FC2ブログ
topimage

2020-06

5月31日~6月6日のみことば - 2020.06.01 Mon

昨日の礼拝から、久留米教会でも礼拝に皆で集うことを再開しました。
対策をしつつ、プログラムはまだ簡略化したものですが、久しぶりに多くの方と集って礼拝できる喜びを体験したました。
現代では様々な技術が発達し、ZoomやLINE、Skypeなどでテレビ電話をしたり、私たちの教会でもYoutubeを使って礼拝のライブ配信をしたりと試行錯誤しました(今後も当面は続けていく予定です)。これらは本当に便利ですし、感染拡大を防止するためにとても有用です。でも、やっぱり直接同じところに集ったり、直接顔と顔とを合わせて会うことは何物にも代えがたいものだと実感します。
何の心配もなく、以前と同じように礼拝をするには今しばらく時間がかかると思いますが、改めて新型コロナウイルス感染の終息を強く祈りたいと思います。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)



5月31日(日) 詩編43編1-12節
一言メッセージ:今朝の詩編43編は昨日の42編とセットの詩です。実際、5節は42編6節や42編12節と同じ呼びかけの言葉が繰り返されています。詩人は42編から続けて、神さまの救いを待ち望んでいます。
  さて、今朝注目したいのは1節の「あなたの裁きを待ち望みます」です。私たちは「裁き」と聞きますと、何か自分の罪や過ちが罰せられる、恐ろしい判決というイメージが最初に出てきます。でも、神さまの裁きは私たちを罰するための裁きではありません。宗教改革者のマルティン・ルターは「御言葉は私たちを救うために裁き、生かすために殺す」と語りました(この「殺す、生かす」は、洗礼を受ける際に古い自分が死に、イエスさまによって新しい自分とされると理解ください)。正に私たちを救うためにこそ神さまの裁きはあるのです。詩人はそのことを知っていました。だから1節で「あなたの裁きを望みます」と願い、2節で自分に罪があるかもしれないことを理解しながら、4節でなお「神の祭壇にわたしは近づく」と歌う。詩人が見据えているのは神さまの救いなのです。
  今朝はペンテコステです。イエスさまの直弟子たちは、ゲッセマネでイエスさまが逮捕された時、蜘蛛の子散らしたように逃げました。イエスさまが十字架で亡くなっていく時、彼らは姿すら見せませんでした。怯えて隠れていたからです。彼らは自分たちの弱さ、イエスさまを見捨てた罪悪感、でも心底震え上がるような恐怖に苦しんだことでしょう。イエスさまはそんな弟子たちに再度出会い、使命を託し、聖霊を与え、御自分の働きのために用いてくださったのです。だから安心しましょう。神さまは私たちを見捨てるために裁くのでなく、救うために裁いてくださるお方です。義しい目で私たちを理解くださいます。私たちも神さまの祭壇に大胆に近づきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは詩編43編を通して、あなたが私たちを救うために裁かれる方であると分かち合いました。神さま、私たちはきっとあなたの目に罪だらけですし、自覚する以上にあなたの目には「あちゃぁ…」と言われる存在と思います。けれど、そんな私たちをあなたは赦し、救ってくださいました。あなたの独り子イエスさますら惜しまれませんでした。私たちはその理由を「愛」という言葉以外に表現できません。あなたの深い愛に心から感謝します。神さま、私たちもあなたの裁きを望みます。そして大胆にあなたに近づきます。どうぞ、私たちにあなたの愛と導きを増し加えて実現してください。ペンテコステがあなたによって私が新たにされる時となりますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

6月1日(月) 詩編44編1-27節
一言メッセージ:詩編44編は一読しますと気が重くなります。というのも、「あれ?神さまは詩人を救ってくださっていないじゃない」と感じるからです(週の初め、月の始めなのに、この詩を選んですいませんm(_ _)m)。詩人は未だ救われておらず、神さまに「なんで?どうして?」と叫んでいるのです。
  私たちも自分たちを振り返りますと、「何で?どうして?」と訴えたい出来事があるし、自分の過ちを自覚した上で「もう許してくれたっていいじゃない」と訴えたくなるような出来事があるものです。でも今朝の詩は私たちに「それでも神さまを信じ、願い続けなさい」と教えています。神さまの救いは私たちの願望どおりのタイミングでなく、神さまのご判断に基づいて実現するのです。
  以前、友人の牧師から彼の牧会する教会の教会組織(伝道所から教会へと成長すること)の話を聞きました。その教会は長い年月、人数も増えず、「もう教会組織はダメなんじゃないか」と大半の人が諦めていたそうです。加えて、教会の古いメンバーには1つの後悔があったそうです。それは、数代前の牧師の時のことです。牧師が熱心に教会組織を目指し、皆に「一緒に学びましょう」と励ましていたそうですが、教会のメンバーは「できたらいいかもね」と半分冷めていたそうです。そんなある日曜日、その地域はとても冷え込みました。教会の方々は「行くのが大変だし、今日は礼拝を休もう」と考えました。後で分かったことに、その日の礼拝には牧師家族以外、誰も来なかったそうです。牧師は落胆し、その年に辞任して教会を去ったそうです。教会の方々はとても後悔し、神さまに祈り続けます。けれど、それから数十年、教会組織の機運とチャンスは与えられませんでした。皆が老齢となり「もう無理だ」と諦めていた時期、友人が牧師として着任しました。そして地道な学びが始まります。決して焦らず、皆で神さまについて、教会について、自分たちの街について語り合い、その中で自分たちの後悔を口にすることや、その後悔を含めて神さまが導いてくださることを再確認していったそうです。その教会は数年の学びの後に教会組織が実現したそうです。教会の方々は言ったそうです。「この教会組織は自分たちの努力でなく、ただ神さまの御業をいただいたのだ」と。
  神さまの御業は神さまのタイミングで実現します。私たちは「どうして?なぜ?」と思うこともあります。でも祈り続けながら、その時を待つのです。詩編44編の詩人と同じように何度も何度でも祈り続けましょう。
祈り:天のお父さま、週の始まりに、私たちは詩編44編を読みました。もう少し希望に満ちた御言葉がいただければと願いましたが、今朝も大事な示唆をいただきました。神さま、私たちはあなたの導きをいただきたいです。だって、私たちは心ブレやすい存在だから。神さま、どうか今週も私たちを掴んで離さないようにお導きください。それぞれの課題もどうぞ覚えてくださり、必要な時に必要な救いをお与えください。あなたに期待します。本当に本当に期待しますからね(笑)。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

2日(火) 詩編45編1-18節
一言メッセージ:詩編45編は、理想的な王の姿を歌った詩編です。イスラエルの理解では、王は神さまに指名され、神さまの御業を行うべき存在です。だから、神が祝福した民を慈しみ、公正に国を治め、守る存在でした。あくまで、理想では、です。実際にイスラエルの歴史を見ますと、残念ながらそんな王はほとんど存在しませんでした。そもそも神さまは人の弱さをよくご存じですから、王制が始まる際に、王が民を支配するようになると指摘しています(サムエル記上8章を参照)。
  さて、私たちは今、この詩を読みながら何を思うのでしょう。私は日本の今の状況に本当に悲しい思いがします。5節の「輝きを帯びて進め、真実と謙虚と正義を駆って」の言葉を旧約聖書学者の月本昭雄氏は「真実の言葉を御せよ、虐げられた者を義(ただしい)となせ」と訳しています。理想的な王は真実を語る存在であり、社会の中で虐げられ弱る人々に正義を実現するように、と呼びかけられているのです。でも今の私たちの政治は真逆です。「自由と民主主義」を看板にしているのに、「利権と保身」に突っ走っているようにしか見えないのです。
じゃあ、私たちはここで諦めるのか。いいえ、今朝私たちは、私たちが目指す社会の姿を示されます。現代の社会が、詩編45編に近づくことを願い、祈るのです。「神さま、どうか為政者があなたの御心に基づいて社会を守る者へと作り変えてください。どうか、今、社会の中で追い詰められている方々に真の政治を実現してください」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは詩編45編から、理想の社会の姿を示されます。神さま、どうか今、この社会にあなたの御業を実現してください。今の政治はあまりにも弱い人々を切り捨てています。皆、あなたの祝福の中で生まれてきたはずなのに、社会が人の命の価値を勝手に規定しています。あなたはそんな社会を決して義とされないでしょう。特に新型コロナのために生活が困窮し、心身共に余裕を失う方々が増えています。どうぞ今、社会も為政者もあなたの御心を実現し、整えてください。そのために私たちにも御業の一端でも担えるならば、どうぞ用いてください。どうか私たちがこの新型コロナの経験を通して、社会を見直す時となりますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

3日(水) 詩編46編1-12節
一言メッセージ:詩編46編はエルサレムが敵国に包囲された時の様子を歌った詩と考えられています。最近、その日の詩編を他の訳を比べて読むと面白いことに気づかされます。
今朝もそうで、1節で新共同訳では「アラモト調」と書かれている言葉が岩波訳では「少女調」と書かれています。古代社会では女の子は12-14歳で結婚していたので「少女」をもう少し小さい10歳くらいの女の子のイメージで読んでみましょう。
  詩人は2節で「神は私たちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と語ります。これも岩波訳では「神はわれらのための逃れ場かつ守り、苦難のときのいと身近なたすけ」です。(ひげ面が文章を作っていることを忘れて(笑))少女調で読んでみましょう。「神さまはね、うちらを守ってくれるし、苦しい時にもとっても近くにいて助けてくれると。」そこまでの信頼を神さまにするからこそ、8節と12節で詩人は「万軍の主はわたしたちと共にいます」と繰り返します。自分たちが敵に包囲されて絶体絶命のはずなのに、「大丈夫。神さまは身近にいる、共にいてくださる」と歌っているのです。
  最後に11節の「力を捨てよ、知れ、わたしは神」も文語訳聖書で読んでみましょう。「汝ら鎮まりて、われの神たるを知れ」。どしんと胸の響きますね。そう、私たちの神さまはこの神さま以外に無い。社会や周囲がどれほど力を振るっているように見えても、私たちは神さまの前に平安をいただいて歩むのです。さぁ、週の半ば、私たちは今日も神さまが身近にいてくださることを覚えながら歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。46編は繰り返し読むと、いろいろなイメージが湧いてきます。あなたこそが私たちの神さまです。全知全能のお方でありながら、同時に、いつもとても身近にいてくださる方であることを感謝します。神さま、どうぞ今日も私たちをあなたの眼差しの中で守り導いてください。新型コロナも感染者が増えています。これ以上、感染が拡大しませんように。病の方、生活が追い詰められている方々にも、あなたの癒しと助けが与えられますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

