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2022-10

10月2日~10月8日のみことば - 2022.10.02 Sun

10月になりました。
夜に聞こえてくる虫の声もすっかり変わって涼やかになってきました。
異常気象が心配される昨今ですが、こうして四季の移り変わりを感じることができるのも感謝なことだなあと思わされます。
この、与えられている大事な自然をどう守っていくかということは神さまから私たちに託された大切な使命の一つだと改めて感じる秋の夜長です。

暑さ和らいできたとはいえ、日中は暑いですし、季節の変わり目は体調を崩しやすい時ですから、皆さんも十分用心しつつ、この秋のきもちいい季節の中で神さまの創造の業に思いをはせるひとときを持つことができますように。

今週も、皆さんの上に神さまの守りと先立ちをお祈りします。
では、今週のみ言葉をどうぞ♪

(写真は先日の講壇のお花)
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***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
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10月2日(日) イザヤ書33章17-24節
一言メッセージ:今朝の箇所は32章から続く、1つの預言集のまとめの箇所です。今朝の箇所は32.1-8で読んだ理想の王について再度語っています(32.1-8は安倍元総理の「国葬」の日に読みました)。神自らが理想の王として人々の前に示される時、己の威容や軍事力を誇ってきた支配者たちがぐうの音も出ずに黙り込み(19節)、民は落ち着きと同時に、誰の目にも明らかな神の秩序の中で安心して生きられるようになるのです。大事なものは神の秩序による正義です。27日(火)、安倍元総理の「国葬」の日、西南大学でシンポジウム「国葬を考えるが行われました。4人のパネラー(大学教授)が口をそろえて語ったのは、「安倍元総理の政治は国民に『自分たちが反対の声を上げても、権力者の横暴は止まらない』と失望感を与えてきた」でした。確かに、過半数の議席による強行採決、議会の承認なしに内閣の方針決定に過ぎない閣議決定を議会の決定事項のように扱い、公文書改ざんに虚偽発言、加えて、日常的に繰り返された質問に答えない自己主張だけの答弁などなど、あまりのやりたい放題ぶりに多くの国民が唖然としました。しかし彼は止まらなかった。審議する暇を与えないほどに次々に暴挙を重ねました。その結果、多くの国民が「権力者のルール無視は止められない」と思い込まされたのでした。でも、イザヤは告げます。横暴な権力者の行いは神さまの前に決して看過されない。その言動は必ず神さまによって検証されていく。「まことに、主は我らを正しく裁かれる方(22節)」だからです。今日も私たち、神さまを信じ、目先の事柄でなく、さらに先の未来、神さまが導いてくださる未来を期待しながらスタートしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、私たちの社会は今、権力者の横暴に振り回されることに嫌気ばかりを感じ、あなたの御心に沿った揺るがぬ指針を必要としています。民が安心して生きられるために、一日も早くあなたの御心に基づく平和と指針をお与えください。そのために、私たち自身もあなたの御心の実現のため誠実に生きる者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(月) イザヤ書34章1-17節
一言メッセージ:34-35章は「諸国民への審判」と「ユダの救い」がセットで書かれる箇所です。今朝の箇所はそのうち「諸国民の審判」の部分です。エドムという民族が神の裁きによって滅ぼされていきます。エドムは創世記に登場する族長ヤコブの双子の兄エサウの子孫です。イスラエルの長い歴史の中では比較的友好な関係なのですが、バビロンによる南王国滅亡時には、バビロン側に積極的に与したため、捕囚後のイスラエルとは緊迫した関係にあります。今朝の箇所はそんなエドムへの強い民族的な敵意が露骨に表現されているため、少し厳しさを差し引きながら読んだ方がいいかもしれません。そんな中、注目したのは16節前半です。「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。」イスラエルの歴史から言えば、民族史は祖国滅亡を含め、紆余曲折だったはずです。でも紆余曲折を経て、みことばを振り返ってみた時、神さまのみ言葉(神の約束、示唆、指示)は何も曲がっていなかった、と預言者は言うのです。私たちも自分たちの人生を振り返ってみましょう。おそらく誰もが、自分の「こうありたい」との予定や願望と違う出来事に直面し「こんなはずじゃない」と苦しんできたことでしょう。でも、時間が経って振り返った時、不思議なことに「あの労苦があったから、この出来事を乗り越えることができた」とか「願望と違う歩みだったからこそ、この人に出会えた」との確信を見出すのではないでしょうか。神さまは私たちの挫折も含めて、私たちに必要な導きを行ってくださる方なのです。神さまを信じる時、人生に無駄はありません。傷、後悔、不要な出来事すら、神さまの整えの中で意味を持つのです。私は信仰を持っている人生で良かった。今週も神さまの導きを信頼して歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたの導きは、問題の渦中の私たちにとっては災難としか思えません。でも神さま、あなたは必ず後に、その問題すら私たちの人生を彩るあなたの祝福と知ることでしょう。神さま、その気づきに至るまで、私たちを守り導き続けてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(火) イザヤ書35章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまによってイスラエルが回復されていく救いのことばです。神の御業によって、荒れ野や砂漠が植物や作物を実る潤った大地に変わり、身体的な老化やハンディを抱えた人々が癒されていく記述です。その一方で注目したいのは4節後半、神さまが敵を裁く記述です。「見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちは救われる。」「悪に報いる」と読むと、「怒りによる悪事への報復」という意味合いを感じます。しかしヘブライ語原典にはその「特定に相手に対する敵意」といったニュアンスが無いのだそうです。ここは「神がその御心に基づいて、全ての人に対して、その行動に正しく相対する」です。その結果、御心に背いてきた人々は己の過ちを向き合わされ、御心に即して生きてきた人々は祝福をいただく、というのです。神さまは私たちを冷静に見定められるのです。私たちも自分たちの生活、普段の言動を「神さまの御心に即しているだろうか」と振り返って、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちに「神さまの御心に即して日々歩んでいるか」と問うてきます。神さま、私たちがあなたに少しでも誠実に向き合えていると思えるなら、どうぞ祝福し、ますます毎日を喜びと平安に満たしてください。もし「御心に即していない」と思うならば、一歩ずつでもあなたと誠実に向き合って生きるように勇気づけ、あなたを身近に感じられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(水) イザヤ書36章1-22節
一言メッセージ:今朝からの箇所は列王記下18.13以下にも記されていた物語です。内容もほぼ列王記と同じです。改めて、数日に分けて読んでいきましょう。南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代です。アッシリア王センナケリブが軍を率いて攻めてきます。センナケリブは将軍ラブ・シャケを派遣し、ヒゼキヤ王の腹心と民衆の前で降伏勧告を行います(4-10節)。勧告のポイントはこうです。「①ヒゼキヤはエジプトの援軍を期待しているが、エジプトは弱い。②ヒゼキヤは民衆に対して「主に依り頼む」と語るが、ずっと神に誠実であったわけではない。神への礼拝所に異教礼拝を持ち込みもした。③二千頭の馬を与えるから、力比べをしよう。自分たちの脆弱さを知って降伏せよ」です。ヒゼキヤ王の腹心たちはラブ・シャケがユダの言葉で語るのを聞いて、「アラム語で話してくれ(民に聞かせないでくれ)」と願います。けれど、ラブ・シャケは正に、民が動揺することを狙っているので、さらに言葉を繋ぎます。11節以下は民への揺さぶりです。要点を追加します。「④アッシリアに降伏するならば生活は保障するが、降伏しないならば民を奴隷にする。⑤そもそもお前たちが神を頼るが、これまでアッシリアが滅ぼしてきた国々にも守護神がいたし、その神もアッシリアに敗れてきた。イスラエルの神に何ができるか。」ラブ・シャケの挑発は厳しいですが、私はこの箇所で21節の民の反応に目が留まる。民は「答えてはならないと(ヒゼキヤ)王に戒められていたので」、沈黙を貫きます。そこにはヒゼキヤへの、引いては神さまへの信頼が見えます。さて、この後、物語がどうなるかは明日、続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝からはアッシリアによる侵攻を読み始めました。今朝の箇所でイスラエルはアッシリアの降伏勧告に怯え切ったでしょう。でも、民は沈黙し、耐えます。私たちはその沈黙に、あなたへの信頼を見出します。神さま、あなたが彼らにどう応えるか、明日以降、私たちに示してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

