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2021-07

4月18日~24日のみことば - 2021.04.18 Sun

4月も折り返しを過ぎました。
今週の皆さんの歩みも神さまに守られますように!
毎日の生活にみことばの道しるべをどうぞ♪♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
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18日(土) マタイによる福音書16章5-12節
一言メッセージ:唐突ですが、私は思慮深い人間になりたいなぁと思います。表面的な出来事、聴いた言葉の一部分だけに反応してジタバタするのでなく、物事を俯瞰して熟慮できる、そんな人になりたいとつくづく思うのです。それは、今朝の箇所を読みながらも思います。
  今朝の箇所で、イエスさま一行は伝道のためにガリラヤ湖を渡ります。すると弟子たちはパンを忘れたと気付き、「何で持ってこんやったとや!」「お前も忘れたっちゃろうが!」と騒ぎます。その時、イエスさまが6節「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と語る。パンを忘れたことで頭がいっぱいになっていた弟子たちは「ほらっ、イエスさまも『パン忘れたとか』って怒っとろうが」と責任になすり合いを始めるのです。自分の関心のため、言葉の一部分にだけ反応した弟子たちにイエスさまは「何が言われているか、ちゃんと考えて悟れ」と促します。イエスさまは14章の5,000人の供食と、15章の4,000人の供食の出来事を思い起こさせながら、ファリサイ派とサドカイ派への注意を促すのです。5,000人の供食の際に集めたパン屑でいっぱいになった籠は12、4,000人の供食の時は7。イスラエルでは数字には意味がありまして、12は神さまの業の完成、7は完全数です。イエスさまは数字を用いながら、「注意すべきものは律法を遵守して『自分たちは救われるが、律法を守れない民は救われない』と考えるファリサイ派と『復活なんてあり得ない』と断じる鼻持ちならないエリート集団のサドカイ派。ファリサイ派は神さまの業の完成を見誤り、サドカイ派は神の御心の完成が何であるかを悟っていない」と示したのでした。
  今朝の箇所は私たちに、神さまのみことばを自分の都合で切り取るのでなく、誠実に模索して受け取ることを示します。今朝は日曜日、礼拝の時です。自分たちの願望でなく、みことばが何を示すのかを思慮深く、模索しましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはイエスさまに、表面的な言葉、目先の出来事に翻弄されるのでなく、思慮深く神さまの御心を模索することを示されました。いきなり思慮深くは難しくても、一歩ずつでも神さまの御心を誠実に求める私たちにならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(月) マタイによる福音書16章13-20節
一言メッセージ:今朝の箇所の中で18節以下はいろいろと議論のある箇所です。カトリック教会が法王をペトロの後継者と位置づけ、カトリックの最高位に据える根拠の箇所がここです。イエスさまがペトロに天の国の鍵を授けたことを根拠に制度を作っています。ただし、この記述はマタイにしか記載されないため、イエスさまの真正の発言かという学術的議論があるのです。
  今朝私たちはその議論を回避し、13-17節に注目します。昨日、「思慮深くありたい」と話しましたが、正に今朝の箇所はその好例です。イエスさま一行はローマ帝国の気風の強いフィリポ・カイサリア地方にいた。ローマ帝国は皇帝を「神の子」と位置づけ、権威付けしていました。そんな風潮が強い地域でイエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者と考えるか?」と問う。ペトロは言います、「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です。」イエスさまは喜び、ペトロに17節「あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、天の父だ」と語ります。周囲の顔色うかがって誤魔化すのでなく、神さまの御心に聞き従ったことをイエスさまは喜ぶのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまは周囲の顔色に振り回されず、神さまを見失うことのなかったペトロの信仰を喜ばれました。私たちもペトロのように、あなたの御心を模索し、誠実に従う思慮深い者でありたいと願います。どうぞ私たちの信仰をいつも強めてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(火) マタイによる福音書16章21-28節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日と一変して、イエスさまがペトロを痛烈に叱責した箇所です。イエスさまがご自分の死を預言し始めたため、ペトロがイエスさまを脇に引っ張っていき、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と諫めた。