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2023-02

2月26日~3月4日のみことば - 2023.02.25 Sat

間もなく2月も終わります。
毎日様々なニュースが聞こえ、心がざわざわします。
トルコ・シリアの地震のニュースは減ってきていますが、今も家族の安否のわからない方々や特にシリアの情勢不安定のために安心して避難生活を送ることのできない人たちがいることを思います。
わたしたちにできることは多くはありませんが、祈りや募金などで少しでも支えることができればと願います。

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教会学校でも、子どもたちが地震の被害のために祈っています。
わたしたち大人も一緒に引き続き祈っていきたいと思います。


今週も皆さんそれぞれにおかれたところで共に祈り、みことばにきいていきましょう!

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
 ・訳名選択     : 新共同訳
 ・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
 ・書名選択     : エレミヤ書
 ・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

26日(日) エレミヤ書16章14-節
一言メッセージ:今朝の箇所はバビロン捕囚からの解放預言です。非常に目を惹くのは表題にあるように、バビロン捕囚からの解放を「新しい出エジプト」と捉えていることです。このエレミヤの預言は衝撃的です。それまで、民は「神さまはかつて先祖を救い出してくださったけれど、今やその影も形もない」と嘆いていた。神さまを「私たちには関係ない」と諦めた気持ちでしか考えていなかった。でもエレミヤは「神さまは今も生きておられ、今の私たちの苦難に対しても、かつてと同じく救いの御業を実現してくださる」と示したのです。主なる神さまは生きておられるのです。私たちは自分たちが困難に直面している時、また社会が不穏である時に、「聖書は神さまを力強く語るけれど、私たちはそんな実感がない」と疑ってしまう。でもエレミヤは語るのです。「主なる神が、今、あなたの人生において御業を成される。神は生きておられる」と。私たちは目先のことで右往左往するのでなく、神さまを期待して待てばいいのです。神さまはエレミヤを通して告げます。21節「それゆえ、わたしは彼ら(民ら)に知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる。わたしの手、私の力強い業を。彼らはわたしの名(存在)が主(絶対者)であることを知る。」今日は日曜日。主なる神さまと向き合うべく、共に礼拝に集いましょう。10:30に会堂とネットでお待ちしています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。エレミヤは「主は生きておられる」と改めて私たちに示してくれました。私たちは自分たちの課題や状況が困難であればあるだけ、「神さまはおられるのか」と疑います。自分たちの我慢や忍耐の限界を棚に上げ、神さまを疑います。でも、今日私たちは「主は生きておられるから信じ続ければいい」と示されました。神さま、あなたを信じます。どうか御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(月) エレミヤ書17章1-4節
一言メッセージ:今朝の箇所の表題は「ユダの罪と罰」です。南王国が2節「アシェラ(アシュタロテなどとも表記。土着信仰の女神で、雨をもたらすと信じられたバアルと組みで信仰され、雨が大地に降って作物が育つ過程を、バアルがアシェラと性交して子どもが生まれる様で理解して信仰。いわゆる、ご利益的な信仰。)」を拝んでいた罪を告発し、それゆえ3-4節で祖国が滅亡することを語っています。今朝私が注目するのは1-2節「ユダの罪は、心の板に、祭壇の角に、鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に明記されるものとなる」です。これは「今の世代の過ちが未来永劫に記憶され、子孫たちがその罪を知る」という意味です。私はこの言葉に今の私たちへの示唆も見出すのです。私たちは自分たちを無力で、ちっぽけな存在と考え、すぐに目先の事柄や感情に動かされます。でもエレミヤの示唆は、そんな私たちも「子どもたち、孫たちに対して責任を負っている」と告げる。私たちの言動は未来の子どもたちの模範となるのか、それとも残念極まりない罪とみられるのか。そう捉える時、私たちは今を生きることの責任を感じます。子どもたち孫たちに誇れる未来を遺すためにも、私たちは今を誠実に生きるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは未来への責任を考えました。私たちの言動は子どもたち、孫たちの未来を左右するかもしれません。特に、原発や憲法改悪は子どもたちを切実に追い詰めるでしょう。神さま、私たちは未来への責任を負っているからこそ、あなたに誠実に生きる者でありたいと思います。どうぞ今日も私たちに目を留め、御心に従わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(火) エレミヤ書17章5-8節
一言メッセージ:今朝は「主に信頼する人」という箇所です。エレミヤは「神に逆らう者は人間の力を信頼するが、そこには未来への保証がない。一方、主に信頼する人は、自分たちの限界や算段を超えて神の絶対的な祝福と導きをいただいて生き続ける」と語りました。それこそ「干ばつの年にも憂いなく、実を結ぶことをやめない」木々のように。先日、大好きな博多華丸・大吉の漫才で面白い話題があった。大吉さんが「ドラえもん」好きで詳しいのですが、華丸さんが「もし、ドラえもんの秘密道具を一個もらえるとしたら何をもらったら良か?」と切り出したのです。彼は続けてこう語る。「私ももう50を超えましたけん、そりゃ、子どもみたいなこと言うて…とは思います。でも、この年になると、辛い出来事を前にして、『あぁ、ドラえもんがいてくれたらなぁ』って思ったりすることもあるとです。」漫才では「ドラえもん」でしたが、私たち風に言えば「人生経験重ねてきましたけれど、誰でも時に、どうしようもなくて、『神さま…』って祈りたくなる時って、あるでしょう」ということです。そんな人々に対して、エレミヤは言う。「主に信頼したらよかやんね。」何故なら「主がその人のよりどころとなられる(7節)」からです。この「よりどころ」は単なる気休めでない。岩波訳では「頼み(根拠)となる」と訳されています。今日も、私たちの根拠である神さまを思いながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝エレミヤは「人間を信頼する人」と「主を信頼する人」を比較しました。考えてみると、私たちは誰しも時に、自分の手に負えず、周囲の協力すら助けにならぬ出来事に直面するのに、多くの人が、その時に本当に頼れる神さまと出会うことを後回しにしています。神さま、私たちはそういう人たちより一足早く、あなたを知り、信じ、平安をいただいています。どうか家族や友人、周囲の人たちにも、あなたを信じるからこその平安と希望を伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3月1日(水) エレミヤ書17章9-13節
一言メッセージ:今朝は「人間の心を知り尽くす神」という箇所です。エレミヤは人間について考え続けたのでしょう。彼が出した1つの結論は「人の心はとらえ難く病んでいる」です。同じ問題に直面したのがパウロです。彼はローマ7.15や19-25節で「人間は自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをする」と語っています。「私たちの心は『神の律法に従う』という法則を知っているのに、体は『罪の法則』に縛られている」とも表現しています。エレミヤもパウロも、「私たちは『こうありたい、これが正しい』と分かっているのに、それが困難を伴うものであったり、損になりそうなことであったり、願望と違う事柄であったら、見て見ぬふりしてしまうのだ。それが私たちにとって将来的に良くないことであるとわかっているのに」と語りました。そうなのです、私たちは神さまを信じたら善いと分かっているのに、一歩踏み出すことを躊躇させる自分もいる。でもエレミヤは10節で神さまの言葉を取り次ぎます。「心を探り、そのはらわたを究める(奥底まで知っている)のは主なるわたし(神)である」と。そのことばに私はホッとします。神さまは、私のいい加減さや恐れ、弱さも全部知っていてくださる。そのうえで「信じなさい。私を信じて生きたらいい」と促してくださる。私たちの問題を承知の上で、なお引き受けてくださる。であれば、私たちは安心して信じたらいい。信仰とは「誤りなく生きられるから信じる」ものではなく、「誤り多いながら、その自分から、委ねて、神さまに応答して生きること」なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたが私たち以上に私たちをご存じの方であってくださること、だから、自分の弱さすら委ねて信じて生きてよいことを分かち合いました。神さま、ただただあなたを信じます。どうか私たちを、みことばと礼拝を喜び、日々あなたの導きに期待して生きる者へと成らせてください。今日の一日もお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(木) エレミヤ書17章14-18節
一言メッセージ:エレミヤ書には「エレミヤの告白」と呼ばれる嘆きの言葉が5箇所あります。1つ目は11.18-12.6で、2つ目が15.10-21で、今朝の箇所が3つ目です。ここでエレミヤは「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしは癒されます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」と呼び掛けます。15節以下を見ますと、この時のエレミヤは「私たちの国は神によって北の国(バビロン)が攻め寄せてきて、滅ぼされる。私たちが神を蔑ろにしてきたからだ」と告げていましたが、その預言が実現しないために、人々から「主の言葉というならば、早く実現させてみろ」と揶揄されていたようです。冷静に考えて、エレミヤを揶揄した民は愚かです。その言葉が実現したら滅びるのは自分たちなのに、「本当だったらやってみろ」と語る。彼らが考えねばならなかったのは、「自分たちはいつ滅ぼされても仕方ない罪を犯している。でも、その災いを踏み留めてくださっているのは神さまであり、神さまが今も悔い改めを呼び掛け続けてくださっている」だった。現代でも、私たちは「戦争できる国にさせてはいけない」と言い続けていますが、こう主張しますと「日本は何があろうと戦争しないから、今の動きでも大丈夫」と言う人々がいます。そのくせ、自民党の改憲案が何を示しているか知りもせず、「憲法は古い」と主張する。原発も同じ構図です。私たちは神さまのみ言葉から社会を冷静に見極めねばなりません。今日も「神さま、御心を実現してください」と祈り、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は、エレミヤが自分を揶揄する人々がいかにいい加減で、願望と無理解ばかりで、神さまの示唆に基づかないものかを指摘し、嘆きました。神さま、私たちはそうならないために、あなたの御心を模索して生きます。どうぞ御心こそ実現してください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(金) エレミヤ書17章19-27節
一言メッセージ:今朝の箇所は「安息日の遵守」を呼び掛ける言葉です。この箇所はおそらくエレミヤの預言ではなく、後代の付加です。というのも、安息日規定が強調されるようになるのは、南王国が滅びた後のバビロン捕囚の時期だからです。バビロン捕囚の際、ユダヤの民は自分たちが神さまを蔑ろにしてきた罪を痛感しました。そこで改めて神さまに立ち帰ろうとしますが、既にエルサレム神殿は破壊されているし、何より自分たちはバビロンに連行されている。つまり、先祖伝来の礼拝所が無い。そこで彼らは「場所」に重きを置くのでなく、「礼拝する日」を重視し、安息日規定を強調するようになりました。さて、私たちは今日、この箇所から何を聞きましょう。コロナのため会堂に集えない人もいる今、また職種によっては日曜日もお仕事の人もいるし、遠方からネットで礼拝に参加くださっている人々もいる状況で「日曜日は会堂にて礼拝を守らねばならない」と縛り付けることが適切とは思いません。私が思うのは「そもそも安息日は、一週間の働きの中で神さまを覚えて礼拝することを大事と伝えている」という原点に帰り、「週の中で一日、それぞれの場、それぞれの時に礼拝を守ろう」という示唆です。単なる「お客さん」的に礼拝を眺めるのでなく、自分自身が礼拝者として神さまとしっかり向き合っての礼拝であってほしい。そのために、youtubeのアーカイブはお役に立てると思います。時と場は異なっていても一緒の礼拝に繋がりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「礼拝を大事に守る」ことを分かち合いました。コロナの国内感染が始まり4年目になり、私たちも「それまでの礼拝は日曜日に会堂に来れる人のためだけの礼拝だった」と反省しました。でも今は、時も場も異なっていても一緒に礼拝できるチャレンジを始めています。神さま、どうか私たち一人ひとりが礼拝を大事に守り、いつも、あなたとも教会とも、繋がっていることを確信させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(土) エレミヤ書18章1-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまがエレミヤに陶工の家に行くように命じるところから始まります。陶工は器を作るも、気に入らなければ壊し、土に返し、また作り直していました。神さまはエレミヤにそんな陶工の仕事を示し、「イスラエルの家に言え。私はこの陶工のように、お前たちにも成し得る。ある時、お前たちを断罪してもお前たちが悔い改めるなら、私は思いとどまる。一方、お前たちを祝福していても、お前たちが悪を行い、わたしに聞き従わないならば、幸いを思い直す」と預言するように命じます。これに対して民は11節以下では、神さまの呼びかけを聞かず、「我々は我々の思い通りにし、かたくなな悪い心のままふるまいたい」と反論したため、神さまは彼らへの裁きを告げるのです。この箇所を読みながら思い起こすのは、創世記2.6-7のアダム創造の物語です。神さまがアダムを、泥をこねて作りました。まさに陶工のように、です。神さまは泥をこねて人を形作りますが、仕上げに「その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」とある。この描写が告げるのは「人間は本来、塵芥に過ぎない存在。しかし、神さまはそんな人間を熱心に創造し、彼らを生かすべく『命の息(神の命)』を吹き入れてくださった。人は神さまと向き合い、神さまに命をいただいてこそ、本当の意味で『生きる』存在なのだ」です。にも拘わらず、今朝のエレミヤ書では、人間は自分たちの創造者を軽んじる。それは本末転倒な生き方なのです。新共同訳ではコヘレトですが、口語訳の伝道の書12章1節は名訳です。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」今日が私たちのこれからの人生において、最も若い日です。ここからの人生を祝福に充ちた日々に変えるべく、作り主である神さまをしっかり覚えましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は創世記や伝道の書を思い起こすみことばでした。私たちは時に驕り高ぶり、創造主なるあなたを忘れ、自分たちの能力や環境に依拠して、自分があなたに並び立つような勘違いに陥ります。神さま、どうぞ私たちの愚かさを正し、あなたに正しく向き合う者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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