6日(木) イザヤ書37章1-20節
一言メッセージ:昨日の物語の続きです。王の腹心たちはヒゼキヤ王に、アッシリアの将軍ラブ・シャケの降伏勧告を報告します。すると37.1でヒゼキヤ王は「衣を裂き、粗布を身にまとい」ます。これは悲嘆の行動です。ヒゼキヤはすぐに腹心たちを預言者イザヤに遣わし、神のお告げを願います。イザヤは「アッシリアを恐れるな。彼らは撤退する」と告げますが、その知らせを聞いたヒゼキヤにさらにラブ・シャケから知らせが来ます。「クシュ(エジプト)の援軍が向かっていると聞いたろうが、エジプトが頼りになるか。お前たちの神を頼るが、神はお前たちを救えるか。」この挑発にヒゼキヤは腹が据わります。彼は神殿に赴き、ラブ・シャケの手紙を神の前に広げ、こう祈るのです。「万軍の主よ、アッシリアの言葉を聞かれたことでしょう。彼らは確かに他国とその国の神を滅ぼしてきました。しかし、その神らは人間が造った偶像に過ぎません。本物の神はあなたです。どうぞ私たちに、あなたこそが真の神であることを示してください。」ヒゼキヤの指摘はとても的確です。人は強大な力を前にしますと、自分が無力であることに怯え、自分が頼りにしていたものが心もとないものであると考えてしまいます。でも、信仰を誤解してはならない。私たちが小さく弱くとも、私たちの信じる神は偉大です。人の想像物でなく、世界を創造なさった方です。私たち人間も神さまの被造物に過ぎない。ヒゼキヤは追い込まれた末に本当に頼るべき神さまと向き合いました。神さまはどうヒゼキヤに応えるか。明日も続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ラブ・シャケの挑発を受け、ヒゼキヤ王は強大な力と向き合いながら、本当に頼るべきは主なる神さまであると悟りました。神さま、今の世界でも権力を持つ者の横暴が続き、その力の前に民が「どうしようもない」と諦めを感じています。しかし、人の力などあなたの前にあった何ほどのものでしょう。神さま、どうぞ私たちにも悟りと信仰をお与えください。何が起ころうとあなたを信じ抜く信仰をお与えください。そして平和の御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(金) イザヤ書37章21-38節
一言メッセージ:今日もアッシリアのイスラエル侵攻物語の続きです。神さまはヒゼキヤの祈りを聞き、預言者イザヤを通して、アッシリアに「お前は誰をののしり、侮ったか(23節)」と告げます。自らを神に並ぶ者、神を超える者かのように驕ったアッシリア王センナケリブに「所詮、お前が人間でしかないことを明確に示す」と告げ、「わたしはお前の鼻に鉤をかけ、口にくつわをはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする(敗戦者が奴隷として連行される描写。29節)」と宣言します。30-31節では、エルサレムを取り囲む兵が撤退し、畑を荒らされ、植え付けができなかった民が、それでも畑の落穂から、また自然に生える作物で問題なく食べていけると、つまり戦時だけでなく平時の守りの約束の預言さえ与えたのです。そして神の業が始まります。36-38節では「み使いが現れ」、多くのアッシリア兵が死に(病死?)、撤退していきます。とても印象的なのは38節、アッシリア王が首都ニネベにて息子たちに殺害されていることです。絶大な権力者が、たった二人にあっけなく倒されていく。ここにも、人間の力の儚さが見える気がしますね。ヒゼキヤ物語は「本当に頼るべきは主なる神さまだ」ということを改めて私たちに告げています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。3日かけて読んだアッシリアの侵攻物語は、どれだけ力を誇ろうとしょせん人間は人間に過ぎず、神さまの前に無力であることを示しました。私たちも、自分たちの目に見える力の強さに右往左往するのでなく、神さまを頼りとし、冷静に今の時代を生きることできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(土) イザヤ書38章1-22節
一言メッセージ:今朝の箇所はヒゼキヤが病になり、神さまに祈って命を延ばしていただくという話です。列王記下20章にも記される話です。相違点は列王記では「干いちじく」を患部にあてて病がが癒されるのに対して、イザヤ書では「干いちじく(21節)」だけでなく、8節「日時計が十度後戻りする」が加わっていることです。今朝注目したいのは10節以下のヒゼキヤ王の感謝の歌です。前半10-14節ではヒゼキヤは自分の命が終わりを知り、命のもろさ、儚さを深く嘆きます。だから、この部分では主語が「私、わたし」とヒゼキヤの視点ばかりです。しかし変化が起こる。「わが主よ、どうかわたしの保証人となってください(14節終わり)」、16節「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます」これ以降、少しずつ主語や動作の主体がヒゼキヤでなく「主(神さま)」へと変化していきます。20節などを見ると「主よ、あなたは」と完全に主語が切り替わっています。これはどういうことか。「わたし」の思惑だけで「生きたい」と考えていた時のヒゼキヤは、予期せぬ命の終わりに翻弄されるだけでした。しかし、人生の主語が「神さま」に変化していく中で、ヒゼキヤは御心の中で生きることへの信頼が大きくなっていくのです。17節は「見よ、わたしの受けた苦痛は平和のためにほかならない」ですが、「平和のため」を別の聖書訳で見ますと「我が幸福のため(口語訳)」「平安のため(新改訳、文語訳)」と訳されています。「幸福、平安のため」は個人的な事柄の印象が強いですが、新共同訳「平和のため」は個人を超えて社会的な響きを含みます。王であるヒゼキヤが死の宣告を受けて苦しみながら、でも神さまと向き合い、神さまの導きに信頼した時、自分の命をも御心の中で導いてくださる神さまへの信頼を強く得たし、その姿が民にとって証となっていくことを意図しているのです。信仰は他人に見せびらかし、評価を得るためのものではありませんが、でも私たちの真摯な姿勢が周囲の人々に「信仰がどれほど私たちを勇気づけ、誠実に生きさせるか」を伝えてもいます。今朝、わたしたちがヒゼキヤの感謝の祈りを見ながら、励まされているように。私たちも生き方を通して神さまを証ししていく者となりたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。自分の命が終わろうとした時、ヒゼキヤは嘆き、苦しみました。その姿に私たちは自分たちの姿を重ねます。予期せぬ不幸に直面した時、私たちは「どうしてわたしが」と落ち込むばかりです。でもヒゼキヤは嘆きの中であなたと向き合い、あなたの導きを信じて平安を得ました。神さま、私たちも危機の中で、なおあなたと向き合います。どうぞ日々、あなたが私たちに近しく伴ってくださることを実感し、あなたを感じ、希望と平安をいただいて日々過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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9月25日~10月1日のみことば - 2022.09.24 Sat

台風一過。すっかり秋の気候になってきました。
昼間は少し汗ばみますが、朝夕はぐっと涼しくなりましたね。
聞こえてくる虫の声もかなり変わってきた気がします。
コロナの第7波も少し落ち着いてきましたし、そういう意味でも少しほっとできる季節ですね。
きたる冬に備えてみなさん、気力・体力共に整えられますように。

教会では、じわ~っとクリスマスを意識し始める季節になりました。
昨年から「クリスマスなんかしたい委員会」というのをはじめまして、クリスマスになんかしたい人が集まって楽しいこと、クリスマスの喜びを表すためにできることを考えています。
今年は10月末くらいに第1回委員会を開催予定。
「毎年これをやらないかん」じゃなくて、「今年は何する~?」とわくわくしながら今年もやりたいなあと考えています。楽しいこと思いついたら、こちらにもお伝えしますね♪
お楽しみに。
もちろん、その間も毎週の礼拝は休まず開催(?)中。
教会ではこの毎週の礼拝が何よりの元気の源。みなさんもぜひ参加してみてくださいね。

