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2021-07

6月13日~19日のみことば - 2021.06.13 Sun

先週は暑い毎日が続き、久留米は2年連続「今年初めて真夏日を観測した地」として全国のニュースになりました。
あまりうれしくない2連覇でしたが・・・(^^;)まあ本当に暑かったです。
またしばらくは、梅雨らしい天気に戻りそうですが、このジェットコースターのような気候で体調を崩しやすい時でもあります。
どうぞ皆さん、体調に気を付けてお過ごしくださいね。
もちろん、心と身体すべてをひっくるめて「からだ」ですから、心の健康も忘れずに。
心には、毎日のみことばで栄養摂取!

今週も皆さんの上に神さまの守りと導きがありますように♪


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

13日(日) マタイによる福音書26章69-75節
一言メッセージ:逮捕されたイエスさまを心配し、ペトロが大祭司の館に入り込み、宗教裁判の様子を伺っています。この話を理解するには、当時の裁判のルールを知る必要があります。当時の裁判では成人男性が複数、証言した場合は、その証言は有効とされていました。これに基づいて物語を読みましょう。69節で女中がペトロに「お前はガリラヤのイエスの仲間だろ?」と問うてきます。ペトロは否定します。告発者は女性だから有効な証言にはなりませんし、成人男性であるペトロが否定したので、そちらの発言の方が強いと理解されます。けれど身の危険を感じたペトロは71節で門の方に移動します。すると次に、門の傍で別の女中がペトロ本人ではなく周囲にいる人々に「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と語ります。ペトロは焦りますが、告発者は女性。だから彼は72節「そんな人は知らない」と「誓って(裁判を意識して)」強く否定しました。けれど73節、今度は先ほどのやり取りを聞いていた人々が騒ぎます。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」日本語では分かりませんが、原文では「人々」が複数の男性であると示唆されています。この人たちがペトロと捕え、裁判に引きずり出せば、ペトロもイエスさまと共に裁判にかけられる。恐怖したペトロは74節「呪いの言葉さえ口にしながら」、イエスさまを否定したのです。その時、鶏が鳴く。ペトロはつい数時間前、34節でイエスさまから言われた言葉を思い出す。自分はあれほど強く否定したのに、イエスさまを裏切り、三度「知らない」と否定してしまった。ペトロは恐怖と後悔のため、大祭司の館を飛び出し、激しく泣くのです。人間の弱さが極めて明確に出た話ですが、ではイエスさまはこの時どうされたのでしょう。ルカ福音書では22.61で「主は振り向いてペトロを見つめられた」と記しています。その眼差しはペトロを責めるものはありません。ルカ22.31-32を読み、イエスさまの思いを聖書からそのまま味わってください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はペトロの三度の否みを読みました。神さま、私たちはペトロを罵ることができません。彼は真剣にイエスさまに従いたいと願ったし、心配だから大祭司の館に潜り込んだのでしょう。でも、その想い以上に恐怖は強く、人間は脆いのです。神さま、私たちも自分の脆さ、弱さ、厭らしさを知っています。ペトロと同じなのです。でも、私たちはその私たちをイエスさまが理解し、受け止め、立ち直ることを願ってくださっていたことも知ります。神さま、私たちはイエスさまに祈られ、立ち直るべく期待され、同じく苦しむ仲間を励ます使命を与えられた者として、感謝します。どうぞ私たちも福音を伝える者として用いてください。私たちを信じてくださった救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(月) マタイによる福音書27章1-2節
