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2020-07

6月14日~20日のみことば - 2020.06.15 Mon

梅雨に入り、日曜日は雨の中の礼拝となりました。
雨の日は出かけるのが億劫になったり、気持ちが内向きになりがちですが、外を見てみるとあじさいをはじめ植物たちは恵みの雨を受けて美しく咲いています。
この雨によって植物、また農作物などがすくすく育っているのを見ると神さまの業を覚えずにはいられません。本当に神さまのなさることは不思議です。

6月に入り、久留米教会では会堂に集まっての礼拝、また祈祷会や教会学校を再開しています。
とはいえ、まだ新型コロナウイルスが終息したわけではありませんから、マスク着用や消毒の準備、換気(エアコンをつけるときは礼拝前に換気)、簡略プログラムなど対策をしながらとなっています。
また、YouTubeでのライブ配信とホームページでの音声配信も継続しますので、そちらもお使いください。ライブ配信は礼拝終了後も動画として残りますし、音声配信も続けて公開していますので、日曜日には聞けなかったという方もどうぞ!!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 詩編→旧約聖書
・書名選択     : 詩編
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)


14日(日) 詩編57編1-12節
一言メッセージ:詩編57編は前半と後半に分かれる詩です。前半2-5節では詩人を害する相手がいて、詩人は「神さま、あなたに助けを求めます」と訴え続けます。5節などは詩人が厳しい状況に陥っている様子が書かれています。この状況が変わるのが後半7-11節です。7節は興味深いことに、詩人はただ神さまに助けを求めて屈みこんでいただけですが、相手が勝手に自分の罠にはまり込んで自滅するのです。詩人はそれが神さまの働きであったと気付くのです(8節)。
  私の好きな似た話に、民数記22章の「バラクとバラム」という話があります。イスラエルの民を倒そうとしたモアブ王バラクが呪術師バラムを雇って呪わせようとする話です。バラムがロバにのってイスラエルの民に近づくのですが、途中でロバが立ち止ってしまう。バラムはロバを叩いて行かせようとすると、ろばが「わたしが何したというのですか、三回も私を叩くなんて」としゃべるのです(ディズニーみたい)。バラムがロバと言い合っていると、彼の目が開け、実は進もうとした道に主の使いが抜き身の剣をもって立っていたと気付く、という話です。この話、何が面白いかと言えば、当のイスラエルの民は全く知らないところで神さまに守られているのです。神さまが全部整えてくださり、いつの間にか助けられているのです。
  私たちも同じです。神さまは日々、私たちを整えてくださっている。ただ私たちが気づかないことが多いだけです。今日は日曜、礼拝の時です。新しい週も神さまの整えをいただきながら歩めることを感謝して、神さまと向き合う時を持ちましょう。YouTube配信は続けていますから、お越しになれない方は活用ください(日本バプテスト連盟久留米キリスト教会で検索ください)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはあなたが私たちのあずかり知らぬところで、ちゃんと助けてくださっていることを知りました。きっと先の一週も私たちが気づかなかっただけで、あなたはいっぱい私たちの歩みを整えていてくださっていたのでしょう。神さま、あなたの御業に感謝します。できることなら直面しなくていいトラブルには遭わぬように引き続き整えていてください。どうぞよろしくお願いします。救い主イエスさまのお名前を通して、主なる神さまにお祈りします。アーメン。

