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2022-10

10月2日~10月8日のみことば - 2022.10.02 Sun

10月になりました。
夜に聞こえてくる虫の声もすっかり変わって涼やかになってきました。
異常気象が心配される昨今ですが、こうして四季の移り変わりを感じることができるのも感謝なことだなあと思わされます。
この、与えられている大事な自然をどう守っていくかということは神さまから私たちに託された大切な使命の一つだと改めて感じる秋の夜長です。

暑さ和らいできたとはいえ、日中は暑いですし、季節の変わり目は体調を崩しやすい時ですから、皆さんも十分用心しつつ、この秋のきもちいい季節の中で神さまの創造の業に思いをはせるひとときを持つことができますように。

今週も、皆さんの上に神さまの守りと先立ちをお祈りします。
では、今週のみ言葉をどうぞ♪

(写真は先日の講壇のお花)
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***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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10月2日(日) イザヤ書33章17-24節
一言メッセージ:今朝の箇所は32章から続く、1つの預言集のまとめの箇所です。今朝の箇所は32.1-8で読んだ理想の王について再度語っています(32.1-8は安倍元総理の「国葬」の日に読みました)。神自らが理想の王として人々の前に示される時、己の威容や軍事力を誇ってきた支配者たちがぐうの音も出ずに黙り込み(19節)、民は落ち着きと同時に、誰の目にも明らかな神の秩序の中で安心して生きられるようになるのです。大事なものは神の秩序による正義です。27日(火)、安倍元総理の「国葬」の日、西南大学でシンポジウム「国葬を考えるが行われました。4人のパネラー(大学教授)が口をそろえて語ったのは、「安倍元総理の政治は国民に『自分たちが反対の声を上げても、権力者の横暴は止まらない』と失望感を与えてきた」でした。確かに、過半数の議席による強行採決、議会の承認なしに内閣の方針決定に過ぎない閣議決定を議会の決定事項のように扱い、公文書改ざんに虚偽発言、加えて、日常的に繰り返された質問に答えない自己主張だけの答弁などなど、あまりのやりたい放題ぶりに多くの国民が唖然としました。しかし彼は止まらなかった。審議する暇を与えないほどに次々に暴挙を重ねました。その結果、多くの国民が「権力者のルール無視は止められない」と思い込まされたのでした。でも、イザヤは告げます。横暴な権力者の行いは神さまの前に決して看過されない。その言動は必ず神さまによって検証されていく。「まことに、主は我らを正しく裁かれる方(22節)」だからです。今日も私たち、神さまを信じ、目先の事柄でなく、さらに先の未来、神さまが導いてくださる未来を期待しながらスタートしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。神さま、私たちの社会は今、権力者の横暴に振り回されることに嫌気ばかりを感じ、あなたの御心に沿った揺るがぬ指針を必要としています。民が安心して生きられるために、一日も早くあなたの御心に基づく平和と指針をお与えください。そのために、私たち自身もあなたの御心の実現のため誠実に生きる者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(月) イザヤ書34章1-17節
一言メッセージ:34-35章は「諸国民への審判」と「ユダの救い」がセットで書かれる箇所です。今朝の箇所はそのうち「諸国民の審判」の部分です。エドムという民族が神の裁きによって滅ぼされていきます。エドムは創世記に登場する族長ヤコブの双子の兄エサウの子孫です。イスラエルの長い歴史の中では比較的友好な関係なのですが、バビロンによる南王国滅亡時には、バビロン側に積極的に与したため、捕囚後のイスラエルとは緊迫した関係にあります。今朝の箇所はそんなエドムへの強い民族的な敵意が露骨に表現されているため、少し厳しさを差し引きながら読んだ方がいいかもしれません。そんな中、注目したのは16節前半です。「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。」イスラエルの歴史から言えば、民族史は祖国滅亡を含め、紆余曲折だったはずです。でも紆余曲折を経て、みことばを振り返ってみた時、神さまのみ言葉(神の約束、示唆、指示)は何も曲がっていなかった、と預言者は言うのです。私たちも自分たちの人生を振り返ってみましょう。おそらく誰もが、自分の「こうありたい」との予定や願望と違う出来事に直面し「こんなはずじゃない」と苦しんできたことでしょう。でも、時間が経って振り返った時、不思議なことに「あの労苦があったから、この出来事を乗り越えることができた」とか「願望と違う歩みだったからこそ、この人に出会えた」との確信を見出すのではないでしょうか。神さまは私たちの挫折も含めて、私たちに必要な導きを行ってくださる方なのです。神さまを信じる時、人生に無駄はありません。傷、後悔、不要な出来事すら、神さまの整えの中で意味を持つのです。私は信仰を持っている人生で良かった。今週も神さまの導きを信頼して歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたの導きは、問題の渦中の私たちにとっては災難としか思えません。でも神さま、あなたは必ず後に、その問題すら私たちの人生を彩るあなたの祝福と知ることでしょう。神さま、その気づきに至るまで、私たちを守り導き続けてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(火) イザヤ書35章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は、神さまによってイスラエルが回復されていく救いのことばです。神の御業によって、荒れ野や砂漠が植物や作物を実る潤った大地に変わり、身体的な老化やハンディを抱えた人々が癒されていく記述です。その一方で注目したいのは4節後半、神さまが敵を裁く記述です。「見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちは救われる。」「悪に報いる」と読むと、「怒りによる悪事への報復」という意味合いを感じます。しかしヘブライ語原典にはその「特定に相手に対する敵意」といったニュアンスが無いのだそうです。ここは「神がその御心に基づいて、全ての人に対して、その行動に正しく相対する」です。その結果、御心に背いてきた人々は己の過ちを向き合わされ、御心に即して生きてきた人々は祝福をいただく、というのです。神さまは私たちを冷静に見定められるのです。私たちも自分たちの生活、普段の言動を「神さまの御心に即しているだろうか」と振り返って、一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちに「神さまの御心に即して日々歩んでいるか」と問うてきます。神さま、私たちがあなたに少しでも誠実に向き合えていると思えるなら、どうぞ祝福し、ますます毎日を喜びと平安に満たしてください。もし「御心に即していない」と思うならば、一歩ずつでもあなたと誠実に向き合って生きるように勇気づけ、あなたを身近に感じられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(水) イザヤ書36章1-22節
一言メッセージ:今朝からの箇所は列王記下18.13以下にも記されていた物語です。内容もほぼ列王記と同じです。改めて、数日に分けて読んでいきましょう。南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代です。アッシリア王センナケリブが軍を率いて攻めてきます。センナケリブは将軍ラブ・シャケを派遣し、ヒゼキヤ王の腹心と民衆の前で降伏勧告を行います(4-10節)。勧告のポイントはこうです。「①ヒゼキヤはエジプトの援軍を期待しているが、エジプトは弱い。②ヒゼキヤは民衆に対して「主に依り頼む」と語るが、ずっと神に誠実であったわけではない。神への礼拝所に異教礼拝を持ち込みもした。③二千頭の馬を与えるから、力比べをしよう。自分たちの脆弱さを知って降伏せよ」です。ヒゼキヤ王の腹心たちはラブ・シャケがユダの言葉で語るのを聞いて、「アラム語で話してくれ(民に聞かせないでくれ)」と願います。けれど、ラブ・シャケは正に、民が動揺することを狙っているので、さらに言葉を繋ぎます。11節以下は民への揺さぶりです。要点を追加します。「④アッシリアに降伏するならば生活は保障するが、降伏しないならば民を奴隷にする。⑤そもそもお前たちが神を頼るが、これまでアッシリアが滅ぼしてきた国々にも守護神がいたし、その神もアッシリアに敗れてきた。イスラエルの神に何ができるか。」ラブ・シャケの挑発は厳しいですが、私はこの箇所で21節の民の反応に目が留まる。民は「答えてはならないと(ヒゼキヤ)王に戒められていたので」、沈黙を貫きます。そこにはヒゼキヤへの、引いては神さまへの信頼が見えます。さて、この後、物語がどうなるかは明日、続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝からはアッシリアによる侵攻を読み始めました。今朝の箇所でイスラエルはアッシリアの降伏勧告に怯え切ったでしょう。でも、民は沈黙し、耐えます。私たちはその沈黙に、あなたへの信頼を見出します。神さま、あなたが彼らにどう応えるか、明日以降、私たちに示してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

