自分が驕り高ぶることを防ぎ、他者と共に誠実に生きるための掟でもあるのです。詩人はだからこそ、神さまの律法に生きることを幸いと語りました。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝から119編を8節ずつ読むこととなりました。始まりは、神さまが与えてくださった律法の意図に気づかされました。あなたは私たちが他者と共に平和に生きるために、律法を与えてくださいました。今、平和を覚える8月、私たちは他者と共に生きること、特に敵と共に生きることの難しさを考えています。でも、あなたの律法は私たちを他者と共に生きるようにと促してくださいます。神さま、どうか今、私たちがあなたのその意図を受け止め、他の人々と共に生きていく道を見出すことができますように。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

20日(木) 詩編119編9-16節
一言メッセージ:119編9-16節はヘブライ語アルファベットの2番目、ベトから始まる8節です。内容は、引き続き律法を守ることの幸いを歌うのですが、注目したいのは9節で「どのようにして若者は歩む道を清めるべきでしょうか」と、若者に特化して書いていることです。
自分が若かった頃のことを思うと、恥ずかしいことを数々思い起こします。いつも真っすぐで真剣ではありましたが、今思うと、やることなすこと極端であったり、楽観的すぎたり、考えが足りなかったり、モノが見えていなかったり、独りよがりだったり…でした。例えば、大学生1年生の頃、高校までの生活からの解放感でしょうか、あれもこれもやってみたいと、サークルにバイトに趣味に教会活動(自分の教会でも、連合や連盟でも)、あれこれと役割を引き受けたことがありました。結果、自分の力不足のため、お引き受けした役割の1つ2つ、中途半端に投げ出したことがありました。今でも思い起こすと、恥ずかしいし申し訳ない思い出です。きっと、多くの人が若い時には、自分を過信し、結果、自分を見失うのだと思います。そんな中、詩人は「若者たちが歩むべきをどう守り抜くか」を教えています。それは、人の限界や弱さを知りながらも、それでも愛し、導いてくださる神さまとしっかり繋がっていることなのです。
私は今も、教会を離れた若者たちのことを思いながら祈っています。「神さま、〇〇がひょっこりと教会に帰ってきますように。ちゃんと教会に根差し、あなたと向き合い、かつて教会に来ることが喜びであった時と同じように教会に集うようになりますように」と。皆さんも是非、ご自分の周りの若者たちのために祈ってくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は若者たちのことを思い起こしました。若い頃は誰しも失敗を繰り返しがちです。でも神さま、若者たちがあれこれと失敗を重ねるのは、自分の人生の盤石な土台、自分の人生を導く指針を求めているからです。神さま、あなたこそが人生の道しるべ、あなたこそが希望の源です。どうか、そのことを若者たちにも示してください。私たちもかつて放蕩しながら、でもあなたに繋ぎ留められたように、今、若者たちにも信仰の素晴らしさを示してください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

21日(金) 詩編119編17-24節
一言メッセージ:17-24節で詩人は、自分のことを「この地では宿り人(寄留者)に過ぎない」と言っています。寄留者とは、自分の土台や基盤、故郷を持たない者のことです。彼は人生の不安を覚えているのです。実際、20節の「あなたの裁きを望み続け、わたしの魂はやつれ果てました(別訳では「擦り切れるほどに憧れました」)とあります。
  大学生の3年生から4年生の頃です。同級生たちの中で先々を考える仲間たちは、早々に就職活動をはじめ、あれこれとチャレンジを始めていました。一方、私は自分自身が何をしたいのか分からず、就職活動は後手になり、非常に悶々としていました。あの頃の私は寄留者のような心境でした。自分が周囲から遅れることに焦り、でも何を生涯の仕事にしていいか分からず、何が自分に最適か分からず、毎日がただ漠然と過ぎて、自分が取り残されているような気持ちでした。あの頃の自分にアドバイスするならば、「がむしゃらでもいいから動いてから考えろ」なのですが、私はがむしゃらに動いてみて、神さまが示してくださる方向を見出しました。不思議な経緯で献身し、今、牧師14年目です。牧師の職務はハードですが、ものすごく充実していますし、神さまの導きがあるから非常に平安です。一時的な困難も必ず乗り越えられる。そのためにも大事なことは、神さまに忠実であること。今朝の詩、とても実感をもって味わっています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で詩人は自分のことを寄留者、根無し草だと訴えています。人生を盤石な土台を見出せていないからです。神さま、私は今、自分の体験を通して、「人生の盤石な土台は神さまだ」と告白します。あなたを信じ、あなたに従うことは、先の見えぬ人生でも確固たる希望を与えます。神さま、どうか今この確信を、それぞれの心に浮かぶ人々にも与えてください。皆があなたという人生の土台を得ることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

22日(土) 詩編119編25-32節
一言メッセージ:25-32節はあなたを信じた者の歌です。彼は地べたに這いつくばるような状況の中で、神さまを求め(25節)、「偽りの道をわたしから遠ざけてください(29節)」と願います。「偽りの道」は、「こんなはずじゃなかった」と愕然とした経験です。「良かれと思ったのに、なんでこんなことに」とか「思っていたようにならない」とか「誰それに騙された」とか。そんな経験の中で、詩人は、神さまを信じることにたどり着きました。
  私の祖父は30歳で牧師になりました。幼い子ども3人を抱えていたのに、「おそらく今後、(金銭的には)親孝行できない」と考え、それまでの仕事の退職金を一切両親に渡しての献身だったそうです。何がそうまで祖父を突き動かしたのか。数年前、大叔父(祖父の弟)から聞いた話では、「兄貴は戦争中、非常に優秀やったけど、家族がキリスト教徒だったから海軍に入れんで、陸軍に入れられた。それも、大陸の田舎の方にやられたらしい。それでも軍国青年として真っ正直に生きてきたのに、敗戦で全てが崩れ去った。それまで天皇の臣民(臣下)であることが美徳の風潮だったのに、その価値観すら間違っていたことに失望したのだろう。郷里に帰って来て、牧師に何度も何度も議論をふっかけていたが、それは本当に信じられるものを求めていたことの表れだった」と話していました。そんな中で祖父は改めてイエスさまを信じ、「このイエスさまに生涯をささげたい」と突き動かされていったのでした。
祖父が亡くなる際に言っていました。「神さまがもう一度、人生を与えてくださるなら、自分はもう一度牧師になりたい。」今私自身が牧師になり、祖父の語った思いの一端を実感として感じています。イエスさまを信じることは、私たちに失望しない人生を与えてくれるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩人は「偽りの道を遠ざけてください。あなたを信じます」と祈りました。私たちは今、彼の祈りの言葉を見ながら、私たちも自分たちを振り返ります。私たちの中には「こんなはずじゃなかった」という代償の経験がある方もおられます。でも、そういった方々があなたを信じたのは、その落胆を乗り越えるほどの希望があなたにはあることを感じたためでした。今わたしたちは、かつての私たちのように、本当の希望を求めてさまよう人々のことを思います。神さま、どうかその人々と出会うチャンスを与えてください。人生の尽きぬ希望があなたになることを示してください。私たちがその出会いの一助を担えるならば、どうぞ私たちを用いてください。ただただ、あなたを信じる方々が起こされることを祈り、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***


平和を覚える +8月9日~15日のみことば - 2020.08.10 Mon

8月も中旬日差し掛かり、暑い毎日が続いています。
皆さん体調は大丈夫でしょうか。お互い健康に過ごせるようお祈りします。

わたしたち久留米キリスト教会では毎年8月は「平和を覚える月間」として毎週の礼拝をささげています。今年も毎週の礼拝で平和メッセージを聴き、平和を祈りながら過ごしています。
特に先日の日曜日は8月9日。
長崎に原爆が落とされた日です。
2年前に天に召されたわたしたちの教会の協力牧師中島文昭先生は、75年前あの原爆を体験した方でした。先生は、本当は思い出したくないその記憶を生前私たちに一生懸命伝えてくださいました。
先日の日曜日の礼拝メッセージでは私たちが受け取った先生の記憶をもう一度思い起こしながら平和への祈りを新たにしました。
中島先生のメッセージは教会ホームページのメッセージ配信ページの一番下から今も聞くことができます。ぜひ、お聞きになってください。(⇒メッセージページはこちら
明日8月11日は久留米空襲の日。そして15日は敗戦の日。
この日にもう一度戦争の悲惨さ、恐ろしさ、愚かさを心に刻み、平和の尊さ、暖かさ、新しさに気付かされ、「平和をつくり出す者は幸いである」とのイエス・キリストの言葉に立っていく決意を新たにしたいと思います。


