3月26日~4月1日のみことば - 2023.03.26 Sun
桜もいよいよ満開になりつつありますね。
教会の桜も八部咲きといったところでしょうか。
先週は降る雨に桜が散ってしまわないかはらはらしていましたが、教会の桜は何とか持ちこたえてくれました。
いよいよ2022年度も大詰め。
4月から新しい環境に変化していく人も、そうでない人も、心新たに出発していきたいですね。
新しい歩みにも、変わらないみことばを心に携えて一歩を踏み出していきましょう♪
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26日(日) エレミヤ書30章4-24節
一言メッセージ:今朝は「ヤコブの災いと救い」と題される箇所です。4節で「イスラエルとユダ」と書かれているので、これは南北イスラエルどちらをも含む預言でしょう。4-7節は「災い」が襲い、民が慄く姿が描かれています。しかし、7節の終わりに「しかし、ヤコブはここから救い出される」と語られ、8節以降、救いが歌われていきます。非常に興味深いことが2点あります。少し長くなりそうなので、二日に分けて読みます。今朝読みたい点は11節、15節です。11節で神さまは「わたしがお前と共にいて救う」と告げますが、同時に「わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない」と語っています。神さまはイスラエルと共にいて救うが、その罪を不問にするのでなく、必要な罰は与えるのです。その時、大事なのは「正しく懲らしめる」という言葉です。神さまは愛情だけでなし崩しに全てを不問にする方ではない。受けねばならぬ懲らしめは懲らしめとして、正しく判断する。15節でも「なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、わたしがお前にこうしたのだ」と、神さまが正しく罰する姿が描かれる。けれど同時に、17節では「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷を癒そう、と主は言われる」のです。何度かご紹介してきましたが、宗教改革者マルティン・ルターは「みことばは私たちを救うために裁き、生かすために殺す」と語りました。今朝の箇所はそんな神さまの正しさが見出せるのです。では、私たち自身はどう裁かれ、罰せられたのか。ここでも神さまは私たちの罪の罰を不問にはされなかった。その罪をイエスさまが一身に引き受け、十字架にかかって死して贖ってくださったのです。今朝の礼拝ではイエスさまの十字架の場面を読んでいきます。私たちに代わって十字架にかかった救い主の姿を、改めて身近に感じましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は神さまが「正しく裁く方」であることを読みました。あなたは私たちを「救うために裁き、生かすために殺す」方です。神さま、どうぞ私たちの罪を正しく裁き、同時に、私たちの中にある、あなたを蔑ろにしてまで我が意を押し通す身勝手さを正してください。私たちの救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(月) エレミヤ書30章4-24節
一言メッセージ:今朝は、30.4-24に見出す2つ目の点について、です。注目するのは21節です。神さまはイスラエルを救う際、「一人の指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか、と主は言われる。」と語ります。「命をかけて」は「命を賭して、捨てて」というニュアンスも含む言葉です。だから私たちは「命を捨てて神さまに近づき、私たちを救った指導者」としてイエスさまの姿を思い起こす。以前ご紹介しましたが、ある牧師の説教集の言葉を紹介します。「この世での命を終え、神の許に帰る時、私たちは神の前に立たされて最後の審判を受ける。生前のあらゆる罪が告げられ、打ちひしがれる私たちの傍らにイエス・キリストが立ち、神に向かってこう告げるだろう。『父よ、この者はわたしを十字架につけた罪人の一人です。しかし、私が十字架にかかってまで救いたいと願った者です。どうぞ罪をお許しください。』」エレミヤは22節で語ります。「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」今年の受難節、どうぞイエスさまの十字架が自分の救いのためだったのだ、と身近に感じてほしいと願います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは自分の身を捨ててまで私たちを救った救い主イエスさまのことを想起しました。イエスさまが贖ってくださったからこそ、私たちは神さまの愛に気づきました。今年の受難節、私たちがイエスさまを救い主と信じ、グッと身近に感じる時となりますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(火) エレミヤ書31章1-6節
