9月18日~24日のみことば - 2022.09.17 Sat
またしても大型の台風が近づいています。
ニュースによっては「伊勢湾台風なみ」などと言われていますから、十分用心したいと思います。
取り越し苦労になればいいのですが・・・
明日9月18日の礼拝は行いますが、どうぞ皆さん安全第一で過ごしてくださいね。
この台風を乗り越えて、秋の良い季節を迎えたいものです。
皆さんの上にも神さまの守りがありますようにとお祈りしています。
それでは、一週間のみ言葉をどうぞ!
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18日(日) イザヤ書29章9-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は南ユダ王国の指導者に向けて語られた指摘と叱責の言葉です。預言者は「今こそ、どの国にも与せず、神に頼れ。神は必ず守ってくださる」と示すのに、指導者たちは自分たちの算段に頼り、エジプトとの密約で対処しようとします。その結果、9-10節「指導者がふらつき、よろめいている(正しい歩みのできない酩酊状態)」と指摘され、また11節「封じられた書物の中の言葉のように(神さまという最善の手段があるのに意味が分からず無駄にしている)」と神さまは嘆きます。今朝、ご一緒に注目したいのは13節「彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚えこんだからだ」という言葉です。神さまはイスラエルの信仰が、神さまと誠実に向き合って御心を模索するのではなく、「誰それ先生がこれを守れと教えられたから」とか「信仰とはこういうものだと倣ってきたから」と形式を反復するだけになっている、と指摘します。私はその言葉に自分たちを振り返らされます。私たちは物事を判断する時、神さまの御心を模索しようとしてきたでしょうか。そうでなかった自分を思い起こし、反省させられるのですが、直後14節で神さまは驚くべき提案をします。「それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。」神さまは「再び」「(驚くべき業を)重ねて」と語ります。民が神さまを蔑ろにしているのに、神さまはそれでも民を見放さず、もう一度(再度)、民と共にいて守り導こうと宣言される。それも「人には理解しがたいほどの御業を重ねて(連続させて)」です。私たちも自分たちの人生を振り返りますと、時に「あの時、不思議な仕方で難を逃れた」とか「あの時には全く理解できない苦しみと思ったのに、あの経験があったから今の私はある」との出来事があるのではないでしょうか。今朝、預言者が語った言葉は決して聖書の中だけの言葉ではありません。私たちにも起こってきた出来事です。神さまは今も私たちにそうやって関わり続けてくださっているのです。今朝は召天者記念礼拝、神さまを信じて生きた先達を思い返しながら、神さまを身近に感じましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はみことばに、自分たちのこれまでの歩みを振り返らされました。私たちは何度も何度もあなたの御心から離れ、己が思惑で生きてきました。でもあなたは私たちを見放すことなく、その度に御手を差し伸べ、御業を行ってくださいました。私たちは己を顧み、正しくあなたと向き合って生きる者となりたいと願います。どうぞ私たちを整えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
19日(月) イザヤ書29章17-24節
一言メッセージ:今朝は昨日に続き、イスラエルが回復されていく預言です。「耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は…見えるようになる(18節)」や、苦しんでいた人々、貧しい人々が喜ぶ社会となり(19節)、「心の迷った者も」正しさを知り、「つぶやく者も正しく語ることを学ぶ」(24節)などは印象的な言葉です。ヘブライ語の「出来事(ダーバール)」は「(神の)ことば」とも訳されますが、今朝の箇所は正にそうで、神さまの救いの約束(みことば)は、今朝の箇所では具体的に困窮する人々に実現していく。神さまは弱い立場を強いられた人々に目を留め続けてくださっているのです。今日から新しい一週が始まります。追い詰められていると感じる時、神さまのみことばを思い起こし、神さまの出来事ダーバールを模索して歩みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは「ことば」と「出来事」がヘブライ語で同じダーバールであることを分かち合いました。それは私たちの生活の中で、神さまが与えてくださったみことばが、自分たちの人生に出来事として生じていること、その出来事に神さまの御業を見出していくことの示唆でした。今日から新たな一週が始まります。どうぞあなたのみことばに励まされ、出来事の実現を見出す一週としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
20日(火) イザヤ書30章1-7節