***今週のみことば***

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9日(日) イザヤ書57章18-19節
一言メッセージ: 今朝8月9日は75年目の長崎の日です。11:02に長崎上空に投下された原子力爆弾によって、その年の12月までに74,000人の市民が命を奪われました。当時の長崎市民は24万人といわれますから、4人に1人以上が亡くなったことになります。市内一帯は爆圧とその後の火事によって壊滅しました。私たちにとって非常に身近に感じるのは、あの日の長崎に、2年前に亡くなった中島文昭協力牧師や吉田晃児先生がおられたからです。今朝、私たちは長崎の悲劇を思い起こしながら一日を始めます。
  原爆から一月後の長崎を、アメリカの従軍カメラマン、ジョー・オダネルさんはこっそりと撮影しました。その写真が1995年、『トランクの中の日本』という写真集として発行されています。写真集の中に「焼き場に立つ少年」という写真があります。遺体焼き場にて亡くなった弟を背負った少年が直立不動で順番を待つ写真です。弟は2歳にも満たないそうで、兄は全ての感情を見せず、涙を流さず、弟を見送ったそうです。その姿を見ながら、オダネルさんは、戦争がこんな幼い子どもたちにまで及んでいることを感じたそうです。(以下のURLをクリックすると写真が見れます。https://mainichi.jp/articles/20190826/k00/00m/040/144000c)今のローマ法王のフランシスコ2世はこの写真を常に携帯しながら、世界から核が廃絶されるべく、訴えを続けています。
戦争を正当化する人々は、建前上の理由をこねくりまわして「戦争せざるを得ない」と言い募ります。けれど、武器で平和は作れない。暴力は次の敵意、憎しみを生み出すから。
今朝はイザヤ書のみことばを読んで祈りましょう。「わたし(神さま)は彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは75年目の長崎の日を迎えました。75年前のあの日、長崎に投下された原爆は74,000人の命を奪い、生き残った方々にも生涯に及ぶ心身の傷を負わせました。神さま、戦後75年経ちますが、未だ世界に平和は実現していません。神さま、いかなる理由があろうと、かつての道に戻ることないように、どうか世界をお守りください。平和の君なるイエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン。

10日(月) 詩編112編1-10節
一言メッセージ:今朝の112編はヘブライ語のアルファベット詩です。その内容は「神さまに従う人はこんなにも幸い」です。ある意味で、理想的な義人(ただしい人)の姿ですが、この詩を読みながら、皆さんはどこに目を惹かれるでしょうか。それぞれに目が惹かれるところは、ご自分が常日頃から心がけているところや、「こうありたい」と願う部分、または自分の弱点と感じている部分なのではないでしょうか。
わたしは6-7節に目が留まります。ここは「揺らがない」こと、特に周囲の人々の批評に動じない義人が描かれます。義人が動揺しないのは、「その心は、固く主に信頼している」からです。彼は、人間的に「こうしたい、こっちの方が楽だ」という判断の仕方をするのでなく、「神さまが願われるの何か、神さまは私に何を示されているのか」を考えて生きているのです。そうやって神さまの御心を求めて生きているからこそ、たとえ周囲に誤解され、叩かれたとしても動じない。後には神さまがちゃんと状況を整えてくださるし、神さまの整えをいただくならば、人の批評も必ずひっくり返っていく。だから、詩人は周囲の声に動じずに、御心に従い続けるのです。
  自分の経験を振り返ってみてもそう思います。一時的に「○○すべきだ」「△△せねばならない」と声高に語っていた人々が、自分の見えていない事柄が明らかになった途端、自分の誤解や偏見に気づいた途端、黙り込む状況を何度も見てきました。そうやって振り返る時、私たちが選び取る最善は「固く主に信頼し、動じないこと」だと確信させられるのです。
今、私たちは神さまに固く立ちましょう。世間の声や風潮、声高に叫ばれる正義感、でもそこに神さまの御心はあるか。それが私たちの判断基準です。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。112編で歌われる義人は、いつもあなたに信頼するから動じることなく、御心を行い続ける者でした。神さま、今わたしたちはあなたの御心に立つことが最善であることを確認します。社会はいつも目先の事柄に右往左往し、また上手に本音を隠した人々の建前の言葉に踊らされながら、あなたの御心から目を逸らせようとしてきます。平和についてさえ「平和のために力を振るう」という危うい論理が声高に叫ばれます。でも神さま、あなたが示される平和は暴力でなく愛によって実現し、排除でなく共生によって形作られます。神さま、どうぞ私たちが今、あなたの御心に従って生きることができますように。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

11日(火) エレミヤ書8章10節後半-13節
一言メッセージ:75年前の今日8月11日は久留米空襲の日です。今、わたしはNさんにいただいた『進駐軍が写したフクオカ戦後写真集』という本を見ています。その中には久留米空襲の証言と空襲2ヵ月後の久留米の町が写されています。六角堂の周りは旭屋デパート(旧井筒屋、現シティプラザ)だけを残し、あとは一面焼け野原です。証言者の言葉では、手に荷物と子どもを引っ張り、背には幼い子どもを背負って逃げ惑う母の姿や、亡くなった母娘に取りすがって泣く人々の光景が書かれています。米軍指揮官の話では、B29とB38が計150機で焼夷弾を落としたとのことで、その被害は市の1/4が消失、死者は228名と記されています。その228名にそれぞれに家族がいて、仕事や学校があって、毎日の生活があったし、いつ誰それと会うといった約束だってあったでしょう。被害数字の背後には、一人ひとりの人生があったのです。
  筑後地区在住の小説家であり精神科医である帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんの『逃亡』という小説を読みました。戦中に特別高等警察として香港で勤務していた主人公が戦後、ひそかに帰国し、家族で暮らしていたのに、戦犯として追われ逃亡していく物語です。その物語の中で主人公は自問します。確かに彼が特高としてスパイ容疑で4名を処刑した。けれど、それは戦争という特殊状況下であり、戦勝国も同じことをしてきたのに、また日本軍のお偉いさんたちは兵士に忖度させて非道な行為をやらせたのに戦後は一切、知らぬ存ぜぬで部下に罪を擦りつける。そんな憤りを何度も何度も繰り返しながら、戦争がいかに人を狂わせていたかを淡々と描くのです。読み終えて驚きましたが、この主人公のモデルは帚木さんのお父さんなのだそうです。彼は自分の父親の戦後の葛藤を思い起こしながら、この小説を書いたのです。
  エレミヤ書を見ますと、民の指導者であった預言者や祭司が「平和でないのに、平和、平和」と人々を誤魔化し、イスラエルの状況を取り返しのつかない事態まで導いてしまったことを記しています。民も、耳ざわりのよい言葉に満足し、事態をちゃんと見極めなかったのです。見極める力、それが戦争を止める1つの力だと思わされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は久留米空襲の日です。75年前のあの日、私たちの町は焼き払われ、多くの命が奪われました。戦争は人を狂わせ、自己正義のために他人に暴力を振るうことを正当化します。奪われた一人ひとりの背後でどれほど多くの悲しみと憎しみが生み出されるかも考えずに、何より、奪われる命のひとつひとつがあなたによって祝福されて生まれた命であるのに。神さま、私たちは今、何度も何度も「戦争は人を狂わせる」との事実を見定めます。神さま、私たちにはどんな建前にも騙されずに見極める力を与え、平和の思いを新たにさせてください。今日、空襲を思い起こし悲しむ人々にどうか慰めを与えてください。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

12日(水) 詩編113編1-9節
一言メッセージ:113編から118編までは「エジプトでのハレルヤ歌集」と呼ばれる箇所です。ユダヤの人々は今も年に一度、出エジプトの出来事を記念するため「過越祭」を行いますが、その前日の過越の食事の前に113-114編を、食後に115-118編までを読むのだそうです。
  そんな113編ですが、この詩はとても興味深いのです。1節で神さまを賛美するように呼びかけられている「主の僕ら」とは具体的に誰を指すかと言えば、3-4節を見ると全世界の人々です。神さまの前に全ての人々が神さまの僕として共に礼拝することが詠われているのです。
  彼らが賛美する神さまとはどんな方か。注目したいのは5節後半-6節です。神さまが「御座を高く置き、低く降って」という両極端の言葉ですが、ヘブライ語文法で見るとヒフィル形と呼ばれる形で記されています。その意味合いは内的使役(自分で努力して〇〇する)です。つまり、神さまは極めて意識的に自らを高く示すだけでなく、低くあろうとされる神さまです。
神さまが自らを低くするのは何故か。それは、弱い民に寄り添うためです。7節の「弱い者(ヘブライ語でダル)」は孤児や寡婦、老人など、あらゆる社会的に弱い立場にされた人々であり、「乏しい人(エブヨーン)」は社会的・経済的な支えを失った貧しい人々です。9節の「子の無い女を家に返し」は、子どもが生まれないために離縁されて家を追い出される女性たちで、神さまはそうやって苦しむ民に寄り添う方と歌われています。それも、全世界の民に対して。
ここに平和の大事なヒントがあると思うのです。私たちはすぐに国や出身地といった所属で人を分けようとします。でも神さまは、所属で私たちを分けるのでなく、一人ひとりの状況に応じて助けの御手を差し伸べようとしてくださる。そこに分断された人々を再度繋ぎ合わせるヒントがあると思うのです。今朝はこれ以上には話しません。だって113編は来週の宣教の箇所ですから(笑)。ここから説教がどう展開されるか、日曜日まで、ぜひ考えてみてくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは私たちにとって素晴らしい福音です。非常に偉大なあなたが、この必死に今を生きている私たちの傍らに降ってくださり、私たちと共に生きてくださるお方であると再確認させていただきました。神さま、今、あなたの平和を来たらせてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

