9月11日~17日のみことば - 2022.09.10 Sat
台風一過。朝晩は涼しさも感じるようになりましたね。
10日は中秋の名月ということで、少しずつ秋の訪れを感じるようになりました。
月と言えば、古代の神話などでは太陽と並んで神的な存在として捉えられることもしばしばあったようです。(インターネットで調べるとWikipediaにも「月神」という項目がありました)
では、聖書ではどんなふうに書いてあるのかというと…
聖書で初めて月が登場するのは有名な創世記の天地創造物語です。
1章14~16節にこうあります。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
おもしろいことに、ここでは月のことをちゃんと「月」と呼ばないんですね。遠回しに「光る物」と呼んでいます。太陽も同じように「光る物」としていますね。
こんなまどろっこしい書き方をしているのにはちゃんと理由があります。
それは、当時神としてあがめられていた存在すら、唯一の神さまに作られたものであって、太陽や月そのものが神ではないということを強調するためにこのように書かれたといわれています。
わざわざそんな書き方するなんておもしろいですね。
教会において聖書は神様からのメッセージ。
でもそれだけでなく、細かい「なるほど!」を知るのもなかなか楽しいのです。
水曜・木曜の聖書の学びと祈り会では、こんな「なるほど!」や「これはどういう意味だろう…」をみんなで分かち合っています。クリスチャンであっても聖書を全部理解しているわけではありません。だからこそ、みんなであーでもないこーでもないといいながら学び合っていくのが楽しかったりするのです。
日曜日の礼拝はもちろん、水曜・木曜の会にもぜひ足を運んでみてくださいね。
少人数で和気あいあいと楽しい時間ですよ。
時間など詳細は左のリンクの中の「久留米教会ホームページ」から「集会案内」をご覧ください。
それでは、今週も皆さんの上に神様の守りがありますように!
今週のみことばをどうぞ!!
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※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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11日(日) イザヤ書28章7-13節
一言メッセージ:今日は9.11ですね。今から11年前のこの日、世界は力と繁栄の象徴的な建物だったニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた二機の旅客機が突っ込む映像を目の当たりにし、言葉を失いました。あれから11年、世界はなお、平和とは程遠い現実を体験し続けています。この混乱と戦乱の中、今朝の箇所は何を示すのでしょう。今朝の箇所は昨日の続きです。北イスラエルが滅亡し、今度は南王国にもアッシリアの脅威が迫ってきました。ヒゼキヤ王はアッシリアに懐柔し、何とか国を保とうと画策します。そんな中、イザヤは祭司や預言者たちへの批判を展開します。イザヤの思いは、祭司や預言者は神さまの御心をこそ模索し、みことばをこそ語る存在であるのに、彼らは現実に翻弄されてフラフラしているだけで、酔いどれのようだと叱っています。彼らの語る言葉は「汚物(8節)」のようであり、言葉を話し始めた幼児が単語だけを連呼するように、「命令に命令、命令に命令。規則に規則、規則に規則」と中身の無い戯言を繰り返すだけにしか見えないのです(10節)。イザヤに言わせれば、神さまが語っておられたのは11節のように、「今、迷う人々に安息を与え、神こそが憩いと告げよ」と言われているのに、祭司たちは理解できないのです。数週前の宣教でも語りましたが、クリスチャントゥディという保守系キリスト教情報誌のコラムを担当する牧師(他教派)は、安倍元総理の国葬問題について「国が決めたことだから、国葬に従うのが主の御心」と、とんでもなく愚かな発言をしていました。クリスチャントゥディも出版当初、統一協会の幹部が発起人に名を連ねており、だから一時期は統一協会をキリスト教の一派と主張していた新聞でもあります。これも、「祭司や預言者が神さまの御心以前に、政治的に動き、神さまの御心を模索し、みことばを語るという本質からズレた現状」と言えましょう。私たちはイザヤの指摘を忘れてはなりません。御心を模索し、みことばに聞いて生きるからこそ、クリスチャンです。今日は日曜日。今朝も共に礼拝に集い、みことばに聞きましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはアッシリアの圧力に揺れ動き、神さまの御心とみことばという本質を見失う祭司たちを痛烈に批判しました。その言葉を読みながら、私たちも自分たちの在り方を再度、問われます。神さま、どうぞいつもあなたの御心とみことばに誠実な私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