4日(木) 詩編47編1-10節
一言メッセージ:詩編47編は詩人が「すべての民」に向かって、神さまへの賛美をよびかける詩です。神さまの救いが神さまを知らぬ民にも実現すること(10節「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民になる」)が語られているのです。人類の歴史を見ますと、不景気や病、自然災害で苦しい時期になると、「愛国心」を強調しながら所属の違う人々を攻撃する偏屈なナショナリズムが強くなります。ここ数年の不景気の中でヘイトの風潮が強まっていたり、新型コロナへの自粛要請などで一方的な正義を振りかざす「自粛警察」の存在もそうです。一方、47編はそういった他者を排除して自分たちの救いを喜ぶのでなく、「すべての民」が共に救われていくことを願い、賛美しているのです。
多くの方が坂本九さんの「幸せなら手をたたこう」を御存じだろうと思います。今朝の詩編はこの曲の歌詞の原型になった詩です。1954年に早稲田大学院生・木村利人さん(当時25歳。東京の霊南坂教会員)は、ボランティアとしてフィリピンの農村に行っていました。一生懸命に作業するのですが、現地の住民からは歓迎されません。戦争の時に日本軍がその地域で残虐な行為を行ったからであり、犠牲者の親族が大勢いたからです。木村さんは日本の戦争責任を痛感し、苦しみますが、同時に現地の村民の中でも葛藤を抱えながらも自分を受け入れようとしてくれる人々がいることに気づきます。木村さんはこの詩編47編を思い起こし、人間の罪と共に、でも全ての民が神さまの前で和解することもできると確信します。この経験が「幸せなら手をたたこう」の詞となったのだそうです。木村さんは「この歌には、現在の平和の喜び、楽しみを、お互いが態度で示していこう、二度と悲惨な戦争を起こさないという誓いが込められている」と語っています。
  私も今朝、この47編を読みながら、神さまの平和の実現を祈らされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編47編を通して、あなたの御前にて加害者も被害者も共に賛美できる、和解できるという幻をいただきました。私たち人間は一時の感情や風潮に流され、戦争のような、とんでもない罪を犯してしまいます。気づかない間に人の心身に深い傷を負わせることもあります。神さま、もしあなたがおられなければ、私たちは知らん顔してやり過ごすとか、完全に仲たがいして関わりを絶つようなだけで、その過ちからやり直すことは考えられなかったでしょう。でも47編は、あなたの御前に両者が共に集えること、その幻を示してくれます。神さま、どうぞあなたの平和を来たらせてください。過去の過ち、国の罪、今も残る傷から一歩でも二歩でも歩み出させてください。あなたの救いの幸いを態度で示させてください。平和の君なるイエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

5日(金) 詩編48編1-15節
一言メッセージ:詩編48編の詩人は神さまを「限りなく賛美される主」と語ります。神さまには「どれだけ賛美しても賛美し足りない」と歌うのです。5-8節では「地上の王たちがどれだけ威を誇ろうと、その王たちが裸足で逃げ出すほどに神さまは偉大」と、それほど偉大な神さまであるのに10節では「私たちは礼拝で神さまの慈しみを実感させていただく」と語るのです。
神さまを礼拝することは、私たちの喜びです。何故なら、神さまを知らずに生きるならば、私たちはきっと自分たちの力の限界の度に落胆し、あらゆる事柄に「もうダメだ」と諦め癖をつけて生きるようになるからです。長いものに巻かれ、強い存在に歯向かわないように生きた方が得だ、と考えるようになるからです。でも詩人は私たちに、「そんなの寂しい生き方でなく、神さまに目を向けなさい。無限の可能性と、無限の愛の方によって生かされるあなたでありなさい」と呼びかけてくれます。そう、神さまは無限の方なのです。15節にあるように「神は代々限りなく、死を超えてすらわたしたちを導いてくださる」お方です。
さぁ、今朝も祈って一日を始めましょう。神さまの導きの中で生きるものとされましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たちの限界を超え、無限の可能性と無限の愛に満ちたお方です。私たちはあなたの慈しみの中で生かされている存在です。神さまを知らぬ人々から見れば、それは自分の努力を放棄する弱い人間の生き方に見えるかもしれません。でも神さま、私たちは知っています。あなたを信じて生きることは、自分たちが精一杯努力した上で直面する限界があっても、その先を期待できる生き方です。どんな時、どんな状況においても、あなたの御業を待てる生き方です。神さま、そんな祝福をありがとうございます。同時に私たちは今、私たちの家族や友人たちにもこの祝福を味わってほしいと願っています。信じてもらえたらと祈っています。神さま、それこそあなたの慈しみにすがります。どうぞ、あなたを信じる信仰の友を新たに引き起こしてください。〇〇さん(あなたが祈る方の名前を入れて)をどうぞ救ってください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

6日(土) 詩編49編1-21編
一言メッセージ:今週も土曜日まで歩んで来ました。何だかがむしゃらに駆け抜けたようですが、ここでちょっと心落ち着けながら、49編5節の「謎」を考えてみましょう。その「謎」とは、私たち人間は限界だらけの弱い存在なのに(1-12節)、そんな私たちを主なる神さまが救ってくださる(14-20節)のは何故か、です。私には「神さまの愛ゆえ」という言葉以外に表現できません。今朝私たちは詩編49編から、神さまの深い愛を分かち合いたいのです。
  始まりの言葉を見ますと、49編は最初、「諸国の民、この世に住む者皆」という広い呼びかけで始まっています。それは不特定多数に向けられた言葉です。その後、人間に共通する「死」をテーマに人間の限界が語られていき、16節で「しかし神は…」と神さまについて言及されていきます。ここで面白いことは17節です。17節で詩人は突然「あなたは」と語ります。語り始めは「諸国の民」と不特定多数に向けられた呼びかけだったのに、突然「あなた」と、読者である私に向かって、「神さまはあなたに御手を伸ばしてくださる」と歌っているのです。神さまの御業が我が事になっているのです。
しかもこの御手の描写がすさまじく力強い。16節で「神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」とあります。古代社会において「陰府」は神さまの御業の及ばない所と考えられていましたが、神さまはそんな「陰府」にまで手を突っ込んで、私たちを贖ってくださるのです。これも原意をみますと「掴んで離さない」です。神さまは一旦私たちの手を離して諦めるのでなく、私たちの手を掴んで離さず、ぐいと引っ張り、私たちを救ってくださるのです。
  私たちはこの一週間も守られ、導かれて歩んでこられました。神さまが私たちをしっかりと握っていてくださったのでしょう。だから安心しましょう。大丈夫、私たちはちゃんと導かれる。もし、今、「わたしは神さまから離れている」と思う方があるなら、安心して帰ってきてください。神さまの手にひかれて帰ってくるあなたを教会は待ってますよ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編49編を読みながら、私たちは様々な示唆を受けます。詩人は「諸国の民よ」と大勢の人に語り始めました。私は「その他大勢の一人」かのように詩を読み始めました。でも突如、詩人は「あなたは」と、偉大な神さまが今わたしと向き合い、わたしに御手を差し伸べてくださっていることを教えてくれました。わたしは神さまの目に「その他大勢の一人」でなく、「大事なわたし」であることを覚え、感動します。神さま、あなたの御手で私を掴み、救ってください。明日の礼拝でまたあなたへの礼拝を喜び合えますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。


***

北九州市などでは、再び感染者が増えています。どうか、感染が食い止められますように。
感染した方が無事に回復しますように…。


スポンサーサイト



5月24日~30日のみことば - 2020.05.27 Wed

更新が遅くなってしましました。すみません。
今週も、一日一日みことばによって養われる1週間でありますように・・・。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


24日(日) 詩編36編1-13節
一言メッセージ:詩編36編はとても興味深い詩です。2節の「わたしの心」を誰の心と理解するかによって意味合いが変わるからです。このあたりはヘブライ語の解釈によるのですが、新共同訳では2節最後の文で「彼の前に、神への恐れはない」と語り、罪が第三者の心に語りかけてくる様を詩人が離れたところで理解している、と解釈しています。でも、私は36編を「詩人は、自分自身の心に罪が語り掛ける(誘惑される)様子を、客観的に見ている」と理解します。となると5節までに書かれている、悪事を重ねる「彼」は自分自身です。彼は自分の弱さを歌っているのです。
  この箇所を読みながら、「私たちも同じだなぁ」と思います。理想の私たちは「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する(テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節)」なのに、現実は「いつも不満、絶えず愚痴り、全てのことに『もっと、もっと』と欲張ってしまう」、神さまの御心より易きに流れる私たちがいるのです。
  でも詩人は、そんな私たちの救いがどこにあるかを語ります。それは神さまに従うこと、にあります。神さまの御業は「山々」のように雄大で、「人も獣も救われる(7節)」ほどに懐深いのです。そして神さまは親鳥が雛を「翼の陰」に守るように私たちを守り、栄養を与えるように私たちを養ってくださいます(9節)。私たちは自分の弱さや罪を知るからこそ、その分、そんな私たちをも救ってくださる神さまを心から誠実に信じられるのです。
今朝は日曜日、礼拝の日です。今日も会堂と各ご家庭をネットで繋ぎながら、共に神さまの前に集いましょう。今朝の宣教では、この新型コロナの自粛生活2ヵ月を過ごした私たちだから知った、神さまの守りと恵みを分かち合っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝も私たちに御言葉をくださり、ありがとうございます。今朝わたしたちは詩編36編と自分たちを重ねて読みました。神さま、私たちもまた弱い罪人であり、すぐに易きに流れ、あなたの御心から離れてしまう者です。でも今朝の御言葉は、そんな私たちでも神さまの御許に帰ることができること、あなたは私たちを慈しみ、傍らに引き寄せてくださるお方であると分かち合いました。神さま、あなたの深い愛に感謝いたします。どうか、私たちを顧みてください。今日は礼拝の日です。どうぞ、週の初めにふさわしく、あなたの力添えをいただける時となりますように。イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

