3月19日~25日のみことば - 2023.03.18 Sat
3月も半ばを過ぎ、いよいよ桜も開花し始めましたね。
教会の桜も今日、一つだけしっかり咲いているものを発見!!
いよいよ春本番だなあと感じています。
今年度の礼拝も残すところあと2回。
まあ、年度が替わっても毎週日曜日の礼拝は続きますから、何ということはないのですが、教会の子どもたちを中心に、引っ越しをしたり、新たな学校に進んだりという子も多いので、年度の切り替わりの時は、やっぱりなんだかドキドキ?ワクワク?します。
そして、そんな変化の時だからこそ、「変わらない神さまのことば」をこころにもって歩んでいくことのできる幸いをかみしめる時期です。
皆さんは、年度で何か変化があるでしょうか?
新しい歩みを始める方にも、特別変化のない方にも、神さまの導きが豊かにありますようにお祈りします♪
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19日(日) エレミヤ書26章1-節
一言メッセージ:26章から45章までは、エレミヤの活動の記録です。今朝の箇所は「ヨヤキム王の治世の初め」に語られた預言です。ヨヤキム王は宗教・政治改革を行ったヨシヤ王の次男で、ヨシヤ王がエジプト軍と戦って戦死した後、兄のヨアハズが即位しますが、すぐにエジプトによって廃位され、弟ヨヤキムがエジプトの支配下の王として立てられます。彼はエジプトへの貢物のため、民に重税を課し、その中から自分の私腹を肥やした王です。後にバビロンの影響が強まるとバビロンにも貢物を贈るのですが、バビロンからの離脱も画策したため、第一次バビロン捕囚を招いた人物です。彼の治世は民にとって悪政でした。そんな時代にエレミヤは神から「一言も減らさず、わたしが命じる言葉を全て語れ」と促されます。その言葉は「神に立ち帰らねば、エルサレムも神殿も滅ぼされる」でした。これを聞いた「祭司と預言者と民のすべて(7節)」はエレミヤを捕らえ「あなたは死刑に処せられねばならない」と訴え出ます。エルサレムと神殿の破壊預言を神への冒涜と考えたからです。これに対して12-15節でエレミヤは自らが神に遣わされた預言者であることを明言し、「神の御心に聞くこと」を強調します。結果、16節で裁判官であった「高官たち」と取り囲んでいた「民のすべての者」はエレミヤの無罪を宣言します。それは「主の名によって(主に派遣されて)語った」と理解されたからです。さらに17-19節では長老たちが判決を支持し、100年前のミカ預言を論拠に、「主が災いを思い直されるかもしれない」と発言します。今朝わたしは、この箇所にいろいろ思わされます。例えば、「今はイエスさまの受難を覚える受難節。もしイエスさまがエレミヤのように抗弁していたら、また民が感情に流されずに歴史をちゃんと受け止めていれば、イエスさまは十字架にかからなくて済んだか」とか、エレミヤを敵視した「祭司と預言者」は、彼ら自身が神のみことばを正しく聞かねばならないのに、既得権を守るためだとか、「エルサレム、神殿は聖いモノ」という固定概念だけで反発したのだろう、とかです。さらに、長老がミカ預言を根拠に高官の判決を支持したのも、歴史が未来を方向付けるヒントとして正しく用いられていた、とか。皆さんはどう感じますか?どうぞ、それぞれに考えてみてください。そして、考えたように行動してみてください。今朝、エレミヤも14節「お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい」と促しています。神さまと向き合い、判断し、行動するのはあなた自身です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からエレミヤの行動報告を読み始めます。エレミヤの預言は激しく、だから彼を排除しようとする者も出てきます。けれど、エレミヤは臆することなく、「お前たちが正しく、善いと思うことをなせ」と民に、そして私たちに促します。それは、周囲に流されず、きちんと神さまと向かい合って行動することの促しです。私たちはその促しにより、御心を模索します。神さま、どうぞ私たちに、御心を模索する静かな心と冷静な判断と、踏み出す勇気とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
20日(月) エレミヤ書26章20-24節
一言メッセージ:今朝の箇所は「預言者ウリヤの死」です。エレミヤと同じく、滅亡預言を語った預言者ウリヤは王たちの怒りを買い、エジプトに亡命するも、連れ戻されて処刑されます。23節では「王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた」とあります。埋葬すら許さず、肉体が獣に食われて滅び、復活の希望すら奪われる、呪われた死の光景です。今朝の箇所を読みながら私たちは「神の御心に従って生きた預言者がどうして無残に死ぬのか。エレミヤは助けられるのに、どうして神はウリヤを助けないのか」と感じたりもします。それは私たちにとって謎のままです。でも考えてみると、イエスさまもまた十字架上で無残に殺害されたのです。十字架上の殺害が無かったのではない。殺害された。でも神さまはイエスさまが死んだままで終わらないように、復活を与えられた。私たちの信仰は「理不尽な出来事が起こらないために信じる」ものでなく、「理不尽な出来事が起こってもなお、神が私たちに目を留め、顧みてくださると信じる」ものです。そして、イエスさまの復活は「その信仰は必ず応えられる」と証しているのです。今週も、イエスさまの受難と復活が私たちに何を示しているか、考えつつスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は預言者ウリヤが無残に殺害された記録を読みました。正しい人の理不尽な死に私たちは「どうしてこんなことが」と思います。でも神さま、イエスさまも理不尽に死なれました。そう思い返す時、私たちは「理不尽な出来事が起こらない」ではなく、「理不尽な出来事が起こっても、それでも神さまは私たちを顧み、整えてくださる。それは死の先においても」と信じます。どうぞ、今週もイエスさまの死と復活を思い起こし、自分たちの生活と重ね合わせながら「どこに福音を見出せるのか」と問うてスタートさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