12日(月) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:この箇所は極めて大事な箇所なので、四日にわけて考えたいと思います。最初の今日考えたいのは「力に頼るから力に滅びる」ということです。今朝の箇所を時代背景になぞらえて考えますと、これは北イスラエル滅亡後、強まるアッシリアの圧力に対して、ヒゼキヤ王が南の大国エジプトに頼ることによってアッシリアに抗しようとした政策への痛烈な批判です。15節で指導者たちが「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない」と語っていますが、これがエジプトとの同盟を指しています。ヒゼキヤ王たちは大国エジプトの後ろ盾があるからアッシリアは攻め込まないと言いますが、イザヤは「愚かな政策をとるからこそ、かえって洪水(アッシリア)を引き寄せている」と言うのです。これは単なる信仰的なモノの見方だけでなく、この見解の現実的な正しさは歴史が証明しています。今年の「平和を覚える月間」のため学んだ事例の1つを紹介します。太平洋戦争時、沖縄の慶良間諸島は米軍が最初に上陸した地域です。この慶良間諸島の中の小さな島・前島の国民学校分校に戦中、比嘉さんという校長がおられた。日本の友軍が前島に基地を作ろうとした時、この比嘉校長が「基地ができるから攻撃される。前島には基地を作らないで」と何度も何度も嘆願したそうです。そのしつこさに怒った将校は「敵が攻めてきても前島は守ってやらん」と宣言し、島を離れたそうです。1945年3月23日、米軍が慶良間諸島に上陸します。米軍は事前の調査で前島に基地がないと確認していたので、他の島に上陸しました。お隣の渡嘉敷島では米軍が上陸し、戦死者の他、330名の集団自決による住民の被害が生じました。今年7/19に亡くなった金城重明先生は当時16歳、渡嘉敷島にいて、「敵兵の手に堕ちて辱めを受けさせないために」とお兄さんと共にご両親、弟妹さんを殺めた被害者の一人でした。イザヤが語る「力を持つからこそ力によって滅ぼされる。武器を棄て、生きよ」との呼びかけは極めて確かな事柄なのです。残りの事例は明日以降、またご紹介しますね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイザヤは、神を信じるからこそ、大国という力に頼らずに、平和に生きることを告げています。それは決して夢想ではありません。それは歴史が証明します。神さま、どうぞ世界が、武器を捨てて、互いに理解と共存を持って平和を実現できることに気づきますように。私たちにも、その一助を担わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
13日(火) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:昨日はイザヤの言葉から「力を求めるからこそ力によって滅びる。力を棄てるからこそ平和を実現できる」と、慶良間諸島の例から分かち合いました。今朝は同じことを、南米のコスタリカを例に考えてみたいと思います。この夏に読んだ本の1冊が足立力也さんの『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカ60年の平和戦略~』(扶桑社新書)です。「アメリカの裏庭」と呼ばれ、北米と南米を繋ぐ中米の1つコスタリカは、世界で日本と共に、憲法に軍隊放棄を明文化した国です。第二次大戦後、中南米はアメリカも絡み、様々な紛争が後を絶たない地域ですが、コスタリカはアメリカを支持する政治スタンスを保ちながら、「軍隊を持たない、戦争をしない」ことを戦争の抑止力としています。日本と似ていますが、日本は米軍基地を提供したり、「思いやり予算」があり、小泉政権以降は「軍事そのものには参戦しない」と言いながらも自衛隊の海外派遣もしています。