25日(月) 詩編37編1-40節
一言メッセージ:今週の働きの始まり、月曜日です。先週から学校への登校も始まり、少しずつ生活が元のペースになろうとしています。2か月の自粛生活で我慢した分、仕事に精を出さねばと思っておられる方もいるかもしれません。そんな私たちは今朝詩編37編に大事な示唆をいただきます。
  37編は神さまに逆らう(御心に従わない)人がとても要領よく、得しているように語りますが、「でも苛立たず、神さまに誠実に生きていきなさい」と語ります。「苛立つな」は1節、7節、8節と続きますから、よっぽどいら立っていたのかもしれません。そんな37編の中で、私は2つの言葉に目が留まります。
  1つは3節の「信仰を糧とせよ」です。マタイ4章でイエスさまが誘惑にあった時に「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる言葉によって生きる」と語ったように、詩人もまた「信仰を私たちの人生の糧とせよ」と呼びかけます。もう1つは23節の「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」です。詩人はぴょ~んぴょ~んと何段飛びかで要領よく人生を駆け上がるのでなく、「一歩一歩」誠実に神さまに導かれることが最善と語ります。
  私はこの言葉に、神学部教授だったK先生が言われた言葉を思い出します。「日々の御言葉はお米みたいな食事です。ソフトクリームのように甘くて特別なお菓子ではないけれど、人はソフトクリームでは成長できません。大事なものは日々の食事。日々のみことばを大事にしなさい。」甘い物好きの先生らしい例えですが、それが礼拝であり、みことばメールだと思わされます。今朝の詩編37編でも詩人は語ります。「信仰を糧とし、一歩一歩誠実に神さまの導きを歩みなさい。」
  さぁ、5月最後の一週間もスタートです。私たちは今週、一日一日、一歩ずつ歩んでまいりましょう。その一歩は神さまの導きによる一歩です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の初めにあなたは「信仰を糧とし一歩一歩誠実に歩みなさい」と示してくださいました。神さま、あなたの示唆に感謝します。私たちはあなたに導きの中で歩みます。どうか、いつも、みことばを思い起こし、あなたの御心に従わせてください。きっとあなたの導きならば、私たちは豊かな祝福をいただいて歩むことができるでしょう。どうか週の終わりに、「神さまに導かれた、感謝!」と喜べる歩みとなりますように。一週間も導きに期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

26日(火) 詩編38編1-23節
一言メッセージ:今朝の38編はとても重たく響く詩です。というのも、詩人は「わたしは神さまによって苦しめられている」と嘆いているからです。ここには解説が必要でして、聖書の古代世界において病や悪い出来事は、自分か身近な人の罪の罰として神さまが与えたものとか、神さまが私を見放したから悪霊に憑りつかれてなるもの、といった理解が一般的なのです。だから、詩人は自分が苦しめられているのは「神さまからの罰か」と思っているのです。しかし、その一方で詩人は「じゃあ、わたしのどこが罪だったのです?」と神さまに問うのです。この問題についてはヨハネによる福音書9章1-3節でイエスさまがばっちりケリをつけてくださいました。「生まれつき目の見えない人の人生は誰かの罪の罰でなく神さまの御業がこれから実現するため」と因果応報を否定し、全ての人の人生に神さまの救いが実現し得ることを明らかにしてくださいました。
  話を戻しますが、38編で私が目に留まるのは16節「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます」です。詩人は苦しい現状の中で「きっと〇〇に違いない」勝手に結論付けるのでなく、「なお待ち望む」と語ります。「待つ」って時にしんどいですよね。人は「分からない」という不安が嫌だから、すぐに「〇〇にちがいない」と経験則で結論づけたがるものです。でも詩人は神さまを待ち続けるのです。
  人生は決して願い通りにいくものではありません。でも、私たちの信仰は「神さまは必ず御心を行われる」であり、「御心の中で私はちゃんと導かれ、救われる」です。何故なら、私たちは神の独り子イエス・キリストに贖われてまで救われた命なのですから。変な言い方ですが、今日は「問いながら、安心して導きを待つ」ように歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは詩編38編から、あなたを待ち望むことを学びました。人生はいつもいつも順風満帆なわけはなく、時に「何で?どうして?」と問いたくなる出来事もおこります。そんな時、これまでの私たちならばすぐに自分の経験や理解で結論付け、「〇〇に違いない」と断定していたことでしょう。でも神さま、私たちはあなたを待ち望みます。あなたが御業を行ってくださることに期待します。どうか御業を行ってください。できることなら、早めに行ってください。あなたの憐れみに期待し、救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

27日(水) 詩編39編1-14節
一言メッセージ:今朝は詩編39編です。この詩のキーワードは「沈黙」です。39編には3回「沈黙」という言葉が書かれていますが、興味深いことに、その意味合いが変化しています。
最初の3節の「沈黙」は2節にあるように、詩人が口を開き、要らんことを言って過ちを犯さないための「沈黙」でした。しかし詩人は段々と神さまに自分の境遇の不満を訴えたいと思い始めます。けれど、彼は神さまがちゃんと自分を救ってくださると期待し、10節で「口を開かない(沈黙する)」と語ります。ここにあるのは、神さまへの期待の「沈黙」ですが、同時に「神さまなんだかんだちゃんと救ってくださるんでしょうね」という権利主張が見え隠れしています。けれど、待てど暮らせど、期待通りの御業は実現しません。ここに至り、詩人は自分の沈黙でなく、神さまの「沈黙」を感じ始めます。彼は神さまの沈黙の中に何らかの意図があるのではないかと、考え始めるのです。そして、それまでの権利主張でなく、純粋に自らを「御もとに身を寄せる者(寄留者)、宿り人」と理解し始めます。そこに至り、詩人は「自分の都合どおりに神さまに助けてもらって当然」でなく、信仰の原点である「先祖と同じ(13節)」く、「私はただ神さまの御心によって救われていただけるのだ」という極めて純粋な信仰者へと変化していくのです。
中学生の頃、初めて小説家・遠藤周作の『沈黙』を読みました。衝撃を受けました。隠れキリシタンと司祭が踏絵を踏んで棄教する物語を通して、遠藤は「神の沈黙は、罪を重ねてしまう弱い私たちを責める意味ではなく、弱い私たちと共にその苦しみを経験くださるからこその沈黙」と描きました。当時の私にはいまいちピンと来なかったですが、年を重ねる度に、このイエスさまに私は惹かれています。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは詩編39編から「沈黙」について考えました。私たちの沈黙は己を顧みるためであったり、要らんことを言わないための用心だったりします。だって私たちはすぐに軽口で失敗を重ねてしまいますから。けれど神さま、あなたの沈黙はいったいどういう意図があるのでしょう。私たちが祈ってもなかなか願いどおりに応えてくださらないことに、時々不満も持ちます。でも、今日私たちは自分たちの願望を一旦脇に置き、あなたが沈黙を通して、今私たちに何を気づかせようとなさっておられるのか、私たちをどう導こうとされているのか、を考えます。どうぞ、あなたの御心をお示しください。イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

28日(木) 詩編40編2-5節(1-18節)
一言メッセージ:今朝は詩編40編の中で特に2-5節に注目しましょう。ここが40編全体の要約部分です。詩人は「主にのみ、望みをおいていた」と自分の姿勢を語り、それに対して「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」という応答を記します。この箇所の岩波訳(岩波書店が出している聖書。原文のニュアンスをなるべく忠実に表現するように訳している)はとても素敵です。「私は待ちに待ち望んだ、主を。すると彼(主)は、わが方に身を傾け、わが叫びを聞いた」です。私たちが神さまに願うだけでなく、神さまもまた私たちの呼びかけに身を乗り出して聞いてくださるのです。その時、詩人は4節「新しい歌」を歌います。「新しい歌」とは今の自分なりの賛美、誰かの言葉でなく自分の言葉での賛美です。5節で詩人は「主に信頼をおく人」を幸いといいます。「ラハブを信ずる者にくみせず」の「ラハブ」は神話上の怪物で力や権力の象徴です。詩人は、人の力や権力に縋りつかず神さまを「待ちに待ち望む」人が幸いと告げるのです。
  今、皆さんの願いはいったい何ですか?火曜日にも「待つってしんどい」と話しましたが、今日は神さまの御心を「待ちに待ち望む」ほどに祈ってみましょう。
祈り:神さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩編40編からあなたに「待ちに待ち望むように」祈ることを学びました。神さま、今、私は1つの願いを祈ります。どうぞ、あなたの平和を実現してください。新型コロナを終息させ、心身共に疲弊した民を回復させ、権力者の横暴を諫め、互いの命と尊厳を尊び合えるあなたの平和を実現してください。そのために私たちにできる働きがあるならば、その一端を担わせてください。どうか私たちにも「新しい歌」を賛美させてください。平和の君、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

29日(金) 詩編41編1-13節
一言メッセージ:41編の詩人は何か病のようです。「病は気から」と言いますが、病気の時には私たちの気持ちも一緒に落ち込みますが、この詩人は病のために、友人の見舞いすら「本心は私の不幸を喜んでいるに違いない」と疑っています。理由があるのか分かりませんが、それくらいに彼は不信感に苛まれています。でも、この詩を読みながら私たちは気づかされます。この詩人は友人を信じられないほどに弱りながらも、神さまへの信頼は失っていないのだと。
  何だか「いつくしみ深き」を思い起こします。「世の友我らを捨て去る時も祈りに応えて労わりたまわん」。イエスさまが私に伴っていてくださるとの信仰は、私たちを絶対的な孤独から引き離します。何故なら、イエスさまは私たちがどんなに弱る時にも「いつくしみ深き友」であってくださるからです。
  さて、ここからは少し想像力を働かせましょう。この詩人が病から回復した時、一体、何を思うのでしょうか。疑ってしまった友をなお不信感で見るのでしょうか。私はそうは思いません。「しまったなぁ」と反省し、もう一度、友としてやり直すために一歩踏み出すのだろうと思います。その時にも、私たちを後押ししてくれるのは「いつくしみ深き友なるイエス」さまなのです。
  さぁ、今日は一日、私たちに伴る友なるイエスさま(今日はこれが言いたかった(笑))を感じながら歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは41編を読んで一日をスタートします。この詩人は病の中で心身共に弱り、友すらも信じられなくなっています。でも、そんな不安の時にも主なるあなたが伴ってくださっていることは信じ続けました。神さま、私たちはその詩人の言葉に、私たちの友なるイエスさまのことを思い起こします。私たちと共にいてくださる救い主に感謝します。私たちも決して、いつもいつも元気であれるわけではありません。時に病になったり、くたびれたりして、弱気になること、不信感に苛まれることもあります。でも、どうかそんな時にもイエスさまへの信仰によって支えられ、回復され、もう一度立ち直れますようにお導きください。またこの詩を読みながら、病の友のことを思います。どうか、あなたの癒しの御手をもって、彼らのことを回復させてください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

