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2020-09

8月23~29日のみことば - 2020.08.24 Mon

今週も毎日のみことばをまとめて掲載します。
皆さんの毎日がみ言葉によって支えられますように。

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


23日(日) 詩編119編33-40節
一言メッセージ:今朝は33-40節のみことばです。神さまに誠実な生き方を願う詩人の歌です。注目したいのは36-37節です。詩人は「不当な利益」を求めません。いつの時代も、人は「利益」を求めますが、時として、不当な利益は「もっと、もっと」との際限ない欲を湧きおこらせ、言い訳しながら、他者を倒してでも奪おうと搾取を生み出し、人々の中に敵意と憎しみを生み出しました。その際たるものが戦争です。詩人はそういった人間の欲を冷静に分析して、37節で「むなしいもの」と表現しながら、「不当な利益にではなく、あなた(神さま)の定めに心を傾けるようにしてください」と願います。詩人は自分が本当に喜びと感謝と希望を持って生きていくために、「利益」によって人生を狂わされたくないのです。敵意と対立でなく、愛をもって笑いながら生きていける、そんな人生を願うのです。だからこそ、詩人は神さまに目を留め続けたいと願います。ここには、人生のヒントがありますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。「平和を覚える月間」を歩む中で、私たちは大事なヒントを得ました。それは、いかに欲を抑えて生きるか、です。人は弱く、欲に振り回されると人生が狂います。「共に生きる社会」でなく、「自分のための社会」を願ってしまうのです。でも、そんな人の弱さを退けるのが、あなたへの信仰です。あなたを信じて生きる時、わたしたちはあなたによって与えられているものに感謝し、足りぬものは祈って期待し、誰かのものを奪うのでなく分かち合うことの喜びを見いだします。神さま、詩人と同じく私たちもあなたに目を向けて生きることを願います。どうぞ、私たちに日々、信仰を強く与えてください。私にいつも伴ってくださるイエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン。

24日(月) 詩編119編41-48節
一言メッセージ:41-48節の冒頭文字はヘブライ語のワウですが、ワウで始まる言葉は「そして」とか「しかし」とか「だから」といった接続詞ウェしかありません。だから、この部分は日本語では全く訳出されていませんが、正確に訳すと「だから主よ」とか「そしてわたしは」と書かれています。詩人は頭ひねりながら41-48節を書いたのでしょうね。
  41-48節は詩人が権力者(46節「王」)の前で神さまのことばを取り次ぐ状況です。具体的に言えば、王本人の前で詩人は王を批判するのです。神さまの御心とは言え、私たちは人と揉めたくないものです。でも詩人は46節で「神さまの定めを告げること」に躊躇しません。何故か。それは42節、彼は「みことばに拠り頼んでいる」からです。神学者の月本昭男さんの訳では「わたしはあなたのことばに信頼しました」とあります。詩人は、たとえ王から敵対されても、神さまのお約束を信じたならば必ずすべてが整えられると信じて、王の前でみことばを告げているのです。
  牧師であった祖父が生前、こんなことを言いました。「“しっている”と“している”は違う」。含蓄ある言葉です。知っていても、信じていても、そのように生きているかどうかはまた別。私たちは今、みことばに信頼して生きているでしょうか?神さまの救いの約束、平和の宣言を必ず起こることとして、期待して私たちも生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩人は強い存在の前でもあなたへの信仰に立つ生き方、周囲の声にひるまずに真理を告げることを示しました。それは、あなたのみことばに信頼していたからです。私たちもまたあなたを信じています。どうぞ、あなたのみことばを知っているで終わらず、実践するもの、みことばに従って生きる者であれますように。私たちは詩人ほどに強くはありませんが、福音の一端でも実行できる者となれますように。救い主、平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