一言メッセージ:今朝は非常に短いですが、深い背景を示します。ユダヤ教の祭司長たちは宗教裁判にてイエスさまを有罪とし、殺害しようとした。しかし、自分たちでなく、ローマの手で殺害させるため、ローマから派遣された総督ピラトに引き渡すのです。理由の1つ目は、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、公の死刑はローマによって禁じられていたからです。「イエスは、ユダヤ教側の都合で殺害されたのでなく、公の罪状で処刑された」という事実を作ろうとした。しかし本音の理由は2つ目、「もし、イエスが本当に神の遣わした救い主だったら、殺害した者は神の呪いを受けるだろう。ならば他の者の手で殺害させよう」です。彼らのその理屈は27.4や27.25でも見られます。イエスの死の責任をユダに、またユダヤ民族全体に負わせ、自分たちは隠れようとしたのです。しかし、彼らのそんな策は全て、2,000年後の私たちにも知られています。ルカ12.2で言われるように、隠されたものは公にされるのです。大事なことは神さまに正直に、誠実に生きることです。新たな一週も誠実に始めてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまを排除した人々の思惑が透けてみえる箇所でした。人は時に本音を建前に隠し、他者を動かして、悪意を成そうとします。他者の後ろに隠れれば、あなたの目さえ欺こうとします。けれど、そんな浅はかな愚かさは全てあなたの目に明らかです。神さま、私たちは今、悔い改めます。どうぞ私たちの罪を赦し、神と人に誠実に生きる私たちとならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
15日(火) マタイによる福音書27章3-10節
一言メッセージ:今朝はイスカリオテのユダがイエスさまを引き渡したことを後悔し、祭司長たちに直談判した箇所です。彼は「イエスさまは無実だ。私は無実の人を引き渡す罪を犯した」と告白し、銀貨を返してイエスさまを取り戻そうとしました。けれど、祭司長たちは昨日のみことばメールで見たように、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と拒絶し、ユダに責任を押し付けます。ユダはイエスさまが処刑されると悟り、自分の罪に絶望して自ら命を絶ってしまうのです。さて、ここで改めて大事な問いを考えてみましょう。それは「ユダは赦されるのか」です。
  ユダの罪には2つの視点があります。1つは「神の子を裏切った」という視点、もう1つは「自ら命を絶った」という視点です。キリスト教では長く、「神が与えた命を、自ら断つ者は神に逆らう罪人」と理解してきました(この考えは4世紀の指導者アウグスティヌスから始まります。当時、ゲルマン民族の襲来を受けた地域の修道女たちが乱暴され、「キリストに身を献げたのに穢された」と絶望して自死していたため、止めるために「自死は罪」と教えたと言われています)。だからユダの死は「彼個人の罪」と「自死の罪」のどちらの視点からも「赦されない」とされてきました。でも、それは本当にそうなのでしょうか。
ユダの死は今朝のマタイの箇所の他、使徒言行録1.18-19に記されます。使徒言行録ではユダの後悔は記されません。後悔を記すのはマタイだけです。そのマタイでは、既に見ましたが26.26-28を再読しましょう。イエスさまはユダも同席している中で、主の晩餐を示し、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と語っています。イエスさまはユダをも含めて、罪の赦しを示しているのです。だから私は改めてこう答えます。「ユダさえも赦される」と。神の赦しは私たちの理解を超えて広く深く高く強く確かなのです。でも最後に1つだけ付け足します。たとえ人生に絶望しても決して自ら命を絶たないでください。赦しがどうのこうのでなく、私は悲しくて耐えられませんからね。生きていることは恵みです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはユダの自死の物語を読みました。ユダはイエスさまを裏切った後悔と罪に絶望し、自ら命を絶ちました。神さま、毎年、多くの人が自らの人生に絶望し、命を絶ちます。特に今はコロナのため先が見通せずに命を絶つ人が多いです。でも今朝、私たちは「どんな罪人も神さまの赦しをいただける」と示されました。あなたの赦しに感謝します。同時に、もし今人生に絶望する方があれば、その方に寄り添わせてください。あなたに赦され、ここから生きられることを分かち合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(水) マタイによる福音書27章11-14節
