6月26日~7月2日のみことば - 2022.06.25 Sat
6月も間もなく終わりになりますね。
今週は様々なことに心がざわつく1週間でした。
いよいよ始まった参議院選挙。争点はいろいろありますが、改憲に対する考えは一つの大きなポイントです。
ウクライナにおける戦争によって、「日本ももっと武力を持つべきだ」という風潮が高まっているように思います。政府も5年以内に防衛費を2倍に以上にする方針を表明したと報じられています。
しかし、そもそも武力を上乗せすることが平和につながるのでしょうか。
わたしたちの身の回りを見渡せば、7人に1人の子どもは貧困状態だといわれます。子ども手当や保育の無償化、高校無償化など少しずつ進んではいますが、今も奨学金という借金に苦しむ人たちもいますし、経済的理由で満足に学べない人たちも多くいます。また、介護の問題で頭を悩ませている人、必要な支援が受けられない人なども。老後には2000万円の貯蓄がないと生活できないとも言われる、この今の日本で防衛費を2倍にということに疑問を持ちます。
しかも、それを提言しているのが、あの安保関連法によって「解釈改憲」を強引に行い日本が戦争に参加できるように道筋を作り、武器禁止の三原則をなし崩しにして「人を殺す道具」で金儲けできるシステムを作り、唯一の戦争被爆国でありながら核兵器禁止条約に参加しない、そのような政府であることにより強い危機感を感じるのです。
また、6月23日は沖縄慰霊の日でした。
戦時中、最後の捨て石とされた沖縄の痛みを、私たちはどれだけ考えているのだろうか。
今も、あの小さな島に米軍基地の約7割がおかれていることを、私たちはどう考えるのだろうか。
今も、沖縄の戦後は続いていること。その責任を今日本に生きる私たちがおっているのだということ。そして、今さらにその重荷を負わせ続けようとしていること。
「亡くなられた御霊に、謹んで哀悼の誠をささげます。」との言葉を語りながら、行っていることは…。
本当に、亡くなっていった方の命を思うならば、その人たちの願った平和を実現していくことにこそ、誠実さがあるのではないかと考えます。
「政教分離」という言葉の下、日本のキリスト教世界でも政治に声を上げることをよく思わない人たちもいます。
しかし、聖書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3章16節)と語っています。神さまは「自分を信じる者だけを」愛したのではなく、この「世」を愛されたとあるのです。ですから、私たちクリスチャンもまた、イエス・キリストを信じる者として、自分の置かれているこの「世」において、自分たちが何を選び、何を語り、何を行っていくのかを真剣に考えることを神さまは望まれているのだと信じるのです。
(本来の「政教分離」とは、政治的権力と教会とは1つになってはいけないというキリスト教の過去の反省からくる原則であり、「教会は政治に口を出してはいけない」というものではありません)
選挙のニュースが流れるたびに、様々なニュースを見聞きするたびに、わたしたちはまず祈ります。
「神さま、私たちの生きるこの世は様々な課題に満ちています。主よ、私たちを、そしてこの世を憐れんでください。そして、私たちがこの時代にあなたの御心を行うために、何を選び取るべきかを教えてください。み言葉をよく読み、よく聞き、祈り、恐れからではなく、あなたへの信頼と平安の中で選びとっていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」
今週も皆さんの上に平安がありますように。
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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26日(日) ホセア書6章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所を読む際にはしっかり注意して読んでください。1-3節は民の悔い改めの言葉のようですが、新共同訳の表題は「偽りの悔い改め」です。彼らは「さぁ、我々は主のもとに帰ろう。我々は御前に生きる」と語りますが、彼らの言葉は上っ面だけで、何を悔い改めねばならないのかが分かっていません。実際、3節の後半で彼らは「主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と語りますが、ここは聖書の神さまとバアルを混同しています。ご利益信仰であるバアルは乾いた土地であるイスラエルに豊作をもたらすための神と信じられており、それは雨期の始まりである春の雨と考えられていました。つまり3節は、「悔い改めよう」と言いながら、神さまとバアルを混同したままの口先の言葉に過ぎないのです。この民の言葉に対して4-6節で神さまは「お前をどうしたらよいのか」と嘆きます。神さまの切実な呼びかけは6節です。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえ(儀式)ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物(多額の費用)ではない。」私は今朝の箇所から、二人の教師を思い出します。一人は私が目標とする牧師、日本基督教団の関田寛雄牧師です。彼はいつもみことばにも人にも誠実で、常に民衆の側に立って理不尽な権威には「否」と言い続けてきました。その生き方は青山学院大学の夜間部の教員で、同時に川崎の「在日朝鮮人」集落での長年の牧会にも表れていますし、2年ほど前はテレビで見た、川崎のヘイト言動禁止を求めた原告団の団長として記者会見にも表れていました。