一言メッセージ:今朝の箇所はアッシリアの圧力を回避しようと、エジプトと同盟を結ぶ南ユダ王国への嘆きのことばです。注目したいのは1節です。「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀をたてるが、わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが、わたしの霊によるのではない。」神さまは南ユダ王国が神さまの御心を模索せず、己が算段で策を練っていることに、神の意志が働いていないと告げます。神さまは1節の終わりに「こうして、罪に罪を重ねている」と語りました。先日、知らない方から「罪とは何か」とのお電話をいただきました。聖書の語る「罪」は「原罪」と「日々の罪」と大きく分かれますが、本質的には「神さまの御心に背くこと」です。人は神さまと違い、その視野は狭く、先を見通せないため、自分なりに「正しい」と思って決断した事柄が思っていた結果と違うことになったり、誰かに犠牲を強いることになったり、他の人の「正しさ」とぶつかって争いになったり…ということが多々あります。今朝の箇所の南ユダがそうで、自分たちなりに「正しい、最善」と思った決断が悪循環へと繋がってしまった。では、南ユダはどうすればよかったのか。それは、決断以前に神さまの御心を模索し、決断の度に自分の願望でなく、神さまの意志と信じる事柄を優先していくことです。神さまの御心を模索して決断することを神さまは喜びとしてくださり、御心に沿うならば大きな困難があろうとも実現へと導いてくださるし、もし私たちの決断が御心と違うならば、大胆に訂正されるでしょう。それこそ、昨日読んだ出来事(ダーバール)によって。大事なことは、先ず御心を模索すること、です。今日も神さまの御心を模索しながら一日をスタートしていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝は「罪」について考えました。私たちは限界だらけの人間ですから、「正しい」と思った決断もあなたの御心とかけ離れることもあります。だから私たちはこれから何かを決断する時、先ずあなたの御心を模索し、あなたの示唆と信じる選択を行います。御心ならば何があろうと実現させてください。御心に沿わない時は、どうぞ大胆に訂正ください。日々、あなたの導きの中で生かされているとの謙虚さを忘れず、あなたを身近に感じられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
21日(水) イザヤ書30章8-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は大事なので、三日に分けて読みます。今朝の箇所も南ユダ王国がおこなったエジプトとの同盟に関する言葉です。8節に注目しましょう。神さまは「このことを彼らの前で板に書き、書に記せ」と命じます。過ちを隠すのでなく、過ちとして記録するように言うのです。それは「後の日のため」、過ちを繰り返さないため、です。私たちはここに歴史を学ぶことの意味を見出します。歴史とは過去に起こった過ちを受け止め、二度と同じ過ちを繰り返さないため、未来のために学ぶものです。ここ数年は特に歴史修正主義者と呼ばれる人たちが「戦中の日本軍は大虐殺を行っていない、従軍慰安婦はいなかった」などと騒いでいます。彼らは戦争の被害者的視点を強調しますが、歴史を正しく受け止めていません。戦争に一方的な正義など無く、敵も味方も戦場では常軌を逸した精神状態になります。だから、どれだけ正当化しようと、戦争は相手を人と思わない暴力や殺戮です。戦後、復員してきた元兵士たちの多くは戦時の異常な状況から解放された途端、良心の呵責に苦しみ続けたことはその証です。歴史を学ぶことは、過去の過ちを繰り返さず、一方でも正しい未来を見出すためのものです。神さまは南ユダに同じく告げます。「後の日のために、歴史を正しく記せ。永遠の証にせよ」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は歴史を学ぶことの意味を分かち合いました。歴史は二度と同じ過ちを繰り返さないため、未来のために学ぶものです。来週、安倍元総理の国葬が行われる予定ですが、神さま、人権を足蹴にしてきた政治を肯定することを認めないため、わたしは国葬に反対します。国民の過半数以上が国葬に反対しているからこそ、どうぞこの国が罪に罪を重ねないように、決断を正し、事の真実を糺すことができますように。正義の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
22日(木) イザヤ書30章8-17節
一言メッセージ:8-17節の二日目です。今朝特に注目したいのは10-14節です。国の指導者は神さまの御心を模索する先見者に向かって「(神の御心を)見るな」と禁じ、神さまのみことばを告げる預言者に「預言するな」と命じます。代わって、自分たちに都合の良い耳障りの良い言葉を語るように強います。神さまは12-14節で、愚かな指導者の言動と国の歩みのために、ある時、突然、国が崩壊すると告げます。私はこの言葉が今の日本への警告に思えてなりません。私が政治に危機感を持つようになったのは2013年の特定秘密保護法からです。それまでは、どちらかと言うと政治に対して強い発言はしてきませんでした。でも、当時の安倍総理の動きは歴史好きの私から見て、戦前の軍国化と同じ方向性に見えました。いかなる言い訳を作ろうとも、指導者に都合の悪い内容を隠蔽し、国民の知る権利を侵害することには危うさしか感じませんでした。その時期によく思い出していたのが伊丹万作の「戦争責任者の問題」という文章です。1946年、病床の彼は先の戦争を振り返って記した文章です。彼は戦後、誰もが「自分たちは騙されていた」と被害者的な言い訳を繰り返すばかりで、「自分が戦争を進めてきた」と言う人間がいないことを指摘しています。「だまされた」という言葉は非常に都合よいのです。でも伊丹万作は「あえて言うが、日本人は皆、嘘をつかなかったか」と問います。「誰もが少なくとも表面的には戦争に賛同し、罰せられることを回避してきたじゃないか」と告げます。以下の言葉は非常に大事なので、彼の言葉のまま掲載します。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(伊丹万作の言葉はネットで全文が掲載されています。ぜひ検索してみてください。)
