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2020-09

平和を覚える +8月9日~15日のみことば - 2020.08.10 Mon

8月も中旬日差し掛かり、暑い毎日が続いています。
皆さん体調は大丈夫でしょうか。お互い健康に過ごせるようお祈りします。

わたしたち久留米キリスト教会では毎年8月は「平和を覚える月間」として毎週の礼拝をささげています。今年も毎週の礼拝で平和メッセージを聴き、平和を祈りながら過ごしています。
特に先日の日曜日は8月9日。
長崎に原爆が落とされた日です。
2年前に天に召されたわたしたちの教会の協力牧師中島文昭先生は、75年前あの原爆を体験した方でした。先生は、本当は思い出したくないその記憶を生前私たちに一生懸命伝えてくださいました。
先日の日曜日の礼拝メッセージでは私たちが受け取った先生の記憶をもう一度思い起こしながら平和への祈りを新たにしました。
中島先生のメッセージは教会ホームページのメッセージ配信ページの一番下から今も聞くことができます。ぜひ、お聞きになってください。(⇒メッセージページはこちら
明日8月11日は久留米空襲の日。そして15日は敗戦の日。
この日にもう一度戦争の悲惨さ、恐ろしさ、愚かさを心に刻み、平和の尊さ、暖かさ、新しさに気付かされ、「平和をつくり出す者は幸いである」とのイエス・キリストの言葉に立っていく決意を新たにしたいと思います。


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


9日(日) イザヤ書57章18-19節
一言メッセージ: 今朝8月9日は75年目の長崎の日です。11:02に長崎上空に投下された原子力爆弾によって、その年の12月までに74,000人の市民が命を奪われました。当時の長崎市民は24万人といわれますから、4人に1人以上が亡くなったことになります。市内一帯は爆圧とその後の火事によって壊滅しました。私たちにとって非常に身近に感じるのは、あの日の長崎に、2年前に亡くなった中島文昭協力牧師や吉田晃児先生がおられたからです。今朝、私たちは長崎の悲劇を思い起こしながら一日を始めます。
  原爆から一月後の長崎を、アメリカの従軍カメラマン、ジョー・オダネルさんはこっそりと撮影しました。その写真が1995年、『トランクの中の日本』という写真集として発行されています。写真集の中に「焼き場に立つ少年」という写真があります。遺体焼き場にて亡くなった弟を背負った少年が直立不動で順番を待つ写真です。弟は2歳にも満たないそうで、兄は全ての感情を見せず、涙を流さず、弟を見送ったそうです。その姿を見ながら、オダネルさんは、戦争がこんな幼い子どもたちにまで及んでいることを感じたそうです。(以下のURLをクリックすると写真が見れます。https://mainichi.jp/articles/20190826/k00/00m/040/144000c)今のローマ法王のフランシスコ2世はこの写真を常に携帯しながら、世界から核が廃絶されるべく、訴えを続けています。
戦争を正当化する人々は、建前上の理由をこねくりまわして「戦争せざるを得ない」と言い募ります。けれど、武器で平和は作れない。暴力は次の敵意、憎しみを生み出すから。
今朝はイザヤ書のみことばを読んで祈りましょう。「わたし(神さま)は彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは75年目の長崎の日を迎えました。75年前のあの日、長崎に投下された原爆は74,000人の命を奪い、生き残った方々にも生涯に及ぶ心身の傷を負わせました。神さま、戦後75年経ちますが、未だ世界に平和は実現していません。神さま、いかなる理由があろうと、かつての道に戻ることないように、どうか世界をお守りください。平和の君なるイエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン。