私にとって大事な目標となる恩師です。一方、思い出したもう一人は「こんな風にはなりたくない」という教役者です。「私たちはことばに生きる」と威勢よく言い、口数は多いのですが、都合悪くなるといつも責任転嫁して逃げる。最近もある会合で発言を聞きましたが、他人をけなすことで自分がひとかどの人物であるとアピールするような言葉ばかり。「ことばに生きる」のでなく「ことば遊びに終始する」姿に、「私はこうならないようにしよう」と感じる反面教師でした。神さまは上っ面は見抜く方です。神さまに誠実に生きる私たちでありましょう。偽りの悔い改めにそんなことを思いました。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは偽りの悔い改めで神さまをやり遂せると考えた愚かな人々の言葉と、神さまの嘆きを読みました。あなたは私たちに真っ正直に向き合うことを望まれます。私たちは決して御前に胸張れるような者ではありませんが、でもいつも弱さや至らなさを抱えながらもあなたに誠実に向き合う者であれますように。私たちの傍らまで下り、寄り添い、救ってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(月) ホセア書6章7節-7章16節
一言メッセージ:神さまはイスラエルの罪をがっつりと指摘します。バアル信仰に影響され、神さまを蔑ろにしてバアルに走る言動は「淫行」と表現され、バアル信仰の行為である性行為や自傷行為(7.14)は罪だと列挙されています。また、7.11のようにエジプトとアッシリアという強国の間を行ったりきたりと画策する様の指摘もいつも通りです。その中で、目を惹くのは7.2「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない」と言及される部分です。どうして人々は神さまの怒りを「意に介さない」のか。本心からバアル信仰に染まり、聖書の神さまを意識的に蔑ろにしているためか。いいえ、彼らはどうも、「自分たちは神さまを信じ、従っている」と思っていたようです。彼らはバアル信仰と聖書の神さまの信仰が混同していることが分からないだけであって、自分たちでは「私たちは敬虔」と思っているのです。ではなぜ、彼らは神さまの怒りを「意に介さない」のか。それは、彼らが盛大に、贖罪の献げ物をしていたからです。贖罪の献げ物が豪勢であればあるほど、自分たちの罪は赦してもらえる、と考えていたのです。実際、彼らの時代、経済格差は広がり、裕福な人は贅の限りを尽くして生活しています。だから、贖罪の献げ物だって、費用は惜しまなかった。でも、それが無理解であり、「高慢(7.10)」でした。神さまが本当に欲したのは6.6「愛であり、神を知ること」なのです。私はこの描写に今の世界の風潮を感じます。金や権力を持つ者の横暴がまかり通り、民の命や尊厳がないがしろにされる世界は到底、神さまの御心に沿うものとは思えません。彼らは今「わが世の春」を謳歌しているのでしょうが、神さまは現代も同じように語り掛けられる。「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。」私は「この時にも神さまに誠実に生きていかねば。神さまの御業は私たちの小さな言動からでも大きく育っていく」と思い起こすのです。まもなく7月、参院選があります。自分たち、子どもたち、孫たちの未来のため、冷静に先を模索しましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたはイスラエルの罪を指摘します。その中で私たちは、神さまの赦しを既定路線と侮り、高価な献げ物で何でも赦されると高慢になる民の姿に、現代の風潮が重なりました。神さま、あなたはきっと、今も「すべての罪を心に留めている」と言われるでしょう。神さま、どうぞ今の時代を、世界をお救いください。私たちに御心を求めて決断できる知恵をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(火) ホセア書8章-9章6節
一言メッセージ:最近のみことばはイスラエルの罪の指摘の言葉が続いています。ちょっとしんどいですが、読めば読むほど、私たちは自分たちの生き方を問い直されます。8.1-2は北王国が戦争前に国家祭儀として神さまに戦勝祈祷をする場面が描かれています。しかし、神さまは、彼らの祈りも拒絶します。4-6節は「なるほど」と思うのですが、神さまは「お前たちは王を立てたが、それはわたしが指名した王ではない」と突き放します。北王国の最後の時期は、次々と親アッシリア派、親エジプト派の人々がクーデターを起こし、王が代わりますが、それは人の都合の王であって、神さまが立てた王じゃないのです。また神さまは「お前たちは神を拝むが、それはお前たちが勝手に使った偶像に過ぎない」と言う。北王国は金の子牛像を数体作り、各地に祭壇を築いて拝ませていましたが、牛はバアルを意味する偶像でもあったのです。神さまはそんな罪を指摘し、4節で彼らの罪の根本をズバリ指摘します。「彼らのパンは自分の欲望のためだ」です。政治も宗教も正義も、自分たちの欲望のために捻じ曲げていることを神さまは指摘したのです。太平洋戦争後、A級戦犯の死刑に立ち会った唯一の日本人、花山信勝さんが著書『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』で、亡くなる3週間前の東条英機の言葉を残しています。
