10月30日~11月5日のみことば - 2022.10.29 Sat
間もなく10月も終わりますね。
ようやく秋らしい気候になってきて、教会の裏庭の柊木犀(ヒイラギモクセイ)が小さな花をたくさんつけて良い香りを漂わせています。
この柊木犀、実は今回改めて調べるまで、銀木犀だと思っていました。
金木犀は皆さんよくご存じのオレンジ色の良い香りのする花を咲かせる木です。そして、銀木犀はそのお花が白バージョン。で、教会ん裏庭のも白い小さいなお花を咲かせるんですね。だからてっきり銀木犀だと思っていたけれどそういえば葉っぱはギザギザだ…と思って調べてみたところ柊木犀との名前を見つけました。同じ木犀の仲間でもいろいろあるんですね。
この小さなお花がこれからどんどん地面に落ちてくると、幼児園の子どもたちがお砂遊びのお皿に砂とたくさんのお花を飾って何やらおいしそうな料理を作り始めます。今年もきっとシェフがたくさん現れることでしょう。
ところでこの柊木犀、その名の通りヒイラギのように葉っぱがギザギザなのですが、長年しげっているあたりの葉っぱを見るともはやとげの部分がなく、普通の葉っぱの形になっています。
何でも、このとげとげは年月が経つと取れていくそうで、確かに下の方の新しい葉っぱはまだとげとげがいっぱい。
なんだ。木の葉も人間と同じで年を重ねると丸くなるのか。。。となんだか妙に納得しました(笑)
今年の冬は寒くなるようですから、柊木犀の良い香りに鼻をくすぐられながら秋を十分に楽しみたいなと思っています。
皆さんの今週1週間の歩みも豊かなものになりますようにお祈りしています。
それでは、今週も日々のみ言葉をどうぞ!!
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30日(日) イザヤ書44章21-23節
一言メッセージ:今朝の箇所は21-22節がイスラエルに呼びかけた神さまの言葉で、23節は預言者による「喜び歌え」と賛美の促しです。注目したいのは22節「わたし(神)はあなた(イスラエル)の背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」の順序です。神さまは先ず「わたしはあなたの背き、罪を吹き払った」と語り、次に「わたしに立ち帰れ」と語っています。神さまの贖いがイスラエルの悔い改めに先立っているのです。「イスラエルが悔い改めたから、神さまが『仕方ない、赦してやろう』と受け入れる」という順ではない。ここには、神さまの先行する救いが示されています。私たちにとって実感できるのはイエスさまの十字架です。私たちがイエスさまの十字架を知る前に、そもそも自分が神さまに背いてきたことを知る前に、神さまは先に私たちを愛してくださり、イエスさまの十字架によって私たちの罪も弱さも痛みも後悔も全てを引き受けて贖ってくださっていた。神さまの救いが私たちの信仰に先立っていた。神さまの愛、赦し、贖いは私たちの悔い改めに先立っている。だから私たちは神さまに感謝し、信じ、神さまに応答していくのです。今日は日曜日、礼拝で神さまと向き合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たち人間は、神さまの御心を知らず、己の願望や都合、算段や経験に固執し、身勝手に生きてきました。でも、あなたはそんな私たちを先ず愛し、私たちがあなたを知る前に贖ってくださいました。その決定的な出来事がイエスさまの十字架でした。神さま、あなたに深く感謝します。今日は礼拝の時です。どうぞあなたにまっすぐに向き合う礼拝を行えますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
31日(月) イザヤ書44章24節-45章13節
一言メッセージ:今朝の箇所は、ペルシア王キュロスによるバビロン滅亡と、捕囚の民イスラエルの解放が神さまによって告げられる箇所です。読んでいきますと、イスラエルの民が神さまの言葉にどう反応したかが見えてきます。44.24-28では、誰もが大国バビロンが滅びるなどと思っていない時に、神さまはイスラエルを救うための解放者としてキュロス王を選び、45.1-8では「キュロスを選んだのはこの私だ」と宣言します。しかし45.9で神さまは「災いだ、土の器にすぎないのに自分の造り主と争う者は」と告げます。それはイスラエルの民が「ペルシアがバビロンが滅びるとか無い無い無い無い」と語ったからこその言葉でしょう。11節では、神さまは「あなたたちはしるしを求めるのか」と語っています。民が預言者に対して「そこまで言うんなら、ペルシアのキュロス王がバビロンを滅ぼす証拠を見せろ」と騒いだのでしょう。そこで神さまは「その証拠が今、あなたが生きている大地であり、万象だ。私は天地万物の創造主である」と示したのが12節なのです。この箇所に私たちは自分たちの信仰を振り返らされます。私たちは何を信じているのでしょう。自分の常識、経験、算段、思惑が私たちの神ですか?それとも、全知全能の主が神さまですか?神さまを信じるのであれば、私たちは自分たちの常識や経験、算段、思惑を持ちつつも、それ以上に「神さま、御心を行ってください」と期待しないといけません。今日から新たな一週が始まります。神さまの導きを期待して一週をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは自分たちの常識や経験や算段、思惑に捉われ過ぎて、あなたを軽んじていなかったでしょうか。もしそうならば、どうぞお許しください。私たちがいつもあなたの御心を思い、いかに日々の出来事の中で御業が行われるか、期待して生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
11月1日(火) イザヤ書45章14-25節
一言メッセージ:今朝の箇所で目が留まるのは15節です。預言者は神さまを「まことにあなたはご自分を隠される神」と語りました。「自らを隠す神」はキリスト教神学の大事なテーマです。宗教改革者マルティン・ルターは「神はその本来の業である愛を啓示するとき、怒りという非本来的な業の仮面の下に隠す。隠されているがゆえに、神の愛は認識の対象というより信仰の対象となる」と語ったそうです。確かに、神さまは愛の方ですが、四六時中、御自分を啓示しません。むしろ、私たちが過ちを犯した時ほど「神さまから離れていた」と諭されることが多い。なぜ四六時中、神さまは御自分を示さないのか。それは神さまが私たちを信頼してくださっているからです。私たちが自ら神さまと誠実に向き合い、信じ、生きることができると、神さまは信じてくださっているがゆえに、自らは控えめにされているのです。子育てをしていますと、10歳の長男と2歳の三男には向き合い方が変化します。長男は自分で何事も挑戦できるからこそ「やってみらんね」と促しますが、三男は危険なこともよく分からないまま突っ走るので、何事も親が助けます。そう考えると、自分で考えて行動できるように保護者が引っ込むことは信頼の表れなのです。「ご自分を隠される神」は私たちへの信頼の表れです。私たちは神さまの信頼に応え、誠実に御心を模索して今日をスタートしましょう。余談ですが、我が家の次男は発想が自由なので、危うさも感じつつ、信頼しています。何か、予期せぬ何事かをするんじゃないかと、ワクワクとドキドキを感じながら見ています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で預言者はあなたを「ご自分を隠される神」と語りました。面白い表現ですが、そこには私たちを信頼してくださるがゆえに一歩引いたところから私たちに目を留めてくださっているあなたを感じました。あなたの信頼に応えて生きられる私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
2日(水) イザヤ書46章1-13節
一言メッセージ:今朝の箇所は印象的な箇所なので、2日に分けて読んでいきます。今朝は1-7節を中心にします。神さまは捕囚中のイスラエルの民に向かって、「バビロンの神と自分を比べるような愚かなことをするな」と告げます。1節の「ベル」はバビロンの主神マルドゥクの別名であり、「ネボ」はマルドゥクの息子を意味します。民に見える構図としてはマルドゥクとネボは威勢を誇り、聖書の神が彼らに屈したからこそ、イスラエルの民は捕囚となったように見えています。でも、神さまはそんな人間の理屈にすら当てはまらず、ペルシア王キュロスによってバビロンを滅ぼし、マルドゥクも偶像に過ぎなかったことを示すと宣言されます。一方、3-4節は慰めの言葉です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを作った。わたしは担い、背負い、救い出す。」赤ん坊が生まれた時、両親や周囲の人々に祝福されて育ちますが、神さまはそんな愛に満ちた子育てに譬えながら「あなたたちの人生を私が背負っている。これまでも、これからも」と示したのです。私たちは改めて神さまを知らねばなりません。苦しい経験があるのは神さまがいないからではなく、その苦しさの中でなお私たちと共に生き、必ず最善へと導いてくださる神さまがいてくださることを知るためです。私たちは今日も神さまを身近に覚えて一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、あなたは私たちを生涯にわたって守り、導いてくださることを宣言くださいました。私たちは予期せぬ出来事が起こるたびに、あなたが本当に伴ってくださっているのかと疑ってしまいます。でも、あなたは捕囚の民に向かって、「あなたが生まれた時から命が終わる日まで私はあなたを背負い導く」と約束くださいます。神さま、あなたのお約束に感謝し、信じます。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
3日(木) イザヤ書46章1-13節
一言メッセージ:今朝は昨日に続きイザヤ書46章です。今朝注目するのは8-9節です。「背く者よ、反省せよ。思い起こせ、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。」短い言葉ですが大事な要素がいっぱいです。神さまはバビロン捕囚期に、神さまを信じられず、バビロンの神やバビロン王礼拝に屈した民を「背く者」と語ります。しかし、続く言葉は「思い起こせ、力を出せ」です。背く者を見捨てるのではなく、その者が再度、神さまに立ち帰ってこれるように「思い起こせ」、立ち上がれ、と呼び掛けてくださるのです。「思い起こせ、初めからのことを」は歴史を想起させること🄱あです。捕囚民の経験は「祖国滅亡とバビロンでの苦しい捕囚生活のことばかり」かもしれない。でも神さまは「それが全てではない」と示す。かつて奴隷であった民をエジプトから脱出させ、祖国へと連れ戻したように、バビロン捕囚は今、第二の出エジプトとして実現しようとしているのです。13節にて神さまは「わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない」と告げます。正にこの預言が語られた後、ペルシア王キュロスの軍勢がバビロンを取り囲み、バビロン王を見限っていた大臣や貴族たちは王を排斥し、キュロスに降ります。戦すらなく崩壊していくバビロンを見て、イスラエルの民は神さまの御業を知るのです。神さまは今日、私たちにも同じように告げられます。「わたしは神、ほかにはいない」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にてあなたは、あなたに背いてきた者を排斥せず、救うと宣言されます。あなたを忘れていた者に御業を思い起こさせ、信じて期待することを示されました。神さま、私たちもあなたが私たちの神と思い起こします。どうぞ安心して一日をスタートさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
4日(金) イザヤ書47章1-15節
一言メッセージ:バビロンへの神さまの裁きの言葉です。印象的なのは1節で強国バビロンが「おとめ」と称されていることです。神さまの前に、人間の力が小さな抵抗に過ぎないことを告げる譬です。今朝の箇所全体を通して言えることは、バビロンは己が軍事力に驕り、真理を見失っていたとの指摘です。バビロンが我が世の春を誇り、8節、10節と二度にわたって「わたしだけ、わたしのほかにだれもいない(わたしと並び立つ者はいない)」と驕り、10節では「平然と悪事をし、『見ている者はない』と言っていた」と指摘されます。しかし神さまは続けて「お前の知恵と知識がお前を誤らせ」たと告げました。神さまは驕る者を冷静に見ておられるのです。先週、山際議員が経済再生担当大臣を辞職しました。衝撃だったのは、大臣辞職後に議員辞職を否定した彼が「法には触れていない」と言ったことです。彼の理屈から言えば「法に触れなければ、あるいはバレなければ何も問題ない」と思っていたのでしょう。彼が懇意にしていた統一協会がどれほど人々の人権や生活を破壊していても「関係ない」と考えているのでしょう。彼の経済に対する素養は知りませんが、この人物を経済再生の顔役だったなんてブラックジョークです。しかし、これは山際議員だけでなく、「民を養う」という政治の本質を知らぬ驕りこそが今の政権なのだと思わされます。驕ったバビロンに対して神さまは「お前の知恵と知識がお前を誤らせた」と告げます。神さまは今、この日本を、この世界をどう見ておられるのでしょうか。私たちは誠実に生きる者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さまがバビロンに告げた言葉は今の日本にも当てはまるように読みました。あなたは驕る者にも目を留められ、その過ちを指摘し、民の生活を整えようとしてくださる方です。神さま、今、世界はあなたの秩序の回復を必要としています。どうぞ命と尊厳を喜び合って生きる世を回復させてください。私たちにその一助を担わせてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
5日(土) イザヤ書48章1-11節
一言メッセージ:いよいよ神さまの御業として、バビロン滅亡が起ころうとしていると告げる箇所です。48章はとても興味深いので、三日かけて読んでみます。今朝注目したいのは、神さまは救おうとするイスラエルに対して、結構、厳しいことを言っていることです。1節では「まこと(真実)なく、恵みの業をすることもないのに、主の名によって誓い、イスラエルの神の名を唱える者」、平たく言えば「捕囚期に神にも互いにも不誠実であったのに、口先だけは一丁前」と指摘します。3-5節では「数百年前から預言者を通して民の滅亡と救いを告げてきたのに、非常に頑固で身勝手で、神の言葉を聞こうともしなかった」と告げますし、5節では「実際、国が滅亡したら『神が自分たちを守らなかった』と責任転嫁しかねない」と告げ、8節では「お前は裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者と呼ばれていることをわたしは知っていた」と言います。普通に考えて、「神さま、本当に救う気ある?」と思うほどボロクソに言うのです。でも、正にここが大事なところです。神さまはイスラエルの弱さを冷静に知ったうえで、なお救おうとされるのです。以前、従軍慰安婦はあったのかどうかを題材にした「主戦場」という映画を見ました。映画では「強要は無かった」と主張する櫻井よしこさんや自民党の参院議員の杉田水脈さんは「日本軍がそんなことをするわけがない」と発言していました。正直、呆れました。「○○がそんなことするわけがない」は希望的観測です。誰もが平常時であれば戦争犯罪などするわけがないでしょう。でも、平常時でないのが戦争です。殺人を強いるため、他者の人権を徹底的に否定するのが戦争です。実際、アウシュヴィッツ収容所の所長であったルドルフ・ヘスの戦後裁判の記録を見ますと、彼は異常者でも性格破綻者でもなく、職務に忠実で、家庭では良き父・夫であり、酒も遊びもさして行わず、教養も備える平凡な人物でした。しかし、そんな彼がアウシュヴィッツの所長でした。それが示す恐ろしさは、戦争は普通の人に異常な事態を強いて「仕方ない」と思わせることにあります。神さまはイスラエルを愛しているからといって「そんなわけがない」と盲目的に庇うことはしません。彼らの罪や過ちはちゃんと指摘します。知ったうえで、その罪をも含めて整え、救おうとされるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所にて、あなたはイスラエルの民を盲目的に庇わず、弱さも罪もしっかり指摘されました。私たちは自分の身内は心情的に「悪くない」と決めつけ庇おうとしますが、だからこそ、問題をより複雑に、そして泥沼化させてしまいます。でも神さま、あなたは全てをご存じの上で、それでも私たちを救おうと決意くださる方です。どうぞ私たちも、あなたに自分を隠さず、きちんと悔い改めることできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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