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2021-07

9月20~26日のみことば - 2020.09.22 Tue

つい数週間前は真夏日が続いていたのに、すっかり秋の陽気になり、朝晩は少し肌寒く感じる今日この頃です。やっとホッとできる気候になりましたが、ホッとすると同時に夏の疲れが出やすい季節でもあります。皆さんの健康が守られます様に。

先日の日曜日(20日)には、久留米教会では「召天者記念礼拝」が行われました。
先に天に召された方々を思い起こす礼拝なので、会堂の前には懐かしいお顔の写真が並びました。
(プライバシー保護の観点からライブ配信には映り込まない場所に飾りました。)
毎年遺族の方々にもお声掛けするのですが、今年は新型コロナウィルスの心配のため、普段礼拝に来ている方々で礼拝を守りました。
死とそれにともなう別れは私たちにとって悲しく、苦しいものです。
でも聖書は、死は単なる終わりではない。死の先をも神さまの御手の中にあるということを語ります。
悲しみはある、でもそれを乗り越える希望もまた与えられていることを心に留める時となりました。
メッセージは教会ホームページのメッセージのページから聴くことができます。
気になった方はぜひチェックしてみてくださいね。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

20日(日) 詩編124編1-8節
一言メッセージ: 124編はとても想像力を刺激されます。「主がわたしたちの味方でなかったら」を私たちの事柄として想像してみましょう。皆さんなら、どう想像しますか。私はこんな風に考えました。
 主がわたしたちの味方でなかったら、朝起きて一日を想う時、苦労ばかり思いつくだろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、人と向き合う時、その場しのぎでやり過ごすばかりだろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、力ある者に媚びへつらうことが人生の得と考えただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、バレないならば何をやっても良い、と思っただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、物事の最大の判断基準は損得だっただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、仲の良い人間以外とは付き合わずに過ごそうとしただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、自分の限界を感じた時、それ以上の努力はしなかっただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、希望を口に出すことを愚かと思っただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、人生に不満ばかりだっただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、未来に不安ばかりを感じただろう。
 主がわたしたちの味方でなかったら、死の間際に怯えるばかりだっただろう。
 しかし、何と感謝なことでしょう。主はわたしたちの味方です。だから、わたしたちの人生は今日も祝福に満ちています。今日も共に礼拝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。「主がわたしたちの味方でなかったら」を想像しました。もし、あなたがいなければ、わたしたちは自分たちの限界の前に、全てを虚無的に感じたことでしょうから。でも、神さま、あなたは私たちの味方でいてくださいます。いつも、いかなる状況においても、あなたは私たちに目を留め、私たちと伴い、私たちを守り、私たちを祝福し、わたしたちを導かれます。どうぞ今日、礼拝において、その希望を確認させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

21日(月) 125編1-5節
一言メッセージ:125編は「主により頼む(主に信頼する)」ことの尊さと確かさを歌った詩です。神さまに信頼するということは、神さま以外のものに依拠しないことです。私たちは辛い時、先を見据えるよりも目の前の出来事でいっぱいいっぱいになります。そして自分にどうにもできない現実を前に絶望します。でも神さまに信頼することは、私たちの限界を超えて、私たちの見えぬ未来に期待することです。望みなき時に、なお望むことができるのです。
神の子で救い主でありながら、私たちと同じ人間となって生まれ、私たちと同じ労苦や理不尽な現実を知ったイエスさまは、あのゲッセマネにおいて、『神さま、できることならこの杯(十字架の死)を取り除いてください』と祈りました。それは私たち人間と同じ姿です。神さまがおられると分かりながら、現実を受け止め切れずに苦しむ生身の人間の姿です。でも私はそんなイエスさまに慰めを見出すのです。私たちの救い主は私たちの現実の辛さを知っていてくださるのです。そのイエスさまがつらい時・絶望を感じる時、共にいてくださるように祈りましょう。イエスさまが私たちの希望です。イエスさまは逃げ出したい現実の先に復活という希望を示されました。私たちの救い主は、先が見えなくても、人間の絶望的な労苦を経験しながらも、神さまの希望があることを示されたのです。そんなイエスさまが、私たちを見捨てるはずがない。だから『イエスさま、共にいてください』と祈りましょう。
様々な出来事を聴き、体験しながら、「望みなき時になお望む」ことの辛さと、でも「望み」の根拠なる神さまのことを考え続けています。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。125編の詩人は「主により頼む」ことを告げました。神さま、信仰とは神さまを頼り、期待することと私たちは知っています。でも、実際に苦しい時、その言葉を実行することさえ辛いです。あなたにどう祈ればいいのか、分からぬ時もあるのです。けれど、その時に私たちはゲッセマネのイエスさまを思い起こします。神の子であり救い主でありながら、私たちと変わらぬ生身の人として怯え苦しんだイエスさまは、正に私たちに寄り添う救い主でした。神さま、私たちはあのイエスさまの姿を思い起こしながら、あなたに祈ります。どうか私たちをお守りください。インマヌエルの救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

