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2021-07

5月2日~7日のみことば - 2021.05.02 Sun



早くも5月!ゴールデンウィークとなりました。
とはいえ、今年は…いえ、今年「も」遠出というわけにはいかない感染状況ですね;
おうち時間の過ごし方もだいぶ上手になってきた私たちかと思いますが、やっぱり行きたいところに行けない、会いたい人に会えないというのはしんどいですね。

また、長引くコロナ禍で、肉体的だけでなく、精神的、経済的など様々なつらさに直面しておられる方も多いと思います。
久留米教会では、精神的な辛さを覚えておられる方にはみことばからの慰めを、また経済的に具体的支援が必要な方にはそのような働きをしておられる団体への橋渡しをすることができます。
困っているけれど、どこに連絡していいかわからないという方。どうぞ、ご連絡ください。

久留米の感染状況もなかなか減少せず、もどかしい気持ちですが、神さまに祈りつつ、そしてイエスさまの伴いを感じつつ、1日1日を過ごしていきたいなと思います。
皆さんの上に神さまの守りがありますように…。

★礼拝は、先週と同様インターネットを介した礼拝を中心に行っています。
日曜日10:30からはYouTubeにて礼拝ライブ配信があります。
ぜひチェックしてみてくださいね。
教会YouTubeチャンネルは ⇒こちら!

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***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


