8月14日~20日のみことば - 2022.08.13 Sat
8月も半ばを迎えようとしています。
世間的には”お盆休み”ですね。
実家に帰省したり、お墓参りをしたりして過ごす方も多いかと思います。
感染拡大中で時期をずらしたり、帰省を見合わせている方もいるかもしれませんが、それぞれに良いお休みの時となりますように。
そういえば教会には”お盆”という考え方?風習?はありません。
それは、亡くなった人は生きている私たちと分断された「あの世」にいるのではなく、私たちが生きている間も私たちを守ってくださっている同じ神さまのもとにいるのだと信じているからだと思います。
そういう意味では、教会の感覚では生前の世界と死後の世界は神さまという存在において「地続き」なのです。
ですから、特別にこの期間だけ帰ってくるという感覚はあまりなくて、いつでも神さまを介して行き来できるような?そんな感覚なような気がします。
比較して考えてみると面白いなぁ。皆さんは、どんな風に感じるでしょうか。
8月は亡くなった方を思い起こす時であり、また平和を願い、命の大切さを思う時でもあります。
教会でも毎週の礼拝で平和について聖書のメッセージを聞いていきます。
どうぞ、会堂で、またYouTubeや音声配信を通して共にメッセージを聞いてみてくださいね。
今週も皆さんの歩みが一歩一歩守られますように。
今週のみ言葉をどうぞ。
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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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14日(日) イザヤ書14章1-2節
一言メッセージ:13章から23章までは、イザヤによる諸国民への預言集です。昨日13章ではバビロンへの審判が語られましたが、今朝の箇所では、「バビロンが弱体化していくことが、支配されていたイスラエルの民の回復になる」という箇所です。ここで歌われているのは、社会の逆転です。かつて、支配していた者が支配される側に、踏みにじられてきた者が社会の強者となっていく。その原動力は1節「主の憐み(愛)」のゆえです。こう書きますと、神さまの愛はイスラエルにだけ注がれ、それ以外はご自分の民ではないかのような印象を与えますが、そうではありません。明日からの箇所ではイスラエルの周辺の強国、民族への裁きの言葉が続きますが、それは「彼らを切り捨てるための言葉」というよりも、「彼らもまた、神の支配の下にある民」という言葉です。事実、先の話ですが、19.25などでは支配していた者と支配されていた者とが共に共存する姿が描かれていきます。そういう結論を分かって読み進めていく時、私たちは神さまの御心が、国々の衰退にあるのでなく共存の平和にあることを見出します。共に生きるようになるために、他者を踏みにじってでも強者であろうとする者が、その性根を叩き折られていくのです。明日は8.15、77年目の敗戦記念日です。77年前を意識しながら、みことばを味わいましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、イスラエルの回復の箇所でした。イスラエルが回復されていくのは、国の衰退という表面的な理由でなく、あなたの憐み、愛、共存の意志のゆえです。神さま、今わたしたちは77年目の敗戦の夏を迎え、戦争の惨禍を思い起こしながら、二度と戦争をさせないためにみことばを読みます。どうぞ私たちに平和の示唆と具体的な取り組みをお示しください。先ずは、平和憲法を維持することができますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
15日(月) イザヤ書14章3-23節
一言メッセージ:今朝は77年目の敗戦記念日です。今朝の箇所はバビロンの滅亡預言ですが、私たちはこの箇所を、77年前の日本に与えられた言葉のように読んでみたい。というのも、77年前、私たちの国は敗北しましたが、それは日本の支配を受けていたアジア諸国にとっては3節で語られるように、解放の知らせだったのですから。私たちは今朝、バビロン滅亡の預言に、日本のかつての歴史を重ねて読みます。その時私たちは、日本の過ちの数々に気づかされます。例えば、6節でバビロンが力によって諸国を踏みにじり、人々の権利も命も蹂躙してきたことが指摘されます。戦中の日本軍がアジアにて行った虐殺、労働力確保のための人々の拉致、従軍慰安婦はもちろん、同化政策ではそれぞれの国の言語を使わせず、日本語を強要し、母国語を話す者をスパイ容疑で拷問しました(挙句、歴史修正主義の人々は「日本がそんな残虐なことをするわけがない」と主張し、小さな事例による反論を試みますが、そんな数例で全体の残虐行為を否定できるわけがありません。愛国心と妄信的な願望をごちゃまぜにしてはいけません)。また、13節で「お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え…いと高き者(神)のようになろう』」と書かれていますが、これも、天皇を神とし、「神国」と自称し、「国の危機には神風が吹く」と騒ぎ、最後には「神風特攻隊」と称して、若者たちに自爆テロを強いていく愚行に走った日本の姿と重なります。また20節の「お前は、自分の国を滅ぼし、自分の民を殺した」との言葉も、日本の捨て石にされた沖縄や、少しでも良い和解条件を作ろうとした結果、原爆が投下された広島、長崎のこと(中島文昭協力牧師が生前、5歳で経験した被爆体験を話して下さりながら、何度も悔しそうにこう主張しておられたことを思い起こします)、また「欲しがりません、勝つまでは」とのスローガンのゆえに栄養失調で死んでいった子どもたち、家族の大黒柱を奪われ、路頭に迷った家族、戦後の大量の戦災孤児などなど。