一言メッセージ:31章は「新しい契約」と題され、バビロン捕囚からの解放を語る預言集です。短い預言が幾つも連なっているので、少しずつ、丁寧に読んでいこうと思います。1節で「神がイスラエルすべての部族の神となり、彼らは神の民となる」との言葉は、神が捕囚によってちりぢりにされていた民を再び集め、御自分の民としてしっかりと守り育むことを宣言する言葉で、31章全体にかかる言葉です。今朝の箇所で最初に目が留まるのは2節です。神さまは「民の中で剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける」と語ります。「荒れ野」は人が生活するに厳しく、水が少ないイスラエルでは作物の育ちにくい土地です。そこに住む民は様々な事情のために逃亡していた民です。しかし彼らに神が語るのは、5節「あなたはサマリアの山々でぶどうの気を植え、植えた人が植えたその実の初物を味わう」です。それは、安心して生活できるようになる、という具体的なイメージを与える言葉です。「初物を味わう」ともあります。律法では「初物」は神さまへの献げ物ですが、ここで言わんとしているのは「支配者に奪い取られる暮らしから解放される」という意味です。1-6節の預言は「あなたはもはや何者の支配も受けず、当たり前に暮らしていけるようにされる」です。そうして民は6節「我らの神、主のもとへ上ろう(礼拝しに行こう)」と安心して言えるようになる。私たちの生活を振り返る時、様々な課題はありますが、毎日安心して休むことができ、食べることができ、礼拝できる。当たり前のようだけれど、それが奪い取られるのが争い(戦争)です。私たちは「当たり前」を改めて感謝しましょう。神さまの祝福は今も与えられているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から「新しい契約」を読み始めました。今朝はみことばを読みながら、神さまの祝福として、日々の「当たり前」の生活があったことを想起しました。神さま、日々の生活を感謝します。あなたの祝福を思いながら、今日も一日過ごせますように。救い主イエスさまの皆で祈ります。アーメン。
29日(水) エレミヤ書31章7-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は生き残った民がイスラエルに帰還する様を語った預言です。8節「目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる」と書かれます。それぞれ、周囲の助けが無ければ生きられない人々であり、社会が困窮する時、なかなか助けの手が差し伸べられない人々です。神さまは、そんな人々もちゃんと「呼び集める(連れ帰る)」と約束されるのです。今朝私が注目したのは9節「彼らは泣きながら帰って来る」という記述です。私は「泣きながら帰って来る」という記述に民の安心を見る気がします。先日3/20、1966年に静岡で起こった味噌会社専務一家4人の殺害事件、通称「袴田事件」の犯人とされた袴田巌さんの再審(裁判のやり直し)が正式に決定しました。袴田さんは無実を主張し続け、2014年に静岡地裁で裁判のやり直し(再審)が認められて釈放され、今月13日には東京高裁でも再審が認められていましたが、13日以降、東京高等検察庁が特別抗告を出すか断念するか、注目を集めていました。そして3/20、東京高検は特別抗告を断念したことが明らかになりました。今後、再審が始まるでしょうが、なぜこの話をしたかと言いますと、メディアでも袴田さんの様子が取り上げられた際、袴田さんの様子を見て「痴呆症」と思う人々も出ましたが、これに対して弁護士の亀石倫子さんがツイッターでこんなコメントを出していたからです。「(彼は)死刑が確定して48年間、告知書の独房で死と隣り合わせの日々を送って来たことによる拘禁反応で、妄想の世界にいるのです。でも、釈放後は能面のようだった表情が今は和らいできている。」人は本当に絶望し、恐怖や不安を感じ続けると、自分を守るために心の内側に閉じこもり、感情を出せなくなる。でも今朝の9節で、民は「泣きながら帰って来る」のです。それは、押し殺していた心が回復され、感情が表で出るほどに安心した姿です。神さまの救いは身体的なだけでなく、心をも救い出してくださるのですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは苦しい生活を強いられていた民が泣きながら神さまの救いを味わっている姿を読みました。それは、押し殺していた心が解放された姿です。神さま、あなたの救いは身体だけでなく心をも救ってくださいます。あなたの御業が私たちにも世界にも実現しますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
30日(木) エレミヤ書31章10-14節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまに救われた民が帰還してくる光景と、彼らが豊かな食事と祭りを喜び祝う様が記されます。注目したのは、聖書の中で多用される表現ですが、神さまが羊飼いに譬えられていることです。羊飼いは民にとって非常に身近な存在でした。羊は臆病で、自ら身を守る術を持たぬ生き物です。目が悪いため、群れのリーダーを見失うと途端にパニックに陥るそうです。そんな羊を守る存在が羊飼いです。羊飼いは四六時中、羊と共に生活し、また時に強盗や野獣から身を挺して羊を守ります。つまり、常に共にいて守り導く存在です。聖書を読んでいて「面白い」と思うのは、実は、人々が持つ羊飼いのイメージは決して良くなかったことです。羊飼いは前述のように危険だし、放牧の際に他人の土地にも入って草を食べさせるので「強盗」と同じように扱われたし、何より律法や規定を守れないので「罪人」と考えられました。でも、聖書は各書で神さまを「羊飼い」と譬えます。私見ですが、そこには「杓子定規に規定で民を縛り付けるよりも、私たちの人生に伴い、生かす柔軟な方」というイメージもあるのかもしれません。