13日(木) 詩編114編1-8節
一言メッセージ:114編も出エジプトを記念する詩です。私がとても面白いなぁと思うのは、「水」がいろいろな形で表現されているところです。114編の3節で描かれる「海」や「ヨルダンの流れ」(=川)」は、人の手に負えず、神さまに敵対する勢力として描かれています。一方、8節の「岩からみなぎる水」や「泉」は人の命を生かし、育むものです。同じ水なのに、描かれ方が違う。その違いは何でしょう。それは、神さまによる秩序です。神さまによって秩序を与えられる時、水は私たちを生かし、守り、育むものとなるのです。
  昨年12月に亡くなった中村哲医師も、2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつの現実を前に、「百の診療所より一本の用水路」と考え、川を流れる雪解け水を引き込むマルワリード水路建設を始めました。今、その水路によって砂漠化した大地に緑をよみがえり、65万人の人々が難民から帰農しています。中村さんはクリスチャンですが、アフガニスタンの人々の多くがイスラムであることもあり、自分の信仰を前面に出すことはされませんでした。でも彼が大事にした言葉は「天、共にあり」です。神さまが共にいてくださるから、神さまの御心と秩序に実直に生きた方でした。
  水を思って114編を読む時、わたしは、秩序ある水は当たり前ではなく、神さまの恵みであると思わされます。同時に、わたしたちにとっての日常の「当たり前」にも神さまの祝福がいっぱいに与えられているのだと気付かされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝114編を通して、私たちは、普段「当たり前」と思っていた日常にどれほどあなたの祝福と恵みがあったかを思い起こさせられました。あなたは私たちを生かすべく、世界に秩序を与えてくださいました。けれど、私たちはあなたの御心に気づかず、時に自分の思惑や利に走り、あなたの創造の御業を破壊し、蔑ろにしてきたように思います。神さま、あなたの御業は日々の積み重ねにあるのですね。神さま、私たちは毎日、あなたへの感謝と期待をもって生きる者となりたいです。どうぞ、「当たり前」と傲慢になるのでなく、あなたの恵みに気づいて生きる者とならせてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

14日(金) 詩編115編1-18節
一言メッセージ:115編はしみじみと「そうだなぁ」と納得しながら読める詩です。今朝は、かたい文章でなく、詩人の意図を汲みながら意訳します。
詩人は1節で「神さま、自分のことを一番に考える生き方はもうよかですけん、あなたのことを一番に考えて生きる者にしてください」と歌います。私たちは自分たちの力や名誉、功績を誇りたいものですが、詩人は「考えてみらんね、そんなもん、自己満足でしかなか」と考えています。周囲の人たちは詩人に尋ねます。2-3節「神さまとか信じとらすけど、それが何の得になるとや?」。詩人は答えるのです。4-8節「あんたたちゃ、金やら人気やら欲しがりよるけど、欲が強すぎるけん、時々、それに振り回されよろうが。そげな虚像にしがみ付くとか、自分らも、中身スカスカになるとやないか?」だから、詩人は9節以降、神さまを信じ、神さまに従う生き方で生きることを勧めるのです。17-18節は詩人の勧めです。「神さまを信じるとは『古臭か~』て言う人らがおろうもん。なんも分かっとらん。神さまば信じるとは、今うちらが、生きとるけんたい。あんたも、本当に嬉しか人生を生きていきたかとやったら、生きとる今こそ神さまば信じるとたい。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、私たちの社会は時に中身のない幻想を作り出し、人を翻弄します。例えば、数年前まで「勝ち組」だの「負け組」だの言って、人を評価するような風潮が流行りました。でも考えてみれば、幸せなんて周囲に決めるものではありません。私たち一人ひとりに幸せと思うものがあるのです。なのに私たちは周囲が熱狂するから、なんだかわけもわからず、惑わされて、社会の幻想を追うことがあります。神さま、私たちはそんな生き方に振り回されないように、いつも、あなたにある命を喜び、あなたにある幸せをいっぱいに感じられるように、あなたを信じ、従います。どうぞ、今、私たちに信仰を強く増し加えてください。戦後75年、あなたの平和と多様性に満ちた世界を実現していけますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

15日(土) マタイによる福音書5章9節
一言メッセージ:今日は75年目の敗戦記念日です。あの戦争は国内外で多大な死者を出し、あらゆる地域の生活を破壊し、ようやく終わりました。あれから75年、今私たちは何を考える時でしょう。
  永井隆さんという医師がいました。カトリックの信者で、長崎で被爆。妻を失い、幼い2人の子どもを抱えながら医療活動に奔走し、翌年には本人に白血病が発症。1950年に44歳で亡くなります。彼は晩年、如己堂という一坪の小屋にて寝たきりになりながら、執筆を続けました。彼の遺した著書の1つ『平和塔』の中で「平和の祈り」という短い文章があります。抜粋して紹介します。
  「戦争をしている国々は、それぞれ自分の国が正しく、相手の悪をこらしめるために戦争をしているのだ、と宣言し、必ず、『平和のための戦争である!』といって、神に自国の勝利を祈るのが常であった。相戦う両方の国々が、同じことをいい、同じ勝利を神に祈り求めた。神はいったい、どちらの祈りを聞き届けたらよいのだろう?戦争の場合、百パーセント正しい側は無い、また百パーセント悪い側も無い。…(略)…戦争というものは『互いに相愛せよ』との人間のおきてに背いて、互いに憎み合い、集団殺人をやって、万歳を叫ぶ荒仕事だ。『正義のいくさ』という言葉の中にすでに矛盾がある。同じように『平和のための戦争』という言葉も、それ自身が矛盾した言葉である。…(略)…そんな我利我利の祈りに、神さまが耳を傾けるはずがない。自分にだけ都合のいいことを願い求めるのは、真の祈りにならない。祈りとは、神のために都合のいいことを願い求めるのだ。神のためになることをするのに力を添えて下さいと祈るのである。…(略)…闘争だの戦争だのという騒ぎは、つまり、おくびょう者がやるのである。『愛』の人は、すなわち『勇』の人であり、勇の人は武装しない。武装しない人は戦わない。つまり『平和』の人である。」
  今、この文章を読みながら、改めて平和とは武力でなく、愛によって実現すべきものなのだ、と教えられます。そして改めて、もう二度と戦争をしないと決意させられます。きっとその決意こそが、あの戦争の犠牲者の方々に対して、今を生きる私たちが行える追悼なのだと思うのです。
  マタイ5.9でイエスさまは「平和を実現する人々は幸い」と話されました。平和を実現するのは、カリスマ的英雄でなく、私たちのような民衆なのです。今、私たちが平和を実現し始めるのです。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは75年目の敗戦記念日を迎えました。今朝は永井隆博士の文章を皆さんと読みました。そこに書かれていたのは、戦争の悲惨さを知った上で、心から平和を望み、いかに平和を実現するかを模索する民の姿でした。彼は敗戦翌年に白血病が発症し、4年後に亡くなりました。けれど、彼の遺した言葉は今、私たちの手元に届いています。己の欲のための平和でなく、神さま、あなたの平和を願うこと。それはとても大事なヒントです。神さま、どうかこの言葉をより多くの人と分かち合わせてください。私たち民衆はちっぽけな存在のように考えています。でもイエスさまはそんな民衆が平和を求める時、平和は実現していくとの示唆をくださいました。神さま、どうぞ私たちにあなたの平和の働きを、一端でも担わせてください。子どもたち、孫たちの未来に平和を遺すことができますように。戦後75年の誓いと共に、平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***



