5月7日~13日のみ言葉 - 2023.05.07 Sun
大型連休もラスト一日となりました。
土曜日からは久留米はあいにくの大雨。雨脚が弱まったと思ったら、またざあざあ降りの一日でした。皆さんは、ゴールデンウィーク楽しく過ごせたでしょうか。
コロナ規制がほぼなくなった連休、楽しい話題も多く聞かれましたが、そのさなかでの石川での地震には、びっくりしました。
地震に重ねて大雨のための土砂災害の警報も出ているようで心配です。
被災された方が一日も早く安心して過ごせるようにと祈ります。
明日、連休最終日は日曜日。
もちろん、久留米教会では休まず礼拝をささげます。
新しい週も神さまに心を向け、与えられている恵みに感謝し、課題には神さまの伴いと知恵を祈りながら歩んでいきたいと思います。
今週も日々のみことばをどうぞ!
エレミヤ書が終わり、今秋からエゼキエル書を読んでいきます。
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7日(日) エゼキエル書1章1-3節
一言メッセージ:エレミヤ書を終え、今日からエゼキエル書に入ります。エゼキエル書はイザヤ、エレミヤと並ぶ「三大預言書」と呼ばれる、バビロン捕囚期の預言書です。1-3章はエゼキエルの召命物語ですが、今朝は箇所そのものより、エゼキエル書の特徴を記します。祖国滅亡前までのイスラエルは「エルサレムは神が臨在する都であり、神は神殿におられる」と考え、そのため礼拝の場(神殿)が人々の拠り所でした。しかし祖国が滅亡し、神殿は破壊されました。民も遠いバビロンに連行され、捕囚とされました。古代世界の一般の理解では、それぞれの国には守護神がいて、戦争で負けることは守護神の敗北と理解されましたから、他国の民は「イスラエルの神も敗北し、滅びた」と考えたはずです。しかし、イスラエルの民は捕囚の地バビロンで「自分たちの国が滅びたのは何故か」と考え始めます。そして至った結論は、エレミヤの預言を汲み、「自分たちが神を蔑ろにしたから、神は私たちの国を滅ぼした」でした。そして、その結論は「私たちが神に正しく立ち返るならば、神はきっと私たちを救い出してくださる」との展望へと発展していきます。そこで彼らは、それまでの「神殿」という場所を大事にした信仰から、礼拝や祭儀、割礼などの律法の遵守を重視する信仰へとスタイルを変えていくのです。非常に興味深い話ですが、バビロン捕囚の経験によってユダヤ教は洗練されていくのです。エゼキエルは正にそんな捕囚期をリードした預言者です。なので、エゼキエル書は1-24章で「ユダとエルサレムの罪と罰」という反省を、25-32章では「諸外国に対する預言」を、33-39章では「イスラエルの回復」を、40-48章では「新たなイスラエル」が語られていきます。さて、ご一緒にエゼキエル書を読み進めていきましょう。ちなみにエゼキエルは幻の記述が多く、それも民族的イメージの共有なので、私たちにはちんぷんかんぷんなので、そういう箇所は飛ばしながら読んでいくことにします。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日からエゼキエル書を読み始めました。祖国滅亡の絶望の中でイスラエルの民はあなたと向き合い、自分たちの罪を受け止め、悔い改め、あなたとの向き合いの中で未来への希望を見出していきました。私たちもエゼキエル書を読みながら、あなたがいかなる神であり、私たちにどう生きるよう促されるか、分かち合っていけますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
8日(月) エゼキエル書2章1-10節
一言メッセージ:今朝は主なる神がエゼキエルを召し出した際の言葉が記載されています。神はエゼキエルに「人の子よ、自分の足で立て」と命じます。「人の子」は福音書ではイエスさまが自らを指して使った言葉ですが、エゼキエル書で使われる際の意味は、徹底して「超越者なる神さまと異なるちっぽけな人間」を指す言葉です。それは捕囚となり、ちっぽけにされたイスラエルの民も状況を指す言葉でした。でも、その民への預言者として、神さまはエゼキエルを選ぶのです。預言者の召命の中で神さまは「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす(3節)」と告げます。この時の民の多くは、まだ祖国滅亡の理由が「自分たちが神さまを蔑ろにしたから」という反省よりも「神は私たちとの契約を守らず、私たちを見捨てた」という理解が強いようです。だからエゼキエルに対しても敵意と害を持って抵抗すると言われます。でも神さまはエゼキエルに「彼らを恐れてはならない(6節)。あなたはわたしの言葉を語らなければならない(7節)」と告げるのです。さて、そんな箇所の中で今朝、私たちが注目したいのは8節です。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。」預言者は人々に語るために、先ず自らが神さまのみことばをしっかりと聞き、従わねばならない。自分の願望、思惑、算段で語るのが預言者でなく、神さまの御心を聞き、託されたみことばを語る存在なのです。それが1節の「自分の足で立つ(神に力づけられ、神の促しに応えて自立する)」ことでもあるのです。今日から新しい一週間が始まりますが、私たちもみことばを聞き、受け止め、自らの足で立って歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。エゼキエルを召し出したあなたは「先ず、私のことばに聞き、そして自らの足で立て」と促しました。それは今の私たちへの示唆でもあります。新たな一週の働きの始まり、私たちもみことばに押し出され、しっかり立って歩み出せますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
