9月4日~10日のみことば - 2022.09.03 Sat
9月に入りました。
すこーし過ごしやすくなったかなと思ったら、台風接近中!
なかなか天候が落ち着かない中ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
コロナ感染者も少しずつではありますが、ピークアウトしてきたかな?という感じもしますが、とはいえまだ第7波の渦中ですね。
引き続き、皆さんの健康が守られますようにお祈りします。
教会は対策を取りながら毎週の礼拝を守り続けています。もちろん音声配信や、YouTubeでのメッセージ配信も行っていますから、皆さんどうぞ視聴してみてくださいね。
今週も皆さんの上に神様の守りがありますように!
God bless you!!
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4日(日) イザヤ書26章12-15節
一言メッセージ:7-19節を3日かけて読むうちの2日目です。今朝は12-15を中心に読みます。預言者は「主よ、平和をわたしたちにお授けください」と訴えます。彼らには13節にあるように、支配者がいるからです。その力は強大なようですが、預言者は13節後半「しかし、わたしたちはあなたの御名だけを唱えます」と訴えます。なぜなら12節、「わたしたちのすべての業を成し遂げてくださる(人生を最善に導く)のはあなたです」と信じるからです。今朝の箇所において分かち合いたいことですが、詩人は「支配者がいかに力を奮おうとも所詮は人間に過ぎない。その力は神に及びえない」と確信するがゆえに、「支配者に屈しない」と主張しています。支配者がどれほど強い力を持っていようと、14節「(支配者には)死者を生き返らせることなどできない」のです。でも、神はそれをなさる。この指摘は私たちにとって大事なヒントです。私たちは目に映る事柄に翻弄されやすく、今の自分の状況が全てかのように誤解を持ちやすい。今直面している事柄も一時的なことでしかなく、神の導きの中で困難も祝福に変えられていくのです。神さまにこそ未来はある。私たちも、神さまを意識し続けながら今日をスタートしましょう。今日は日曜日、礼拝の時です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者は「支配者がいかに強くとも、神に及ばない」と呼び掛け、あなたへの期待を祈り続けます。その姿勢に、私たちにも模範です。神さま、私たちにも、目に見えずとも共にいてくださるあなたを意識し続ける冷静さと、あなたに期待し続ける信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
5日(月) イザヤ書26章16-19節
一言メッセージ:3日かけて7-19節を読む企画のラスト16-19節です。この箇所での預言者の神さまへの信頼の強さは凄まじいです。預言者は自分や周囲の力では対応できないほどの苦難の中で自分を含め、人間がどう反応するかを冷静に振り返ります。最初に苦難を経験すると、人々は「神さま!助けて」と叫ぶけれど、その実、まじないなどを含めて、手あたり次第に様々な信心に走ってでも助かろうとします。でも、それは18節で「風を産むような、産みの苦しみ」です。私は言葉を2つの側面で読みます。①「風を産む」というのは捉えどころのない、空しい行動を意味します。だから18節続きでは「救い(結果)を国にもたらすこともできず」と語ります。しかし②「産みの苦しみ」は命を生み出すための苦しみです。ここに預言者の2つのメッセージが読み取れます。「やみくもに助けを求めて足掻いての結果であれば、無駄に過ぎない。しかし、神に正しく期待しての苦しみならば、その苦しみが聖霊(ヘブライ語では「風」の別訳が「聖霊」)、つまり神の御業へと繋がる」です。だからこそ19節で預言者は「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」と祈ります。預言者は「たとえ私が苦難の中で死ぬことになろうとも、神さま、あなたが私を復活させ、苦しみの先に大いなる祝福を与えてくださる」と期待し、信頼しているのです。19節4行目に「あなたの送られる露は光の露」とありますが、この「光の」は明らかに創世記1章の「光あれ」との神の創造のはじまりの言葉を意識しています。死の先にすら神さまへの期待、それが今朝の箇所なのです。私たちも神さまに深く期待して今日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者はあなたに期待して生きることを示しました。それは、死んでなお続く期待でした。神さま、私たちは預言者を通してあなたに期待することを再度教えられます。私たちは視野狭く、思慮浅く、目先の事柄に捉われがちですが、私たちの見えぬ未来をも知り尽くし、私たちの思いもよらぬほど深く全てを把握なさるあなたに期待します。どうぞ御心を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