では、今週も毎日のみことばをどうぞ♪

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25日(日) イザヤ書30章27-33節
一言メッセージ:今朝はアッシリアへの神の審判の言葉です。これまでもアッシリアへの裁きの言葉は10章5-11節、12-15章、24-27章、29章5-8節など多々ありました。これだけ繰り返された理由は、それだけ南ユダの人々がアッシリアの侵攻に怯えていた現状があるからです。その度に預言者は「アッシリアの脅威でなく、エジプトの後ろ盾でなく、主なる神さまに目を向けよ」と言い続けた。その記録がこの「アッシリアへの審判」の数々と思うのです。人は目に見える事柄に捉われがちです。衝撃が大きければ大きいほど、目に見える事柄だけが全ての事実化のような錯覚に捉われます。でも預言者は繰り返し繰り返し告げるのです、「目に見えずとも、いつも私たちと共におり、守り導いてくださる主に目を向けよ」と。サンテグジュペリの名作『星の王子様』で、王子はキツネにこう語り掛けられます。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」目に見えるものが全てではない。今日は日曜日、礼拝の日です。私たちは目に見えずとも、いつも伴ってくださる神さまに目を注ぎ、礼拝に集いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。人は目に見える事柄に捉われ過ぎ、まるでそれが物事の全てかのように錯覚します。でも、かんじんなことは目に見えないものです。どうぞ今日も、礼拝に集い、教会の皆さんと共に「もっともかんじんな」あなたと向き合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(月) イザヤ書31章1-9節
一言メッセージ:今朝の箇所はイスラエルに対して「エジプトに頼るな」と告げた箇所です。アッシリアに攻められることを恐れたイスラエルは大国エジプトを頼り、防衛策を立てたのです。エジプトが長年にわたって世界の大国であったのは、戦車部隊のゆえと言われます。映画「ベンハー」では当時の戦車が描かれます。馬に車を引かせ、その車に運転手の他、兵士たちが乗り込み、猛スピードで襲い掛かり、槍や剣、弓で攻撃していました。馬の巨体とスピードにのった攻撃は平地にて対応する術はほとんどありませんでした。しかし預言者は告げます。「エジプト人は人であって神ではない。その馬は肉なるものに過ぎず、霊ではない。(3節)」今朝の箇所で預言者は人間と神の違いを2つの側面で比較しています。1つは力そのものです。そもそも人間が神を超えることなどできない(3節など)。もう1つの比較は何か。それは、何を持って民と向き合うか、の比較です。エジプトは力によって民を支配します。しかし、神さまは愛によって民と向き合う。6節を見ますと、預言者はこう語っています。「イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。」「あなたたちが背き続けてきた」は、一度、二度の背きじゃありません。繰り返し繰り返し、この時代に至るまでずっと背きに背きを重ねてきたのです。でも預言者は言う、「その神に立ち帰れ」と。それは「神さまはそれでもあなたたちを受け入れてくださる」との招きのことばです。神さまは力をもって民を支配するのでなく、愛にて受け入れてくださる方。私たちもそうやって神さまを知り、救われ、信じた。今日はそんな信仰の原点に戻って一日をスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが愛の神だと再確認しました。今日から新たな一週間が始まります。どうぞ、いつもあなたに目を留められていることを忘れず、この一週も過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(火) イザヤ書32章1-8節
一言メッセージ:今日は安倍元総理の国葬が行われる予定日ですが、まさかその日にこんなにも痛烈な箇所を読むことになるなんて!神さまを感じます。今朝の箇所は「理想的な王の統治」を描いた箇所です。1節にはこの箇所全体を導くヒントが描かれます。理想的な王は「正義によって」統治すると書かれます。「正義」はヘブライ語ツェデクで「神さまの正義」を意味します。一方、「高官たちは公平をもって支配する」とありますが、「公平」はヘブライ語のミツファートで、その意味は「ツェデク(神さまの正義)の適用」です。つまり、1節は「神に正義をモットーとする理想的な王が登場し、その王の下、高官たちは神の正義を実現するべく様々な政策を始める」と語られます。その時、国そのものが変わってくる。3節では、それまで神さまの御心に正しいが社会の中で軽んじられてきた人々が神さまの御心を実感できるようになり、4節では「軽率」な人、言葉を知らぬ人も正しさを語り、5節では権力に媚びて出世してきた「愚か者」「ならず者」が失脚していく。7節で人々の訴えは力に関係なく公正に受け止められ、8節で民に尽くす高潔な人が社会に溢れていくのです。どうです?どこぞの元総理の行ってきた政治、自民党の政治と真逆ではないか。元総理は官僚の人事権を掌握し、自分の意に沿わぬ者は追い落とし、イエスマンばかりを固めた結果、国の質はどんどん下がり、世界から見て日本の自由度、公平度、幸福度はぐんぐん下がってきました。社会を憂う、そんな日のみことばメールで、神さまはまさかの「理想的な王」を示してくれしました。これぞ、示唆ですね。私たちは社会の一時的な風潮に屈せず、神さまの正義を目指し、その適用である公平を身近なところから語り、行動してまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは驚きました。こんなにも的確なみことばを示してくださるなんて!神さま、私たちはこんな理想の王を求めます。そのために、私たち自身もあなたの正義を信念とし、その実現を一歩ずつ行えますように。どうぞあなたの正義を社会に実現させてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(水) イザヤ書32章9-14節
一言メッセージ:今朝の箇所は難解です。「憂いなき女、安んじている娘」が何を指しているのかが分からないのです。ただ、感じるのは、この女性たちは「社会が変化しても『別に何も変わらない』とタカを括っていた人々」のようです。1年が経ち、今年も当たり前に農作物を収穫できると思っていたのに、予定通りに収穫が無い。彼女たちはここで初めて「やばい!」と気づくのです。興味深いことに、預言者はこの女性たちに「我が声を聞け、耳を傾けよ」と呼び掛けます。「滅びたって仕方ないよ、あんたたちは」と見捨てたのでなく、「まだ間に合う。悔い改めよ」と呼び掛けたのです。私はこの描写を見て、今の世間と重なっているように感じます。ここ最近の国政選挙の投票率は50%ほどです。低い投票率だと、組織票を持っている政党が圧倒的に有利です。だから、自民党は自分たちの支持母体の他、公明党と連立を組んで票を融通してもらい、統一協会にも選挙ボランティアなどの支援を求めてきました。その結果、投票率が低いために、全国民の17%の指示しかない自民党が選挙で圧勝し、やりたい放題の政治を行ってきました。そして今、多くの人が「自民党と統一協会の癒着から批判を上げています。私には、盲目的に政権与党を支持してきた方々や投票に行かなかった方々が、今朝の箇所のように、生活が厳しい状況になってようやく異変と感じ始めたように思うのです。ちなみに、2009年に当時の民主党が政権を取った時の投票率は69%程度でした。もし、今の選挙率が20%ほど上がるならば、政権すら変えられるほどに国は変わります(そのためには、野党ももっと気合入れてもらいたいものですが)。私たちの国もまだ立ち直ることはできます。だからこそ、神さまの御心に一歩でも近づけさせる政治を選ばねばなりませんね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。昨日に続き、あなたのみことばは今の日本を映し出す適切な箇所でした。神さま、どうぞあなたの御心に一歩でも近づくべく、私たちに知恵と言葉と力をお与えください。身近なところから1つずつ、「否は否」と声を上げ、社会を糺していけますように。正義の君なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(木) イザヤ書32章15-20節
一言メッセージ:今朝の箇所も、神さまの正義が行われるところに何が生じるか、という示唆のことばです。注目したいのは16-17節です。神さまの御業が実現するところでは、「荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」とあります。一昨日のメールを思い出しますと、「正義」は神さまの正義ツェデクであり、「公平」はその適用でありミツファートでした。そうやって、神さまの正義と適用が広がっていく時、社会に何が生じるのか。それは「平和」であり「とこしえに安らかな信頼」と預言者は告げます。8月の「平和を覚える月間」では「神さまの平和シャロームは、敵とすら共に生きる世界。私たちはその実現のために敵を仲間とするべく、一歩踏み出す」と分かち合いましたが、正に、神さまの正義が実現されるところでは、平和シャロームと、互いに「とこしえに安らかに信頼」できる状況が生まれていくのです。ロシアのウクライナ侵攻も7か月が過ぎ、ウイグルやミャンマー、シリア、その他の地域でも独裁は未だ続いています。でも、世界を諦めてはならない。神さまは今日も正義、公平、平和、信頼を私たちに示される。その実現に向けて、今日わたしは私の生きる場で何ができるか、と考えながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに元気をいただきました。あなたの正義が大事にされるところでは公平、平和、信頼が生まれます。力や利権による世界は争いが絶えませんから、この世界は今、皆が共に生きられる倫理、あなたの正義が必要です。そのために私たちも微力ながら何ができるか、問いながら今日を過ごさせてください。小さな働きを喜び、大きく用いてくださるあなたの期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(金) イザヤ書33章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所も、何の出来事を指しているのかはっきりしない箇所です。ただ分かるのは、1-4節では国々の栄枯盛衰を語っています。例えば、かつて世界の大国であったエジプトもアッシリアの勢いに圧され、しかしそのアッシリアもバビロンに滅ぼされ、そのバビロンもまたペルシャとメディナの連合国に滅ぼされていく。その間、イスラエルはたえず強国の間で翻弄される。そんな流れの中で預言者は2節「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます」と真の平安を願う。預言者は6節で1つの結論を告げます。「主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。」短い言葉ですが、強い言葉です。移ろいやすい世情の中で確かな支えは神さまであり、神さまの知恵を求め、見分を深めることは、私たちを目先の現状に一喜一憂することから解放するのです。そんな安定した生き方は、神さまに畏敬の念を持ち、その御心を聞くことから始まる。預言者の言葉に私たちは物事の受け止め方を新たにされます。何か決断せねばならない時にすぐさま祈る私たちの姿を見て、「無責任、神に逃げるな」と批判する人もいるかもしれません。でも、それは目先の現状だけで物事を決断しようとするから、そう思うのです。私たちが神さまに知恵と知識を求め、畏敬の念をもって御心を模索し祈ることは、今、私たちには見えぬ未来においても最善の導きを求める行為です。見えぬ未来を正しく見ておられるのか神さまだけ。その神さまという案内人無しにどうして私たちは将来の最善を選び取ることができましょう。移ろいゆく時代だからこそ、余計に私たちは神さまの御心という最善の羅針盤を堅持し、一日一日を過ごしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者は移ろいゆく世情の中で、本当の安定はあなたにこそ見出せると示しました。人は目先の出来事に対応しようとする時には自分たちの知恵や経験、常識にとらわれがちです。けれど、私たちは目先の事柄だけでなく、まだ見えぬ未来を含めて、神さまの御心を求めます。どうか私たちを、あなたのご判断の中で最善に導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10月1日(土) イザヤ書33章7-16節
一言メッセージ:今朝の箇所はずっとずっと後代、イスラエルがバビロン滅亡後、捕囚から帰還した後に書かれた言葉です。そんな状況で、この箇所は信仰問答として書かれています。14節が問いの言葉です。「我々のうち、誰が焼き尽くす火の中にとどまりえようか。我々のうち、誰がとこしえに燃える炉の中にとどまりえようか(激しい時代の栄枯盛衰の中で生き残れるのか)。」生き残りを模索して、エジプトと外交を結んだり、アッシリアに阿ったり、バビロンに追随したり、それぞれに対処を模索した人々はいましたが、そのどれもが惨憺たる結果で苦しみ、滅ぼされました。誰がその中で生き残れただろうか。その答えは15節。ここでは6つの生き方を大事にした者が生き残った者とされています。①神さまの正義を信念とした人、②強者にこびるのでなく、神の御心をこそ語った者、③誰かを虐げて得る利益を求めようとしなかった者、④賄賂に押し流されない者、⑤誰かを追い落とす謀略から距離を取っていた者、そして⑥悪に加担しない者、です。傍から見ると、馬鹿正直にしか見えないでしょう。でも、それは一時的な利益を価値基準にするからです。最終的に確かな祝福を得る生き方とは最高の導き主なる神さまに誠実に生きる人です。今の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は謀略に次ぐ謀略のどろどろした話で、欲深い者は早々に排斥されています。そんな社会では誰もが周囲の人に対して疑心暗鬼に捉われます。でも誠実な人はそれだけで信頼を得る。私たちも真っ正直な方が良い。目先でなく、さらに先を見据えて生きる知恵者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イザヤ書は私たちに「神の正義に歩み、御心を語り、不当な利を求めず、断固として賄賂を拒み、他者を追い落とす謀に加わらず、悪と距離をとる生き方」を最良と示しました。私たちもその示唆に同意です。神さま、私たちは決して知恵者ではありませんが、でも、いつも先ず、あなたの正しさを模索し、誠実に生きる者とならせてください。そして私たちの生き方を整えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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9月18日~24日のみことば - 2022.09.17 Sat

またしても大型の台風が近づいています。
ニュースによっては「伊勢湾台風なみ」などと言われていますから、十分用心したいと思います。
取り越し苦労になればいいのですが・・・
明日9月18日の礼拝は行いますが、どうぞ皆さん安全第一で過ごしてくださいね。
この台風を乗り越えて、秋の良い季節を迎えたいものです。

皆さんの上にも神さまの守りがありますようにとお祈りしています。
それでは、一週間のみ言葉をどうぞ!

