4月25日~5月1日のみことば - 2021.04.23 Fri
ニュースでも取り上げられている通り、ここ数日で久留米市の新型コロナ感染者が急増。
人口当たりの感染者で言うと福岡市や東京よりも多い状態です。
やむをえず、4月25日の礼拝よりネット礼拝(YouTubeによるライブ配信)を中心とした礼拝とすることにしました。日曜日は各ご家庭からライブ配信を通して礼拝にご参加ください。
(YouTubeで「日本バプテスト連盟久留米キリスト教会」と検索!)
また、通信制限などの理由でYouTubeのライブ配信視聴は難しいという方は、教会ホームページの「礼拝メッセージ」ページから聖書朗読とメッセージが聞けますので、どうぞそちらをご利用ください。
それから、日曜9時~10時の教会学校幼稚科・小学科、水曜日・木曜日の祈り会もしばらくの間お休みになります。お休みの間は下のみことばメールでそれぞれにみことばを学んでいただければと思います。
新型コロナウイルスの感染拡大から1年以上が過ぎ、自粛自粛の日々。さすがに疲れやしんどさを感じるようになりました。
でも、先日祈り会で「コヘレトの言葉」の学びをしたときに、お話の中で「この箇所での神さまは“与える神”として描かれています」という言葉を聞き、「あれもできないこれもできない。」という引き算の考え方ではなく、「神さまからあれも与えられている。これも与えられている。」という足し算の考え方をしながら1日1日を過ごしたいなと思わされました。
さて、今日皆さんは神さまからどんなもの・どんなことを備えていただいたでしょうか。
そんなことを考えつつ、またコロナの収束を心から祈りつつ、日々を過ごしたいと思います。
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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択 : 新共同訳
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25日(日) マタイによる福音書17章24-27節
一言メッセージ:今朝の箇所に出る神殿税は当時、一人あたり年間で2ドラクマ銀貨を納めることが義務付けられていたものです。税を徴収する人がペトロに「イエスは神殿税を納めないのか?」と問います。「払わない」という反応もあり得るのでしょうが、ペトロは「納めますよ」と告げる。それを聞いたイエスさまはペトロに「神殿税は神さまに納めるものならば、私たちは神の子なのだから、納めなくてもいいはずだ」と語る。でも、同時にイエスさまは「人々はその意味を悟る以前に、私たちを『神殿に逆らった』と騒いで無用な誤解を生じさせるだろうから、払うとしよう」と語り、魚釣りして、その魚の口の中に入っている銀貨で…という話につながるのです。
この話に私たちは何を見出すのでしょうか。私たちの社会には、そもそもの意味や目的が不明になった伝統や風習や慣例があります。イエスさまは「意味が分からぬまま強いられて従うのでなく、その意味や本質を知った上で判断しなさい。理解した上で配慮するならば、自らの意志で慣習を行えばいい」と告げるのです。
先日、息子の入学式に参加した際、式の中で、君が代の斉唱が求められました。私は「国家」への畏敬を強要されるようで嫌で、また先の太平洋戦争後のアジア諸国との関係回復が十分と言えないと感じるので、昔から君が代を歌いません。歌詞もメロディーも内容も知っていますが、知るがゆえに歌わない自由を実践します。今朝のイエスさまの指摘は、いたるところで同調圧力が働く現代を生きる上でもとても大事な示唆に感じます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は、物事の本質を理解した上で判断することの大事さを示してくれました。今の社会では伝統、風習、社会のルール、風潮といった理由での同調圧力が多々感じられます。でも神さま、どうぞ私たちはあなたの御心を模索しながら、理解した上で「行う、行わない」を判断できる自分たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
26日(月) マタイによる福音書18章1-5節
一言メッセージ:今朝から始まるマタイ18章は、マタイ福音書にある5つの説教群の3つ目にあたります。この説教は「神さまと向き合い、へりくだって生きること」が語られていきます。弟子たちがイエスさまに尋ねます、「天国でいちばん偉いのはどういう人か」と。その時、イエスさまが示したのはひとりの子どもでした。子どもは当時の社会の中では半人前で、社会的な発言権も無く、父親の所有物と考えられています。イエスさまはそんな子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、「よく聞きなさい。自らを高めようとするのでなく、子どもたちのように自らを低い存在と受け入れ、神さまを求める者こそが最も偉大なのだ」と告げたのです。
このイエスさまの言葉は実は他の箇所にも通じます。例えば、6章でイエスさまが主の祈りを教える際には、祈りの呼びかけとして神さまに「アッバ(お父ちゃん)」と呼びかけるように教えます。「アッバ」は幼い子どもが父親を親しく呼ぶ表現です。それくらいに神さまを慕うように、イエスアさまは教えられました。また、5.3以下の「幸いの教え」でも神さまに頼る人こそが「幸い」だと繰り返されました。そういったイエスさまの姿勢は今朝の箇所に繋がるのです。