30日(土) 詩編42編1-12節
一言メッセージ:今朝の詩編42編は交読文や賛美歌などでも用いられて、情景のイメージが湧く詩ですが、よりイメージを膨らませるためにイスラエルの地理の話をいたします。イスラエルは雨季と乾季がはっきり分かれている土地柄で、乾季には全く雨が降りません。だから、人々にとって雨が作物を芽吹かせる恵みでした(余談ですが、旧約聖書でバアルという神を信じる土着信仰が出てきますが、このバアルは雨を伴った嵐をイメージした神でした)。話を戻しますが、「涸れた谷」とは乾季に干上がった川底であり、「鹿が水を求める」とは生き物が水を求めてさまよっている光景です。詩人はその情景と自分を重ねながら、「私の魂は神さまに渇いている」と訴えます。
  聖書研究によりますと、この詩人は何らかの理由で神殿から追放され、礼拝する場を奪われているようです。だからこそ「私の魂は神さまを求めて渇く」と語ります。彼は5節で「多くの人々と礼拝できていた、あの頃を思い起こす」と訴えます。しかし、6節で彼は自分自身を励まし、「神さまこそが私の救い」と思い起こすのです。神さまを思い起こす時、彼は1つの情景をイメージします。7-8節です。「ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて。…砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く」とありますが、これは先ほどの乾季から雨季へと一転する様子です。イスラエルは春、暖かい空気が地中海からイスラエル北部のレバノン山、ヘルモン山に吹き付け、その雪解け水がキネレト湖(ガリラヤ湖)に流れ込みます。その水がヨルダン川を下って塩の海(死海)に流れます。さらに言いますと、この死海は海抜からマイナス430mと、大変低い土地です。だから、水は正に「砕け散る波」となって勢いよく駆け下るのです。詩人は乾季で水を求める鹿のように神さまへの礼拝を切望しますが、その願いはヨルダン川を激しい流れとなって駆け下る雪解け水のように私を満たすだろう、とイメージしているのです。地理を知ると、詩編がよりリアルに見えてきますね。あっ、ちなみに、私もイスラエルには行ったことがないので、全部、本の受け売りです(笑)。
ただ、今朝、私はこの詩を読みながら思うのです。礼拝を切望するのは私たちも同じだなぁって。新型コロナのため緊急体制となり2ヵ月、皆さんと一緒に礼拝ができていません。でも、神さまはきっと礼拝を共にする願いを波立つ雪解け水のように叶えてくださるでしょう。決して焦りは禁物です。私たちの礼拝も雪解けは近いはずです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は詩編42編を通して、あなたの救いは雪解け水のごとくに実現するとの期待をいただきました。詩人はあなたへの礼拝に参加することを切望していました。その想いは私たちも同じです。私たちも一日も早く、共に礼拝できることを願います。同時に、きっと私たちの知らぬところで同じようにみことばを欲し、礼拝に来てみたいと願っている方もおられることでしょう。神さま、どうぞ、その方々も共に礼拝に集わせてください。私たちはなお告白します、「あなたこそがわたしたちの救い」と。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

***

新型コロナウイルスの脅威が一日も早く収束しますように。



5月17日~23日のみことば - 2020.05.19 Tue

先週、福岡県を含めた39県の緊急事態宣言が解除されました。
お店や公共施設が対策をしながら少しずつ再開されていますが、これをきっかけに第2波、第3波が来るのではないかということも懸念されています。
久留米教会では今しばらく現状の対応をしつつ、様子を見ながら対応していきます。
しばらくの間は引き続きライブ配信などをしていきますので、ぜひお家から礼拝に参加してみてくださいね。
新型コロナウイルスの心配がなくなったころにはライブ配信で参加していてくださった皆さんと顔を合わせて礼拝できることも楽しみにしつつ、今しばらく忍耐の時を過ごします。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


17日(日) 詩編29編1-11節
一言メッセージ:詩編29編で私が特に大事と思うのは1-2節と11節です。何故かと言えば、そこにこの詩の結論があるからです。少し29編の詩人の状況を自分たちと重ねて考えてみましょう。
29編の詩人は先ず雷鳴の中で神さまと出会います(3節)。具体的に雷鳴が何を意味するか分かりませんが、何か自分の力で太刀打ちできないような苦難と考えてみてください。そんな苦難の中で、彼は自分の無力さを痛感し、一方で神さまの偉大さを知らされるのです(3-10節)。10節で「主は洪水の上に御座をおく」とありますが、「洪水」は神さまに反抗する大きな力というイメージです。人間を飲み込み、その命も生活も平穏も奪い去る洪水さえ、神さまは抑え込むのです。その神さまを知った時、詩人は1-2節で「神の子らよ、主に帰せよ。主にひれ伏せ」と語ります。自分たちの喜びも感謝も希望も、不安も葛藤も絶望も、すべてを神さまから考えるように、と勧めるのです。何故か。それは、神さまが偉大であり(3-10節)、そんな神さまが私たちを「神の子(1節)」としてくださるからです。だから私たちはそんな神さまに「ひれ伏す(礼拝する)」のです。
  今日は礼拝の日です。久留米教会ではあと2週、緊急対応の礼拝スタイルで、感染が沈静化するのかを様子見しますが、今日の礼拝で覚えていただきたいことは、全知全能の神さまが今も私たちに目を留めておられるということ、私たちは神さまの眼差しの中で生かされているということです。今朝の礼拝ライブ配信を通して、その喜びを一緒に分かち合いましょう。「どうか、主が私たち一人ひとりに力をお与えになるように。主が一人ひとりを祝福して平和をお与えになるように(11節)」と心から祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝、主の日をありがとうございます。今朝私たちは詩編29編のみことばをいただきました。私たちはこの詩編に自分たちの生活を重ねます。私たちは皆、それぞれに大小さまざまな課題を抱えながら生きています。でも神さま、私たちは私たちの人生の全てをあなたに委ね、あなたの御業を待ち望みます。何故なら、私たちこそが私たちの神であり、そんなあなたが私たちを「我が子」と呼んで愛してくださるからです。神さま、どうかあなたの祝福をください。新たな一週と向き合っていける御言葉と礼拝を与えてください。救い主イエスさまのお名前により、お祈りします。アーメン。

18日(月) 詩編30編1-13節
一言メッセージ:新しい週の働きを前に、詩編30編を読みます。この詩人は何かの病に苦しんでいます。彼は病の苦しみのために「あぁ、おれはもうダメだ。死んでしまうんだ」とどん底を感じています。3節の「陰府(よみ)」とは聖書の時代には「神さまの救いの及ばぬところ」と考えられていたからです。でも、ここで詩人は驚きます。まさかの「もうだめだ」状態から神さまが自分を癒し、救ってくださったからです。彼は気づきます。私たち人間は元気な時は「神さま、ありがとう」と言えるけど、一旦苦しむとなると途端に「恐怖に陥る」弱い存在だということを(7-8節。この人間臭さ、親近感が湧きますね)。でも、神さまはそんなどん底からでも私たちを救ってくださる。詩人はこの経験と確信により、「神さまがちゃんと導いてくださるから、勝手に自分で悲観的に結論づけるのでなく、神さまを賛美し、感謝して、委ねるように」と呼びかけてくれます。
とっても素敵なのは6節です。「ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」私はこの言葉をこう読みます。「私にとって嫌なことが起こっても、それは一時のこと。神さまは私たちを救いたいと今も願ってくださっている。大丈夫、昨夜、悩んで苦しんでいても、神さまは今日も朝を与えてくださった。今日も神さまの導きで始まる一日♪」さぁ、今日という日は神さまの整えてくださる新たな一日です。今日も元気に歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今週の働きが始まります。その始まりに詩編30編をありがとうございます。この詩人はとっても私たちそっくりでした。普段、「神さま、ありがとう」と賛美していても、何か不安な事柄が起こった途端、「神さま、なんでこんなつらい目に遭わせるの?私のことが嫌い?」と大騒ぎしてしまいます。でも、詩人はそんな自分の経験を通して、「でも神さまはちゃんと私を救ってくださった」と賛美を歌いました。神さま、どうぞ私たちにも同じ賛美を歌わせてください。どうか私たちが沈黙せず、あなたへの賛美を歌い続けられるよう、お支えください(13節)。今週の働きの始まりに、私たちに伴ってくださるイエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

19日(火) 詩編31編1-25節
一言メッセージ:今朝は詩編31編です。一読しますと、結構、どんよりした気分になります。というのは、詩人がずっと苦しそうだからです。でも、そこでグッと踏ん張って読んでみてください。すると、詩人の言葉の中に、キラキラと光る人生のヒントが見えるのです。それは「まことの神、主よ、御手にわたしを委ねます。わたしを贖ってください。(6節)」という御言葉です。
この言葉はルカによる福音書23章46節でイエスさまが十字架上で息を引き取った時の言葉です。今年の受難週の時、私たちはこの御言葉をこう分かち合いました。「神さまに委ねることは、八方ふさがりで投げやりになることでなく、私たちの限界を超える神さまの導きに期待すること」と。そう、イエスさまを思い起こせば分かるのです。イエスさまは確かに十字架で亡くなりました。けれど、三日目に復活なさった。神さまの御業によって、死から甦られた。正にそれは、人の力を超える神の御業です。
牧師の大先輩であるK先生は冗談好きで、以前、「私たちは神業に生かされている」と言っておられました。金言だなぁと思います。そう、私たちは神業に生かされています。だから私たちはいついかなる時にも神さまに期待するのです。今日はどんな神業に行かされるか、楽しみですね。
祈り:天のお父さま、今朝もあなたのみことばをありがとうございます。今朝のみ言葉を読みながら、私たちは、神業の中で生かされていることの凄さを感じます。私たちにはいつも限界があります。でも、神さま、あなたには限界がありません。そんなあなたが私たちに今日も「大丈夫、安心して誠実に生きていきなさい」と呼びかけてくださいます。神さま、どうか、あなたの導きをいつも感じさせてください。腹の立つ相手と相対する時、「意外と優しいかも」と思える一面を見させてください。頭を抱え込みたくなる課題にはクスッと笑う余裕を与えてください。一日を終えて疲れを覚える時には、「でも神さまが守ってくださった」と感謝を覚えさせてください。その小さな気づきの中であなたがかなり身近に伴ってくださっていることを実感させてください。どうか、今日の一日も神業の中で歩ませてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

