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2023-10

5月24日~30日のみことば - 2020.05.27 Wed

更新が遅くなってしましました。すみません。
今週も、一日一日みことばによって養われる1週間でありますように・・・。


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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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24日(日) 詩編36編1-13節
一言メッセージ:詩編36編はとても興味深い詩です。2節の「わたしの心」を誰の心と理解するかによって意味合いが変わるからです。このあたりはヘブライ語の解釈によるのですが、新共同訳では2節最後の文で「彼の前に、神への恐れはない」と語り、罪が第三者の心に語りかけてくる様を詩人が離れたところで理解している、と解釈しています。でも、私は36編を「詩人は、自分自身の心に罪が語り掛ける(誘惑される)様子を、客観的に見ている」と理解します。となると5節までに書かれている、悪事を重ねる「彼」は自分自身です。彼は自分の弱さを歌っているのです。
  この箇所を読みながら、「私たちも同じだなぁ」と思います。理想の私たちは「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する(テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節)」なのに、現実は「いつも不満、絶えず愚痴り、全てのことに『もっと、もっと』と欲張ってしまう」、神さまの御心より易きに流れる私たちがいるのです。
  でも詩人は、そんな私たちの救いがどこにあるかを語ります。それは神さまに従うこと、にあります。神さまの御業は「山々」のように雄大で、「人も獣も救われる(7節)」ほどに懐深いのです。そして神さまは親鳥が雛を「翼の陰」に守るように私たちを守り、栄養を与えるように私たちを養ってくださいます(9節)。私たちは自分の弱さや罪を知るからこそ、その分、そんな私たちをも救ってくださる神さまを心から誠実に信じられるのです。
今朝は日曜日、礼拝の日です。今日も会堂と各ご家庭をネットで繋ぎながら、共に神さまの前に集いましょう。今朝の宣教では、この新型コロナの自粛生活2ヵ月を過ごした私たちだから知った、神さまの守りと恵みを分かち合っていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝も私たちに御言葉をくださり、ありがとうございます。今朝わたしたちは詩編36編と自分たちを重ねて読みました。神さま、私たちもまた弱い罪人であり、すぐに易きに流れ、あなたの御心から離れてしまう者です。でも今朝の御言葉は、そんな私たちでも神さまの御許に帰ることができること、あなたは私たちを慈しみ、傍らに引き寄せてくださるお方であると分かち合いました。神さま、あなたの深い愛に感謝いたします。どうか、私たちを顧みてください。今日は礼拝の日です。どうぞ、週の初めにふさわしく、あなたの力添えをいただける時となりますように。イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

25日(月) 詩編37編1-40節
一言メッセージ:今週の働きの始まり、月曜日です。先週から学校への登校も始まり、少しずつ生活が元のペースになろうとしています。2か月の自粛生活で我慢した分、仕事に精を出さねばと思っておられる方もいるかもしれません。そんな私たちは今朝詩編37編に大事な示唆をいただきます。
  37編は神さまに逆らう(御心に従わない)人がとても要領よく、得しているように語りますが、「でも苛立たず、神さまに誠実に生きていきなさい」と語ります。「苛立つな」は1節、7節、8節と続きますから、よっぽどいら立っていたのかもしれません。そんな37編の中で、私は2つの言葉に目が留まります。
  1つは3節の「信仰を糧とせよ」です。マタイ4章でイエスさまが誘惑にあった時に「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる言葉によって生きる」と語ったように、詩人もまた「信仰を私たちの人生の糧とせよ」と呼びかけます。もう1つは23節の「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」です。詩人はぴょ~んぴょ~んと何段飛びかで要領よく人生を駆け上がるのでなく、「一歩一歩」誠実に神さまに導かれることが最善と語ります。
  私はこの言葉に、神学部教授だったK先生が言われた言葉を思い出します。「日々の御言葉はお米みたいな食事です。ソフトクリームのように甘くて特別なお菓子ではないけれど、人はソフトクリームでは成長できません。大事なものは日々の食事。日々のみことばを大事にしなさい。」甘い物好きの先生らしい例えですが、それが礼拝であり、みことばメールだと思わされます。今朝の詩編37編でも詩人は語ります。「信仰を糧とし、一歩一歩誠実に神さまの導きを歩みなさい。」
  さぁ、5月最後の一週間もスタートです。私たちは今週、一日一日、一歩ずつ歩んでまいりましょう。その一歩は神さまの導きによる一歩です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。週の初めにあなたは「信仰を糧とし一歩一歩誠実に歩みなさい」と示してくださいました。神さま、あなたの示唆に感謝します。私たちはあなたに導きの中で歩みます。どうか、いつも、みことばを思い起こし、あなたの御心に従わせてください。きっとあなたの導きならば、私たちは豊かな祝福をいただいて歩むことができるでしょう。どうか週の終わりに、「神さまに導かれた、感謝!」と喜べる歩みとなりますように。一週間も導きに期待し、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