10日(月) 詩編112編1-10節
一言メッセージ:今朝の112編はヘブライ語のアルファベット詩です。その内容は「神さまに従う人はこんなにも幸い」です。ある意味で、理想的な義人(ただしい人)の姿ですが、この詩を読みながら、皆さんはどこに目を惹かれるでしょうか。それぞれに目が惹かれるところは、ご自分が常日頃から心がけているところや、「こうありたい」と願う部分、または自分の弱点と感じている部分なのではないでしょうか。
わたしは6-7節に目が留まります。ここは「揺らがない」こと、特に周囲の人々の批評に動じない義人が描かれます。義人が動揺しないのは、「その心は、固く主に信頼している」からです。彼は、人間的に「こうしたい、こっちの方が楽だ」という判断の仕方をするのでなく、「神さまが願われるの何か、神さまは私に何を示されているのか」を考えて生きているのです。そうやって神さまの御心を求めて生きているからこそ、たとえ周囲に誤解され、叩かれたとしても動じない。後には神さまがちゃんと状況を整えてくださるし、神さまの整えをいただくならば、人の批評も必ずひっくり返っていく。だから、詩人は周囲の声に動じずに、御心に従い続けるのです。
  自分の経験を振り返ってみてもそう思います。一時的に「○○すべきだ」「△△せねばならない」と声高に語っていた人々が、自分の見えていない事柄が明らかになった途端、自分の誤解や偏見に気づいた途端、黙り込む状況を何度も見てきました。そうやって振り返る時、私たちが選び取る最善は「固く主に信頼し、動じないこと」だと確信させられるのです。
今、私たちは神さまに固く立ちましょう。世間の声や風潮、声高に叫ばれる正義感、でもそこに神さまの御心はあるか。それが私たちの判断基準です。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。112編で歌われる義人は、いつもあなたに信頼するから動じることなく、御心を行い続ける者でした。神さま、今わたしたちはあなたの御心に立つことが最善であることを確認します。社会はいつも目先の事柄に右往左往し、また上手に本音を隠した人々の建前の言葉に踊らされながら、あなたの御心から目を逸らせようとしてきます。平和についてさえ「平和のために力を振るう」という危うい論理が声高に叫ばれます。でも神さま、あなたが示される平和は暴力でなく愛によって実現し、排除でなく共生によって形作られます。神さま、どうぞ私たちが今、あなたの御心に従って生きることができますように。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

11日(火) エレミヤ書8章10節後半-13節
一言メッセージ:75年前の今日8月11日は久留米空襲の日です。今、わたしはNさんにいただいた『進駐軍が写したフクオカ戦後写真集』という本を見ています。その中には久留米空襲の証言と空襲2ヵ月後の久留米の町が写されています。六角堂の周りは旭屋デパート(旧井筒屋、現シティプラザ)だけを残し、あとは一面焼け野原です。証言者の言葉では、手に荷物と子どもを引っ張り、背には幼い子どもを背負って逃げ惑う母の姿や、亡くなった母娘に取りすがって泣く人々の光景が書かれています。米軍指揮官の話では、B29とB38が計150機で焼夷弾を落としたとのことで、その被害は市の1/4が消失、死者は228名と記されています。その228名にそれぞれに家族がいて、仕事や学校があって、毎日の生活があったし、いつ誰それと会うといった約束だってあったでしょう。被害数字の背後には、一人ひとりの人生があったのです。
  筑後地区在住の小説家であり精神科医である帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんの『逃亡』という小説を読みました。戦中に特別高等警察として香港で勤務していた主人公が戦後、ひそかに帰国し、家族で暮らしていたのに、戦犯として追われ逃亡していく物語です。その物語の中で主人公は自問します。確かに彼が特高としてスパイ容疑で4名を処刑した。けれど、それは戦争という特殊状況下であり、戦勝国も同じことをしてきたのに、また日本軍のお偉いさんたちは兵士に忖度させて非道な行為をやらせたのに戦後は一切、知らぬ存ぜぬで部下に罪を擦りつける。そんな憤りを何度も何度も繰り返しながら、戦争がいかに人を狂わせていたかを淡々と描くのです。読み終えて驚きましたが、この主人公のモデルは帚木さんのお父さんなのだそうです。彼は自分の父親の戦後の葛藤を思い起こしながら、この小説を書いたのです。
  エレミヤ書を見ますと、民の指導者であった預言者や祭司が「平和でないのに、平和、平和」と人々を誤魔化し、イスラエルの状況を取り返しのつかない事態まで導いてしまったことを記しています。民も、耳ざわりのよい言葉に満足し、事態をちゃんと見極めなかったのです。見極める力、それが戦争を止める1つの力だと思わされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は久留米空襲の日です。75年前のあの日、私たちの町は焼き払われ、多くの命が奪われました。戦争は人を狂わせ、自己正義のために他人に暴力を振るうことを正当化します。奪われた一人ひとりの背後でどれほど多くの悲しみと憎しみが生み出されるかも考えずに、何より、奪われる命のひとつひとつがあなたによって祝福されて生まれた命であるのに。神さま、私たちは今、何度も何度も「戦争は人を狂わせる」との事実を見定めます。神さま、私たちにはどんな建前にも騙されずに見極める力を与え、平和の思いを新たにさせてください。今日、空襲を思い起こし悲しむ人々にどうか慰めを与えてください。平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

