2月19日~2月25日のみことば - 2023.02.18 Sat
三寒四温。少しずつ温かい日が増えてきましたね。
温かくなってきたせいか、今日教会の外の階段の壁ににテントウムシがいるのを発見しました。
また、ふと見上げると教会の桜の枝のつぼみが少しずつ膨らみ始めていましたし、チューリップの球根からは葉が伸び始めています。
忙しくしていると見落としてしまいそうな変化。でも立ち止まって眺めてみると寒い冬を超えて春がそこまで来ていることを感じたのでした。
みなさんも、「春探し」してみてくださいね。
今週も、皆さんの歩みに神さまの守りと導きがありますように♪
***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択 : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択 : エレミヤ書
・章選択 : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)
19日(日) エレミヤ書14章13-18節
一言メッセージ:今朝の箇所は偽預言者たちへの厳しい警告です。彼らは昨日の身勝手な民同様、自分たちの罪を本気で悔いず、それよりも神さまの約束を理由にして「神が私たちを見捨てるわけがない」と安直に救いを語りました。それゆえ神さまは彼らを「偽りの預言をしている」と断じます。そしてエレミヤに対して、「こう民に語れ」と17-18節を示します。「わたし(エレミヤ)の目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。」その涙の意味は、神さまの悲しみを代わって表現する意味と共に、エレミヤ自身の境遇の辛さも神さまは理解してエレミヤに寄り添っているのだと感じました。私はこの言葉に、牧会の役割を託された者として、胸が締め付けられます。牧師とは「教会のために一生懸命に祈りながら、『神さまはこの教会をどう導こうとしておられるのだろうか』と模索しながら牧会する者」です。だからこそ、時に、教会の人たちから「嫌われるかもしれない」と思いながらも「これは神さまの示唆とは違う」と苦言を呈したりする。そのことで教会にギクシャクを生じさせることになっても、「教会は人によって成れるものでなく、神によって成れるもの」と信じて牧会します。逆に自分たちの中では「神さま、私だって思うところはあるんですが」と祈りながら、「でも神さまの御心よりも己が都合を優先してはならない」と強く自戒します。17節で神さまがエレミヤに示した言葉は、エレミヤの預言者として祖国の滅亡を語らねばならない辛さや、様々な感情を全部、理解しての言葉と考える時、私は、私たちの心の奥底まで知っていてくださる神さまへの安心と共に、改めて「信じて従う」責務を覚えます。今日は日曜日、心してみことばの御用に当たります。10:30からご一緒に礼拝に集えることを祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は自分自身に突き付けられた言葉でした。教会のために祈りながら、だからこそ慣れあいでなく、御心に生きることを改めて示されました。今日は「牧師」という自分の役割から語りましたが、これはクリスチャン一人ひとりにも同じく問われる生き方です。神さま、どうか私たち一人ひとりが、あなたの御心を模索しながら一日一日を過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
20日(月) エレミヤ書14章19節-15章4節
一言メッセージ:今朝も干ばつに際しての民の嘆き(14.19-23)と神さまの言葉(15.1-4)です。14.19-23は14.7-9と同じで、民は神さまに対して自分たちの苦境を訴えながら、「我々は自分たちの背きと先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました(20節)」と罪を告白し、21節で救いを願い、22節で「神さま以外に縋れるものがない」と訴えます。しかし神さまは、彼らが上辺の言葉に終始していると断じる。それが15.1-4です。15.1「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない」はとても厳しい言葉です。モーセは出エジプトの指導者で40年に亘って神さまはモーセと共に民を導き出しました。サムエルはサムエル記に記される、王政が始まる前の最後の「神の人(直接神さまと対話する指導者)」です。そんな人々が執り成しても、神さまは「顧みない」と宣言し、「わたしの前から彼らを追い出しなさい」とまで語る。神さまがそこまで民に怒りを燃やしたのは「マナセ」のためと書かれます。マナセは南王国で経済的に大繁栄しましたが、同時に、民の中で格差を作り、貧しい人々を蔑ろにした悪王です(列王記下22.10-16)。一見すると、イスラエルの罪はマナセ個人のためと指摘したように見えますが、私はそうではないと思う。