15日(月) 詩編58編1-12節
一言メッセージ:58編は、詩人の非常に激しい感情が書かれた詩です。「何もそこまで言わんでも」と言うくらいに敵意むき出しで叫ぶ詩なのですが、注目したいのは、詩人が批判する相手である「人の子ら(2節)」です。ヘブライ語原文はエリームという言葉なのですが、訳の可能性が2つあるのです。1つは「異教の神々」を指すと理解する解釈です。この場合58編は、自分を神かのように振舞いながら自分勝手な正義を主張する人々に対して、詩人は「人が神さまになっちゃだめだ」と痛烈に批判した詩と読むことができます。人はすぐに調子に乗るからですね。もう1つの理解はエリームを「沈黙」と理解する解釈です。この場合、2節は「ほんとうに正義は沈黙だ、とお前たちは語るのか」という訳になります。そこで詩人が批判しているのは、社会には不正義のために苦しめられている民衆がいるのに、「仕方ないよね」と考えて声をあげない民への批判の詩なのです。言うなれば、沈黙する民への批判の詩と読めるわけです。
  今、アメリカをはじめとして世界中で人種差別に対しての抗議行動が広がっています。私たちにとっても決して対岸の火事ではありません。日本の中でも海外の方々への批判や差別があります(今回の新型コロナの影響で皆が苦しんだのに、アジア系外国人留学生への支援は成績の良い人上位3割みたいなむちゃくちゃな差別が公然と言われました)。沖縄で起こっている辺野古基地建設や米軍基地の集中は「沖縄に辛い状況を押し付ければ本土は安心」と、沖縄を捨て石にする判断があるように見えます(先週の日曜日の沖縄県議会議員選挙が終わりましたが、終わった途端、新型コロナの対策としてストップしていた辺野古基地建設が再開されました。この休止は県議選で政府に不利な結果が出ないようにするための戦略だったと指摘があります。実際、自民党側は辺野古基地建設を選挙の争点にしないようにあれこれと手を打っていました。結果は反基地を主張した現知事派が過半数を取りましたが、自民党の議席も増えています)。
  アメリカの公民権運動のリーダーだったキング牧師はかつてこう語りました。「最大の悲劇は悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である。」今、私たちは58編をどう読みましょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは58編を読みました。エリームという言葉をどう理解するかで、この詩は性格を変えます。人が神のように驕ることへの批判とも受け取れます。その場合、私たちは自分を正しますし、また周囲が驕っているならば、その人々を諫めねばなりません。一方で、社会の不正を前に黙っていていいのか、という読み方もあります。そうであれば、今の社会に対して、私たちは沈黙していていいのか、と問われます。沈黙することで子どもたち、孫たちの未来が危うくもなるのです。神さま、あなたは時々、私たちに深く問いかけられます。私たちは平穏に生きていたいのに、その平穏を勝ち取るために、あなたは私たちに「あなたはどうする?」と問われます。神さま、簡単に答えは出せません。どうかみことばと向き合って、自問させてください。平和の主、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

16日(火) 詩編59編1-18節
一言メッセージ:詩編59編は元来、詩人の個人的な歌だったのですが、その詩を読んだ人たちが「分かる~、あるよね、そういう『何なん、これ?何でこげんなったと?』って言いたい辛いこと」と共感しまくったため、いつの間にか民族的な詩と拡大解釈されていった詩です。じゃあ、何が「あるある」と共感されたかと言えば、自分には何の落ち度もないはずなのに、敵意いっぱいで責められる経験です。6節を見ると詩人は「悪事を働いたこともないわたし」と言っています。実際に何の悪事も無いというわけではなく、突然「敵」から攻撃される理由が分からない状態です。詩人から見れば「敵」は7節、15-16節のように夜中にうろつく野犬のように見えます。そんな中で詩人はひたすらに神さまに助けを求めています。12節の「彼らを殺してしまわないでください」と14節の「彼らを絶やし、絶やして、ひとりも残さないでください」という言葉が矛盾しているように見えます。ヘブライ語原典を見ると12節の「殺してしまう(ハーラグ)」は物理的な力を持って命を奪うことですが、14節の「絶やす(キッラー)」は「終わらせる」という意味でして、物理的な抹殺でなく、彼らの攻撃が終わることを願っています。つまり詩人は「神さま、殺さんでいいから、とにかく彼らを黙らせて、二度と噛みついてこないようにしてください」と願っているのです。
そんな59編の中で今朝、注目したいのは9節です。詩人にとって「敵」はとにかく恐ろしい相手です。でも、詩人は「主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべてあざ笑っておられます」と語ったことです。人間がどれほど力を振るおうとも、神さまの前では赤ん坊同然です。先月産まれた我が家の三男がいくらフニャフニャ言って私を叩こうともまるで痛くないように、神さまは「おぉおぉ、可愛いもんだ」と笑いながら、御業を行われる。詩人はそれほどに神さまを信頼しているのです。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは詩編59編を通して、あなたに信頼し祈ることがどれほど力強いことかを知りました。どれほど私たちが困難を経験していようとも、私に敵意いっぱいに噛みついて来る者がいようとも、あなたはまるでふざけているかのように彼らをあしらい、私たちを守ってくださいます。神さま、私たちはあなたに頼ります。どうか、あなたの御業を行ってください。相手を滅ぼすことまでは願いません。もしかしたら、その敵すらもいつか友になるかもしれないから。だからともかく今の課題から私たちをお救いください。期待して祈ります。アーメン。