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18日(日) イザヤ書29章9-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は南ユダ王国の指導者に向けて語られた指摘と叱責の言葉です。預言者は「今こそ、どの国にも与せず、神に頼れ。神は必ず守ってくださる」と示すのに、指導者たちは自分たちの算段に頼り、エジプトとの密約で対処しようとします。その結果、9-10節「指導者がふらつき、よろめいている(正しい歩みのできない酩酊状態)」と指摘され、また11節「封じられた書物の中の言葉のように(神さまという最善の手段があるのに意味が分からず無駄にしている)」と神さまは嘆きます。今朝、ご一緒に注目したいのは13節「彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚えこんだからだ」という言葉です。神さまはイスラエルの信仰が、神さまと誠実に向き合って御心を模索するのではなく、「誰それ先生がこれを守れと教えられたから」とか「信仰とはこういうものだと倣ってきたから」と形式を反復するだけになっている、と指摘します。私はその言葉に自分たちを振り返らされます。私たちは物事を判断する時、神さまの御心を模索しようとしてきたでしょうか。そうでなかった自分を思い起こし、反省させられるのですが、直後14節で神さまは驚くべき提案をします。「それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。」神さまは「再び」「(驚くべき業を)重ねて」と語ります。民が神さまを蔑ろにしているのに、神さまはそれでも民を見放さず、もう一度(再度)、民と共にいて守り導こうと宣言される。それも「人には理解しがたいほどの御業を重ねて(連続させて)」です。私たちも自分たちの人生を振り返りますと、時に「あの時、不思議な仕方で難を逃れた」とか「あの時には全く理解できない苦しみと思ったのに、あの経験があったから今の私はある」との出来事があるのではないでしょうか。今朝、預言者が語った言葉は決して聖書の中だけの言葉ではありません。私たちにも起こってきた出来事です。神さまは今も私たちにそうやって関わり続けてくださっているのです。今朝は召天者記念礼拝、神さまを信じて生きた先達を思い返しながら、神さまを身近に感じましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はみことばに、自分たちのこれまでの歩みを振り返らされました。私たちは何度も何度もあなたの御心から離れ、己が思惑で生きてきました。でもあなたは私たちを見放すことなく、その度に御手を差し伸べ、御業を行ってくださいました。私たちは己を顧み、正しくあなたと向き合って生きる者となりたいと願います。どうぞ私たちを整えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(月) イザヤ書29章17-24節
一言メッセージ:今朝は昨日に続き、イスラエルが回復されていく預言です。「耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は…見えるようになる(18節)」や、苦しんでいた人々、貧しい人々が喜ぶ社会となり(19節)、「心の迷った者も」正しさを知り、「つぶやく者も正しく語ることを学ぶ」(24節)などは印象的な言葉です。ヘブライ語の「出来事(ダーバール)」は「(神の)ことば」とも訳されますが、今朝の箇所は正にそうで、神さまの救いの約束(みことば)は、今朝の箇所では具体的に困窮する人々に実現していく。神さまは弱い立場を強いられた人々に目を留め続けてくださっているのです。今日から新しい一週が始まります。追い詰められていると感じる時、神さまのみことばを思い起こし、神さまの出来事ダーバールを模索して歩みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは「ことば」と「出来事」がヘブライ語で同じダーバールであることを分かち合いました。それは私たちの生活の中で、神さまが与えてくださったみことばが、自分たちの人生に出来事として生じていること、その出来事に神さまの御業を見出していくことの示唆でした。今日から新たな一週が始まります。どうぞあなたのみことばに励まされ、出来事の実現を見出す一週としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(火) イザヤ書30章1-7節
一言メッセージ:今朝の箇所はアッシリアの圧力を回避しようと、エジプトと同盟を結ぶ南ユダ王国への嘆きのことばです。注目したいのは1節です。「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀をたてるが、わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが、わたしの霊によるのではない。」神さまは南ユダ王国が神さまの御心を模索せず、己が算段で策を練っていることに、神の意志が働いていないと告げます。神さまは1節の終わりに「こうして、罪に罪を重ねている」と語りました。先日、知らない方から「罪とは何か」とのお電話をいただきました。聖書の語る「罪」は「原罪」と「日々の罪」と大きく分かれますが、本質的には「神さまの御心に背くこと」です。人は神さまと違い、その視野は狭く、先を見通せないため、自分なりに「正しい」と思って決断した事柄が思っていた結果と違うことになったり、誰かに犠牲を強いることになったり、他の人の「正しさ」とぶつかって争いになったり…ということが多々あります。今朝の箇所の南ユダがそうで、自分たちなりに「正しい、最善」と思った決断が悪循環へと繋がってしまった。では、南ユダはどうすればよかったのか。それは、決断以前に神さまの御心を模索し、決断の度に自分の願望でなく、神さまの意志と信じる事柄を優先していくことです。神さまの御心を模索して決断することを神さまは喜びとしてくださり、御心に沿うならば大きな困難があろうとも実現へと導いてくださるし、もし私たちの決断が御心と違うならば、大胆に訂正されるでしょう。それこそ、昨日読んだ出来事(ダーバール)によって。大事なことは、先ず御心を模索すること、です。今日も神さまの御心を模索しながら一日をスタートしていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝は「罪」について考えました。私たちは限界だらけの人間ですから、「正しい」と思った決断もあなたの御心とかけ離れることもあります。だから私たちはこれから何かを決断する時、先ずあなたの御心を模索し、あなたの示唆と信じる選択を行います。御心ならば何があろうと実現させてください。御心に沿わない時は、どうぞ大胆に訂正ください。日々、あなたの導きの中で生かされているとの謙虚さを忘れず、あなたを身近に感じられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(水) イザヤ書30章8-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は大事なので、三日に分けて読みます。今朝の箇所も南ユダ王国がおこなったエジプトとの同盟に関する言葉です。8節に注目しましょう。神さまは「このことを彼らの前で板に書き、書に記せ」と命じます。過ちを隠すのでなく、過ちとして記録するように言うのです。それは「後の日のため」、過ちを繰り返さないため、です。私たちはここに歴史を学ぶことの意味を見出します。歴史とは過去に起こった過ちを受け止め、二度と同じ過ちを繰り返さないため、未来のために学ぶものです。ここ数年は特に歴史修正主義者と呼ばれる人たちが「戦中の日本軍は大虐殺を行っていない、従軍慰安婦はいなかった」などと騒いでいます。彼らは戦争の被害者的視点を強調しますが、歴史を正しく受け止めていません。戦争に一方的な正義など無く、敵も味方も戦場では常軌を逸した精神状態になります。だから、どれだけ正当化しようと、戦争は相手を人と思わない暴力や殺戮です。戦後、復員してきた元兵士たちの多くは戦時の異常な状況から解放された途端、良心の呵責に苦しみ続けたことはその証です。歴史を学ぶことは、過去の過ちを繰り返さず、一方でも正しい未来を見出すためのものです。神さまは南ユダに同じく告げます。「後の日のために、歴史を正しく記せ。永遠の証にせよ」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は歴史を学ぶことの意味を分かち合いました。歴史は二度と同じ過ちを繰り返さないため、未来のために学ぶものです。来週、安倍元総理の国葬が行われる予定ですが、神さま、人権を足蹴にしてきた政治を肯定することを認めないため、わたしは国葬に反対します。国民の過半数以上が国葬に反対しているからこそ、どうぞこの国が罪に罪を重ねないように、決断を正し、事の真実を糺すことができますように。正義の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(木) イザヤ書30章8-17節
一言メッセージ:8-17節の二日目です。今朝特に注目したいのは10-14節です。国の指導者は神さまの御心を模索する先見者に向かって「(神の御心を)見るな」と禁じ、神さまのみことばを告げる預言者に「預言するな」と命じます。代わって、自分たちに都合の良い耳障りの良い言葉を語るように強います。神さまは12-14節で、愚かな指導者の言動と国の歩みのために、ある時、突然、国が崩壊すると告げます。私はこの言葉が今の日本への警告に思えてなりません。私が政治に危機感を持つようになったのは2013年の特定秘密保護法からです。それまでは、どちらかと言うと政治に対して強い発言はしてきませんでした。でも、当時の安倍総理の動きは歴史好きの私から見て、戦前の軍国化と同じ方向性に見えました。いかなる言い訳を作ろうとも、指導者に都合の悪い内容を隠蔽し、国民の知る権利を侵害することには危うさしか感じませんでした。その時期によく思い出していたのが伊丹万作の「戦争責任者の問題」という文章です。1946年、病床の彼は先の戦争を振り返って記した文章です。彼は戦後、誰もが「自分たちは騙されていた」と被害者的な言い訳を繰り返すばかりで、「自分が戦争を進めてきた」と言う人間がいないことを指摘しています。「だまされた」という言葉は非常に都合よいのです。でも伊丹万作は「あえて言うが、日本人は皆、嘘をつかなかったか」と問います。「誰もが少なくとも表面的には戦争に賛同し、罰せられることを回避してきたじゃないか」と告げます。以下の言葉は非常に大事なので、彼の言葉のまま掲載します。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(伊丹万作の言葉はネットで全文が掲載されています。ぜひ検索してみてください。)
  ここ10年、日本が急激に歴史修正主義の方々が騒ぎ出し、右傾化してきた理由の1つは戦争を直接経験した世代が減ってきたことがあるでしょう。だとすると、これからますます私たちの国は過ちを繰り返す危険性が増してきます。そうさせないために、私たちは都合の良い言葉に逃げず、歴史を受け止め、声を上げる必要があると思うのです。神さまは告げています。「神の言葉を拒み、抑圧と不正に声をあげず、わが身を守ることだけを願うなら、崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は南ユダ王国の指導者たちが先見者や預言者を黙らせ、自分たちの都合の良い言葉で民をコントロールした結果、国が瞬く間に崩壊していくとの預言を読みました。その言葉に私たちは今の日本の現状を重ねます。二度と戦争させないために作られた憲法は、「政府のかつての行為(憲法前文)」を抑えるために国民に主権を託し、基本的人権を明記し、不断の努力を求めました。神さま、今わたしたちはその努力をする時です。どうぞ政府の暴走を認めず、過ちを繰り返さないために、みことばに立って声を上げる者であらせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(金) イザヤ書30章8-17節
一言メッセージ:今朝は8-17節を三日間で読むシリーズのラストです。今朝注目したい言葉は15節です。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」「静かにしている」「安らかに信頼している」とは、神さまの期待し、鎮まることです。私たちは追い詰められた時ほど焦ってしまい、神さまの御心を求めるよりも自分で決断しようとします。でも、焦った時ほど私たちの決断は不適切になりがちです。冷静さを失い、「こうなったらいい」という願望で算段したり、不必要の悲観的になったりする。感情に流されやすくなるのです。けれど、そんな私たちに対して神さまは今朝、「静かにせよ、安らかに信頼せよ」と促します。それは、「焦って選択する前に、心鎮め、祈れ」ということです。私は予期せぬ出来事に直面した時、「一旦心鎮め、祈る」ことを心がけています。急な決断をせねばならない時、一瞬目をつむり、「神さま!」と呼び掛けます。込める思いは「神さま、冷静さを与えてください。様々なケースを想定させ、考え得る最良の選択を選ばせてください」です。神さまに祈ることで、私は自分の知恵を超えて神さまが力を貸してくださると信じて安心しますし、だからこそ、悪い状況も含めて冷静に状況判断しようと頭が働きます。そして、どういう方針で動くか、そのために誰に協力を仰げばいいか、何から手をつければ混乱が少ないか、どこまで委ね、どこから自分で準備を担当するか、など考え始めます。一瞬の祈りが私に「決断を間違えても、神さまがちゃんと軌道修正してくださる」との心のゆとりを与えてくれるのです。今朝の箇所が語る「静かに、安らかに神さまに信頼する。そこにこそ力が湧く(意訳)」は真実の言葉なのです。皆さんも突然に決断せねばならない時、先ず「神さま!」と祈ってくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは「鎮まり、祈れ」と呼び掛けてくださいます。その促しは私たちに冷静さと安心と展望を与えてくれます。神さま、どうぞ、いついかなる時にも私たちに伴い導いてくださるあなたを信頼して歩む私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(土) イザヤ書30章18-26節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまがイスラエルを救ってくださる預言ですが、最初に気になる言葉は18節で繰り返される「それゆえ」です。昨日まで読んできた私たちには分かりますが、「それゆえ」が告げる状況はイスラエルがアッシリアによって蹂躙され、民衆が逃げまどう様です(16-17節)。民は生活も土地も全てを失いかけている。しかし、その時に神さまは「恵みを与えようと、憐みを与えようとして、立ち上がって」くださるのです。そして20節、人々はもはや神さまを見失うことは無くなる。21節では神さまがすぐ間近におられ、人々はその導きに沿って生きるようになる。22節では、それまで民衆が信仰していたご利益宗教の偶像は棄てられ、23節以下、民衆は神さまの祝福をいただいて安心して作物を育て、暮らしていくと描かれていきます。
私たち人間は自分たちの意志を持っていますから、神さまから離れて好き勝手に生活することも可能です。一方、神さまに従って誠実に生きることも可能です。不思議なもので、どちらも「幸せになりたい」との願いを持って生きているはずなのに、己が願望だけで生きる人は今朝の箇所のように滅亡へと向かっている。一方、一見すると神さまに従って生きることは自分の願望を棄てるように感じるかもしれないが、結果、本当の幸いを見いだす。何故でしょう。それは、神さまの意志が、そもそも私たちを祝福し、共に生かそうとしておられるから。だから神さまに従うことが幸いとなるのです。多くの人が「神に従うことは私の思いを棄てること」と誤解しているならば、私たちクリスチャンは「神さまに従うからこそ幸いなんだ」ともっと力強く証ししていきたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤは、追い詰められた民衆を顧み、自ら立ち上がって救ってくださる神さまを示しました。私たちはそのみことばの中に、私たちを祝福し、生かそうと願ってくださる神さまを見出します。私たちはその神さまをもっと大胆に伝えていかねばと思わされます。私たちの周囲の人々に言動を通して、「あなたを信じるからこそ幸いな人生があるのだ」と証させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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9月11日~17日のみことば - 2022.09.10 Sat