国の驕りのために、国内外に多大な犠牲を強いて滅んだバビロンと、77年前の日本の姿は密接に重なります。戦争は勝とうが負けようが、民衆にぬぐいがたい傷を負わせるのです。77年目の敗戦記念日を迎え、私たちは「何があろうと二度と戦争しちゃいかん」と再確認しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。バビロン滅亡の記述を見ながら、私たちは、勝とうが負けようが、戦争がどれほど大きな傷を国内外の民に強いるのかを観ました。それは77年前の日本の姿でした。神さま、もう二度と戦争させないと誓って制定された憲法の決意を今わたしたちも自分たちの決意とします。どうぞ、世界があなたの平和実現に向けて歩みだせますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
16日(火) イザヤ書14章24-27節
一言メッセージ:今朝はアッシリアへの預言です。アッシリアは北イスラエル、アラム、ペリシテという反アッシリア同盟を滅ぼし、南ユダ王国に従属を強いた強国でしたが、後にバビロンによって滅ぼされた国です。一時代はエジプトにまで強い影響を与えた強国でした。しかし、彼らもまた、滅びを宣言されます。イザヤは告げます、27節「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう。」人は軍事力などの力によって栄華を誇ろうとします。しかし、人の力など、神さまの前に無力なものです。人は力を破壊できる能力と捉え、軍を誇りますが、神さまの力は創造のために用いられていきます。本当の力とは、相手を滅ぼすためのものではなく、生かすためのものなのです。今、私たちは力を正しく認識し、「平和(シャローム:神の平和を表す言葉。全ての人が、神が与えてくださった命や尊厳を喜び、『今日も生きててよかった』と心から享受し、共存し合う状態)」実現のために用いていきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは強国アッシリアの威を退け、破壊でなく、平和実現のために力を奮われる方です。神さま、どうぞ今、世界に平和を実現してください。長引くウクライナの惨状を、ミャンマーやウイグルでの人権侵害を、一部の利益・多数の都合のために原発や米軍基地などの犠牲を強いられる地域を、政治によって無力にされる多くの民を憐れんでください。どうか一日も早く平和シャロームを実現してください。私たちにもその一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
17日(水) イザヤ書14章28-32節
一言メッセージ:今日から三日間、取り上げられるペリシテ、モアブ、ダマスコ(アラム)とエフライムは反アッシリア同盟を組みましたがアッシリアに滅ぼされた3国です。28節では「アハズ王の死んだ年」と記載されています。アハズは反アッシリア同盟加盟を拒否した時の南ユダ王です。彼は同盟を拒否したため、反アッシリア同盟に攻め込まれ、それを撃退するためにアッシリアに貢物を贈り、反アッシリアを背後から攻め滅ぼしてもらいました。聖書研究によれば、28節の「アハズ王の死んだ年」という記載は正確ではなく、正確には「ペリシテを滅ぼしたアッシリアのサルゴンⅡ世の死んだ年と言われます。その年にイザヤは、ペリシテに「アッシリアが滅んだからといって、自分たちは解放されると思ってはならない」と告げています。「蛇の根からマムシが出る(29節)」とあるように、より強大な外敵であるバビロンが攻めてくることが示唆されているのです。そんな厳しい預言の中で私たちの目に留まるのは32節です。イザヤは「シオン(イスラエル)」という弱小国家に注目するように示します。強国の前に吹けば飛ぶような弱小国に過ぎないのに、「その基を据えるのは主」であり、「困窮する民の救いはそこにある」と示します。その意図は「人間は目に見える強さによって物事をはかる。しかし、本当の強さとは主にこそあり、主は弱くされた民と共におられ、民を受け入れられる方だ」と告げるのです。戦争の世紀と言われた20世紀を終え、21世紀に入った途端に世界は2001年のニューヨークの同時多発テロを目撃し、それ以後も暴力による圧政は世界各地で続いています。また、一見すると落ち着いているようですが、世界は長引く不況と政治によって、民衆がじわじわと苦しめられ続けています。今わたしたちは「本当の力とは神にあり。神は民をご自身に招いてくださる」ことを改めて思い起こしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、ペリシテへの警告を読みながら、力とはあなたにこそあること、そしてあなたは民をご自分に引き寄せ、慰めと平和をくださる方であることを分かち合いました。戦争の世紀と言われた20世紀を終えたのに、私たちは新たな世紀に入って22年、未だに争いや力による理不尽に直面しています。神さま、あなたの平和を願い求めます。どうぞ世界に、あなたにこそ力と平和があることを悟らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
18日(木) イザヤ書15-16章(今日は2章分です)
