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2020-08

7月5日~7月11日のみことば  - 2020.07.09 Thu

更新が遅れてすみません(>_<)

月曜日から降り続いた雨。各地に大きな被害をもたらしています。
久留米でも記録的な雨が降り、様々なとことから「久留米教会は大丈夫?」とご連絡いただきました。
幸い教会・幼児園ともに被害はありませんでした。
ですが、久留米市も広いので城島や三潴などの地域では大きな被害が出ているようです。
また、朝倉やお隣大分県の日田などでは甚大な被害が出ています。
昨日は久しぶりの晴れ間が広がっていましたが、今日からまた雨予報。
長く続く雨で土砂災害の危険も増しています。

これ以上の被害がでませんように。また、被害に遭った方々のためにいのりつつ、教会としてどんな支援ができるか、考えていきたいと思っています。


***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


5日(土) 詩編78編1-21節
一言メッセージ: 詩編78編は詩人が後の世代のためにイスラエルの歴史を語り伝えようとする詩です。12節からは出エジプトの歴史を振り返りますが、詩人は4節で「子孫に隠さず」と言ったように、自分たちの先祖が奴隷であったエジプトから神さまによって救い出されたの旅の中ですら何度も何度も神さまに歯向かい、裏切ってきた事実を語り伝えます。人は都合の悪い事柄は隠したがりますが、詩人は罪もちゃんと告白するのです。何故なら、自分たちの罪を理解するからこそ、罪深い人間をそれでも愛し、救ってくださった神さまの御業を知るからです。だから詩人は78編を通して、自分たちの思惑を超えて神さまに従い続けることを呼びかけたのです。
  九大名誉教授で憲法学者の横田耕一さんという方がおられます。以前、筑後キリスト者平和の会の2.11集会に来られたこともある方です。クリスチャンではない方ですが、彼の著書『自民党改憲草案を読む』はキリスト教系出版社の新教出版社から出ています。それくらい、今の自民党改憲草案は危うい。話を戻しますが、横田さんはこの本の中でドキッとする指摘をしています。要約します。「民意重視は大変民主的なようだが、一方で、安易な民意を振り回すことは危うい。何故なら、民意はその時々の風潮でしかなく、そんな風潮が恒久の権利を侵害することは許されないからだ。」確かに、私たちの思考は時に易きに流れやすいのです。自分たちに都合の悪い事柄に目を背けがちです。その結果、歴史を見ると、民意という名のその時の風潮に流されて、戦争のような取り返しのつかない事態が陥った事実は数知れずです。詩人は後の世代が過ちを繰り返さないために、民族の罪を隠さずに伝え、何よりも神さまへの信仰を第一に守り続けるようにと語り伝えたのです。
  今朝は日曜日、私たちも神さまとしっかり向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝の主の日もわたしたちにみことばを与えてくださり、ありがとうございます。今朝わたしたちは78編を分かち合いました。人は弱く、自分たちの弱さや罪を隠しがちですが、詩人は後の世代が過ちを繰り返さないために先祖の罪と、そしてそんな罪深い民をも顧み、導き続けてくださった神さまへの信仰を示しました。神さま、今、私たちも同じ気持ちであなたの御前に集います。どうぞ、この社会も世界も私たち一人ひとりも易きに流されず、あなたの御心を模索し、堅実に従うことができますようにお導き下さい。今日も礼拝に集います。集えない方もネットで礼拝に参加してくださいますように。皆があなたの御前に集うことができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

