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2022-09

9月25日~10月1日のみことば - 2022.09.24 Sat

台風一過。すっかり秋の気候になってきました。
昼間は少し汗ばみますが、朝夕はぐっと涼しくなりましたね。
聞こえてくる虫の声もかなり変わってきた気がします。
コロナの第7波も少し落ち着いてきましたし、そういう意味でも少しほっとできる季節ですね。
きたる冬に備えてみなさん、気力・体力共に整えられますように。

教会では、じわ~っとクリスマスを意識し始める季節になりました。
昨年から「クリスマスなんかしたい委員会」というのをはじめまして、クリスマスになんかしたい人が集まって楽しいこと、クリスマスの喜びを表すためにできることを考えています。
今年は10月末くらいに第1回委員会を開催予定。
「毎年これをやらないかん」じゃなくて、「今年は何する~?」とわくわくしながら今年もやりたいなあと考えています。楽しいこと思いついたら、こちらにもお伝えしますね♪
お楽しみに。
もちろん、その間も毎週の礼拝は休まず開催(?)中。
教会ではこの毎週の礼拝が何よりの元気の源。みなさんもぜひ参加してみてくださいね。

では、今週も毎日のみことばをどうぞ♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : イザヤ書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

25日(日) イザヤ書30章27-33節
一言メッセージ:今朝はアッシリアへの神の審判の言葉です。これまでもアッシリアへの裁きの言葉は10章5-11節、12-15章、24-27章、29章5-8節など多々ありました。これだけ繰り返された理由は、それだけ南ユダの人々がアッシリアの侵攻に怯えていた現状があるからです。その度に預言者は「アッシリアの脅威でなく、エジプトの後ろ盾でなく、主なる神さまに目を向けよ」と言い続けた。その記録がこの「アッシリアへの審判」の数々と思うのです。人は目に見える事柄に捉われがちです。衝撃が大きければ大きいほど、目に見える事柄だけが全ての事実化のような錯覚に捉われます。でも預言者は繰り返し繰り返し告げるのです、「目に見えずとも、いつも私たちと共におり、守り導いてくださる主に目を向けよ」と。サンテグジュペリの名作『星の王子様』で、王子はキツネにこう語り掛けられます。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」目に見えるものが全てではない。今日は日曜日、礼拝の日です。私たちは目に見えずとも、いつも伴ってくださる神さまに目を注ぎ、礼拝に集いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。人は目に見える事柄に捉われ過ぎ、まるでそれが物事の全てかのように錯覚します。でも、かんじんなことは目に見えないものです。どうぞ今日も、礼拝に集い、教会の皆さんと共に「もっともかんじんな」あなたと向き合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(月) イザヤ書31章1-9節
一言メッセージ:今朝の箇所はイスラエルに対して「エジプトに頼るな」と告げた箇所です。アッシリアに攻められることを恐れたイスラエルは大国エジプトを頼り、防衛策を立てたのです。エジプトが長年にわたって世界の大国であったのは、戦車部隊のゆえと言われます。映画「ベンハー」では当時の戦車が描かれます。馬に車を引かせ、その車に運転手の他、兵士たちが乗り込み、猛スピードで襲い掛かり、槍や剣、弓で攻撃していました。馬の巨体とスピードにのった攻撃は平地にて対応する術はほとんどありませんでした。しかし預言者は告げます。「エジプト人は人であって神ではない。その馬は肉なるものに過ぎず、霊ではない。(3節)」今朝の箇所で預言者は人間と神の違いを2つの側面で比較しています。1つは力そのものです。そもそも人間が神を超えることなどできない(3節など)。もう1つの比較は何か。それは、何を持って民と向き合うか、の比較です。エジプトは力によって民を支配します。しかし、神さまは愛によって民と向き合う。6節を見ますと、預言者はこう語っています。「イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。」「あなたたちが背き続けてきた」は、一度、二度の背きじゃありません。繰り返し繰り返し、この時代に至るまでずっと背きに背きを重ねてきたのです。でも預言者は言う、「その神に立ち帰れ」と。それは「神さまはそれでもあなたたちを受け入れてくださる」との招きのことばです。神さまは力をもって民を支配するのでなく、愛にて受け入れてくださる方。私たちもそうやって神さまを知り、救われ、信じた。今日はそんな信仰の原点に戻って一日をスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はあなたが愛の神だと再確認しました。今日から新たな一週間が始まります。どうぞ、いつもあなたに目を留められていることを忘れず、この一週も過ごさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(火) イザヤ書32章1-8節