「世界平和」は人間の欲望をなくした時に初めて達成できる。人間の欲望というものは本性であって、国家の成立ということも「欲」から成るし、「自国の存在」とか、「自衛」とかいうような、きれいな言葉でいうことも、みな国の「欲」である。それが結局、「戦争」になるのだ。
欲は社会も政治も宗教も正義も捻じ曲げます。神さまは北王国の「欲望」を指摘しました。それは「気づいて立ち帰れ」との呼びかけなのです。私たちは北王国への罪の指摘を読みながら、神さまの「立ち帰れ」との呼びかけに真摯に向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは人の欲が正義をねじまげ、神さまの御心に盲目にさせていることに気づきました。神さま、もし私たちが欲のためにあなたの御心を見失い、理不尽を通しているならば、どうぞ正しく立ち返らせてください。自分の欲にも、周囲の欲にも気づかせ、あなたの御心を模索し、いつも柔軟に正しく対応できる私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
29日(水) ホセア書10章1-15節
一言メッセージ:神さまは1節でイスラエルを「伸び放題のぶどうの木」と表現します。手入れされないので、育っても実が成熟しないのです。そんな、自らを律しない姿が2節「偽る心」と指摘されます。ヘブライ語では「二心」とも訳せる言葉でして、「神さまとバアル」「敬虔と私欲」というように、常に自分の願望ありきで神を選択するような姿勢がイスラエルの民の中にあったのです。彼らの身勝手な「偽る心」は3節では責任転嫁として現れます。北王国が滅亡する時には「私たちには正しい王がいなかった。自分たちが悪いのではなく、指導者が悪かった」と言い訳しますが、神さまは「王がいたとしても何になろうか」と指摘します。「お前たちは二心で、本当に信じ従うべき私を見ず、己が欲、都合で生きてきたではないか」と言うのです。さて、ここで「二心」から考えてみましょう。私はずっと「神さまの御心を第一にしなさい、信じて従いなさい」と言い続けています。それは「あなたの意志も願いも捨てなさい」ではありません。「神さまを信じ選ぶことでこそ、願いの最善は得られる」と言っているのです。マタイ6.25-34を見ますと、イエスさまは「神を知らぬ者はいつも『何を食べようか』『何を着ようか』と思い悩む。しかしあなたたちは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と告げました。その理由は32-33節にあります。「あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな加えて与えられる。」最善は神さまから与えられるのです。今日のホセア書10.12も同じです。「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように。(神に誠実に応えて生きる時、神があなたの傍らに来てくださり、あなたに恵みを与え、生きる糧を与えてくださる。)」二心は時代を超えて、いつも私たち人間のテーマです。私たちも一歩ずつ、神さまを信じ従うことを選択していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは民の「二心」を指摘されます。私たちの中には自分たちの幸せや身内の祝福を願う思いが多々あります。でも、だからこそ私たちはあなたを信じ、従います。あなたに従うからこそ幸いと必要は充たされ、共生できるからです。神さま、私たちに最善をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
30日(木) ホセア書11章1-11節
一言メッセージ:1節はとても印象的な言葉です。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」は、神さまがエジプトで奴隷であったイスラエルの民と養子縁組した、という言葉です。養子縁組だと縁が薄いイメージが湧きますが、そのイメージとこの箇所の意味は真逆です。バアルなどのご利益宗教は、生殖的関係や血縁的関係で神と民の関係をイメージさせますが、「養子縁組」は神さまと民の契約関係を強調する表現です。そこには強い意志が表されています。実際、3-4節で神さまはイスラエルを「あんよが上手♪」と育てたと語ります(3節の「わたしだ」は「他ならぬこのわたしだ」という強調があります)。「軛」は家畜を使役するための道具ですが、軛をしたままでは食事ができません。神さまはそんな奴隷状態のイスラエルの民から軛を外し、解放し、自ら身をかがめて、同じ目線で食事を与え、養ってくださる。それほどに民を愛してくださったのです。しかし2節、5-7節、民は神に立ち返ることを拒否し、バアルや強国を頼るから残念ですね。今朝、私が皆さんと分かち合いたいのは「養子縁組」です。神さまは、単なる血縁や約束で仕方なしにイスラエルの民を救うのではなく、自らの強い決意によって民を救ってくださるのです。それは、私たちを救うために、御自身の独り子イエスさまが十字架で亡くなるほどの強い決意であり、愛でした。私たちは今日、自分たちの今を改めて振り返りたい。私たちが神さまに救われたのは「当たり前」じゃないのです。神さま自らが5節終わりの「憐れみに胸を焼かれる」と記したほどの痛みを伴いながら、それでも貫いて抜いてくださった愛による救いです。だから私たちは自分自身も周囲の人々も、何より神さまも大事にしながら生きるのです。さぁ、今日もそんな一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「養子縁組」という言葉から、あなたがどれほど深い愛と決意を持って私たちを救ってくださったかを想起しました。私たちは普段、周囲との比較で一喜一憂して生きています。でも、それ以前にあなたの丸ごとの愛に包まれて生かされていることが、私たちの大前提でした。神さま、あなたに深く感謝します。どうぞ今日も感謝と希望に満ちて過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
