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2021-07

6月20日~26日のみことば - 2021.06.19 Sat

梅雨のジメジメした日が続いています。
変わりやすい天気についつい一喜一憂してしまいますが、雨も日差しも植物にとっては恵みですね。

6月20日の礼拝から久留米教会は久しぶりに集まっての礼拝のおすすめを再開します!
もちろんプログラム短縮、マスク、消毒、検温など対策を続けつつですが、久しぶりに会堂に集っての礼拝で皆さんとお会いできるのを楽しみにしています♪
教会学校(小学科・幼稚科)も再開しますよ~!
久しぶりにお会いできるのを楽しみにしています。


先週のお花は、おうちのお花シリーズ(?)第2弾!
教会メンバーの方の畑に咲いたグラジオラスでした。
背の高い色とりどりのグラジオラスが、広い会堂に一層生えて「お見事!」と言いたくなる堂々とした姿でした。
20210613flower.jpg

お花もまた神さまの作品のひとつ。
なんて不思議な、でもなんて美しいんだろうなぁ。神さまってば芸術家!
なんて、思いながらお花を眺めていました。

今週もみことばにみちびかれつつ、1日1日を過ごすことができますように!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

20日(日) マタイによる福音書27章45-50節
一言メッセージ:イエスさまの死の場面です。十字架にかけられたイエスさまは一言も発しません。それが十字架にかけられて6時間後の午後3時に、突然、大声で叫ぶ。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。突然の叫びに周囲の人は「エリヤを呼んだのか?」と聞き間違えますが、それは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との悲痛な叫びでした。
  キリスト教が始まって以来、このイエスさまの叫びは重要な問いになりました。神の子で救い主のイエスさまが神さまに「どうして私を見捨てたか」と叫んで死ぬなど、簡単に許容できないからです。実際、ルカとヨハネの福音書ではこのイエスさまの叫びは削られ、それぞれ、敬虔に御心に服して死んでいくイエスさまが描かれました。けれど、最も古い伝承であるマルコと、そのマルコを手本にしたマタイは、イエスさまの叫びをそのままに残しました。
  後代の解釈者たちでは、「このイエスさまの叫びは詩編22編を意図したものだ。22編は冒頭で詩人が『我が神、我が神、なぜわたしを見捨てたのか』と叫ぶが、終わりには神さまへの賛美で締めくくられる。イエスさまはこの22編を叫んで死んでいかれたのだ」という理解が生まれました。
でも、私はその理解は難しいと思う。この叫びはそのまま、イエスさまの壮絶な叫びだったと思うのです。私はこう理解します。「この叫びは、私たちの叫びだ。私たちには、誠実に生きているつもりなのに、人生には何度も『どうして、何故』と訴えたい出来事が生じる。災害や突然のトラブル、近しい者の死や、病などなど。苦しくて、悲しくて、自分が見捨てられたように思えて、『なんでこんなことになったんだ』と問うてもどこにも答えが見出せなくて。そんな私たちは、いつか神さまに『どうして私は苦しまねばならないのか』と訴えたいのだ。イエスさまはそんな私たちの叫びを、私たちに先立って、私たちに代わって、私たちのために、私たち以上の苦しみである十字架上で叫んでくださったのだ」と。私はこの叫びの中に、イエスさまが本当に私たちの救い主なのだと、私たちに最後の最後まで寄り添ってくださった神の子だったのだと見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまの十字架の叫びの中に、最後の最後まで私たちに寄り添い抜いてくださった救い主イエスさまの姿を見出しました。あの叫びは私たちがいつかあなたに訴えたかった叫びです。でも神さま、そんなイエスさまの叫びゆえに、私たちは誰にも理解されないとの孤独から解放されました。あなたの愛とイエスさまの伴いに心から感謝します。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(月) マタイによる福音書27章51-53節
一言メッセージ:昨日に引き続き、イエスさまの死の場面です。イエスさまは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのか」と叫んで亡くなられました。それは最期の最後まで私たちに寄り添ってくださった救い主の姿でした。今朝考えたいのは、この叫びを神さまはどう受け止めたか、です。注目したいのは51節です。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け…」。ここで言われる「神殿の垂れ幕」とは神殿の最深部にあった至聖所の幕です。至聖所は神がおられる神聖な場所とされていたので、年に一度、大祭司のみが儀式でだけ入ることが赦された場所です。その垂れ幕とは、神と人とを隔てる幕です。イエスさまの死の直後、この幕が真っ二つに裂ける。裂いたのは神さまです。つまり、この記述が意味するものは「イエスさまの死によって人々の罪を贖った神さまは、今や私たちの人生に自ら手を差し伸べ、救ってくださるようになった」です。先のイエスさまの叫びと合わせて考えるならば、「なぜ私を見捨てたとの叫びに対して、神さまが自ら、私たちを整え、生かし、導いてくださるという仕方で応えてくださった」です。イエスさまの十字架の贖いが私たちの人生に救いとなったのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの十字架の叫びにあなたは明確に応えてくださいました。神殿の垂れ幕を引き裂き、私たちの人生に御手を差し伸べ、整え、祝福し、導いてくださることが示されました。神さま、イエスさまの贖いの御業と、あなたの赦しに心から感謝します。どうぞ、今週もあなたの救いを喜びつつ、歩む私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(火) マタイによる福音書27章54節
一言メッセージ:今朝はイエスさまの死を最も近くで目撃した百人隊長のことばです。百人隊長はローマ人であり、これまで各地で戦争も経験してきた人物でしょう。力をもって相手を屈服させ、支配してきた人物であり、自分の属するローマ帝国の強大さを誇ってきた人物でもある。その彼が、十字架上で人々に嘲られ、憎まれ、無残に絶叫して死んだ男に、「神の子」の姿を見出したのです。彼がイエスさまに見出したのは、最後まで民に寄り添う神の子の姿でした。
彼はイエスさまの死を見て「本当に、この人は神の子だった」と語ります。「本当に」ということは、彼は「本当ではない神の子」を見てきたからです。それは誰か。それはローマ皇帝です。ローマ皇帝は自らを「神の子」と自称していたのです。百人隊長はローマ皇帝とイエスさまの違いを目の当たりにします。力によって支配する者と、愛によって仕える者。民衆とかけ離れた殿上人としてでなく、最も低い者として民と寄り添い遂げる者。強さではなく、弱さを貫いた者。そして、民を威圧する者と、最後まで民に寄り添い、民を庇うように神に問うた者。その違いはあまりに明確でした。しかし、百人隊長は最期の最後まで民に寄り添う救い主に、神の御心を見出したのです。百人隊長は神さまの御心に気づきました。次に気づくのは私たちです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございました。今朝は百人隊長の言葉を見ました。彼はイエスさまの中に神さまの御心を見出しました。民を愛し、民を受け止め、民を赦し、民に寄り添う、神の子の姿を見出しました。神さま、本当に救い主イエスさまをお与えくださり、ありがとうございます。どうか今、私たちも百人隊長に続き、イエスさまを信じ、従う者となれますように。十字架の主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

