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2020-09

9月13~19日のみことば - 2020.09.15 Tue

台風が過ぎ、吹き抜けていく風が秋の風になってきましたね。
日中はまだまだ暑いですが、ようやく暑い暑い夏が終わったようですね。
季節の変わり目、皆さん体調に気を付けてお過ごしくださいね。

今週も毎日のみことばをアップします。
皆さんの毎日がみ言葉によって支えられます様に。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
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13日(日) 詩編119編153-160節
一言メッセージ:今朝の箇所で、詩人は「神に逆らう者」によって、かなり追い詰められている状況のようです。「顧みてください(153節)」、「贖ってください(154節)」、「命を得させてください(154節)」と3つの願いを訴えています。辛い状況の際、私たちであれば「神さま、私は真面目に信じてきたつもりです!なのに、どうしてこんな苦しい目に遭うんですか!理不尽です!」と突っかかっていきそうですが、詩人が危機の中でなお、神さまに期待し、願い続けるのです。154節では、神さまが自分に代わって(自分の前に立ちはだかって、自分を庇って)敵と対峙してくれることを期待しています。なぜ彼はそこまで神さまに期待できるのでしょう。それは156節にあるように、「神さまの憐れみの豊かさ」を知っているからです。ここで言われている「憐れみ」はヘブライ語のラハミームという言葉です。ラハムという言葉は女性の子宮を指す言葉でもありますから、ラハミーム「憐れむ」という言葉は、苦しみすら経験しながら命を生み出していく、そんな愛情と強さを含んだ憐れみなのです。詩人は、神さまを母のように無条件に信じているのです。そして、その期待は決して裏切られることは無いのです。今、皆さんのしんどいことは何ですか?しんどい時には、ただ神さまを思い浮かべてください。神さまはあなたを苦しめて見捨てるのでなく、憐れみをもってあなたを守られます。だから大丈夫ですよ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたの憐れみについて、改めて考えました。私たちは厳しい課題に直面すると、自分のことでいっぱいいっぱいになり、あなたを見失います。でも詩人は、あなたの憐れみはいついかなる時にも変わらず、私たちに注がれていることを信じました。神さま、私たちもあなたの憐れみラハミームを信じます。どうか、私たちを丸ごと理解してくださった上で、あなたの御業を行ってください。あなたに期待して、救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

14日(月) 詩編119編161-168節
一言メッセージ:今朝の箇所は週の初めにとても勇気づけられる言葉です。161節の「地位ある人々」というのは、おそらく、バビロン捕囚後にイスラエルに帰還した人々を監督するため、バビロンを滅ぼしたペルシャ帝国から派遣されてきた高官のことです。彼らは、ある程度の自治をイスラエルに認めながらも、支配者ゆえの理不尽な行為もしていたのでしょう。詩人は、そんな権力者の理不尽な行為に苦しみながら、「でも私が本当にひれ伏すのは神さま、あなたです」と歌いました。164節の「日に七たび賛美する」は単なる回数でなく、「何度も何度も」という意味合いですが、それくらいに詩人は神さまを思い起こすのです。そんな中で注目したいのは、165節と168節です。165節で詩人は「(神さまに従う者を)つまずかせるものはない」と語りました。現実には、ペルシャの高官の理不尽な行為があるのに、それらは彼らにとって「つまずき」にならないのです。何故か。それは168節が語るように、「彼の人生はすべて神さまの御前にある」からです。神さまはこの理不尽な現実さえも用いて、全てを整えられるからです。今朝、週の初めに確認したいことは、「私たちの良いことも悪いことも、すべてを最善の導きのために用いる神さまが、今日も私たちと共におられる」ということです。すごいことですね。新しい週の始まり、神さまの導きに期待して歩み出してまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の始まりにあなたは希望に満ちたみことばをくださいました。新しい一週、私たちはどんな事柄を経験するでしょう。喜びもあれば、しんどいトラブルに直面するかもしれません。でも、あなたはわたしたちに「つまずきはない」と約束してくださいます。あなたはしんどい出来事すら祝福のために用いられるでしょう。神さま、あなたの御業を信じます。主なる神さまに祈ります。アーメン。

15日(火) 詩編119編169-176節
一言メッセージ:長かった119編もとうとう終わりです。終わりの言葉は未来の希望を歌った言葉です。169-176節を見ますと、「〇〇でしょう」とか「〇〇してください」といった未来を願う言葉が連なっています。詩人は未来を見ています。その未来は、不安に満ちた未来ではありません。希望に満ちた未来です。もちろん、169節の「叫び」は嘆きの叫び、悲痛な叫びですから、今は苦しい境遇にいるのです。でも、今は苦しくても、未来には祝福が満ちるのです。何故か。神さまが導いてくださるからです。174節で詩人は歌います、「主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。」神さまがおられる、この揺るぎない真実があるから、クリスチャンは強く、しぶといのです。神さまは今日も私たち一人ひとりに目を留めておられます。さぁ、神さまの眼差しの中で歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、22回にわたって詩編119編を学んできました。その終わりにあなたが示してくださったのは、未来への期待です。「あなたがおられるのだから…」、その真実は私たちにとってどれほど大きな希望でしょうか。あなたがおられるから、私たちは自分たちの限界を超えて、あなたに期待し、ワクワクします。どうぞ、私たちにあなたが考えられる最善を与えてください。一時的なしんどさも享受します。でも、どうぞ、しんどさの分だけ、早いところでっかい感謝も用意くださいね。私たちを祝福のうちに創造し、愛し、救い、導いてくださる神さまに祈ります。アーメン。