私たちも、神さまを「〇〇せねば赦されない」と怖いイメージでみるのでなく、話の分かる、でも私たちを生かし導くために本質はしっかり守らせる羊飼いとイメージした方が、神さまを理解しやすいと思います。新年度は久留米教会でも、皆さんと共に神さまを喜び祝って踊る宴会(13節)が行いたい、と願っています。ちなみに、羊に与えられた大事な能力は、何年経とうと主人の声は決して間違わないことだそうです。私たち、神さまの御声、御心は外さないで生きるものでありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所では、神さまが「羊飼い」に譬えられていました。羊飼いのイメージは私たちに、神さまの姿を様々想像させてくれます。あなたが柔軟な、でも本質を決して外さない羊飼いでいてくださるから、私たちもその御声に常に従える羊であらせてください。守り導いてくださる神さまに感謝し、祈ります。アーメン。
31日(金) エレミヤ書31章15-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイ2.18で引用された預言です。「ラケル」は創世記の族長ヤコブ(後にイスラエルに改名)が最も愛した妻で、ヨセフとベニヤミンの母です。ヨセフの息子がマナセとエフライムで、イスラエル12部族にはベニヤミンとマナセとエフライムが加えられています。なので、この箇所が伝える「ラケルの悲嘆」は、祖国滅亡と捕囚を意味します。ここで注目したいのは、エレミヤが祖国滅亡と捕囚を「母の悲しみ」で表現したことです。古代社会では女性は家の財産と扱われ、社会的発言権を持つのは成人男性だけでしたから、悲しみを表現する際、「父ヤコブが衣服を引き裂いて嘆く」でも良かったはずです。でもエレミヤは「母ラケル」と表現した。そこには、理屈を超え、命を生み育んできた母が、密接に心が結びついている子どもと引き裂かれ、深い痛みを伴って泣く姿で、神さまの痛みをも表現したと思うのです(理由は明日の箇所)。でも神さまは続けて言う、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある。」神さまの御業は人を追い詰め、滅ぼして終わりではない。必ず祝福と希望がある。それこそ深い心の痛みにさえ神は寄り添い、涙を拭っていくのです。今日は年度最後の日です。嘆きは必ず祝福に代わる。課題を抱えている方はそう祈りながら、年度を締めくくりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でエレミヤは母ラケルに言及しながら、率直な心の痛みにも寄り添い、涙をぬぐい、癒してくださる神さまを預言しました。神さま、あなたの御業には未来と希望があります。年度最後の日、私たちは課題にも痛みにも寄り添い、整えてくださるあなたへの信頼を分かち合います。どうぞ、あなたの良しと思われる時に、最善の仕方で御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
4月1日(土) エレミヤ書31章18-20節
一言メッセージ:今朝から23年度です。新しい生活、学業が始まった人たちを覚えて祈りたいと思います。さて、今朝の箇所はエレミヤ書で極めて大事な箇所です。この箇所は戦後間もない1946年、神学者・北森嘉蔵が『神の痛みの神学』を発表した際、中心テーマとして取り上げた箇所です。18-19節ではエフライム(北イスラエル)が、「自分たちが神さまを蔑ろにしたために懲らしめとして祖国滅亡を経験したが、そのことを通して自分たちは本当に神さまに立ち返って生きることを思い知った」悔い改めの箇所です。これを受けての神さまの言葉が20節なのですが、北森嘉蔵はこの箇所に不思議な記述を見出します。文語訳で読んでみます。「エホバ(神)いいたもう、エフライムは我が愛するところの子、悦(よろこ)ぶところの子ならずや、我彼にむかいて語るごとに、彼を念(おも)わざるを得ず、是(ここ)をもて我が腸(はらわた)、かれの為に痛む。我必ず彼を恤(あわれ)むべし。」波線部を新共同訳は「わたしは彼を憐れまずにはいられない」と訳していますが、「憐れむ」のニュアンスは文語訳聖書が語るように「相手の訴えで自分の腸がねじ切れるほどに痛む(共感する)」です。北森が注目したのは「神さまは、冷徹にエフライムの罪を断罪し、正義に基づいて罰を与える裁判官のような存在でなく、御自分もエフライムのことを思うと一緒になって痛みを感じつつ、彼の立ち帰りを願い続ける存在である」と論じたのです。昨日の箇所で「ラケルの涙」を取り上げ、「神さまは母のように、民を思って痛む」と書きましたが、正にそれは今朝の箇所にある通り、神さまは自ら痛んでまで民を愛し、しかし正そうとされる方なのです。考えてみると、私たちもまた、イエスさまの十字架という痛みを通して神さまの愛を知り、救われました。神さまは今も私たちのために痛みを負いつつ、私たちを愛し、正し、整え、導こうとしてくださっています。新年度のはじまり、この神さまの伴いを感じてスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝私たちは、あなたが痛みをも引き受けながら、私たちを愛し、救い、今も導いてくださる方であることを分かち合いました。新しい年度もあなたの御心を模索します。どうぞ導いてください。特に進学、就職、新しい生活を始める方々を祝福し、お守りください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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