安倍政権時代には解釈だけで集団的自衛権の行使容認まで閣議決定で決めました(ちなみに、閣議決定はあくまでも内閣の方針決定でしかなく、議会の決定の上位に立つことなどできません。これを無理やり押し通し、議会制民主主義を蔑ろにしたのが安倍政権でした。強行採決を含め、民主主義を壊してきた彼が「国葬」になることの意味が分かりません。私は大反対です)。つまり、日本はアメリカにすり寄る仕方で「軍隊の放棄、戦争の拒否」を主張していることになります。ではコスタリカはどうか。1987年にオスカル・アリアス・サンチェス大統領が「積極的永世非武装中立宣言」を出します。「永世非武装中立」は「永遠に、非武装で、中立でいます」ですが、「積極的」とは何か。それは「紛争が起こった時には積極的にその仲介に関わります」という意味です。その立派な根拠が「軍隊を持たない」という非武装であることです。非武装だからこそ、紛争国は安心してコスタリカに中立で和平を模索し、被害を最小限に減らすことができます。さらにコスタリカの賢さは「紛争国の民主主義や国民の自由、人権を守るため」という大義名分を掲げることです。その大義名分はアメリカが紛争に介入する際に使用しますから、コスタリカは「アメリカの目指す、平和で民主的な世界を実現するために紛争仲介に入る」と理由付けができるのです。アメリカも自分を支持するコスタリカの行動によって国際的な信頼も得ることになる。こうしてコスタリカは、「非武装」によって非常に賢く、自国の存在価値を高め、結果的に「あの国を攻めてはいけない」という抑止力を得ているのです。「軍を持たない、戦争しない」ことが平和につながる国際的な実例です。日本も小泉政権以前までは憲法を盾に、アメリカの紛争介入に付き合わない姿勢を貫いてこれました。だから日の丸は国際的な信用にもなっていたと言います。私たちの国、まだ憲法は変わっていません。まだ「非武装、戦争の拒否」による国際平和構築の貢献国になれるはずです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今日はイザヤが示す「力を求めないからこその平和」について、コスタリカの例を分かち合いました。非武装だからこそ紛争国同士の仲介に入れて信頼をかち取れること、それが抑止力となってと学びながら、私たちの国も同じ可能性を感じます。神さま、私たちの国の憲法は今も世界にとって先進的な平和実現の可能性に満ちています。戦争する「普通」の国になり下がることなく、憲法を活かし、あなたの平和シャロームのために貢献できる国となれますように。平和の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
14日(水) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:今日も「力を持たないからこそ平和を実現できる」ことを考えたいと思います。昨日はコスタリカの例をあげ、コスタリカが軍を棄てたからこそ、紛争国の仲介国として信頼度を高め、抑止力を得ていることを分かち合いました。今日は「では日本は何ができるのか」を考えたいと思います。私が思っているのは、自衛隊の働きの2つの特徴です。1つは「自衛」、1つは「災害救助」です。問題になっているのは「自衛」が拡大解釈されることです。集団的自衛権は「友好国が攻められている時には、自衛という理由で攻めている国を攻撃できる」という理解ですが、安倍政権は憲法そのものを変えず、閣議決定などという内閣のミーティングで憲法解釈を変えたと主張しました。私はコスタリカのように、「自衛」であっても、実質的な軍装備は棄てるべきと思いますが、その理解と実感を得るためにも時間は必要と思います。では、どう「軍を棄てても良い」という理解と実感を得るのか。そこで注目するのが「災害救助」です。日本国内だけでなく、国外の災害救助ならば、自衛隊の国外派遣を認め、現地での人命救助、復興のためにあらゆる支援を行っていただければと思うのです。自衛隊は憲法に則って非武装で現地入りし、活動にあたる。インフラ整備なども、中村哲さんのペシャワール会を模範にしながら、現地の技術や環境整備の内実を配慮し、河川の整備ならば筑後川の山田堰のように、電気の無かった時代の技術をもって整備を行う。そのための労働力は、被災された国の方々に雇用を提供するために募集し、同時に技術を伝えていく。それらの費用は一切、日本が賄う。