6日(月) 詩編79編1-13節
一言メッセージ:79編はバビロニアによるエルサレム陥落と南王国滅亡を取り上げますが、興味深いことに、同じ出来事について2つの見方が描かれています。1-7節は、「イスラエルの惨状は、神さまを信じない異邦人が神さまを侮り、嘲っているようだ」という見方です。そこに見られるのは自分たちを被害者とする見方です。けれど8-11節は祖国滅亡を「神さまを蔑ろにした自分たちへの神さまの懲らしめ」とする理解です。同じ出来事を2つの見方で見る。矛盾かのようですが、私は「それが人間だ」と思うのです。例えば、相手と喧嘩したことを思い浮かべてください。周囲に「私が正しい」と訴えながら、一方で言わないけれど、ひそかに自分の過ちや罪を覚えていて胸にチクチク痛む、みたいな、相反する思いを抱えるじゃないですか。79編の詩人も同じなのです。自分を被害者と見ながら、でも自分の罪も認めている。人間は複雑だから悩むのですよね。
でも、悩み疲れた時、私はひとつの選び方をお薦めします。「えーい、十分悩んだ。あとは神さまが喜ばれる方を決断する。神さま、あとはよろしく!」と決断するのです。神さまに放り投げちゃうのです。大丈夫ですよ。私の経験上もそうですが、悩んで悩んで悩んだ後の「神さま、よろしく」との決断を神さまはちゃんと受け止め、整えてくださいますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編79編はとても不思議な詩でした。ひとつの出来事を前に、詩人が全然違うモノの見方をしています。それは矛盾するようですが、でも、それが私たち人間です。神さま、私たちは悩むのです。でもどうか悩んだ末に御心に従わせてください。人生の導き手なる神さまに期待して祈ります。アーメン。

7日(火) 詩編80編1-20節
一言メッセージ:79編が南王国滅亡の詩でしたが、今朝の80編は北王国滅亡の詩です。詩人は「神さま、どうして北王国を見捨てられたのですか?」と訴え続け、4節、8節、20節と三度にわたり、同じ懇願の言葉を重ねています。
  さて今朝は普段と違う観点、ヘブライ語の表記から80編の面白さを分かち合います。古代ユダヤ人は「聖書はむっちゃ大事!」と考え、書き写す時も絶対に間違わないように、たくさんのチェックの仕方を持っていました。例えば詩編は、使われるアルファベット数を数え上げ、その真ん中の文字は何編何節が正しいとチェックしたのです(決して暇とか言わないように)。実はそんな詩編の真ん中の文字が今朝80編14節の「森の」という言葉ヤアルの2つめの文字アインになります。だから、ヘブライ語聖書では「ここが真ん中ですよ」と示すために、このアインだけ半分浮き上がるように印刷されます。「中づりのアイン」と呼びますが、ここからさらに一工夫あるのです。
15節に注目しましょう。そこには「天から目を注いでご覧ください」との嘆願の言葉が出ています。ヘブライ語の「目」という言葉は、アルファベットと同じ「アイン」という呼び方です。そこでユダヤ人は、15節の願いと先ほどの「中づりのアイン」を重ねて、こう理解しました。「詩人は神さまに『天から目を注いで』と嘆願したが、その嘆願の前に既に、神さまは『宙づりのアイン』で詩人たちの状況に目(アイン)を注いでいた」と意味づけたのです。こじつけっぽいですが、何事も神さまと結び付けて考えたユダヤ人の柔軟でユーモラスで根強い信仰に感心します。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは80編の「宙づりのアイン」と15節の詩人の嘆願を重ね、神さまの目はいつもわたしたち人間の上に注がれていることを分かち合いました。私たちはユダヤの人々の柔軟でユーモラスで根強い信仰を教えられます。神さま、どうぞ私たちにも、苦難の中でもへこたれない柔軟さと、いつも余裕を見出せるユーモアと、何があってもあなたの私たちを結びつける根強い信仰をお与えください。一日の始まりにあなたの眼差しに期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