7月1日(金) ホセア書13章1-15節
一言メッセージ:13章はホセアの時代を非常に分かりやすくまとめてくれています。1-3節で北王国は常に指導者という一人物が主導権を持っていました。人々はその指導者の言い分に思考停止で従った結果、その指導者が推進したバアルというご利益信仰に走ってきたのです。自分たちにとっても、ご利益は都合が良かったし、神さまに裁かれる時にも「自分たちは知らなかったんだ」と言い訳できると考えたのでしょうか。神さまはそんな民に対して、2節「それらはみな、職人の細工」に過ぎないことを告げます。しかし己が都合を優先する民は神さまの声を聞かないのです。4-5節で神さまはご自分を強調しながら、「わたしこそあなたの神、主。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」と訴えます。けれど、民は神さまの祝福を当たり前と考えると「高慢になり」、神さまを忘れたのです。「当たり前」は怖いものだな、と思います。「当たり前」は感謝を忘れ、義務で相手を縛り、より多くの利益を求めます。私は親になってまもなく11年ですが、子育てを始めてから、自分が親に育ててもらったのが当たり前じゃなかったことを痛感してきました。子育ての喜びも大きいし、多いけれど、「こんなにも苦労し、こんなに悩んできたのか」と痛感する労苦も多いのです。イスラエルの民は神さまの祝福を当たり前と考えた時、そこに高慢が生まれ、より多くの利益を得るためにバアルに走り、その利益を守るために目に見える強国を頼り、強国の庇護を得るためにおもねるようになりました。すべての歯車が狂ったのは「当たり前」という高慢さがスタートです。「ありがたい」は「有り得難い」からきていると言われますが、私たちは今日も神さまの「当たり前じゃない」恵みに感謝をもってスタートしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、あなたの祝福は「当たり前じゃない」ことを私たちに伝えます。あなたがどれほどの決意を持って、私たちを愛してくださったか。それは独り子イエスさまの十字架ほどの大きな決意でした。神さま、あなたの救いに改めて感謝します。どうぞ私たちがいつもあなたへの感謝を忘れずに生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
2日(土) ホセア書14章1-10節
一言メッセージ:ホセア書も最後となりました。2-8節を読むと、神さまの怒りが「イスラエルを滅ぼして終わりの怒り」ではなく、「懲らしめによって正しく生き直すことを願っての怒り」であることが分かります。5節の「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」との神さまの言葉はとても印象的です。現代社会は他人を評価することは多いですが、評価によって相手を切り捨てることも多い社会です。「使えるか、使えないか」といった利用価値で人を判断し、「価値無し」と断じたら簡単に排除するのです。でも、大事なことを忘れています。人は成長するし、変化するものです。時に「年を重ねると人は変われない」という言葉も聞きますが、私はそうじゃないと思っています。「変わりにくくなる」とは思いますが、変われないわけじゃない。何故ならば、神さまがいつも私たちを信じ、期待してくださっているからです。「この者たちは必ず私を知り、私を信じ、私に従う」と信じてくださっている。だから人はきっといつでも変われる。その時に大事なことは神さまとの真剣な出会いです。ホセア書1-3章に戻りますが、当初、ホセアも社会風潮の中で当然だった「淫行」に何の疑問ももたず、ゴメルと結婚しました。しかし、その自分が神さまの御心に背いていたと知った時、彼は自分にも周囲にも神さまにも腹を立て、ゴメルを離縁しました。しかし神さまはそのホセアをそれでも受け止め、癒し、立ち上がらせ、もう一度ゴメルを妻として連れ戻し、共に生きることを促しました。それは、周囲から見れば、恥ずかしい弱い男の姿でした。確かに当時の社会では弱くてみすぼらしい姿だったでしょう。でも、まさにそんな姿をさらしながら、神さまが私たちを愛してくださった。ホセアはこうして預言者となっていきました。私たちも同じです。神さまを信じる時、私たちはそれまで自分を縛っていた恥も外聞も放り投げてでも、神さまによって変われる。信じることは解放です。今日はご一緒に、その感謝を改めて実感しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ホセア書を読み終えました。あなたの怒りは民を、そして私たちを愛し、立ち返らせるための怒りでした。神さま、あなたに立ち返ります。どうぞ私たちを喜び、受け止めてください。感謝と期待をもって、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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