この取り組みを20-30年行い続ける時、日本は国際的な信用を得るし、コスタリカ同様の抑止力を得るでしょう。その時に、日本は「自衛」のためにも軍装備は一切棄てるのです。夢物語のように思うかもしれませんが、実はこの論を同じように展開する方がおられます。伊藤真さんという弁護士で、弁護士たちを指導する伊藤塾の塾長です。彼もまた、自衛隊の在り方を見直すことによって、軍を棄てての抑止力を説いています。私は聖書の面白さを思います。未だ私たちが到達し得ていない理想的な世界の姿を、聖書は何千年も前に既に示しています。私たちはこれからも、神さまの示唆を実現するべく、歩み続けねばなりませんね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝もイザヤが示した「力を棄てて平和を得る」ことの可能性を、自衛隊の在り方から考えました。私たちの街・久留米は日本で唯一の陸上自衛隊の幹部候補生学校を有しています。街の中には関係者がいっぱいいます。神さま、彼らを政治の駒にして、殺したり殺されたりさせたくありません。憲法を適切に用いながら、あなたの示す平和シャロームを実現するべく、私たちに先ず憲法を守らせ、その可能性を多くの人と分かち合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
15日(木) イザヤ書28章14-22節
一言メッセージ:イザヤ書28章14-22節で4日目となりました。今日でこの箇所を終わらせます。4日前から分かち合ったのは「力に頼るから力に滅びる」「力を棄てて平和を実現する」でした。そのために、イザヤは南ユダの指導者たちに神の示す希望の約束を思い起こさせます。16節です。「主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石。固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』」具体的にそれが何かと言うと、イザヤ7.14で約束されていたインマヌエル(救い主誕生)預言です。神さまが、国の存亡をかけて怯え切っている指導者たちに対して、未来の希望を告げる。「わたしがあなたがたと共にいて、未来を与える」と約束される。その約束が、彼らが腰を据えて立ち上がるための土台石だと言うのです。南ユダの指導者たちは、対アッシリアの根拠をエジプトの支援に求めました。でもエジプトよりアッシリアの方が強いのです。彼らの根拠など、人の算段に過ぎない。神さまの約束こそが揺るがぬ土台です。イザヤはそう示しながら、17節でこう表現しました。「わたし(神さま)は正義を測り縄とし、恵みの業を分銅とする。」測り縄は、建物の壁がまっすぐ立っているかを測定する縄であり、その下には分銅がつけられ、垂直を測定しました。神さまは「正義(神さまの正しさ)」がこの国にまっすぐ立っているかと問い、「神さまの恵みの業」が分銅と語ります。分銅が軽すぎると縄は風でフラフラと揺れます。でも、しっかりとした分銅だと、風には揺らがず、真下に垂れます。つまり、この譬えは「あなたが私の約束である“恵みの業”の大きさをしっかりと意識しているのであれば、あなたは周囲の国々に動揺せず、神の正義にしっかりと立っていられる」と告げたのでした。神さまの約束をしっかり覚えるからこそ、右往左往せずに生きられる。それは、私たちの生き方への示唆でもありますね。今日も神さまをしっかりと見上げて歩みだしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたのお約束は時に私たちにとっては不確かに思えてしまい、心が不安に揺らぐこともあります。でも、あなたは「恵みの約束をしっかりと受け止め、揺るがず御心に沿ってまっすぐに生きなさい」と促されます。神さま、どうぞ先ず私たちにあなたのお約束の偉大さをしっかりと感じさせてください。あなたが日々、私たちに伴ってくださっていることを覚えさせてください。あなたへの信仰を強く保たせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
16日(金) イザヤ書28章23-29節