8日(水) 詩編81編1-17節
一言メッセージ:詩編81編も神さまの言葉が直接語られる珍しい詩の1つです。6-15節と17節に神さまの言葉が記されています。さて、そんな言葉の中で注目したいのは、8節で神さまがイスラエルの民を「試した」とあることです。具体的には出エジプトの旅の中で、9節にあるような「わたしに聞き従うか」です。残念ながらイスラエルの民は神さまを蔑ろにしたため、神さまは14-15節「わたしの民がわたしに聞き従い、わたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させたであろうに…」と嘆いたのです。
  神さまは時々、私たちを試します。それは鍛えるため、神さまに気づかせるためです(ヘブライ人への手紙12章5-6節参照)。例えば、アブラハムのイサク奉献の始まりは神さまがアブラハムを試みでした(創世記22章1節)。新約聖書でイエスさまは荒野で40日悪霊と対峙したのは「試みを受けるため」(マタイ4.1)でした。Ⅰコリント10章13節でパウロは「(神は)試練と共に逃れる道をも備えていてくださる」と記しましたが、この「逃れる道」はギリシア語でエクバシスと言い、正確な訳は「出口」です。「試練から逃げる逃げ道ではなく、試練の中で解決のために神さまが与えてくださっている出口がある」がパウロの意図でした。だけど私たちは願望が先走り、「神さまは私たちから苦しいことや悩みを遠ざけ、何でも安全、安心な“温室状態”を与えてくれる」とご利益宗教のように信仰を思い込むことがある。繰り返しますが、神さまは時に私たちを試すのです。
  でも同時に注目したいことは、「神さまは私たちを試みますが、鍛えるためであって切り捨てるためではない」ということです。今朝の箇所でも14-15節で「わたしに聞き従っていれば…」と言いながら、イスラエルの民に目を留め続けておられますもんね。今日は一日の始まりに、神さまの目と試みを意識して歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の81編はあなたによる試みの話でした。神さま、あなたは私たちに期待してくださるから鍛えよう、試みようとされるのでしょう。若干、時にしんどいですが、あなたの試みならば必ず解決もあるはずです。どうか私たちはあなたを信頼し、あなたの試みに応えることができますように。どうぞパウロが語った「出口(エクバシス)」を私たちにも体験させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

9日(木) 詩編82編1-8節
一言メッセージ:詩編82編は神さまの最後の審判のイメージを歌った詩です。2-4節は神さまの発言だろうと思われますが、6節は神さまなのか。陪席する人々の言葉なのか、分かりません。
  この詩を理解するために知って欲しいことは、当時、各国にはそれぞれの守護者たる神々がいると考えられていたことです。だから、国と国の戦争は神と神との争いと見られました。1節の「神々の間で裁きを行う」とは、神さまが他の神の存在を認めているという意味ではなく、イスラエルの周辺の強国に対して語り掛けた表現です。そこで神さまが強調しておられるのは、「弱い民を蔑ろにすることを認めない」ということです。それは神さまの御心の大前提です。神さまは人々の命や尊厳が踏みにじられることを認めないのです。そして周辺の国々が力を誇ることに対して、「しかし、あなたたちも人間でしかない(周辺国の神に対しては「所詮、人間のつくった偶像に過ぎない」の意)。皆、一斉に没落する」と断言されるのです。今朝の箇所はわたしたちに「神とはどなたか?」と尋ねてきます。
  追い詰められ、余裕を無くす時、私たちは目先のことに右往左往してしまいます。神さまがおられるのに、神さまより目の前の不安や焦りでいっぱいいっぱいになる。その結果、神さまそっちのけで自分たちの経験や常識の中だけで「もうだめだ」と結論付けてしまっていないでしょうか。82編は「それじゃだめ」と教えます。神さまがおられる。神さまが目を留めていてくださっている。だから、私たちはもっと神さまを信頼し、安心し、期待すればいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編82編であなたは、民の命や尊厳を踏みにじる国々や社会を叱責されました。あなたの御心は誰もが違いを認め合い、共に生きる社会と教えられます。神さま、今、私たちはその御心に基づく社会を望みます。あなたの御心に基づく社会を来たらせてください。いつも民の傍らにいてくださった救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