一言メッセージ:今朝の箇所はローマから派遣された総督ピラトの尋問の場面です。11節でピラトはイエスさまに尋ねます。「お前がユダヤ人の王なのか。」不思議じゃないですか。イエスさまは「私はユダヤ人の王」と語ったことなどありません。なぜピラトは突然、こんな脈絡もない尋問をするのでしょう。これが、ユダヤ教指導者たちが仕組んだ罠です。ユダヤ教の祭司長や長老たちはイエスさまの罪をでっち上げたのです(12節)。イエスさまを「神を冒涜した(26.65)」と宗教的理由で訴えても、ローマ側にとっては「そんなん知らん」と突っぱねられるだけ。だからユダヤ教側はローマが無視できない罪をでっち上げました。それが「ユダヤの王を自称した」です。ローマ帝国がイスラエルに対して認めた自治は大きく2つあり、1つは祭司長たちの行うユダヤ教議会、もう1つがローマに従属するユダヤ王です。そのユダヤ王を否定し、「私が王だ」と自称する者は、ローマへの反逆者でした。祭司長たちはイエスさまをローマ側に殺害させるために、ここまで悪辣なことを行ったのです。一方、イエスさまは沈黙を貫きます。14節でピラトはその態度を不思議に思う。けれど、私たちにはその理由が分かります。イエスさまはこの自分を偽証で訴える者たちをすら救うため、十字架にかかられるのです。イエスさまの沈黙は彼らをも受け止める愛の姿勢でした。イエスさまは全ての罪人を赦し、救い、生かすために十字架にかかられたのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語で、イエスさまは身に覚えのない罪をでっち上げられました。けれど、イエスさまは沈黙を貫きます。私たちはその姿に、徹底的に人間を受け止め、贖ってくださった救い主イエスさまを見出します。どうぞ、私たちも今、このイエスさまに救われたとの自覚と、あなたに従う決意と信仰を強く湧き起らせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(木) マタイによる福音書27章15-26節
一言メッセージ:昨日に続き、ピラトの裁判の場面です。ユダヤ教指導者たちの企みに気づいたピラトは過越祭にて毎年行っていた恩赦を用い、イエスを釈放しようと考え、民衆に提案します。しかし、祭司長たちに先導され「イエスは神を冒涜した」と吹き込まれた民衆は「イエスを十字架につけろ」と騒ぎ続けます。23節では、感情的に動く暴徒と化しています。ピラトはイエスさまの釈放を強行してもよさそうですが、時は出エジプトを祝う過越祭の前日、宗教心が高まり、救い主到来の願いと支配者ローマへの敵意が高まった民衆の反乱を恐れたピラトは、25節で「これはお前たちの責任だ」と宣言して、イエスさまの十字架を認めたのでした。今朝の箇所で注目したいのは、原文ではイスラエルの人々の呼び方が使い分けられていることです。15節、20節、24節では人々はオクロスという言葉が使われます(23節は原文では「彼らは」)。一方、25節「民」はラーオスです。オクロスは普通に「群衆」ですが、ラーオスには「民族」という意味合いがあります。ここにマタイの意図があるのです。マタイは神の子、救い主を殺害した罪を「アブラハムから続く神の民と驕り、神の御心を見失っていた自分たち民族の責任だ」と明確に自覚していたのです。この言葉は、マタイの罪の告白なのです。それは辛い告白だったでしょう。けれど、マタイはこの告白をするからこそ、イエスさまの十字架が罪人である私たちへの確かな赦しであり、再出発の促しなのだと示し、「いつまでも共にいる」との約束がどれほど大きな恵みであるかを告げているのです。信仰は他人事ではありません。私たちもマタイに続き、共に悔い改め、救いを信じましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はマタイの罪告白でした。マタイは何となくフワッと、イエスさまの救いを記したのではありません。自分もまた、イエスさまを理解せず、殺害した一員なのだと自覚していました。そして、だからこそイエスさまの十字架が、どれほど憐れみに富んだ赦しであり、救いかを書き記しました。神さま、今わたしたちは、マタイの告白に自分たちの思いを重ねます。私たちもあなたの御心を理解せず、己が都合、己が願望に突っ走る罪人です。神さま、どうぞ赦してください。そして、どうぞイエスさまの贖いが私たちのためであったと心から信じる者とならせてください。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(金) マタイによる福音書27章27-31節
