7月24日~30日のみことば - 2022.07.23 Sat
いよいよ小学校などは夏休みに入りましたね。
子どもたちには楽しい夏を過ごしてほしいと思いますが、感染拡大で出かけるにもいろいろと考えてしまう状態です。
落ち着いたと思ったらまた感染拡大。いつまで続くのかと見えないトンネルを通っているような気持にもなります。
聖書の「詩編」にはそんな先の見えない状態の中で「神さまなぜですか?」「神さまいつまでですか?」と問いかける詩がたくさん記されています。自分に敵対する者に対しての思いをつづる文章では、時々「え!聖書にこんなこと書いてあるの?」と思うほど過激なことが書いてあることもあります。
でも、そんな苦難の中で神様に訴える詩編は、ほとんどの場合最後は「神さまは素晴らしい。ハレルヤ」というような言葉で終わります。
わたしたちも日々様々な困難の中で「なぜ?」「いつまで?」と問いたい思いを抱えています。でも、聖書はそれもいつかは神さまへの賛美に変わっていくことを伝えています。
それがいつになるか私たちには、わかりません。
でも、私たちを愛しておられる神様は必ず解決の時を与えてくれるのだと信じて、この大変な時を乗り越えていきたいなと思わされています。
今週もみ言葉に励まされながら歩んでいきましょう♪
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24日(日) イザヤ書8章23節後半-9章6節
一言メッセージ:昨日の続きです。昨日は「神さまの情熱で平和が実現していく、とイザヤが預言した」ことを読みました。今朝は預言の内容5-6節に注目します。イザヤは「ひとりの男の子が『私たちのために生まれた』」と語りますが、この子について「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と説明しています。その言葉を1つずつ短く考えていきたい。①「驚くべき指導者」を英訳聖書で見ますと「ワンダフル カウンセラー」と書かれています。カウンセラーには「相談者」という意味がありますが、聖書が語る「驚くべき指導者」とは「民の声を聞き、理解する者」という意味合いがあります。②「力ある神」の「力」とは誰かと誰かを比べて「こっちが強い」と比較できるような力ではありません。強調すると「限界の無い絶対的な力」です。③「永遠の父」の「永遠」とは、限りの無いことから派生して「不変」を意味します。いつ、いかなる時にも、私たちがどういった状況に陥っていても、決して変わることのない保護者としていてくれるのが「永遠の父」です。④「平和の君」の「平和」はヘブライ語のシャロームです。シャロームは単に「戦争が無い」ではなく、「生きとし生けるものが本来、神さまが与えてくださった命を喜び、共に生きている状態」です。イザヤの語った4つの言葉のイメージをまとめましょう。「この子は、民の現実を自ら味わい、彼らの声を知り尽くし、圧倒的な神の力と不変の存在として私たちと共に生きてくださり、誰もが『生きててよかった』と神に感謝するような命を与えてくれる方」です。イザヤは続けて6節で、このみどりごによって「平和は絶えることがない。王国は正義(神の恵み)と恵みの業(誰もが当たり前に生きられる社会)によって、今もそしてとこしえに、立てられ続ける」と語ります。救い主が実現するものは「永遠の平和」です。まもなく、8月に入ります。戦後77年、戦争を直接知っている世代が減る中で、その「二度と戦争を繰り返しちゃいかん」との言葉をどう引き継ぎ、皆で共有し、子どもたちに伝えていけるか、課題です。そんな私たちにイザヤ書は「民の生身の声を知る」から始まる平和実現のヒントをくれています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、未来ある赤ん坊の誕生に神さまの平和の実現を見たイザヤの言葉を読みました。そのことばは今の私たちから見ても理想的ですが、実現の遠い言葉でもあります。でも神さま、あなたは私たちに平和を実現させようと願ってくださいます。どうぞ私たちが平和を諦めず、一歩ずつでも、誰もが互いに尊びあって生きる平和実現に向けて歩みだせますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
25日(月) イザヤ書9章7節-10章4節
