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2022-08

7月10日~16日のみことば - 2022.07.10 Sun

7月10日は選挙の投票日ですね。
皆さんは、投票に行かれますか?(もしくは、期日前投票に行かれましたか?)

投票日直前にとてもショックな事件があり、心が揺さぶられています。
しかし、このような事件に触れて一層、暴力によって問題を解決することはできないし、
決してしてはいけないことであると痛感させられます。
神さまはわたしたちに言葉を与えてくださいました。私たちは対話をすることができる者なのです。
議論を投げ出したくなる時や、言葉に詰まるとき、言葉にすることが難しい時も、決してこの対話から逃げてはいけない。忍耐強く向き合っていかなければならないと感じています。

主よ、どうかあなたのもとに召された魂を慰めてください。
この地に人間の限界によって描かれる「正義」、力による「正義」ではなく、神さまあなたの真の正義と平和が実現しますように。
この選挙にあなたの御心がなりますように。

今週もみ言葉にききつつ、歩んでいきましょう。
※写真は3日の公団のお花。教会員の方のお庭や畑でとれたお花を活けてくださいました。きれい。

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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
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・書名選択     : イザヤ書
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10日(日) イザヤ書5章1-7節
一言メッセージ:今朝は参院選の投票日ということもあり、今日明日の箇所を入れ替えて読んでいきます。というのも、この箇所は今日読んでおきたい大事な警告だからです。今朝の箇所は1つの例え話となっています。注意して読みたいのは1-2節と3節以下の「わたし」が違う人物であることです。1-2節の「わたし」は預言者であり、「わたしの愛する者」とは神さまを指しています。そこでは、預言者が「神さまは素敵なブドウ畑を持っていた。十分に管理して育てていたのに、実ったのは酸っぱい(腐った)ぶどうだった」と嘆いています。では3節以下の「わたし」は農夫である神さま自身です。神さまは「わたしは精いっぱい手入れをしてきたが、どうしてぶどう園であるイスラエルは正しい実りを実らせなかったか。正しい実りを生まないならば、その畑を放置する」と語るのです。7節でイザヤは6節までの例え話を解き明かし、ヘブライ語の韻を踏んで「主が待っていたのは『(ただしい)裁き(ミシュファート)だったのに現実は『流血(ミスパハ)』、『正義(ツェダカー)』を願ったのに『叫喚(ツェアカ)』が生じた」と嘆くのです。なぜ、イスラエルはそんな惨事に陥ったのか。それは8節以下にあるように「富める者(権力者)」の横暴の故です。権力を持つ者がいかなる者か、正しく政治を行うか、私たちもしっかり判断して一票を投じましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちの国では参議院選挙が行われます。この選挙の後3年間、国政選挙はありません。だからこそ、3年間の政治を決定づける大事な選挙です。どうぞ、あなたの裁き(ミシュファート)と正義(ツェダカー)をより明確に実現できる動きを起こしてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン

11日(月) イザヤ書4章2-6節
一言メッセージ:今朝の昨日は順番を入れ替えて聖書を読んでいます。今朝の箇所はとてもイザヤらしい預言の言葉と思います。全体として希望のメッセージですが、その希望は2節で「その日には、イスラエルの生き残った者にとって…」とあるように、イスラエルが滅亡した後に希望を見いだすことが言われているのです。滅亡前の人々にとって希望とは祖国が生き残ることであったでしょうし、滅亡することは絶望と感じていたはずです。そういう意味では、祖国が滅ぼされた時点で民は落胆し、生きる気力も失いかけたはずです。けれどイザヤは「そこにこそ神の希望がある、主の若枝は育つ」と告げる。かつて恩師の関田寛雄牧師は「キリスト教信仰はいつも『にもかかわらず』の希望」と語りました。私たちの願い、望みが潰えても、その先になお神の希望は与えられている。正に今こそ「にこかかわらず」の希望を追い求めていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝はあなたの希望の不思議さを分かち合いました。あなたは私たちの望みの尽きる時になお望みを湧きおこらせてくださる方です。私たちはそこに「望みは神さまにこそある」と知らされます。神さま、どうぞあなたの御心を私たちの社会に、世界に実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(火) イザヤ書5章8-24節
一言メッセージ:今朝の箇所では6つの「災いだ」との言葉が続けられます。それは、裕福な都市貴族たちの横暴への裁きの言葉です。では6つの「災い」は何を意味しているでしょうか。1つ目は8-10節で、貴族が土地を独占する様子です。この背後では貧しい人々が借金のカタに土地を奪われ、生活の術を奪われていく状況があります。神さまは経済格差が生じ、貧しい人々が生きていけず、自己責任のように切り捨てられていく社会を「災い」と告げました。2つ目の「災い」は11-17節で、朝っぱらから酒をかっくらう貴族です。彼らは神さまの御心を思わず、民を顧みないため、15節にあるように「人間(弱い民)が卑しめられ」ていくのです(2.9にも出てくる言葉)。3つの「災い」は18-19節で、「むなしいもの(偶像)」を神としてご利益を求めていく行為です。4つ目の「災い」は20節、自分の都合によって正義が捻じ曲げられていく社会です。5つ目の「災い」は、富む者、利益だけに固執する馬鹿が「私は賢い」とふんぞり返っている状況です。6つ目の「災い」は、自分の都合だけで驕り高ぶる者です。この6つの「災い」は古代イスラエルに語られたはずなのに、そのままの今の日本にも当てはまっています。なぜか。それは、人間の欲はいつの時代も変わりなく、独占的、独善的だからです。「わたしや身内を優先して」という心理は誰の心にも生じるものです。だからこそ、神さまはそんな自分本位なまま権力を振り回す人間を「災い」と語りながら、「神と共に、他者と共に生きる」世界を訴えるのです。今後も紀元前8世紀の富むイスラエルに語られた神さまのみことばを、今のわたしたちの社会と重ねながら読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてあなたは、富と権力を集中する貴族に6つの「災い」を語りました。その言葉はそのまま、今の日本にも当てはまることを思います。神さま、私たちは歴史に、またみことばに学びます。どうぞあなたが警告された過ちに戻ることないように、私たちに私たちが生きる社会を整えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(水) イザヤ書5章25-30節
一言メッセージ:研究者によれば、今朝の箇所は9.20の後に繋がる箇所だったと言われます。9.7-20は、神さまが北イスラエル王国への裁きを語った言葉ですから、当然、今朝の箇所も北王国に向けての裁きとなります。時期は、北イスラエル王国やアラムが反アッシリア同盟を結び、南王国を引き込もうとして失敗し、南王国が引き寄せたアッシリア軍と戦うことになったシリア・エフライム戦争の直前です。ですから、26-30節の「遠くから襲来してくる敵」はアッシリアを指しています。この預言は当時の人々には「そんなわけない」とあざ笑われる内容だったと思われます。だって「神が敵国を使って、自分を信じる国を滅ぼす」なんて、理解できない内容だったからです。しかし私たちはちゃんと区別しながら考えておきたい。神さまは国や王政を滅ぼしますが、民を滅ぼし尽くすとは言っていないのです。国とは所詮、人が都合によってつくった制度としての群れで、この制度は福利厚生などの充実は人々が助け合って生きるための大切な制度ですが、一方、その弱さは仲間意識が強くなりすぎて群れ同士の対立や敵対関係を生み出しやすくなります。例えば、日本は1902年にはロシアの侵攻に対抗するためにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)のに、1941年の太平洋戦争時には「鬼畜米英」と宣伝に、イギリスも鬼畜生扱いし、その宣伝に乗っかった日本人たちは本気でイギリスを敵意の対象にしていたことなどです。この群れ意識は時に神さまの御心をも見失わせます。それこそ「神は敵国アッシリアを用いて、御自分の国を滅ぼすわけがない」という思い上がりです。今朝の箇所はそんな私たちにピシッと「神とはいかなる方か」を示します。神さまは正義の方であり、私たちが勝手に敵対する国々をも治める方なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はアッシリアによる北イスラエル王国滅亡預言でした。イザヤの言葉を聞いた人々は「神が敵国を用いてご自分の国を滅ぼすなんてありえない」とあざ笑ったでしょう。でも、そこには大きな誤解があります。あなたは正義の神であるのに、その正義を勝手に群れ意識に落とし込んで、「自分たちは裁かれない」との傲慢さを生んでいました。神さま、私たちはいつもあなたに対して甘えと同時に節度を、親しみと共に敬意を忘れずに信じ従う者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(木) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:今朝の箇所はイザヤが預言者として召命を受けた物語です。大事な箇所なので3日に分けて考えていきたいと思います。ある時、イザヤは幻を見ます。その幻は天上にて行われている神の神殿の光景です。神殿の上方にはセラフィムが飛んでいます。セラフィムは蛇の胴体で人の顔を持ち、手足と6枚の羽根を持つとされる想像上の生き物です(むちゃくちゃ気持ち悪い)。6枚も羽があるのに、2枚で顔を覆い、2枚で足を覆っているので非効率的な飛び方ですが、これは「神の姿を直接見たら死んでしまう」という理解と、「足は汚れる箇所なので、神に対して足裏を見せることはできない」との理解によるのでしょう(飛び方を想像するとますます気持ち悪い)。セラフィムに関しては「天的な存在ですら、神の前に畏れおおいと示していた」くらいに理解したらいいです。