20日(水) 詩編32編1-11節
一言メッセージ:ふと気づきましたが、最近、真面目に詩編を1節ずつ読んでいます。スタート時は、もっと大雑把に取り上げるつもりだったのに。まぁでも、各詩に気づきが与えられるので、そこにも御言葉の面白さを感じますね。
  今朝の32編の詩人を見ていて、とても親近感が湧いてきます。例えば、1節で「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」と詩人は歌います。自分のことを「一切罪を犯していない者は幸い」というのでなく、「私は罪人だけど、神さまはそんな私をも赦して、罪を隠してくださった(無くなったわけでなく、神さまと私は覚えているけど、他の人には覆われている状態)」と歌います。言うなれば、詩人は神さまが再スタートを始めさせてくださるから「幸い」と歌っているのです。
  私たち人間は過ちを犯す生き物です。「しまった」と思うことはしょっちゅうで、中には、深く考えなかった言動のために何年も後悔し続けるような出来事もやらかしてしまいます。でも、神さまはそんな私たちを「はい、もうおしまい」と切り捨てるのでなく、「じゃあ、そのことを覚えながら、もう一度やってごらん」と促してくださる。それが「悔い改め」と「赦し」です。
  実際、詩人は8-9節で神さまの言葉を記します。「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。」注目したいのは8節終わりの一文です。「あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」空を飛ぶ鳥が私たちを見下ろしながら飛ぶように、神さまが私たちの先行きを見越して、導いてくださるのです。だから私たちは自分たちの思惑でなく、神さまを信じて、神さまの導きの中で歩みます。
  喜劇王チャールズ・チャップリンはこんな明言を残しました。「人生は部分的に見れば悲劇だが、総じてみれば喜劇だ。」今日の苦労も後々、笑いと感謝に変わりますよ。さぁ、今日も神さまの導きを信じ、委ねて、歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編を読み進めていますが、みことばはなんて奥深く私たちの人生と重なるのか、と思わされます。今朝、私たちはホッとしました。それは、詩人が「私は清廉潔白」と言ったのでなく「私は罪人」と語ったからであり、私たちも同感だからです。神さま、あなたの目に私たちはいったいどれだけ罪を犯しているでしょう。でも、あなたはそれでも私たちを愛し、導いてくださいます。神さま、あなたが私たちの神さまでいてくださることを深く深く感謝します。どうか今日も、たぶん何かやらかしてしまう私たちですが、失敗した時には「勧めを与え(8節)」、導いてください。一日の終わりに、私たちが「主によって喜び躍り、喜びの声をあげ」ることができますように(11節)。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

21日(木) 詩編33編1-22節
一言メッセージ:皆さん、賛美歌は好きですか?きっと、それぞれに大好きな賛美歌がありますよね。そこには何か自分の経験と重なる想い出があるかもしれません。さて、そこで考えて欲しいのですが、その想い出は「わたしと神さま」の想い出が多く、「私たちと神さま」という共同体の想い出を含めた賛美歌は少ないのではないでしょうか。実はこれはもう何年も前から、私たちが慣れ親しんできた賛美歌の弱点として指摘されています。すなわち、「わたし」の感謝や嘆きや悔い改めが多くて、「わたしたちの賛美、教会みんなの賛美になっていないのではないか、信仰が独りよがりになっていなかったか」という指摘です。この指摘はとても鋭くて、賛美歌のことだけでなく、私たちの信仰についても、「独りよがりになっていないか?」と問うてくるのです。
  今朝の詩編33編を見ますと、とても面白いことに気づきます。詩人は「主に従う人よ」とか「正しい人」など、個々人の信仰の在り方から詩を歌い始めます。でも、12-13節を見ると、神さまは私たちを「民」という集団としてと、「一人ひとり」という個々人としてと、一緒に目を注いでおられるのです。だから詩人は20-22節で「われら」と語ります。神さまへの信仰を同じくする仲間たち、へと目が広げられていくのです。
  今朝私たちは自分のことだけでなく、教会の兄弟姉妹、そして隣人のことを祈りましょう。「しばらく会えていないけど、あの人はどうしているかな?元気かな?」と思い起こしたいのです。
祈り:天のお父さま、詩編33編の御言葉をありがとうございます。今朝わたしたちは、一緒にあなたを信じ、あなたに仕え、生きる人々のことを思い起こしました。神さま、教会には体調を崩している仲間たちがおります。どうぞお守りください。新型コロナの自粛生活でくたびれた仲間たちのことを慰め、癒し、整えてください。求道中の人々も、もう私たちと変わらず、あなたを信じているのです。ただ、その後押しが私たちにできていないだけです。神さま、その方々のことを祈ります。どうか、あなたを信じられるように、一歩踏み出す勇気をお与えください。また、私たちには一緒に礼拝したい家族や友人たちがおります。どうか新型コロナが終息した暁には、そのような方々を誘う言葉と勇気を与えてください。神さま、どうか仲間たちのことを祈り続けさせてください。私一人で祈り足りなくても、一緒に祈ってくれる仲間たちがいます。神さまどうか、「私たち」の祈りをお聞き届けください。あなたの御業が私たちと同様、私たちが祈る一人ひとりに実現しますように。救い主イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。

22日(金) 詩編34編1-23節
一言メッセージ:詩編34編で詩人は「貧しい人(3節)」に「わたしと共に主をたたえよ(4節)」と呼びかけます。とても嬉しい言葉だなぁと思うのです。今月の初め頃、新型コロナの感染拡大に伴い、多くの牧師たちが本当に悩みました。それは「私たちは礼拝する民なのに、共に集えないなんて。礼拝できないなんて初めての経験だ」と。久留米教会でも普段とは違う礼拝のスタイルを模索してきました。その検証や新たな可能性の模索はこれからです。でも、私は今朝の御言葉にとても深い希望を見出すのです。
34編の「貧しい人」とは単に金銭的な貧しさではなく、「社会的、経済的に差別され、正当な裁き(補償を含む)を受けられず、ただ神さまにすがる以外に選択できない民衆たち」です。そんな民衆に向かって詩人は呼びかけます。「わたしと共に主をたたえよ」と。「一つになって御名をあがめよう」と。それはまるで、新型コロナの混乱の中であらゆる制限に直面し、先の見えぬ不安を抱えながら、それでも御言葉を分かち合いたいと、自分たちのそれまでの形を変えて新たな可能性を模索してきた私たちの姿にも重なるのです。私たちはコロナ前と今とで、大きな変化を経験しました。私たちは「主を賛美する民だ」という信仰を分かち合いながら、これまでの礼拝の恵みを再度知ったと同時に、ネット礼拝を通して多くの友と一緒に礼拝する可能性も示されたのです。
3節で詩人は「わたしの魂は主を賛美する」と語りました。ヘブライ語の直訳は「主(ヤハウェ)をわが魂は誇る」です。神さまを誇る時、私たちは今までの形式の恵みと共に、新たな可能性も見出しているのです。教会は可能性がいっぱいですね。詩人が「わたしと共に主をたたえよ」と呼びかけたように、私たちも今、福音をどう多くの人と分かち合えるか模索しながら、呼びかける教会を目指したいものです。
祈り:天のお父さま、今朝も詩編34編のみことばをありがとうございます。私たちは詩人の呼びかけが今の私たちに向けられたものだと感じます。この新型コロナ騒動の中で、私たちはそれまで当たり前だったあらゆる生活が一変してしまいました。まさか、礼拝すら普段通り行えないなんて、考えたこともありませんでした。でも、実際にそんな経験をしながら、それまでの礼拝の恵みと同時に、新たな可能性も見出しています。「共にあなたを讃える」という大前提に立ちつつ、私たちには様々な可能性が見えています。今後、新型コロナが終息するとともに、私たちは共に集える礼拝に戻って来るでしょう。でも同時に、様々な手段をもって新たに、礼拝を共にする人々をお与えください。あなたの御心に沿うならば、どんな困難に直面しても救い出され(20節)、わたしたちは祝福をいただけるでしょう。神さま、この経験を私たちの糧としてください。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

23日(土) 詩編35編1-28節
一言メッセージ:土曜日です。この一週間はどんな一週間でしたか。「感謝だった」と思う方は幸いですが、悔しい思いをした方はぜひ35編をじっくり読んでみてください。35編は面白いのです。詩人が「神さま、私を害する人をも救ってください」と敬虔に祈るのでなく、思いっきり「神さま、あんな悪い奴は滅ぼさないとダメです!ガツンとやってください」と祈っているのです。聖書なのに、こんなに赤裸々に相手への怒りを神さまに訴えて良いのでしょうか。
良いです!私たちは神さまには真っ正直で良いのです。だって、神さまはそんな私たちの弱さや、自分でも目を背けたくなる部分も含めて、丸ごと受け止めてくださるからです。
でも同時に、ちゃんとこの詩に注目しましょう。詩人は「でも、復讐するのは私じゃなくて神さま。全部を神さまに委ねる」と思って、詩を歌っています。この節度があるからこそ、自分の心が口惜しさや疲れでいっぱいの時には神さまに甘えて駄々こねて良いのです。
考えてみたら、神さまはすごい安心ですよ。だって、神さまは絶対に誰にも告げ口しませんから(笑)。おまけに、神さまが必要と思われる時にはちゃんと整えてくださるのだから。
今日は土曜日です。皆、ちょっと自分の心を緩めて、素の自分で祈りましょう。今日は神さまに甘えて、明日の日曜日は礼拝で御言葉に整えられましょう。
祈り:天のお父さま、今週も土曜日までお守りくださり、ありがとうございました。この一週間は感謝も多かったですが、心身共に疲れた出来事もありました。そんな私たちは今日、詩編35編に励まされながら、ちょっとあなたに愚痴をこぼします。「なんであいつが」とか「このやろう!」と怒る言葉が出て来るかもしれませんが、どうぞ苦笑しながら、聞いていてください。私も「全知全能の方にこんな祈りでいいのか」と半分思いながら、でも誰かに言わずにはおれないから、一番安心なあなたに祈っています。そして残りの半分、祈りながら「この敵意が友情に変わったり、不信感が信頼に変わったら」とあなたに期待しています。甘ったれですが、事柄の結論はあなたにお委ねします。私が心から慕う相談者でありますあなたにお祈りします。アーメン。


