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2022-10

8月28日~9月3日のみことば - 2022.08.27 Sat

夏休みが終わり、新学期がスタートした方も多いと思います。
ここ数日は少し暑さも和らいだように思いますが、また暑くなるのでしょうか。。。
そろそろ、暑さから解放されたいですね。
まだまだ残暑続きますが、皆さんも健康に気を付けてお過ごしください。

今週もみことばを聞きながら1週間を過ごしていきましょう♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


28日(日) イザヤ書22章15-25節
一言メッセージ:「シェブナ」という言葉が出てきます。「シェブナ」は宮廷の役職名で、身分は高くないそうですが、王の側近で宮廷を取り仕切る執事役だったようです。彼は王をたぶらかして、私腹を肥やしていたとし、16節「高いところに自分の墓を掘り、岩をえぐって住処を造ろうとする」と指摘されています。神さまはこのシェブナの悪事を見過ごさず、排除すると告げます。そして20節以降はエルヤキム(ヒゼキヤ王時代の宮廷長。列王記下18.26以下で、南王国にアッシリアが攻めてきた時に応対した人物の一人)に役職を継がせると告げます。彼の働きは非常に期待されていますが、神さまは25節で「その日(滅亡の日)」には南王国の全てが滅ぼされていくと告げます。私たちは「えっ?結局、正しい人も滅ぼされてしまうのか」と考えてしまいますが、神さまの救いを誤解してはいけません。私たちの罪はその場しのぎの対処療法で許されていくわけではなく、決定的な赦しは神さまがご自身の独り子イエス・キリストの十字架において実現したのです。神さまの裁きは私たちを生かし、救うための裁きです。宗教改革者マルティン・ルターは「神は私たちを生かすために殺し、救うために裁く」と言いました。目的は生かすことであり、救いです。だから私たちは一時的な苦境を神さまの結論と思わず、御心に至るための途中経過と思っていましょう。今日は日曜日、礼拝の時です。今朝も共に神さまの御心に励まされ、元気づけられましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは神さまが中途半端な方でなく、私たちに軽微な痛みは負わせながら、でも決定的な救いとして、イエスさまの死と復活を行ってくださったことを思い起こしました。神さま、どうか私たちが直面した苦難であなたを見失うことなく、苦しい時にも信じ続ける者であらせてください。あなたの最善の導きを信じ、味わうことができますように。救い主イエスさまの御名で、期待して祈ります。アーメン。

29日(月) イザヤ書23章1-18節
一言メッセージ:13章から続いた諸国民への裁きの言葉も今日の箇所をもって終わります。あー、しんどかった。今朝の箇所もティルスやシドンという地中海沿岸のペリシテ人の街への、2つの時代にまたがる預言が合わさってできています。1-14節はアッシリアによるティルス、シドン滅亡の預言で、15-18節はバビロン捕囚末期の預言です。ティルスという街はヨナ書に出てくる街で、ヨナが神さまの命令を全力で拒否しようとしてティルスからスペイン南方の街タルシシュ(当時は世界の果てと考えられていた)に向かって船出した街です。地中海域への貿易の要所であり、だからこそ旅を経てティルスに帰ってきた船が街が滅びた姿に嘆いています。一方、15節以下はバビロン捕囚が終わる時期に(エレミヤは捕囚期間を70年と語っていたので、それに合わせている)、ティルスはようやく支配を脱することができると預言される。ティルスの解放後の姿は「忘れられた遊女(年輩の遊女)」であるが、17節では「主がティルスを顧みる」とあります。ティルスは相変わらず、かつての華やかさを求めて、自分の過ちに気づかず、神さまの救いの完成のまでかつての生活に戻っていきますが、神さまはそんなティルスをも顧み、いつか気づくと待っておられるのです。