台風一過。朝晩は涼しさも感じるようになりましたね。
10日は中秋の名月ということで、少しずつ秋の訪れを感じるようになりました。

月と言えば、古代の神話などでは太陽と並んで神的な存在として捉えられることもしばしばあったようです。(インターネットで調べるとWikipediaにも「月神」という項目がありました)
では、聖書ではどんなふうに書いてあるのかというと…

聖書で初めて月が登場するのは有名な創世記の天地創造物語です。
1章14~16節にこうあります。

神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。

おもしろいことに、ここでは月のことをちゃんと「月」と呼ばないんですね。遠回しに「光る物」と呼んでいます。太陽も同じように「光る物」としていますね。
こんなまどろっこしい書き方をしているのにはちゃんと理由があります。
それは、当時神としてあがめられていた存在すら、唯一の神さまに作られたものであって、太陽や月そのものが神ではないということを強調するためにこのように書かれたといわれています。
わざわざそんな書き方するなんておもしろいですね。

教会において聖書は神様からのメッセージ。
でもそれだけでなく、細かい「なるほど!」を知るのもなかなか楽しいのです。
水曜・木曜の聖書の学びと祈り会では、こんな「なるほど!」や「これはどういう意味だろう…」をみんなで分かち合っています。クリスチャンであっても聖書を全部理解しているわけではありません。だからこそ、みんなであーでもないこーでもないといいながら学び合っていくのが楽しかったりするのです。
日曜日の礼拝はもちろん、水曜・木曜の会にもぜひ足を運んでみてくださいね。
少人数で和気あいあいと楽しい時間ですよ。
時間など詳細は左のリンクの中の「久留米教会ホームページ」から「集会案内」をご覧ください。

それでは、今週も皆さんの上に神様の守りがありますように!
今週のみことばをどうぞ!!