5月2日(日) マタイによる福音書19章1-12節
一言メッセージ:1節でイエスさまはガリラヤを離れ、ユダヤ地方へと向かいます。最終的な目的地はエルサレム、十字架の死を観越しての出発でした。弟子たちは分からないが、イエスさまは覚悟の出発でした。その時にもイエスさまはいつもと変わらず、多くの病人たちを癒されるのです。
3節以降、ファリサイ派の人たちがイエスさまを試すべく、議論をふっかけます。それは「理由があれば、夫が妻を離縁することは神の御心に沿うか」です。問題になるのは、その理由が夫の身勝手だったりすることです。当時の社会は男性中心社会であり、女性や子どもは家の財産という扱いでした。だから、家の主人である夫が他の女性と結婚するために、妻に理由をつけて離縁するような例が起こっていました。イエスさまは創世記2.24を引き合いに出して、「結婚とは神の御心によるものであって、身勝手な離縁は神の御心に反する」と語ります。するとファリサイ派は「モーセは律法で離縁を認めているではないか」と問う。これも本来の順序から言えばおかしな話です。「モーセの解釈が神の御心より優先されていいのではないか?」との問いです。順序が逆なのです。イエスさまはそのことを指摘します。
今朝の箇所で私は2つのことを思います。1つは、私たちの身勝手さです。人は状況に応じて掟やルールに例外を作ります。その時、問題は、その例外がどういう意図で作られているか、です。その意図が人の都合や身勝手さであるか、それとも状況に応じて神さまの御心を模索した結果であるか、は大きな違いです。今朝の箇所の離婚規定は人の都合や欲によって神さまの御心から変質させたケースです。一方、神さまの御心をより先鋭化するケースはマタイ6章にある6つの「しかし、わたしは言う」という例や、12.1「安息日に麦を摘む」、12.9「安息日の癒し」などに見られる話です。イエスさまの言動を見ていると、「掟は原則だが、大事なことは常に神さまの御心から物事を見極めること。原則が形骸化するならば神さまの御心によって判断すること」が示唆されています。
私たちは神さまに真摯に、でも頭柔らかく、歩む者でありたいですね。今朝は長くなったので、この箇所から思わされるもう1つのことは明日に回します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはあなたの御心を最優先に生きることを示されました。人は時にあなたの御心を模索することをサボり、原則に縛られ、その原則を自分たちの都合で捻じ曲げる不誠実を持ちます。今朝イエスさまはそんな人の弱さを指摘されました。どうぞ私たちが改めて自分を見返すことができますように。あなたにこそ従い、大らかで平安に生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(月) マタイによる福音書19章1-12節/創世記2章15-25節
一言メッセージ:昨日に続き、マタイ19.1-12を読みます。昨日、この箇所から示される2つの示唆で取り上げられなかったもう1つの示唆を今朝は考えたいのです。それは「結婚の本質とは何か」です。日本では長年、「結婚=子どもを持つ」ことが当然かのような理解が強くありました。だから、子どもが生まれることは喜びだが、子どもが生まれないことは良くない事柄という見方がされてきました。確かに、子どもの誕生は喜びです。けれど、今朝私が分かち合いたいことは、子どもが生まれないことを責める風潮への「否」です。そのために今朝は創世記2章を読みたいのです。
  創世記2章を選んだのは、イエスさまが結婚・離婚について、この箇所を引用されたからです。注目したいのは18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」神さまがアダムに必要と考えたのは「助ける者」です。意味は「補助者」ではなく「対等なパートナー」です。「あばら骨」から女性が造られたとありますが、「あばら骨」は「命を守るもの」です。つまり、創世記に記された最初の結婚の物語から見える結婚観から言えば、結婚の第一義的な意味は「命を預け合えるほどのパートナーと共に生きていくこと」です。子どもを産み、育てることは3.15で言及されるのであって、それが第一義的な目的ではないのです。
  現代は「性」についても単純に「男性と女性」では分けられなくなっています。「体は男性でも心が女性」とかその反対など、LGBTQ+の様々なケースが知られるようになり、同性パートナーとして生涯共にいることを公にする人たちも出て来ました。その中で今わたしたちは結婚の目的は「子どもを産み育てる」という固定概念ではなく、聖書に戻り、「パートナーとの出会い」という理解から社会を見直すチャレンジをいただいているのです。聖書は古い古い時代に記されたものながら、今も私たちに深い示唆を投げかけているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはマタイ19章のイエスさまの言葉と創世記から、結婚観について新たなチャレンジをいただきました。あなたのみことばは私たちに日々、新たな視野をくださり、私たちの価値観にチャレンジをくださいます。神さま、どうぞ迷う中でいつも、あなたの御心から真理を求め続ける私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(火) マタイによる福音書19章13-15節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまのところにやって来た親子についての物語です。弟子たちはイエスさまのところにやって来た親子を叱りつけます。何故かと言うと、直前をみますと、イエスさまはファリサイ派と議論している。その議論の邪魔になると判断したのでしょう。しかし、イエスさまは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と告げる。そして今朝の中心箇所である14節後半を語るのです。「天の国はこのような者たちのものである。」多くの場合、私たちは13-15節を独立させて読むことが多いため見過ごしがちですが、この言葉は直前19.1-12のファリサイ派にこそ投げかけた言葉です。8節でイエスさまは「あなたたちの心は頑固だ」と語り、神さまの御心を自分たちの都合で捻じ曲げていることを批判していますが、それに相対するように今朝の箇所で「子どもたちのように素直であれ」と告げるのです。おとといのみことばメールで書いたように、当時の社会の中では女性や子どもたちは父親の財産でした。だから、軽んじられていました。けれどイエスさまは「子どもたちは劣った存在ではなく、この子どもたちの素直さこそ、大人たちが学ばねばならないことなのだ」と告げたのです。
  イエスさまは子どもたちに手を置いて祈ります。原文では「手を置いて」という言葉は「両手を置いて」です。イエスさまは真正面から子どもたちと向き合い、彼らを喜び、祝福したのです。私たちも子どもたちに教えられること、多いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は子どもたちの姿に素直さを教えられます。子どもたちが素直に神さま、あなたを信じるように、わたしたちもあなたに誠実に向き合い、信じ、従う者であれますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