一言メッセージ:昨日のペリシテへの警告に続き、今朝はモアブの滅亡預言です。全体を通して、モアブがアッシリアによって滅ぼされていくことの描写が長大に書かれていますが、気になる箇所が2箇所あります。15.5「わが心は、モアブのために叫ぶ」と、16.11「わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために、竪琴のように嘆く」です(キル・ヘレスは7節の「キル・ハレセト」と同じで、どちらも15.2の「キル」を指しています)。今朝の箇所ではモアブの滅亡が淡々と語られてきたような印象ですが、この2箇所を見ると、神さまが自分の身を切られるような思いでモアブの滅亡を語ってきたことが分かるのです。「罪ある者が滅亡していく様を、神は自らの痛みと受け止めながら嘆く」というのはエレミヤ31.20でも記されますが、ここに私たちは神さまの真意を見出します。神さまは「罪人は滅びて当然」と切り捨てる神ではありません。民の罪はうやむやにできないけれど、その罪のためにご自分も共に痛みを味わう方です。罪人を赦し、生かすために、御自分も共に痛みを引き受けてくださる方なのです。これが「憐れみ」です。考えてみますと、私たちも皆、神さまの憐みによって救われました。だからこそ、今ある命を感謝し、神さまに応答して生きる者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが、モアブのために自ら痛みを負って嘆いてくださる姿を読みました。あなたは罪人を切り捨てるのでなく、その者に伴いながら、立ち返り、生き直すことを促してくださる方です。私たちもそうやって、救われました。神さま、どうぞあなたの救いを喜び、感謝して今を生きる者であらせてください。平和の君なる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
19日(金) イザヤ書17章1-11節
一言メッセージ:今朝は「ダマスコとエフライム」への預言です。ダマスコはアラム王国の首都であり、エフライムは北イスラエル王国のことです。この箇所は反アッシリア同盟が滅ぼされていく様を描いた箇所です。注目したいのは7-8節です。神さまはアラムも北イスラエル王国も滅亡することを語っていますが、しかし7節「その日には」と、神さまの救いによる回復の時が来ることを語っています。そして、「その日」に民が気づくのは、自分たちがご利益を求めて信じていた神々(バアル、アシェラなど)はしょせん「自分の手が作り、自分の指が作った祭壇」でしかなかったことです。ここが人間の弱さですが、人間は時に、自分たちの願望を正当化するために「神」を作り出します。自分たちの都合で信仰を操作し、自分に有利なように他者を縛ろうとします。例えば、恐怖で人を縛り、信じられない額の献金を強要したり、犯罪行為に手を染めさせる旧・統一協会などのカルト宗教はその例です。でも、私たちはそこで冷静に、本物の神さまを見極めねばならないのです。戦時中、天皇を神とすることによって多くの国民やアジア諸国の人々の生活と尊厳と命を奪った愚行を二度と繰り返さないように、私たちは神さまを正しく神さまとしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、アラムと北イスラエル王国滅亡の預言を読みながら、自分たちの願望を正当化するために神を作ることの愚かさを考えました。私たちの国もかつて、天皇を神とし、その結果、戦争の大惨禍を行ってしまいました。神さま、私たちは二度と道を誤りたくありません。どうぞいつも、あなたに誠実に向き合う私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
20日(土) イザヤ書17章12-14節
一言メッセージ:今朝の箇所の表題は「諸国民のどよめき」です。何による「どよめき」かと言いますと、ペリシテ、モアブ、アラム、北イスラエルを滅ぼし、南ユダを従属させ、エジプトと対立し、強大な力を誇り、紀元前7世紀前半には世界の覇権を握ったアッシリアが、その数十年後には急激に衰退し、バビロンによって滅ぼされようとしているため、です。諸国は強大な力を誇ったアッシリアが、かくも脆く滅びる様子を目の当たりにし、「いかにすれば生き残れるか」と時代を先読みしようと騒ぎ経っているのです。しかし預言者は言います。13節「国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる。」本当に頼るべきは誰か、信じるべきは誰か。彼らは神さまの力の前に、己が驕りを恥じ、退くのです。さて、今朝の箇所は「諸国民が退いて終わり」なのでしょうか。いいえ、イザヤは2章の終末預言で、諸国の民が主の前に集い、争いを止め、武器を捨て、殺し合うのでなく共に生きる世界を目指して歩みだすことを預言します。その過程として、諸国は今、退くのです。世界が本当の平和に気づき、その実現に一歩踏み出すには、彼ら自身が戦争の愚かさと平和の尊さ、その実現の手段のために自分たちが何を行うのか、気づく必要があるのですね。私たちは既に神さまの平和を気づかせていただいた者として、争いを止め、互いを否定すること(武器)を手放していきたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝読んだ箇所は、諸国民が本当にあなたの平和に気づくために、大混乱を経験することでした。それまでの、自分たちの力に頼る生き方が無駄であったことを悟り、本当の平和に気づき、実現のために一歩踏み出すには、時間がかかります。それは今の世界も同じです。神さま、どうぞ世界があなたの平和のヴィジョンに気づきますように。力による支配でなく、互いを認め合う共存を目指していくことができますように。戦後77年目の今、平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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