26日(火) 詩編38編1-23節
一言メッセージ:今朝の38編はとても重たく響く詩です。というのも、詩人は「わたしは神さまによって苦しめられている」と嘆いているからです。ここには解説が必要でして、聖書の古代世界において病や悪い出来事は、自分か身近な人の罪の罰として神さまが与えたものとか、神さまが私を見放したから悪霊に憑りつかれてなるもの、といった理解が一般的なのです。だから、詩人は自分が苦しめられているのは「神さまからの罰か」と思っているのです。しかし、その一方で詩人は「じゃあ、わたしのどこが罪だったのです?」と神さまに問うのです。この問題についてはヨハネによる福音書9章1-3節でイエスさまがばっちりケリをつけてくださいました。「生まれつき目の見えない人の人生は誰かの罪の罰でなく神さまの御業がこれから実現するため」と因果応報を否定し、全ての人の人生に神さまの救いが実現し得ることを明らかにしてくださいました。
  話を戻しますが、38編で私が目に留まるのは16節「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます」です。詩人は苦しい現状の中で「きっと〇〇に違いない」勝手に結論付けるのでなく、「なお待ち望む」と語ります。「待つ」って時にしんどいですよね。人は「分からない」という不安が嫌だから、すぐに「〇〇にちがいない」と経験則で結論づけたがるものです。でも詩人は神さまを待ち続けるのです。
  人生は決して願い通りにいくものではありません。でも、私たちの信仰は「神さまは必ず御心を行われる」であり、「御心の中で私はちゃんと導かれ、救われる」です。何故なら、私たちは神の独り子イエス・キリストに贖われてまで救われた命なのですから。変な言い方ですが、今日は「問いながら、安心して導きを待つ」ように歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは詩編38編から、あなたを待ち望むことを学びました。人生はいつもいつも順風満帆なわけはなく、時に「何で?どうして?」と問いたくなる出来事もおこります。そんな時、これまでの私たちならばすぐに自分の経験や理解で結論付け、「〇〇に違いない」と断定していたことでしょう。でも神さま、私たちはあなたを待ち望みます。あなたが御業を行ってくださることに期待します。どうか御業を行ってください。できることなら、早めに行ってください。あなたの憐れみに期待し、救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

27日(水) 詩編39編1-14節
一言メッセージ:今朝は詩編39編です。この詩のキーワードは「沈黙」です。39編には3回「沈黙」という言葉が書かれていますが、興味深いことに、その意味合いが変化しています。
最初の3節の「沈黙」は2節にあるように、詩人が口を開き、要らんことを言って過ちを犯さないための「沈黙」でした。しかし詩人は段々と神さまに自分の境遇の不満を訴えたいと思い始めます。けれど、彼は神さまがちゃんと自分を救ってくださると期待し、10節で「口を開かない(沈黙する)」と語ります。ここにあるのは、神さまへの期待の「沈黙」ですが、同時に「神さまなんだかんだちゃんと救ってくださるんでしょうね」という権利主張が見え隠れしています。けれど、待てど暮らせど、期待通りの御業は実現しません。ここに至り、詩人は自分の沈黙でなく、神さまの「沈黙」を感じ始めます。彼は神さまの沈黙の中に何らかの意図があるのではないかと、考え始めるのです。そして、それまでの権利主張でなく、純粋に自らを「御もとに身を寄せる者(寄留者)、宿り人」と理解し始めます。そこに至り、詩人は「自分の都合どおりに神さまに助けてもらって当然」でなく、信仰の原点である「先祖と同じ(13節)」く、「私はただ神さまの御心によって救われていただけるのだ」という極めて純粋な信仰者へと変化していくのです。
中学生の頃、初めて小説家・遠藤周作の『沈黙』を読みました。衝撃を受けました。隠れキリシタンと司祭が踏絵を踏んで棄教する物語を通して、遠藤は「神の沈黙は、罪を重ねてしまう弱い私たちを責める意味ではなく、弱い私たちと共にその苦しみを経験くださるからこその沈黙」と描きました。当時の私にはいまいちピンと来なかったですが、年を重ねる度に、このイエスさまに私は惹かれています。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは詩編39編から「沈黙」について考えました。私たちの沈黙は己を顧みるためであったり、要らんことを言わないための用心だったりします。だって私たちはすぐに軽口で失敗を重ねてしまいますから。けれど神さま、あなたの沈黙はいったいどういう意図があるのでしょう。私たちが祈ってもなかなか願いどおりに応えてくださらないことに、時々不満も持ちます。でも、今日私たちは自分たちの願望を一旦脇に置き、あなたが沈黙を通して、今私たちに何を気づかせようとなさっておられるのか、私たちをどう導こうとされているのか、を考えます。どうぞ、あなたの御心をお示しください。イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