一言メッセージ:今朝の箇所は非常に分かりにくいですが、昨日まで読んでいた「南王国への裁き」ではなく、「北王国への裁き」です。聖書の記述が込み合っていますが、まぁ、結論部分で言えば、北も南も大差ありませんので、普通通りに読んでいきましょう。今朝の箇所では4回にわたって「しかしなお、主の怒りはやまず、御手は伸ばされたままだ」が繰り返されます(それぞれ、11節、16節、20節、10章4節の末尾)。先ず、この箇所の構成を理解したいのですが、7節の「主は御言葉をヤコブに対して送り」とありますが、「御言葉(ダーバール)」というヘブライ語は「出来事」とも訳せる言葉です。つまり、神さまは4回にわたって北王国に悔い改めのチャンスとなる出来事を与えたが、彼らは神さまに応えず、そのチャンスを無下にした。だから、「主の怒りはやまず…」だと言うのです。1回目のチャンスは7-11節にある「北王国が反アッシリア同盟を組むとき」、2回目のチャンスは12-16節で「指導者も宗教者も神の御心を考えず、目先の同盟に頼ろうとしたとき」、3回目のチャンスは17-20節で「同じ北イスラエルのマナセ族とエフライム族で敵対したとき」、4回目のチャンスは10.1-4で「貧しい者を見捨て、権力者の私利私欲で国が突き進んでいたとき」です。それぞれに共通するのは「その時々に、神さまの御心を求め、自分たちの在り方を見返せばよかったのに」です。ユダヤ人のことわざの「人は後ろ向きに進む」という言葉があるそうですが、これは「過去を振り返りながら、見えぬ未来に向かって生きるのが人間」という意味だそうです。未来は見えなくとも、過去を振り返りながら歩めばいい。しかし、北王国の民は自分たちの利益と都合だけで過去も神さまも見ずに突き進むのです。私たちはイザヤ書を読みながら、過去の過ちを繰り返さず、神さまの御心を求めて歩む者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は北王国への裁きの言葉でした。神さま、あなたは何度も民にご自分に気づくためのチャンスをくださったのに、民は己が都合、己が利益、己が知恵に固執した結果、あなたを見失い、滅びました。神さま、私たちは過去の歴史とあなたの御心に注視しながら生き方を模索します。どうぞ、あなたの平和に向けて一歩ずつでも歩み出す私たちであれますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
26日(火) イザヤ書10章5-19節
一言メッセージ:今朝の箇所はこれまでには珍しく、アッシリアに対する裁きの言葉です。5節でイザヤは人間の社会では絶対的な軍事力を誇るアッシリアを「神の鞭、神の杖」と説明し、南王国を正すためにアッシリアを用いたと語ります。つまりイザヤは「アッシリアは南王国を懲らしめるための道具」と言うのです。しかし、8-11節でアッシリア王は自分の力を誇り、驕ります。カルノ、カルケミシュ、ハマト、アルパド、ダマスコはそれぞれアッシリア王が滅ぼした街であり、「サマリアもエルサレムも必ず同じようになる」と驕ります。これに対してイザヤは15節以下で「道具が神のように振る舞うとは何事か」と叱責するのが今朝の箇所です。イザヤの「所詮、王も人間に過ぎない。神の前に驕ってはならない」という理解は極めて的確です。人は神ではないのです。だから、どれほど力を持とうと驕ってはならない。以前、ある牧師の息子から父親(とっても情熱的な牧師で説教中によく泣く)の説教の話を聞きました。「皆さん、私たちは神さまを『主』と呼びます。一方、人間で力を持ち、てっぺんまで上り詰めた者を『王』と評しますが、『王』と『主』の漢字の違いに注目してほしい。『主』は『王』から切り離されて、なお上に『てん』が乗っている。つまり、『主』とは人間が決して到達し得ない、卓越した存在なのです。」彼はこう語りながら、泣いていたそうです(笑)。「何も泣かんでも」と思いますが、とても印象的で大事な示唆です。人間は神にはなれない。ゆえに、神に対して驕ってはいけません。さすがに私たちは「王」にはなりませんが、それでも「王」のように振る舞う者を前にしても「あなたは主なる神ではない」とちゃんと理解し、振り回されず、御心を求める者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはアッシリア王の驕りを指摘し、「人間が神にはなれない」と明確に語りました。私たちはその確固たる指摘に、人間の傲慢さと神さまの尊さを思い起こします。神さま、私たちはいつもあなたの御心を求め、その示唆に生きる者に、力に惑わされぬ者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(水) イザヤ書10章20-27節