そんな神の荘厳な神殿にイザヤは突然、来てしまったという幻です。話を理解するため、6章ではイザヤが見たものを5つに分けて物語を読みます。イザヤが見た1つ目のものは「神の姿」です(1節)。3節でセラフィムは神に対して「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、血をすべて覆う」と語っています。「聖なる」はヘブライ語のカドーシュで、それは「汚れていたものがきれいになる」という意味の「清い」ではありません。「そもそも汚れなどと無縁の、あらゆる存在と隔絶された聖なるもの」という「聖さ」です。さらに「栄光」はヘブライ語のカーボードで、それは「重さ」とも訳されます。つまり、「主の聖なる威光は世界の隅々まで威厳をもって覆い尽くす」と言うのです。イザヤはそんな絶対的に聖く、威厳に満ちた神さまを見たのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイザヤ書6章から、イザヤの召命体験を読み始めました。大事な箇所だから3回に分けて読んでいきます。神さま、どうぞこの箇所を通して、私たちにも今、与えられている祝福と示唆を分かち合うことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(金) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:昨日からイザヤの召命体験を読んでいます。この箇所を理解するために、私たちはイザヤが見たものを5つに分けて読んでいます。昨日見た1つ目は「神さま」でした。全き聖なる方をイザヤは見たのです。今朝はその続き、イザヤの見た2つめ、3つめを分かち合います。イザヤが見た2つめは「自分自身の罪深さ」です。5節でイザヤはこう言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」昨日分かち合ったように、ユダヤ人は「神さまは極めて尊い方であり、そのお姿を直接見たら死んでしまう」と考えていました。だからイザヤは「あぁ、わたしは神さまを見てしまった。死んでしまう」と叫んだのです。非常に興味深いのは、イザヤが「わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者」と語っていることです。振り返りますと、イザヤは元々祭司と考えられています。神さまの御用のために神殿で働いていた人物ですから、彼は「自分は人々の中で、まだ神に敬意を持つ者」くらいに思っていたかもしれません。でも彼は神さまを見て、その偉大な威光を知った時、「あぁ、私も罪深い民の一人に過ぎなかった」と己の姿を悟ったのです。イザヤが見た2つめのものは「自分自身の罪深さ」でした。嘆くイザヤに6節、セラフィムは祭壇の炭火を火ばさみで取ってくると、イザヤの口に触れさせて言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」どうして炭火に触れたら赦されるのか分かりませんが(皆さんは炭火に触れるなんて危険なことは絶対にしないでね)、大事なことは、イザヤは赦されたということです。神の前に罪深い人間であった自分すら赦し、救ってくださる神がいる。イザヤが見た3つめのものは「赦し」です。続きはまた明日読みましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイザヤが見た2つ目、3つ目を読みました。イザヤが見たものは「自分自身の罪深さ」であり、そんな自分さえも「赦し」、救ってくださる神さまでした。明日も続きを読みますが、どうぞ私たちに深い示唆と今を生きる希望とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(土) イザヤ書6章1-13節
一言メッセージ:イザヤの召命物語から、彼が見た5つのものを見ています。1つめは「偉大なる神」でした。偉大なる神さまを見たイザヤは「私は滅ぼされる」と叫びます。彼は2つ目、「自分自身の罪深さ」を見たのです。しかし3つ目、イザヤはそんな罪深い自分さえも「赦し」て救ってくださる神さまを経験しました。彼が見た3つ目のものは「赦し」でした。今朝は4つ目、5つ目を分かち合います。イザヤが見た4つ目は「同胞の姿」です。8節、イザヤは神さまが問う声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くべきだろうか」と言います。それは神さまのみ言葉を取り次ぐ預言者を求める言葉でした。イザヤは「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と申し出ます。神さまは9節で「行け」と語り、イザヤを預言者に指名します。しかし不思議なことに続けてこう言われるのです。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」神さまのみことばを伝えるならば理解してほしいし、救われてほしい。しかし神さまは「彼らは理解しない」と語ります。イザヤが見た4つ目のものは「頑なな同胞の姿」です。彼らは神さまのみことばを聞こうとしないのです。しかしイザヤは食い下がります。11節「主よ、いつまででしょうか。」それは希望に満ちた問いです。そこには彼自身の体験があるでしょう。昨日の箇所のように、自分は祭司であり、神さまの御用のために働いており、神さまの御心に適う者だと自負していたイザヤは「私も罪人の一人に過ぎなかった」と理解した。しかし、その自分さえ救われたのです。だからイザヤは問います。「神さま、わたしが救われたのですから、きっとこの民も救われる時は来るでしょう。その時はいつですか」と。神さまが語った言葉は11-13節です。そこで神さまは「南王国が滅亡した後」の救いを語ります。南王国の滅亡後はバビロン捕囚があり、国の主だった人たちがバビロンに連行されます。残されるのは荒廃した土地、街、見捨てられた民たちです。しかし、13節、神さまはその残されたイスラエルに「切り株が残る」と言われます。ダビデ王家の残骸です。しかし、その残骸が「聖なる種子」と語られます。つまり、神さまはこの滅亡し、崩壊したと言われるイスラエルのただ中に、なお希望が芽生えてくると語ったのです。イザヤが見た5つ目、それは「救いの希望」でした。この「切り株」の預言はイザヤが語る神の国の預言11章に繋がっていきます。そこに見られるのは、今の私たちが本当に必要としている神の平和の預言なのです。また11章に手続きを語っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝までかけてイザヤが見た5つのものを見てきました。イザヤは頑なな同胞の姿と共に、しかし、神さまの救いは必ず実現していくとの希望を見いだしました。神さま、私たちもまた、あなたの希望を欲します。どうぞ、この国に、この世界に、私たちの人生に、あなたの平和を実現ください。御業に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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