今朝から一週間の働きが始まります。今週はどんな人と出会い、どんな出来事が起こるのでしょう。一日の始まりに神さまを身近に感じ、信頼し、期待してスタートし、一日の終わりには「神さまね、今日ね、こんなことがあったの」と祈る一週間でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の働きの始まりに、あなたは幼子のように純粋に、誠実に、身を低くして始めることを示されました。どうぞ神と人に誠実に生きる一週間を過ごさせてください。週の始まりにイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
27日(火) マタイによる福音書18章6-9節
一言メッセージ:今朝のみことばはとても恐ろしく、極端な排除の言葉に読めます。昨日は「幼子のように神さまを信じ、誠実に生きる」ことが勧められた直後に、躓かせる者への強烈な警告が語られるのです。この言葉の背後にあるイエスさまの感覚は、「もう神さまの御業がいつ実現するか分からないようなタイミングなのに、まだ己の願望や都合で神さまを蔑ろにするなんて、何考えてるんだ」という腹立たしさです。私たちの時間間隔と違う面が際立つため、私たちには「何だか、極端な言葉だな」と感じられます。でも今朝の箇所で考えさせられるのは、「神さまへの信仰を躓かせてはならない」ということです。信仰は、視野狭く、違う意見を一切受け付けない偏屈なものではないので、時には信仰の成長を促すために問うことは必要ではある。けれど、人の自尊心や人間関係、自分の意向と信仰を混同されるようなことがあってはならないのです。昨年度の連盟総会の中で、自分の意見と合わない主張について「信仰が足りない」と口走った代議員がいました。今朝の箇所を読みながら、そうはありたくないなぁと思い出しました。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは弱く、時に自分たちのプライドや人間関係、己の意向を正当化するあまり、願望と信仰と混同させ、人々を躓かせることがあるように思います。もし、私たちがあなたへの誠実な姿勢を捻じ曲げるならば、どうぞ私たちに気づきを与え、正してくださいますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
28日(水) マタイによる福音書18章10-14節
一言メッセージ:今朝の箇所は「神さまは迷い出た人がたった一人でも、その一人を必死で探し出し、救おうと願う」と語られた箇所です。神さまにとって「一人くらい、どうでもいいさ」じゃなくて、その一人をも絶対に救いたいのです。どれくらい必死かと言えば、12節の1つのギリシア語は私たちがこの物語に持つイメージを吹き飛ばすほどに強い必死さです。一匹の羊を探す際に九十九匹を山に「残して」と書かれていますが、この「残す」はギリシア語のアペーセイという言葉です。その意味は「放棄する」です。私たちのイメージでは「神さまは99匹を安全な柵か何かに入れておいて、残りの1匹を探しに行く」ですが、イエスさまの言葉では「99匹を山に放り出してまで1匹を探しに行く」です。ちなみに「山」は17.1の物語で見られるように、神さまと出会う場所、神さまの守りがある場所というイメージもあるので、護教的には「イエスさまは99匹を神さまに委ねて、1匹を探しに行く」とも読めますが、それにしてもアペーセイは非常に乱暴な言葉です。
でもこの言葉の真意を知るために、私たちはイエスさまの十字架を思い起こしたいのです。イエスさまは全ての人を救うべく、自らが十字架にかかって死んでまで、私たちを救ってくださいました。イエスさまは私たちを「大勢」という集団では見ません。私たち一人ひとり、その人格も個性もちゃんと認識して、「この一人ひとりを救う」ために十字架にかかられたのです。実は私たち一人ひとりが「迷い出た一匹」です。私は今朝のみことばを読みながら、私たちがどれほど必死で探し出され、救われたのか、改めて思い知らされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、私たち一人ひとりが、神さまから身勝手に離れて迷子になった一匹の羊と悟りました。その私たちを救うべく、イエスさまは私たちを探し回り、あの十字架にかかり、救ってくださいました。私たちがどれほど愛されて救われたのかを思い起こし、心から感謝します。どうぞ私たちがあなたを誠実に信じ、従って生きる者であれますように。また同時に今もあなたを知らず、救いを求めつつ迷う羊が多々いることも思い起こします。どうか、この救いの喜びをより多くの人と分かち合わせてください。お伝えする機会と勇気と言葉とをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
29日(木) マタイによる福音書18章15-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は「兄弟への忠告」と題された箇所です。悪事を犯した仲間を諫めるのは大勢の前ではなく…という話ですが、話の最後では「どうしても聞き入れない者は教会に訴え出て、教会から忠告させなさい。それでも聞かなければ、その人を異邦人(神を知らぬ人)や徴税人(ローマ帝国に納める税金を集める者で、ローマへの税にプラスして徴収し、自分の懐に入れて私腹を肥やしていたので、同胞たちから極めて嫌われ、「罪人」と言われていた)と見なしなさい」と言われます。一見すると、「あいつはどうしようもない奴だから、縁を切ってしまえ」と言われたように理解しそうです。でもここで考えてみたいのです。これを語ったイエスさまは、異邦人に神さまを告げ知らせ、徴税人を弟子にした方です。であれば、イエスさまが語る「異邦人や徴税人と見なせ」とは「神さまの救いを必要とする者として対し、救いを受け入れて悔い改められるように祈り、働きかけなさい」との奨めです。伝え方や伝える時期は早急でなくてもいいかもしれません。でも、昨日の箇所のように一匹の羊を救うべく、十字架にかかられたイエスさまを思い起こす時、私たちは「諦めずに働きかけること」が教えられているように思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは兄弟への忠告の中で、諦めずに伝え続けることを教えられました。伝え方や時は大事ですから、決して短気を起こさず、静かでも揺るぐことなく伝え続けさせてください。いつか、私たちの大事な仲間があなたを信じる時がきますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
