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2021-07

5月23日~29日のみことば - 2021.05.22 Sat

梅雨の合間の晴れ間がでた今日。
青空が見えて、なんだかうれしくなりました♪

明日はペンテコステ。聖霊降臨日です。
日本語にするとなんかよくわからないけどスゴそう!って感じがしますね(笑)
これは、イエスさまの弟子たちに聖霊が与えられて、そこから教会ができていったということを記念する教会の暦のひとつです。
別名「教会の誕生日」とも呼ばれています。
「聖霊」というとなんかちょっとオカルトっぽい?ように感じるかもしれませんが、そんなことはありません。聖霊とはお化けみたいな訳の分からない「霊」ではなく、私たちが信じている神さまが私たちを寄り添い、支え、導くために与えられている神さまからの力のことなのです。
そして、そんな聖霊が与えられていることに感謝するのがペンテコステです。

よくわからないなーって方はぜひYouTubeのライブ配信をのぞいてお話を聞いてみてくださいね。
画面の向こう側でお待ちしております♪


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

23日(日) マタイによる福音書23章1-36節
一言メッセージ:今朝の箇所は長いですが、内容としては大きく2つに分かれます。1つ目は1-12節で、群衆と弟子たちに「律法学者やファリサイ派たちの語る内容は大事だが、でも彼らを見習ってはならない。彼らは神の御言葉を自分の顕示欲のために使い、本質からズレている」です。2つ目は13-36節で、ファリサイ派や律法学者たちへの直接の批判です。これは一度に語った言葉でなく、マタイ福音書の著者が様々な場面で伝えられていたイエスさまの言葉を編集したのでしょう。それにしても数がすごい。イエスさまは陰口を言ったのでなく、面と向かって指摘し続けたことがよく分かります(笑)。そんな中で、私は何度も繰り返される1つの批判が気にかかる。それは「ものの見えない」です。「もの」とは「本質」であり「神さまの御心」です。人々には神さまの御言葉を教えるほどいろいろ知っているのに、自分たちの思惑が強すぎて、御言葉を告げた神さまの御心が分かっていないのです。大事なことは神さまの御心なのに、それが見えていないのです。
私が大好きな詩人・星野富弘さんの作品に「たんぽぽ」という詩があります。たんぽぽの絵に添えられた詩はこうです。「いつだったか きみたちが空を とんで行くのを見たよ 風に吹かれて ただ一つのものを 持って旅する姿が うれしくて ならなかったよ 人間だって どうしても必要なものはただ一つ 私も 余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ」あれもこれもと抱え込んで身動きできない私たちに対して、イエスさまは「もの(本質)」とは何かを問い、星野さんは「どうしても必要なものはただ一つ」と告げます。今、コロナ危機の中で、私たちもまた、どうしても必要なただ一つ、神さまの御心を模索する者でありたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイエスさまは律法学者やファリサイ派に対して激しく批判しました。それは、彼らが神さまのみことばを大事にしながらも、そのみことばを守る自分たちの顕示欲を満たし、本質、御心を見ようとしなかったからです。神さま、私たちはあなたの御心をこそ模索し、従う者とならせてください。今朝の礼拝はペンテコステ(聖霊降臨日)です。罪赦された弟子たちが新たに歩み出したように、私たちにもあなたの赦しと再出発と希望を見出させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(月) マタイによる福音書23章37-39節
一言メッセージ:今朝の箇所もイエスさまによるエルサレム住民への痛烈な批判です。イエスさまは神さまをめん鳥にたとえ、親が雛を守る為に羽の下に集めるように、イスラエルの民を救うべく、集めようとしてきたことを語ります。注目したいのは、神さまは「わたしの所へおいで」と人々に呼びかけたのでなく、より積極的に「集めようとした」とあることです。神さまは何度も何度も民を救おうとされてきたのです。けれど民はそんな神さまを無視してきた。イエスさまはそんな過去を批判したのです。けれど、ここで私たちは注意が必要です。私たちはこの御言葉を「イエスさまによるエルサレムへの絶縁の言葉」と読んではいけません。もし絶縁であるならば、どうしてイエスさまはこの後もエルサレムで悔い改めを呼びかけ続けますか。もし断絶するのであるならば、エルサレムで十字架にかかるわけがなく、もし彼らを見捨てるのでしたら十字架上で彼らのために赦しを祈るはずがない(ルカ23.34)。この言葉はイエスさまの絶縁の言葉ではなく、なお悔い改めを求める呼びかけなのです。神さまは私たちを救うことを諦めません。何度も何度も呼びかけ、ご自分の許に集めようとしてくださる。それは今も同じです。私たちは今も神さまの御許に集められ続けているのです。私たちは今、神さまに応え、信じ、従う者となりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばはイエスさまの必死な呼びかけでした。このみことばを読む時、わたしたちは、あなたが罪人を見捨てるのでなく、どこまでも救おうと願ってくださったことを知ります。イエスさまの十字架という究極的な手段によって救われたことを思い起こします。あなたの慈愛と赦しに感謝します。どうぞ私たちも信じ、従う者となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