9日(火) エゼキエル書3章1-15節
一言メッセージ:今朝はエゼキエルの預言者としての召命記事の最後の部分です。昨日同様、「人の子よ、私があなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい(10節)」と語られ、預言者自らが先ず神さまのみことばに聞く者であると繰り返し強調されます。さて、そんな箇所の中で非常に興味深いのは1-3節。神が「この巻物(神のみことば)を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と促されていること、そしてその巻物は「蜜のように甘かった(3節)」という記述です。神さまのみことばを取り次ぐために、自らが神のみことばをいただくというのは前述の10節と同じなのですが、3節の「それは蜜のように甘かった」は、神のみことばがエゼキエルを何よりも慰め、力づけ、生かしてくれるものだった、という意味です。でも同じ今朝の箇所では6節以下で語り掛ける相手である同胞は頑固で、預言者もたじろぎそうな存在として描かれていますし、一方で14節では神の促しによって預言するべく連れていかれる時には「苦々し」く思っているのに、「主の御手がわたしを強く捕えていた(神の強制力をひしひしと感じていた、14節)」とも書かれている。この記述は、神に従うことの恐れや葛藤を描きながら、それでも神のみことばが自分を生かす力だと感じていることを示しています。不思議ですね、神さまのみことばは私たちを無暗に甘やかすのでなく、私たちを励ましつつ、現実に向き合わせるのです。預言者とされたエゼキエルがここから民とどう向き合い、どう語り、行動するか。続けて読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エゼキエルの召命物語を読みました。そこで見出したのは、あなたのみことばを語るために、私たち自身がみことばを先ずいただくこと、そのみことばは私たちを強め、生かし、育て、現実に向き合わせる力でした。神さま、どうぞみことばをいただいて、私たちも日々の生活に向き合っていけますように。いつもみことばの力添えをください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
10日(水) エゼキエル書3章16-21節
一言メッセージ:今朝の箇所は「預言者の務め」と題される箇所です。神さまはエゼキエルを「見張り」とし、「悪人に『このまま好き勝手やり続けたら、神の怒りを買って滅ぼされるぞ』と警告しなさい。警告しなかったら、私はお前も罰する。でも、警告したのに、それでも悔い改めないで滅ぼされたら、それはその者自身の責任」と語る。また「正しい人が出来心で罪を犯す時」にも同じように語ります。これ、エゼキエルからしたら「そこまで責任を負わねばならないのか!」と文句を言いたくなる命令です。だって、相手を思って警告しても逆に敵意を持たれ、突っかかって来る相手もいるのですから、「関わりたくない」と思うでしょう。でも、この命令は預言者の立場で考えては意図が分かりません。これは、語り掛けられる相手の立場で考える命令です。端的に言うと、神さまは悪人だろうが正しい人であろうが、滅びてほしくないと思っているのです。だから、その者が罪を犯す時、「あなたも神さまの祝福の中で生きててほしいから、悔い改めな」とエゼキエルに促させるのです。私たちを愛し、生かす神がいて、その役割を担うのが預言者なのです。先の箇所になりますが、エゼキエル33.11も読んでみてください。私たちももしかしたら、時に預言者となって、おせっかいを焼くこともありますよね。どうぞ祈って、勇気出して、「あのさ、教会に来ん?神さまのこと、一緒に学んでみよう」と声かけてみましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所を読んだ時、「なんて理不尽な」と思いました。「あなたの御用を担うとこんなに責任を押し付けられるのか」と怯えました。でもその真意は、あなたが一人も滅ぼしたくないからこそ「声をかけ合って生きよ」でした。私たちはその真意を大事に思いつつ、時に自分も預言者のように他者に世話を焼きます。どうぞ勇気をください。十字架にかかってまで私たちを救われたイエスさまの御名で祈ります。アーメン。
11日(木) エゼキエル書3章22-27節