***

今週一週間も皆さんの心に神さまの守りがありますように。

5月10日~5月16日のみことば - 2020.05.10 Sun

新型コロナウイルスによる緊急事態宣言がだされて1ヶ月以上が過ぎました。
「不要不急」の外出を控える生活からくるストレスもかなり溜まってくる頃かと思います。
実際、いわゆる「自粛警察」と呼ばれる過剰に自粛を呼び掛けて対策をしながら営業しているお店に対して強い言葉で非難をする人たちや、県外ナンバーの車に対する嫌がらせなど、少しづつ人々の心に疲れからくる不寛容が広がってきているように思います。
心の余裕がなくなってくるのは状況的に仕方がないことですが、そんな心と上手に向き合っていければいいですよね。
私たちが加盟している日本バプテスト連盟の宣教研究所から出された「新型コロナウイルス感染拡大に伴うストレスに対処するための視点」という文章にはその対処として

・深呼吸。 ・軽い運動。 ・十分な栄養をとる。 ・好きな音楽や入浴でリラックス。
・家族や友人と話す。 ・SNSやテレビなどの情報を見過ぎない。
・感情を吐き出す(ただしメールやSNSなどでは、感情を吐露する文章はそのまま送信せず、時間を置いて再読してから出す。文字だけのコミュニケーションは誤解を生みやすく、さらにストレスを生む要因にも)。
・信仰における習慣を大切にする(祈りと黙想の時間、聖書の学びの時間の確保など)。

をあげています。
新型コロナウイルス対策から始まった毎日の一言メッセージと祈りのことばが皆さんの心をほっとさせる一助になれば幸いです。
以下、1週間のみことばを掲載します。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


10日(日) 詩編19編1-15節
一言メッセージ:詩編19編は極めて大きなスケールの詩編です。神さまの御業は時代も距離も状況も越えて、世界に等しく祝福を与えていることがうたわれています。大正時代に訳された文語訳での2節は格調高く、「この日ことばをかの日につたへ、この夜知識をかの夜におくる」と記しました。そうなのです。私たちの一日一日は単なる繰り返しの毎日でなく、神さまの御言葉、神さまの御業を語り伝えている一日一夜なのです。そんな神さまの祝福は太陽のように生きとし生ける全ての人々に注がれているのです。それが、たとえどれだけ辛く、しんどい時であっても、です。
今、私たちは毎日、新型コロナウイルスの不安を感じながら生きています。生活が一変した中で、皆さんはいかがでしょう?普段よりたくさん、時間が取れて、普段できていなかったことに取り組むことも可能でしょう。でも心に張り合いというか、自由な快活さが無いと、私たちは元気に生活できないのでしょう。自分を振り返ってみても、そう思います。でも、今朝の詩編19編の御言葉は私たちに、私たちがいかなる状況にあろうと神さまの御言葉と御業は変わることなく私たちに注がれていると告げているのです。言うなれば、私たちは神さまに生かされて、毎日毎日を過ごしているのです。
今日は礼拝の時です。今日も神さまと向き合い、生かされている喜びを分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編19編はなんと温かく、希望に満ちた詩でしょう。あなたが壮大な祝福を今日も変わらず私たちに与えてくださっていること、だからこそ私たちは神さまの御前にへりくだり、あなたを礼拝するのだと教えられています。神さま、今日は日曜日、礼拝の時です。どうぞ会堂とネットを通して、今日も御言葉を与えてくださいますように。あなたが私たちの神さまでいてくださることに感謝し、救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

11日(月) 詩編20編1-10節
一言メッセージ:今日は月曜日、新しい週の仕事が始まります。新型コロナによる自粛要請の中でも、家族や社会のライフラインを守るために一生懸命に働いておられる方々や、感染を広げないために、不要不急の活動を自粛する方々も多いことでしょう。本当に我慢のしどころだと思わされます。
  しかし、その一方で、「不要不急」を求めた政治が「今、それをする時か!?」ということをやらかします。土曜日に審議された官邸が検察人事権に介入することを合法化する取り組みなど、今、本当に必要なことでしょうか?火事場泥棒にしか見えません。憲法が訴える主権者たる国民の生活を顧みず、その基本的人権を蔑ろにする指導者たちに、正直、苛立ちも多々感じます。
  そんな私たちが今朝、詩編20編を読むのです。この詩編は詩編の中で10編だけ存在する、「王の詩編(詩の歌い手〔その一部〕が王である詩編)」です。今朝、注目したいのは8-9節です。「戦車(自分たちの力や権力)を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我ら(イスラエルの王と民)は、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる。」この言葉は正に今、私たちにとって必要な言葉です。週の働きの始まりに、この国、この世界が、社会の中で苦境に追い込まれている方々に必要な助けが与えられるように、力や権力でなく神さまの愛される一人ひとりの命を尊べる歩みへと変わってくように、と祈りながらスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは詩編20編を読みながら一週間の働きを始めます。社会が混乱し、火事場泥棒のような政治に落胆する中で、でも私たちは「われらの神、主の御名を唱え、力に満ちて立ち上がる」と分かち合いました。神さま、どうぞ今、私たちに希望と力を与え、この社会の中で苦境に立たされた方々の平安と守りを祈り、手を差し伸べることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

12日(火) 詩編22編1-32節
一言メッセージ:今日の詩編はちょっと長いですが、敢えて全部を読むようにしました。この詩編22編は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」でスタートします。どこかで聞いたことのある言葉ではないですか。これは伝統的な解釈として、マルコやマタイ福音書で十字架上のイエスさまが「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ言葉の解釈として用いられてきた詩編なのです。この詩編は「神さまに見捨てられた」という嘆きから始まり、前半は悲嘆にくれる言葉が続きますが、しかし、そんな絶望の中で詩人がやはり神さまに希望を見出していく様が描かれていくのです。そして、最後31-32節で詩人は、今も変わらず苦境にいるであろうに、未来に目を向けています。それも「神さまがおられるんだから大丈夫だ」という希望に満ちた未来を見ているのです。彼は自分の役割はこの苦難を超えた時に、神さまを賛美し、人々に神さまの御業を証することだと歌って詩を終えました。
私は今日、その詩人と同じ心境で過ごしたいのです。つまり、たとえ今、私たちがどれほど苦しい思いを経験していても、私たちはこの苦しさを超えた時に「神さまはなんて素晴らしい方なんだ」という賛美と証を互いに交わすことになると期待して過ごすのです。
皆さんも今の期間、それぞれに体験しておられませんか?「やっぱり神さま、おられるっちゃんね♪」という喜びの証を。どうぞ、その証を温めながら今日を過ごしてください。そしてどうか、私たちがもう一度礼拝に集う時に、その証を聞かせてください。私たち久留米キリスト教会は神さまを賛美する群れ。今の不安も苦難も全部、後々の感謝に代わるための通過点です。さぁ、今日も神さまの御業を経験するため、一日を始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは詩編22編を手にしました。詩人はあなたに「どうして見捨てられたんだ」と訴えて詩を始めたのに、いつの間にかあなたによる慰めと希望を確信し、最後には「私はこの賛美と証を後の世代に伝える」と期待に満ちて詩を締めくくりました。神さま、今、私たちはこの詩人と同じように、不安が期待に変わることを、恐れが賛美に変わることを、祈りつつ待ち望みます。その根拠をあなたに見出します。あなたこそが私たちを導かれるお方です。あなたこそが私たちの神さまです。どうか、私たちに賛美と証の基となる経験をさせてください。今日のお導きに期待し、救い主イエスさまのお名前でお祈りします。

13日(水) 詩編23編1-6節
一言メッセージ:詩編の中で最も有名な詩の1つがこの23編ですね。暗唱しておられる方も多かろうと思います。神さまと自分との関係を羊飼いと羊に譬えた詩です。詩人は歌います。「神さまがおられるならば、わたしには不足はない(1節)」、「神さまは私の魂(霊魂ではなく、生きる力の根源を指すイメージ)を生き返らせてくださる(3節)」、「神さまが導いてくださるから、死の陰の谷(絶体絶命のピンチ)を行く時もわたしは『もうダメなんじゃなかろうか』と不安におののくことはない(4節)」、「私を敵視する人が目の前にいても、神さまは私の食卓(日常の生活)をちゃんと整えてくださる(5節)」、「私は生涯にわたって守られ、死して後も神さまの平安の中に生き続けるだろう(6節)」。彼は一貫して神さまの祝福と守りを語り続けます。では、その根拠とはどこにあるのか。新共同訳はこの大事な部分をちゃんと訳出していませんが、それは1節冒頭の言葉、「主は“わたしの”羊飼い」だからです。新共同訳では「主は羊飼い」と書かれているだけで、これでは一般的な意味合いの例のニュアンスが出てしまいます。でも、詩人は「神さまは、こんな私であっても身を挺して守ってくださる羊飼いだ」と語り、だからこそ「自分には欠けることがない」し、2節以下の祝福も語ったのです。
詩の中で、私たちは羊に譬えられます。羊はとても弱い生き物です。視力も知力も運動能力も低く、勇気ある動物でないため、襲われた途端に大パニックになる、そんな動物です。でも、そんな羊の最大の強みは聴力です。羊はたとえ何年離れていても、主人の声を聞き間違えることはないそうです。私たちは羊、羊飼いは神さま。今日も神さまの御声を聞きながら歩み始めていきましょう。メェ~。
祈り:天のお父さま、今朝もこうしてみことばをいただき、感謝します。今朝私たちは詩編23編を分かち合いました。他ならぬあなたこそが私たちの羊飼いです。あなたは、羊飼いが羊を守るために身を挺してくださるように、私たちを守り導いてくださるお方です。だから、私たち自身に力や勇気や知恵が足りなくとも、あなたの御声を聞き分けて従います。どうか詩人同様に、私たちにもあなたによる平安をお与えください。あなたへの信仰によって生きる者としてください。この祈りを救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