8月2~8日のみことば - 2020.08.04 Tue

梅雨が明け、本格的な夏がやってきました。
梅雨明けと同時に暑~い毎日が続いています。
新型コロナウイルスだけでなく、熱中症にも注意が必要ですね。
また、豪雨被災地ではこの暑さの中での復旧作業。
体調を崩すことがありませんようにと祈るばかりです。

今週もみことばメールをまとめて掲載します。
皆さんの日々がみことばによってささえられますように。

***今週のみことば***

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2日(日) 詩編106編1-48節
一言メッセージ:106編の詩人は長いですが、とても分かりやすい詩です。1-5節は神さまの偉大さを詠いながら、自分たちを再度、「御心に留めてほしい」と願っています。というのも、詩人は「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、神に逆らった(6節)」からです。詩人は自分たちの罪を思い返しながら、こんな自分たちをそれでも見捨てず、目を留め、手を差し伸べ、何度も何度も救おうとされる神さまに呼びかけているのです。
6節以下は出エジプトの際の神さまの奇跡の御業と民の裏切りを列挙しています。解説が必要なのは39節で、神さまへの罪を「淫行」と表現していることです。神さまと人間の「救われる、信じる」という関係が婚姻のイメージで考えられているのです。誰でも、浮気されたら怒りや悲しさを感じるものでしょうが、同じように、神さまも人間に裏切られる度に苦しさを経験されるのです。でも、神さまは忍耐強く何度も何度も、「きっともう気づくだろう」と民を愛し、救おうとされる。
私は106編を読む時、2つのことを思い起こしたいです。1つは、私たちの国の過ちである太平洋戦争です。「大東亜共栄圏」といった自分勝手な平和観を言い分に、アジア諸国を侵略し、自他ともに多大な犠牲を生み出してしまった私たち。当たり前ですが、平和を作るものが虐殺などするわけがありません。もう1つ思い起こしたいのは、自分たちがこれまで神さまを軽んじた過去、です。私たちが神さまを蔑ろにする度に神さまは悲しんできたでしょう。でも、そんな私たちの罪を全て知りながら神さまは、私たちを立ち帰らせようと今日も招いてくださるのです。今の私たちは、そんな神さまの赦しと期待によってあるのだと気付かされます。今朝は日曜日、礼拝の時です。今朝も神さまの招きをいただき、礼拝に集いましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の106編、私たちはしみじみと味わいます。そこに書かれていたのは人間の罪とあなたの深い慈愛です。人間は自分たちの願望や一時的な感情のために、どれほどあなたを蔑ろにしてきたことでしょう。それでもあなたは私たちを見捨てられませんでした。何度も何度も私たちが立ち帰る機会を創り続けてくださいました。神さま、今日こそあなたをしっかりと心に刻み、信じ、従う者となりたいです。あなたを信じ、人生の本当の平安を味わうことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

3日(月) 詩編107編1-43節
一言メッセージ:107編は聖書の前に、この解説を読んだ方が分かりやすいかもしれません。
107編は、前半は4つの「苦境から救い出された民」の物語を語り、後半でイスラエルの救いの歴史を振り返る構成です。前半の4つの物語は①4-9節の「遭難」、②10-16節の「幽閉」、③17-22節の「重病」、④23-32節の「海難」です。それぞれに、最初は民が神さまを蔑ろにするのですが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」と「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」という言葉(一段下がった部分)が繰り返され、神さまの救いを体験していくのです。本題は後半です。詩人は前半の想起を経て、33節以下、今自分たちが直面している苦境を思っています。それは、理不尽な社会によって生まれた経済格差です。注目したいのは40-41節の「貴族ら」と「乏しい人」です。41節の「乏しい人」はヘブライ語エブヨーンといい、社会制度や経済格差によって生きる支えを奪われた貧しい人たちを指す言葉です。107編当時のイスラエルでは、貴族たちが自分たちの都合の良い制度を作ってますます富み栄えていくのに、貧しい人たちはますます追い詰められています。詩人はそんな苦境を神さまに訴えながら、「どうぞ過去同様に今、救ってください」と訴えているのです。
社会が作り出した格差。とても過去の出来事と思えないのは私だけでしょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。107編は社会によって苦しめられた民の訴えの詩でした。詩人は苦しみを経験しながら、でもあなたという訴える相手、ちゃんと自分たちの声を聴いてくださるお方がいることを確信していました。あなたが顧みてくださると信じ抜いています。神さま、今、私たちの社会でも格差はどんどん広がり、多くの民が生活の苦しさを感じるのに、一部の権力者たちの横暴は度を越しています。現代の日本なのに、夏休みなどの長期休暇で学校給食が無くなると途端に食事がとれなくなる子どもたちもいます。神さま、この社会はやはり間違っています。皆が安心して、当たり前に生きられる社会を願います。どうか、どうか、あなたの平和を実現してください。民の訴えを受け止めてくださるあなたに祈ります。アーメン。

4日(火) 詩編108編1-14節
一言メッセージ:108編の詩人は周辺の国や民族の小競り合いに直面し、頭を抱えているようです。思うようにいかない現実に腹立たしさと力不足を感じる詩人は、神さまのへの信仰に固く立とうとします。その時、詩人は8節以下のイメージを得ます。8-10節で神さまは詩人たちを含め、近隣の諸国や民族の名を挙げながら、「それらは皆、私のもの」と宣言されます。それは詩人への励ましでした。自分たちの小競り合いに右往左往せず、主である神さまにどっかり頼り、安心して生きるように励まされるのです。とても印象的な言葉が13節後半-14節前半です。祈祷会で皆さんと読んでいる月本昭男さんの私訳はこうです。「人間による救いなど虚しいのです。神にあってこそ、われらは威力を発揮できる。」神さまと共にあってこそ、私たちは十分に力も知恵も命も、発揮して生きていられるのです。さぁ、今朝も新しい一日が始まります。今日も神さまを意識しながら、歩み出していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばはストレートでした。「あなたにあってこそ、わたしたちは十分に生きられる」。神さま、わたしたちはあなたを信じています。それは、自分の具合が悪い時だけでなく、私たちの良い時も悪い時も、強い時も弱い時も、いついかなる時もです。でも私たちは自分の直面する現実が大きいほどに、あなたを見失いがちです。神さま、どうか私たちの信仰を強めてください。いつもあなたと共にあることを喜び、期待し、誇りを持って生きる者としてください。一日の始まり、あなたに期待し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

5日(水) 詩編109編1-31節
一言メッセージ:109編は一読してもよく分からない詩です。というのも、6-20節で詩人を攻める敵対者の言葉が引用されているのですが、それが一読しただけでは分からないからです。
  要約しますと、1-5節で詩人は理由が分からないのに敵対者に責められ、4節で「ただ祈るしかない」と訴えています。敵意に善意をもって返しても、相手はますます敵意は強くします。6-20節は敵対者の発言ですが、読むと、とにかく詩人を滅ぼしてしまおうと勢い込んでいます。21-27節で詩人はやつれてしまいます。でも28-31節で詩人は神さまの救いを再度願います。印象的なのは28節「彼らは呪いますが、あなた(神さま)は祝福してくださいます」です。
  2日の礼拝宣教を思い出しましょう。キング牧師は黒人を差別する人々の根底には、恐れ、プライド(誇り)、無知、偏見、誤解があると説明しながら、これを克服するには「神さまに目を留め、神さまの愛に生きるしかない」と説きました。神さまの愛から敵対者を見る時、彼らにも神さまを信じて回心する可能性がある、だから敵対者を滅ぼすのでなく、彼らが変わることを願いました。
  それは109編の詩人にも見られることです。詩人は敵対者が28節「恥に落とされる(過ちを自覚する)」ことを予見しながら、彼らが滅びることまでは祈りません。詩人は、彼らが「恥に落とされた」後、どう変わると期待したのでしょうか?私はそこに詩人の真の期待を感じるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。109編に私たちは平和を考えさせられます。私たちも時に、理不尽や八つ当たりとしか見えない敵意に曝されることがあります。詩人は強く責められる中であなたへの期待を忘れず、あなたによる回復を願い続けました。神さま、わたしたちもあなたの御業に期待します。平和を実現する時にあなたは敵対者を滅ぼすのでなく、回心を与え、わたしたちの友としてくださることでしょう。神さま、どうか今こそ平和を実現してください。わたしたちにも、この社会にも、世界にも。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(木) 詩編85編11-12節
一言メッセージ:今朝は8月6日、75年目の広島の日です。75年前の今日8:15、広島上空に投下された一発の原子爆弾は、決して忘れてはならない記録となりました。2年前、教会裏にお住まいのおばあちゃんから戦争証言を伺いました。おばあちゃんのお姉さんは広島の原爆の真下で大やけどを負い、一週間後に亡くなったと話してくれました。その無残な姿、焦土となった広島。あれから75年。今朝、私は普段の詩編の続きでなく、詩編85編11-12節を読みたいのです。
昨年11月24日(日)、わたしは午後から広島に急ぎました。平和公園にて行われたローマ法王の平和集会に参加するためでした。集会で法王が語った平和の訴えはとても印象的でした。全文はネットにも掲載されていますからどうぞ検索してください。今朝は終盤から一部を紹介します。
  「思い出し、ともに歩み、守ること。この3つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この3つには、平和となる真の道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代がここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。
だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。
神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない!兵器の轟音(ごうおん)はもういらない!こんな苦しみはもういらない!と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85.11-12)。主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!」
祈り:神さま、平和を来たらせてください。戦後75年が経つ今も世界で戦争は無くならず、核兵器の危機は未だに高まったままです。私たちの身近なところでも原発という形で核の脅威は隣り合っています。歴史を紐解くと、権力が自分の思惑や都合、利権で、歴史と事実を歪曲して解釈する時、戦争が始まることが分かります。神さま、どうか人間に悔い改めを起こしてください。あなたが示される平和は、自分の身内だけの安定でなく、敵対者を共に作り変え、理解し合い、共に生きることにあります。神さま、どうか、どうか、私たち、子どもたち、孫たちへと時代が経過する度に、戦争がもはや起こらない世界を来たらせてください。そのために私たちを平和の道具として用いてください。主よ、来て下さい。平和の主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。

