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2021-07

3月7日~13日のみことば - 2021.03.05 Fri

いよいよ3月!
卒業を迎えられる(迎えられた)皆さん、おめでとうございます。
新型コロナウイルスの影響で、いろんな制限がある中でのラストイヤー。何かと不自由を感じることが多かったと思います。日本、いえ世界が戸惑う中で、いつも通り過ごせない悔しさ。それでも進んでいく時間。今の状況の中で自分がどのように立ちふるまっていくのか、何をして何をしないのか、新しい生活の中で揺さぶられる1年だったと思います。
でも、そんなときだからこそ皆さんが学ぶべき業を終えて卒業されることにひとしおの思いもあるのではないでしょうか。ぜひ、自分をたくさんたくさんほめてあげてくださいね。

卒業を迎えるあなたも、そうでないあなたも、新しい1週間、またみことばに励まされながら歩んでいきましょう♪

**日々のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

7日(日) マタイによる福音書9章14-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイに時々ある、幾つかの短い例話が並んでて、「さぁ、共通するメッセージは何でしょう?」パターンの箇所です。ちょっと前に読んだ箇所では、5.38-42の「悪人に歯向かうな」といって非暴力抵抗が勧められた箇所もそうでした。では、今朝の箇所は何がメッセージなのでしょう。
  14節ではバプテスマのヨハネの弟子がやってきて、「どうして断食しないの?『神さまに立ち帰れ』と語っている僕らも、『律法を守れ』と主張するファリサイ派も、断食は大事にしてるのに?」と尋ねます。断食は自らの誠実さを神さまに訴える善行でした。そこでイエスさまは答えます。①15節、「結婚式の祝いの時に悲しむ人はいないでしょ?今はそういう時。そのうち、花婿が奪い取られる時がくれば、誰もが悲しくて『神さま、なんで?』と断食する時はくる。」イエスさまは自らが十字架で死んだ時の混乱を語りながら、「でも今は神さま救いの宣言が語られる時。喜ぶ時」と語りました。②16節、古い布と新しい布です。イメージするために昨年のアベノマスクを思い出してください。「洗うとすぐに縮む」と大不評でした。あの現象と同じく、「古い服の継ぎに新しい布を使うと、洗った際に縮んで服をダメにする」と言うのです。③17節も似た話です。新しいぶどう酒は発酵が進みますから、密封された空間で膨張します。古い革袋はその膨張に耐えれずに避けてしまう。イエスさまは3つの話を並べ、「今は神さまから与えられた救いの宣言の時。苦しみを分かち合う前に、神さまの救いを告げ知らせ、喜び合う時」とイエスさまは告げたのです。
  では今の私たちはこのみことばに何を考えましょう。それは「その時その時に神さまが私たちに示すメッセージを模索しよう」です。今日は日曜日、礼拝の時です。日々の労苦や課題はあっても、神さまと向き合うことで新たな力と示唆をいただく時。今朝も共に礼拝に与りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所に私たちは、その時その時にあなたが何を示唆されているのかを模索することに気づきました。今日は日曜日。どうぞあなたと向き合うことができますように。10:30の礼拝で、都合があわなければyoutubeのアーカイブで礼拝に集うことができますように。礼拝による慰めと力添えを皆がいただけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(月) マタイによる福音書9章18-26節
一言メッセージ:マルコ版と比べて、話がかなり省略されているのが今朝のマタイ版の箇所です。基本構造は同じで、2つの話が組み合わさっています。1つはある指導者(マルコでは会堂長ヤイロ)の娘の復活、もう1つは12年出血が続く女性の癒しです。