  先日、池井戸潤さんの小説『あきらとアキラ』を読んでいました。彼は銀行員の視点から、会社経営や事業展開をテーマにした小説を得意としています。ドラマの「半沢直樹」シリーズなども彼の作品ですが、この『あきらとアキラ』という小説の中で、ある2つの会社がスーパーマーケットの新規展開で対立する場面がありました。1つの会社はスーパーマーケット経営の成功者をリーダーに雇用し、もう1つの会社は現場で叩きあげた者をリーダーに据えて、対立します。成功者の戦略は人の多く集まる一等地を購入し、豊富な品揃えで勝負しようとしますが、叩き上げのリーダーの戦略は、土地は借地の中心部から少し離れたところ、でもその分だけコストを抑え、様々なチャレンジを行うことを前提とした展開でした。結果は叩き上げのリーダーの店舗が生き残り、成功者の店舗は数年で閉店しています。その中で叩き上げを抜擢した会社の社長は言うのです。「かつて成功を体験した者は、その成功体験をパターン化し過ぎてしまい、そこからしかモノを考え切らず、お役様を見ず、臨機応変な対応を模索できなくなる。」ティルスはかつての自分の栄華に固執し、自分が滅ぼされた理由や誰が本当に頼るべき神かを見出せない。その行く末は滅亡です。でも、神さまはそれでもティルスに寄り添う。私たちはこの箇所からティルスを反面教師にし、自分の思考に固執せず、神さまを身近に見出しながら歩みたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ティルスの姿は、どこかで私たちに警告を発します。かつての自分の順風満帆だった時代に固執し過ぎ、今を見出せなくなる、そんな人間の弱さを示します。神さま、どうか私たちはいつも、あなたが今私たちに促される示唆を思い、誠実に歩む者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(火) イザヤ書24章1-23節
一言メッセージ:今朝の箇所も非常に読みにくい箇所です。というのも、呼び掛けられる対象も時期も、全部で7つに分けられていて、一貫性が見えない箇所だからです。例えば1-16節まではエルサレムに対しての預言で、17-23節はバビロンに対する預言です。1-16節でも1-13節は厳しい裁きのことばですが、14-16節はバビロン捕囚から解放されて救いを喜び合っています。でも16節後半に出てくる、衰えを嘆く「わたし」が誰であるかはまた不明です。こういう分かりにくい箇所は、全体を網羅しながら読むことは難しいので、気になる文に注目して読んでみましょう。私の目に留まるのは5節です。「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。」神さまの律法を蔑ろにしたために地が滅ぶと書かれます。私たちが考えたいことは「律法とは何か」です。律法は神さまがイスラエルのために与えた掟ですが、私たちは律法の性質を見誤ってはいけません。律法を「守らなければ救われない」というハードルと考えると、律法を守らない、守れない人たちを切り捨てる根拠になってしまいます。本来の律法はそうではなく、「神さまに愛されたからこそ実行するもの」です。つまり、「愛なる神さまへの応答」なのです。幼い子どもを想像していただくと分かりやすいですが、幼い子どもは無条件に愛されています。でも、度を越してはしゃぎすぎると重大な怪我の恐れがあるため「ダメ」と叱られます。それは、その子の安全と共に成長を促すための叱りです。神さまの裁きは叱りです。民が自分たちの過ちに気づき、立ち返り、成長するように神さまは叱ります。だから14-16節のように厳しさの先に救いが歌われているのです。私たちは神さまに正しく向き合い、応答する者でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは律法について考えました。私たちは時にあなたを誤解し、律法を「救われるか救われないかを判断するハードル」のように考え、あなたを息苦しい存在のように勘違いしてしまうことがあります。でも、律法は私たちがあなたに愛され、救われているからこそ、身勝手に生きて滅びてしまうのでなく、あなたの守りと導きの中で生きていくための応答でした。神さま、私たちはあなたを信じます、そして応えて生きます。どうぞ私たちに伴い続けてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(水) イザヤ書25章1-10節前半
一言メッセージ:今朝の箇所は久しぶりに明るく読める箇所です。表題にあるように「神の驚くべき御業」です。これまでの神の裁きが最後にはどうなっていくのか、を記した箇所です。イスラエルが虐げられ、アッシリア、バビロンといった大国すら滅びていった先にあるのは6-10a節の神の救いです。際立って見えるのは、「神の救いがイスラエルにだけ実現するのではなく、神によって滅ぼされた国々のすべての民にも与えられている」ことです。「主は祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」「すべての民(の)死を永久に滅ぼしてくださる。すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」文章では、神さまの救いにおいて、それまで言われていた「〇〇の民」といった民族や国などの分類が消え、ただ「ご自分の民」という言葉で統一されています。人間が作ってきた分類や対立が神さまの前で乗り越えられ、皆が「共に生きる仲間」になっていくのです。ここに私たちは神さまの平和を見出します。今日は8月末日です。「平和を覚える月間」の終わりに私たちが分かち合うのは、「神さまの平和とは、敵味方といった枠組みが取り払われ、皆が『共に生きる仲間』とされる世界」です。私はこの平和を心から願い、祈ります。8月は終わりますが、引き続き、神さまの平和シャローム実現を祈ってまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。8月の終わりに、私たちは改めて神さまの平和シャロームを分かち合いました。あなたは終わりの日(終末)に、全ての民を集め、それまで人間が作ってきた分類や対立を取り払い、共に生きる者とし、救ってくださいます。神さま、私たちはあなたの平和を待ち望み、祈り、今日も生きてまいります。あなたの平和が実現しますように、私たちにもその一端を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9月1日(木) イザヤ書25章10後半-12節
一言メッセージ:昨日は、神の驚くべき御業として世界の民の救いの預言が語られました。そんな日の翌日に「モアブの滅亡」を改めて記述されるなんて迷惑なのですが、イザヤ書には何故だか今朝の箇所でモアブというイスラエルの周辺国の滅亡を記されます(聖書研究的には「このことば、後代の付加じゃないの?」と思ったりもします)。本来は15-16章でモアブへの神の裁きは書かれているので、そちらで合わせてもらいたいものです。なので、今朝はこの箇所を離れて、モアブに関する好意的な面を分かち合ってみたいと思います。旧約聖書の中にルツ記があります。主人公ルツはユダヤ人ではなくモアブ人です。彼女はモアブに移住してきたユダヤ人家庭の息子に嫁ぐのですが、しばらくすると義父、夫、夫の弟が次々と死去します。女性世帯になり、姑ナオミは祖国イスラエルに帰国することにします。姑ナオミは二人の嫁を実家に戻そうとするのですが、ルツはナオミを一人にすることを拒み、イスラエルに一緒に移住するのです。最初はモアブ人であるために周囲に白い目で見られるのですが、健気に姑を支えるルツは、ナオミの家の有力者ボアズに認められ、再婚していく物語です。さて、何がモアブ人にとって好意的な話なのかと言いますと、実はこのボアズとルツの孫がエッサイです。エッサイは後の英雄王ダビデの父であり、新約聖書のマタイ福音書1章ではルツもイエスさまの先祖として名が残されています。聖書の中には民族主義的な排他性も見られますが、一方、それに真っ向から対抗する精神も多々見られます。様々な視点が聖書の中で共存しています。聖書自身が多様性の塊と思えるのです。さて今日から9月。新たな月も新たな出会い、新たな取り組み、新たな神さまの示唆を見出しながら歩みだしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はモアブへの裁きの言葉がありましたが、一方で聖書にはモアブへの好意的で、イエスさまの救いに加わっていく広がりがあることも分かち合いました。聖書は様々な視点を共有しています。その中で私たちは、聖書そのものも1つの視点に偏って読むのでなく、広がりをもって読むことが示されます。新しい月も、自分の狭い視野に閉じこもらず、あなたの示唆を模索しながら自分を広げて歩んでいくことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) イザヤ書26章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所は一昨日読んだ25.1-10aに続く言葉です。昨日の「モアブの滅亡」の箇所が一昨日と今朝の箇所の間に入り込んできたのです。今朝の箇所では、25.1-10aに続く言葉として、民族や国の違いに捉われず、神さまが本当の神だと信頼した人々が共に救われていくことが歌われています。注目したいのは3節で二度「平和」と語られていますが、この平和は8月に何度も分かち合ってきたヘブライ語のシャロームです。そのニュアンスは「すべての人が神さまに与えられた命と尊厳を喜び、暴力や敵意を棄て、違いを認め合い、共に生きていく平和」です。そうやって神さまに平和シャロームを見出した人々に起こる出来事が5-6節「主は高いところに住まう者を引き下ろし、築き上げられた都を打ち倒し、地に打ち倒して、塵に伏させる。