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2021-07

5月9日~15日のみことば - 2021.05.09 Sun

今週水曜日からついに福岡県にも緊急事態宣言が!
教会ももうしばらくはインターネットを介しての礼拝を中心とした対応を続けていくことになりそうです。

ただ、大切なこととしてお伝えしたいのは、私たち久留米教会は「礼拝を休止する」ことはしません。
たとえみんなで会堂に集まることができなくても、いろんな形をもって私たちは毎週日曜日に「礼拝する」ことを大切にします。
それは、神さまを礼拝することが教会にとって最も大切なことだからです。
教会ではもちろんメンバー同士のつながりも大切にしています。でも、そのつながりはまさに「神さまを礼拝する」こと「共に礼拝する」群れであることによるつながりなのです。
ですから、私たちはこのコロナ危機の中にあっても礼拝を「休止」しません。むしろ今の大変な状況だからこそ、目の前の出来事に右往左往するのではなく、一層神さまに目を向けていきたいと願っているのです。
何かと変化の多い世の中、特にコロナ危機にあってわたしたちは様々な変化にいやおうなしに直面しています。そんな中、ただ一つ変わらない神さまの言葉に一緒に耳を傾けてみませんか?
今は直接足を運んでいただくのは難しいですが、まずあYouTubeのライブ配信にてお待ちしています♪


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

9日(日) マタイによる福音書20章20-28節
一言メッセージ:直前の17節を見ますと、イエスさまは「12弟子だけを呼び寄せて」話していますが、そこにヤコブとヨセフの母が切り込んできて、イエスさまに「あなたが神の子として栄光を受ける時には、うちの息子たちを出世させて要職につけて欲しい」と願い出ます。イエスさまは呆れて、「願っていることが分かっている?」と問います。直前でイエスさまは自らの十字架の死を語ったのに、それがこの母子には伝わっていない。いや、この母子の申し出に腹を立てる他の弟子たちもイエスさまの真意が分かっていない。イエスさまは彼らに「一番偉くなりたいものは皆に仕える者になり、一番上になりたいものは皆の僕になりなさい」と告げます。
今朝の箇所では弟子の無理解が目立ちますが、私たちはわかります。この「皆に仕える者、皆の僕になる者」こそイエスさまご自身でした。神の子でありながら、自らの命を献げるために私たちの傍らに来て下さったからです。加えて、私たちはイエスさまの言葉に教えられます。イエスさまは、これほど無理解で身勝手な弟子たちをも救うべくやってきてくださったのです。それは私たちに対しても同じです。私たちは身勝手な人間にも拘わらず、イエスさまの深い愛と揺るがぬ覚悟の十字架によって救われたのです。今朝私たちは改めて「贖われた」ことに感謝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は人々の無理解と身勝手さが目立ちました。でもイエスさまはそんな無理解な人間をも救うべく、十字架に架かられました。今私たちは改めてイエスさまの救いに感謝します。どうぞ、私たちもいつもイエスさまを忘れず、信じ、従う者であらせてください。救い主イエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

10日(月) マタイによる福音書20章29-34節
一言メッセージ:今朝の箇所は私の大好きな箇所です。イエスさまがエリコの街を出ると、二人の盲人が「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ。イエスさまの周りにいた群衆は叱って黙らせようとしても、彼らはますます声を張り上げて「憐れんでください」と叫ぶのです。普通、私たちは大勢に怒鳴られると委縮してしまいます。逆を言えば、委縮しない時は、強い覚悟や切羽詰まった事態があるからでしょう。おそらく、この二人の盲人はそんな覚悟と事態があったのです。当時の病は「本人か先祖が罪を犯し、その罰として神さまの守りから見捨てられ、悪霊に憑りつかれたから病になる」と考えられていました。この二人が中途失明か先天性か分かりませんが、彼らは「何かの罪の罰だ」と言われてきたのでしょう。でも納得がいかないし、辛く苦しかった。だから彼らはイエスさまに癒してほしいと願い、「憐れんでください」と叫び続けた。その声に足を止めたのはイエスさまでした。イエスさまは彼らに尋ねます。「何をして欲しいのか。」二人は「見えるようになりたい」と訴えます。さて、注目したいのは34節で「イエスが深く憐れんで」という言葉です。今朝の箇所では三度、「憐れむ」という言葉が出て来ます。30節、31節の「憐れむ」をギリシア語で見ますとエレーオーという言葉が使われています。ニュアンスが「目の前の出来事に同情する」です。一方、34節でイエスさまが感じた「憐れみ」はスプラッグニッゾマイという言葉です。その意味は「他人の痛みを我が事と受け止め、腸がねじ切られるに痛む」です。つまり、どういうことかと言えば、二人の盲人はイエスさまに「私たちの状態を見て、同情してください」と願った。しかしイエスさまは彼らのその言葉を聞き、彼らの状態を受け止め、彼らがどれほど辛い思いをしてきたか、どれほど悔しくて涙を流し、目が見えるように求めて苦労してきたか、その全てを我が事と受け止め、痛んでくださったのです。イエスさまはすぐに彼らの両目に触れ、彼らを癒すのです。聖書は最期に「(彼らは)見えるようになり、イエスに従った」とある。それはどこか。それは21章、エルサレムです。いよいよ明日の箇所から、イエスさまの受難物語が始まります。この二人の盲人は見えるようになった目で、イエスさまの受難を目撃していくのです。自分たちに寄り添い、その痛みも口惜しさも叫びも全てを受け止めてくださった神の子が、十字架上で私たちのために叫んで死んでいかれる、その救いを目撃するのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は受難物語の直前、イエスさまが二人の盲人の苦しみや辛さ、その全てを受け止めてくださり、徹底的に彼らの傍らに立ってくださったと分かち合いました。神さま、私たちはこの物語に救い主がどんな方であるかを知らされ、救い主イエスさまの深い愛に強く感謝します。どうか、この先の見えぬ時代、変わりゆく状況に翻弄され、惑わされがちな私たち、そして多くの隣人たちに、救い主イエスさまの寄り添いを感じさせてください。二人の盲人が、目を癒された時、彼らの見た視野の中心に自分たちを覗き込んでおられるイエスさまが見えたように、この不安定な時代でもいつも私たちの真正面にイエスさまを見据えて歩める信仰を与えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(火) マタイによる福音書21章1-11節
一言メッセージ:今朝からマタイ福音書に記されるイエスさまの受難物語が始まります。その始まりはイエスさまのエルサレム入場です。イエスさまはエルサレムに入場されるに際して、子ロバに乗って入場します。それはゼカリア書9.9の預言、「平和の王の到来」を体現するものでした。時期は地中海の全域からユダヤ人たちがエルサレムに帰って来て、エジプトで奴隷であった先祖が神さまの使者モーセに率いられてエジプトを脱出した出エジプトを記念する過越祭の直前。同時に彼らは自分たちを支配するローマ帝国と先祖を支配していたエジプトを重ね、自分たちにも救い主が現れることを待望していた。そんな中、イエスさまはわざわざ、人々にゼカリア書の預言を想起させる姿でエルサレムに入場するのです。彼らは「神さまの救い主が到来した」と歓喜する。
  物語を読みながら、私たちはこの後のことを思い起こします。大喜びする民衆は後に、「イエスを十字架につけろ」と叫びます。何故なら、イエスさまが彼らの期待したローマ帝国からの救い主ではないと知り、またユダヤ教指導者たちに「あいつは神を冒涜した」とでっち上げの罪状ゆえに扇動されるからです。でも、それでも私たちは知っています。イエスさまが人々に誤解されることを百も承知で、わざわざ子ロバに乗ってエルサレムに入場されたことを。イエスさまは何故、誤解を受けてまで、目立つ仕方でエルサレムに上ったのか。それは、彼らが神さまの救いが今、実現しようとしていること、ご自分が十字架で死んで、全ての民が神さまの救われていくことを告げるためでした。民がそのことを理解していなくとも、そのためご自分が憎まれることになろうとも、イエスさまは神さまの御心に従い、救いを宣言されたのです。一昨日のみことばを思い出しましょう。20.28「人の子は仕えられるためでなく、仕えるために、また多くの人の代償として自分の命を献げるために来たのだ。」これが私たちの救いとなる受難物語の始まりなのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から私たちはイエスさまの受難物語を読み始めました。イエスさまはあなたの御心に従い、人々から誤解を受けることも承知で、エルサレムに上って来られました。人々の歓喜の中で深い孤独を抱えていたことでしょう。でも、私たちはその姿に「そこまで私たちを救いたいと願ってくださった」と悟ります。救い主イエスさまを感謝します。今、世界がコロナの中で怖じ惑い翻弄されていますが、どうぞこの救い主イエスさまの希望と救いに平安を得ることができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(水) マタイによる福音書21章12-13節
一言メッセージ:今朝はイエスさまが神殿で暴れた話です。エルサレムに入場したイエスさまはそのまま神殿に行きます。そして売り買いしていた人たちを追い出し、商売人の台をひっくり返すのです。イエスさまは言います、「神は『わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ56.7)とあるのに、あなたたちは強盗の巣にしている。」注目したいのは、12節でイエスさまは追い出したのは「売り買いしていた人々」だということです。ルカ福音書の並行箇所では「売っていた人々」だけなのに、マタイでは「買っていた人々」も叩き出されています。その理由が「強盗の巣」なのです。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下であることは何度も触れてきましたが、だから、ローマの支配地での通貨はローマ通貨(例えばデナリオン、タラントン)が使われていました。けれど、神殿だけは古代イスラエル通貨しか使われていませんでした。献金も古代通貨しか認められない。だから、人々は両替人に普段使いのローマ通貨と、神殿の中だけのイスラエル通貨を両替してもらっていました。両替人はその手数料をとって儲けていましたし、神殿の祭司も彼らに商売を認める代わりに認可費用を取っていました。イエスさまは神殿が商売の道具にされていることを痛烈に批判し、同時にその状況を何も考えずに受け入れる人々をも叱ったのです。人の思惑や都合が優先される時、神殿も、現代で言えば教会も利権の温床になりがちです。でも私たちは今朝のイエスさまの言葉を常に覚えておきたい。「教会は神の御心の家であれ。人の思惑でなく神さまに誠実に向き合いなさい」と。私たちも神さまへの誠実さをもって、神さまに向き合いたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまは神殿が人々の利権や都合にまみれていることを嘆きました。聖書の中でイエスさまが暴れたのはここだけです。それだけ、イエスさまは深く嘆いたのでしょう。神さま、どうぞ私たちが己の都合や思惑であなたを利用する者でなく、誠実に向き合う者であれますように。もしあなたとの向き合い方が間違っていたならば、どうぞ今、正してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(木) マタイによる福音書21章14-17節
一言メッセージ:今朝は神殿で暴れたイエスさまの続きの話です。イエスさまは神殿体制を批判する一方で、14節「目の見えない人や足の不自由な人たち」を癒します。注目したいのは、彼らがいた場所が14節「境内」だったことです。彼らは「罪人」とみなされ、神殿でも境内の奥、神殿内部に入ることは禁じられていました。当時の病は先日も書いたように「悪霊に憑りつかれてかかるもの」と思われていましたから、その解決は祭司によって清められることと理解されていました。けれど祭司が癒せない病人たちには「神はあなたを赦されないから、あなたが罪人だから」と語り、彼らを神殿の奥に入れないようにしたのです。イエスさまはそんな病人たちを癒します。それもまた、神殿祭司たちへの批判でした。だから、祭司たちは腹を立てイエスさまを「子どもたちまで扇動して、神殿を侮辱するのか」と批判します。今朝の箇所で私たち教会は己が姿を振り返りましょう。私は自分たちの都合で神さまや御言葉を歪曲してはならないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のイエスさまの批判を私たちは警告と受け止めます。もし私たちが己が都合や思惑であなたの教会を悪用していたならば、どうぞ私たちを正してください。私も、教会も、いつも神に仕え、社会に開かれた存在としてあれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(金) マタイによる福音書21章18-22節
一言メッセージ:今朝の箇所は本当に難しい話です。一読したら、イエスさまが理不尽にいちじくを枯らす話だからです。この話は伝統的に「いちじくはイスラエルを指す例えで、イエスさまは、神さまの求める悔い改めを行わないイスラエルを嘆き、彼らに滅びの象徴行為を行ったのだ」と理解されてきました。なるほど、理解しやすい解釈です。だからそのまま読むこともお勧めします。
でも私はまだ、どう受け止めて良いか自分でもまだ整理できていないけれども、大事な要素を2点示したいと思います。往々にして、私の説教はこういう観点からディボーションを深めて組みあがることも多いので、皆さんにもディボーションの素案にしてもらえれば感謝です。
1点目は「いちじくへの呪いは極めて理不尽だが、イエスさまの十字架の死もまた極めて理不尽な出来事だ」ということです。「全ての人の救いのために神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬ」という話は非常に理不尽な話です。どうして他人の罪や痛みや叫びや嘆きを一身に背負って死なねばならないのか。けれど、その理不尽をイエスさまは自ら背負って私たちを救ったのです。そう思って読む時、この話は単に「理不尽」と断言できない。イエスさまご自身が理不尽を背負ってくださったのだし、理不尽な現実を生きる私たちとの重なりが見られるように思うのです。
もう1点のポイントは、21-22節で語られる「信仰」の話は、「信仰とは、信じれば不可能を可能にできる」という、魔術的な力を得られるという話ではなく、「信仰とは不可能を可能にする神を信じること」と示した話だということです。つまり、この話は「神への信頼」を根拠にした話であり、「自分の力を高める」とか「立派な信仰者になる」といった話ではないことです。
どうぞ2つのポイントを頭の片隅に置き、考えながら今日を過ごしてみてください。その時、どんなことを考えたか、またぜひ教えていただきたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の「いちじく」の話はとても難解です。だから今朝は直ぐに結論付けず、「これって何を語っているのだろう」と考えながら過ごそうと思います。どうぞ、繰り返し繰り返しイエスさまの言葉を考える中で、私たちに新たな気づきをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(土) マタイによる福音書21章23-27節
一言メッセージ:今朝の箇所から26.1までがマタイ福音書に記される、イエスさまの最後の説教群です。それは神殿の境内にて語られる説教であり、ユダヤ教指導者たちとの対話や議論です。私は「神殿の境内」であることに意味があると思っています。神殿は「神がおられる場所」と考えられ、ユダヤ教の中心地でありますが、その敷地には人によって入れる段階が区切られていました。誰でも入れるスペースは「異邦人の庭」で、これが境内です。けれど、そこから奥の神殿内部に入っていこうとすると、ユダヤ人以外は入れない「麗しの門」があり、さらに奥には「ユダヤ人の男性までしか入れない」スペースがあり、さらに「祭司以外は入れない」と区切られ、最深部にある「至聖所」は年に一度、最高指導者である大祭司が儀式のためにだけ入れる部屋でした。イエスさまが対話される境内は、「神がおられる神殿の、誰にでも開かれている場」です。つまり、「神さまの前に全ての人に向けて語られた話」なのです。そして、ある意味でイエスさまはユダヤ教指導者たちがイエスさまに議論を仕掛けてくることを待ち構えていたようにも思えるのです。
  その最初の議論が「権威についての問答」です。偉ぶる人はすぐに「権威」を持ちだします。どういう後ろ盾、力、資格があるかを問い、それがその人の価値かのように権威づけたがる。でも、イエスさまは何を言われようとブレません。指導者たちが何と言おうが、神さま以外にイエスさまを黙らせ、退かせるものは無い。一方、指導者たちはイエスさまにバプテスマのヨハネへの理解を問われた時、仲間たちでこう語っている。「ヨハネが天から来たものと言えば、群衆が恐い」と。彼らが恐れているのは群衆なのです。見える動き、風潮にこそ彼らは揺らいでいる。今の社会も同じです。権威者、権力者に見える人が脆いのは、彼らの後ろ盾が一時的な風潮で左右される民衆だからです。九州大学の憲法学の名誉教授の横田耕一さんも「民意は風潮に流される弱さもある」と指摘しています。一方、イエスさまの根拠は神さまです。だからこそ無茶な議論をふっかけられてもブレない。明日からもイエスさまの最後のブレない説教群を読んでまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からイエスさまの最後の説教群を読み始めました。その最初は、イエスさまの土台は神さまであったことを分かち合いました。話を見ながら、私たちは自分たちの社会を思い返します。権威者、権力者に見える人たちの土台はある意味では一時的な風潮に過ぎません。状況が変われば、あっという間に脆くも崩れ去るものです。一方でイエスさまは私たちにも「神さまを人生の根拠としなさい」と示されます。どうぞ、明日からのみことばでも、あなたを信じることの幸いを深く実感させてください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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