25日(火) 詩編119編49-56節
一言メッセージ:原文のニュアンスを大事に訳出した岩波書店出版の聖書で見ますと、49-50節は「思い起こしてください、あなたの僕へのことばを。あなたが私に希望を持たせたのですから。これが、わが惨めさの中での私への励まし、あなたのことばが私を生かすのだから」と訳されています。今までのように「神さまを信じ抜きます」という決意だけでなく、「あなたが私に希望を持たせたんですよ、あなたのことばが私を生かしているのですからね」と念押しするのです。
  ちょっと自分のことを書こうと思います。私は2001年に就職が決まらないままが大学を卒業し、フリーターをしながら就職活動をしていました。そんな4月末のことです。東京で働き始めた友人のアパートに泊まり込みながら、就職活動させてもらえることになりました。その期間、悲しいほどに就職活動はうまくいかないのに、ハンセン病原告団との出会いや、無神論者の方と夜通し議論しながら自分の信仰を伝えきれなかったこと、など自分のそれまでの22年をひっくり返すような出来事には多々遭遇しました。そんな中で私は悩み始めたのです。「私はもう一度、神さまについて学びたいんじゃないか。」でもそんな思いを打ち消すため、一生懸命、神学部に行けない理由を探しました。「弟や妹はまだ学生。自分は大学を卒業させてもらったのだから、これ以上、親に負担をかけちゃいけない。本当に神学を学びたいならば、就職してお金を貯めた後でも、仕事を引退した後からでもいいじゃないか。」でも不思議なことに、私がどれだけ否定しても、「もしかしたら、今神さまが『わたしに従いなさい』と私を呼ばれているのじゃないか」との考えが膨らんでいくのです。数か月、徹底的に自問しました。けれど答えは出ない。そこで最後に私はこう祈りました。「どれだけ献身の思いを否定しても、神さまに呼ばれているように思えてならない。じゃあ神さま、あなたに任せます。もしあなたが私を招いたのであれば生涯、牧師をします。でも、もし献身が僕の勘違いだったら、ちゃんと卒業後に仕事に就かせてください。」こう開き直って、私は献身したのです。神学部で5年学び、2007年から14年、久留米教会で牧師を続けられています。19年前のあの決断は間違っていませんでした。そりゃ苦労は山ほどありますが、後悔はないです。今でもあの開き直りは私の根底にあります。「神さま、あなたが私に希望をもたせたのですからね!あなたのことばが私を生かしておられるのですよ!そこんところご理解いただいた上で、ひとつよろしく!」って(笑)。きっと神さまは笑いながら「分かっとる」と言っておられるでしょう。
信仰ってそれでいいんじゃないかと思うのです。あれこれ先までは分からない。でも、「神さま、信頼してますよ」と祈って、神さまに委ねたらいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私自身の過去を思い起こさせました。19年前、悩みに悩んで献身を決意した時の祈りに、あなたは誠実に応え続けてくださっています。今、私は確信します。苦労や葛藤や悩みの分だけ、あなたの祝福は深く、強く、確かです。神さま、どうぞ52節で詩人が歌ったように、私たち一人ひとりに、「永遠にあなたの御心を現わし、力づけ続けてください。」主なる神さまに祈ります。アーメン。