16日(水) 詩編120編1-7節
一言メッセージ:120編は最初に2-7節を、最後に1節に戻って読んでみてください。そうすると、分かりやすくなります。2節で詩人は自分の過ち、罪に気づき、神さまに「助けてください」と呼びます。彼が気づいたのは、軽口や誤解、意図していない言葉も含めて、自分がいかに神さまの御心と離れて、偽りに満ちた言葉を語ってきたか、ということです。5節のメシェクは黒海に周辺の山岳民族、ケダルはアラビア地方の遊牧民ですが、120編では「戦闘を好む異民族」といった意味合いで使われており、要は、自分の言葉はそれほどに無責任で、相手に怒りや敵意を湧きおこらせ、要らぬ争いを生じさせてきたと嘆いているのです。そんな自分の過ちに気づき、7節で詩人は平和を願います。そして1節、彼は神さまに「助けて下さい」と呼びかけます。その時、私たちは希望を見出します。神さまは呼びかける詩人に応えてくださるのです。罪人であり、償いきれぬ過ちを抱えているのに、神さまは悔い改める人を見捨てず、応えてくださる。いかなる過ちを抱えていても、必ず救ってくださるのです。だから、詩人は神さまに赦されながら、もう一度、人々に向かって語ります。今度は軽口でなく、神さまの御心を意識しながら。私たちもそうありたいと願いますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。120編を読みながら、私たちは自分たちを振り返りました。私たちの言葉も、詩人同様、深く反省せねばならぬほど、過ちに満ちたものだったでしょう。自分で思い出しても、イライラした時の一言、疲れた時の対応、軽い冗談のつもりが相手のひきつった顔など、「なんであんなこと言ったのだろう」と反省しきりです。神さま、どうぞその1つ1つをお赦しください。そして、どうぞ傷つけ、怒らせてしまった相手との具体的な和解へと導いてください。あなたによる再スタートを願いつつ、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(木) 詩編121編1-8節
一言メッセージ:121編はただただ祝福の詩です。エルサレムに巡礼する巡礼者の歌です。1-2節は巡礼者の歌で、3-8節は巡礼者に与えられる神さまの祝福を歌っています。3節では神さまが私たちの歩み(人生)を整えてくださること、4節ではいつでも目に留めていてくださること、5節では守ってくださることが記されます。6節の「昼の太陽」と「夜の月」は寒暖差激しい中東の気候をイメージしてください。「昼の太陽」は猛暑、「夜の月」は寒さです。砂漠などでは昼と夜での気温差が50度を超えると言われますが、そんな厳しい状況でも神さまは巡礼者を守ると詩人は歌うのです。
そんな121編で今朝注目したいのは1-2節です。巡礼者はそびえ立つ山々を見上げています。現代人は普段、人間の進歩を誇っているのに、大自然を前にすると、ただ佇んでしまいます。自分たちを超える何かを感じているのでしょう。信仰者はそんな大自然の背後に、その自然を創造された神さまの存在を思い起こします。巡礼者も同様で、神さまの存在を想い起こし、「自分はなんてちっぽけだ」と思ったのです。でも、そこで彼は気づくのです。そんなちっぽけな存在に過ぎない自分なのに、天地創造の神さまが目を留めてくださっているという事実に。普段、当たり前のように「神さまは私たちを見守ってくださる」と耳にするのに、改めて考えると、何て偉大な御業でしょう。神さまが私たち一人ひとりの個性も事情も、課題も願いも、全てを理解しておられるうえで、私たちを倒れて絶望で終わることなく、いついかなる時にも見守り、支え、導いてくださるのです。
今朝、私たちは神さまの偉大な御業を思い起こして、一日をスタートしましょう。きっと、今日の一日は当たり前の一日でなく、祝福と御業に満ちた一日となることでしょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日、わたしたちは偉大なあなたを見上げて一日をスタートします。神さま、お願いです。今日の夜、一日を振り返る時に、あなたの恵みを1つ1つ数えさせてください。その時、あなたの守りを実感し、感謝と平安をもって一日を締めくくることができますように。あなたの一日の導きに期待して祈ります。アーメン。