25日(火) マタイによる福音書24章1-2節
一言メッセージ:今朝の箇所でイエスさまはエルサレム神殿の崩壊を預言しています。エルサレムは山の上に建てられた城塞都市で三方を崖に囲まれた天然の要害です。加えて、イスラエルの人々はその街の奥に神殿があったため、「自分たちの街は難攻不落であり、神さまにも守られている」と誇りにしていました。しかし歴史を見ますと、エルサレムは紀元70年にローマ軍によって徹底的に滅ぼされました。神殿も破壊されました。今朝の箇所はそんなエルサレム陥落預言と言われます。
  一読すると、救いようのない預言に見えますが、でも、この言葉はとても示唆に富んでいます。その示唆とは「どれほど頑強で強く、誇りに思っていても、人が作るものは必ず滅ぶ。永遠は神さまにこそある」です。事実、エルサレムは滅びましたが、信仰は滅びませんでした。何より、イエスさまは人間としては十字架上で亡くなりました。けれど、復活という神さまの御業は死を超えて実現しました。私たちは今改めて、コロナの中で変わらざるを得ないものと、コロナだろうが何だろうが変わることなく与えられ続けている神さまの恵みとを思い起こしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、人の限界と神さまの無限の御業を思い起こさせられます。今、私たちはコロナのただ中で生きています。この1年半、様々なものが変わらざるを得ませんでした。私たちはその変化に嘆いたり、不安になったりしたものです。けれど一方で私たちはあなたのみことば、あなたの御業、あなたの救いは、いかなる状況であれ何ら変わることなく、私たちの希望として与えられ続けていることも経験してきました。神さま、今わたしたちはあなたをこそ信じ、従います。どうぞ私たちが人の儚さに固執するのでなく、あなたの永遠に御業を模索して生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(水) マタイによる福音書24章3-14節
一言メッセージ:今朝の箇所から数日は、イエスさまによる終末(世界の終わりであり、神の国の到来)の預言です。「終末、世界の終わり」と聞くと、多くの人の中のイメージで、何だか恐ろしくて、悲惨なことが起こるような不安が沸いてくるかもしれません。実際、イエスさまもそれっぽいことを語っています。けれど、今朝わたしは2つのことを皆さんと確認したいのです。
  1つ目は「終末は神の国の到来。それは不安や恐怖でなく、喜びだ」ということです。不安を煽るような描写がされますが、8節ではそれは「産みの苦しみ」と語られます。私は長男と次男の出産に立ち会いました。妻が壮絶な痛みに呻くのを見て、私が心折れそうでしたが、出産後の妻はホッとしながら、歓喜していました。「産みの苦しみ」は喜びに繋がるための苦しみなのです。14節でも語られますが、分かち合いたい1つ目のことは「神の国は喜びだ」ということです。
  2つ目は、終末の始まりに際してイエスさまは「人々の不安が煽られることが始まりだ」と示されたことです。このことばは、人間の弱い部分を極めて正確に指摘しています。私たちは不安に煽られる時、あっという間にもろく崩れてしまうのです。イエスさまは4節で「人に惑わされるな」と語り、5節では「偽救い主」、6節では戦争の不安が煽られ、7節では戦争や自然災害へと話は続きます。これらは人々の不安を煽り、互いに敵意を抱かせ合うものです。そして、敵意に煽られた人々が互いを攻撃し始める。非常に警戒せねばならないことに、10節では教会の中でさえも「互いに裏切り、憎み合うようになる」と言われるのです。しかしイエスさまは13節「最後まで耐え忍ぶ」こと、14節では「それでも福音を宣べ伝えること」を指示されました。