  指導者の娘はマルコと違い、物語のスタート時点で亡くなっています。父親はイエスさまに「おいでくださって手を置いてくだされば生き返るでしょう」とすがります。イエスさまは一緒に行くのですが、その時、12年出血が続く女性が近づいてきて、イエスさまの服の房に触れて癒される。律法では「血は命」だとされていますから、異常出血が続くことは、命が損なわれ続けていると理解され、何らかの罪による穢れが原因だと思われていました。穢れに対する人々の反応は非常に冷たい。今で言う「自己責任」や「家族の問題」とされるばかり。マルコでは彼女は医師や祭司を回って治療を続けますが、全財産を使い果たしても癒されなかったのです。彼女は藁にもすがる思いでイエスさまに近づく。正面からでなく「後ろから(20節)」なのも、穢れていると思われる者が他者に触れることは禁じられていたからです。彼女はタブーを破ってまでも救われたいと願った。イエスさまは彼女が触れたことに気づくと、彼女を責めるのでなく、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げます。マルコと違うのは、この言葉の後に彼女は癒されているところですが、ともかく彼女はイエスさまによって癒しをいただいたのでした。
  さて話は戻ります。指導者の娘の家に行くと、葬儀が始まっていた。笛を吹き、悲しみ騒ぐ人たちにイエスさまは言う。「少女は死んだのではない。眠っているだけだ。」人々はあざ笑いますが、イエスさまは彼女の手を取り、復活させられました。
  どちらの話にも共通するものはイエスさまの宣言が癒しに先駆けられていることです。この出血も死も、人の力、常識では覆せない現実です。けれど、なお諦めずに助けを求める人々をイエスさまは見捨てず、現実を覆す御業を為してくださる。葬儀に集まる人々のようにあざ笑う人々はいても、彼らは黙る。自分たちの常識で測れない御業を経験するからです。人の理解を超えるから奇跡、神さまの御手の業だから神業。今日も奇跡、神業を期待し、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちはあなたの御手の中、神業の中で生かされていることを感謝します。どうぞ、今日の一日もあなたへの期待の中で歩ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(火) マタイによる福音書9章27-31節
一言メッセージ:今朝のみことばは、癒しの話です。二人の盲人がイエスさまに「癒してください」と願い、イエスさまは癒される。イエスさまは「人々に言っちゃだめよ」と言うのに、彼らはみんなに「見て、僕ら、癒された~♪イエスさまがやってくれた~♪」と言いふらしちゃう、という話です。目を開いてもらった二人には「あんた、何で言うとね?」と思うし、イエスさまにも「言うてほしくなかったら、癒さん方がよかったんやない?」という疑問が沸く。でも、どちらも心境を考えると理解できるのです。私たちも、身体が回復されたら嬉しいし、感謝を伝えたいものです。そして、イエスさまの立場で考えても、助けを必要とする人が目の前にいれば、放っておけないものです。私には、どちらの気持ちも分かる気がする。そんな物語の中で1つだけ注目しましょう。盲人たちにイエスさまが問う言葉です。「わたしにできると信じるか。」「理解するか」ではありません。人の理屈、理解を超え、でも信じるか、と問うのです。昨日の箇所では亡くなった少女の復活前、人々はイエスさまをあざ笑いました。常識では死者が復活するなんてあり得ないから。でも不思議です。彼らに復活信仰はある。彼らは復活を信じていながら、それが現実に起こるとは意識していなかった。イエスさまは強く問います。「あなたは信じるか、わたしが人の理解や常識を超えた神さまの御業を示すと信じるか?」その問いは今日、私たちにも投げかけられます。あなたは自分の常識や経験を超え、イエスさまを信じているか、と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはイエスさまから「信じるか」と問われました。いつも自分たちの常識や経験に捉われがちな私たちに、あなたの理解を超える神さまの御業を信じるか、と問われます。神さま、私たちはあなたを信じます。どうぞ、あなたの御業を私たちに行ってください。私たちの理解を超える喜びを実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(水) マタイによる福音書9章32-34節