普通に考えたら、イエスさまを励ます言葉のはずです。でもイエスさまの叱責は痛烈です。23節「サタン、引き下がれ!あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエスさまはペトロの言葉が優しさであっても、人間的な思いや願望で神さまの御心を否定したことを叱ったのです。たいへん厳しいようですが、しかし24節以下を読むとイエスさまのペトロへの愛情であり、訓練だと分かります。特に25節では「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」という不可解な言葉を語ります。私たちは自分たちの願望通りに生きることが幸いだと勘違いしています。本当の幸いは神さまの導きの中で生きること。何故なら、神さまの導きの中でこそ、限界だらけの私たちが自分たちの願望を超える最善を神さまにいただけるからです。
  ニューヨーク州立大学病院物理療法リハビリテーション研究所に、アメリカ南北戦争で負傷した南軍兵士の死が掲げられています。こういう詩です。「大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱い者とされた。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよいことができるようにと病気を戴いた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、神を求め続けるようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に沿わぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」
  今朝の箇所も言います。人の願望成就が幸いなのでなく、神の御心の中に幸いがあるのだ、と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまはペトロを叱責されました。一見、ペトロの言動は配慮に見えます。けれど、イエスさまはペトロに「自分の願望ありきで物事を考えるのでなく、神の御心を模索しなさい」と示しました。その示唆は私たちにも必要な示唆です。神さま、どうぞ私たちも自分の願望ありきであなたをはかるのでなく、あなたの御心の中で生きる者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(水) マタイによる福音書17章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はとても不思議な箇所です。ある山の上で、イエスさまの姿が変わり、モーセとエリヤが現れて語らった箇所です。モーセは神さまの律法を象徴する存在であり、エリヤは預言者の代表格です。連れられて山に登ったペトロは、イエスさまとモーセとエリヤを見て、「(太陽の日差しを避けるために)お三人にテントのようなものを作りましょうか」と素っ頓狂な提案をします。舞い上がっていたのでしょう。すると、さらに舞い上がる経験をします。5節でペトロたちは神さまの声を聴いてしまうのです。この物語は何を意味するのか。それは、イエスさまという存在が何かを示しているのです。イエスさまとはマタイ5.17にあるように、神さまの御心たる律法と、神さまの御業の実現たる預言の完成であり、だからこそ神さまが「この者に聞け」と宣言される存在なのです。聖書は読者に「イエスさまの言動に注目し、自分たちの生活の中で思い起こしながら過ごしなさい」と示唆するのです。その示唆は私たちにも示されています。日々、みことばを読み、イエスさまを思い起こしつつ過ごしていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。当たり前のように思っていましたが、あなたのみことばは日々、私たちを励まし、強めます。あなたは日々、私たちに「イエスさまに注目するように」告げます。どうぞ、私たちの生活の中でイエスさまを想起し、日々励まされ、あなたに従う者であれますように。私たちの救い主たるイエスさまに御名で祈ります。アーメン。

22日(木) マタイによる福音書17章9-13節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の山での変貌物語の終わりです。山から下りるイエスさま一行が会話します。その中で、イエスさまは「神の救いの御業の先駆けとしてエリヤが来る」ことを話すのですが、注意したいのは12節で「エリヤは既に来た」と語ったことです。それはイエスさまの先駆けとなったバプテスマのヨハネですが、彼は14章で殺害されている。イエスさまは「人々は神さまの救いの兆しを理解せず、好き勝手している」と指摘したのです。