一言メッセージ:今日は安倍元総理の国葬が行われる予定日ですが、まさかその日にこんなにも痛烈な箇所を読むことになるなんて!神さまを感じます。今朝の箇所は「理想的な王の統治」を描いた箇所です。1節にはこの箇所全体を導くヒントが描かれます。理想的な王は「正義によって」統治すると書かれます。「正義」はヘブライ語ツェデクで「神さまの正義」を意味します。一方、「高官たちは公平をもって支配する」とありますが、「公平」はヘブライ語のミツファートで、その意味は「ツェデク(神さまの正義)の適用」です。つまり、1節は「神に正義をモットーとする理想的な王が登場し、その王の下、高官たちは神の正義を実現するべく様々な政策を始める」と語られます。その時、国そのものが変わってくる。3節では、それまで神さまの御心に正しいが社会の中で軽んじられてきた人々が神さまの御心を実感できるようになり、4節では「軽率」な人、言葉を知らぬ人も正しさを語り、5節では権力に媚びて出世してきた「愚か者」「ならず者」が失脚していく。7節で人々の訴えは力に関係なく公正に受け止められ、8節で民に尽くす高潔な人が社会に溢れていくのです。どうです?どこぞの元総理の行ってきた政治、自民党の政治と真逆ではないか。元総理は官僚の人事権を掌握し、自分の意に沿わぬ者は追い落とし、イエスマンばかりを固めた結果、国の質はどんどん下がり、世界から見て日本の自由度、公平度、幸福度はぐんぐん下がってきました。社会を憂う、そんな日のみことばメールで、神さまはまさかの「理想的な王」を示してくれしました。これぞ、示唆ですね。私たちは社会の一時的な風潮に屈せず、神さまの正義を目指し、その適用である公平を身近なところから語り、行動してまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは驚きました。こんなにも的確なみことばを示してくださるなんて!神さま、私たちはこんな理想の王を求めます。そのために、私たち自身もあなたの正義を信念とし、その実現を一歩ずつ行えますように。どうぞあなたの正義を社会に実現させてください。平和の君イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(水) イザヤ書32章9-14節
一言メッセージ:今朝の箇所は難解です。「憂いなき女、安んじている娘」が何を指しているのかが分からないのです。ただ、感じるのは、この女性たちは「社会が変化しても『別に何も変わらない』とタカを括っていた人々」のようです。1年が経ち、今年も当たり前に農作物を収穫できると思っていたのに、予定通りに収穫が無い。彼女たちはここで初めて「やばい!」と気づくのです。興味深いことに、預言者はこの女性たちに「我が声を聞け、耳を傾けよ」と呼び掛けます。「滅びたって仕方ないよ、あんたたちは」と見捨てたのでなく、「まだ間に合う。悔い改めよ」と呼び掛けたのです。私はこの描写を見て、今の世間と重なっているように感じます。ここ最近の国政選挙の投票率は50%ほどです。低い投票率だと、組織票を持っている政党が圧倒的に有利です。だから、自民党は自分たちの支持母体の他、公明党と連立を組んで票を融通してもらい、統一協会にも選挙ボランティアなどの支援を求めてきました。その結果、投票率が低いために、全国民の17%の指示しかない自民党が選挙で圧勝し、やりたい放題の政治を行ってきました。そして今、多くの人が「自民党と統一協会の癒着から批判を上げています。私には、盲目的に政権与党を支持してきた方々や投票に行かなかった方々が、今朝の箇所のように、生活が厳しい状況になってようやく異変と感じ始めたように思うのです。ちなみに、2009年に当時の民主党が政権を取った時の投票率は69%程度でした。もし、今の選挙率が20%ほど上がるならば、政権すら変えられるほどに国は変わります(そのためには、野党ももっと気合入れてもらいたいものですが)。私たちの国もまだ立ち直ることはできます。だからこそ、神さまの御心に一歩でも近づけさせる政治を選ばねばなりませんね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。昨日に続き、あなたのみことばは今の日本を映し出す適切な箇所でした。神さま、どうぞあなたの御心に一歩でも近づくべく、私たちに知恵と言葉と力をお与えください。身近なところから1つずつ、「否は否」と声を上げ、社会を糺していけますように。正義の君なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(木) イザヤ書32章15-20節
一言メッセージ:今朝の箇所も、神さまの正義が行われるところに何が生じるか、という示唆のことばです。注目したいのは16-17節です。神さまの御業が実現するところでは、「荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」とあります。一昨日のメールを思い出しますと、「正義」は神さまの正義ツェデクであり、「公平」はその適用でありミツファートでした。そうやって、神さまの正義と適用が広がっていく時、社会に何が生じるのか。それは「平和」であり「とこしえに安らかな信頼」と預言者は告げます。8月の「平和を覚える月間」では「神さまの平和シャロームは、敵とすら共に生きる世界。私たちはその実現のために敵を仲間とするべく、一歩踏み出す」と分かち合いましたが、正に、神さまの正義が実現されるところでは、平和シャロームと、互いに「とこしえに安らかに信頼」できる状況が生まれていくのです。ロシアのウクライナ侵攻も7か月が過ぎ、ウイグルやミャンマー、シリア、その他の地域でも独裁は未だ続いています。でも、世界を諦めてはならない。神さまは今日も正義、公平、平和、信頼を私たちに示される。