26日(水) 詩編119編57-64節
一言メッセージ:57-64節で詩人は、神さまに憐れみを求めます。敵が彼を追い詰めようとしているからです(61節)。敵の誘惑は詩人の心を揺さぶり、彼は必死に抵抗しています。厳しい状況のはずですが、詩人はそんな自分の現状を64節「この地は主の慈しみに満ちている」と語りました。課題があり、困難があり、痛みがあっても、彼は自分の境遇を「慈しみ(ヘブライ語でヘセド)」と表現するのです。ヘセドの意味は「真実や正義や公正を含んだ慈しみ」です。言うなれば、詩人はどれだけ厳しい状況に居ても、神さまの正しいご判断がこの世界に満ち溢れているし、自分はちゃんと神さまの目に留められているから大丈夫だと確信し、神さまを自分の生きる支えと理解しているのです。
今週も半分が過ぎようとしています。今、私たちはどんな気持ちですか?「社会は理不尽だ。私は苦しんでばかりだ」と嘆きますか。それとも詩人のように「課題もあるけど大丈夫。神さまの慈愛が満ち溢れている」とワクワクするのでしょうか。後者でありたいですね。そのためにも、神さまへの信頼を強めましょう。今朝も「神さま、どうぞよろしく」と祈って一日を始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩も私たちにいろいろと考えさせます。私たちは時に、自分の抱えた課題にいっぱいいっぱいになり過ぎて、「なんでこんな理不尽がまかり通るんだ。なんでこんなに苦しい思いをせにゃならんのか」と憤っています。でも詩人は「大丈夫、この世界は神さまの慈愛に満ちている」と語りました。だからこそ、詩人は希望を見失わずに生きていました。神さま、私たちもそうありたいと思います。そのために、あなたが傍にいて下さることをいつも確信していられますように。今日も一日を祈って始めます。どうぞ、あなたの慈愛をそこかしこに見出せる一日となりますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

27日(木) 詩編119編65-72節
一言メッセージ:キリスト教はよく「赦しの宗教」と言われます。それは、キリスト教が徹底的に「人は罪を犯すが、神さまはそんな人間に悔い改めとやり直しを与えてくださる」と信じているからです。今朝の箇所もそうです。原文のニュアンスを訳出した岩波書店が出版した聖書では「善きことをあなたは行った、あなたの僕に。ヤハウェよ、あなたの言葉にしたがって」とあります。では、その「善きこと」とは何でしょうか。それは67節、つまり失敗の経験です。詩人は以前、69節にある「傲慢な者の偽り」に惑わされ、手痛い失敗をしています。でも、詩人は神さまによって軌道修正され、助けられる経験をしました。だから68節で「あなたは善なる方、すべてを善とする方」と悟ったのです。キリスト教は赦しの宗教です。その赦しとは、過去を水に流して無くすのでなく、その過ちを神さまと自分だけが覚えていて、だからもう二度と同じ過ちに陥らないように悟り、再度やり直せることです。私たちは失敗や後悔を抱えても、神さまによって再度立ち上がれるし、神さまへの感謝に生かされる。私たちは神さまによって今日も導かれて生きるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが善なる方と分かち合いました。人間は罪を犯しますし、後悔を抱えて生きています。多くの人は、その罪や後悔を隠し、忘れようとして生きています。でも神さま、あなたは私たちの罪を共に受け止めてくださり、そこから再度やり直しを与えてくださいました。だから神さま、私たちは許された感謝の記憶として、自分たちの過ちを記憶します。罪人に寄り添ってくださる救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

28日(金) 詩編119編73-80節
一言メッセージ:73-81節はとても興味深い箇所です。詩人は78節にあるように、彼を「偽りによって迷わせる傲慢な者」がいることを語っていますが、同時に、75節ではその苦しみを「わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえ」と記しているのです。敵が私を苦しめているのに、それは神さまのまことのゆえ、とは一見、矛盾しているようです。でも、こう理解してみましょう。「わたしは偽りを語る人によって惑わされて、神さまの御心から離れて過ちを犯してしまった。神さまは全部を知っていたけれど、わたしが過ちに気づいて教訓にするため、過ちを黙認された。」それは神さまが私たちを鍛えるため、なのかもしれません。
  ヘブライ人への手紙12章5-6節にこんなみことばがあります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはならない。主から懲らしめられても力を落としてはならない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
  今週も一週間、過ごしてきました。たくさんの仕事や心配事を抱えている方々もあるでしょう。でも、ちょっとホッとしましょう。神さまはちゃんと私たちに目を留めてくださる。時に苦労や過ちを放置することもあるが、それは私たちを鍛えるための一時的なもの。必要な時にはちゃんと助け、導いてくださる。私たちは今、どれだけつらくても神さまの御手の中に生きているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、わたしたちに、試練の中でも神さまの意志が働いていることを教えてくれます。神さまが私を鍛えるために試練を与えられることもあるのでしょう。私たちにとってはしんどいですし、「これのどこか鍛えるためだ!」と青筋立てて怒りたくなることもあります。でも、私たちにとってどれだけ辛くても、そこはあなたの御手の中であると信じます。どうぞ、私たちが神さまへの信仰から反れることないくらいで、あなたの御心に気づくことができますように。救い主イエスさまの御名により祈ります。アーメン。