21日(火) エレミヤ書27章1-22節
一言メッセージ:27-29章は南ユダ最後の王ゼデキヤ王の治世でのエレミヤ預言です。エレミヤは神さまに命じられ、差し迫ったバビロンに対して服従することを示すべく、軛を作って自らはめ、象徴行動をとります。3節を見ますとエレミヤはユダの王ゼデキヤだけでなく、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王にも軛を示します。彼らが結託して反バビロン同盟を結成しようとしていたからです。エレミヤは彼らに対して「バビロンに従うように主は言われる」と繰り返します。エレミヤのこの預言は徹底抗戦を求める多くの人にとっては弱腰に思われたでしょう。でもそこで冷静に考えねばならないのは、徹底抗戦を主張する人々の論拠です。彼らは「周辺国が結託すれば、バビロンもおいそれと手が出せない」と考えたのだろうが、それは希望的観測に過ぎない。加えて、その希望的観測の主張をさらに強固にするべく、彼らは「私たちの神が共にいる、神殿がある」と主張したでしょう。でもエレミヤはその根拠を「主なる神が言われる、バビロンに従え」と崩します。もし私たちがこの時にエルサレムにいたら、どう判断したでしょう。非常に判断に悩んだでしょう。そんな私たちに聖書は示します、「決断に困る時ほど、私たちは己の希望的観測ではなく、神さまの御心から冷静に考え、祈りなさい」と。今朝の続きはまた明日です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤはゼデキヤ王と周辺5国の王にバビロンへの服従を説きました。それは、神の「どうしてお前たちが死んでよいか、どうして都が廃墟と化してよいか」との憐みでしたが、民の中では己のプライドや希望的観測のため、徹底抗戦を求める者もいます。神さま、この状況に私たちは自分たちを重ねます。私たちもまた、己の願望のため冷静さを失うこともあります。でもどうか、その時こそ、冷静に鎮まり、御心をこそ模索する私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
22日(水) エレミヤ書28章1-17節
一言メッセージ:今朝はエレミヤとハナンヤという預言者の対決記事です。バビロンへの服従が神の御心と説くエレミヤに対して、ハナンヤは「主はこう言われる」と自らを「神さまから遣わされた預言者」と宣言しながら、「2年のうちにバビロンが崩壊し、第一次捕囚で連行された仲間や奪われた祭具が取り戻される」と預言します。そしてハナンヤはエレミヤがかけていた軛を外すと、打ち砕いて、「このようになる」と宣言します。今朝、私が注目したのは15節、エレミヤがハナンヤに語った言葉です。エレミヤは告げます。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前は民を安心させようとしているが、それは偽りだ。」エレミヤはハナンヤが預言した根底にあるのは「民を安心させようとする、お前の思い」と指摘します。ハナンヤは「民を不安にしたくない」と考えた。それは優しさだったかもしれません。しかし、個人や集団の願望であって、「御心」とは区別せねばなりません。私たちは時に苦言を呈されることがあります。その時、私たちは(相手次第でもありますが)感情で反発したり、攻撃的になることもあります。でも、私たちはその時、少しだけ思いとどまって「神さま、この苦言はあなたの御心ですか?それとも、単なる誹謗中傷ですか?」と考えたい。私も「神さまの御心かもしれない」と思ったら、相手が誰であれ、受け止めて反芻しようと努力します(「できる」と断言できないので「努力」です)。「御心じゃないだろう」と思った時には断固、対峙します。エレミヤが示した大事なことは、「御心はどこにあるか」と純度を高めながら模索することです。御心と願望をごっちゃにしてはいけないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤはハナンヤと対決し、ハナンヤの根底にあるのが「民を安心させたい」という願望であると指摘しました。それは優しさかもしれませんが、願望があなたの御心を混同した時、私たちは結果、あなたの御心を軽んじてしまいます。どうか私たち、今朝の箇所をしっかり受け止めつつ、あなたの御心を第一に求める者であらせてください。御心に従ったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
23日(木) エレミヤ書29章1-23節