一言メッセージ:今朝は口のきけない人の癒しです。イエスさまはいつものように、人を癒される。その御業に驚嘆した人たちは大騒ぎする。すると34節、ファリサイ派の人たちは「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と騒ぐ。今朝はここに注目したい。私たちは自分たちの理解や経験は絶対ではないことを知らないといけません。理解できない出来事があると、何でも自分の経験や常識の中に無理やりはめ込もうとするのは人間の悪いところです。分からないことは恥ではない。分からないなら素直に驚嘆し、周囲に教えてもらったらいい。神さまの御業ならば喜んで感謝すればいい。そうしなければ、大事なものを見失うのです。正に今朝のファリサイ派のように、神さまを信じるがゆえに律法を遵守しようとするのに、律法を遵守する自分たちを誇るあまりに神さまの御業を、事もあろうに「悪霊の頭の力」と断じてしまう。今朝の箇所は「人の振り見て我が振り直せ」のように、ファリサイ派の傲慢見て自分たちの傲慢を改めねば、と思わされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばもありがとうございます。今朝は人間の傲慢さを思いました。あなたの前に私たちはちっぽけな存在でしかないのに、プライドに捉われ、あなたの御業を自分たちのちっぽけな理解の枠に当てはめ、誤解してしまいます。神さま、どうぞ私たちを日々驕り高ぶりから解放し、知らぬを受け入れ、新たを喜び、御業に素直に感動し、神業を行われるあなたに期待する、そんな私たちにならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(木) マタイによる福音書9章35-38節
一言メッセージ:私は今朝のみことばを読みながら、今の時代と重なって読めてきます。イエスさまは町や村を残らず周り、神さまの御言葉を伝え、病人に寄り添い、貧しい人々の友になります。その時、人々はそれまで表情が固まっているようだったのに、神さまのみことばを聞き、心ほぐれ、涙が滲み、抑え込んできた思いを吐露していく。イエスさまはそんな出会いを経験しながら、切実に思う。「こんなにも今、みことばを必要とする人々が溢れているのに、伝える者が足りない。」
さて、ここで注目したいのは37-38節。イエスさまは弟子たちに「あなたたちが行きなさい」と言うのではなく、「神さまに働き手を送ってくださるように祈りなさい」と告げるのです。
  今日は東日本大震災から10年目の記念日です。あの日も金曜日でした。あれから10年、被災された方々は今、何を思っているでしょうか。10年前に失った大事なものを思い起こし、打ちひしがれるのでなく、希望を見出していたほしいと願います。人間、本当につらい時、欲しいものは傍にいてくれる存在であり、いつ如何なる時にも変わることのない希望なのです。正に、それはイエスさまという存在であり、神さまのみことばです。
  2021年3月11日の今日、私たちは東日本大震災を思い起こしつつ、また自分たち自身も新型コロナウイルスという災害の真っただ中にいる。その時に、私は今朝のイエスさまのみことばを痛感します。「神さま、どうか、この時代にあなたのみことばを伝える働き手を送ってください。あなたの希望を伝える者を起こしてください。もし私たちで良いならば、どうか今、私たちを創り変えてください。困難の中で自分のうちに籠るのでなく、いかなる時にもあなたを見上げ続ける者に、何があろうと心折れずに立ち続ける自分たちであらせてください。神さま、どうか、今を生きる人々をお救い下さい」と祈らされるのです。今日は3.11、東北の友を想って過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は3.11、東日本大震災から10年です。あの日、私たちは海岸に迫りくる津波の映像を前に言葉を失いました。水が家や車を飲み込んでいく様、生活や命が奪われていく様を見ました。あれから10年、東北の方々の心はまだ痛んでおられますし、私たち自身も新型コロナウイルスという災害に直面しています。神さま、今の時代もイエスさまの言われたように働き手が必要です。どうか、傷つく者と共におり、みことばを告げる者を起こしてください。私たちで良いながら、どうぞあなたの整えの中で、御用に用いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(金) マタイによる福音書10章1-4節