14日(木) 詩編25編1-22節
一言メッセージ:今朝の詩編25編はヘブライ語のアルファベットに基づく、あいうえお作文のような詩です。例えば、1節はヘブライ語アルファベット最初の言葉アレフで始まり、2節はベイト、3節はギンメル…というように22節のタァブで締めくくられています。そして、この詩は意味の一環がある詩というよりも、1節ずつを独立して読む詩なので、どうぞあなたの感覚にピタッと合うところを心に留めて一日を過ごしてください。ちなみに私が「ここっ!」と思うのは20節です。詩人は神さまの守りを願いながら、「御もとに身を寄せます」と語ります。「神さま、わたしのところに来て守ってください」でなく、「わたしが神さまの御もとに行きます」と語っています。自分の正しさを神さまが補強してくれることを願うのでなく、神さまの正しさに自分が身を寄せていくと訴えています。ここに、信仰者の生き方があると思うのです。私たちは人間ですから、自分の正しいと思うことは自分なりのモノの見方に過ぎません。別の視点から見れば、独りよがりだったりするのです。だから私たちは「私はね、私はね」と我を貫くのでなく、全てを理解した上で導いてくださる神さまの視点を大事にするのです。そんな生き方がこの20節にあると思うのです。さぁ、今朝は一体どんな一日になるでしょう。今日の一日、神さまの御心を模索して従うように始めてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたの御言葉はいつも、私たち一人ひとりに必要な示唆を与えてくれます。どうぞ今の自分に響いた御言葉の示唆を大事に今日の一日を過ごさせてください。どうか、私たちは自分の思いに固執せず、あなたの御心を求めて生きることができますように。十字架を前にして「私の思いでなく、御心が実現しますように」と祈ってくださった救い主、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

15日(金) 詩編27編1-14節
一言メッセージ:この一週間も金曜日まで歩んで来られました。今朝の詩編27編の詩人は、具体的な背景は分かりませんが、周囲の人々に見捨てられ、苦しい状況に追い込まれた中で神さまに救いを願って祈っています。10節などは思わず賛美歌の「いつくしみ深き」を思い出すような言葉です。
こんな詩編27編で注目したいのは4節です。詩人は「ひとつのことを主に願い」と語ります。「ひとつのこと」と見ますと、「今の状態ではこのひとつを優先しよう」という、絞り込んだ選択肢というニュアンスを感じますが、ヘブライ語原典では意味合いが違います。「ひとつのこと(アハト)」は「唯一のもの」という意味合いです。詩人は「あれもこれもあるけれど、今はこれ」と言っているのでなく、周囲から見捨てられて苦しい状況の中で、「私は自分の人生の中で、この唯一のものを求めて生きて生きたい」というニュアンスで「ひとつのことを主に願い」と語っているのです。
詩人は私たちに、人生の唯一の指針は神さまと断言します。それは、神さまを大事にすれば、後はどうでも良いからではありません。神さまが私たちを最善に導き、必要なものは整えてくださるからです。イエスさまもマタイによる福音書6章33節で同じように語りました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(私たちに必要なもの)はみな加えて与えられる。」
新型コロナはこれからどうなるのでしょう。終息に向かうのか、第二波、第三波が続くのか。先は見えませんが、14節「主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望め」との御言葉に励まされながら、今日の一日を始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたこそが私たちの人生の根拠であり、希望の源です。私たちは日々、耳に入る情報や目に見える出来事に捉われ、時に、自分の経験や常識で計り知れない先行きに不安を感じて、こわい想像を膨らませてしまいます。でも神さま、そんな時にも私たちに、あなたを信じて生きる幸いを思い起こさせてください。あなたは必ず私たちを導いてくださる方です。私たちの必要には答え、鍛えるためには沈黙しつつ見守ってくださる方です。神さま、どうか今日の一日もあなたの守りと導きの中で歩ませてください。あなたを待ち望み、心強く、そして優しく歩むことができますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

16日(土) 詩編28編1-9節
一言メッセージ:今週も土曜日まで歩んできました。今朝は詩編28編を読みます。この詩のテーマは「沈黙」です。詩人は何らかの苦境の中で神さまに「助けて」と祈り求めますが、その祈りに神さまが答えてくださらないと焦り、「沈黙しないでください(1節)」と訴えています。3節では、神さまに逆らう人々は「平和」を口にしながら悪意を抱いているが、自分も神さまからそんな人々と同じように見られているのではないか、と怯えているのです。神学者・関根正雄という方はこの箇所でこんなことを語っています。「神がそっぽを向いたと感じたその時に、なお神を追いかけるか、諦めるかで私たちの信仰は決まる。その時に神を信じて追わないならば、その者は神でなく、自分の幸福を信じているに過ぎない」。彼は「それでも信じなさい」と語るのです。28編の詩人も「神さま、どうか応えてください」と追いかけたのでしょう。6節で「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました」と記しています。何があったか分かりません。ただ、私たちは「神さまは応えてくださるお方」とだけ告げられているのです。神さまは私たちを見捨てる方ではないのです。
明日は日曜日、礼拝の時です。一週間で疲れもあることでしょう。でも礼拝は私たちの力の源です。昔、O兄が証で言われていましたが、「一週間は168時間。その1時間を神さまにお献げして」、礼拝に思いを寄せましょう。明日、会堂とネットで皆さんと礼拝できることを楽しみにしています。
祈り:天のお父さま、今朝もあなたの御言葉をありがとうございます。今朝は28編を分かち合いました。詩人の姿に私たちは自分を重ねます。私たちも「神さま」と願いながら、願いが叶えられないと、「神さまは何故黙っておられるのか。聞いていないんじゃないか」と疑ってしまいます。けれど、詩人はそれでもあなたを信じ、追い求めることを止めませんでした。神さま、私たちはこの詩人の姿に教えられます。どうか私たちも日々、あなたを信じ、あなたに期待し、あなたに従って歩む者としてください。明日の礼拝、どうぞ私たちに新たな一週のために力をお与えください。感謝して、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。



***

今週一週間も皆さんの心に神さまからの平安がありますように!



5月3日~5月9日のみことば - 2020.05.03 Sun

今週も毎日のみことばメールとして発信しているものを1週間分掲載します。

先ほど市から情報が入り、久留米市ではじめて新型コロナウイルスで亡くなった方が出たとのことでした。
新型コロナウイルスで亡くなった方は、その葬りのときにも通常と同じようにはできないという事も他のニュースなどで聞きます。残されたご家族にとってはどれほど辛く、悲しい事かと思います。
亡くなった方の魂を神さまが抱き寄せてくださり、神さまのみ許で安らかであります様に。また残されたご家族に、慰めがあります様にお祈りします。


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
            ルカによる福音書→新約聖書
・書名選択     : 詩編 / ルカによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


3日(日) 詩編100編1-5節
一言メッセージ:今日5月3日は何の日でしょう。そう、憲法記念日です。1947年の今日、日本国憲法が施行されました。日本の憲法は施行後73年、一言も変えられることなく保たれてきました。「アメリカに押し付けられた」と言う人がいますが、そもそも、良いものは誰からもらっても構いません。今のコロナの事態のため「緊急事態条項が必要」と主張する政治家もいますが、国民が権力者を規制するための憲法について、政治家側がとやかく言うことは不当です。「古くなった」と言う人がいますが、いいえ、時代が未だ憲法の精神に追いついていないだけです。それらは前文を見れば分かることです。
  今年、僕は一度、教会で皆さんと憲法勉強会をしたいと思っていますが、僕は現行憲法こそが日本の誇りだと思っています。それは前文にあるように、諸国民(世界の人々)の平和を願う思いに信頼し、「みんなで平和を創ろう」と呼びかけているためです。
  今朝の御言葉、詩編100編も同様のスケールを歌っています。100編は礼拝に集った会衆に向かって、祭司が「礼拝を始めよう」と呼びかける詩ですが、その冒頭、祭司は「全地よ」と、全世界に向かって呼びかけます。自分たちの仲間が集まった礼拝なのに、祭司は世界スケールで「神さまの前に集い、共に礼拝をささげよう」と歌うのです。「知れ、主こそ神であると」との言葉は正に今の世界に向かっても叫ばれている言葉です。私たちの神さまは平和の神、今朝は特に平和を覚えて祈り合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝は73年目の憲法記念日であり、あなたを礼拝する主の日です。この2つの喜びをありがとうございます。神さま、今日、憲法が記した世界の民と共に平和を実現するとの理想を思い返しつつ、御言葉を読みます。詩編の著者は、小さな自分たちの礼拝を守りながら、世界に平和実現を呼びかけました。神さま、私たちはそんな詩編の思いを引き継ぐ教会であることを心から感謝します。今、私たちも新型コロナウイルスの不安を抱えつつ、でも、あなたの平和実現のために御言葉に立って声を上げます。神さま、どうか、私たちの小さな声を「全地」に響かせてください。あなたの御言葉に立つ平和実現の一助とならせてください。主の日、礼拝の前の時に、平和憲法を誇りとしつつ、平和の君なる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(月) ルカによる福音書6章21節
一言メッセージ:「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる」はルカの平野の教え(マタイでは山上の教え)の一文です。現実の厳しさに直面する人々に向かって、イエスさまが語った言葉です。日本語では現れませんが、「満たされる」という言葉には「満たしてくださる方は誰か」という示唆が含まれています。それは「神さま」です。イエスさまは「神さまがいるんだから」という根拠を持って、「幸いだ」と語ったのです。どこか私たちの心をホッとさせてくれる、とってもユーモラスな言葉です。
 今、新型コロナウイルスで不安やストレスを抱えた人々も多いです。そういう中で「神さまがおられるんだから」と考えてみたら、視野が広がり、期待感が湧いてきませんか?身近なことでもそうです。夫婦喧嘩した後に「神さまがおられるんだから」と考えて、神さまの返答を想像してみましょう。「ちゃんと分かってるよ」と言われるか、「どっちもどっちたい」と浮かぶかはその人次第ですが。仕事や人間関係で落ち込んだ時にも「神さまがおられる」と祈って、大の字で寝たらいい。
クリスチャンの強みは「神さまがいるんだもの」と思えることです。そして神さまはそうやって縋る私たちを決して無下にされません。さぁ、今週も「神さまがいるんだもの」で始めていこう。
祈り:天のお父さま、今朝も私たちに御言葉をくださり、ありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまの「神さまがおられるんだから」との信頼からくるユーモアを知りました。「神さまがおられるんだから」。それが私たち信仰者に与えられた大きな強みであることを思います。神さま、私たちの主はあなたです。私たちが信じ、従うのはあなたです。どうかこの一週間もあなたの祝福と御言葉によって養われてまいりますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