一言メッセージ:今朝はエレミヤが第一次捕囚でバビロンに連行された同胞に書き送った手紙の言葉です。エレミヤは捕囚の民に向かって「家を建てて住み、園に果樹を植えて食べ、妻をめどり、…人口を増やし、減らしてはならない(5-6節)」と語ります。それは「定住の勧め」であり、捕囚の民には「祖国への帰還を諦めよ」との絶望的な響きに聞こえたでしょう。でも、その言葉だけに心捉われてはいけない。10節で神さまは「七十年の時が満ちたら、わたしはあなたたちを顧みる」と未来を語る。11-14節前半は私がよく礼拝の祝祷で選ぶ箇所です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」私たちは自分の目の前に辛い出来事があると、心が揺れ動き、「一刻も早くこの事態が改善されるように」と願い、祈り、祈りが叶えられなければ「神さまはいない」と散々、不幸を嘆きます。厳しい指摘をすれば、その時の私たちは自分本位です。神さまの意図を最後まで理解せず、言葉じりしか聞いていないのです。神さまは言われる、「わたしがあなたに与えた計画は平和の計画である。そのために、今は災いに見えても忍耐しなさい。あなたが自分の願望で私を見ることを止め、正しくわたしを呼び、祈り、求める時、わたしはお前に応えるし、お前は本当の私を見出し、出会う」と語ってくださる。その時を待つべく、神さまはバビロンでの定住を促した。エレミヤは私たちに「自分たちの願望で物事を見ることを一度止め、神を信じ、この出来事を通して神さまは何を示そうとしているのかと問いなさい」と促します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤ書を読み続けながら何度も厳しさを感じてきました。でも、今朝の箇所にてあなたは、困難の先にも祝福があると思い起こさせ、だからこそ忍耐し、日々を生きるようにと示してくださいました。神さま、どうぞ私たちに忍耐と、御心を探し求める信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
24日(金) エレミヤ書29章24-32節
一言メッセージ:ここ最近、真の預言と偽りの預言の違いがずっと強調されています。真の預言とは、ただただ純粋に神さまの御心をこそ語り伝えることであり、偽りの預言とは己が願望や都合にで「神の御心」を語ることでした。今朝の箇所でもバビロンの捕囚として連行されていた祭司シェマヤが、エレミヤがバビロンの捕囚の民に書き送った手紙に立腹し、エレミヤを排除するように祖国の祭司に働きかけてきます。エレミヤはそんなシェマヤに対して神の預言を告げます。「わたし(神)は彼(シェマヤ)を遣わしてはいない。彼は偽って、あなたたちを安心させようとしている(31節)。」そしてシェマヤ本人は言及されませんが、彼の子孫が潰えて行くことが語られるのでした。大変厳しい言葉ですが、それだけ、神さまの御心を模索すること、語り伝えることは謙虚さが必要なのです。私自身もいっそう気をつけますが、皆さんもぜひこの指摘を心に刻んでください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝も改めて「御心と自分の思惑、願望を区別すること」が示されました。あなたが「唯一の主」であることの大切さを改めておぼえます。どうぞ私たち、大事な事柄の時ほどちゃんと、昨日の箇所で約束されたように「災いの計画でなく、平和の計画のために」あなたの御心を模索して決断する者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
25日(土) エレミヤ書30章1-3節
一言メッセージ:30-33章は「慰めの書」と言われる、バビロン捕囚からの回復預言です。今朝の箇所はその序文です。短い箇所ですが、私はこの箇所に3つのことを思います。①「神のことばは、ひとつとして違えられることがない。」神さまは2節で「わたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻き物に書き記しなさい」と命じます。書き残されるということは、後に読み返され、検証されることです。私たちが書いた言葉は、時に「あの時はこう言っていたけれど…」と言い訳しながら訂正せねばならない事柄も多い。しかし神さまは「ひとつ残らず書き記しなさい」と告げます。それはご自分が語った言葉が何一つ違えられていないことを、後に証明するためです。②「厳しい現状は未来永劫続くものではない。」神さまは3節で「回復する日が来る」と語ります。「回復する日が来る」ということは、まだ現状は厳しいのです。でも神さまは「必ず現状は祝福へと変わる。だから期待して待て」と告げるのです。③「祝福は初めから与えられていた。」3節で神さまは「回復」として「彼ら(捕囚の民)を先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」と宣言します。「未だかつてなかったほどの祝福を与える」と言ったのでなく、「私がはじめにあなたたちの先祖に与えていた祝福を、あなたたちにも与える」と告げています。いうなれば、神さまの御心に従って生きていれば、先祖に与えておられた祝福に生きることができていたはず。しかし、神さまを離れて思うままに生きた結果、彼らは自分の居場所を失う捕囚となっていた。でも神さまはその民に、はじめからの祝福を再度、取り戻させると言われる。それは、神さまとの向き合い方も原点に戻って生きればいいとの示唆です。3つの示唆を思い返しながら、今日もスタートです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は3つの示唆を見出しました。あなたのお約束は違えられぬこと、直面する厳しい現実は未来永劫続くものではないこと、あなたは私たちを整えてもう一度向き合ってくださること、です。どうぞ3つの示唆を覚えながら、みことばを読み、日々を過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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