マナセの悪政に止めず、逆に悪政の責任をマナセに負わせつつ、利益に走っていた民衆のことも指摘していると感じます。だからこそ2節の言葉のようになるわけです。映画監督・伊丹万作は1946年、病床で「戦争責任者の問題」という文章を発表しました(インターネットで調べるとすぐに出てきます)。伊丹は、戦中に熱心に戦争に賛同していた人々が、戦後手の平返すように「自分たちは騙された」と主張し、戦争責任を受け止めずに、むしろ被害者面していることを指摘します。彼の文章の一部を引用します。「『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」私たちは過去の過ちを繰り返さないように、真摯に神さまと向き合い、歴史を受け止めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたはイスラエルの民の上っ面の悔い改めを指摘し、内実は自分本位で、あなたに「自分たちを愛し、守る義務」を押し付けていることを示します。それは私たちにも通じる弱さです。神さま、私たちが安易に被害者面して身勝手な理屈を並べ立てないため、誠実な生き方と歴史を正しく見る目をお与えください。今の時代を次の戦前にせず、食い止められますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
21日(火) エレミヤ書15章5-9節
一言メッセージ:今朝の箇所はエレミヤ自身の言葉ではなく、彼の弟子たちによる預言と考えられます。内容は凄惨です。目が留まったのは6節最後「(わたしは)お前を憐れむことに疲れた」です。神さまがエルサレムの民を救うべく、何度も何度も悔い改めを呼び掛けてきた。けれど民はその度に神さまを裏切り続けた。だから神さまは「憐れむことに疲れた」と語る。子育てしていますと、嬉しいこと、楽しいことも多いですが、疲れることも多々あります。恥ずかしながら、時に感情的になり、「そこまで言うこときけんのやったらウチから出て行け!」と怒鳴ることもある。子どもを大事に思うがゆえに余計に見限ることができず、感情が爆発するのですが、怒鳴った後、自分で落ち込みます。将来、我が子たちが親になり、同じように子どもを叱りつけた時、少し思い出してほしいのは、「それだけ真剣だし、親も疲れていた」ということです。きっと神さまも同じでしょう。民に対して真剣であるからこそ厳しい言葉を告げるし、疲れるし、深く嘆く。エルサレムの民はとうとう滅びるまで、神さまの真剣な呼びかけに気づきませんでした。私たちはそこまで行く前に、神さまの呼びかけに真摯に向き合う者でありましょう。神さまは私たちに対して真剣です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所であなたは率直に「憐れむことに疲れた」と語られます。それは、民に対して真剣であったからこその疲れです。神さま、あなたはきっと私たちにも同じように真剣に呼びかけてくださっているでしょう。どうぞ私たちはあなたの呼びかけに真摯に向き合い、あなたの救いを喜び、悔い改めるべきは正し、誠実に生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
22日(水) エレミヤ書15章10-11節
一言メッセージ:エレミヤ15.10-21はエレミヤ書で5回にわたって記される、「エレミヤの告白」の1つです。今朝の箇所では、エレミヤの切実な挫折と神さまとの対話が描かれます。大事な箇所なので、3日に分けて読みます。今朝は10-11節です。10節で深い嘆きが書かれます。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。」ユダヤ人は基本的には与えられた命を神さまの創造の業と結びつけて「祝福」と理解します。でもここでエレミヤは自分の誕生を呪い、嘆いている。それくらいにエレミヤは追い詰められていた。具体的な内容は、人々から「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男」と罵られることです。具体的には、エレミヤが取り次ぐ神さまの預言が祖国滅亡であるため、人々から敵視され続けることです。彼は誰かの債権者になることも債務者になることもなく、生活は実直だったのに、神さまの預言者を仰せつかったばかりに、理不尽とも言える誹謗中傷に苦しむ。なのに11節では「敵対者のためにさえ幸いを祈ってきた」と嘆く。大変辛い言葉ですが、でも一方で、私たちはこの言葉に慰めも見出す。それは「預言者であっても、神にここまで嘆き呪うのだ」という人間の現実を見るからです。考えてみますと、マルコやマタイの福音書でイエスさまも十字架で死ぬ直前、「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか」と訴えました。エレミヤの嘆きに通じる言葉です。私たちはそこにも「エレミヤの嘆き、イエス・キリストの嘆きは空しく響いて終わりではない」ことを見出します。この叫びは神さまがちゃんと受け止めてくださる。いわばエレミヤもイエスさまも、神さまが受け止めてくださるとの信頼を持って嘆いている。私たちはここに、私たちを丸ごと受け止めてくださる神さまを見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは自分の誕生を呪い、預言者として生きる辛さを訴えました。確かにそれは辛くもあります。でも神さま、私たちは同時に、ここまで率直な思いさえ受け止めてくださるあなたを見出します。あなたはエレミヤにどう応えるか、明日以降も読み続けます。どうぞ私たちに生き方を見出させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
