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2022-10

8月21日~8月27日のみことば - 2022.08.20 Sat

8月も後半に入りました。
まだまだ暑い毎日ですね。
お盆休みも終わり、大人の皆さんはまたお仕事の忙しい日常を送っておられると思います。
お盆と言えば8月15日は77回目の敗戦記念日でした。
皆さんは、どのように過ごし、どのようなことを考えたでしょうか。
教会では8月は毎年「平和を覚える月間」として、聖書から平和について聞いています。

教会学校でも、8月は特に平和について覚えています。
先日は、小学科の子どもたちと平和の願いを込めて「へいわのいのり」を書いて集めました。
悲しいことですが、ウクライナで戦争が起こっていることをニュースや新聞などでリアルタイムで知っている子どもたち。ですから、具体的にウクライナのことなどにも思いをはせながら書いているようでした。また、今年度から小学科の子どもたちは礼拝の中のお祈りの言葉の一部を自分たちで考えているので、比較的すんなりと自分の言葉で祈りの言葉をつづっていました。
その他にも「絵をかいていい?」という子もいて、「じゃあ平和ってどんな風か想像して、描いてみてね」と声をかけると、考えながら一生懸命にえんぴつを走らせていました。
1つ1つの写真を撮るのをうっかり忘れてしまったので、また今度アップしますね。
とりあえず、全体像はこんな感じ。
202208heiwanoinori.jpg

一人一人違ったかたちの祈りの手が、それぞれ違う言葉や絵で、同じ平和を祈っているところに、何か平和への大事なヒントがあるように思われました。
これからも、子どもたちと一緒に平和を祈り続けていきたいなと思わされました。