6日(火) イザヤ書26章20節-27章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は「主の審判」、神さまの裁きの預言です。滅ぼされていく「レビヤタン、竜」は具体的には南ユダ王国を滅びし、捕囚を経験させたバビロンを指しており、この箇所はバビロンの滅亡預言と考えられています。バビロンの捕囚に際して神さまはイスラエルの民に、「わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで」と促します。「隠れていなさい」との促しは、同時に「何が起ころうとしているのか、全神経をとがらせて見極めなさい」との命令でもあります。昨日の箇所には人間の力ではどうにも対応できないほどの苦難が書かれていましたが、それはイスラエルにとっては正にバビロンのような大国によって滅ぼされていく様子でもあります。でも神さまは、祖国を滅ぼしたバビロンさえ神の前に滅びていくと預言し、だからこそ「私が何を行うかをしっかり見極めよ」と命じるのです。私たちは日々の生活の中で起こる出来事や政治や世界のニュースに自分たちの無力さを思います。でも、その時に今朝の箇所を思い起こしたいのです。「神さまはこの出来事の中で何を思い、どう行動されるのだろうか」と。御心を思いながら日々を生きる。その時、私たちは苦難の中に未来を、悲しみの中に慰めを、絶望の中に希望を、その一端でも見出すことができるでしょう。万能の主なる神さまがすべてをご存じで、この先を導かれるから。私たちは鎮まって御業を見定めることも必要なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、預言者はバビロンの捕囚を預言しました。あなたが「わが民よ、戸を堅く閉ざせ。しばらくの間隠れよ」と言われたことは、あなたの御業がどう行われようとするのかを見定めるためでした。あなたは世の理不尽を放置する方でなく、あなたの時、あなたの仕方で必ず応える方だからです。神さま、あなたの御心と御業に期待します。どうぞあなたの御心、平和シャロームを実現してください。かつて、バビロンが滅び、民が解放されたように、今この世界においても。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
7日(水) イザヤ書27章2-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は南ユダ王国滅亡後の回復預言です。神さまはイスラエルを「ぶどう畑」に譬えます。思い起こしたいのは、神さまは既にイザヤ5.1-6でイスラエルをぶどう畑に譬えました。その時には「豊かな実りを生じさせないぶどう畑を荒れ果てさせる」預言でしたが、今回は神さまが畑を回復させるというのです。神さまは、己が欲のためにご利益宗教や強国の間を奔走して生き残ろうとしたイスラエルを憐み、回復させると預言されるのです。注目したいのは5節で、神さまが「わたしを砦と頼む者はわたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい」と呼び掛けている箇所です。二度の「わたしと和解するがよい」は強調を意味します。「和解」と訳されたヘブライ語は「シャローム」です。別訳は「平和」、「神さまから与えられた命と尊厳を喜び、かつての敵であった人々も、互いに暴力を棄て、違いを認め、協力し、共に生きる状態」です。ここでも神さまは、罪人さえも、神さまに悔い改めて戻ってくるように、全ての人が正しい生き方を取り戻せるようにと呼びかける。その時には9節のように、それまで人々を惑わせていた欲は捨てられていくのです。歴史を見ますと、戦争の根っこにある原因は常に「人の欲」です。抑圧された人々の憤りが爆発するような戦争も、憤りを生じさせる原因には支配者の欲があります。1931年の日中戦争から1945年の太平洋戦争までを振り返りましても、「大東亜共栄圏」と平和を言い訳にしながらも、根っこは資源の足らぬ日本がアジア諸国の資源を手中にしようとした欲でした。神さまの平和シャローム実現には、人間が「私が、私だけでも」との欲と向き合うことが必要です。神さまは悔い改める人々を今も受け入れ、共に生きる平和シャロームを示してくださるのですから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はみことばを通して、どれだけ美辞麗句を並べても、戦争の根っこには「欲」があること、しかしあなたはそんな「欲」を棄て、全ての人が等しく生きられる平和シャロームを実現するべく今日も私たちをご自身に招いてくださっていることを読みました。神さま、どうぞ世界に平和シャロームを実現してください。特に今も続くウクライナの惨事が、ミャンマーやウイグルなどの圧政による暴挙が一刻も早く止まりますように。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
8日(木) イザヤ書27章10-11節
一言メッセージ:今朝の箇所はものすごく難しい箇所です。というのも、ここでいう「荒地となった都」がバビロンに滅ぼされたエルサレムなのか、バビロンなのか、その他を指すのか、分からないのです。この箇所は後代の付加で、前後の繋がりが分かりません。だから今朝は「なぜ、イザヤ書のここに、この言葉があるのか、意味が分かりません」と言うしかないです。それでもあえて言うなれば、この言葉を付加した編集者は「昨日の箇所で、神さまは『わたしと和解するがよい』と繰り返し、平和シャロームで生き直すチャンスを与えてくださっているのに、それでも目先の生活にだけ捉われている人たちがいる」と嘆いたのかもしれません。私も時々思うのですが、悔い改めるに時あり、信じるに時あり、です。「今、神さまはあなたを招いてらっしゃるだろうに」と思うのに、信じるための勇気を出さず、機を逃す方々を見るなかで、何度も「もったいない」と思ってきました。