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2023-03

3月12日~18日のみことば - 2023.03.11 Sat

ここ数日で一気にあたたかくなりましたね。
いよいよ春がやってきたという感じがして、ワクワクします。

しかし、今日は日本に生きる私たちにとってはあの未曾有の大災害「東日本大震災」「東京電力福島第一原子力発電所事故」を思い起こすときでもあります。
12年前の今日、九州に住む私たちは、テレビから流れてくる情報に驚き、その報道をかたずをのんで見守り、祈ることしかできませんでした。
災害の前にいかに人間が無力であるか。私たちは何をしたらいいのか、戸惑い、何かしなければという思いと、自分の状況からくる制限に焦りを感じたりしたことを思いだします。

あのとき、たくさんの悲しみと苦しみ、恐怖の前に、神さまに「なぜですか」と食らいつくような祈りをも祈っていました。それは、はらってもはらってもまとわりついてくるような「不安」「恐れ」からくる祈りでした。この暗闇の中で、神さまあなたはどこにおられるのですかと私たちは繰り返し神さまに問うていました。
そうして、私たちがその祈りの先に見出したのは「いと小さきものに寄り添うイエスさま」でした。

なぜこんなことが起こったのか、わたしたちはすべてを知ることはできません。
しかし、そんな絶望の中でわたしたちの心に示されたのは「貧しい人に寄り添い、悲しむ人と共に悲しみ、自分も共に痛むイエスさま」だったのです。
はからずも、この時期教会はイエスさまの十字架の苦しみを覚える受難節。
この時期が来るたびに、私たちはあの震災の痛みと、しかし同時にそれに寄り添ってくださるイエスさまの姿を思い起こすのです。

まだまだ復興は道半ばであり、原発事故に関しては未だ「原子力緊急事態」は解除されていません。
そこにはまだまだ悲しむ方々があり、多くの課題があります。
わたしたちは、これらを続けて覚え、イエスさまがそうなさったように「悲しむ人と共に悲しみ、泣く人と共に泣く」ことを通して、今なお苦しみを負う方々に連帯し祈ります。
そして、神さまが一人ひとりに与えてくださった尊い命が何よりも大切にされる社会が実現するように祈り、声を上げていきたいと決意を新たにされるのです。