皆さんは、8月をどんなふうにすごされますか?
共に平和への祈りを合わせることができたらいいなと思います。

それでは、今週も皆さんの歩みに神様の祝福がありますように!
今週の日々のみ言葉をどうぞ↓


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

21日(日) イザヤ書18章1-7節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の箇所から時代的には遡る内容です。紀元前714-711年に当時、まだ強大であったアッシリアに抵抗するために、アシュドドの反乱という国際的な事件が起こります。地中海沿岸のペリシテ人の都市国家アシュドドが、エジプトの南にあるクシュ(エチオピア)と組み、アッシリアに反乱したのです(当時のエジプトはクシュ系の王朝となっていた)。南ユダ王国はアシュドドと領土を接している分、影響を受けます。特に紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされていたため、南王国の人々は「次は自分たちが滅ぼされるんじゃないか」と強い恐怖を感じていました。だから、南王国の指導者たちは「エジプトが後ろ盾になってくれるならば、いっそ反乱に加わってアッシリアに対抗する」とさえ考えたのです。しかし、イザヤはそんな動きを「災い(1節)」と断じます。イザヤが告げたポイントは4節です。「神さまは、『わたしは黙っていても、お前たちに目を注いでいる。お前たちが本当に頼るべきは誰か思い起こすべく、太陽よりも強い熱を持って、刈り入れを邪魔する激しい雨雲のように』と言われている。だから今は神にこそ目を注ぎ、御心をあおげ。人の思惑や算段に絶対は無く、お前たちが予期せぬ出来事に翻弄され、身を切られないように。」今朝は日曜日です。今朝の説教の中で、私は「主」について考えます。私たちは神さまを「主(しゅ)」と表現しますが、別の読み方は「あるじ」です。私たちが神さまを「主」と呼ぶ時、「私たちのあるじ」と認識し、ちゃんと仰いでいるでしょうか。物事を決定する時は己が算段で考えていないでしょうか。イザヤは私たちに問います、「主は今、私たちに目を注いでおられる」と。神さまの目が私たちを整え、最善の歩みをさせてくださいますように。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイザヤは、アシュドドの反乱に際してイスラエルの指導者たちが安易に算段に走ろうとしたことを諫め、「神さまに目を注げ」と告げました。あなたこそが私たちの神であり、最善を与え、守り導いてくださる「あるじ」であるのに、私たちも時に、焦りや習慣によって自分たちの算段で物事をはかろうとします。でも神さま、救いはあなたにこそあります。どうぞ私たちが物事を決断する時、心鎮め、あなたに向き合う者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(月) イザヤ書19章1-15節
一言メッセージ:今朝は「エジプトの審判」という箇所です。昨日少し触れましたが、この時のエジプト王朝はクシュ(エチオピア)系の王朝となっています(エジプト王朝も時代によって内部抗争が起こっているんですね)。今朝の箇所は昨日のアシュドドの反乱直前、エジプト内での反乱によってクシュ系の王朝が確立していった内容になっています。それが2節の「わたしは、エジプトをエジプトに刃向かわせる」です。さて、今朝の箇所で私が注目したのは14節「主は、彼らの間に迷わす霊を注がれた」です。神さまはエジプトを倒すために軍隊を遣わしたのでなく、彼らの間に迷いを生じさせたというのです。迷いとは何が正しい事柄か判断つかず、様々な選択の中で選びきれない状態です。「こちらの言い分も分かるし、でもこちらの言い分も正しいと思う」と迷う時は私たちにもありますが、迷った時、私たちは臆病になります。特にエジプトは「王は神の代理者、神である」という神権政治体制ですから、神の代理者である王朝が倒れることは国家の価値観がひっくり返るような騒ぎだったでしょう。日本も戦中までは「天皇は神で、日本は神国だ」という価値観が強調されましたから、敗戦した途端、「神国日本」を信じ込んでいた多くの若者たちが価値観を失いました。迷ったのです。人の正しさは所詮、一時的な価値観に過ぎません。本当の正しさは神にこそあります。だから逆を言えば、私たちは迷う時には、神さまの正しさを求めたらいいのです。今朝も神さまの御心を模索しながら一日をスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝は迷いについて考えました。人は時に人生に迷います。でも神さま、あなたは迷いの中でさえ私たちに出会おうとしてくださいます。私たちが迷う時も、己が都合、己が願望でなく、あなたと出会う機会とできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(火) イザヤ書19章16-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は神さまによる「終わりの日の和解」預言です。非常に興味深いことに、ここで和解に至るのはイスラエルを挟んで覇権を争っていたエジプトとアッシリアであり、間に挟まれていた弱者イスラエルです。大国たちが自分たちのやり方、都合、思惑に行き詰まり、本当の正しさを神さまに求めていくと、25節でその三者がそろって、神さまの祝福を受けるようになる、と預言者イザヤは語りました。