7日(金) 詩編110編1-7節
一言メッセージ:詩編110編は預言者が神さまの預言を王に告げる詩です。だから1節の「わが主」は王を指します。6節などは血なまぐさく、ちょっと目を背けたくなる言葉です。でも、注目したいのは4節です。神さまが預言者を通して示す理想の王の姿は「メルキゼデク」と明記されました。メルキゼデクは創世記14章に登場しますが、彼は王であり、同時に祭司でした。そこに見られるのは、「理想の指導者とは神にも民にも誠実である者」なのです。
  現代社会では権力を分散するのが基本的な考え方です。それは、人間は過ちを犯す存在だからです。憲法の三権分立(立法、行政、司法)などは、正に相互に抑制できる体制です(だから、安倍総理が数年前、「私は立法府の長として…」と発言したことは非常に危ういものでした)。
  繰り返しますが、人間は必ず過ちを犯します。だから、いつも自分を自制する神さまが必要なのです。メルキゼデクしかり、わたしたちしかり、神さまを覚え続けるからこそ、正しい生き方が見出されるのです。今、私たち自身もそうですし、本当に正しい指導者を願っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは詩編110編を通して、理想の指導者とはどのような者か、を分かち合いました。それは、神さまと民に誠実な者でした。神さま、私たちの社会を見ていますと、そんな指導者が見られず悲しいです。でもイスラエルの民も長年、そんな指導者を願い、祈り続け、そしてイエスさまがお生まれになりました。神さま、私たちも平和の指導者の登場を祈り続けることができますように。あなたの平和が実現しますように。主よ、来て下さい。平和の君イエスさまのお名前で祈ります。アーメン

8日(土) 詩編111編1-10節
一言メッセージ:111編は、ヘブライ語の22個のアルファベットを順々に行の頭文字に使いながら、最後まで読み上げたアルファベット詩です。文学としても、とてもよくできた詩なのです。
  でも私たちが興味を持つのはやはり内容です。111編の3節「主の成し遂げられた…恵みの御業」、4節「驚くべき御業」は出エジプトの出来事を詠っています。そんな中でとても目を惹くのは3節の「驚くべき御業」の範囲です。「驚くべき御業」と聞けば、一回限りのものすごいスケールの大きな奇跡、例えば出エジプト時では海を割るといった奇跡をイメージしますが、111編ではそれだけに限定されず、3節のように「永遠に続く(もの)」、例えば5節の「糧(毎日の食事)」などの日常の出来事も含んで考えていることです。平たく言えば、「毎日の生活も神さまの御業」と理解しているのです。毎日、当たり前と感じている出来事。そこに詩人は神さまの御業を見出すのです。
  人は勘違いしやすく、毎日続く出来事を「当たり前、当然」と思いがちです。特に神さまの御業は私たちが自覚的に思い起こさねば、「当たり前」にされがちです。例えば、戦後75年、私たちの国が戦火にさらされなかったことなども「当たり前」と思われがちです。でも、その「当たり前」のために、75年前、どれだけの命が奪われたでしょうか。日本の侵略によってアジア諸国がどれほど苦しみ、また私たちの国でもどれほどの命が奪われたでしょうか。あの戦争を経て、今があります。今の戦争を拒否する日本の姿は「当たり前」ではありません。守らねばならないものです。
わたしたちは今、私たちの毎日の中で、神さまのこと、平和のことを思い起こし、「当たり前」でなく感謝し。いかに守り続けるか、覚え続けるか、伝え続けるか、考えたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。111編を通して、私たちの毎日の生活は当たり前でなく、あなたの有り得難い、ありがたい恵みであることを思い起こしました。神さま、わたしたちは日常に慣れきってしまう時、大事なことを忘れがちになるものです。戦争の記憶もそうです。先日の広島の日、明日の長崎の日、11日の久留米空襲の日、15日の敗戦記念日と続く時期ですが、どうぞわたしたちが戦争の記憶を受け継ぎ、平和な未来を実現する決意を新たにできますように。今日の一日を守り、明日も伴い、明後日、一週間後、一年後、十年後もどうぞ導き続けてください。私たちの神さまに心から感謝し、平和の君、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今週も皆さんの上に神さまの祝福がありますように。。。

7月26日~8月1日のみことば - 2020.07.28 Tue

長く続いた梅雨もようやく終わりそうな天気予報。
今度は東日本で大雨の予報のニュースに、先日の九州での大雨を思い出し、心配しています。
どうか、被害が出ませんように…。

今週も毎日のみことばメールをまとめて掲載します。
みことばによって皆さんが元気になりますように!!

***今週のみことば***

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26日(日) 詩編99編1-9節
一言メッセージ:99編は「聖なる主が私たちの神さまだ」ということを喜ぶ詩です。3節、5節、9節で繰り返される「聖なる(カドーシュ)」の「きよさ」は、何か汚れていたものを綺麗に洗って綺麗になる「清さ」ではなく、そもそも一切汚れることすらないほどの絶対的な聖さを表す言葉です。そんな極めて偉大な神を詩人は5節、8節、9節と身近な存在として「我らの神」と繰り返す。何故、詩人はそんなに神さまを「我らの神」と連呼するのか。それは、6節以降にあるように、神さまが私たち民の呼びかけに応えてくださる方だからです。本来、神さまには私たちの呼びかけに応える義務など無い。けれど応えてくださる。その理由を、私は「神さまの愛」としか表現できません。ヨハネの手紙一で「神は愛である」とありますが、神さまが私たちに応えてくださること自体が、神さまの愛であり恵みなのだと思わされるのです。
  今日は日曜日。礼拝の時です。新型コロナウイルスの感染再拡大が懸念される中ですが、今朝も神さまに呼びかけましょう。神さま、どうぞ私たちの呼びかけに応えてください。
祈り:天のお父さま、今朝もこうしてみことばをありがとうございます。今、私たちは新型コロナウイルスの感染再拡大のニュースを前に不安を強くしています。神さま、どうぞ私たちの呼びかけに応えてください。一刻も早く、病を終息させてください。感染している方々に癒しを、不安を覚えている方々に平安を、私たちに守りを、そして日々、みことばとあなたが伴ってくださっている実感をお与えください。今日の礼拝も、どうぞあなたの恵みを分かち合うことができますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

27日(月) 詩編100編1-5節
一言メッセージ:詩編100編まで来ましたねぇ(前半は幾つか詩を省略してきましたが(笑))。100編はスケールの大きな歌です。詩人は「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」と呼びかけます。「喜びの叫び」は別の訳をすれば「凱歌、勝利の歌」です。詩人は「全世界よ、勝利の歌を歌い喜べ」と呼びかける。私たちは「勝利」と言われると勝者と敗者があるのだと思いますが、詩人は敗者を記しません。何故なら全世界の民が勝者であり、敗者がいないのです。あえて言うならば、敗者とは今の「自己責任の風潮」のような、わたしたちの社会の持つ理不尽な現実です。神さまの御心に沿わぬあらゆる理屈が滅び、そんな理屈に支配されていた全ての民が今、勝利者となると詩人は歌うのです。それは3節「主こそ神」だからです。神さまが私たちの神であってくださる。だから「わたしたちは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ」です。
今朝から、一週間の働きが始まりました。理不尽な現実はいっぱい広がっています。でも、不安に沈みこまないでくださいね。ちゃんと神さまの勝利宣言を覚えて一週間を歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは一週間の仕事の始まりに、あなたによる勝利の詩をいただきました。あなたが私たちの神さまでいてくださるから、一時的に直面する理不尽な現実があっても、あなたはちゃんと適切な時に全てを整えてくださるでしょう。どうか、この世界にあなたの御心を現わしてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