  2つのことをまとめましょう。イエスさまは「終末に際して、人々の不安が煽られ、互いを疑い、敵意を抱くようになる。けれど人々に心を振り回されるのでなく、神を信じ抜き、共に生きる者でありなさい。神の国は必ず実現し、あなたたちを救う」と告げたのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からは終末預言が語られます。私たちは「終末」と言われても何が起こるか分からず、不安が煽られます。事実、イエスさまは私たち人間の弱さとして、不安が煽られる時のことを語られました。でも、こうやってイエスさまから説明を受けられて感謝です。私たちは、不安を煽られる時にこそあなたを信じ抜き、兄弟姉妹を信頼し続け、福音を語り示し、共に生きることが示されました。神さま、私たちを顧み、お守りください。今もコロナ危機の中で不安が煽られる時代ですが、どうぞ今こそ私たち、あなたによる平安に生き、周囲に示すことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(木) マタイによる福音書24章15-28節
一言メッセージ:今朝の箇所も昨日に続けて終末預言ですが、今朝の言葉はよりイスラエルの歴史が意識された編集の言葉です。マタイ福音書の著者は15節に「読者は悟れ」という言葉を付け足し、イエスさまが存命時に語った言葉を当時のイスラエルの状況と重ねさせようとしたのです。
  マタイ福音書の著者が、どのイスラエルの状況の言及しようとしたかと言うと、紀元70年にエルサレムがローマによって攻められ陥落した状況ことです。イスラエルでは長い間、ローマ帝国の支配に対して、大小さまざまな抵抗がありました。中には何万人規模の反乱も起こっています。その結果が紀元70年のエルサレム陥落に繋がるのです。マタイ福音書は紀元80-90年ごろに書かれたとされていますから、著者はエルサレム陥落を知っていますし、エルサレムから逃げ出した人々も知っています。いや、マタイ福音書の教会の最初期のメンバーこそエルサレムから逃げ出した人々だったでしょう。彼らは、神殿も街も破壊され、失意の中で苦しんでいたことでしょう。でも福音書著者はそんな人々に向けて、イエスさまの言葉を示しながら、「それでも耐え忍ぼう。必ず神さまの救いは実現する」と励まし続けたのです。
  では、その後、彼らはどうなったでしょう。詳細は分かりません。ただ私にとって嬉しいのは、この福音書の言葉は削除されず、私たちの手元に届いているという事実です。もし、この言葉を聞いても何の希望を見出せず、彼らが失意のままで生涯を終えていったのだったら、この言葉は「嘘偽り」とされ、削除されたことでしょう。でもこの言葉は遺されました。私はそこに、この言葉が人々にとって何らかの形で「真実だ」と受け止められたのだろうと思うのです。
さて、次に「この励ましの言葉は真実だ」と受け取るのは私たちです。私たちも自分たちの生活の中でみことばによる励ましと希望を感じ取っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、エルサレム陥落を経験し、失意の中にいた人々にとって確かな慰めとなりました。彼らが具体的に何に慰めや希望を見出したのかは分かりません。けれど神さま、今度は私たちにも生活の中で救い主イエスさまが今も私たちに寄り添い生きて下さっていることを悟らせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(金) マタイによる福音書24章29-31節
一言メッセージ:今朝の箇所もイエスさまによる終末預言です。「天変地異が起こって終末が来る」という内容ですが、天変地異は文字通りに起こるというより、30節「地上のすべての民族は悲しみ」の関連で理解した方がよい。この「悲しみ」は他の訳では「嘆き」「後悔」「生きた心地なく泣き叫び」とあります。悲しみ以外にも含みがあります。つまり、「(天変地異のように)人の力ではどうにもできない出来事が起こり、地上の全ての民は『あぁ、わたしたちが頼りにしていた人間の力や知恵や経験は何の役にも立たなかった』と嘆き、悲しみ、後悔する。しかしまさにその時に救い主(人の子)は力と栄光を携えて私たちの許に来て下さり、神の国は完成する。その時、天使は世界の隅から隅まで駆け巡り、選ばれた人たち(13節「耐え忍ぶ者」)を呼び集めてくださる」です。この御言葉も私たちを脅かし不安にする言葉ではなく、信じ抜くことへの示唆と励ましです。
  神学部時代に、ある旧約の専門家から言われた言葉を思い出します。「社会には終末を恐ろしい裁きや破壊のように吹聴し、人々を不安にする宗教や宗教家がいるが、キリスト教はそれらの宗教と明確に一線を画します。キリスト教にとっての終末は神の国の完成。不安や断罪ではなく、幸福と救済です。聖書は終末を神の国の希望として語るのです。」今朝の箇所も読み方によっては不安を煽られそうですが、意味はそうじゃありません。希望が語られているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、聖書は神の国は喜びと希望の実現だと語ります。けれど、私たち人間は経験したことのないもの、理解できないものを恐怖や不安の対象と思いこみ、遠ざけたいと考えてしまいます。でも神さま、どうぞここ数日分かち合っているように、神の国の完成を祝福と理解し、信じ、待ち望む私たちであらせてください。私たちの理解の限界を超えて御業を行われるあなたに期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(土) マタイによる福音書24章32-35節
一言メッセージ:今朝のみことばは「兆しのことば」です。イエスさまはいちじくの木の変化に夏の訪れを感じるように、神の国の訪れを見極め、期待することを告げられました。その時に力強く響く言葉が35節です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」イエスさまは永遠なるものとして神の言葉を示したのです。今、私たちがいただき、分かち合っている神のことばは永遠のものなのです。神学部時代の2年間、私は仲間たちと自主的な説教勉強会を行っていました。神学部の先生に顧問になっていただき、日本基督教団の牧師であり、説教学の学者の関田寛雄先生の著書をテキストにして勉強会を行っていました。毎年、年度の終わりの春休みの時期に先生を関東からお招きして2泊3日の研修会も企画したのですが、その終わりの時の先生の言葉が今も心に残っています。先生はⅡコリント4.7の「土の器」の箇所を取り上げながら、「神のみことばという宝を土の器でしかない私たちはいただいていることは、どれほど深い恵みであり、希望であるか」を話してくださいました。人間はどれほど力を振るい、知恵を得ても、限りある存在、土の器に過ぎない儚い存在です。けれど、神さまはそんな儚い私たちに、永遠に朽ちることのないみことばを託されたのです。分不相応な恵みが与えられているのです。今朝のイエスさまのことばも正に同じです。「天地は滅びるが、神のみことばは決して滅びない。」だからこそ、神のみことばが私たちの人生の根拠であり、源であり、希望となり得るのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたのみことばが私たちには分不相応なほどに、素晴らしい恵みであることを分かち合わせていただきました。私たちは自分たちの目に見えるもの、手で触れられるものによって安心を得ようとしますが、それらは必ず朽ちていくものです。けれど神さま、あなたは私たちに永遠のみことばを与えて下さいました。神さま、私たちはみことばを根拠とし、源とし、希望とします。どうぞ私たちの命を祝福し、導き続けてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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