12日(水) 詩編113編1-9節
一言メッセージ:113編から118編までは「エジプトでのハレルヤ歌集」と呼ばれる箇所です。ユダヤの人々は今も年に一度、出エジプトの出来事を記念するため「過越祭」を行いますが、その前日の過越の食事の前に113-114編を、食後に115-118編までを読むのだそうです。
  そんな113編ですが、この詩はとても興味深いのです。1節で神さまを賛美するように呼びかけられている「主の僕ら」とは具体的に誰を指すかと言えば、3-4節を見ると全世界の人々です。神さまの前に全ての人々が神さまの僕として共に礼拝することが詠われているのです。
  彼らが賛美する神さまとはどんな方か。注目したいのは5節後半-6節です。神さまが「御座を高く置き、低く降って」という両極端の言葉ですが、ヘブライ語文法で見るとヒフィル形と呼ばれる形で記されています。その意味合いは内的使役(自分で努力して〇〇する)です。つまり、神さまは極めて意識的に自らを高く示すだけでなく、低くあろうとされる神さまです。
神さまが自らを低くするのは何故か。それは、弱い民に寄り添うためです。7節の「弱い者(ヘブライ語でダル)」は孤児や寡婦、老人など、あらゆる社会的に弱い立場にされた人々であり、「乏しい人(エブヨーン)」は社会的・経済的な支えを失った貧しい人々です。9節の「子の無い女を家に返し」は、子どもが生まれないために離縁されて家を追い出される女性たちで、神さまはそうやって苦しむ民に寄り添う方と歌われています。それも、全世界の民に対して。
ここに平和の大事なヒントがあると思うのです。私たちはすぐに国や出身地といった所属で人を分けようとします。でも神さまは、所属で私たちを分けるのでなく、一人ひとりの状況に応じて助けの御手を差し伸べようとしてくださる。そこに分断された人々を再度繋ぎ合わせるヒントがあると思うのです。今朝はこれ以上には話しません。だって113編は来週の宣教の箇所ですから(笑)。ここから説教がどう展開されるか、日曜日まで、ぜひ考えてみてくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは私たちにとって素晴らしい福音です。非常に偉大なあなたが、この必死に今を生きている私たちの傍らに降ってくださり、私たちと共に生きてくださるお方であると再確認させていただきました。神さま、今、あなたの平和を来たらせてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

13日(木) 詩編114編1-8節
一言メッセージ:114編も出エジプトを記念する詩です。私がとても面白いなぁと思うのは、「水」がいろいろな形で表現されているところです。114編の3節で描かれる「海」や「ヨルダンの流れ」(=川)」は、人の手に負えず、神さまに敵対する勢力として描かれています。一方、8節の「岩からみなぎる水」や「泉」は人の命を生かし、育むものです。同じ水なのに、描かれ方が違う。その違いは何でしょう。それは、神さまによる秩序です。神さまによって秩序を与えられる時、水は私たちを生かし、守り、育むものとなるのです。
  昨年12月に亡くなった中村哲医師も、2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつの現実を前に、「百の診療所より一本の用水路」と考え、川を流れる雪解け水を引き込むマルワリード水路建設を始めました。今、その水路によって砂漠化した大地に緑をよみがえり、65万人の人々が難民から帰農しています。中村さんはクリスチャンですが、アフガニスタンの人々の多くがイスラムであることもあり、自分の信仰を前面に出すことはされませんでした。でも彼が大事にした言葉は「天、共にあり」です。神さまが共にいてくださるから、神さまの御心と秩序に実直に生きた方でした。
  水を思って114編を読む時、わたしは、秩序ある水は当たり前ではなく、神さまの恵みであると思わされます。同時に、わたしたちにとっての日常の「当たり前」にも神さまの祝福がいっぱいに与えられているのだと気付かされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝114編を通して、私たちは、普段「当たり前」と思っていた日常にどれほどあなたの祝福と恵みがあったかを思い起こさせられました。あなたは私たちを生かすべく、世界に秩序を与えてくださいました。けれど、私たちはあなたの御心に気づかず、時に自分の思惑や利に走り、あなたの創造の御業を破壊し、蔑ろにしてきたように思います。神さま、あなたの御業は日々の積み重ねにあるのですね。神さま、私たちは毎日、あなたへの感謝と期待をもって生きる者となりたいです。どうぞ、「当たり前」と傲慢になるのでなく、あなたの恵みに気づいて生きる者とならせてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