29日(土) 詩編119編81-88節
一言メッセージ:昨日は、「試練にも神さまの御心が働いている」と分かち合いましたが、今朝のみことばでは、詩人はより緊迫して、「神さま、あなたはいつ助けてくださいますか?」と問うています。83節の「煙にすすけた革袋」は煙にいぶされて油分がとび、弾力を失った革の袋です。破れそうなボロボロの状態です。詩人は「なんで、神さまの御心に反する人々があんなに傍若無人に振舞っているのに、神さまは彼らを罰しないのですか?」と疑問を持ち、今にも心折れそうなのです。
普段、私たちは詩人の気持ちで詩を味わいますが、今朝は逆に、詩人を苦しめる者の立場で詩を読んでみたいと思います。というのも、8月、私たちは平和を覚える月間として過ごしており、私は日本人のクリスチャンの一人として、加害者としての視点を思い起こす必要があると思うからです。
  数年前のことです。平和に関する宣教を作っている時、ふと疑問が起こりました。「戦中、日本の教会は日本軍のアジア侵略を支持し、神さまへの信仰と天皇崇拝を両立すると主張し、とんでもない罪を犯した。では、その時イエスさまはどこにいて、日本の教会をどう見ていたのだろうか。」しばらく考え続けた後、私はこう思い至りました。「日本の教会がアジア侵略を正当化し、軍の侵略が起こっていた時、イエスさまはきっと、アジア諸国で踏みにじられ、苦しめられた人々、殺害された人々の傍らで涙を流しておられたのだろう。『わたしが愛し、十字架で救った命同士が、殺し殺されていく。奪われていく』と涙しながら、亡骸を抱き、迫害される人々をかばうようにその背に隠しておられたのではないか」と。そう思った時、私は日本の教会の戦争責任を痛感したのです。
  今日の詩と合わせて考えた時、私は思うのです。詩人は苦しい状況を訴え続けました。彼は神さまへの信仰を棄てようとはしない。私たちは彼に神さまの救いが与えられるように願います。その時、私たちは詩人の側にいると思っています。でも、ちゃんと神さまの御心を知ろうとしない時、私たちは詩人を苦しめる者の側にいてしまうのです。正に、戦時中の日本の教会がアジア諸国に苦しみを与えてしまったように、です。
  私たちは今、神さまの平和を心から願います。戦争の被害者であり、同時に加害者であった日本の教会の一員として、今、本当に平和を実現せねばならないと思わされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、詩人の苦しみの訴えを通して、先の戦争のことを思い返しました。神さま、先の戦争において、私たちの国はやはり、とんでもない過ちを犯しました。敵味方という区別などなく、ただあなたが愛し、救ってくださった命を、自分たちの都合や誤った理解によって苦しめ、奪ってしまいました。戦後75年、私たちは戦争の悲惨さを体験せずに過ごしてきました。でも、だからといって、その体験を歴史の出来事に風化させてはならないことを思います。いや、75年経った今だからこそ、直接体験された方が少なくなり、戦後の混乱の記憶も社会全体の中で薄れていく今だからこそ、私たち一人ひとりを、被害者であり加害者であるとの歴史に立って、平和を実現する者とならせてください。平和の君なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

※8月30日(月)-9月4日(金)は牧師・主事の夏期休暇になりますので、みことばメールも休ませていただきます。


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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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