28日(木) 詩編40編2-5節(1-18節)
一言メッセージ:今朝は詩編40編の中で特に2-5節に注目しましょう。ここが40編全体の要約部分です。詩人は「主にのみ、望みをおいていた」と自分の姿勢を語り、それに対して「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」という応答を記します。この箇所の岩波訳(岩波書店が出している聖書。原文のニュアンスをなるべく忠実に表現するように訳している)はとても素敵です。「私は待ちに待ち望んだ、主を。すると彼(主)は、わが方に身を傾け、わが叫びを聞いた」です。私たちが神さまに願うだけでなく、神さまもまた私たちの呼びかけに身を乗り出して聞いてくださるのです。その時、詩人は4節「新しい歌」を歌います。「新しい歌」とは今の自分なりの賛美、誰かの言葉でなく自分の言葉での賛美です。5節で詩人は「主に信頼をおく人」を幸いといいます。「ラハブを信ずる者にくみせず」の「ラハブ」は神話上の怪物で力や権力の象徴です。詩人は、人の力や権力に縋りつかず神さまを「待ちに待ち望む」人が幸いと告げるのです。
  今、皆さんの願いはいったい何ですか?火曜日にも「待つってしんどい」と話しましたが、今日は神さまの御心を「待ちに待ち望む」ほどに祈ってみましょう。
祈り:神さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、詩編40編からあなたに「待ちに待ち望むように」祈ることを学びました。神さま、今、私は1つの願いを祈ります。どうぞ、あなたの平和を実現してください。新型コロナを終息させ、心身共に疲弊した民を回復させ、権力者の横暴を諫め、互いの命と尊厳を尊び合えるあなたの平和を実現してください。そのために私たちにできる働きがあるならば、その一端を担わせてください。どうか私たちにも「新しい歌」を賛美させてください。平和の君、イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

29日(金) 詩編41編1-13節
一言メッセージ:41編の詩人は何か病のようです。「病は気から」と言いますが、病気の時には私たちの気持ちも一緒に落ち込みますが、この詩人は病のために、友人の見舞いすら「本心は私の不幸を喜んでいるに違いない」と疑っています。理由があるのか分かりませんが、それくらいに彼は不信感に苛まれています。でも、この詩を読みながら私たちは気づかされます。この詩人は友人を信じられないほどに弱りながらも、神さまへの信頼は失っていないのだと。
  何だか「いつくしみ深き」を思い起こします。「世の友我らを捨て去る時も祈りに応えて労わりたまわん」。イエスさまが私に伴っていてくださるとの信仰は、私たちを絶対的な孤独から引き離します。何故なら、イエスさまは私たちがどんなに弱る時にも「いつくしみ深き友」であってくださるからです。
  さて、ここからは少し想像力を働かせましょう。この詩人が病から回復した時、一体、何を思うのでしょうか。疑ってしまった友をなお不信感で見るのでしょうか。私はそうは思いません。「しまったなぁ」と反省し、もう一度、友としてやり直すために一歩踏み出すのだろうと思います。その時にも、私たちを後押ししてくれるのは「いつくしみ深き友なるイエス」さまなのです。
  さぁ、今日は一日、私たちに伴る友なるイエスさま(今日はこれが言いたかった(笑))を感じながら歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝私たちは41編を読んで一日をスタートします。この詩人は病の中で心身共に弱り、友すらも信じられなくなっています。でも、そんな不安の時にも主なるあなたが伴ってくださっていることは信じ続けました。神さま、私たちはその詩人の言葉に、私たちの友なるイエスさまのことを思い起こします。私たちと共にいてくださる救い主に感謝します。私たちも決して、いつもいつも元気であれるわけではありません。時に病になったり、くたびれたりして、弱気になること、不信感に苛まれることもあります。でも、どうかそんな時にもイエスさまへの信仰によって支えられ、回復され、もう一度立ち直れますようにお導きください。またこの詩を読みながら、病の友のことを思います。どうか、あなたの癒しの御手をもって、彼らのことを回復させてください。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