14日(金) 詩編115編1-18節
一言メッセージ:115編はしみじみと「そうだなぁ」と納得しながら読める詩です。今朝は、かたい文章でなく、詩人の意図を汲みながら意訳します。
詩人は1節で「神さま、自分のことを一番に考える生き方はもうよかですけん、あなたのことを一番に考えて生きる者にしてください」と歌います。私たちは自分たちの力や名誉、功績を誇りたいものですが、詩人は「考えてみらんね、そんなもん、自己満足でしかなか」と考えています。周囲の人たちは詩人に尋ねます。2-3節「神さまとか信じとらすけど、それが何の得になるとや?」。詩人は答えるのです。4-8節「あんたたちゃ、金やら人気やら欲しがりよるけど、欲が強すぎるけん、時々、それに振り回されよろうが。そげな虚像にしがみ付くとか、自分らも、中身スカスカになるとやないか?」だから、詩人は9節以降、神さまを信じ、神さまに従う生き方で生きることを勧めるのです。17-18節は詩人の勧めです。「神さまを信じるとは『古臭か~』て言う人らがおろうもん。なんも分かっとらん。神さまば信じるとは、今うちらが、生きとるけんたい。あんたも、本当に嬉しか人生を生きていきたかとやったら、生きとる今こそ神さまば信じるとたい。」
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、私たちの社会は時に中身のない幻想を作り出し、人を翻弄します。例えば、数年前まで「勝ち組」だの「負け組」だの言って、人を評価するような風潮が流行りました。でも考えてみれば、幸せなんて周囲に決めるものではありません。私たち一人ひとりに幸せと思うものがあるのです。なのに私たちは周囲が熱狂するから、なんだかわけもわからず、惑わされて、社会の幻想を追うことがあります。神さま、私たちはそんな生き方に振り回されないように、いつも、あなたにある命を喜び、あなたにある幸せをいっぱいに感じられるように、あなたを信じ、従います。どうぞ、今、私たちに信仰を強く増し加えてください。戦後75年、あなたの平和と多様性に満ちた世界を実現していけますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

15日(土) マタイによる福音書5章9節
一言メッセージ:今日は75年目の敗戦記念日です。あの戦争は国内外で多大な死者を出し、あらゆる地域の生活を破壊し、ようやく終わりました。あれから75年、今私たちは何を考える時でしょう。
  永井隆さんという医師がいました。カトリックの信者で、長崎で被爆。妻を失い、幼い2人の子どもを抱えながら医療活動に奔走し、翌年には本人に白血病が発症。1950年に44歳で亡くなります。彼は晩年、如己堂という一坪の小屋にて寝たきりになりながら、執筆を続けました。彼の遺した著書の1つ『平和塔』の中で「平和の祈り」という短い文章があります。抜粋して紹介します。
  「戦争をしている国々は、それぞれ自分の国が正しく、相手の悪をこらしめるために戦争をしているのだ、と宣言し、必ず、『平和のための戦争である!』といって、神に自国の勝利を祈るのが常であった。相戦う両方の国々が、同じことをいい、同じ勝利を神に祈り求めた。神はいったい、どちらの祈りを聞き届けたらよいのだろう?戦争の場合、百パーセント正しい側は無い、また百パーセント悪い側も無い。…(略)…戦争というものは『互いに相愛せよ』との人間のおきてに背いて、互いに憎み合い、集団殺人をやって、万歳を叫ぶ荒仕事だ。『正義のいくさ』という言葉の中にすでに矛盾がある。同じように『平和のための戦争』という言葉も、それ自身が矛盾した言葉である。…(略)…そんな我利我利の祈りに、神さまが耳を傾けるはずがない。自分にだけ都合のいいことを願い求めるのは、真の祈りにならない。祈りとは、神のために都合のいいことを願い求めるのだ。神のためになることをするのに力を添えて下さいと祈るのである。…(略)…闘争だの戦争だのという騒ぎは、つまり、おくびょう者がやるのである。『愛』の人は、すなわち『勇』の人であり、勇の人は武装しない。武装しない人は戦わない。つまり『平和』の人である。」
  今、この文章を読みながら、改めて平和とは武力でなく、愛によって実現すべきものなのだ、と教えられます。そして改めて、もう二度と戦争をしないと決意させられます。きっとその決意こそが、あの戦争の犠牲者の方々に対して、今を生きる私たちが行える追悼なのだと思うのです。
  マタイ5.9でイエスさまは「平和を実現する人々は幸い」と話されました。平和を実現するのは、カリスマ的英雄でなく、私たちのような民衆なのです。今、私たちが平和を実現し始めるのです。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは75年目の敗戦記念日を迎えました。今朝は永井隆博士の文章を皆さんと読みました。そこに書かれていたのは、戦争の悲惨さを知った上で、心から平和を望み、いかに平和を実現するかを模索する民の姿でした。彼は敗戦翌年に白血病が発症し、4年後に亡くなりました。けれど、彼の遺した言葉は今、私たちの手元に届いています。己の欲のための平和でなく、神さま、あなたの平和を願うこと。それはとても大事なヒントです。神さま、どうかこの言葉をより多くの人と分かち合わせてください。私たち民衆はちっぽけな存在のように考えています。でもイエスさまはそんな民衆が平和を求める時、平和は実現していくとの示唆をくださいました。神さま、どうぞ私たちにあなたの平和の働きを、一端でも担わせてください。子どもたち、孫たちの未来に平和を遺すことができますように。戦後75年の誓いと共に、平和の君なるイエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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