22日(火) 詩編126編1-6節
一言メッセージ:126.5-6は有名なみことばです。これは、「初めに労苦した者が、後に祝福を受ける」という意味合いに読める言葉です。でも、そんな単純な意味合いではないのです。何故なら、古代イスラエルは常に外敵の侵略に怯えますし、ただでさえ水の少ない地域ですから収穫は天候に大きく左右されます。そんな中で農夫たちは精一杯働きながら、自分たちの手に負えないところを神さまに祈るのでした。126編の祝福はそんな、人の手に負えないところで信じられない御業を行う神さまにあります。1節に「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて」とありますが、祈祷会で用いている月本昭男さんの訳では「主がシオンの命運を転ぜられたとき」です。自分たちの不安だらけの未来を、神さまが大ドン絃返しで祝福へとひっくり返されると言うのです。4節に「ネゲブの川の流れ」とありますが、ネゲブは年間降水量200mmの乾燥地域です。川はほぼ干上がっています。でも雨季になり、雨が降ると川底に水が流れるのです。1節も4節も、どちらも恵みの基は神さまです。神さまの御業による祝福を歌った、それが126編なのです。
  私たちの毎日も同じですね。私たちも努力しますし、精一杯誠実に生きています。でも、私たちはその実りは神さまに期待します。神さまが私たちを祝福し、私たちに皆と共に喜び合う祝福を与えてくださいますように、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は126編に、あなたの祝福に期待することを分かち合いました。今、私たちが苦しい時を経験していても、この苦しみを5節の「涙と共に種を蒔く」ような、祝福の始まりとしてください。私たちに見えぬ先をも見据え、慈愛に満ちて導いてくださるイエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

23日(水) 詩編127編1-5節
一言メッセージ:127編は元々、若い夫婦への祝福の詩だそうです。1節の「家を建てる」は建築の話というより「家庭を築く」という意味合いです。だから3-4節の出産の話に繋がるのですが、では今、背景を超えて我が事として受け取るときに、この詩のどこに目が留まるでしょう。それは1節冒頭の「主ご自身が建ててくださるのでなければ」です。詩人は神さまへの期待を歌っています。
  現代社会はとても世知辛く、結果や成果を出すことが能力を測る基準のようになっています。逆を言えば、周囲の納得を得て、称賛される結果を出さねば、その人が無能かのように蔑む風潮があります。そのためでしょうか、皆が結果や成果、ひいては人の目に翻弄され、失敗しかねないチャレンジは避け、困っている人がいても厄介ごとは避けようとします。そして人は孤独を強くしていく。先日、新聞でありましたが、今年はコロナ禍で自ら命を絶つ方が多いのだそうです。とても悲しいことです。
でも、そんな風潮の今、私たちは127編から「主ご自身が成して下さる」ことに期待していいのだと教えられます。もちろん、精いっぱいの努力はします。でも、結果を出されるのは神さま。望む結果で無い時には、「神さまの御心に沿えていたかな?」と振り返り、「沿えていたんじゃないかな」と想えたら「神さま、でっかい祝福を次に回されましたね?」と期待する。結果が私の命の価値を左右するのではないのです。一人ひとりが神さまに祝福された命なのだから、結果や成果によってあなたの価値が変わるなんて幻想に惑わされないで生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。127編はわたしたちの心を軽くします。神さまの導きの中で生きることの祝福とゆとりを見出します。私たちは精一杯に努力します。でも、望む結果が出ぬからといって、私たちの命の価値が左右されるという風潮は過ちです。だって、一人ひとりはあなたの祝福をいただいて生きる命ですから。神さま、どうかあなたの導きに期待して今日も生きる者としてください。望まぬ結果の時には、「神さま、次がでっかい祝福ですね」と期待できるゆとりを与えてください。一日の始まりに希望の基イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