一言メッセージ:昨日の箇所でイザヤは「アッシリアがたとえどれほど強大であっても、所詮は人間に過ぎず、本当に頼るべきは神さま」と語りました。そして、今朝はアッシリアの滅亡も語り始めます。20-23節ではアッシリア滅亡の預言です。そこでは何度も何度も「イスラエルの残りの者が帰って来る」と語られます。とても考えさせられるのは「アッシリア滅亡時に帰って来る者は『残りの者(わずかな者)』」ということです。アッシリアが滅亡に至るまでの間に、多くの民がその強大さに「結局、アッシリアには誰も歯向かえない」と心折れてしまっている。人間は終わりの見えぬ苦しみにとても弱いのです。「いつまでこの苦しみ、痛みが続くのか」と思う時、私たちはまるで永遠に苦しみ続けると勘違いして、早々に心折れてしまいます。でも、神さまは24-27節で語ります。「かつて、あなたたちの先祖を奴隷として苦しめたエジプトさえ、私の前に屈したではないか。その私が今、お前たちに救いを語っている。」今朝の箇所は「辛い状況下でも、なお神に希望を持ち続けなさい」との促しです。アウシュヴィッツ強制収容所を生き残った精神科医ヴィクトール・フランクルは収容所を生き残った人と生き残れなかった人の違いを「希望を持ち続けられたかどうか」と説明しています。希望がいつ実現するか分からなくても、希望があると信じ続ける者は生き残っていく。イザヤも今朝「強大な人間ではなく、神にこそ目を向け、希望を保ちなさい」と促してくれます。私たちも、神さまの平和シャロームに実現を期待して祈り続けましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてイザヤは「強大な力に屈するのでなく、神に希望を保ち続けなさい」と促します。私たち人間は目の前の現状で右往左往します。けれど「驕れる人も久しからず」のように、権力を振るう者も一時の存在に過ぎません。神さま、どうぞ私たちは一時の出来事に惑わされず、あなたの御心を追い求め、あなたに希望を持ち続ける者であれますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(木) イザヤ書10章27節後半-34節
一言メッセージ:話が行ったり来たりしていますが、今朝の箇所は反アッシリア同盟が南王国に攻め込んできた時の描写です。なぜ、それが分かるかと言えば、27節後半から32節に至る町の名前が南王国の町々だと言われるからです。詳しいことは分かりませんが、このルートはエルサレムに至る主要道路ではないそうです。主要道路にはラマ(29節)という防衛の要衝があるそうですが、反アッシリア同盟はそのルートを避け、防衛体制が希薄なルートを通ってエルサレムに近づきます。だから29節の「ラマは震え」は、防衛拠点が取り残されて周辺が次々と陥落していく様子に、「えっ!思ってたんと違う!」と動揺し、かといって出陣しても平野での合戦では撃破されかねない、という想定外の事態に慄いている描写なのです。人間、「想定外」に弱いです。想定内の出来事には落ち着いて「こうやって、こうやって、こう対処する」と整理して動けるのに、想定外の事柄には頭も体も反応が遅れます。いや、想定外が大きすぎると思考停止にもなり、現実逃避が始まり、「あいつが悪い、こいつが悪い」と無駄な責任転嫁を始めてしまいます。この時の南ユダは正にそうだったでしょう。反アッシリア同盟の想定外の侵略ルートに動揺しまくっている。でも、そこでイザヤは言います。「『万軍の主なる神(33節)』が今、自分たちに何を示しているのかを模索しなさい」と。それは、「本当に頼るべき方(神)を思い起こしなさい」でしが、アハズ王は愚かにもアッシリアという強国に頼ることしか考えませんでした。私たちも想定外には弱いですが、でもその時にも「神さま、今、あなたは私たちに何を示し、どう促しておられますか」と祈り、冷静な目と先の先を見通す知恵を持つべく、日頃から神さまの御心を模索する習慣をつけておきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは「想定外」には弱く、その度合いによって思考停止に陥りがちです。でも神さま、私たちはそんな状況に陥っても、あなたを思い起こし、祈る冷静さをお与えください。あなたに祈り、心と思考を落ち着かせ、あなたの御心と導きを模索する信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
29日(金) イザヤ書11章1-5節
一言メッセージ:イザヤ書11.1-11は「神の国」預言です。私が「平和」について考える時、必ず思い浮かべる箇所の1つです。というのも、この箇所は現代の世界がいかに平和を実現するのか、そのヒントが満載だからです。2日に分けて読んでいきます。今朝は1-5節を選びました。ここでは、神の御心を行う指導者の登場が書かれるのですが、先ず1節が非常に面白い。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」とある。「エッサイ」はダビデの父親ですからダビデ一族を意味するのでしょうが、「株」は「切り株」です。つまり「ダビデ家がかつての栄華を失い、滅び去ったその時」に、「若枝」が芽生えると11章は語り始めます。2節「その上に主の霊が留まる」の「留まる」は「宿る」とか「特別な力を与える」というニュアンスに聞こえますが、別訳をすれば「どっこいしょと座り込む」です。