23日(水) マタイによる福音書27章55-61節
一言メッセージ:イエスさまが埋葬されたという話です。この話は単なる報告ではなく、イエスさまの復活を示す大事な記述です。以前記したように、十字架刑はローマ帝国に歯向かう者を怯えさせるための見せしめの刑でした。だから、徹底的に恐怖し、絶望するような刑であったのです。死ぬまでの過程も恐ろしいのですが、ユダヤ人にとってさらに恐ろしかったのは、十字架で死ぬ者の多くが、そのまま放置され、遺体が野獣に食い荒らされることが多かったからです。実はユダヤ人が信じる復活は、生前の体での復活です(だから、ヨハネ福音書でイエスさまが手や脇腹に傷を残しておられたことはユダヤ人にとっては不思議ではありませんでした)。その遺体が野獣に食われて喪失するのは、「復活の希望すら奪われる」ことを意味していたのです。その観点で見た時、イエスさまはアリマタヤのヨセフによって遺体が引き取られ、埋葬されました。この記述にユダヤ人たちは復活を信じる1つのヒントを見出すのです。
  さらに、これは私たちにとって大事な記述ですが、イエスさまの埋葬を終始、見届けたのは女性弟子たちでした。当時の社会で女性は社会的発言権を持たないことは何度か書いてきました。だとすると、女性たちがイエスさまの埋葬を見届けたことはユダヤ人にとっては「嘘だ」と突っぱねる根拠にもなったはずです。けれど、聖書は一貫して証人として女性たちを記している。「当時の常識では不都合なはず。なのに聖書は女性たちの名前だけを記した」という事実に、私たちはかえって、イエスさま復活を示唆するリアリティーを見出すのです。
  聖書は、埋葬の記述から既にイエスさまの復活を私たちに伝えようとしているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございました。イエスさま埋葬の記述は、私たちにイエスさま復活の可能性を示します。「復活を信じるか」と問うてきます。神さま、明日も続けて復活への記述を読んでいきますが、どうぞこの記述を通して、私たち自身が改めてイエスさまの復活という御業と向き合うことができますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(木) マタイによる福音書27章62-66節
一言メッセージ:昨日は、イエスさまが埋葬されたという記述がイエスさまの復活を示唆している、と分かち合いました。今朝の物語は、復活の可能性に最も怯えた祭司長たちの対応を記しています。彼らはピラトに「弟子たちが遺体を盗み出し、復活を言いふらさないともかぎりません」と訴えます。そして、番兵を配置して見張ることの許可を取ります。もしイエスさまが、彼らが言ったように「神を冒涜した不届き者」であり、「他人は救ったのに自分は救えない(27.42)」のであれば、イエスさまが亡くなった今、安堵していればよかったはず。けれど、彼らは不安に駆られている。それはイエスさまを殺害した理由が、神さまへの敬虔ではなく、自分たちの都合や思惑だと自覚していたからです。彼らは神さまの「否」に怯えているのです。皮肉なことじゃないですか。神さまの御心を蔑ろにした者たちがもっとも神さまの御心に怯えている。でもこれは、ある意味で罪人が神さまに気づくチャンスです。何度も見てきたように、神さまは罪人を赦し、救おうとなさいます。ユダですら許されるのだから、祭司長たちだって信じ、悔い改めるなら赦されるでしょう。
  今、私たちも自分たちを振り返ってみましょう。私たちは神さまの御心に従って生きているだろうか。もし「そうでない」と自覚するなら、それが信じて悔い改めるチャンスです。あなたは今、神さまの赦し、救いへと招かれています。どうか今、その招きを信じ、受け入れてほしいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。祭司長たちはイエスさま埋葬後、あなたの御心に怯えました。あなたの御心に背き、自分の都合や思惑を優先したと知っているからです。神さま、今、同じように「あなたの御心に背いていた」と気づくならば、その方に悔い改めと信仰を与え、救ってください。どうぞ、私たちの周囲にもそういった方を起こしてください。私たちもその方々の救いのため、必死に、精いっぱい、共に祈る者であらせてください。十字架にて私たちを愛し、赦し、救ってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(金) マタイによる福音書28章1-10節