23日(木) エレミヤ書15章12-16節
一言メッセージ:「エレミヤの告白」と呼ばれる切実な訴えの2日目です。12節の「鉄は砕かれるだろうか。北からの鉄と青銅は」は、北から襲ってくるバビロンの脅威を感じながら、「果たして預言のとおり、バビロンが倒される時が来るのか」というエレミヤの自問です。でも13-14節で神さまはバビロンによるイスラエル滅亡を告げる。だからエレミヤもその預言を人々に語ります。でも預言を語ることはエレミヤにとっては苦しくもある。だから15-16節で再びエレミヤは自分の苦しさを訴えます。15節の終わり「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えていることを知ってください。」16節でエレミヤは自分の過去を振り返ります。「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」はヨシヤ王の時代、神殿の壁から発見された申命記を神さまからの託宣と受け取った王が、申命記に基づいての宗教改革を始め、エレミヤがそのことを心から喜んだとの回顧です。エレミヤは「神さま、私はそれ以来、ずっとあなたの御言葉に忠実に生きてきたじゃないか」と訴えた。エレミヤは「私は神さまを信じ、誠実に生きてきたはずなのに、どうしてこんな目に遭うのか」という嘆きでした。私たちはエレミヤの嘆きを読みながら、どこか共感してしまう。自分たちにも「神さまを信じているのに、どうしてこんな苦労をせねばならないのか」と考えたことがあるだろうと思うのです。でも、私たちはその疑問の中で考えてきた。私たちの信仰は「信じる者だけが得をする」ご利益宗教ではない。イエスさまは私たちが信じる前に既に十字架にかかり、私たちを救ってくださった。私たちの行動に先立ってイエスさまは私たちを愛し、救ってくださった。神さまの愛と救いが先、私たちの応答は後です。ならば、「信じる者だけがご利益を受ける」のが私たちの信仰では無いのです。だから「信じているのにどうしてこんな苦労をするのか」は心情としてはとても共感しますが、私たちはその考えから脱却する。そして、私たちはこう信じるのです。「神さまは私たちを祝福し、必ず困難の先を見越して私たちを最善へと導いてくださる。この苦労は後々、『やっぱり神さまってすげぇ!』という前フリ。だから私たちはこの苦難にも寄り添ってくださるイエスさまと、この苦難の先にどでかい祝福を準備くださっている神さまに期待して、今日も生きる」です。未来への希望を持って今日を過ごし、明日のみことばへと読み繋ぎましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは「誠実に信じてきたのに、どうしてこんなに辛いのか」と訴えました。その言葉に私たちは深く共感します。でも一方で、私たちの信仰は自分だけのご利益でなく、あなたの導きが私も周囲も世界も全てを最善へと導く御業が起こるという信頼でした。神さま、あなたの御業を信じます。どうぞ御業を行ってください。私たちが困難の中でも信じて耐えることができますように。受難の先に復活を示してくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
24日(金) エレミヤ書15章17-21節
一言メッセージ:今朝は「エレミヤの告白」の最終日です。今朝もなかなかに重たい訴えから始まります。17節でエレミヤは預言者であるがゆえに人々から虐げられ、孤独であったことを訴えます。18節では神さまを「裏切者」と呼ばわり、「当てにならない」とけなしたのです。その不敬とも言える言葉を受けて、神さまが語る言葉が19節からです。神さまはものすごいことを語ります。キーワードは「帰るところ」です。神さまはエレミヤに「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせる」と語り、「あなたが彼ら(人々)の所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と呼びかけました。どういうことか。エレミヤは「私は孤独だ。祖国の人々も、故郷アナトトの同胞も、預言者として神さまのみことばを取り次ぐ自分を敵対し、遠ざけている」と訴えます。でも神さまはエレミヤに「わたしの許こそが彼らの帰るべき場所だ。エレミヤ、あなたは今そこにいるのだ。