今年の平和を覚える月間、私たちは「神さまの平和は敵対する者同士も一緒に生きるようになること」と分かち合っていますが、この箇所は正に、敵対する者たちが神さまの御前にて一致し、共に生きる者とされる、という示唆そのものです。人の理屈、人の正義は所詮、自分の目に見える範囲や近しい人たちを思っての判断です。でも、神さまの示唆は全ての人、敵対する者たち同士すら共に生きる者としてくださる正義です。戦争の世紀と言われた20世紀、世界は二度にわたる世界大戦で大きな傷を負い、その後の冷戦期には「強大な武力を持つことによって相手を封じ、安定を生み出す」と考えてきました。しかし冷戦が崩壊し、ようやく平和が来ると思った途端、蓄えられた武器や技術者が武装組織や弱い国の手に渡り、もはや小さな国、テロ組織ですら核兵器を持つようになると、「強い力を持つことによって平和を作る」という理屈そのものが成り立たなくなったのです。その時に私たちが見出す平和の姿とは何か。それは、そもそも敵対していた者同士が共に生きていく世界です。戦後77年目の今年、私たちが見出す神さまの平和の示唆は、敵対していた者同士さえ共に生きていく世界であり、その間をもっとも弱かった存在(民衆)が繋げていく。民衆による平和実現です。聖書のメッセージは時を超え、とても現実的な示唆だなぁと思います。この示唆を実現させていくのが今の私たちです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてイザヤが示したのは、かつて敵対していた者同士が、神さまの御心を模索する中で共に生きるようにされる、との示唆でした。神さま、戦後77年目の今、私たちはそのみことばの中に平和のヒントを見出します。どうぞ世界があなたの平和実現に向けて、一歩ずつでも歩みだせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(水) イザヤ書20章1-6節
一言メッセージ:アシュドドの反乱の顛末です。当時、アッシリアに反乱したアシュドドには様々な支援者がいました。エジプト(クシュ系王朝)もそうですし、他の地中海沿岸部のペリシテ人の都市国家もヒッタイト人などの部族も連合を組み、アッシリアのサルゴン2世に背きます。近隣国の団結を見て南ユダ王国も反アッシリア同盟に加わろうと考えますが、イザヤは自ら連行される奴隷の恰好をして「同盟に加わると、私たちはアッシリアの奴隷になる」とアピールします。これは象徴行動と言われ、預言者が神さまの預言の内容を体現するデモンストレーションです。非常に人目を引く行動ですが、イザヤが本当に告げたのは「反アッシリア同盟に与するな」ではなく、「ピンチの時にこそ、正しく神の御心に聞け」です。それは私たちに対しての示唆でもあります。私たちは6節のような後悔はしたくありません。だからこそ、「望みは神にこそかける」のです。さぁ今日も神さまが与えてくださる新たな一日です。神さまの導きを模索しながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはイザヤの示唆から「望みは神にこそかける」と分かち合いました。迷い多い私たちですが、迷いの中であなたと出会い、あなたを見上げて生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(木) イザヤ書21章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は時代がまたグッと下がった預言です。少し整理しますが、紀元前721年に北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされます。そのアッシリアを滅ぼしたのはバビロンとメディアの連合軍です(紀元前612年)。バビロンは紀元前598年にエルサレムを占領し、王たちを捕囚とし、南ユダ王国に自分の意に従う新しい王を立てます(第一回バビロン捕囚)。しかし、南ユダ王国はエジプトを頼ってアッシリアの支配から脱しようとした結果、紀元前587年に再度バビロンに攻められ、完全に滅ぼされ、国の主だった人々(王族、貴族、職人などの技術者たち)がバビロンに連行されるのです(第二回バビロン捕囚)。バビロン捕囚は、ぺリシアのキュロス王によってバビロンが滅ぼされる紀元前539年まで続きます。キュロスの政策は支配地域に税金を課しますが、ある程度の自治も認めます。そこでバビロンで捕囚とされていた民の一部は祖国イスラエルに帰還し、そこで新たな生活を始めます。彼らがエルサレムに第二神殿を建築するのです。さて、今朝の箇所はどの時代を指しているかと言えば、ペルシャによってバビロンが滅ぼされていく際の描写です。著者は3-5節で、バビロン捕囚を受けていた民として登場します。彼はバビロンでの苦しい生活のため体の節々の痛みを訴えますが、それ以上に注目したいのは、彼はバビロンが滅びて自分たちが解放されていくことを信じられていないことです。苦しい生活を強いられ続けると人間は希望を持つことを諦めます。希望が裏切られることが怖いからです。でも、そんな諦めに捉われていた人に神さまは今朝の箇所にてバビロン滅亡を告げます。「二頭立ての戦車」とはキュロス王に率いられてバビロンに攻め上ってきた「エラムとメディア(2節)」です。こうしてバビロンが滅びたその時、9節で捕囚であった民は「倒れた、倒れた、バビロンが。(バビロンの)神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた」と喜び踊るのです。今朝の箇所にて分かち合いたいことは「希望は神さまにこそある」です。