28日(火) 詩編101編1-8節
一言メッセージ:101編の詩人は王さまです。王の基本的な信念は「慈しみと裁き」です(1節)。ヘブライ語を見ますと「慈しみ」はヘセドという言葉で、神さまから人への祝福を意味する言葉、「裁き」ミツファートは人と人の公正を指す言葉です。王は「私は神さまから与えられる御心と、他者と共に生きるための公正に従って政治を行う」と宣言しているのです。「慈しみと裁き」が守られることはイスラエルに限らず、王にとって大事な資質です。古代アッカド語の文書でも「もし、王が正しい裁きに意を介さないならば、その民は弱体化し、その国は荒廃する。」と書き残しています。
  ひるがえって、今の世界に目を向けてみましょう。世界のリーダーたちは「慈しみと裁き」に従った政治をしているでしょうか。「私欲とひいき」にまみれていませんか。だとすると、このままでいいのでしょうか?古代と違い、現代の私たちはそんな指導者の姿をちゃんとチェックし、「否は否」と意志表示することができるし、することが役割です。間もなく8月、平和を覚える月間です。かつての過ちを繰り返さないために、子どもや孫たちを犠牲者にしないために、今、大人は「慈しみと裁き」の政治を求めて声を上げる役割があるように思います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。わたしたちは詩編101編を通して、王や指導者のあるべき姿を分かち合いました。それは「慈しみと裁き」、あなたの示唆と民の公平を守る者でした。残念ながら、私たちは今、世界の指導者の多くにそのような姿を見出せません。でも神さま、古代と違い今の私たちは、おかしなことはおかしいと声を出すことができます。私たちはあなたの御心に沿った社会であるかの監視者でもあるのでしょう。神さま、私たちはちゃんと世界を監視し、声をあげる者であれますように。そして私たち、子どもたち、孫たち、これから生まれ来る子どもたちの未来に、あなたの平和を実現させ、世界を御心に基づいて正しく導いてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

29日(水) 詩編102編1-29節
一言メッセージ:102編は私がとても大事にしてる詩の1つです。詩人の状況が1節に書かれていますが、他の詩と比べてとても具体的で詳しいです。親しい旧約学者の方によると、102編は「国の都合による構造改革によって貧しくされ、子を持つ望みを絶たれ、神さまに切実に不平不満を叫ぶ詩人の詩」だそうです。大変厳しい状況に置かれた詩人なのですが、とても印象的な言葉が19節に記されています。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」詩人の語る「後の世代」は血の繋がりのある子ども、孫ではありません。でも、彼は今、切実に社会の不正を神さまに訴えながら、未来の子どもたちを思い起こしています。彼らが理不尽な社会の犠牲とならないように、希望を失わないように、生きる力を得られるように、と詩人は歌います。それが19節「主を賛美するために民は創造された」です。
  かつて、筑後キリスト者平和の会の2.11集会で、沖縄の平和運動をされている牧師が講演の中でこう語りました。「私たちの目標は沖縄から基地が無くなることに留まらず、世界中から武器が無くなることにあります。それは私たちの世代で実現できる事柄とは思っていません。でも、世界の平和は神さまの御心です。今の私たちは、そんな神さまの御心の実現のために、一時代を担わせていただいている。それが私たちの誇りです。」
  102編の詩人も同様なのだと思います。社会の不正義は簡単に無くならない。でも、彼の叫びは神さまと民にちゃんと届いている。彼の叫びは神さまの平和の一端を担っており、その想いは次の世代によって引き継がれていく。事実、そうだからこそ102編の詩は歴史に埋没するのでなく、語り継がれ、詩編に加えられたのでしょう。私も今、同じ思いでありたいのです。私たちも後の世代のために、今、何を語り伝えるのでしょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。102編の詩人は大変厳しい苦境の中で、それでも自分の叫びが神さまの御業の一端に加えられていること、自分の叫びがちゃんと後の世代に引き継がれていくこと、そして後の世代が受け取るであろう神さまの平和実現の一助であることを確信していました。神さま、私たちはすぐに自分の目先のことで捉われ、大きな障害には諦めやすいです。でも、そんなちっぽけな私たちもあなたの御業の一端を担わせていただける。その幸いを今日分かち合えました。神さま、どうぞあなたの平和の御業を実現してください。そのために私たちにも一端を担わせてください。平和の君イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

30日(木) 詩編103編1-22節
一言メッセージ:103編を理解するため、3つのブロックに分けて考えてみましょう。最初のブロックは1-5節です。3-4節から、詩人は何かしらの重病にかかり、死を意識していたようです。でも神さまによって奇跡的に回復させられる。5節に出る鷲は一年に一度、羽が生え変わるので、若々しく見えるのだそうですが、同じように、詩人も病から劇的な回復を経験したのです。
第二ブロックは6-13節です。詩人は病から回復し、神さまの御業の偉大さを知ります。その時に、彼はこの神さまの御業が私だけでなく、全ての虐げられている人々にも及んでいることを知ります。私たちは辛い時に「私は、わたしは」と自分のことでいっぱいいっぱいになりますが、詩人は今、冷静に周囲に目が向けられたのです。
第三ブロックは14-22節です。詩人は改めて、塵芥に過ぎない私たち人間に目を留め、御業を行ってくださる神さまの偉大さに賛美させられていきます。
  3つのブロックに分けて103編を味わいましたが、詩人は詩の中で大きく変化しました。最初は「私は、私は」と自分の主張だけだったのに、最後には同じ時代に生きる多くの人々に目が留まり、共に生きる者となっています。神さまは私たちを、癒しと同時に成長させてくださるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。103編の詩人は病に苦しみ、自分のことしか見えていませんでした。けれど、あなたの癒しを経験する中で、視野が広げられ、同じように苦しみながら、整えられていく同胞にも目が留まり、自分が一人で生きているのではなく、民と共にあなたを賛美して生きるのだと悟りました。神さま、現代の社会はすぐに「自己責任」の言葉で人と人を分断し、苦しむ者にさらに孤独を感じさせます。でも、私たちはあなたの御業に生かされ、「共に礼拝し、共に生きる教会」であろうと願います。神さま、私たちも詩人のように、あなたによって整えられ、成長させていただけますように。今の時代に苦しむ人々と共に礼拝し、共に生きる教会となれますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

31日(金) 104編1-35節
一言メッセージ:104編は創世記1章の創造物語を思い浮かべ、イメージを膨らませて読むユニークな詩です。2節の「光を衣として」は創造の始まりの言葉「光あれ」と重なります。3節「天井の宮の梁を水の中にわたされた」は、古代人の世界のイメージを理解せねば分からないです。彼らは、世界は半円球体をしており、空は地表をドーム状に覆っていて、その天井には雨を降らせるための水槽があると考えていました。3節はそんなイメージに基づく描写です。5節で神さまは創造物語にあるように、水を分けて大地を作り、大地を確固たるものとします。さらに、山や谷を作り、水に秩序を与えます。10節以降は秩序ができた水によって生き物や植物が育まれます。動物の描写も盛んですが、私が個人的に好きなのは11節の「野ろば(野良ろば)」です。きっと当時のイスラエル人にとって「いるよね~」と思い浮かぶ身近な動物だったのでしょう。コミカルです。他にも、25節以降は水の生き物も神さまによって養われていくと描かれています。
  104編のメッセージは、端的にいって「神さまは無秩序だった世界に秩序を与え、私たちをはじめあらゆる命を生かし、育むようにしてくださった」です。私たちは神さまの秩序と守りの中で今日も生きているのです。何だかとてもホッとします。今日も一日、ホッとして歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたが世界に秩序を与えてくださっていることを覚えました。今の時代はその秩序を破壊し、命の価値に差をつけますが、神さま、あなたは全ての命を祝福し生かそうとされます。どうぞ今日の一日もあなたの秩序を思い起こして歩ませてください。あなたの祝福に感謝し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