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11日(日) イザヤ書28章7-13節
一言メッセージ:今日は9.11ですね。今から11年前のこの日、世界は力と繁栄の象徴的な建物だったニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた二機の旅客機が突っ込む映像を目の当たりにし、言葉を失いました。あれから11年、世界はなお、平和とは程遠い現実を体験し続けています。この混乱と戦乱の中、今朝の箇所は何を示すのでしょう。今朝の箇所は昨日の続きです。北イスラエルが滅亡し、今度は南王国にもアッシリアの脅威が迫ってきました。ヒゼキヤ王はアッシリアに懐柔し、何とか国を保とうと画策します。そんな中、イザヤは祭司や預言者たちへの批判を展開します。イザヤの思いは、祭司や預言者は神さまの御心をこそ模索し、みことばをこそ語る存在であるのに、彼らは現実に翻弄されてフラフラしているだけで、酔いどれのようだと叱っています。彼らの語る言葉は「汚物(8節)」のようであり、言葉を話し始めた幼児が単語だけを連呼するように、「命令に命令、命令に命令。規則に規則、規則に規則」と中身の無い戯言を繰り返すだけにしか見えないのです(10節)。イザヤに言わせれば、神さまが語っておられたのは11節のように、「今、迷う人々に安息を与え、神こそが憩いと告げよ」と言われているのに、祭司たちは理解できないのです。数週前の宣教でも語りましたが、クリスチャントゥディという保守系キリスト教情報誌のコラムを担当する牧師(他教派)は、安倍元総理の国葬問題について「国が決めたことだから、国葬に従うのが主の御心」と、とんでもなく愚かな発言をしていました。クリスチャントゥディも出版当初、統一協会の幹部が発起人に名を連ねており、だから一時期は統一協会をキリスト教の一派と主張していた新聞でもあります。これも、「祭司や預言者が神さまの御心以前に、政治的に動き、神さまの御心を模索し、みことばを語るという本質からズレた現状」と言えましょう。私たちはイザヤの指摘を忘れてはなりません。御心を模索し、みことばに聞いて生きるからこそ、クリスチャンです。今日は日曜日。今朝も共に礼拝に集い、みことばに聞きましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはアッシリアの圧力に揺れ動き、神さまの御心とみことばという本質を見失う祭司たちを痛烈に批判しました。その言葉を読みながら、私たちも自分たちの在り方を再度、問われます。神さま、どうぞいつもあなたの御心とみことばに誠実な私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(月) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:この箇所は極めて大事な箇所なので、四日にわけて考えたいと思います。最初の今日考えたいのは「力に頼るから力に滅びる」ということです。今朝の箇所を時代背景になぞらえて考えますと、これは北イスラエル滅亡後、強まるアッシリアの圧力に対して、ヒゼキヤ王が南の大国エジプトに頼ることによってアッシリアに抗しようとした政策への痛烈な批判です。15節で指導者たちが「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない」と語っていますが、これがエジプトとの同盟を指しています。ヒゼキヤ王たちは大国エジプトの後ろ盾があるからアッシリアは攻め込まないと言いますが、イザヤは「愚かな政策をとるからこそ、かえって洪水(アッシリア)を引き寄せている」と言うのです。これは単なる信仰的なモノの見方だけでなく、この見解の現実的な正しさは歴史が証明しています。今年の「平和を覚える月間」のため学んだ事例の1つを紹介します。太平洋戦争時、沖縄の慶良間諸島は米軍が最初に上陸した地域です。この慶良間諸島の中の小さな島・前島の国民学校分校に戦中、比嘉さんという校長がおられた。日本の友軍が前島に基地を作ろうとした時、この比嘉校長が「基地ができるから攻撃される。前島には基地を作らないで」と何度も何度も嘆願したそうです。そのしつこさに怒った将校は「敵が攻めてきても前島は守ってやらん」と宣言し、島を離れたそうです。1945年3月23日、米軍が慶良間諸島に上陸します。米軍は事前の調査で前島に基地がないと確認していたので、他の島に上陸しました。お隣の渡嘉敷島では米軍が上陸し、戦死者の他、330名の集団自決による住民の被害が生じました。今年7/19に亡くなった金城重明先生は当時16歳、渡嘉敷島にいて、「敵兵の手に堕ちて辱めを受けさせないために」とお兄さんと共にご両親、弟妹さんを殺めた被害者の一人でした。イザヤが語る「力を持つからこそ力によって滅ぼされる。武器を棄て、生きよ」との呼びかけは極めて確かな事柄なのです。残りの事例は明日以降、またご紹介しますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイザヤは、神を信じるからこそ、大国という力に頼らずに、平和に生きることを告げています。それは決して夢想ではありません。それは歴史が証明します。神さま、どうぞ世界が、武器を捨てて、互いに理解と共存を持って平和を実現できることに気づきますように。私たちにも、その一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(火) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:昨日はイザヤの言葉から「力を求めるからこそ力によって滅びる。力を棄てるからこそ平和を実現できる」と、慶良間諸島の例から分かち合いました。今朝は同じことを、南米のコスタリカを例に考えてみたいと思います。この夏に読んだ本の1冊が足立力也さんの『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカ60年の平和戦略~』(扶桑社新書)です。「アメリカの裏庭」と呼ばれ、北米と南米を繋ぐ中米の1つコスタリカは、世界で日本と共に、憲法に軍隊放棄を明文化した国です。第二次大戦後、中南米はアメリカも絡み、様々な紛争が後を絶たない地域ですが、コスタリカはアメリカを支持する政治スタンスを保ちながら、「軍隊を持たない、戦争をしない」ことを戦争の抑止力としています。日本と似ていますが、日本は米軍基地を提供したり、「思いやり予算」があり、小泉政権以降は「軍事そのものには参戦しない」と言いながらも自衛隊の海外派遣もしています。安倍政権時代には解釈だけで集団的自衛権の行使容認まで閣議決定で決めました(ちなみに、閣議決定はあくまでも内閣の方針決定でしかなく、議会の決定の上位に立つことなどできません。これを無理やり押し通し、議会制民主主義を蔑ろにしたのが安倍政権でした。強行採決を含め、民主主義を壊してきた彼が「国葬」になることの意味が分かりません。私は大反対です)。つまり、日本はアメリカにすり寄る仕方で「軍隊の放棄、戦争の拒否」を主張していることになります。ではコスタリカはどうか。1987年にオスカル・アリアス・サンチェス大統領が「積極的永世非武装中立宣言」を出します。「永世非武装中立」は「永遠に、非武装で、中立でいます」ですが、「積極的」とは何か。それは「紛争が起こった時には積極的にその仲介に関わります」という意味です。その立派な根拠が「軍隊を持たない」という非武装であることです。非武装だからこそ、紛争国は安心してコスタリカに中立で和平を模索し、被害を最小限に減らすことができます。さらにコスタリカの賢さは「紛争国の民主主義や国民の自由、人権を守るため」という大義名分を掲げることです。その大義名分はアメリカが紛争に介入する際に使用しますから、コスタリカは「アメリカの目指す、平和で民主的な世界を実現するために紛争仲介に入る」と理由付けができるのです。アメリカも自分を支持するコスタリカの行動によって国際的な信頼も得ることになる。こうしてコスタリカは、「非武装」によって非常に賢く、自国の存在価値を高め、結果的に「あの国を攻めてはいけない」という抑止力を得ているのです。「軍を持たない、戦争しない」ことが平和につながる国際的な実例です。日本も小泉政権以前までは憲法を盾に、アメリカの紛争介入に付き合わない姿勢を貫いてこれました。だから日の丸は国際的な信用にもなっていたと言います。私たちの国、まだ憲法は変わっていません。まだ「非武装、戦争の拒否」による国際平和構築の貢献国になれるはずです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日はイザヤが示す「力を求めないからこその平和」について、コスタリカの例を分かち合いました。非武装だからこそ紛争国同士の仲介に入れて信頼をかち取れること、それが抑止力となってと学びながら、私たちの国も同じ可能性を感じます。神さま、私たちの国の憲法は今も世界にとって先進的な平和実現の可能性に満ちています。戦争する「普通」の国になり下がることなく、憲法を活かし、あなたの平和シャロームのために貢献できる国となれますように。平和の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(水) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:今日も「力を持たないからこそ平和を実現できる」ことを考えたいと思います。昨日はコスタリカの例をあげ、コスタリカが軍を棄てたからこそ、紛争国の仲介国として信頼度を高め、抑止力を得ていることを分かち合いました。今日は「では日本は何ができるのか」を考えたいと思います。私が思っているのは、自衛隊の働きの2つの特徴です。1つは「自衛」、1つは「災害救助」です。問題になっているのは「自衛」が拡大解釈されることです。