ここ10年、日本が急激に歴史修正主義の方々が騒ぎ出し、右傾化してきた理由の1つは戦争を直接経験した世代が減ってきたことがあるでしょう。だとすると、これからますます私たちの国は過ちを繰り返す危険性が増してきます。そうさせないために、私たちは都合の良い言葉に逃げず、歴史を受け止め、声を上げる必要があると思うのです。神さまは告げています。「神の言葉を拒み、抑圧と不正に声をあげず、わが身を守ることだけを願うなら、崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は南ユダ王国の指導者たちが先見者や預言者を黙らせ、自分たちの都合の良い言葉で民をコントロールした結果、国が瞬く間に崩壊していくとの預言を読みました。その言葉に私たちは今の日本の現状を重ねます。二度と戦争させないために作られた憲法は、「政府のかつての行為(憲法前文)」を抑えるために国民に主権を託し、基本的人権を明記し、不断の努力を求めました。神さま、今わたしたちはその努力をする時です。どうぞ政府の暴走を認めず、過ちを繰り返さないために、みことばに立って声を上げる者であらせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
23日(金) イザヤ書30章8-17節
一言メッセージ:今朝は8-17節を三日間で読むシリーズのラストです。今朝注目したい言葉は15節です。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」「静かにしている」「安らかに信頼している」とは、神さまの期待し、鎮まることです。私たちは追い詰められた時ほど焦ってしまい、神さまの御心を求めるよりも自分で決断しようとします。でも、焦った時ほど私たちの決断は不適切になりがちです。冷静さを失い、「こうなったらいい」という願望で算段したり、不必要の悲観的になったりする。感情に流されやすくなるのです。けれど、そんな私たちに対して神さまは今朝、「静かにせよ、安らかに信頼せよ」と促します。それは、「焦って選択する前に、心鎮め、祈れ」ということです。私は予期せぬ出来事に直面した時、「一旦心鎮め、祈る」ことを心がけています。急な決断をせねばならない時、一瞬目をつむり、「神さま!」と呼び掛けます。込める思いは「神さま、冷静さを与えてください。様々なケースを想定させ、考え得る最良の選択を選ばせてください」です。神さまに祈ることで、私は自分の知恵を超えて神さまが力を貸してくださると信じて安心しますし、だからこそ、悪い状況も含めて冷静に状況判断しようと頭が働きます。そして、どういう方針で動くか、そのために誰に協力を仰げばいいか、何から手をつければ混乱が少ないか、どこまで委ね、どこから自分で準備を担当するか、など考え始めます。一瞬の祈りが私に「決断を間違えても、神さまがちゃんと軌道修正してくださる」との心のゆとりを与えてくれるのです。今朝の箇所が語る「静かに、安らかに神さまに信頼する。そこにこそ力が湧く(意訳)」は真実の言葉なのです。皆さんも突然に決断せねばならない時、先ず「神さま!」と祈ってくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは「鎮まり、祈れ」と呼び掛けてくださいます。その促しは私たちに冷静さと安心と展望を与えてくれます。神さま、どうぞ、いついかなる時にも私たちに伴い導いてくださるあなたを信頼して歩む私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
24日(土) イザヤ書30章18-26節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまがイスラエルを救ってくださる預言ですが、最初に気になる言葉は18節で繰り返される「それゆえ」です。昨日まで読んできた私たちには分かりますが、「それゆえ」が告げる状況はイスラエルがアッシリアによって蹂躙され、民衆が逃げまどう様です(16-17節)。民は生活も土地も全てを失いかけている。しかし、その時に神さまは「恵みを与えようと、憐みを与えようとして、立ち上がって」くださるのです。そして20節、人々はもはや神さまを見失うことは無くなる。21節では神さまがすぐ間近におられ、人々はその導きに沿って生きるようになる。22節では、それまで民衆が信仰していたご利益宗教の偶像は棄てられ、23節以下、民衆は神さまの祝福をいただいて安心して作物を育て、暮らしていくと描かれていきます。
私たち人間は自分たちの意志を持っていますから、神さまから離れて好き勝手に生活することも可能です。一方、神さまに従って誠実に生きることも可能です。不思議なもので、どちらも「幸せになりたい」との願いを持って生きているはずなのに、己が願望だけで生きる人は今朝の箇所のように滅亡へと向かっている。一方、一見すると神さまに従って生きることは自分の願望を棄てるように感じるかもしれないが、結果、本当の幸いを見いだす。何故でしょう。それは、神さまの意志が、そもそも私たちを祝福し、共に生かそうとしておられるから。だから神さまに従うことが幸いとなるのです。多くの人が「神に従うことは私の思いを棄てること」と誤解しているならば、私たちクリスチャンは「神さまに従うからこそ幸いなんだ」ともっと力強く証ししていきたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤは、追い詰められた民衆を顧み、自ら立ち上がって救ってくださる神さまを示しました。私たちはそのみことばの中に、私たちを祝福し、生かそうと願ってくださる神さまを見出します。私たちはその神さまをもっと大胆に伝えていかねばと思わされます。私たちの周囲の人々に言動を通して、「あなたを信じるからこそ幸いな人生があるのだ」と証させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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