10日(金) 詩編83編1-19節
一言メッセージ:83編の詩人は、周囲の国々が結託して自分たちを攻めようとしていると怯えています。そんな歴史は実際にはありませんが、心情としてはとてもよく分かります。心身ともに疲れた時、私たちにネガティブな勘違いをしてしまうものですから。詩人もそういう状態です。でも、詩人はそんなピンチの中で神さまに期待するのです。詩の表現はユニークです。14節に出てくる「車の輪」とは、西部劇の映画に出てくる荒野をカラカラと回っている植物です。ある程度まで育つと植物の上部がぽっきり折れて風に吹かれてカラカラと吹き飛んでいく。詩人はそんな植物と近隣の敵国を重ね、「一時的に勢いがあっても、神さまの叱責にポッキリと折れて頭が落ちる(国が亡びる)」と見ています。その根拠は「だって神さまがおられるんだもの」です。
  「神さまがおられるんだもの」、それは私たちの信仰の最も基本の部分です。神さまがおられるから、私たちは結構ヘビーな課題を負い、試練を受けていても期待を失わない。神さまがおられるのだから、「今の状況は変わっていくさ」と希望が湧いて来る。さぁ、今日も新しい一日が始まります。「神さまがおられるんだもの」と祈って、初めてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝詩編83編を読みながら、「神さまがおられるんだもの」との希望をいただきました。あなたがおられる、その信仰に立つからこそ私たちはいつも前を向いて生きられます。たとえ自分たちでは太刀打ちできない事態にも、笑えない悲しみにも、嘆きばかりの苦しみにも、でもあなたがおられるとの信仰は私たちを立ち上がらせ、一歩を踏み出させます。神さま、どうぞ今日もあなたがおられるからの希望に生きる者としてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

11日(土) 詩編84編1-13節
一言メッセージ:84編は神殿に巡礼する(礼拝するために集う)ことを願う詩です。何だか久しぶりに嘆きでない詩に嬉しくなります(笑)
  さて、84編の詩人は様々な表現で神殿に集うこと、礼拝に集うことの幸いを歌います。幾つか注目したい箇所に目を留めてみましょう。
6節で詩人は「幸い」な人として「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人」と歌います。日本語で「道」は「生き方、信念」を意味しますが、ヘブライ語も同じです。詩人は「神さまを信じて勇気を得て、自分の生き方をしっかりと見出している人は本当に幸せ」と歌う。
8節で「彼ら(巡礼者)はいよいよ力を増して進み」と書かれますが、ヘブライ語では「彼らは力から力へと歩み」と書かれています。面白いことに「力から力」の「力」というヘブライ語は使い分けられています。最初の力(ハイル)が「(勢いのある動的な)力」に対して、次の力(オーズ)は「(静的な)力」で「砦」とも訳される言葉です。詩人は、神さまによって揺るぎない生き方(6節)と祝福(7節)を得た巡礼者は、若い時の勢いある強さから老練の確固不動、ブレない強さへと変化し、そんな変化を通して神さまと本気で出会っていくと歌ったのです。
その時に出会う神さまは9節「万軍の神」と表現されていますが、これも厳密には訳が違います。通常「万軍の神」と訳されるヘブライ語はエロヘー・ツェバオートですが、ここはエロヒーム・ツェバオート「万軍なる神」です。「何万もの軍の上に君臨する神さま」でなく、「神さま自らが何万もの軍に匹敵する力、絶対的な存在」です。巡礼者はそんな神さまと向き合って平安と希望を見出すし、そんな神さまがわたしの祈りを(直接)聞いてくださることを幸いと歌うのです。だから11節にあるように、神さまと出会う一日は、わたしたちの「千日にまさる恵み」なのです。
84編は、こんなにも神さまを礼拝することを楽しみにする巡礼者の歌です。明日は日曜日、私たちも礼拝に集います。私たちも切望して礼拝に集いたいですね。牧師も必死に御言葉の準備に取り組んでいますし、奉仕の方々も祈って明日に備えておられます。どうぞ皆さんも礼拝奉仕のお一人おひとりのために祈ってください。また明日、礼拝でお会いしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の詩編84編はあなたを礼拝することがどれほど楽しみで、恵みであるかを語った詩でした。神さま、わたしたちもあなたを礼拝することを心待ちにします。明日の宣教は詩編122編から「礼拝さ、行こう」です。どうぞ明日の礼拝も祝福に満たしてください。また明日の礼拝のために一生懸命にご準備くださっている奉仕者お一人おひとりを祝福してください。明日の礼拝に期待し、今日の一日を過ごせますように。イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。


***

今度の日曜日も、礼拝にてあなたのお越しをお待ちしています(^^)


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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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