貧しい者の足がそれを踏みにじり、弱い者の足が踏みつけて行く」です。そのままに読みますと、富や暴力によって権威者と振る舞っていた人々が没落し、弱く貧しいくされていた人々が神さまによって高められていく様子に見えますが、ここで大事なことはイザヤ書が平和シャロームと語っていることです。何かと言いますと、「神さまを信じ、平和シャロームを知った人々はもはや社会的身分、経済格差などの力関係が不要となり、皆が一人ひとり、神さまから与えられた命と尊厳を尊重し合って生きる世界が到来する」というのです。だから、それまでの社会的権威は皆によって捨てられ、弱い人々がかつての権威に捉われずに、どこであっても大手を振って歩ける、そんな社会が描かれるのです。私たちの国の憲法は、日本人のみならず、世界中の人は誰でも「基本的人権」を有していること、それは人類の歴史の中で勝ち取られてきた大事な倫理であることを告げています。未だ世界を見ますと、とてもそうは思えないほどの格差はありますが、でも憲法は、誰もが基本的人権を持ち、誰にもそれを侵害されてはならず、平和を願って生きていく存在と謳います。そんな理想像が既に2,700年前にイザヤによって預言されています。私たちは聖書を「古い読み物」と考えるのでなく、現代でさえもなお未来を指し示し続けている神のみことばと捉えて読み続けて参りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は神さまの示す、神の国の完成預言でした。神さまの平和シャロームが実現していく時、人は誰しも、あなたに与えられた命と尊厳を尊び、暴力や格差は捨て去られ、共に生きていくことが記されます。神さま、私たちは今も真摯に平和シャロームを願い続けます。どうぞ、シャロームを来らせてください。私たちにもその一端を担わせてください。あなたの平和と程遠い憲法改正など棄却させ、格差を助長する国葬などの愚策の数々を頓挫させるべく、小さくとも意志を表していけますよう励ましてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(土) イザヤ書26章7-19節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神の国の完成、救いの完成で何が起こるかが書かれた預言です。内容が豊富なので、3日かけて読んでみたいと思います。今朝は7-11節に特に注目します。預言者は「神に従う者の行く道は平ら(7節)」と告げます。それは昨日見たように「人の命に上下の格差が無い」からです。誰もが神さまに与えられた命と尊厳を喜び、互いに対等な者として共に生きようとするのです。それが9節の「あなたの裁きが地に行われるとき、世界の住む人々は正しさを学ぶでしょう」です。一方、10-11節では「神に逆らう者」への言及があり、11節では「彼らに恥を受けさせてください。あなたの火が彼らを焼き尽くしますように」と物騒な表現がされます。誤解せずに読みたいのですが、「焼き尽くす=滅ぼす」という理解ではありません。この火は金属を精錬する際に、一度、金属を溶かし、不純物を取り除き、叩きあげて純度と強度を増していくような「火」です。相手を滅ぼす火ではなく、相手を成長させる火なのです。かつてアメリカで公民権運動を指導したキング牧師は「主よ、敵対者を滅ぼすのでなく、相手の中にある敵意が滅ぼしてください」と祈りました。それは相手が共に生きていけるように変えられることを願った祈りでした。今朝の預言も、神に背く者の滅びでなく、作り変えられるための「火」を願います。神さまの平和はとことん共に生きていくことを目指しているのです。明日も26.7-19を読んでまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者は神さまの平和が実現していく時、全ての人が等しい存在として生きていくことを示唆しました。そこには、かつて、敵意や格差を当然とした人々も含まれますし、その考えに固執する人々があなたによって精錬させ、平和シャロームの尊さを知って作り変えられていくことが祈られていました。神さま、どうか私たちにもあなたの平和シャロームを希望とし、実現のために小さくとも一歩ずつ動く者とならせてください。二度と戦争をさせず、人の命と尊厳を踏みにじる社会を認めず、「御心とは違うことはダメ」と証しする勇気と言葉と信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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