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2023-04

4月30日~5月6日のみことば - 2023.04.29 Sat

4月も終わりを迎えました。
早くも連休を迎えている方もいるでしょうか。
4月から始まった生活に少し疲れの出てくる季節でもありますから、どうぞ皆さん、体調に気を付けてお過ごしくださいね。

教会では、明日4月30日礼拝後に教会堂などの修理や普段できないお掃除をする「メンテナンスデー」を行う予定です。
今の会堂も建って38年目。今年度は少しずつできるお手入れをしていく予定です。
また、忘れなければ写真を撮ってアップしたいと思いますので、お楽しみに!
そのためにも、どうか今降っている雨が早めにやみますように。。。

それでは、新しい週のみ言葉をどうぞ!!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
 ・訳名選択     : 新共同訳
 ・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
 ・書名選択     : エレミヤ書
 ・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

30日(日) エレミヤ書49章1-6節
一言メッセージ:49章はたくさんの民族への裁きの言葉です。1-6節がアンモン(ヨルダン川の東地域。創世記30章でアブラハムの甥のロトをルーツにする民)、7-22節がエドム(死海の南東、エドムが裁かれる理由は直接には書かれないが、オバデヤ書は彼らがエドムがエルサレム陥落時にバビロン軍と共に包囲していたことを激しい敵意で記す)、23-27節がダマスコ(イスラエルの北、アラムの首都。国はアッシリアによって滅ぼされ、アッシリア、その後バビロンに従属を強いられる。エルサレム包囲時にエドム同様、バビロンに動員されていた)、28-33節がケダルとハツォル(アラブの遊牧民)、34-39節がエラム(驚くことにバビロンの東なので、直接的にはイスラエルに関係無さそうだが、この地にもユダの民が住んでいた)に向かっての言葉です。長いうえに、それぞれの民族の事情もマチマチなので、今回は難解でした。それで調べものをしたら、榎本保郎氏の『旧約聖書一日一章』に面白い記述を見つけました。彼はアンモン人に注目し、彼らの首都ラバは世界にも類の無い天然の要害で、ゆえにアンモン人は「どんな軍でもラバを落とせないと自負していた」と記します。しかし、榎本氏はこう記します(要約します)。「彼らは平面でモノを考えてきた。しかし、神による裁きも恵みも上からやってくる。人の思惑を超えて、神は働きかけてくる。」なるほど、と思います。人間が己の知恵、力、功績、財、その他あれこれ誇っても、神さまの御業はそんな思惑を超えて実現する。それは誠実に生きる者には幸いな励ましだし、神さまに不実に生きる人には恐れでしょう。私たちの思惑を超えて働く神さまは今、この世界に何を成そうとされるのでしょう。私は期待して、神さまの御業を祈りたいと思います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はたくさんの民族への裁きを読みました。榎本氏の指摘のように、神の裁きも恵みも人の思惑を超えて実現します。だからこそ、私たちは驕ることなく、あなたに誠実であらねばと思わされます。どうぞ今日も一日、あなたに誠実に生きる私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5月1日(月) エレミヤ書50章1-46節
一言メッセージ:50-51章は「諸国民への裁き」の最後、バビロンへの裁きです。聖書研究ではこの預言はエレミヤに遡るものでなく、バビロン捕囚のただ中で迫害のために苦しむ民を励ますべく、「もうまもなく神の救いは実現する。バビロンは滅び、我々は救い出される」と語った預言者の言葉と考えられています。じゃあ、エレミヤの預言でなければ読む価値はないか。いいえ、他の預言者の言葉ですが、この箇所は大事な指摘をしています。それはバビロン滅亡の理由です。預言者は29-32節でバビロンが滅ぶ理由を「神に向かって傲慢にふるまったから」と指摘します。エレミヤの預言でもこの預言者でも、バビロンはイスラエルを滅ぼすために神に選ばれた僕です(51.20-23参照)。しかし、バビロンが神の僕であったからといって、「じゃあ、何をやっても赦される」わけではない。僕は主人の意志に従うことが求められます。しかしバビロンは驕り高ぶり、「自分たちの国の神マルドゥク(2節の「ベル」はマルドゥクの別称)こそが世界の神」と宣伝し、さらにバビロン王自身を神として拝ませました(ダニエル3.5-6参照)。そんな傲慢を預言者は指摘しました。