17日(水) 詩編60編1-14節
一言メッセージ:今朝の60編で詩人は「私たちがこんなにしんどい状況なのは、神さまが私たちに怒って、『お灸を据えちゃろう』と思われたからだ」と思っています。古代の人たちはそういう風に考えました。4節で「大地を揺るがせ」とありますが、国が根幹から揺るがされるほどの大規模な問題が起こっているのです。例えば、今の日本で言えば、憲法が変えられそうになっているとか、社会が弱い者の犠牲を公然と強いていて、弱い民が命を絶つくらいの緊急事態です。そんな中で13節、詩人はあることを悟ります。「人間の与える救いはむなしい」です。どれほどの栄華を誇ろうと、所詮、人の栄華は移ろいゆく儚いものです。そんな中で詩人は改めて神さまを信じて生きることに希望と救いを見出しているのです。
  さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」はアフリカで医師として活動した柴田紘一郎さんをモデルにした歌ですが、その詩の中にこんな一節があります。「この偉大な自然の中で病と向かい合えば、神さまについて、ヒトについて考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれど何か、大切なところで道を間違えたようですね。」今、新型コロナウイルスという緊急事態の最中で私たちも「神さまについて、ヒトについて」考える時なのだと思います。
祈り:天のお父さま、今朝もわたしたちにみことばをありがとうございます。今朝私たちは詩編60編を通して、人の儚さとあなたの偉大さを考えました。詩人は「人間の与える救い(喜び)はむなしい」と語りました。何故ならば、ヒトにはいつも限界があり、その喜びは一時的な、移ろいゆくものだからです。でも神さま、あなたが与えてくださる救い、喜びは永久に私たちを祝福し、導いてくださるものです。神さま、どうぞいつも私たちを掴み、私たちがあなたの祝福を当然と誤解せず、感謝と期待に生きることができますように。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

18日(木) 詩編61編1-9節
一言メッセージ:今朝の61編はわたしの大好きな詩です。この詩にはとても素敵な人生のヒントが満載だからです。3節を見ますと、詩人は「心挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます」と語ります。面白いのは「心挫けるとき」です。詩人は「心挫ける前に」でなく、既に「心挫けて」いるのです。何かのトラブルに直面し、あらゆる手を尽くしたのに、願う成果を得られず、心挫けたのでしょう。でもここからが61編のすごさなのです。
  詩人は気づきます。「心挫けた」のは、自分が即効性のある解決や結論を求めていたからです。でも神さまは「常にわたしの避けどころ(4節)」であり、その神さまの御許にいるから自分は「神の幕屋にとこしえに宿る(5節)」ことができるのだと悟ったのです。トラブルを一発で解決する御業を求めていたのに、彼が知ったのは、「神さまは毎日祝福を与えてくださっていて、その毎日の積み重ねがとこしえへと繋がっていく」ことでした。大事なことは日々の積み重ね。日々、神さまに祝福されていることを覚えることだったのです。だから7節で詩人は歌います。「王の日々(守られる毎日)になお日々を加え、その年月を代々(とこしえ)に永らえさせてください」と。
  私たちは61編を通して気づかされます。神さまの祝福は今日も与えられていて、そんな毎日が私たちをとこしえの祝福へと導いてくれるのです。今日の一日は物事が悪くなるかもしれない一日ではありません。神さまの御計画の中でとこしえの祝福に続く一日です。今日も安心して一日を始めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝の61編はわたしたちをとても嬉しくしてくれます。自分たちを振り返ってみますと、わたしたちはいつも、あなたに即効性のある御業を求めているように思います。焦り過ぎていたのです。でも61編はそんな私たちに「神さまの祝福は今日も明日も与えられる。そんな積み重ねの中でとこしえの御業は成るのだ」と教えてくれます。神さま、わたしたちは焦らず、あなたの導きを祈り続けます。どうぞ、今日の一日も安心して歩み出させてください。救い主イエスさまのお名前で祈ります。アーメン。