8月1日(土) 詩編105編1-45節
一言メッセージ:詩編105編はイスラエルの歴史を紐解く詩です。1-5節は神さまの御業を賛美し、6-12節は創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語。13-24節は創世記終わりのヨセフ物語、25-44節は出エジプトの物語を描き、神さまの御業がずっと続いていることを歌っています。
  さて、今朝注目したいのはヘブライ語のシャラハという言葉が4回使われていることです。1回目は17節、ヨセフがエジプトに奴隷として売られる時の「遣わしておられた」。2回目は20節「彼を解き放った」。3回目は26節でモーセを「遣わした」。4回目は28節にあるエジプトへの10個目の災いで「地を暗くされた(直訳は「闇を送られた」)」です。シャラハは「遣わす、送る」という言葉ですが、4つを見ると、人間的には必ずしも嬉しい派遣ばかりではありません。ヨセフにいたっては兄たちによって奴隷として叩き売られた、悲しい出来事です。でも、105編はそれらを全てシャラハと表現し、一見ひどい出来事でも、その背後に神さまの御心があったことを示唆しています。
  私たちは往々にして、目先の事柄に心がとらわれ、一喜一憂します。嬉しい時には「さすが神さま、信じて良かった」と素直に喜ぶのに、困難の時には「何故こんな事態が起こるのか。神さまに見捨てられたか」と文句と批判を始める。でも、105編は「目先で一喜一憂するのでなく、神さまの壮大な御業の中で自分を客観視しなさい」と告げます。例えば、今朝の詩で言及されたヨセフは兄たちに奴隷として売られてから再会まで少なくとも11年が経過して初めて自分は神さまに派遣されていたのだと悟りました(創世記45.7-8)。モーセが出エジプト記3章で神さまと初めて出会ったのは80歳の時でした。そう考える時、私たちは一日二日悩んだからといって「神さまのことが分からない」と結論付けられない。分からなくても神さまの壮大な導きに期待したらいいのです。
今、あなたが何か、悩んでいるならば、「神さま、どうぞひとつよろしく」と祈ってみてください。祈ったからには神さまに任せ、この一日を心静かに過ごしましょう。それで良いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編105編は近視眼的になっていた私たちに「神さまの視野で広く物事を見らんね」と諭します。あなたの導きは壮大ですから、時に私たちには何も動いていないように思えてしまいます。でも、それは私たちが一日二日で早急な解決を求めるからでした。あなたの御業はもっと長く、でもだからこそ、決してゆるぎなく進められていきます。神さま、あなたの導きを信じます。どうぞ御心のままに私たちをお導きください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。



***

最近、YouTubeのライブ配信がトラブル続きで申し訳ないです。
今度の礼拝ではうまくいきますように・・・

7月19~25日のみことば - 2020.07.21 Tue

2ヶ月以上感染者の出ていなかった久留米ですが、ついに先週再び感染者が出てしまいました。
感染された方が重症化しませんように。またできるだけ感染が広がりませんように祈るばかりです。
特に先日の豪雨で被害を受けた方々、暑い中片付け作業などをしておられる方々が感染してこれ以上の痛みを負うことがありませんようにと切に祈ります。
久留米教会も今のところは感染防止対策を強化しつつ礼拝をおこなっていますが、対応に変更が出てくる場合はまたホームページでお知らせいたします。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

19日(日) 詩編92編1-16節
一言メッセージ:92編は1節で「安息日に」とあるように、礼拝の喜びを歌った詩です。詩人は神さまに従う者と逆らう者を対比させて詩を書きました。ユニークなのは、それぞれを個性がまるで違う植物で譬えたことです。神さまに逆らう者は8節で「野の草花」に譬えられます。それらは美しく咲き誇ります。それは詩人も認めています。でもイスラエルの雨季と乾季を考えれば、花の咲く期間は数か月と短いものです。一方、神さまに従う者が13節でなつめやしやレバノン杉に譬えられています。なつめやしは10~30mにも育つ巨木で、樹齢は80~150年。葉は樹頂に王冠のように茂る華やかな植物なので、繁栄の象徴と見られる木です。さらに、その実は甘い上に、一本の木に12房ほど、ひと房で1,000個ほどの実がなるのです。祝福の規模がものすごいのです。レバノン杉は屋久杉をイメージしてください。樹齢1,000年を超えることもあり、30-50mに育つ巨木です。まっすぐに聳え立つ木は、神殿や宮殿などの柱に用いられました。
さらに、植えられた土地も比較がされます。逆らう人々は「野の草花」ですから、野原に咲きます。一方、神さまに従う人は14節で「主の家、神の庭」に植えられます。その木々は神さまの許可なく伐採されることはなく、日々、成長し続けるのです。
詩人のこの描写は(極端ですが)私たちに大事なことを教えます。それは、何を人生の基盤に据えれば良いのか、ということです。一時的に我が世の春を誇る人はいるでしょう。でも神さまが与えてくださる大繁栄の前では一時に過ぎないのです。大事なことは神さまに従うこと。だから、安心して信じましょう。今日は日曜日、礼拝の時。今日もド~ンとみことばを分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編92編は私たちに、あなたに従うことが人生の盤石な基盤と教えてくれます。私たちはすぐに目先のことに右往左往しがちです。でも神さま、あなたの祝福は一時的なものでなく、私たちに永遠を約束くださいます。あなたの深い恵みに感謝し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

20日(月) 詩編93編1-5節
一言メッセージ:「神さまこそが王なるお方」と歌う93編ですが、注目したいのは1節終わりの「世界は固く据えられ」という言葉です。続きの「決して揺らぐことはない」という言葉を合わせると、まるで「世界は完成されていて変化しようがない」とイメージしてしまいます。でもヘブライ語原文を見ますと「固く据えられ」という言葉は未完了形で、「固く据えられ続けていて」と、今も神さまの創造の御業が続いていることを示しています。
  神さまが世界を創造し続けておられるとは新しい視点です。神さまの創造が今も続いている、神さまの世界は今も変化していると考える時、私たちは自分をふり返ってみてどう感じますか?私たちはもはや完成されていて、変わる必要、成長する必要など無い存在なのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。人間は日々、学ぶし、成長し続けられるのです。私たちも日々、より信仰を強く、だからこそ形式は柔軟に、変化し続けることができるのです。
僕が通った西南教会の付属幼稚園、当時の園長は坪井正之先生というおじいちゃん先生でした。元々、西南高校の校長だった方ですが、校長引退後に園長をお引き受けされたそうです。この坪井先生、学ぶことがライフワークで、校長引退後から18世紀の神学者マルチン・ベンゲルの『グノーモン』という新約注解を私訳(ありがたいことに私はデータをいただいています)され、亡くなる直前まで現代の新約学の大家ゲルト・タイセンのドイツ語の著書を辞書を引きながら読み続けていたそうです。坪井先生を思い出すと、私たちも日々、学び、発見し、驚き、喜ぶことができるのだと思わされます。
ちなみに、このみことばメールもそんな1つにしてください。聖書、ひとことメッセージを読んで、ご自分なりに考えてみてください。賛同だけじゃなく、批判だって構いません。大事なことはみ言葉と向き合うこと。ご自分の人生と重ねて、みことばを味わってほしいと願っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編93編であなたは、今も創造の業をし続けておられることを知りました。あなたが今も私たちに目を留め、だからこそ世界を整えてくださるから、私たちもまた日々、自分たちの人生の中で働くあなたの御業を模索してまいります。どうぞ今日もあなたの御業を発見し、感動し、喜ぶことができますように。気づきに期待し、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

21日(火) 詩編94編1-23節
一言メッセージ:神さまのことを「報復の神」と表現する詩編は今朝の94編だけです。私たちは「報復」と聞くと恐ろしい復讐をイメージしますが、今朝の箇所をよく読むと、神さまは悪には悪を、善には善をもって応じています。ちゃんと正しい者にも祝福をもって報いてくださるとある。だからこそ、詩人は神さまに正しく生きることを訴えるのです。
  そんな94編の中で特に注目したいのは13節です。「幸い」な人とは、悪に対して復讐するのでなく、「静かに待つ」者と書かれています。彼は、今は苦しくとも、神さまが与えられる次の展開に期待しているからこそ待つのです。昔、恩師の関田寛雄牧師から言われました。「たとえ這いつくばってでも生きることが大事。生きることは時間が経過すること。時間が経過するということは物事が変化するということ。変化する時には神さまが働いてくださる。神さまが働かれるならば、物事が不幸で終わるわけがない。だから生きて待つことが大事です。」今朝のみことばも私たちに信じて待つことを促すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは94編を通して、待つことを教えられました。私たちは実に短気で、課題に直面すると直ちに状況が変わらねば、ずっと悪い状態が続くように思い込みますし、あなたが私を見捨てられたのでないかと不安になります。でも94編は信じて待つことを告げます。信じて待てば、あなたがちゃんと時と状況を整えてくださいます。神さま、あなたを信じています。どうか私たちが短気を起こさず、あなたの御業を待ち続けることができますように。期待し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