5日(火) 詩編1編1-8節
一言メッセージ:昨日から「幸い」繋がりで詩編1編を選びました。150編続く詩編の始まりは「幸い(アシュレー)」の言葉で始まります。詩人が「幸い」と考える人は、「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」です。これだけ読みますと、とっても優れた敬虔な信仰者のように見えます。でも、じっくり読みますと、ちょっと印象が代わります。詩人は「罪ある者の道に誘惑されるがとどまらず、傲慢な者と共に腰を下ろしかけても立ち上がり…」とちょっと誘惑される様子が見えて来るそうです。でも、彼は誘惑に屈しません。それは2節「主の教えを愛し(新改訳:喜びとし)、その教えを昼も夜も口ずさむ」からです。「口ずさむ」はラテン語で「メディタティオン(黙想する)」です。日頃から御言葉を読み、自分の人生と重ねて考えること、言うなれば、日々みことばに学び、養われている、その経験によって彼は誘惑に屈しないのです。そして、そんな人を「幸い」と詩人は言うのです。
  今朝は「こどもの日」です。子どもたちが一日一日、少しずつ、でも確かに成長するように、私たちも日々、御言葉に育てられていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、今朝は子どもの日です。こどもたちがすくすくと育っていることを感謝します。今朝、私たちは詩編1編で「幸いな人」について学びました。詩人は、幸いな人は日々、みことばに養われる人だと語りました。神さま、私たちも日々、あなたのみことばによって養われていることを感謝します。どうか私たちが御言葉を我が事として学び、ふとした日常の時に思い起こしてあなたを身近に感じられる、そんな者となれますように育て導いてください。あなたによって育てられているこどもの一人として、心からお祈りします。アーメン。

6日(水) 詩編2編1-12節
一言メッセージ:詩人は神さまに背く地上の王の姿を描きます。彼らは3節のように自らの力を誇ります。けれど彼らに対して神さまは6節で「お前たちが何を言っていようが、私こそが神であり、私が私の代務者である王を立てる」と言い切ります。私たちは社会の動きや周囲の人々の言葉を耳にする中で、時々、「神さまこそが主である」ということを忘れがちになり、社会の動きや周囲の声に振り回されることもあるでしょう。そりゃ、私だってありますよ(笑)。でもそんな時に、一拍だけ立ち止まって、こう考えてみてください。「神さまはどげん考えらっしゃるかいな。」その一拍が私たちに冷静さと知恵を与えてくれます。特に今、社会全体が不安に浮足立つ時は余計にこのことを覚えておきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝も御言葉をありがとうございます。今朝わたしたちは詩編2編を通して、社会の動きや周囲の声に翻弄されないための知恵を得ました。あなたの御心を模索するために一拍の間をとることでした。神さま、どうしても不安におののき、気持ちが揺らぐ時に私たちは自分たちの経験や常識や周囲の声に流されてしまいます。でも、いつもあなたの御心に立ち帰る私たちであらせてください。今日の御言葉に感謝して、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

7日(木) 詩編8編―10節
一言メッセージ:今朝の箇所、詩編8編では、詩人の大きな喜びが歌われています。2節で「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう」と神さまを喜び讃え、4節までで神さまの偉大な御業を語るのですが、詩人の驚きは5節に集約されます。それは、「偉大な神さまがどうして僕らのような不完全な人間に目を留めてくださるのだろう?」です。共通する理解が3節の「幼子、乳飲み子の口によって…」です。ここでいう「幼子、乳飲み子」は実際に小さな子どもというよりも、権力者と対比されて、弱く小さな存在という意味です。正に、「こんな小さな私たちに目をかけてくださった」という神さまへの驚きを歌います。考えてみれば、この驚きは私たちにも共通します。どうしてこんな私たちのために、神さまは御子イエスさまさえ惜しまず、十字架にかけてまで救ってくださったのだろうか?理屈や理詰めでは分かりません。ただ「神さまの愛」という他ありません。私たちはこの神さまの愛によって生かされ、祝福され、導かれているのです。
  さぁ、今日からゴールデンウィーク明けで仕事が始まる方もあるでしょう。未だ新型コロナの不安は続いていますが、私たちは神さまの愛の中で生きている。その喜びを覚えながら、一日を過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝も御言葉をありがとうございます。詩人は、偉大なあなたが私たちのようなちっぽけな存在に目を留めてくださっていることに驚き、感動をもって詩編8編を歌いました。神さま、私たちも同じ気持ちです。父なる神さまは私たちを救うべく、イエスさまの十字架を決断され、イエスさまは十字架にかかってまで私たちに寄り添ってくださいました。私たちはこの出来事に対して、「神さまの愛ゆえ」という言葉しか持ちえません。ただただ、あなたの愛によって生かされていることを感謝します。今日から週の後半週となります。どうか神さまの愛を感じながら過ごさせてください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

8日(金) 詩編16編1-11節
一言メッセージ:詩編16編の6節を覚えていますか?ここは、2017年に久留米教会の教会組織50周年の感謝礼拝にてY先生が説教された箇所です。Y先生は「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」との御言葉を、久留米教会の歴史と重ねて語られました。測り縄はおもりの付いた縄で、測量のための道具です。どういう地形にあっても、垂直を指し続けます。Y先生は久留米教会の50年を振り返りながら、感謝もあれば困難もあったが、でも神さまの測り縄はいつも教会の歩みをまっすぐに示し続けたのだと語ってくださいました。2020年の今年、久留米教会は教会組織53年目にして新型コロナにより活動制限というピンチを経験しています。でも、私は今もこの「測り縄」に期待しています。この制限の中でも私たちは神さまの御言葉によって励まされ、生かされています。ネット礼拝など、この制限下でもできることを試行錯誤しながら、教会の在り方を模索しています。今大事なことは、「この時に神さまの測り縄は何を示しておられるか」です。私たちの不安もストレスも葛藤も失敗も、全てを祝福へと導かれる神さまは、このピンチをかつてないほどのチャンスに変えてくださいます。今のこの時も久留米教会の「測り縄」として歩みを示してくださる神さまに期待しましょう。
祈り:天のお父さま、今わたしたちはあなたの「測り縄」がどこを指しておられるか、試行錯誤しながら模索しています。少なくとも、今わたしたちは、皆が集って守れる礼拝がどれほど祝福だったかを再確認させられています。この礼拝への渇望は、私たちが教会に戻って共に礼拝できる時に、教会の新たな力となることでしょう。でも神さま、わたしたちは結構欲張りです。先ほど語った祝福だけでなく、もっともっと、この困難の中で示される祝福に気づき、喜び合いたいと思います。どうか久留米教会のこれまでの53年と同じく、いっぱいの祝福をお与えください。ただただ主なる神さまに期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。

9日(土) 詩編17編1-15節
一言メッセージ:詩編17編は、困難の中で神さまの導きと整えを願う詩人の詩です。1-5節で詩人は自分が神さまに誠実であることを強調します。3-4節の「夜なお尋ね」は、寝ている時は心を偽れないから、自分の心の奥底まで神さまに調べられても誠実です、という意味です。私たちから見れば、「そんなに自信満々でいれるんだ」とびっくりするほど、彼は正しさを訴えます。
でも、私はそれで良いと思うのです。詩人もまた人間です。そりゃ、神さまの目に罪と思われることだってあるでしょう。でも、人生の選択の時に詩人はきっと「神さま、今、何が大事でしょう。あなたは何を求められるでしょう。私には全てを悟り得ませんが、でも私は自分の利益や都合を排除して、あなたの御心を求めて選びました(10節などと比較)」と祈り、決断してきたと思うのです。そこまで考えて決断したからこそ、「神さま、もし間違っていたら、軌道修正をお願いしますね」といった心境にもなれますものね。(経験上、本当にそう思わされます)。
最後、5節に注目しましょう。詩人は「あなたの道をたどり」と言いますが、この「道」は舗装された道ではなく「わだち(轍)」、誰かが先に通って踏み固めた道です。つまり、先に同じ困難を経験しながら神さまに従い抜いた先達がいるのです。皆さんの信仰の先達は誰でしょう。それぞれに思い起こす人もいるでしょうし、何より、イエスさまこそが私たちの信仰の轍を踏み固めてくださったお方です。私たちは今日もイエスさまに従い、生きているのです。
祈り:天のお父さま、今日も御言葉をありがとうございます。今朝私たちは詩編17編を通して、あなたに誠実に生きることを考えました。神さま、私たちは自分たちが過ちを繰り返す人間であることを自覚しつつも、あなたの御心はどこにあるか、模索して歩んでいます。特に今は制限生活の中で、より深く、あなたについて考えさせられています。神さま、どうか、迷い悩みの私たちですが、あなたに従う生き方をさせてください。どうか8節にあるようにあなたの御翼の陰で私たちを養ってください。間違った選択をした時は、ちゃんと軌道修正ください。信じて従うことのできる神さまがいてくださることに感謝して、救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。


***

今週も皆さんの上に神さまの守りと祝福がありますように!


NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

久留米キリスト教会

Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

お知らせ (23)
教会写真館 (28)
踊牧師の一人ごつ (146)
未分類 (59)

カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード