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2023-10

1月31日~2月6日のみことば - 2021.01.31 Sun

少し暖かくなってきたと思ったら、雪が舞ったりと不安定な気候が続いています。
毎日の新型コロナウイルスの動向も気になりつつ、久留米教会でも日曜日はネット礼拝を中心にして行っています。直接顔と顔とを合わせて集まれないことは悲しいですが、こういう時だからこそ、礼拝でイエスさまを通して繋がっていることをじっくりと感じなら過ごすことができればと思っています。
この繋がりにはどなたも招かれています。まずは、ネット礼拝をのぞいてみてくださいね。
もちろん、集まれるようになったら教会にもぜひお越しください!
お待ちしています♪

では、今週も毎日のみことばをどうぞ!

**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

31日(日) マタイによる福音書5章7節
一言メッセージ:イエスさまの「幸い」の教えの1つ、「憐れみ」の言葉です。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」先日、zoomである教会関係の集まりに参加した時のこと、コロナ禍で困窮した教会の方が他の参加者に「元々小さな教会だが、コロナ禍のため年輩の方々が礼拝に来れなくなり本当に厳しい」と訴えられました。その際に「どういったサポートができるか」と話した際、「サポートと言われると、何だか上から言われているようだ」と言われてしまいました。言葉って難しいなぁと思いましたが、「憐れみ」という言葉も何となく「上から下に施す」というニュアンスに受け取る人もあるかもしれません。でも、このことばには上下関係はありません。「相手の言葉をおもんばかる」という意味の言葉です。誰もが他人に目を向ける余裕を失う中で、誰かのことを思い起こし、祈る。そんな人は幸いなのだとイエスさまは語ります。何故ならば、そんな人のことを神さまもちゃんと覚えていてくださり、おもんばかってくださるのです。
  このことばは私たちに「一人で生きていると思っちゃダメだよ」と教えてくれます。「わたしの都合、わたしの願い、私の理屈」でなく、私たちが兄弟姉妹と共に生きていることを、社会の人々と同じ時を生きていることを、何よりも神さまと共に生きていることを思い起こさせてくれるのです。今日は日曜日、礼拝の時。兄弟姉妹と共に神さまと向き合いましょうね。10:30から、会堂とネットでお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、自分たちは一人で生きているのではないと思い起こします。今の社会は誰もが余裕を失い、我が事を優先します。でもイエスさまは私たちに、他者と共に生きていること、神さまと共に生きていることを思い起こさせてくれます。神さま、どうぞ今の状況下でも私たちが孤独でないことを強く強く実感して過ごしていけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2月1日(月) マタイによる福音書5章8節
一言メッセージ:「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」「心の清い」とはどういう意味でしょう。その意図は「神さまに対して無邪気な」です。イエスさまは、神さまに対して隠し事なく、無邪気である人々は幸いと語られました。幼い子どもたちは無邪気です。だから、時に大人なら配慮して言わない言葉をズバッと言います。昔、ある子どもから「お前、デブだな」と言われたことがありました。周囲が、特にお母さんがギョッとする中で、私はそのカラリとした言い方に思わず大爆笑してしまいました。彼の物言いには悪意が無い、無邪気だと感じました。「心の清い」という言い方は何だかかたっ苦しいですが、イエスさまは「無邪気な者は幸いだ」と語りました。自分の思いを神さまに率直に語りながら、神さまに信頼する者は幸いなのです。その理由が嬉しい。「何故なら、その人々は神さまと出会うから」。神さまは無邪気に自分を信頼する者を決して見捨てないのです。だから幸いです。新しい一週、新しい月は何が起こるでしょうか。本当にあと一週間で緊急事態宣言が解除されるのか。先は見えません。でも、「神さま、よう分からんけど、よろしくです」と期待しながら歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、私たちはあなたに無邪気でありたいです。いつの間にか、私たちは聞き分けの良さが信仰深いと勘違いしていたかもしれません。でも、イエスさまは神さまに対して無邪気であることを「幸い」と言ってくださいました。どうぞ、私たちの率直な思いも先の見えぬ不安も、信頼して全部を委ねます。どうぞ受け止めてください。そして、私たちと出会ってください。あなたとの憐れみ深い出会いに期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(火) マタイによる福音書5章9節
一言メッセージ:今朝の箇所は「幸いの教え」の中でも最も有名な一節です。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」これまで何度も説教で取り上げた箇所でして、今わたしはこの箇所から7つの示唆を見出しています。ポイントだけ列挙し、最後にまとめます。
 ①平和(シャローム)は「戦争が無い状態」ではなく、「誰もが神さまに守られ、毎日を平穏に生きられる状態」です。
 ②そんな平和は待っていたら誰かが与えてくれるものでなく、「実現する(作り出す)」もの。
 ③誰が平和を実現するのかと言えば、4章23-25を見ると、それはカリスマ的な指導者ではなく一般の民衆。現代で言えば、私たち一人ひとり。
 ④当時、ローマ皇帝が自らを「神の子」と自称していたが、イエスは「どこぞの権力者が自らを『神の子』と語っているが、本当の神の子は③にある民衆」と皮肉った。
 ⑤では、誰が民衆を神の子と呼ぶか。ギリシア語文法ではここは神的受動態であり、その意味は「神が民を神の子と呼ぶ」。先ほどの④と繋げれば、「神の子を決めるのは神御自身」となる。
 ⑥「神の子」の「子」というギリシア語はヒュイオイという言葉。そのニュアンスは「幼い子ども」ではなく「自己決定できる成人した子ども」。つまり、イエスは「平和を実現しよう」と決意を持って動く者たちを「神の子」と祝福される。
 ⑦そもそも、神が「神の子」としてくださる者の条件は「平和を実現する人々」であり、国籍や民族、宗教的違いさえ明記されない。言葉を変えれば、「平和を願い、実現しようとする人々」であれば、私たちはあらゆる違いを乗り越えて協力し、連携していくことが示唆される。
  では、最後にまとめて読んでみましょう。「神さまの祝福をいただき平穏に生きていきたいと願い、平和を実現しようと一歩を踏み出す民を神は祝福し、『我が子』と呼んでくださる。社会が作る対立や敵意を乗り越え、共に平和を作り出しなさい」となるのです。今日も私たちの周囲に小さくとも1つずつ平和を作り出していきましょう。私たちは今日も「神の子」とされていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、マタイ5.9から私たちは平和実現の示唆をいただきました。私たちは自らを小さな存在にすぎないと思っていましたが、あなたはそんな私たちが自分たちの身近なところから平和を実現することを喜び、励ましてくださいます。神さま、どうぞ平和を実現させてください。特に今のコロナ禍のため多くの人が余裕を失っている中で、皆が互いを裁くのでなく、共に生きていく平和を作り出せますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(水) マタイによる福音書5章10節
一言メッセージ:「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」イエスさまのことばですが、6節の「義に飢え渇く人々は…」と違い、この箇所の「義」は定冠詞がありません。ということは、おそらく6節で語られた「神さまの義」を求めて、自分の生活の中で実践しようとした人々が、社会で迫害を受けている状況を歌っています。状況を変えようと一歩踏み出す人々には、様々な妨げが出てくるものです。特にイエスさまの時代のように、ローマ帝国の植民地支配があり、抑圧する者される者がはっきりした社会では、誹謗中傷ではなく、暴力も振るわれたでしょう。でもイエスさまは、つらい思いをしている人たちを「幸い」と語りました。何故なら、その人々は神さまの御心を実行しているのであり、その人々こそが神さまの祝福と救いをいただくことになるからです。このみことばは私たちに、「人は目先の事柄に捉われがちになりやすいですが、私たちは今日も、神さまの御心を想いながら過ごしなさい」と告げているのです。私たちは迫害までは無いにしても、今日も神さまの御心を実現すべく歩み出していきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは私たちに御心の実践を促します。私たちは多くの場合、自分の目先の事柄に捉われ、あなたの御心に思いを馳せることが少ないかもしれません。でも神さま、どうぞ今朝のみことばにあるように、小さくても私たちがあなたの御心を実践することができますように。あなたの御心が成りますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(木) マタイによる福音書5章11-12節
一言メッセージ:今朝は「幸いの教え」の締めくくりです。11節を見ると、イエスさまは私たちが時に訳の分からない理不尽な誹謗中傷に曝されることもちゃんとご存知だと分かります。勝手な誤解を受けたり、八つ当たりをされたり、「お前の責任だ、お前の役割だ」と押し付けられて行き詰ったり。そんな「えー」って訴えたい事態を挙げながら12節、イエスさまは「喜びなさい」と言われる。「大いに喜びなさい」は「躍り上がって喜びなさい」です。何故そんなに喜べるのか。それは、神さまがそんな私たちを受け止め、祝福し、導いてくださるからです。
  「幸いの教え」でもそうですし、イエスさまの言動の根本にあるのは「神さまがおられる」という信仰です。神さまがおられないならば、私たちは自分たちを襲う理不尽に泣き寝入りし、社会の不当な扱いに諦めるだけでしょう。でも神さまがおられる。神さまが私たちに目を留め、神さまが受け止め、神さまが祝福し、神さまが整えて、神さまが導いてくださる。神さまが、神さまが、神さまが…。それがイエスさまの言動の出発点です。そして、そうやって自分や社会を見る時に、今までの自分では見出せなかったヒントや知恵、力、協力者、展開、展望、信頼など次々に沸き起こってくるのです。イエスさまの言葉を読みながら、このことばは今の私たちにとっても何て「幸い」なのだろうかと思います。さぁ、今日も私たちは「神さまがおられるんだから」という出発点から自分の今を、社会を見ていきましょう。その時、今が苦しくとも、この先の神さまの祝福をワクワクできる。今の労苦がどんな祝福へと変わっていくのか期待できるのですね。躍り上がって喜びましょう、「イェー♪神さま、すげぇー!」って。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「幸いの教え」の締めくくりの言葉でした。私たちはこのみことばから、イエスさまのモノの考え方を知りました。イエスさまはいつも「神さまがいるんだから」ということからモノを考え、語り、行動されましたし、私たちは今、同じように「神さまがおられると考えて行動する」ことが促されます。それは、自分たちの無力さに打ちひしがれることなく、希望潰えることなく、喜びも力も期待も沸き起こる生き方の招きでした。神さま、あなたを信じ、今日も歩み出します。どうぞ私たち一人ひとりに今日を楽しめる思いと、課題と向き合う力と、課題を乗り越えていく知恵を増し加えてください。あなたの御手が差し伸べられ、万事が益とされると期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(金) マタイによる福音書5章13-16節
一言メッセージ:今朝は「地の塩、世の光」の箇所です。イエスさまは私たちに「あなたがたは地の塩、世の光だ」と語ります。塩は塩気によって食事の味を引き締め、光は周囲を照らすものです。どちらも、自分自身のためというより、周囲に影響を与えるものです。面白いなぁと思いますが、塩は塩の中に入れられていると、単なる塩の塊に過ぎず、他に影響を与えないのです。光も暗闇の中で光ってこそ明るいのです。イエスさまは私たちを「塩、光」に例えながら、「あなたがたの存在を周囲に知らせなさい」と語るのです。言うなれば、「あなたたちは教会の中だけクリスチャンなのでなく、教会の外でこそ神さまを信じているんだと意識して生きなさい」となるのでしょう。
  数年前、もう少し時間にゆとりがあった頃は社会運動にも携わっていました。何とか安倍政権の暴走を食い止めようと活動する中で、親しくなった弁護士からこう言われたことがあります。「自分たちは憲法という根拠があるから、今の社会はおかしいと声を上げ続けられる。でも、踊さんたち宗教者は『神の御心』という一点で、おかしいものはおかしいと言う。それって強いよね。」自分では「強い」なんて考えてもいなかったから、逆に「そういうものなんだなぁ」と教えられました。