先ほども、人間は辛い状況が続くことで希望をもつことすら失うと記しました。それは、人間が信仰を己の願望と重ねて考えるからです。「私はこう願う」が叶えられることが信仰ではありません。神さまの御心が必ず成ると信じることが信仰です。私たちは神さまを信じ、御業に期待するからこそ希望を失わずに生きられるし、世間の風潮に流されずに神さまを信じ続けることができるのです。週の後半も神さまを信じて元気に歩みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で人間は己が願望が叶えられない状況が続くと希望すら失うこと、だからこそ私たちは自分たちの願いでなくあなたの御心と御業にこそ希望を抱き、信じ続けることを分かち合いました。どうぞ、あなたが希望の源であると確認しながら残りの半週も過ごさせてください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(金) イザヤ書21章11-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は「エドムについての預言」です。エドムはユダの南に位置でバビロンとは遠く隔たっていますが、バビロンに従属することによって繁栄していた民です。実際、エルサレム陥落時に、エドムもバビロンと一緒にエルサレムを包囲しています。エドムはアラビアのドマ(11節)というオアシスの都市にバビロンの政治状況を伝えるための伝達役を置いていました。伝達役は神さまによるバビロン滅亡がなされようとしている時に、12節のように「夜明けは近づいているが、まだ夜だ(バビロンの力は衰えてきたが、まだ滅びるわけがない)」と応えています。つまり、誰にとってもバビロンが滅びるなんて信じられない状況だし、バビロンに従っておけば、まだ安泰だと思っていたのです。しかし彼らの算段空しく、神さまの御業は進み、バビロンは滅びていくのです。今朝の箇所は人の算段や見通しが神さまには意味をなさず、御心は人の思惑を超えて実現していくと示しているのです。私たちは今日も世界や日本の情勢を見ながら、権力者の横暴な政策、支配によって苦しむ民衆の姿、戦争など、「どうしてこんなことが起こるのか」という出来事を思い起こします。でもその時に同時に「神さま、あなたの御心を行ってください」と祈る。人の思惑を超えて神さまがどう動かれるのか、私たちは期待と共に祈り続ける者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエドムという、バビロンに追従することで栄えていた民が、自分たちの算段が所詮、人間の知恵でしかないことを経験していくとの預言を読みました。神さま、私たちは今の世界を見ながら、あなたの御心とかけ離れた状況を様々見ます。どうかその1つ1つにあなたの御心を表してください。御業が行われますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(土) イザヤ書22章1-14節
一言メッセージ:今朝の箇所はエルサレムに関する預言ですが、これらは同時代に語られた神さまの預言ではなく、様々な時代の言葉が合わさった箇所と考えられます。例えば4-7節はバビロンによるエルサレム陥落の話ですが、12-14節などは陥落前夜にやけくそになって大宴会したことは考えられません(エルサレム陥落時は籠城戦だったので、食料が尽きていたとされています)。だからここは北イスラエル王国が滅亡した時の預言と考えられます。北王国がアッシリアによって滅ぼされていく時、神さまは南王国の民に「兄弟国が滅びていくことを嘆け」と呼び掛けたのに、彼らは軽薄にも「北は滅びるが、自分たちは国を存亡できた」と喜び祝いました。神さまは自分たちの利しか興味を持たない南王国に「お前たちが死ぬまで、この罪は決して赦されることがない」と語ったのでした。今朝の箇所で私は、私たちの見通しの温さ、視野の狭さを思います。私たちが物事を判断する時、見えない御心を思わず目先に捉われてばかり、冷静で客観的な視点よりも情緒的で経験則な考えに捉われてばかり、未来を思うよりも今の苦労を回避することに固執してばかり、に判断していませんか。本当に大事な視点は「神さまの御心」です。なぜなら、私たちを最善へと導くためにいつも伴ってくださる神さまを無視して、良い方向に進むわけがないからです。時には、自分にとって辛い出来事でも「きっとこれが最善の祝福に繋がる」と神さまを信じる選択も必要です。そうやって神さまに従おうとする時、神さまは私たちをますます祝福し、伴ってくださるでしょうし、選択を間違えても私たちを正しく導き直してくださるでしょう。大事なことは正しい選択をすること以上に、御心を模索し続けること。私たちは今朝の箇所でエルサレムの軽薄さを反面教師にして、神さまを信じる者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエルサレムの民の軽薄さを反面教師とします。私たちもあなたを主と信じながら、決断をする時など、自分たちの都合や常識、算段で動いてばかりだったでしょう。最善に導いてくださるのはあなたであるのに、自分たちの思惑を優先させていたと思います。神さま、反省します。どうぞ、これからはあなたの御心を思いながら物事を判断する私たちであらせてください。間違った時にも、あなたの整えを信じ、模索し続ける私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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