6日(木) イザヤ書37章1-20節
一言メッセージ:昨日の物語の続きです。王の腹心たちはヒゼキヤ王に、アッシリアの将軍ラブ・シャケの降伏勧告を報告します。すると37.1でヒゼキヤ王は「衣を裂き、粗布を身にまとい」ます。これは悲嘆の行動です。ヒゼキヤはすぐに腹心たちを預言者イザヤに遣わし、神のお告げを願います。イザヤは「アッシリアを恐れるな。彼らは撤退する」と告げますが、その知らせを聞いたヒゼキヤにさらにラブ・シャケから知らせが来ます。「クシュ(エジプト)の援軍が向かっていると聞いたろうが、エジプトが頼りになるか。お前たちの神を頼るが、神はお前たちを救えるか。」この挑発にヒゼキヤは腹が据わります。彼は神殿に赴き、ラブ・シャケの手紙を神の前に広げ、こう祈るのです。「万軍の主よ、アッシリアの言葉を聞かれたことでしょう。彼らは確かに他国とその国の神を滅ぼしてきました。しかし、その神らは人間が造った偶像に過ぎません。本物の神はあなたです。どうぞ私たちに、あなたこそが真の神であることを示してください。」ヒゼキヤの指摘はとても的確です。人は強大な力を前にしますと、自分が無力であることに怯え、自分が頼りにしていたものが心もとないものであると考えてしまいます。でも、信仰を誤解してはならない。私たちが小さく弱くとも、私たちの信じる神は偉大です。人の想像物でなく、世界を創造なさった方です。私たち人間も神さまの被造物に過ぎない。ヒゼキヤは追い込まれた末に本当に頼るべき神さまと向き合いました。神さまはどうヒゼキヤに応えるか。明日も続きを読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ラブ・シャケの挑発を受け、ヒゼキヤ王は強大な力と向き合いながら、本当に頼るべきは主なる神さまであると悟りました。神さま、今の世界でも権力を持つ者の横暴が続き、その力の前に民が「どうしようもない」と諦めを感じています。しかし、人の力などあなたの前にあった何ほどのものでしょう。神さま、どうぞ私たちにも悟りと信仰をお与えください。何が起ころうとあなたを信じ抜く信仰をお与えください。そして平和の御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(金) イザヤ書37章21-38節
一言メッセージ:今日もアッシリアのイスラエル侵攻物語の続きです。神さまはヒゼキヤの祈りを聞き、預言者イザヤを通して、アッシリアに「お前は誰をののしり、侮ったか(23節)」と告げます。自らを神に並ぶ者、神を超える者かのように驕ったアッシリア王センナケリブに「所詮、お前が人間でしかないことを明確に示す」と告げ、「わたしはお前の鼻に鉤をかけ、口にくつわをはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする(敗戦者が奴隷として連行される描写。29節)」と宣言します。30-31節では、エルサレムを取り囲む兵が撤退し、畑を荒らされ、植え付けができなかった民が、それでも畑の落穂から、また自然に生える作物で問題なく食べていけると、つまり戦時だけでなく平時の守りの約束の預言さえ与えたのです。そして神の業が始まります。36-38節では「み使いが現れ」、多くのアッシリア兵が死に(病死?)、撤退していきます。とても印象的なのは38節、アッシリア王が首都ニネベにて息子たちに殺害されていることです。絶大な権力者が、たった二人にあっけなく倒されていく。ここにも、人間の力の儚さが見える気がしますね。ヒゼキヤ物語は「本当に頼るべきは主なる神さまだ」ということを改めて私たちに告げています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。3日かけて読んだアッシリアの侵攻物語は、どれだけ力を誇ろうとしょせん人間は人間に過ぎず、神さまの前に無力であることを示しました。私たちも、自分たちの目に見える力の強さに右往左往するのでなく、神さまを頼りとし、冷静に今の時代を生きることできますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(土) イザヤ書38章1-22節
一言メッセージ:今朝の箇所はヒゼキヤが病になり、神さまに祈って命を延ばしていただくという話です。列王記下20章にも記される話です。相違点は列王記では「干いちじく」を患部にあてて病がが癒されるのに対して、イザヤ書では「干いちじく(21節)」だけでなく、8節「日時計が十度後戻りする」が加わっていることです。今朝注目したいのは10節以下のヒゼキヤ王の感謝の歌です。前半10-14節ではヒゼキヤは自分の命が終わりを知り、命のもろさ、儚さを深く嘆きます。だから、この部分では主語が「私、わたし」とヒゼキヤの視点ばかりです。しかし変化が起こる。「わが主よ、どうかわたしの保証人となってください(14節終わり)」、16節「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます」これ以降、少しずつ主語や動作の主体がヒゼキヤでなく「主(神さま)」へと変化していきます。20節などを見ると「主よ、あなたは」と完全に主語が切り替わっています。これはどういうことか。「わたし」の思惑だけで「生きたい」と考えていた時のヒゼキヤは、予期せぬ命の終わりに翻弄されるだけでした。しかし、人生の主語が「神さま」に変化していく中で、ヒゼキヤは御心の中で生きることへの信頼が大きくなっていくのです。17節は「見よ、わたしの受けた苦痛は平和のためにほかならない」ですが、「平和のため」を別の聖書訳で見ますと「我が幸福のため(口語訳)」「平安のため(新改訳、文語訳)」と訳されています。「幸福、平安のため」は個人的な事柄の印象が強いですが、新共同訳「平和のため」は個人を超えて社会的な響きを含みます。王であるヒゼキヤが死の宣告を受けて苦しみながら、でも神さまと向き合い、神さまの導きに信頼した時、自分の命をも御心の中で導いてくださる神さまへの信頼を強く得たし、その姿が民にとって証となっていくことを意図しているのです。信仰は他人に見せびらかし、評価を得るためのものではありませんが、でも私たちの真摯な姿勢が周囲の人々に「信仰がどれほど私たちを勇気づけ、誠実に生きさせるか」を伝えてもいます。今朝、わたしたちがヒゼキヤの感謝の祈りを見ながら、励まされているように。私たちも生き方を通して神さまを証ししていく者となりたいものですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。自分の命が終わろうとした時、ヒゼキヤは嘆き、苦しみました。その姿に私たちは自分たちの姿を重ねます。予期せぬ不幸に直面した時、私たちは「どうしてわたしが」と落ち込むばかりです。でもヒゼキヤは嘆きの中であなたと向き合い、あなたの導きを信じて平安を得ました。神さま、私たちも危機の中で、なおあなたと向き合います。どうぞ日々、あなたが私たちに近しく伴ってくださることを実感し、あなたを感じ、希望と平安をいただいて日々過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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