一言メッセージ:イエスさまの復活の記述です。とても不思議なことに、聖書には「イエスはむっくりと起き上がり、身体に巻いていた布を取り去ると、墓から出て…」みたいな復活記述は一切ありません。復活を示唆する記述だけです。聖書の意図は復活を単なる物語として描くのでなく、「あなた自身が自ら考え、イエスさまの十字架と復活が自分のための出来事だったと信じなさい」との示唆だからです。その示唆に従い、どうぞ今朝の箇所を読んでください。
  復活の日の朝、イエスさまの墓にやってきた女性弟子たちは空っぽの墓を目の当たりにします。あるはずのイエスさまの遺体が無い。すると天使が現れ、「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。急いで行って、弟子たち告げなさい。『あの方は死者の中から復活なさった。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目に書かれる。』」と伝言を残す。女性弟子たちは「恐れながらも大いに喜び」、他の弟子たちのもとへと急ぎます。その途中で復活のイエスさま本人と出会いますが、やはりイエスさまは「ガリラヤ」と告げるだけで弟子たちと会おうとしない。
  では「ガリラヤ」とは何でしょう。神学者・荒井献は「ガリラヤとは弟子たちにとって、イエスと共に過ごした土地。そこにはイエスの語った言葉や行動が示唆されている」と記しました。続けて、「聖書は私たちにも、自分たちのガリラヤを示唆する。今、私たちはイエスの十字架と復活が私たちの救いのためだったと知らされた。その視点で改めてイエスの言葉、行動を読み直すのだ。その時、私たちは、イエスの言動が今の私たちの現実の生活でイキイキと御心を示していること、信じて従うべく促していることを悟る。それが私たちのガリラヤだ」と語っています。その勧めに従って、もう一度、聖書を思い起こしましょう。イエスさまのことばを、行動を、今の私に向けてのメッセージと受け止めるのです。その時、私たちは復活を信じることができるでしょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまの復活の記述を読みました。聖書は復活そのものを描写せず、私たちに傍証を示しながら、「信じるか」と問いかけています。その1つが「ガリラヤ」です。神さま、どうか私たちが自分たちの実生活と重ねながら、イエスさまの言動が私に向けて示されていることを悟ることができますように。信じて従う私たちとしてください。またどうぞ、この福音を私だけでなく、大事な家族や友人、隣人にも伝えさせてください。私たちを女性弟子たちのように、復活を告げる伝言者として用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(土) マタイによる福音書28章11-15節
一言メッセージ:墓を見張っていた番兵たちが祭司長たちにイエスさまの復活を報告した記述です。祭司長たちはイエスさまの復活をもみ消そうとします。とても面白いのは、13節で「弟子たちが夜中にやってきて死体を盗んでいった」という、自分たちの常識の中であり得る可能性で誤魔化そうとしていることです。人間の浅はかさが明確に記されています。神さまの御業を、自分たちの常識や理解の範疇に押し込めて、否定しようとするのです。私たちの周りでも、いや、私たち自身でもあることじゃないか。神さまを否定して自分の理解や常識や思惑や願望を優先するほうが都合がいいし、安心だと思ってしまうのです。でも、思い込んでいるだけです。最善は神さまの御心にこそあるからです。私たちの思惑の中で不都合に目をつぶり、それで本当に安心し、平穏と希望を持って生きていけるのでしょうか。13節で「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とあります。「今日」とは福音書が書かれた時代です。紀元90年代。イエスさまが亡くなって60年ほど経つのに、祭司長たちは代々、復活が明らかにされないように、自分たちの策謀と御心に背いた罪が明らかにされないように隠し続けねばならなかったのです。御心に背く罪は、ずっと隠し続ける苦痛を生じさせています。信じて赦されればいいのに、と心底思います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの復活を隠そうとする祭司長たちは、福音書が記された時代にも、まだ自分たちの罪を隠し、復活が明らかにされないようにと怯え続けねばなりませんでした。神さまの御心を受け入れ、自分たちの罪を悔い改めれば、真の平安を得られるはずなのに。神さま、私たちは彼らの姿を見ながら、反面教師にします。どうか私たちがあなたの御心の前に誠実に素直に生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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