22日(水) 詩編95編1-11節
一言メッセージ:95編は50編、81編と並ぶ祝祭の詩編です。詩人は聴衆である私たちに「さぁ、主に向かって喜び歌おう」と呼びかけます。1節後半2節後半の「喜びの叫び」は別訳では「凱歌、勝利の歌」です。95編の祝いの理由は、神さまによる勝利です。
  でも勝利の歌のはずなのに、7節3行目で詩人は苦言も呈します。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」「今日こそ」と書かれるということは、イスラエルの民は今まで失敗を繰り返してきたのでしょう。実際、詩人は8節で出エジプト17章のメリバ、マサの出来事を引き合いに出します。民が神さまへの信頼よりも、自分たちの願望や算段、思惑を優先した出来事です。メリバ、マサの出来事を指摘しながら、「心を頑なにしてはならない」、「心迷う民(10節)」であるな、と訴えます。信仰は文字の如く「信じて仰ぐ」ものです。自分の願望に沿った保証があって「じゃあ、信じようかな」ではない。神さまへの信頼を根拠に「えいやっ!」と飛び込んでみるものです。詩人は今、あなたに「信じて、飛び込んでごらん」と語り掛けます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。95編は私たちに信仰を問います。私たちの信仰はあなたの目に義とされていますでしょうか。自分の願望や算段や思惑を置いて、先ずあなたの御心を求めていますでしょうか。その御心に従えているでしょうか。自信がありません。でも、あなたは私たちに呆れることなく、それでも私たちを「主の民(7節)」と呼んでくださいます。辛抱強く呼びかけ続け、守り、導き続けてくださいます。どうか今日こそ、あなたを信じて「えいやっ!」と応答できますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

23日(木) 詩編96編1-13節
一言メッセージ:96編は「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけます。今朝は「新しい歌とは何か」を考えてみましょう。
詩を読み解くためのヒントは「呼びかけられる対象が誰か」です。1節ではイスラエルに限定されるのでなく「全地よ」、7節でも「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ」と呼びかけられています。詩人は全世界に向けて、神さまの前に集い、ひれ伏し、礼拝し、新しい歌を歌え、と呼びかけます。
  でも、実際のイスラエルの歴史を考えてみると、その訴えは夢物語にも思えます。新共同訳聖書後ろの地図①「聖書の古代世界」を見ると、イスラエルは南に行けばエジプト、東にはアラビア世界が広がり、北にはヨーロッパへとつながる土地、いわば交通の要所だと分かります。だから、イスラエルは世界の覇権を得ようとする強国の足掛かりとして狙われる弱小国でした。だから、歴史を見ると、イスラエルは強国に翻弄され、庇護に入りながら存続してきた国です。そんなイスラエルに「全地」「諸国の民」が参集して礼拝することは人間的な常識では不可能なはずです。でも、詩人は繰り返し、「全地よ、諸国の民よ、主に向かって歌え」と呼びかけ続ける。それほどに詩人が訴え続けた根拠は何でしょう?それは今朝96編で16回も繰り返される「主」です。神さまが詩人の呼びかけの根拠なのです。
詩人は人間的常識で物事をはかるのでなく、主なる神さまを土台にして訴えた。人間のモノの見方は限界だらけです。でも神さまの視野は私たちには計り知れない未来をもちゃんと見据えています。だからこそ詩人は、人間的不可能を超えて神さまに期待しました。これこそが96編の記す「新しい歌」です。自分たちの力、理解、常識、思惑、算段でなく、神さまに期待して世界を見直すこと。それが「新しい歌」なのです。私たちも今、「新しい歌」を歌いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは96編から励ましと問いかけと揺さぶりをいただきました。詩人は人間的には不可能としか思えないけれど、あなたには全てが可能だと知っていました。だからあなたに期待して大胆に詩を歌いました。神さま、あなたが神さまであることに感謝しつつ、私たちは本当にあなたに期待し、信じているかが問われます。できていなかったならば、神さま、どうぞ今から私たちに「新しい歌」を歌わせてください。人間的常識や算段ばかりでなく、あなたに期待して、全てを見つめ直し、応答することができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

24日(金) 詩編97編1-12節
一言メッセージ:昨日の96編は全世界に向けたスケールのでっかい詩でした。印象として、私たちは「全世界の中の私、集団としての私」という印象も出てきますが、今朝の97編は私たち一人ひとりに向かって語り掛けてくる詩です。
1節で「全地よ」と呼びかけられ、6節では「すべての民は(主の)栄光を仰ぎ見る」と言われていますが、10節では突然、単数形で「主を愛する人」と呼びかけられるのです。すなわち、この言葉は私たちを集団の一人でなく、「あなたはどうか?」と直接問いかけてくるのです。
詩人は神さまを愛し、従う人たちに将来の約束を告げます。特に注目したいのは11節です。「(主は)神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる。」注目は「種蒔いてくださる」とあること。言うなれば、今私たちが得ている光や喜びはまだ種のようなものに過ぎないのです。種を成長させ、本当の祝福を得るために、私たちは「神さまに応答して『えいやっ!』と一歩踏み出してごらん」と求められているのです。神学者D.ボンヘッファーは語っています。「信じる者が従い、従う者は信じる」。神さまを信じた者は従うべく一歩踏み出す。従った者は神さまの祝福が確かだと、実際に与えられることを経験し、また新たに従う者となっていくのです。今朝もわたしたちは、その種をいただいています。種を育てていきたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編97編は祝福の種の話をしました。神さまが今、私たちに与えてくださっている祝福は感染ではなく、まだ種に過ぎないのですね。ならば、私たちはますますの祝福に期待します。私の人生も家族や周囲の人々のことも全てお委ねします。どうか祝福の種をぐんぐんと成長させ、どうか祝福を、私個人を超え、周囲の人々にも経験させてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(土) 詩編98編1-9節
一言メッセージ: 98編はバビロン捕囚からの解放を喜ぶ詩です。最初に歴史を説明しますが、世界史的に見ると、バビロン捕囚からの解放は、ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼし、捕囚とされていたイスラエルの民を解放した、という出来事です。でも、これをイスラエルの民の立場で考えてみましょう。イスラエルの民はこの出来事を「わぉ!ミラクル!」と感じたのです。
「ミラクル!」と訳した言葉は1節の「驚くべき御業」です。ヘブライ語ではニフラオートで、その意味は「人間の理解では有り得ないとしか思えない不思議な業」です。イスラエルの民はバビロン捕囚を経験しながら考えたのです。「むちゃくちゃ強くて、『未来永劫、奴隷のままなんじゃなかろうか』と思っていたのに、そのバビロンが滅びたことも信じられないけど、さらに信じられんのは、倒したペルシャが『かえっていいよ』って言ったこと。何これ?何でこんなことになるの?もう訳が分からん。・・・・・・・あっ!これって、神さまの御業なんや!私たちには訳わからんけど、神さまの御業は、私たちにでっかいでっかい祝福を与えてくださった!」と理解したのです。
私たちは今、98編を見ながら教えられるのです。皆さん、神さまに期待してますか?今の不安や苦境の中で、考えも及ばないミラクルが起こるのですよ。人はそれを「ラッキー」と言うかもしれない。でもそれはラッキーじゃない、偶然じゃない。神さまの必然です。だから祈りましょう。「神さま、私の想像も及ばない度肝抜くようなミラクルをよろしくお願いします!」って。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝98編に私たちは嬉しくなります。あなたは私たちの想像をはるかに超える御業を行われる方です。神さま、今わたしたちは改めてあなたに期待します。新型コロナや水害や、自己責任の風潮、人間関係などなど、私たちが抱える課題は重いですが、あなたに期待します。考えてみたら、あなたはこれまでも度肝を抜くような御業を行ってこられました。最たるものは、イエスさまの十字架です。まさか私たちを救うためにあなたの独り子イエスさまが十字架にかかるなんて、私たちは想像もしませんでした。でも、あなたはその出来事を通して、私たちの罪も弱さも痛みも叫びも丸ごと引き受け、救ってくださいました。あの御業を知っているからこそ、私たちは信じます。私たちが度肝抜かれて、一時的に怯え、慄いたとしても、最後には「神さま、ありがとう!」と賛美できるような、あなたの御業を行ってください。救い主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

***

今週も皆さんの上に神さまの守りがあります様に。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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