30日(土) 詩編42編1-12節
一言メッセージ:今朝の詩編42編は交読文や賛美歌などでも用いられて、情景のイメージが湧く詩ですが、よりイメージを膨らませるためにイスラエルの地理の話をいたします。イスラエルは雨季と乾季がはっきり分かれている土地柄で、乾季には全く雨が降りません。だから、人々にとって雨が作物を芽吹かせる恵みでした(余談ですが、旧約聖書でバアルという神を信じる土着信仰が出てきますが、このバアルは雨を伴った嵐をイメージした神でした)。話を戻しますが、「涸れた谷」とは乾季に干上がった川底であり、「鹿が水を求める」とは生き物が水を求めてさまよっている光景です。詩人はその情景と自分を重ねながら、「私の魂は神さまに渇いている」と訴えます。
  聖書研究によりますと、この詩人は何らかの理由で神殿から追放され、礼拝する場を奪われているようです。だからこそ「私の魂は神さまを求めて渇く」と語ります。彼は5節で「多くの人々と礼拝できていた、あの頃を思い起こす」と訴えます。しかし、6節で彼は自分自身を励まし、「神さまこそが私の救い」と思い起こすのです。神さまを思い起こす時、彼は1つの情景をイメージします。7-8節です。「ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて。…砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く」とありますが、これは先ほどの乾季から雨季へと一転する様子です。イスラエルは春、暖かい空気が地中海からイスラエル北部のレバノン山、ヘルモン山に吹き付け、その雪解け水がキネレト湖(ガリラヤ湖)に流れ込みます。その水がヨルダン川を下って塩の海(死海)に流れます。さらに言いますと、この死海は海抜からマイナス430mと、大変低い土地です。だから、水は正に「砕け散る波」となって勢いよく駆け下るのです。詩人は乾季で水を求める鹿のように神さまへの礼拝を切望しますが、その願いはヨルダン川を激しい流れとなって駆け下る雪解け水のように私を満たすだろう、とイメージしているのです。地理を知ると、詩編がよりリアルに見えてきますね。あっ、ちなみに、私もイスラエルには行ったことがないので、全部、本の受け売りです(笑)。
ただ、今朝、私はこの詩を読みながら思うのです。礼拝を切望するのは私たちも同じだなぁって。新型コロナのため緊急体制となり2ヵ月、皆さんと一緒に礼拝ができていません。でも、神さまはきっと礼拝を共にする願いを波立つ雪解け水のように叶えてくださるでしょう。決して焦りは禁物です。私たちの礼拝も雪解けは近いはずです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は詩編42編を通して、あなたの救いは雪解け水のごとくに実現するとの期待をいただきました。詩人はあなたへの礼拝に参加することを切望していました。その想いは私たちも同じです。私たちも一日も早く、共に礼拝できることを願います。同時に、きっと私たちの知らぬところで同じようにみことばを欲し、礼拝に来てみたいと願っている方もおられることでしょう。神さま、どうぞ、その方々も共に礼拝に集わせてください。私たちはなお告白します、「あなたこそがわたしたちの救い」と。救い主イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン。

***

新型コロナウイルスの脅威が一日も早く収束しますように。



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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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