「はぁ?これが救い主の姿?」と疑問が湧いてくる記述です。多くの人にとって「救い主とは誰にも屈しない強い力と優れた知恵を持ち、世界を席巻する」ヒーロー像を思い浮かべてもおかしくないのに、聖書の記す救い主像は「民衆と変わらず地べたを這うような中に生まれた普通の若者に、神の聖霊が『どっこいしょ』と腰掛ける」ことから始まるのです。なぜ、それが救い主なのか。3節で「(彼は)目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することは無い。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」と記されます。それは、社会的弱者に寄り添い、彼らの言葉にならぬ思いに耳傾け続ける者です。つまり、神の示す救い主とは強大な力を持つカリスマでなく、民衆と共に生き、民に寄り添う方なのです。イザヤ11章は「神の国」の実現のために、民に寄り添う者の存在を先ず示したのです。さぁ、本題は明日です。明日は6節から読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイザヤ11章の「神の国」預言を読み始めました。この言葉は現代に生きるすべての人々が耳を傾け、平和実現のヒントとする金言です。そのはじめに、あなたは「民に寄り添う」ことを教えてくださいました。神さま、私たちはそんな方を知っています。イエスさまです。明日も続きのみことばを読みますが、どうぞ戦後77年目の今、私たちはイザヤ書に平和実現にヒントと、イエスさまに伴われながら一歩を踏み出す勇気をいただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
30日(土) イザヤ書11章6-11節
一言メッセージ:「神の国」の平和実現を告げる箇所です。6節から既に不思議な言葉です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。」イザヤが告げた言葉は弱肉強食の世界で、食ったものと食われたものが共存している光景です。これは理想的だけれど夢想でしょうか。いいえ、西南神学部の旧約学の教師である日原広志師はかつて7節の厳密なニュアンスを含め、こう訳しました。「母牛と母熊が自分自身を奮い立たせて、『おともだちになろう』と語り、共に干し草を食らう。その時、その子どもたちは兄弟同然に育つ。獅子は草を食べる、あのうちに従って。」厳密な訳が意味することは以下です。①母牛と母熊はかつての弱肉強食の歴史を覚えていて、共存することにぎくしゃくとしている。②しかし、母親たちが自分を奮い立たせて必死に共存を目指す時、子どもたちは過去の経緯を超えて、兄弟のように互いを理解して生きていける未来がきている、③後半で「あの牛」と定冠詞がついているのは、おそらくこの牛と獅子はかつて、弱肉強食の時代に何らかの形で出会っており、どちらもその記憶を覚えている。しかし、牛はそれでも獅子に共存のための草食を伝え、獅子も過去を乗り越えるために草食を覚えようと努力している、です。ここから何が分かるかと言うと、「傷つけあった歴史はそう簡単に乗り越えられないと聖書は知っている。でも、親世代が子どもたちの未来のために、自分たちで過去の対立の歴史を引き受けて生きようと一歩踏み出す時、未来は変わっていく」です。実際、親世代が自分たちを必死に律する2つの理由があります。1つは、6節の終わり「小さい子どもがそれらを導く」です。大人たちは子どもたちの未来のために、自分たちを奮い立たせるのです。2つ目は9-10節が語るように、皆が神の平和のイメージを共有し、目指しているし、昨日読んだ1-5節に書かれた「民衆に寄り添う救い主が自分たちに伴ってくれることに励まされて、過去を乗り越えようと努力を始める」からです。「神の国」預言の実現は難解です。でも、私たちが本気で平和を実現しようとした時、世界は変わり始める。聖書はそう私たちを励ましているのです。
祈り;天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤ書は「神の平和実現」のために、今の大人たちが必死になって過去を乗り越えようと努力し始めることを示唆しました。神さま、私たちの世界には多くの対立があり、互いがそれぞれの正義を主張し合っています。でもあなたは民に寄り添う救い主を通して、子どもたちに平和な未来を遺したいと願う民の努力から平和は実現すると告げられました。神さま、私たちは子どもたちに平和を遺したいです。どうぞ一歩ずつでも、私たちに努力を始めさせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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