24日(木) 詩編128編1-6節
一言メッセージ:128編は古代イスラエルの幸せを、素朴な家族像を通して描いた詩です。基本的には読んだままなのですが、一点、面白い言葉を見つけました。1節の「主を畏れ、主の道を歩む人」は一般的な「人間」という意味合いですが、4節の「主を畏れる人」という「人」が一家の責任を持ち、彼の判断で一族の未来が決まる家長である成人男性を表すゲベルという言葉なのです。子どもは親や周囲の大人の言うことを聞きながら育ちます。反抗期には理由なく反発したし、将来を考えて不安になることもあったし、若さ故の焦りや潔癖さで物事を短絡的に断定したこともあります。そうやって大人になり、自分で仕事をはじめた時、周囲の声はアドバイスとなり、自分で物事を決断するようになりました。その時、私たちは自由に決断できるけれど、同時に決断に責任が伴っていることを実感したのです。それが私たちにとってのゲベルの状態です。ゲベルは責任もって決断せねばならない。でも、128編のゲベルは、決断の規範に「主を畏れること」を持ち、神さまの御心を求め、従う。それが最善の幸いに繋がるからなのです。その示唆は今の私たちにも同じように与えられています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは大人たちへのエールでした。物事の決断をせねばならない時、私たちは何を基準に決断すればいいのか、悩みます。でも詩人はシンプルに「主を畏れる」ことを示しました。あなたの御心に従う時、すべては神さまの御手の中で整えられます。その安心が私たちの強みです。神さま、どうぞ今日も御心を模索しながら歩み出させてください。導きに期待し、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(金) 詩編129編1-8節
一言メッセージ:129編はイスラエルの人々にとって、生活に密着した詩でした。外敵によって侵略を受ける苦難をテーマにしていますが、けれど、その侵略は一時的なものに過ぎず、彼らの行為が徒労に終わることを歌っています。1、2節の前半部は同じ言葉の繰り返しですが、その分、2節末の「彼らはわたしを圧倒できなかった(侵略できなかった)」が強調されます。3節は侵略者によって国が蹂躙される様ですが、4節で「主が正義」だから、神さまは侵略者の束縛を断ち切られるのです。
  注目したいのは6節の「抜かれる前に枯れる屋根の草」であり、7節の「穂を束ねてもふところを満たすことのないように」です。「抜かれる前に枯れる屋根の草」とは、当時の家の屋根は梁を作り、棕櫚の葉を重ね、泥を重ねて固めたのですが、その泥に含まれた種から目を出す草です。けれど、屋根の泥では根が張れず、直に枯れるのです。また、当時の麦の収穫は茎を集めて穂の部分だけをふところの袋に入れたそうですが、「穂を束ねてもふところを満たすことのない」とは、外敵が略奪しようとしても穂が全て収穫済みの状態です。どちらも、外敵の侵略が徒労に終わる様を歌っています。
  どれも、イスラエルの民にとっては日常の生活風景です。彼らはその風景を見ながら、129編を思い起こし、「何だかんだ言っても、神さまはちゃんと守って下さるよね」と確認し合ったのでしょう。
  ここで考えてみましょうね。私たちにとって、日常の生活の中で神さまを思い起こすものって何でしょう。私たちも日に何度も「神さまはちゃんと守ってくださるもんね」と思い起こしたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばは、わたしたちに日常の中であなたを思い起こさせるものは何かなぁ、と考えさせます。食卓のご飯でしょうか、道を歩いていて見かける草花でしょうか、元気のよい子どもの挨拶の声でしょうか、おだやかな日差しでしょうか。人それぞれでしょうが、神さま、どうぞわたしたちが一日過ごす中で、何度もあなたを思い起こし、感謝と平安を感じることができますように。私たちに日々伴ってくださる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

26日(土) 詩編130編1-8節
一言メッセージ:1節の「深く淵の底」とは、人生のどん底という意味です。130編は、詩人がもはや絶望感いっぱいの中で、神さまに向かって切実に呼びかける詩です。この詩の中で注目したいのは「主」という言葉です。新共同訳を見ますと、「主」という言葉が連呼されていますが、ヘブライ語の原典では言葉の使い分けがされています。手持ちの聖書に書き込んでいただければ良いですが、2節、3節後半、6節は「わが主」で、8節は「かれこそ」、残りは「ヤハウェ」か「ヤハ」という神さまの固有名詞です。「ヤハウェ」は「〇〇さん」という固有名詞ですが、「我が主」は関係性を表しています。詩人は1節で、絶望しながら「ヤハウェ」と呼びかけながら、2節で「あなたはわたしの神です。どうぞわたしの声を聞き取ってください」と願ったのです。きっと詩人はこの絶望的な状況に陥るまで、例えば自分の力や友人たちの協力をもらい、権力者の助けを求め、あらゆる手段を講じてきたのでしょう。けれど助けにならなかった。もはや彼にできることは何もない。そんな中で彼は「まだ私には神さまに助けを願える」と気づき、「ヤハウェよ、あなたこそがわたしの神さまです。あなた以外に救いはありませんでした。わたしは今、ようやく気付きました」と呼びかけた。それが130編なのです。
  私たちはこの詩に2つのことを教えられます。1つは「私たちは人の力に頼るのでなく、主なる神さまを常に覚えて生きるのだ」ということ、もう1つは「神さまはこんな最後の状況に陥るまで神さまから離れ、罪を重ねた者でさえ、その叫びに応えてくださる」というです。宗教改革者のマルティン・ルターはこの130編を読みながらこう語ったそうです。「あぁ、われらに罪は多かれど、神の慈愛はいや勝れり。」週の終わりに私たちは神さまへの信仰と慈愛を思い起こしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝、130編から、常に神さまを覚えて生きることと、あなたの慈愛は限りなく深いこと、を分かち合いました。週の終わりに深い慰めをありがとうございます。今週、私たちはどれほどあなたに背いたことでしょう。気づいている罪もあれば、気づかずに犯した罪もあったかもしれません。どうぞ、全てを受け止め、お赦しください。週の終わりにあなたの慈愛によって締めくくることができますように。今日の一日をお守りください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今週もみことばが皆さんの人生の旅路の道を照らす光となりますように。



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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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