宗教や学校(教育)の分野はハラスメント事象が発生しやすいと言われます。それは「先生」と呼ばれる者が権威化しやすく、周囲が傲慢さを指摘しにくくなるからです。権威化も一種の自己神格化であり、神さまへの傲慢です。だからこそ「先生」と呼ばれる者は自戒を、また周囲は適切な指摘をすることが必要です。私たちは神さまへの節度を持って歩みたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者はバビロンを「神の選びを特権と勘違いし、やりたい放題行った傲慢さゆえに滅んだ」と指摘しました。人は驕り高ぶり、調子に乗ります。でも神さま、どうか私たちはあなたへの誠実さと謙虚さを忘れずに過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(火) エレミヤ書51章1-58節
一言メッセージ:昨日の箇所から続く、バビロン滅亡の預言です。内容的には昨日とさほど大きな違いはありませんが、8節に注目します。「にわかに、バビロンは倒れ、砕かれた。バビロンのために嘆け。その傷に乳香(薬として使われた)を塗れ。いえるかもしれない。」バビロンは必ず滅亡する。しかし神さまはそのバビロンが「癒えるかもしれない」と語ります。ここでいう「癒える」は直前の7節を見ると、バビロンが誰もが憧れる「金の杯」に譬えられ、「これが全世界を酔わせた。それゆえに国々は狂った」と書かれます。意味するところは「全世界がバビロンという超大国の軍事力、政治力を前に、『力こそが全て』との考えにとりつかれてしまった」です。それが8節で「癒えるかもしれない」というのは、バビロンが滅びたとき、「力こそが全て」との誤った考え方が覆され、何が私たちにとって最も大事だったかを悟る、ということです。神さまはバビロンが滅びた後の世界が真の神さまに気づき、神の平和へと歩み始めることを期待したのです。そのためでしょう、今朝の箇所でもバビロンの軍事力が徹底して否定されていきます。ここにはイザヤ2.1-5の神の平和の実現のイメージが重なっているのかもしれません。世界が神の御心によって生きることを学び、武器を手放し、命を育み合う農耕具に打ち直し、共に生きていこうとする世界。今も私たちが追い求める世界の姿です。イザヤ書は明日、番外編として読んでみましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はバビロン滅亡預言の後半を読みました。そこでは徹底して力が否定されています。残念ながら、未だ世界は争い絶えず、力への過信が続いています。でも神さま、私たちは平和を諦めません。どうぞ、一歩ずつでも平和実現に向けて前進することができますように。平和の主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

3日(水) イザヤ書2章1-5節
一言メッセージ:今朝は5/3、憲法記念日ですので番外編です。戦後、日本は新たな憲法を作り、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行しました。現行憲法になり、戦前の大日本帝国憲法と何が変わったか。「国民が天皇の臣下とされた臣民でなく国の主権者となった」とか、「国家などの権力によって個々人の尊厳が踏みにじられないように基本的人権が守られるようになった」など、様々な変化がありますが、最も大きな事実は、戦後78年、私たちの国は戦火を経験せずに過ごしてこれたことです。何故なら、この憲法が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し(憲法前文)」て、制定されたからです。つまり原稿憲法の目的は、二度と戦争を起こさせず、国民一人ひとりの命と尊厳を守り、世界に平和を実現することなのです。戦争を行いたい人たちは様々な理由をつけて(近隣国の脅威など)、憲法を変えようとします(本気で近隣国の攻撃を懸念するならば、先ずミサイル一発で大惨事になる原発を無くすことが必須なのに、そこは決して廃炉にしない。これも政治家の改憲理由が言い訳でしかない証拠です)。だから、安易に改憲させないために、現行憲法は国民に主権を託し、「不断の努力(第12条)」を求めて、平和を実現していこうと定めました。私がこの憲法を誇りに思うのは、前文の中で平和実現の手段についてこう語っているからです。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われらの安全と生存を保持しようと決意した。…(略)…われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちの生存する権利を有することを確認する。」現行憲法は、平和は自国だけで実現できるものでなく、他国と共に作るものであると理解し、だからこそ互いに信頼し合うことから平和を実現しようと呼び掛けます。そのため、第9条では、武力で平和は実現できないからこそ「戦争の放棄」と「軍の不所持」まで明記しました。世界中の誰もが、子どもたち、孫たちが安心し、「誰とでも仲良くなれる」と促し合って共存する世界を目指したのです。その考えは今朝のイザヤ2.1-5が示す、神の平和と重なります。イザヤは「国々が神の示す平和を学び、争いを放棄し、命を奪い合う武器を打ち直して、命を育む農耕具に作りかえて共に生きる世界を目指す」、そんな平和を神の国と語り、目指すべき理想と示しました。今、憲法を変えようとする動きがありますが、私は、みことばに立つからこそ今の改憲には応じてはならないと思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日は憲法記念日ですから、番外編でイザヤ2章を読みました。イザヤが記した、あなたの平和の幻は、現行憲法が目指す世界平和と重なります。現行憲法はあなたのみことばを実現するべく、1つの国家的決意であり、手段です。神さま、どうかこの憲法を堅持し、あなたの平和実現を一歩ずつでも進めさせてください。平和の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(木) エレミヤ書51章59-64節
一言メッセージ:今朝はエレミヤがバビロン滅亡を記した巻き物をセラヤ(エレミヤの書記バラクの兄弟。祭司長。32.12、52.24参照)を託し、連行されるバビロンにてイスラエルの民に語り聞かせ、バビロンの肥沃な土地を潤すユーフラテス川に投げ入れるという預言の象徴行動をとるように命じる箇所です。エレミヤはこれまで、「バビロンは神の僕であり、神の御心として祖国イスラエルを滅ぼす」と語り続けてきました。しかし同時に、バビロンが神さまの祝福をいただいて繫栄するかと言えば、そうではなく、29章では、連行されるイスラエルの民に「家を建て、子孫を増やし、定住せよ」と勧めつつも、29.10では「70年の時が満ちたら」バビロンは崩壊し、民は解放されるとの預言も語っていました。エレミヤの預言は面白いし、私たちへの示唆に富むと思います。彼が預言活動を始めて以降、ある意味で、非常に冷静にイスラエルと周辺国の状況を分析しています。イスラエルがエジプトとバビロンの間で「どちらの陣営に着けば生き残れるか」と画策する様を見ながら「今こそ神さまに立ち帰り、祈り、いかに対処すべきかを模索する時」と呼び掛けました。けれど王や貴族はエレミヤの言い分を聞かず、祭司や民が「私たちの国はアブラハム以来、神の救いを約束された民だから、滅びることなどない」という希望的観測で自己正当化に走ると、「この国は神の僕バビロンによって滅びる」と預言しました。ではバビロンによって滅ぼされて終わるのかと言えば、そうではなく、「バビロンもまた、己の力を驕り、神を蔑ろにして滅びる。そして民は神さまによって解放される」と語りました。エレミヤはいつも冷静に、現状だけでなく未来を見定めています。それはいつもいつも「神さまはこの時、この状況で私たちに何を示されるのか。そして私たちをどう導こうとされるか」と模索し続けたからです。エレミヤは目の前の出来事で翻弄されません。過去を知り、広い目で今を見定め、同時に未来を思い描いている。それが信仰に生きる姿なのです。私たちは目先に翻弄されず、信仰の目で自分も世界も見極めて生きていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はエレミヤが翻弄される社会の中で極めて冷静に、同時に神さまを知るからこそ悲観的に終わらず、困難の先にある導きに目を留め、だからこそ今をどう生きるのかと考えていました。神さま、私たちにもエレミヤのように過去を知り、今を冷静に見定め、未来を思い描く信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(金) エレミヤ書52章1-30節
一言メッセージ:エレミヤ書最後の52章はエルサレム陥落と王国滅亡の記録です。最後の王ゼデキヤは、それまで服従していたバビロンに反旗を翻します。その知らせを受けたバビロン王ネブカドネツァルは自ら出陣し、エルサレムを包囲します。この包囲は1年6か月に及び、エルサレムは深刻な食糧不足に陥り、とうとう陥落します。ゼデキヤ王は捕えられて、目の前で息子たちと将軍たちが処刑され、続けて自らも両眼を潰され、足枷をはめられてバビロンに連行され、死ぬまで牢に入れられます。また、バビロン軍は街も王宮も神殿も焼き払い、あらゆる財産、神殿の装飾品を奪いとり、民の主だった人々を捕囚として連行していきました。何もかもむしり取り、破壊し尽くしたのです。こうしてダビデ王以来の都エルサレムは陥落しました。最後の記述は悲しいだけに見られますが、そうではありません。ここにきて、エレミヤの言葉が希望として認識されていく。エレミヤはバビロンに投降する者にこそ未来があると語ってきました(27.6-17、38.17)。また、神殿の祭器、装飾品も戻ってくるとも語っていました(27.21-22)。つまり、神さまの救いの約束は今も変わらず続いている。だから、ここから問われるのは民の方です。「あなたはこの滅亡の状況に絶望して終わるのか。それとも、エレミヤを通して語られた神のみことばに希望を見出し、解放を待って生きるのか」と。みことばは私たちにも告げます、「あなたは目の前の出来事に一喜一憂して生きるだけか。それとも、困難に直面してもなお神の希望に生きるのか」と。私たちは今、みことばとどう向き合い、受け取りましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所では淡々とエルサレムの陥落、王国滅亡が語られました。けれど、ここからこそエレミヤの言葉が民の中で響きます。あなたが与えてくださる救いは、バビロン崩壊後に実現するからです。人は弱く、目の前の出来事に翻弄されがちです。でもあなたを信じる私たちは、困難のただ中でも、その先にあるあなたの希望を見失わずに生きる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(土) エレミヤ書52章31-34節
一言メッセージ:今朝はエレミヤ書のラストです。ヨヤキンはゼデキヤの前の王で、即位3ヶ月で廃位され、第一次捕囚にてバビロンに連行されていた王です。バビロンのネブカドネツァル王の在位中は獄中の辛い生活が続いたようですが、ネブカドネツァルが死んだ後、彼は新たな王によって情けをかけられて出獄し、王の配慮によって平和に暮らした、との記述です。昨日見たゼデキヤ王とは対照的な最後です。さて、この記述がエレミヤ書の最後に置かれたのは何故でしょう。それは、読者に希望を感じ取らせようとしたからでしょう。捕囚を強いられ、悲惨なままで終わるのでなく、ネブカドネツァルの死によって時代状況が変化してきたこと、その変化の中でダビデ王家の末裔が生きながらえていることが、民にとって解放と祖国への帰還の希望を残したのです。
人生は映画やドラマとは違います。だから、2時間見たら結末で終わるものでなく、その後も人生は続く。だから、時にハッピーエンドの後の困難もあるけれど、逆に悲惨な状況のまま終わるのでない。神さまの導きはその悲惨な中でも働いているのですから。私たちも困難を経験する時にも、悲嘆に暮れるのでなく、「神さまはここからどう導いてくださるか」と期待して問う信仰者でありたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝でエレミヤ書を読み終わりました。長い箇所でしたが、目先の出来事に翻弄されず、あなたのお約束と導きを信じ、誠実に生きることを学びました。どうぞ、私たちに状況を冷静に見定め、未来を信じ抜く信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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