  この箇所は、神さまの時について、私たちに注意するように告げます。私たちの願望ありき、都合ありきで物事を見ていると、神さまの示唆を見失うばかりか、神さまの示唆を疎外してしまう。それが私たち人間の罪なのです。今週のはじめ、私は「思慮深くありたい」と書きましたが、それは「神さまの御心の模索ありき」で物事を熟慮できる者です。いきなり思慮深くは難しくとも、一歩ずつ一歩ずつ、神さまの御心を模索することを意識づけてみます。ぜひご一緒にどうぞ。もし御心でなく己が願望に走る時には、互いに優しく指摘し合いましょうね(笑)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は神さまの御業、神さまの時を見極めることの難しさを示しました。私たちは自分たちの都合や願望ありきで物事を考えることが多すぎて、あなたの示唆を見落としてしまいます。どうか私たちがあなたの御心を模索する習慣を持つことが出来ますように。また教会の仲間たちと共に支え合い、諭し合いながら、一緒に信仰を育めますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(金) マタイによる福音書17章14-20節
一言メッセージ:今朝の箇所は弟子たちの面目丸つぶれの箇所です。ある人がイエスさまに「息子を癒して下さい。お弟子さんたちに頼みましたが、まるでダメでした」と語るのです。最初に言いますが、今朝のみことばは、私たちへの叱責と励ましの言葉です。
イエスさまが子どもを癒した後、弟子たちはイエスさまに「何で私たちには悪霊を追い出して病を癒せなかったのでしょう」と尋ねる。その時イエスさまが語ったのはズバッと「信仰が薄いからだ」でした。これ、私たちが言われたら本当に悲しいですよね。そりゃ、私たちには病を癒すとか、奇跡を起こすといった事柄はできません。ええ、できませんとも。でも、だからって「信仰が薄い」と断言されたら、「そこまで叱りつけなくても…」と言いたくもなる。では、この「信仰が薄い」をどう受け取ったらいいでしょうか。山浦玄嗣さんのケセン語訳では「神さまを力に思う心が足りない」と訳されています。この言葉の方が分かりやすい。イエスさまの指摘は、どこかで「祈っても無理なんじゃないかな」と思ってしまう私たちを見透かしての叱責でした。
では、励ましを探してみましょう。イエスさまは弟子たちを「こんなこともできないなら破門だ」と放り出しはしません。信仰を育てるように諭されました。私たちは不出来な信仰者であってもイエスさまに見捨てられない。これは励ましです。
だから私たちはまず、叱責であり励ましである、「本気で祈る」ことを始めてみましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は私たちに「本気で祈ること」を示しました。どこかで私たちは「祈っても無駄だろうな」とあなたを疑っている部分があると指摘されます。ぐうの音もでません。だから神さま、どうぞ私たちに先ず何事も、自分の判断に先走るのでなく、あなたの御心の実現を求めて祈る信仰者とならせてください。あなたに期待する私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

24日(土) マタイによる福音書17章22-23節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの死の預言の言葉です。最初に語られたのは16.21で、昨日の17.17でも「いつまであなたがたと共にいられようか」と語っていました。今朝の箇所23節で「弟子たちは非常に悲しんだ」とありますが、当然です。言われた方は辛いのです。イエスさまの言葉に弟子たちは悲しむのです。昨日も紹介したケセン語訳聖書でも補足部分で「中には、『旦那ぁ、そんなな悲しい事を語んねぁでけらっせぁ(言わないでください)』と目に涙を溜めて、チンと手鼻をかむ者もいたのでござった」とありました。
  ではここで発想を変えてみましょう。イエスさまはなんで弟子たちを悲しませてまでご自分の死を告げるのでしょう。それは、イエスさまが弟子たちに本当に示したい事柄があるからです。今一度イエスさまの言葉に注目しましょう。イエスさまは23節「殺されるが、三日目に復活する」と語りました。イエスさまが本当に伝えたいことは復活です。けれど弟子たちは復活の前に「死」で思考が止まってしまった。イエスさまはこの箇所以降も度々、弟子たちにご自分の死と復活の預言を繰り返します。それは、実際にイエスさまが亡くなった後、弟子たちが絶望したままで終わらないため。イエスさまの復活という希望を見出せるように、です。
  私たちは今朝のみことばに気づかされます。イエスさまは私たちに悲しみで思考が止まってしまわないように願い、繰り返し繰り返し、希望を告げられたのです。「己が理解で止まるのでなく、神さまの御業がどう導くかを模索しなさい」と示すのです。私たちはいつも、イエスアさまの示された希望を思い起こしつつ日々を過ごす者でありましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は短いながら、イエスさまのメッセージがギュッと込められていました。イエスさまは私たちに、大きな課題に直面しても、その悲しみや困惑に立ち止り続けるのでなく、課題の先にある希望に目を向けるように示されました。神さま、どうぞ私たちにいつも希望を見出させてください。どうしようもなく落ち込み、悲しみに留まる時には、教会の仲間たちで互いに助け合い、希望を分かち合わせてください。あなたの導きに期待し、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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