集団的自衛権は「友好国が攻められている時には、自衛という理由で攻めている国を攻撃できる」という理解ですが、安倍政権は憲法そのものを変えず、閣議決定などという内閣のミーティングで憲法解釈を変えたと主張しました。私はコスタリカのように、「自衛」であっても、実質的な軍装備は棄てるべきと思いますが、その理解と実感を得るためにも時間は必要と思います。では、どう「軍を棄てても良い」という理解と実感を得るのか。そこで注目するのが「災害救助」です。日本国内だけでなく、国外の災害救助ならば、自衛隊の国外派遣を認め、現地での人命救助、復興のためにあらゆる支援を行っていただければと思うのです。自衛隊は憲法に則って非武装で現地入りし、活動にあたる。インフラ整備なども、中村哲さんのペシャワール会を模範にしながら、現地の技術や環境整備の内実を配慮し、河川の整備ならば筑後川の山田堰のように、電気の無かった時代の技術をもって整備を行う。そのための労働力は、被災された国の方々に雇用を提供するために募集し、同時に技術を伝えていく。それらの費用は一切、日本が賄う。この取り組みを20-30年行い続ける時、日本は国際的な信用を得るし、コスタリカ同様の抑止力を得るでしょう。その時に、日本は「自衛」のためにも軍装備は一切棄てるのです。夢物語のように思うかもしれませんが、実はこの論を同じように展開する方がおられます。伊藤真さんという弁護士で、弁護士たちを指導する伊藤塾の塾長です。彼もまた、自衛隊の在り方を見直すことによって、軍を棄てての抑止力を説いています。私は聖書の面白さを思います。未だ私たちが到達し得ていない理想的な世界の姿を、聖書は何千年も前に既に示しています。私たちはこれからも、神さまの示唆を実現するべく、歩み続けねばなりませんね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝もイザヤが示した「力を棄てて平和を得る」ことの可能性を、自衛隊の在り方から考えました。私たちの街・久留米は日本で唯一の陸上自衛隊の幹部候補生学校を有しています。街の中には関係者がいっぱいいます。神さま、彼らを政治の駒にして、殺したり殺されたりさせたくありません。憲法を適切に用いながら、あなたの示す平和シャロームを実現するべく、私たちに先ず憲法を守らせ、その可能性を多くの人と分かち合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(木) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:イザヤ書28章14-22節で4日目となりました。今日でこの箇所を終わらせます。4日前から分かち合ったのは「力に頼るから力に滅びる」「力を棄てて平和を実現する」でした。そのために、イザヤは南ユダの指導者たちに神の示す希望の約束を思い起こさせます。16節です。「主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石。固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』」具体的にそれが何かと言うと、イザヤ7.14で約束されていたインマヌエル(救い主誕生)預言です。神さまが、国の存亡をかけて怯え切っている指導者たちに対して、未来の希望を告げる。「わたしがあなたがたと共にいて、未来を与える」と約束される。その約束が、彼らが腰を据えて立ち上がるための土台石だと言うのです。南ユダの指導者たちは、対アッシリアの根拠をエジプトの支援に求めました。でもエジプトよりアッシリアの方が強いのです。彼らの根拠など、人の算段に過ぎない。神さまの約束こそが揺るがぬ土台です。イザヤはそう示しながら、17節でこう表現しました。「わたし(神さま)は正義を測り縄とし、恵みの業を分銅とする。」測り縄は、建物の壁がまっすぐ立っているかを測定する縄であり、その下には分銅がつけられ、垂直を測定しました。神さまは「正義(神さまの正しさ)」がこの国にまっすぐ立っているかと問い、「神さまの恵みの業」が分銅と語ります。分銅が軽すぎると縄は風でフラフラと揺れます。でも、しっかりとした分銅だと、風には揺らがず、真下に垂れます。つまり、この譬えは「あなたが私の約束である“恵みの業”の大きさをしっかりと意識しているのであれば、あなたは周囲の国々に動揺せず、神の正義にしっかりと立っていられる」と告げたのでした。神さまの約束をしっかり覚えるからこそ、右往左往せずに生きられる。それは、私たちの生き方への示唆でもありますね。今日も神さまをしっかりと見上げて歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたのお約束は時に私たちにとっては不確かに思えてしまい、心が不安に揺らぐこともあります。でも、あなたは「恵みの約束をしっかりと受け止め、揺るがず御心に沿ってまっすぐに生きなさい」と促されます。神さま、どうぞ先ず私たちにあなたのお約束の偉大さをしっかりと感じさせてください。あなたが日々、私たちに伴ってくださっていることを覚えさせてください。あなたへの信仰を強く保たせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(金) イザヤ書28章23-29節
一言メッセージ:今朝の箇所は親共同訳では「農夫の知恵」と表題がついていますが、岩波訳では「農作業の譬え」です。イザヤは農作業や放牧など、民衆の生活にとても共感する預言者だったようで、そういう譬が多いです。今朝の箇所は、神さまの語り掛けが相手によって違うことを農作業で譬えています。24-25節は畑の耕し方、植え方の違いを語ります。一弘さんにお尋ねするのが最適でしょうが、農作業する時、土地を耕した後、ごぼうなどは水はけをよくするために高い畝を作りますし、じゃがいもは低い畝にして後に盛り土するものもあります。きゅうりやトマト、なすなどは毎年同じ土地で育てると連作障害が生じるので輪作する必要のある作物です。イザヤは農夫が作物によって育て方を変えるように、神さまも民を救うためにその言葉や行動に違いがある、と語る。私たちはこのことを我が事と考えねばなりません。神さまとしっかり結び合って満足していない人は、すぐに他人と自分を比較しては「わたしよりあの人の方が配慮されている」とか「評価されている」と一喜一憂します。「私よりあの人の方が好かれているからだ」と、好き嫌いで物事を結論付け、正論のように「平等」を主張します。でも、神さまは一人ひとりに違い、得手不得手、個性を把握し、その人に最適な関わり方をされる。だから、全てを周囲と同じく与えるものではない。私たちは比較に捉われて「平等」という言葉で安心を得ようとするよりも、「神さまが私たち一人ひとりの個性や得手不得手を把握されたうえで、わたしたちの違いを生じさせ、協力し合って共に生きるべく、私には私に必要な仕方で関わってくださっているのだ」と受け取ればいい。自分の不平不満に捉われるだけでなく、祝福されているところを喜び、生かしながら他者と生きる道を模索する。それが「共に生きる」です。イザヤはこう語ります。「主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる。」神さまに感謝し、期待し、今日もスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイザヤは「農夫が野菜ごとに育て方が変えるように、神さまも私たち一人ひとりに、民族や国に対して関わり方が変わる。しかし、それはそれぞれの作物を最上に育てるように、私たちを救うため」と示唆します。神さま、私たちはあなたの祝福をしっかりと感じられない時ほど、他者と自分を比較しては「不平等だ」と騒ぎがちです。どうか先ず、あなたの祝福をしっかり感じ、他者との違いを共に生きるための示唆だと受け取る者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(土) イザヤ書29章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はエルサレムがアッシリアによって攻められるが、神さまによって救われる、という預言です。「アリエル」はイザヤがエルサレムを指して使う独特な表現で、元来は2節にあるように、神殿の祭壇にあって献げ物を燃やす炉のことでした。イザヤは神さまへの誠実な信仰が弱まり、強国エジプトに阿ってアッシリアに抗しようとする国の指導者や祭司たちを「形式だけの祭壇の炉」と批判するように「アリエル」と語っています。彼らはアッシリアに攻められ攻城戦に突入するが、8節のように全く予期せぬ仕方で、攻城戦を脱していくことを語ります。それは神さまの救いの御業のゆえだとイザヤは語るのです。今朝の箇所を読みながら、私は自分たちの信仰を顧みたいと思うのです。私たちは神さまへの信仰を形式的に「こなす」ことはないでしょうか。私たちが周囲に話しかけた際「はいはい、わかったわかった」と軽くあしらわれたら腹を立てるように、神さまもまた形式的に「こなす」ように祈られたら悲しい。でも、神さまはそんな私たちをそれでも愛し、そっぽむくどころか、真正面から向き合おうとしてくださいます。私たちもそんな神さまと向き合うように誠実に生きる者でありたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはエルサレムが神さまを蔑ろにしていることを指摘しつつ、それでも神さまはアッシリアの脅威から救ってくださると預言しました。その言葉に私たちは、自分たちの姿を反省します。もし私たちがあなたへの信仰を形式的な「こなす」行動にしてしまっていたら、心から悔い改めます。言い訳でなく、真摯な姿勢であなたと向き合います。どうぞ私たちの歩みを祝福し、いつも伴ってくださっていることを強く確信させてくださいますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