一言メッセージ:今朝の10章はマタイ福音書のイエスさまの5つの大きな説教集の2つ目の始まりです(1つ目は5-7章の山上の説教)。この10章のテーマは「弟子派遣説教」です。今朝はその直前でイエスさまが12弟子を選んだという箇所になります。さて、ありがちな誤解なのですが、イエスさまの弟子はこの12人だけではありません。他にも、イエスさまの手助けをしている人たちがいます。また、マグダラのマリアのように従っていた女性たちも大勢います。どうもついて来るスタイルの弟子や各地に定住している弟子を含め、大勢の弟子がいたのです。そうなると「では、この12弟子とは何か」という疑問が沸く。実はこの12弟子という仕組みはイエスさまのメッセージが込められた存在です。旧約時代、イスラエルはヤコブの息子たち10名(12人の息子からヨセフとレビを除いて)と、ヨセフの息子(エフライムとマナセ)を含めることで、12部族が制定されます。これがイスラエルです。イエスさまは人々にこの12部族をイメージさせ、神さまの御国において新しいイスラエルが始まることを示すために12弟子を選ばれたのです。イエスさまはここでも民の生活のただ中で神さまの救い、神さまの御国が始まることを示されたのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは12弟子について考えました。イエスさまは神さまの御国の始まり、神さまの救いの到来を、12弟子を選ぶことによって示されました。弟子たち自身は特別、秀でた人物たちではありません。普通の人たちです。いや、ユダを考えると、イエスさまを裏切るさえもいる。でも、イエスさまはそんな人々を選びながら、神さまの御国を象徴する存在としてくださいました。今、私たちは12弟子を見ながら、あなたの救いがユダのような罪深い者さえも含んでくださっていることを知ります。神さま、どうぞ私たちの社会に御国を来たらせ、お救いください。あなたの御業の実現を心から祈ります。アーメン。

13日(土) マタイによる福音書10章5-15節
一言メッセージ:今朝の箇所から10章の終わりまでがイエスさまの「弟子派遣説教」です。読み始めから私たちはびっくりします。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の道に入ってはならない。」私たちは「えっ?ユダヤ人以外は無視なの?」と驚く。でも誤解してはいけません。ユダヤ教的な理解では、ユダヤ人が世界の救いのために最初に選ばれた、と思われていました。これは順序の問題です。5-6節は「ユダヤ人以外の排斥ではなく順序」なのです。
  大事なのは7節以降です。イエスさまはあれこれ準備して万全を期して伝道…ではなく、ひょいと伝道することを告げます。注目したいのは11節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかとよく調べ…」と語りました。それは、伝道の理解者のリサーチであり、何よりみことばを必要としている方を見極めるように、とのススメです。誰も相手にしないのであれば、14節「足の埃を払い落とし」て去るように言います。あっさり、次の必要としている人に告げるように言われます。それほどに、神さまの救いの時は近づいているから、でした。
  先日、鳥栖の濱野先生が経済学者の島田恒さん(関西学院大学神学部客員講師、教団の信徒さん)との共著『教会のマネジメント』を読みました。教会の使命の確認と、使命に適した体制や行事の確認、みんなでどう取り組むか、などヒントいっぱいでした。いつか皆さんと分かち合いたいですが、その中でも「福音を必要としている人は誰かを定め、どう伝えるのが適格か」ということも語られています。イエスさまの今朝の言葉にも通じます。
  今、私たちの周りでイエスさまの福音を必要としているのは誰でしょう。そして、どう伝えるのが適当でしょう。私たちは今、「考えてごらん」と促されていると思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、私たちの周りでイエスさまの福音を必要としているのは誰で、どう伝えるのが適当か、と問われました。私たちは「伝道」と聞くと、何だか難しいことのように思ってしまいます。でも、どうぞ身近なところから、ひょいとみことばをお伝えすることができますように。どうぞ、聴いてもらえるチャンスと適切な伝え方を考えさせてください。いのちの御言葉と、軽いフットワークをお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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