18日(金) 詩編122編1-9節
一言メッセージ:122編は7月12日の宣教で取り上げた箇所です。教会HPから聞き直せます。
さて、122編1節は今年度の久留米教会の年間聖句です。「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。」ここには、詩人の喜びが詰まっています。詩人はエルサレムに巡礼した際、他の部族と一緒に礼拝したことを喜んでいます。そして「一緒に礼拝して、私たちは家族同様になれるんだ」と知るのです。6-7節では詩人の喜びがシャルシャルという音が繰り返されます(エルサレムのヘブライ語読みはイェルシャレム、平和はシャローム、6節の「求める」はシャアルー、「平安があるように」はイシュラユー、7節の「平安」はシャルワー)。その興奮をもって、詩人は8節で「わたしはぜひとも語りたい。兄弟、友のために、神さまの平和を!」と歌うのです。
私はこの詩に久留米教会のこれから目指したい姿を見出しています。それは「共に礼拝し、共に生きる教会」です。現代は何かと人と人を分断します。意見の合わない人々は互いを憎み合い(政治や原発などの意見の総意による対立など)、国籍や民族の違い(近隣国や在日の方々へのヘイトなど)、宗教の違いなど、本来理解しあって、一緒により良いものを目指せばいいだけなのに攻撃の対照する。今のコロナ禍では「べき」「ねばならない」で人を裁く自粛警察。偏見や固定概念に凝り固まった人々。違いを認め合えば互いに補い合えるし、一緒に生きるからこそ多様性が広がるのに。そんな社会の中で、私は神さまへの礼拝によってあらゆる相違を乗り越え、共に生きる教会を目指したいのです。それこそ、「主の家に行こう、と人々が言ったとき」、大喜びしたいのです。そんなヴィジョンを122編に見出しています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに、わたしは教会の目指す姿を見出します。現代社会が人と人を分断するのであれば、私たちは神さまの平和な御国を体現すべく、「共に礼拝し、共に生きる教会」でありたいです。教会はどうぞ私たちに、あなたの平和、あなたの御国を少しずつでも体現させてください。久留米教会があらゆる人々を繋ぎ、共に生き始める教会として、さらに用いられていきますように。私たちの平和の君なる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

19日(土) 詩編123編1-4節
一言メッセージ:123編は神殿に巡礼する貧しい人々の歌です。おそらく、具体的な状況はネヘミヤ記5章と考えられます。当時のイスラエルは、バビロン捕囚から解放され、ペルシャ帝国から許可を得た監督ネヘミヤや祭司エズラの指導の下、民衆が第二神殿を建設した後です。少しずつ暮らしが安定する中で、経済的に裕福な者と貧しい者とが分かれてきました。貧しい人々が食べることができず、子どもたちを奴隷として売ったり、田畑や家を抵当に取られたり、と苦しんでいます。貧しい民は監督ネヘミヤに訴えます。123編はそんな民の悲痛な詩です。
では、彼らの訴えはその後、どうなったか。ネヘミヤ記5章を読み進めますと、ネヘミヤは彼らの言葉を聞き、強く憤り、貴族や役人たちを批判し、民の負債を帳消しにし、同胞を奴隷として売ることを禁じます。さらに、祭司を呼び、その約束を守らない者への厳しい罰も規定しました。民の訴えが社会の変革を起こしたのです。
  民がネヘミヤに訴えた叫びを見ながら、私は彼らの言葉の根底に深い信仰を見出します。ネヘミヤ5.5で貧しい民はこう訴えます。「同胞も私たちも同じ人間だ。」それは、神さまの前に皆が同じ人間だ、という深い信仰に基づく叫びです。人間は誰しも、経済的格差や社会的地位は関係なく、皆が神さまに創造され、愛された一人ひとりなのです。この神さまへの信仰に立つからこそ、彼らは自分たちと子どもたちの命と尊厳を訴えていったのです。
  この理解は今の時代にも改めて強調されねばならないです。まして今の日本において、私たちは奴隷でなく主権者と明記されているのですから、私たちは堂々と訴えて良いのです。逆に沈黙は同調と理解されてしまいます。今、私たちが訴え守るのは、子どもたち、孫たちの未来のためでもあるのです。123編は私たちへのエールですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに励まされます。あなたは私たちを奴隷として創造されたのでなく、あなたの御前に誰もが愛され、祝福をいただき、共に生きていくための存在として創造されました。123編の詩人たちはあなたへの信仰に立って、「私たちは皆同じ人間だ」と訴え出ました。神さま、その行動は今の私たちの社会でも必要です。私たちは憲法によって国の主権者と定められながら、その実、政治によって奴隷同然に扱われる者も出てきました。神さま、どうか今、私たちがあなたへの信仰に立ち、「否は否」と訴えることができますように。私たち自身のためにも、子どもたち、孫たちの未来のためにも、声を上げる者とならせてください。あなたの励ましと伴い、困難な未来をも切り拓かれる御業に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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