***







9月4日~10日のみことば - 2022.09.03 Sat

9月に入りました。
すこーし過ごしやすくなったかなと思ったら、台風接近中!
なかなか天候が落ち着かない中ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

コロナ感染者も少しずつではありますが、ピークアウトしてきたかな?という感じもしますが、とはいえまだ第7波の渦中ですね。
引き続き、皆さんの健康が守られますようにお祈りします。
教会は対策を取りながら毎週の礼拝を守り続けています。もちろん音声配信や、YouTubeでのメッセージ配信も行っていますから、皆さんどうぞ視聴してみてくださいね。

今週も皆さんの上に神様の守りがありますように!
God bless you!!

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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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4日(日) イザヤ書26章12-15節
一言メッセージ:7-19節を3日かけて読むうちの2日目です。今朝は12-15を中心に読みます。預言者は「主よ、平和をわたしたちにお授けください」と訴えます。彼らには13節にあるように、支配者がいるからです。その力は強大なようですが、預言者は13節後半「しかし、わたしたちはあなたの御名だけを唱えます」と訴えます。なぜなら12節、「わたしたちのすべての業を成し遂げてくださる(人生を最善に導く)のはあなたです」と信じるからです。今朝の箇所において分かち合いたいことですが、詩人は「支配者がいかに力を奮おうとも所詮は人間に過ぎない。その力は神に及びえない」と確信するがゆえに、「支配者に屈しない」と主張しています。支配者がどれほど強い力を持っていようと、14節「(支配者には)死者を生き返らせることなどできない」のです。でも、神はそれをなさる。この指摘は私たちにとって大事なヒントです。私たちは目に映る事柄に翻弄されやすく、今の自分の状況が全てかのように誤解を持ちやすい。今直面している事柄も一時的なことでしかなく、神の導きの中で困難も祝福に変えられていくのです。神さまにこそ未来はある。私たちも、神さまを意識し続けながら今日をスタートしましょう。今日は日曜日、礼拝の時です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者は「支配者がいかに強くとも、神に及ばない」と呼び掛け、あなたへの期待を祈り続けます。その姿勢に、私たちにも模範です。神さま、私たちにも、目に見えずとも共にいてくださるあなたを意識し続ける冷静さと、あなたに期待し続ける信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(月) イザヤ書26章16-19節
一言メッセージ:3日かけて7-19節を読む企画のラスト16-19節です。この箇所での預言者の神さまへの信頼の強さは凄まじいです。預言者は自分や周囲の力では対応できないほどの苦難の中で自分を含め、人間がどう反応するかを冷静に振り返ります。最初に苦難を経験すると、人々は「神さま!助けて」と叫ぶけれど、その実、まじないなどを含めて、手あたり次第に様々な信心に走ってでも助かろうとします。でも、それは18節で「風を産むような、産みの苦しみ」です。私は言葉を2つの側面で読みます。①「風を産む」というのは捉えどころのない、空しい行動を意味します。だから18節続きでは「救い(結果)を国にもたらすこともできず」と語ります。しかし②「産みの苦しみ」は命を生み出すための苦しみです。ここに預言者の2つのメッセージが読み取れます。「やみくもに助けを求めて足掻いての結果であれば、無駄に過ぎない。しかし、神に正しく期待しての苦しみならば、その苦しみが聖霊(ヘブライ語では「風」の別訳が「聖霊」)、つまり神の御業へと繋がる」です。だからこそ19節で預言者は「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」と祈ります。預言者は「たとえ私が苦難の中で死ぬことになろうとも、神さま、あなたが私を復活させ、苦しみの先に大いなる祝福を与えてくださる」と期待し、信頼しているのです。19節4行目に「あなたの送られる露は光の露」とありますが、この「光の」は明らかに創世記1章の「光あれ」との神の創造のはじまりの言葉を意識しています。死の先にすら神さまへの期待、それが今朝の箇所なのです。私たちも神さまに深く期待して今日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者はあなたに期待して生きることを示しました。それは、死んでなお続く期待でした。神さま、私たちは預言者を通してあなたに期待することを再度教えられます。私たちは視野狭く、思慮浅く、目先の事柄に捉われがちですが、私たちの見えぬ未来をも知り尽くし、私たちの思いもよらぬほど深く全てを把握なさるあなたに期待します。どうぞ御心を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(火) イザヤ書26章20節-27章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は「主の審判」、神さまの裁きの預言です。滅ぼされていく「レビヤタン、竜」は具体的には南ユダ王国を滅びし、捕囚を経験させたバビロンを指しており、この箇所はバビロンの滅亡預言と考えられています。バビロンの捕囚に際して神さまはイスラエルの民に、「わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで」と促します。「隠れていなさい」との促しは、同時に「何が起ころうとしているのか、全神経をとがらせて見極めなさい」との命令でもあります。昨日の箇所には人間の力ではどうにも対応できないほどの苦難が書かれていましたが、それはイスラエルにとっては正にバビロンのような大国によって滅ぼされていく様子でもあります。でも神さまは、祖国を滅ぼしたバビロンさえ神の前に滅びていくと預言し、だからこそ「私が何を行うかをしっかり見極めよ」と命じるのです。私たちは日々の生活の中で起こる出来事や政治や世界のニュースに自分たちの無力さを思います。でも、その時に今朝の箇所を思い起こしたいのです。「神さまはこの出来事の中で何を思い、どう行動されるのだろうか」と。御心を思いながら日々を生きる。その時、私たちは苦難の中に未来を、悲しみの中に慰めを、絶望の中に希望を、その一端でも見出すことができるでしょう。万能の主なる神さまがすべてをご存じで、この先を導かれるから。私たちは鎮まって御業を見定めることも必要なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、預言者はバビロンの捕囚を預言しました。あなたが「わが民よ、戸を堅く閉ざせ。しばらくの間隠れよ」と言われたことは、あなたの御業がどう行われようとするのかを見定めるためでした。あなたは世の理不尽を放置する方でなく、あなたの時、あなたの仕方で必ず応える方だからです。神さま、あなたの御心と御業に期待します。どうぞあなたの御心、平和シャロームを実現してください。かつて、バビロンが滅び、民が解放されたように、今この世界においても。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(水) イザヤ書27章2-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は南ユダ王国滅亡後の回復預言です。神さまはイスラエルを「ぶどう畑」に譬えます。思い起こしたいのは、神さまは既にイザヤ5.1-6でイスラエルをぶどう畑に譬えました。その時には「豊かな実りを生じさせないぶどう畑を荒れ果てさせる」預言でしたが、今回は神さまが畑を回復させるというのです。神さまは、己が欲のためにご利益宗教や強国の間を奔走して生き残ろうとしたイスラエルを憐み、回復させると預言されるのです。注目したいのは5節で、神さまが「わたしを砦と頼む者はわたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい」と呼び掛けている箇所です。二度の「わたしと和解するがよい」は強調を意味します。「和解」と訳されたヘブライ語は「シャローム」です。別訳は「平和」、「神さまから与えられた命と尊厳を喜び、かつての敵であった人々も、互いに暴力を棄て、違いを認め、協力し、共に生きる状態」です。ここでも神さまは、罪人さえも、神さまに悔い改めて戻ってくるように、全ての人が正しい生き方を取り戻せるようにと呼びかける。その時には9節のように、それまで人々を惑わせていた欲は捨てられていくのです。歴史を見ますと、戦争の根っこにある原因は常に「人の欲」です。抑圧された人々の憤りが爆発するような戦争も、憤りを生じさせる原因には支配者の欲があります。1931年の日中戦争から1945年の太平洋戦争までを振り返りましても、「大東亜共栄圏」と平和を言い訳にしながらも、根っこは資源の足らぬ日本がアジア諸国の資源を手中にしようとした欲でした。神さまの平和シャローム実現には、人間が「私が、私だけでも」との欲と向き合うことが必要です。神さまは悔い改める人々を今も受け入れ、共に生きる平和シャロームを示してくださるのですから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はみことばを通して、どれだけ美辞麗句を並べても、戦争の根っこには「欲」があること、しかしあなたはそんな「欲」を棄て、全ての人が等しく生きられる平和シャロームを実現するべく今日も私たちをご自身に招いてくださっていることを読みました。神さま、どうぞ世界に平和シャロームを実現してください。特に今も続くウクライナの惨事が、ミャンマーやウイグルなどの圧政による暴挙が一刻も早く止まりますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(木) イザヤ書27章10-11節
一言メッセージ:今朝の箇所はものすごく難しい箇所です。というのも、ここでいう「荒地となった都」がバビロンに滅ぼされたエルサレムなのか、バビロンなのか、その他を指すのか、分からないのです。この箇所は後代の付加で、前後の繋がりが分かりません。だから今朝は「なぜ、イザヤ書のここに、この言葉があるのか、意味が分かりません」と言うしかないです。それでもあえて言うなれば、この言葉を付加した編集者は「昨日の箇所で、神さまは『わたしと和解するがよい』と繰り返し、平和シャロームで生き直すチャンスを与えてくださっているのに、それでも目先の生活にだけ捉われている人たちがいる」と嘆いたのかもしれません。私も時々思うのですが、悔い改めるに時あり、信じるに時あり、です。「今、神さまはあなたを招いてらっしゃるだろうに」と思うのに、信じるための勇気を出さず、機を逃す方々を見るなかで、何度も「もったいない」と思ってきました。極端な言い方ですが、信じることによってあなたの人生が大きく損なわれることはありません。一時的に周囲の誤解はあっても、全ては神さまの御心の中で整えられていく。だから、信じるに大事なことは、神さまに期待することです。私たちもそうだった。信じることの損得よりも「信じたい」で信じました。もし皆さんの周りに、神さまから招きを受けていると思われる方があれば、どうぞ後押ししてあげてください。教会にお連れください。信じるに時あり、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は編集者が「神さまの和解(シャローム)を受け入れればいいのに」と歯がゆい思いをしていただろうと想像しました。私たちも同じです。神さま、私たちの周りにもあなたを信じてほしいと祈り続ける仲間たちがいます。どうぞ信じる機会と勇気を明確にお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(金) イザヤ書27章12-13節
一言メッセージ:今朝の箇所は24-27章の神さまによる世界の審判と救いの預言のまとめの箇所です。一昨日の箇所の続きとして読むと分かりやすい。一昨日の箇所では、神さまが「わたしを砦と頼む者はわたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい(27.5)」と語り、人々が神さまと向き合って、かつての敵味方を乗り越えて共に生きていくシャロームが呼び掛けられていました。その続きとして今朝の箇所を読みますと、目を惹かれるのは12節の「あなたたちは、一人ひとり拾い集められる」です。大国に翻弄され、ユーフラテスの流れ(バビロンに連行された民)も、エジプトの大河(エジプトに頼って逃亡した民)も、そして、その地でさらにちりぢりにされた民も、神さまによって「ひとりひとり拾い集められる」と語られます。私は、以前、友人の畑に遊びにいった時、小麦の落穂ひろいをさせてもらったことがあります。今の収穫は機械でいっせいに刈り取りますが、穂先がまとめて落ちているものもあれば、外れた粒だけもあります。それを全て拾い集めるのは面倒です。でも神さまは、散らされた民を「ひとりひとり拾い集める」と語る。神さまが一人ひとりの命を愛してくださるからです。神さまの愛を見出すからこそ、昨日同様に私は言います。神さまの招き、信じる機会を逃さないで欲しい。信じる時は「よし」と信じたらいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは居場所を失い、逃げまどい、世界に散らされた人々をすら、ひとりひとり自ら探し出し、救ってくださるお方です。その救いの招きは今も世界にて行われています、神さま、日々、世界で、私たちの身近なところで人々があなたを信じて救われますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(土)イザヤ書28章1-6節
一言メッセージ:イザヤの28-31章は彼の活動後期の預言が集められた箇所と言われます。それは、北イスラエルがアッシリアによって滅亡する時期以降の、北と南のイスラエルの話です。今朝は「サマリアの陥落」が記されます。イザヤはサマリア(北王国)を「酔いどれ」と表現します。これは、実際に酔っ払っているのでなく、人が酩酊すると足取りがフラフラするように、アッシリアの脅威に対して腰が据わらず、フラフラしている北王国を叱責する表現です。少し懐かしい話ですが、サマリアはアッシリアの脅威に対して、近隣のアラムやペリシテと反アッシリア同盟を結び、対抗します。しかしアッシリアに敗れると、北王国内では反アッシリア派の王ペカを暗殺し、親アッシリア派のホシェアが王位につきます。しかしホシェアも度重なるアッシリアからの圧力に耐えかね、エジプトの支援を受けて反抗し、結果的に怒ったアッシリアに滅ぼされるのです。こういうフラフラの状況は、「中立を保ち、神の御心によって独立を保て」と呼び掛けたイザヤにとって「酔いどれ」に見えたのでした。イザヤの呼びかけに私たちは冷静に自分たちを顧みます。困難な局面において、私たちは神さまでなく、自分たちの算段で物事を決断しようとすることがないだろうか。そのだとすると、その時の私たちは心のどこかで「神さまに頼ることは無駄。神さまは無力。神さまの御業は遅い」と考えていないだろうか。イザヤはそんな私たちに真っ向から「違う」と示し、2節以降「主は強く激しい力を持っておられる」と明言します。ただ、人間の思惑どおりでないだけです。ここで私たちに求められるのは、不安を超えてさらに信じることです。私の大好きなフレーズですが、文語訳聖書の詩編46.10にこうあります。「汝ら、鎮まりて、我の神たると知れ。」私たちは誰が神さまであるか、誰が本当に頼る方であるか、改めて思い起こしたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からイザヤの後期預言に入りました。北王国の滅亡と、その光景を間近に見た南王国の動揺の中、イザヤが語る言葉は、私たちに今をいかに生きるかを示します。どうぞ引き続き、私たちにみことばと確かな示唆をくださいますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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