ぜひ、皆さんも共に祈りを合わせてくだされば幸いです。
今週も皆さんの上に神さまの先立ちと伴いがありますように。

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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12日(日) エレミヤ書22章1-9節
一言メッセージ:今日と明日はユダの王への言葉です。1-5節は王としての心得を語っています。そこでは社会的に弱い立場にいる人たちを蔑ろにせず、彼らが理不尽な苦しみを受けないように配慮することが書かれていきます。注目したいのは3節の弱い立場の人たちリストの中に「寄留の外国人」が書かれていることです。現代で言うところの、戦争などによる難民や亡命者、祖国では生活が厳しいために「出稼ぎ」に出る外国人でしょうか。最近、日常の様々な場面で海外の方と接する機会が増えました。人間はすぐに身内意識が働くためか、マイノリティー(少数者)の方々に対して差別的になる傾向は世界共通です。以前、ネット記事で秀逸な記事を読みました。アメリカの航空会社の旅客機での出来事です。ある便で、一人の白人男性が、隣席にアフリカ系の方が座ることになり、「私はコイツの隣は嫌だ。席を替えろ」と騒ぎだした。すると乗務員さんが近づいてきて語りました。「お客様、大変、不愉快な思いをさせて失礼いたしました。代わりの席をご準備いたしましたのでビジネスクラスにお移りください。」そして、アフリカ系の方をビジネスクラスに移動させたそうです。秀逸でしょ?文句を言っていた男性は「人種」によって人を価値づけました。しかし、乗務員は「人権」でモノを考えました。神さまが「寄留の外国人」を保護対象と示すのは、正に人種でなく、人権の事柄だからです。私たちの周りにも差別はあります。その時、私たちが判断せねばならないのは国籍や同族意識でなく人権であり、集団意識でなく個人としての相手への理解です。聖書の教えは現代においても極めて適切なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝の記述の中に、「人種や民族で相手を判断するのでなく人権の事柄として、個人として相手を受け止めること」の示唆を見出します。格差がひどい社会では、弱い者がさらに弱い立場の人を蔑視して己を高く見せようとする愚かさが顕著になりますが、私たちはいつも、あなたが与えてくださった一つひとつの命を尊び、共に生きることを心がけることができますように。私たち一人ひとりを救うべく、十字架にかかられた救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(月) エレミヤ書22章10-30節
一言メッセージ:今朝の箇所はヨシヤ王の死後、南ユダ王国の混乱と滅亡(捕囚)に至る流れを示しています。10-12節ではヨシヤの子シャルムが書かれます。シャルムは幼名で、彼の王としての名はヨアハズです。ヨシヤ王がエジプト軍との戦争で戦死した後、南ユダでヨアハズが王位に就きました。しかしバビロン軍と戦い破れたエジプト軍は退散する際、バビロンへの防衛線として南ユダを利用するため、ヨアハズ王を捕囚としてエジプトに連行します。それが10節にある「引かれて行く」です。13節以下は、ヨアハズの後、エジプト寄りの王ヨヤキムの話です。しかし彼はバビロンの力が強くなると、今度はバビロンに貢物を贈り、取り入ります。その結果、強国への貢物の費用が莫大なものとなり、国民はますます疲弊しました。24節以降出てくるコンヤ(ヨヤキン)はヨヤキムの息子です。彼は在位3ヶ月にして侵略してきたバビロンに倒され、第一次バビロン捕囚によって連行されていきます。それが25節です。ちなみに、今日の箇所では書かれませんが、その後、ヨシヤ王の末子であったゼデキヤが最後の王となりますが、彼は周辺国と共に反バビロンを企てたため、最後は滅亡に至ります。エレミヤは今朝、南ユダの滅亡していく様を語りながら、人々に考えさせます。15節はヨヤキム王への語り掛けの形を取りながら、読者たる私たちへの問いかけです。「あなたの父(ヨシヤ)は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった」と。幸いとは何でしょう。豊かさとは何を指すのか。さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」で、アフリカにて働く医師の言葉が歌われます。「この偉大な自然の中で病いと向かい合えば、神さまについて、ヒトについて考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれど何か、大切な処で道を間違えたようですね」1987年の曲ですが、そのメッセージはますます現代に響きます。みことばは私たちに問います。「幸いとは何か、豊かさとは何か」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。南ユダ王国の滅亡に至る流れの中で、私たちは「幸いとは何か。豊かさとは何か」と問われます。その問いを日々の生活に即して考えていけますように、日々みことばをください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(火) エレミヤ書23章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はバビロン捕囚からの解放預言です。「南ユダ王国が滅亡する前にここまで語られていたか」と思うと、神さまのみことばの凄さを感じます。1-2節では民を顧みなかった王たちへの叱責が語られ、3-4節では神さま自らが民を顧み、ちりぢりにされた場所から連れ戻すと宣言され、5-6節では一度倒されたダビデ王家を象徴的に描きながら復興を語り、7-8節では民の歓喜が語られます。私にとって非常に印象的なのは7-8節です。そこでは、人々がもはや神さまのことを「出エジプトの奇跡を行った神」ではなく、「私たちをバビロンから連れ帰った神」と呼ぶと言及されます。それは、神さまが昔話の神、神話的な存在なのでなく、今の私たちにとって確かに向き合い、関わってくださる神さまだと、人々が実感を持って呼ぶようになると言われるのです。ここに私は「私たちの信仰もかくありたい」と思う。神さまを実感もって「わたしの神さま」と言える信仰です。どうか皆さん、今日は、自分が神さまとどう出会い、信じたか、もしくは何故教会に通うことになったか、どうして今も通っているのか、を思い返してください。そこに「神さまとは私にとって今も共に生き、導いてくださる方」という喜びが再度湧き起ってきてほしいと思います。今日は神さまと再び、しっかり向き合う日です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは南ユダが滅亡する前にバビロン捕囚からの解放すら預言される方です。民はこれから滅亡と捕囚という苦しみを経験します。でもあなたはその苦しみが永遠に続くものではないことを最初に示されます。神さま、私たちも時に苦難を経験します。でも、苦難の際にあなたが私たちを祝福し、必ず幸いに導いてくださることを確信させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(水) エレミヤ書23章9-40節
一言メッセージ:今朝の箇所は非常に長いですが、エレミヤの預言者たちへの預言をまとめた箇所です。エレミヤは自らが預言者であるからでしょう、預言者への批判の言葉は痛烈です。今朝の箇所では8つのブロックにわけて読むことができますが、その内容は深いところで通底しています。すなわち、「預言者とは神のみことばを受け、語り伝える者であり、自らの願望や思惑を神のみことばとして語ることは決して許されない」です。逆を言えば、祖国滅亡に至るのに、民にとっても耳触りのよいように「私たちはアブラハム以来の救いの約束をいただいた民族だから、神が見捨てることはない」と語るばかりで、神さまに真摯に向き合わない預言者が多かったのでしょう。この言葉は牧師には特に直球ですが、でも全てのクリスチャンにも「あなたは誰を信じてクリスチャンであるのか?」と問うてきます。以前も書きましたが、フィリピンのボクサーであるパッキャオは敬虔なクリスチャンで、彼は「クリスチャンとはchrist(キリスト)と共にある者。もしキリストがいなければian(I am nothing 私には何も無い)だ」と語りました。私たちはイエス・キリストを信じ、神さまの救いをいただき、今を生きています。「神さまか、世の風潮か」という二者択一的でなく、「神さまの御心を持ってこの世、社会を生きる」者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、エレミヤの預言者たちへの痛烈な批判の預言集でした。その言葉は私自身も牧師として身を糺されますし、全てのクリスチャンにとっても「私たちは誰を信じ、いまを生きているのか」と原点を問い直されます。神さま、どうぞ私たちが、改めてキリストを信じて生きていることを思い起こし、今日も導きと恵みに期待して生きられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(木) エレミヤ書24章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は第一次バビロン捕囚の後に語られた預言です。エレミヤは幻で良いいちじくと悪いいちじくの入った2つの籠を見ます。良いいちじくは第一次捕囚で連行された人々を指しています。一方、悪いいちじくは第一次捕囚の後、バビロンに対抗しようと画策した王や指導者たちを指しています。エレミヤから見れば、バビロンによって滅亡になるのは、自分たちの国が神さまを蔑ろにして来たがゆえの当然の裁きであり、それは受けねばならない出来事です。でも、それに抗う人々はあくまでも自分たちの知恵や算段で神に対抗しようとしているのです。そんな箇所の中で私が目を留めたのは5-7節です。第一次捕囚の民はバビロンに連行される際、財産も地位も名誉も奪われましたが、神さまは彼らを守り、連れ戻すと語ります。7節にこう記されます。「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」何も持たずに捕囚として連行された彼らですが、解放時には、神さまを「主である」との確信と、「真心」を得て帰ってくる。それは、ある意味で財産よりも貴く、生きる上での支えとなるものです。数日前、「幸いとは何か。豊かさとは何か」との問いかけをしましたが、その問いの答えに通じる恵みですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばであなたは捕囚とされた民が必ず解放されること、そしてその際に「神を主と知ること」と「神さまと真摯に向き合って生きる真心」を取り戻させてくださることを読みました。あなたが与える試練であれば、厳しさの中に幸いへの気づきがあることを思います。神さま、私たちも様々な、あなたに問いかけたい疑問を持ちつつ生きていますが、どうかいつか、あなたの真意に気づく時をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(金) エレミヤ書25章1-14節
一言メッセージ:13節の「この巻物」は、おそらくエレミヤ書24章までの預言です。エレミヤがバルクという人物に命じて、エレミヤの23年分の預言をまとめさせたようです。そこで語られるのは、「民は神を蔑ろにし、異教礼拝(ご利益宗教)に走ってきた。それゆえ、神はバビロンの王ネブカドネツァル(ネブカドレツァルと表記)を僕として、南ユダを滅亡させる」です。エレミヤから告げられた預言の凄さというのは「世界を席巻しようとする強国の王すら、主の僕である」という大胆さであり、そこに至るまでの神さまの粘り強さです。私が最も注目したいのは3-4節です。「23年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。」「倦むことなく」との言葉が二度繰り返されています。ヘブライ語の字義通りに訳せば「朝早く起きて事を成す」です。神さまが夜明けを待ちきれないほどの思いで、民を何とか早急に立ち帰らせ、救おうとしてきた表現です。23年です。何と長く、粘り強い期間でしょう。神さまの熱意は変わることなく南ユダに注がれていた。けれど、彼らは神さまの熱意を気に留めず、無下にした。神さまの祝福を「当たり前」とする驕り、怖いですね。私たちは神さまの粘り強さへ驚きと同時に、「だからこそ、神さまに誠実であろう」と心がけたいです。今日も私たち、神さまと誠実に向き合ってスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは24章までを前半の預言としてまとめました。そこで語って来たのは23年もの間告げられた、神さまの「私に正しく立ち帰れ」との呼びかけでした。その粘り強い促しは今も世界に呼び掛けられているものです。神さま、私たち、先にあなたの呼びかけに気づき、信じた者たちだからこそ、未だあなたを知らぬ家族や仲間たちのことを思います。どうか、彼らにもあなたを信じるきっかけと信仰をお与えください。私たちにもその一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(土) エレミヤ書25章15-38節
一言メッセージ:今朝の預言は、神さまが怒りを「杯」に見立て、南ユダから始めて、世界中に滅びを宣言する預言です。17-26節では世界の各国が列挙され、27-29節では「この滅びは免れようがない」と断言され、30-38節では凄惨な場面が預言されます。この具体的な実行が25.9で語られたようにバビロン王ネブカドネツァルによって世界が席巻されていく様であり、だからエレミヤは25.1にあるように、この預言をネブカドネツァル即位1年目に語っています。歴史を見ますと、ネブカドネツァルは在位期間40年の間、世界中で戦争を起こし、バビロンによる支配を確立していきます。が、今朝の預言で非常に目が留まるのは26節にて、そのバビロンすら最後には滅びていくと書かれていくのです。私はここに、「戦争とは何なのか」と感じます。世界を侵略する理由は富や地位。名誉などかもしれません。でも、平家物語が冒頭で「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」と語るように、人の栄華など一時期のものに過ぎず、権力の衰えと共に支配する者は没落していくものです。ならば、人は何のために覇権を握ろうとするのか。今朝の箇所において、エレミヤが語る預言は「最後、誰も勝者がいなくなる。あなたはそこで何が本当の幸いと思うか」と問うているように思えてなりません。21世紀になり、未だ戦争を終わらせられない私たちにエレミヤの言葉は、強く響いてきます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のエレミヤの預言では、神さまの怒りが全ての民を飲み込み、最後には支配者バビロンすら滅びていく様が語られました。その時、誰が勝者なのでしょう。人間の力への渇望は一体、何を生み出せるのでしょう。どうか、本当の平和を来らせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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