その実現に向けて、今日わたしは私の生きる場で何ができるか、と考えながらスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばに元気をいただきました。あなたの正義が大事にされるところでは公平、平和、信頼が生まれます。力や利権による世界は争いが絶えませんから、この世界は今、皆が共に生きられる倫理、あなたの正義が必要です。そのために私たちも微力ながら何ができるか、問いながら今日を過ごさせてください。小さな働きを喜び、大きく用いてくださるあなたの期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(金) イザヤ書33章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所も、何の出来事を指しているのかはっきりしない箇所です。ただ分かるのは、1-4節では国々の栄枯盛衰を語っています。例えば、かつて世界の大国であったエジプトもアッシリアの勢いに圧され、しかしそのアッシリアもバビロンに滅ぼされ、そのバビロンもまたペルシャとメディナの連合国に滅ぼされていく。その間、イスラエルはたえず強国の間で翻弄される。そんな流れの中で預言者は2節「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます」と真の平安を願う。預言者は6節で1つの結論を告げます。「主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。」短い言葉ですが、強い言葉です。移ろいやすい世情の中で確かな支えは神さまであり、神さまの知恵を求め、見分を深めることは、私たちを目先の現状に一喜一憂することから解放するのです。そんな安定した生き方は、神さまに畏敬の念を持ち、その御心を聞くことから始まる。預言者の言葉に私たちは物事の受け止め方を新たにされます。何か決断せねばならない時にすぐさま祈る私たちの姿を見て、「無責任、神に逃げるな」と批判する人もいるかもしれません。でも、それは目先の現状だけで物事を決断しようとするから、そう思うのです。私たちが神さまに知恵と知識を求め、畏敬の念をもって御心を模索し祈ることは、今、私たちには見えぬ未来においても最善の導きを求める行為です。見えぬ未来を正しく見ておられるのか神さまだけ。その神さまという案内人無しにどうして私たちは将来の最善を選び取ることができましょう。移ろいゆく時代だからこそ、余計に私たちは神さまの御心という最善の羅針盤を堅持し、一日一日を過ごしてまいりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。預言者は移ろいゆく世情の中で、本当の安定はあなたにこそ見出せると示しました。人は目先の出来事に対応しようとする時には自分たちの知恵や経験、常識にとらわれがちです。けれど、私たちは目先の事柄だけでなく、まだ見えぬ未来を含めて、神さまの御心を求めます。どうか私たちを、あなたのご判断の中で最善に導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10月1日(土) イザヤ書33章7-16節
一言メッセージ:今朝の箇所はずっとずっと後代、イスラエルがバビロン滅亡後、捕囚から帰還した後に書かれた言葉です。そんな状況で、この箇所は信仰問答として書かれています。14節が問いの言葉です。「我々のうち、誰が焼き尽くす火の中にとどまりえようか。我々のうち、誰がとこしえに燃える炉の中にとどまりえようか(激しい時代の栄枯盛衰の中で生き残れるのか)。」生き残りを模索して、エジプトと外交を結んだり、アッシリアに阿ったり、バビロンに追随したり、それぞれに対処を模索した人々はいましたが、そのどれもが惨憺たる結果で苦しみ、滅ぼされました。誰がその中で生き残れただろうか。その答えは15節。ここでは6つの生き方を大事にした者が生き残った者とされています。①神さまの正義を信念とした人、②強者にこびるのでなく、神の御心をこそ語った者、③誰かを虐げて得る利益を求めようとしなかった者、④賄賂に押し流されない者、⑤誰かを追い落とす謀略から距離を取っていた者、そして⑥悪に加担しない者、です。傍から見ると、馬鹿正直にしか見えないでしょう。でも、それは一時的な利益を価値基準にするからです。最終的に確かな祝福を得る生き方とは最高の導き主なる神さまに誠実に生きる人です。今の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は謀略に次ぐ謀略のどろどろした話で、欲深い者は早々に排斥されています。そんな社会では誰もが周囲の人に対して疑心暗鬼に捉われます。でも誠実な人はそれだけで信頼を得る。私たちも真っ正直な方が良い。目先でなく、さらに先を見据えて生きる知恵者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、イザヤ書は私たちに「神の正義に歩み、御心を語り、不当な利を求めず、断固として賄賂を拒み、他者を追い落とす謀に加わらず、悪と距離をとる生き方」を最良と示しました。私たちもその示唆に同意です。神さま、私たちは決して知恵者ではありませんが、でも、いつも先ず、あなたの正しさを模索し、誠実に生きる者とならせてください。そして私たちの生き方を整えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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