30日(金) マタイによる福音書8章18-20節
一言メッセージ:今朝の箇所は「祈り」の奨めです。イエスさまは、祈りを合わせることを勧めますが、それは何百人何千人で無くて、先ずは2人または3人からでいいのです。嬉しいのは、2人または3人が「祈ったら私は聞こう」と言っているのではなく、「わたしもその中にいる」と言われたことです。「祈ったけど聞かれない」といった結果論で物事を判断するのでなく、「この祈りの中にイエスさまもいてくださるから、祈り続けよう」との励ましをいただけるのです。
私の祖父は鹿児島の伊集院教会出身の牧師でした。彼が献身した時代は、何人もの仲間が同じように献身していたそうです。その一人に原田達夫先生という方がおられました。数年前に召されましたが、その葬儀に参列した際に、彼の聖書が飾ってありました。何気なく開いた時に目に飛び込んだのが18節の箇所でした。そこにはこう記されていました。「これはクリスチャンの特権ではなく義務である。」祈り続けること、それは私たちに託された役割なのです。私たちも真剣に家族や友人、この社会に住む方々の救いを祈る者でありたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、人々のために祈ることを示唆されました。特に今の時代は、コロナ危機のために多くの人がそれまでの周囲との繋がりを希薄に感じ、孤独を抱えています。神さま、私たちはそんな中でもあなたに繋がれていること、またあなたによって繋げられた信仰の同胞がいてくれることを心強く思います。だからこそ神さま、私たちは自分たちの周囲の人々のことも祈ります。どうぞ新たにあなたを知り、信じ、あなたに繋がり、私たちに繋がる人々を起こしてください。よりいっそう、多くの人の居場所となる久留米教会として用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
5月1日(土) マタイによる福音書18章21-35節
一言メッセージ:今朝の箇所はここ数日分続いた18章のまとめの話です。ペトロが「兄弟の罪は何度まで赦したらいいか?」と尋ねます。イエスさまは「7の70倍」と語り、「もはや数を数えることを放棄して赦せ」と示します。でも私たちは自分を傷つける相手を赦すことは感情的に難しい。私たちは「これだけ傷つけられたのだから、簡単に赦されると思うなよ」と思うのです。イエスさまもそのことは分かっておられたのでしょう。だから1つの譬え話をされました。
ある家来が王に10,000タラントンの借金をしている。1タラントンは6,000デナリオンです。1デナリオンが1つの家族が1日生活するのに必要な金額です。であれば、1タラントンは6,000日分の額。10,000タラントンを払い終えるためには休みなく働いても16万4384年働かねばならない。もはや無茶な額です。家来は平身低頭、必死になって返済期間を待ってもらえるように願い出ます。王は彼を憐れに思い、まさかの全額免除を告げるのです。喜んで王宮を出た彼は、自分に謝金のある同僚を見つけると謝金返済を迫ります。そして、払えないと知ると牢に叩き込むのです。知らせを聞いた王は怒り、彼を改めて牢にいれ、借金返済までの罰を課した、という話です。
新共同訳聖書では「仲間を赦さない家来」という表題が付いています。確かに話の出発点はペトロが「何回まで赦せばいいでしょう?」と尋ねたのだから「仲間を赦さない家来」でも間違いではない。でも物語を読みながら、私たちが心底驚くのは王の尋常じゃない寛大さです。王に観点を置いて表題をつけるならば、「際限の無い王の赦し」です。
そして、そう読む時に私たちは物語の印象を変えることができます。それまでは「仲間を許さねば赦されない」という恐ろしい話に見えたのに、改めて読むと「神さまの深い赦しに後押しされて、そこを出発点にして生きなさい」との促しに読めるのです。これは私たちにとって大事なヒントです。今、誰かを赦せない自分を責めるのでなく、赦せないなら先ずは自分が神さまの莫大な赦しをいただいていることを実感できるように祈ることから始めたらいいのです。神さまの愛と赦しを知る。だから私たちは他者にも愛と赦しをおすそ分けできる。その順序で良いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「際限の無い王の赦し」を見てきました。神さまがどれほどに私たちを愛し、赦してくださっているか、イエスさまは告げてくださり、だからこそ私たちも許しへと促されることを知りました。神さま、どうぞ先ず、私たちがしっかりとあなたの愛と赦しを実感することができますように。そして、いつか私たちもまた赦せる自分となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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