19日(金) 詩編62編1-13節
一言メッセージ:これまでたくさんの詩編を読んできましたが、言い忘れていたかもしれません。今朝の62編の2-3節、6-7節のように、新共同訳聖書で一段低く書かれている箇所はその詩のテーマ、歌でいうサビ、強調の部分です。今朝の62編では正にそこが詩人の強調点です。
  さて、62編で詩人は理不尽な権力者(力ある存在)に苦しめられる社会の姿を見ています。多くの人が動揺する中で、彼は2-3節、6-7節のテーマを繰り返すのです。2節で詩人は「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と語りました。「ただ」というヘブライ語「アク」は強調を表します。詩人は動揺する状況の中で「ただただ神さまと向き合おう」と決め、心を鎮めて、現状の打開を図るのです。そこに「わたしの救いはある」からです。
  では詩人の訴えの結論はどうなったのでしょう。12-13節に結論が示唆されています。詩人は「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた(悟った)」と語ります。最初の「力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」は、やっぱり神さまこそが御業の実現者であるという確信です。後半の「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」とは、偉大な神さまがこの私、ちっぽけなわたしにもちゃんと御業を実現したとの喜びです。そう、詩人は神さまに救われているのです。ここに人生の道しるべがあります。自分の知恵、知識、常識、経験、好みで決断するのでなく、神さまの御心を模索するのです。それが「信じる」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。詩編62編は私たちに希望を与えます。あなたにこそ救いがあること、だから沈黙してあなたと向き合うことが、人生の幸いなのだと詩人は語りました。加えて私たちは62編から、神さまはちゃんと報いてくださるお方と確認しました。神さま、私たちもあなたに向き合います。どうぞ私たちを顧み、祝福してください。あなたに期待し、祈ります。アーメン。

20日(土) 詩編63編1-12節
一言メッセージ:詩編63編は、10-12節は何だか雰囲気が変わるのですが、9節まではとっても嬉しくなる詩です。詩人の変化に注目してみましょう。2節で詩人は「わたしの体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」と訴えました。その彼が6節で「わたしの魂は満ち足りました」と語っています。乾ききったものが満ち足りたのです。その間に何があったのでしょう。それは3-5節にあるように、神さまへの礼拝でした。
  今、日曜日の宣教で「礼拝さいこう」というシリーズを続けています。「さいこう」は平仮名で毎週、そこに文字を当てはめながら宣教を続けています。6/7は「礼拝最高」、6/14は「礼拝再考」でした。礼拝について考えますと、礼拝は私たちにとって何という祝福なのかと気づかされます。もし神さまと向き合わないならば、私たちはどこまでいっても自分たち人間の力にすがるしかなかったでしょう。でも人間にはいつも限界があり、時に強い者の横暴の前に涙しながら口を閉ざすしかない時もあったでしょう。でも私たちは神さまを信じているのです。人間の限界を超え、無限の可能性を持つお方に期待して生きる生き方が与えられているのです。だから、神さまを信じる時に、私たちは自分たちの限界を超えた希望をいただくのです。詩人がまさにそうでした。彼の乾ききった心、身体は今や満ち足りたのです。彼は今や6節「賛美の声」をあげるほど満ち足りたのです。
  さて、明日は礼拝の日です。明日は「礼拝砕鉱」というタイトルで宣教します。砕鉱は発掘などで使う言葉です。明日も共に礼拝に集い、みことばを分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今週も日々、みことばをありがとうございました。今週の始まり、月曜日にわたしたちはあなたのみことばに問われました。人が神になってはならないこと、そして、今、社会の不正義に声を上げないことへの「それでよいのか」との問いでした。そこで私たちが考えたのは、「私たちはちっぽけだし、不要なもめ事に巻き込まれたくない」という躊躇だったかもしれません。でも、今週、私たちが読んできた日々のみことばは、様々なトラブルや課題の中で本当に救いを与えてくださるのは主なる神さまだと言う詩人たちの確信でした。時に「即効性のある御業でなく、日々の祝福の積み重ねがとこしえに至る」と諭され、「沈黙して神さまと向き合え」との示唆があり、「礼拝において私たちは自分たちの限界を超える神さまの希望を得ている」ことを思い起こさせてもらいました。神さま、あなたは最高のお方です。どうぞこれからも私たちを導き続けてください。明日の礼拝も兄弟姉妹たちと、また新たな方々と共に礼拝を守らせてください。あなたの救いと希望が一人ひとりに与えられますように。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。


***

今週も神さまの祝福があなたの上にありますように。
できればぜひ、に日曜日の礼拝で(場合によってはネットを通して)お会いしましょう!!




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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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