一言メッセージ:十字架刑が確定したイエスさまがローマ兵に暴行され、嘲られる箇所です。十字架は古代社会において、支配者に反逆した政治犯を民衆への見せしめとして殺害する死刑です。だから、支配者は支配地域の民衆が二度と逆らう気を失うほどに残虐に殺害したのです。十字架の手順は以下のとおりです。最初は兵士による暴行です。徹底的に痛めつけ、次は十字架の横木を背負わせて街中を歩かせます。人々に無残な姿を見せつけるためです。そして処刑場で十字架につけます。手のひらに釘を打っても、十字架を立てた時に自分の体重で裂けてしまう。だから、手首と重ねた足首を釘で打ち付けます。傷口からは血が流れ、少しずつ体力が奪われていきます。そして十字架が立てられるのです。十字架上では受刑者は、自分の体重で身体が下に落ちそうになりますが、釘づけの手が固定されているため、自分の胸が圧迫され、そのままでは呼吸できない。だから、呼吸するためには自分の体を上へと持ち上げねばならない。受刑者は既に決定的な暴行を受けた疲労困憊の上に、少しずつ血が流れ、体力が奪われていく。そうやって苦しみ続け、最後には窒息死するのです。説明だけで極めて残虐な刑ですが、イエスさまはそんな刑を受けられたのです。
  今朝はその最初の暴行のシーンです。「ユダヤ人の王を自称した」との罪状をつけられたイエスさまをローマ兵は「王の即位式」を模倣して嘲ります。強者が弱者をいたぶり、嘲るのです。無残極まりないのです。けれど、この姿もまた、救い主が徹底的に世の弱者に寄り添う姿だったとも理解できる。今、私たちがイエスさまを「あらゆる民に寄り添った救い主。イエスさまは誰の痛みも、嘆きも、苦悩をも、ちゃんと理解してくださっている」と語るのは、イエスさまが最後まで弱者であり続けたからです。私たちの救い主は、どん底の民にすら寄り添うため、自らどん底にまで降りてくださった、そんな救い主なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてイエスさまは十字架前の暴行を受けられました。その悲惨な姿に私たちは目を背けたくもなります。けれど、私たちはこの姿の中に、徹底的に弱い者に寄り添うべく、自ら弱い者となられた救い主の姿を見出します。神さま、これほどに私たちに寄り添ってくださった救い主に感謝します。この方に伴われるからこそ、私たちに孤独はありません。どうぞ今、課題を抱え、苦難にさまよい、孤独に打ちひしがれる方があれば、その方の傍らにもイエスさまがいてくださることを感じ取らせてください。もし伝える必要があれば、どうぞ私たちをメッセンジャーとして、また共に祈る仲間として用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(土) マタイによる福音書27章32-44節
一言メッセージ:今朝はイエスさまが十字架につけられた場面です。昨日見たように、十字架は非常に悲惨な壮絶な処刑方法でした。イエスさまは「ユダヤ人の王を自称した」との罪状書きを掲げられ、十字架につけられました。そのイエスさまの周りにやってきたユダヤ教指導者たちは、今や本音を隠そうともせず、イエスさまを罵ります。42節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から下りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
  彼らは大きな勘違いをしていました。イエスさまは「他人は救ったのに、自分は救えない」のではない。「自分を棄ててまで、自らの罪を自覚すらしていない罪人さえも救いたいと願ってくださった救い主だった」のです。「御心ならば救ってもらえ」ではなく、「御心だからこそ十字架にかかられた」のです。彼らは神さまの救いが、人間の算段や都合、思惑を超えて、神さまの一方的な愛と意志によって実現したことを知らなかったのです。
  でも今、私たちは聖書から知らされます。この十字架は私たちの救いのための十字架でした。私たちはこうして贖われたのです。今日はイエスさまの十字架が私たちのための出来事だったのだとしっかり受け止めて過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまの十字架が「自分を棄ててでも私たちを救いたいと願ってくださった」贖いであったと改めて教えられます。神さま、あなたの御心に背く罪人であった私たちが、まだ自分たちの罪を知る以前に、こうまでしてイエスさまに救われたことを再度教えられます。あなたの救いの御業とイエスさまの愛に心から感謝します。どうぞ、今日私たちが、あなたに贖われ、赦され、救われたこと、今もイエスさまに伴われて生かされていること、その幸いをしっかりと実感させていただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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