一言メッセージ:今朝の箇所は親共同訳では「農夫の知恵」と表題がついていますが、岩波訳では「農作業の譬え」です。イザヤは農作業や放牧など、民衆の生活にとても共感する預言者だったようで、そういう譬が多いです。今朝の箇所は、神さまの語り掛けが相手によって違うことを農作業で譬えています。24-25節は畑の耕し方、植え方の違いを語ります。一弘さんにお尋ねするのが最適でしょうが、農作業する時、土地を耕した後、ごぼうなどは水はけをよくするために高い畝を作りますし、じゃがいもは低い畝にして後に盛り土するものもあります。きゅうりやトマト、なすなどは毎年同じ土地で育てると連作障害が生じるので輪作する必要のある作物です。イザヤは農夫が作物によって育て方を変えるように、神さまも民を救うためにその言葉や行動に違いがある、と語る。私たちはこのことを我が事と考えねばなりません。神さまとしっかり結び合って満足していない人は、すぐに他人と自分を比較しては「わたしよりあの人の方が配慮されている」とか「評価されている」と一喜一憂します。「私よりあの人の方が好かれているからだ」と、好き嫌いで物事を結論付け、正論のように「平等」を主張します。でも、神さまは一人ひとりに違い、得手不得手、個性を把握し、その人に最適な関わり方をされる。だから、全てを周囲と同じく与えるものではない。私たちは比較に捉われて「平等」という言葉で安心を得ようとするよりも、「神さまが私たち一人ひとりの個性や得手不得手を把握されたうえで、わたしたちの違いを生じさせ、協力し合って共に生きるべく、私には私に必要な仕方で関わってくださっているのだ」と受け取ればいい。自分の不平不満に捉われるだけでなく、祝福されているところを喜び、生かしながら他者と生きる道を模索する。それが「共に生きる」です。イザヤはこう語ります。「主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる。」神さまに感謝し、期待し、今日もスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイザヤは「農夫が野菜ごとに育て方が変えるように、神さまも私たち一人ひとりに、民族や国に対して関わり方が変わる。しかし、それはそれぞれの作物を最上に育てるように、私たちを救うため」と示唆します。神さま、私たちはあなたの祝福をしっかりと感じられない時ほど、他者と自分を比較しては「不平等だ」と騒ぎがちです。どうか先ず、あなたの祝福をしっかり感じ、他者との違いを共に生きるための示唆だと受け取る者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
17日(土) イザヤ書29章1-8節
一言メッセージ:今朝の箇所はエルサレムがアッシリアによって攻められるが、神さまによって救われる、という預言です。「アリエル」はイザヤがエルサレムを指して使う独特な表現で、元来は2節にあるように、神殿の祭壇にあって献げ物を燃やす炉のことでした。イザヤは神さまへの誠実な信仰が弱まり、強国エジプトに阿ってアッシリアに抗しようとする国の指導者や祭司たちを「形式だけの祭壇の炉」と批判するように「アリエル」と語っています。彼らはアッシリアに攻められ攻城戦に突入するが、8節のように全く予期せぬ仕方で、攻城戦を脱していくことを語ります。それは神さまの救いの御業のゆえだとイザヤは語るのです。今朝の箇所を読みながら、私は自分たちの信仰を顧みたいと思うのです。私たちは神さまへの信仰を形式的に「こなす」ことはないでしょうか。私たちが周囲に話しかけた際「はいはい、わかったわかった」と軽くあしらわれたら腹を立てるように、神さまもまた形式的に「こなす」ように祈られたら悲しい。でも、神さまはそんな私たちをそれでも愛し、そっぽむくどころか、真正面から向き合おうとしてくださいます。私たちもそんな神さまと向き合うように誠実に生きる者でありたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イザヤはエルサレムが神さまを蔑ろにしていることを指摘しつつ、それでも神さまはアッシリアの脅威から救ってくださると預言しました。その言葉に私たちは、自分たちの姿を反省します。もし私たちがあなたへの信仰を形式的な「こなす」行動にしてしまっていたら、心から悔い改めます。言い訳でなく、真摯な姿勢であなたと向き合います。どうぞ私たちの歩みを祝福し、いつも伴ってくださっていることを強く確信させてくださいますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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