5日(水) マタイによる福音書19章16-22節
一言メッセージ:ある青年がイエスさまに「永遠の命を得る(救われる)にはどんな善い行いをすればよいか」と尋ねます。イエスさまは「私に聞かず、神さまに直接祈り、掟を守りなさい」と語りますが、彼は「具体的にはどういうことか」と問い続けます。そして、最終的には、彼は自分の財産を手放すことができず、悲しみながら去って行くのです。この話を読んで、「全財産を放棄して、貧しい人の施しをせねば救われないのか」と怯える人もいるでしょう。けれど、物語の始まりを考えましょう。イエスさまは最初に「全財産を放棄せねば救われない」と話したでしょうか。いいえ、イエスさまが最初に語ったのは「神さまに尋ねなさい」です。私はここに人間の弱さがあると思う。それは「他者からお墨付きをもらわねば不安」という弱さです。私たちの周囲でも経験がありませんか?誰かから意見される時、「みんな、言ってます」という言い方。よくよく問うと、「みんな」はその人の周囲数名でしかないのに、意見を強めるために「みんな」と語る人。私はその表現を聞く度に、自戒として「最初に問うべきは周囲の声ではなく、神さまの御心。私は神さまに誠実に従えているか、神さまに恥じる決断をしていないか」と自問することにしています。ちゃんと神さまに説明できる決断をしているならば、批判にもきちんと向き合えますし、神さまに恥じる決断ならば、周囲がどれだけ庇ってくれても謝罪し、過ちを正す。何故ならば、それが最も将来に対して安心できる決断の仕方だからです。神さまの御心に沿うならば、たとえ一時的な困難があろうと全ては必ず整えられる。神さまの御心に沿わないならば、たとえ今は順風満帆でも後でとんでもない失敗をやらかしてしまう。だから、私は先ず神さまの御心で物事を判断しようとします。皆さんもぜひ、「私の決断や行動は神さまの目にどう映るだろう」って身近なことから考えて取り組んでみてください。その時、私たちは「必ず最善に整えられる」との強い安心を得られますよ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは物語を通して、周囲の声に翻弄されるのでなく、先ず神さまと向き合うこと、神さまの御心を模索して行動することを分かち合いました。私たちは先が見通せないから、周囲の声に翻弄されてばかりです。でも、神さまが未来まで見通し、最善へと導いてくださるから、私たちは未来への平安をいただけます。神さま、あなたを信じ、従います。どうぞ、御心を問う私たちを整え、導いてください。間違った決断をしても、私たちを整えて導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(木) マタイによる福音書19章23-30節
一言メッセージ:今朝は昨日の「ある金持ちの青年の落胆」の話の続きです。悲しみながら去って行く青年を見ながら、イエスさまは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と語ります。弟子たちは、青年が「神さまの掟をちゃんと守っていた」と聞いていますから、「あそこまで頑張っているのに、まだ救いには与れないのか。じゃあ、誰が救われるのだろう」とざわつきます。その時にイエスさまが言われるのは26節「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」でした。今朝はこの言葉に注目したいのです。私たちはこの物語を見て、誤解してはいけないと思うのです。金持ちの青年やイエスさまの弟子たちは、ある大きな誤解をしている。非常に象徴的な言葉は21節でイエスさまが青年に語っています、「もし完全になりたいなら…」。その意味は「あなたが自らの力で永遠の命を得たいと思うならば…」です。この青年は善行を積み、自らの力で救われようと、自力本願で救われようとしているのです。だからこそ、イエスさまは自ら完全にならんとする青年に対して、「じゃあ、全てを棄てて…」と語ります。でも、イエスさまの真意はそもそも26節、「救いは人間に可能なことではなく、神のみに可能なことだ」です。先ほどの自力本願と比較するならば、イエスさまは神力本願です。「神さまによって救われたらいい」と告げるのです。昨日も書きましたが、私たちは神さまと向き合い、神さまに喜ばれるように考えて、従えばいい。イエスさまは弟子たちに語ったように、信じて従う者にはその「百倍(29節)」もの祝福に満ちた未来を与えてくださるのです。神さまを信じることから一歩ずつ従っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは改めて、自分たちの力や徳にて救われるのではなく、神さまの御業によって救われることを考えました。神さま、あなたの救いに感謝します。私たちは自分たちなりにあなたに向き合い、あなたに喜ばれるように、あなたにお応えしたいと願います。時々(?)、あなたの目に素っ頓狂なことも行ってしまうでしょうが、精いっぱいにあなたに応えたいと思っての行動です。どうぞ笑いながらも受け止めてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(金) マタイによる福音書20章1-16節
一言メッセージ:先日2日の宣教箇所です。イエスさまが語った「ぶどう園の労働者」のたとえは一見、私たちの理屈に合わない。出てくる問いは「どうして朝っぱらから働いた人間と最後に1時間働いた人間の賃金が同じなのか」「どうして最期のものから賃金をもらうのか」「主人は横暴ではないか」です。詳しくはHPでの音声やyoutube配信を聞いていただくとして、ここではポイントだけ話します。先ず思い起こしたいのは1デナリオンの意味です。1デナリオンは「一人の労働者が一日働いて得る賃金」と言われますが、別の言い方をすると、「一つの家族が一日生活するのに必要な金額」です。仮に「最後に来た人間は1時間だから、1/12デナリオンで十分だ」と言われたら、彼やその家族はその日、どうやって生きられるのでしょう。「それだけしか働かなかったから、食えなくても当然だ」というのは、弱い者を切り捨て、殺す理屈なのです。続けて考えたいのは、この最後に来た人物です。私たちはどこかで「彼は夕方までダラダラしていた怠け者」のように思っていませんでしょうか。でも聖書を見ますと、6節でぶどう園の主人はこう問いかけている。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。」言い換えるならば、主人は彼が朝から立ち続けていることを知っているのです。彼は言います、「だれも雇ってくれないのです。」彼は一日中、広場に立ち続け、雇ってもらえることを願い続けた。けれど、誰も相手してくれない。彼は社会から「不要」と突き付けられ、でも家族のためか、諦められず、自分を奮い起こして立ち続けました。たとえ話の主人は彼の痛みを理解し、最後の一時間でも雇い入れた。主人は支払いの時に、最後に来た人から賃金を払います。当然文句も出ます。その時に主人は言うのです、14節「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」イエスさまはこの譬え話をしながら、「天の国はこんなものだ」と語りました。これは、全ての民を救いたいと願い、受け止め、祝福し、生かしてくださる神さまの愛がいっぱいに表れた物語なのです。私たちは今、神さまの愛を知らされているのです。そしてその愛は今も私たちに注がれています。不要な人などいないのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語を最初に読んだ時、意味がわかりませんでした。けれどあなたの愛を思って読む時、こんなにも深く、慰めと希望に満ちた物語であることを知りました。あなたの愛は今、私たちに同じように注がれています。神さま、深く感謝します。どうぞこの福音を私たちだけでなく、一人でも多くの人にお伝えすることができますように。私たちの居場所であり、今も新たな方を招いてくださる神さまに祈ります。アーメン。

8日(土) マタイによる福音書20章17-19節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの三度目の死と復活の預言です。一度目は16.21で、二度目は17.22でした。回を重ねる度にイエスさまの預言はより詳細になっていきます。イエスさまはこのエルサレムへの旅が自らの死に向かう旅だと告げます。そして、「三日目に復活する」と告げました。注目したいのは、17節の「わたしたち」と17節以降の「人の子」という言葉が使い分けられていることです。「わたしたち」は弟子たちを含む集団ですが、「人の子」はイエスさまが自らを指すために用いた言葉です。つまり、イエスさまは、十字架で死に、三日目に復活するのは自分であるけれど、それを目撃し、復活の証人となるべく、弟子たちを伴うのです。
先の話ですが、弟子たちはイエスさまの逮捕に怯えて逃げ去り、イエスさまの十字架の死の後、「私たちはイエスさまを見捨てた」と深い後悔に苦しみます。けれど、だからこそ彼らはイエスさまの復活を知った時、自らの罪さえ許されたと語り得る証人、伝道者となっていきます。
私は弟子たちの姿を思い描きながら、私たちのことを重ねます。私たちは、弟子たちほどの苦しみは御免被りたいですが、でも自分たちなりに苦しい経験も抱えます。でも、その時に私たちは弟子たちの姿を思い起こせばいい。「弟子たちは苦しみながらイエスさまの復活という奇跡を知った。きっと私たちも同じように、この苦しみさえ後に感謝に変えられるだろう」と。だから、課題や苦しみを抱えた時は、後に与えられるでっかいでっかい祝福に目を向けながら、今を誠実に生きていきたいのです。忘れずにいましょう、「私たちには未来の祝福が約束されている」のです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの十字架と復活の預言は、そのまま弟子たちへの苦しみと感謝のプロセスとなりました。私たちは辛い目に遭いますと、勝手に「このまま苦しいだけではないか」とか「未来が無い」と嘆きます。でも、イエスさまは十字架の死と共に復活を預言されました。弟子たちも深い罪の自覚と後悔を経ながら、だからこそイエスさまの復活と赦しを深く味わいました。神さま、どうぞ私たちも、あなたの未来の祝福を信じ抜く信仰者とならせてください。倒れそうな時は教会の仲間たちに支えられながら、あなたを見上げ続けることができますように。何より、私たちに寄り添ってくださる救い主イエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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