だから、彼らが私の許に帰るために、あなたは今、留まりなさい」と告げたのです。これはエレミヤへの励ましであり、使命の再授与の示しでした。20節で神さまはエレミヤを「あなたを堅固な青銅の城壁とする」と宣言します。攻めるための武器でなく、守り耐えるための城壁です。エレミヤが民の中に踏みとどまることを神さまはご自分の御業の証として立て、「わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す」と宣言されたのです。先日までディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者についての研究本を読んでいました。ボンヘッファーはナチス・ドイツが台頭した1930年代初頭に既にヒトラーやナチスの危険性を指摘し、反対者として活動し、最後はヒトラー暗殺計画に加わったため、逮捕・殺害された人物です。ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画に加わったことは今でも「信仰者として正しい行動だったのか」との問いもあります。でもボンヘッファー自身は自らを「正しい」とは言わず、私たちが目指すべき「正しさ」とは、自分たちの判断でなく神さまの判断を仰ぐこととしています。彼は信仰者の生き方について、こんなことを書いています。「われわれがキリスト者であるということは、今日では、ただ一つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと人々の間で正義を行うこと。」ボンヘッファーにとって「祈ること」は日常生活での自分の悲嘆や限界を超え出て、神さまの御心に従って現実に固く立つことであり、その祈りによって私たちは「正義を行って」生きるべく促されているのです。神さまはエレミヤに「苦しいだろうが、あなたが立つべきところは私の御心。世間が騒ごうとも彼らは必ずあなたが立つ、私の御心に帰ってくる。だからあなたは私と共に立ち続けなさい」と告げました。厳しさの中にある希望です。そこに神さまは共に在ってくださるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは苦しみ訴えるエレミヤに「わたしの許にこそ立ち続けなさい」と告げました。私たちはその言葉に、あなたの御心に基づいて立つならば、苦境の中でも私たちは孤独でなく、必ず全てが御業の中で整えられていくこと、そのために私たちはなお信じて生きることを示されます。神さま、あなたの御言葉を信じ、従います。どうぞ御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
25日(土) エレミヤ書16章1-13節
一言メッセージ:今朝は神さまがエレミヤに「このところで妻をめとるな、子を得るな(2節)」とか「弔いの家(滅びていく人々の中)に入るな(5節)」とか、「彼らとの酒宴に加わるな(8節)」と命じ、神の預言を語り続けるように告げます。そこで10節、民は「なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かすのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか」と問う。これに対して神さまは11-13節で端的に「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と答えます。非常に興味深いのは「お前たちがわたしを捨てたから」でなく「お前たちの先祖が」と告げていることです。12-13節を読むと、エレミヤと同時代の民も神さまを捨てている。けれど神さまは「先祖」から指摘します。エレミヤ時代の人々も神さまを捨てていたが、彼らは「これは先祖以来の慣習だ。ずっとやってきたのだから、悪いことであろうか」と考えていた。神さまはそこを指摘します。人間は弱いから「伝統、風習、慣習」といった形式はそのまま「良いもの」と考えがちです。でも神さまは「先祖の風習が私への背きであったことを知らず、どうしてお前たちは『我々が悪や罪を犯したとでも言うのか』と主張できるのか」と告げた。そこには、神さまの御心と照らし合わせて自分たちの生き方を顧みる大事さを教えられます。どうせ慣習があるならば、私たちは神さまという本質から物事を考える「慣習」を作りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たちの「伝統、風習、慣習」の盲点を指摘されました。ドキッとします。神さま、私たちに「いつもあなたの御心から物事を考える」新たな慣習を持たせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
***
スポンサーサイト
● COMMENT ●
トラックバック
http://kurumeodori.blog117.fc2.com/tb.php/421-ce8c877a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)