極端な言い方ですが、信じることによってあなたの人生が大きく損なわれることはありません。一時的に周囲の誤解はあっても、全ては神さまの御心の中で整えられていく。だから、信じるに大事なことは、神さまに期待することです。私たちもそうだった。信じることの損得よりも「信じたい」で信じました。もし皆さんの周りに、神さまから招きを受けていると思われる方があれば、どうぞ後押ししてあげてください。教会にお連れください。信じるに時あり、です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は編集者が「神さまの和解(シャローム)を受け入れればいいのに」と歯がゆい思いをしていただろうと想像しました。私たちも同じです。神さま、私たちの周りにもあなたを信じてほしいと祈り続ける仲間たちがいます。どうぞ信じる機会と勇気を明確にお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
9日(金) イザヤ書27章12-13節
一言メッセージ:今朝の箇所は24-27章の神さまによる世界の審判と救いの預言のまとめの箇所です。一昨日の箇所の続きとして読むと分かりやすい。一昨日の箇所では、神さまが「わたしを砦と頼む者はわたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい(27.5)」と語り、人々が神さまと向き合って、かつての敵味方を乗り越えて共に生きていくシャロームが呼び掛けられていました。その続きとして今朝の箇所を読みますと、目を惹かれるのは12節の「あなたたちは、一人ひとり拾い集められる」です。大国に翻弄され、ユーフラテスの流れ(バビロンに連行された民)も、エジプトの大河(エジプトに頼って逃亡した民)も、そして、その地でさらにちりぢりにされた民も、神さまによって「ひとりひとり拾い集められる」と語られます。私は、以前、友人の畑に遊びにいった時、小麦の落穂ひろいをさせてもらったことがあります。今の収穫は機械でいっせいに刈り取りますが、穂先がまとめて落ちているものもあれば、外れた粒だけもあります。それを全て拾い集めるのは面倒です。でも神さまは、散らされた民を「ひとりひとり拾い集める」と語る。神さまが一人ひとりの命を愛してくださるからです。神さまの愛を見出すからこそ、昨日同様に私は言います。神さまの招き、信じる機会を逃さないで欲しい。信じる時は「よし」と信じたらいいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは居場所を失い、逃げまどい、世界に散らされた人々をすら、ひとりひとり自ら探し出し、救ってくださるお方です。その救いの招きは今も世界にて行われています、神さま、日々、世界で、私たちの身近なところで人々があなたを信じて救われますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
10日(土)イザヤ書28章1-6節
一言メッセージ:イザヤの28-31章は彼の活動後期の預言が集められた箇所と言われます。それは、北イスラエルがアッシリアによって滅亡する時期以降の、北と南のイスラエルの話です。今朝は「サマリアの陥落」が記されます。イザヤはサマリア(北王国)を「酔いどれ」と表現します。これは、実際に酔っ払っているのでなく、人が酩酊すると足取りがフラフラするように、アッシリアの脅威に対して腰が据わらず、フラフラしている北王国を叱責する表現です。少し懐かしい話ですが、サマリアはアッシリアの脅威に対して、近隣のアラムやペリシテと反アッシリア同盟を結び、対抗します。しかしアッシリアに敗れると、北王国内では反アッシリア派の王ペカを暗殺し、親アッシリア派のホシェアが王位につきます。しかしホシェアも度重なるアッシリアからの圧力に耐えかね、エジプトの支援を受けて反抗し、結果的に怒ったアッシリアに滅ぼされるのです。こういうフラフラの状況は、「中立を保ち、神の御心によって独立を保て」と呼び掛けたイザヤにとって「酔いどれ」に見えたのでした。イザヤの呼びかけに私たちは冷静に自分たちを顧みます。困難な局面において、私たちは神さまでなく、自分たちの算段で物事を決断しようとすることがないだろうか。そのだとすると、その時の私たちは心のどこかで「神さまに頼ることは無駄。神さまは無力。神さまの御業は遅い」と考えていないだろうか。イザヤはそんな私たちに真っ向から「違う」と示し、2節以降「主は強く激しい力を持っておられる」と明言します。ただ、人間の思惑どおりでないだけです。ここで私たちに求められるのは、不安を超えてさらに信じることです。私の大好きなフレーズですが、文語訳聖書の詩編46.10にこうあります。「汝ら、鎮まりて、我の神たると知れ。」私たちは誰が神さまであるか、誰が本当に頼る方であるか、改めて思い起こしたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からイザヤの後期預言に入りました。北王国の滅亡と、その光景を間近に見た南王国の動揺の中、イザヤが語る言葉は、私たちに今をいかに生きるかを示します。どうぞ引き続き、私たちにみことばと確かな示唆をくださいますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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