信仰を持っていること、聖書を大事にし、礼拝を守り、教会に集い、神さまを信じて生きていること。それは何も大きな出来事ができる、ということではありません。でも、信じて生きている私たちの姿は、既に周囲に「地の塩、世の光」として届いているのです。だから、もっと自信をもって、でも肩には力入れず、「わたし、クリスチャンなんよ」と伝えてみましょう。私たちを通して、神さまを知る人たちが出てきてくれることを楽しみにしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、イエスさまは私たちを「地の塩、世の光」と言われました。塩は少量で食事の味を調えます。光はわずかでも暗闇の中でどう歩めばいいか、足元を照らします。イエスさまは私たちをそういう存在だと言われました。自分たちにはその自覚がほとんどありません。16節「立派な行い」はちょっと重荷ですが、イエスさまがそう言ってくださるから、私たちは、あなたを信じるからこその生き方を自然体で示したいです。どうぞ私たちを用い、周囲に信仰を持って生きることの幸いを伝えさせてください。特に今のコロナ禍において、大事な仲間たちに、あなたによって希望が与えられて生きられるのだと伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(土) マタイによる福音書5章17-20節
一言メッセージ:イエスさまは17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない、廃止するためではなく、完成するためである」と語りました。「律法と預言者」は旧約聖書を表す定型句です。イエスさまは「私は旧約聖書の教えを古いものにするのでなく、旧約聖書で語られた神さまの御心をより鮮明にし、完成させる」と言われたのです。実際に明日から読みます5章21-48節の「しかし私は言う」という言葉は、それまでの律法の理解やそれに基づく風習を批判しながら、でもそもそも律法を与えられた神さまの御心をより鮮明にしているのです。
  多くの人は基本的に変化を好みません。新しい事柄に対応するのが大変だったり、感情的にもそれまでを否定するかのような印象を持つからです。でも、私たちはそこでこそ、神さまの御心を模索しながら判断したいのです。新しい者が単なる過去の否定なのか、それとも神さまの示唆に基づく変化なのか。拒否しようとする私は単なる自分の慣れ親しんだ風習に固執しているからなのか、それとも変化が神さまの御心に反するから拒否するのか。だいたい、人間の感情は一時的なものでしかないし、常識や価値観も時代によって変わりゆくものにすぎません。だからこそ、イエスさまは変わることのない神さまの御心を重視し、より鮮明にされました。
でもユダヤ教の指導者たちは自分たちの体制が否定されると感じ、強く抵抗し、イエスさまを拒絶し、最後には十字架につけました。皮肉にも「神さまを冒涜した」と理由付けをして、神の子であり、救い主を殺害したのです。私たちは同じ過ちを繰り返さないでいきましょう。神さまの御心を模索し、御心に適うなら大胆に変化し、それを楽しめばいい。御心に背くなら「ダメなもんはダメ」と語ればいいのです。今日の御言葉は私たち自身を再度問うてきますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イエスさまは「わたしは神さまの御心を鮮明にし、完成させる」と言われました。その言葉のとおり、イエスさまは神さまの御心にこそこだわり、形骸化した理解や制度を変えるように声をあげられました。神さま、今、私たちはコロナ禍の中で、自分たちの「当たり前」だったものがあれこれと崩れ去っています。まだまだ病気そのものへの不安はありますが、でも私たちは自分たちを見つめ直すチャンスもいただいたように思います。今こそ、あなたの御心を模索し、変わるべきは変え、守るべきは守る時なのだと思います。神さま、どうぞ私たちに御心をお示しください。御心を大事に、柔軟に、でも芯の強い、アルデンテみたいに生きられますように。いつも民に寄り添い、神さまの御心を示してくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
  ※アルデンテ:パスタの茹で方。芯に固さを残しながら茹でます。


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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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