一言メッセージ:今朝の箇所は24.27や33.12と関連する象徴預言について語った言葉です。後代の付加と考えられるので、エゼキエルの召命早々の事柄ではありません。言葉を語るのが預言者であるのに沈黙するように命じられるのは矛盾のようですが、実はそれこそが象徴的なのです。それまでは26節にあるように、民の罪を指摘し、悔い改めるように促してきたけれど、神さまから示される語るべき言葉を語り終えた後、エゼキエルは人々がその言葉にどう応えるか、沈黙して問うように命じられたのです。先日、大学講義が終わって帰って来る電車内で、結構な大声で話す二人連れがおられた。片方が、自分の苦労話をしていました。結構な声量だったので話が耳に入って来て、読書に集中できない。諦めて、ぼーっと車窓を眺めながら聞こえてきた話に感じたのは「さも、いっぱい苦労している風に話すけど、中身は大したことない」でした。人間だれしも「私は、私は」と自分の話を聞いてほしいものです。でも、騒ぐからこそ軽く見られ、逆に、沈黙するからこそ大切なこととして伝わるものも多々ある。エゼキエルは神さまから沈黙を命じられます。「語るに時あり、黙するに時あり」なのです。私たちも語るべき言葉と黙すべき時、考えさせられますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたはエゼキエルに語る言葉と黙する時を示されます。それは民に、あなたのみことばを聞く時と、いかに応えるか問う時を作るためでした。神さま、私たちが祈りながら、あなたに応えられないと思う時、それは問われている時なのかもしれません。どうぞあなたへの願いを語るばかりでなく、あなたのみことばをしっかり考え、応える者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
12日(金) エゼキエル書4章1-17節
一言メッセージ:4-5章はイスラエル滅亡を振り返るための象徴預言です。1-3節は「エルサレムが包囲されたことの象徴行為」、4-8節は「捕囚の象徴行為」、9-17節は「包囲された街での欠乏や困窮の象徴行為」です。続きは明日の箇所ですが、読むと、滅亡の厳しさがよく見受けられます。そんな箇所の中で目を留めたいのは、4-6節です。神さまはエゼキエルに390日間、左わきを下にして寝るように命じ、次に40日間、右わきを下にして寝るように命じます。この390日はソロモンの神殿奉献から祖国滅亡までの390年の期間であり、40日は滅亡後の捕囚期間を象徴する日数でした。読みながら思うのは「40年で390年を贖うのか」です。民は祖国滅亡と捕囚がどれだけ苦しいか、神さまに訴えていたでしょう。でも、その期間は40年と示されます。一方、滅亡に至るまで民が神さまに背き続けた期間、同時に、神さまが忍耐して「きっといつか分かるはず」と期待した期間は390年でした。人々は今自分が経験している辛さを訴えますが、滅亡に至るまでの神さまの忍耐の期間もあったのです。エゼキエルはそうやって、民の不信仰と神さまの忍耐を示しました。同時に40年は「神さまが民を解放される時が来る」との示唆でもありました。厳しさの根底に愛があることを感じ取れる記述ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エゼキエルは祖国滅亡を振り返り、民の過ちを示すべく象徴行為を命じられました。その中で民が感じたことは、あなたの愛と忍耐だったことでしょう。人は苦しい時に、自分の「今」だけを訴えます。でもあなたは、より広い視野で私たちに、過ちも気づかせてくださいます。それは厳しい事柄ですが、同時に、罪の自覚の先にあなたは救いを与えてくださいます。神さま、どうぞ私たちも己の弱さや罪も自覚しつつ、それでも救ってくださるあなたを感じられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
13日(土) エゼキエル書5章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所もイスラエルの滅亡を振り返る箇所です。髪の毛や髭は繁栄を表していて、その1/3は燃やし、1/3は剣で切り、1/3は風に散らすように指示されます。それは、イスラエルが滅亡する際に、民の1/3は疫病や飢餓で、1/3は戦火で、1/3は祖国から捕囚として連行されたり、逃亡したりする様子を象徴するものでした。何がそこまで神の怒りを買う行為だったのでしょう。それは明日の箇所6章にある「偶像礼拝」です。自分の利益を求めて、神ならぬ物を神とし続けた行為と期間(ソロモンから数えて390年!)に神は怒ったのです。そんな神さまの怒りを告げたのが13節です。「そのとき、主であるわたしが憤れるだけ憤り、熱情をもって語ったということを彼らは知るようになる。」「熱情」と言えば聞こえがいいが、ニュアンスは「妬み」です。深い愛のゆえに不誠実を相応に罰する神の感情です。私たちも他人に一生懸命話すのに、向き合ってもらえないと腹が立ちます。神さまも同じです。私たちは、神さまに誠実に向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、あなたは熱情の神です。深く強い愛だからこそ、逆に不誠実な民へは憤りも感じる時もあるでしょう。その気持ち、よく分かります。だからこそ私たちもあなたに正しく向き合う者であれますように。それでもきっと時々、少々のところは目をつぶってください。でもあなたの赦しを打算的に捉えず、大事なところはちゃんとあなたと向き合いますから。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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