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2021-07

7月25日~7月31日のみことば - 2021.07.24 Sat

こんにちは。毎日暑いですね(>_<)

小学生たちはいよいよ夏休みに入りましたね。
今年も遊びに行くのも何かと気を遣う日々ですが、楽しい夏休みが過ごせますように!
久留米教会の教会学校小学科・幼稚科(毎週日曜日9:00~10:00)では、夏休み期間中の日曜日は夏のお楽しみ月間として、教会学校が終わった後に、くじ引きなどちょっとした楽しみを準備してお待ちしています♪
教会学校では、コロナ以前は夏休みの終わり頃に「夕涼み会」という夏祭りをしていたのですが、今年もやっぱり開催は厳しいということで、代わりに少しでも楽しみを!と企画したものです。
密を避けながらできることをいろいろと考えながら準備していますので、ぜひ子どもたちを教会学校に参加させていただければと思います。

10:30からの中学生以上中心の礼拝は、くじ引きはありませんが、熱中症対策に冷たい麦茶を準備してお待ちしていますので、こちらもぜひどうぞ♪

今週も皆様の上に神さまの祝福が豊かにありますように!!


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : 創世記
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

25日(日) 創世記32章23-33節
一言メッセージ:ヤコブの人生において、最も整えていただきたい恐れは、兄エサウの怒りです。20年前に兄の長子の権利をだまし取り、命からがら叔父ラバンの家に逃げたヤコブですが、ずっと兄の怒りは頭の片隅で意識し続けたことでしょう。故郷へ帰るということは、兄と向き合うということでした。直前の箇所で兄の許に使者を遣わし、贈り物をし、それでも強襲された時のために財産を二手に分けて、一方が略奪されている間にもう一方を逃がせるように…と考えます。今朝の箇所は、そうやって怯えながら故郷へと近づくヤコブに神の僕が現れる話です。
  面白いのは、神の僕が現れてヤコブを安心させるかと思いきや、突然、ヤコブと夜通し取っ組み合いを始めているのです。ヤコブは腿の関節が外れてまでしがみ付いています。そして最後には神の僕から祝福を勝ち取っています。この時に祝福の証として得た名が「イスラエル」でした。
  物語はすごく象徴的です。それは「自分の人生の課題に直面し怯える時にも、一生懸命に神さまに食らいついていく時、私たちは祝福をいただく」というメッセージだからです。今、あなたの課題は何ですか?そして、その課題の解決を神さまに求めていますか?今朝は日曜日、神さまと向かい合って、取っ組み合いしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ヤコブの物語は私たちに、「困難の中であなたと真正面から向き合い続け、食らいついていくこと」の大事さを教えます。時に私たちは聞き分けよいことが良い信仰者かのように思っています。けれど、本当に大事なことのためには、神さま、あなたに食らいつき、しがみ付きます。どうぞ私たちを祝福してください。祝福してくださるまで離れませんからね(27節)。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

26日(月) 創世記33章1-4節
一言メッセージ:今朝の箇所はヤコブ物語のクライマックス、兄エサウとの再会です。ヤコブは2-3節で隊列を整えます。それを見ますと、ヤコブが兄の襲撃を最後まで恐れていたことが分かります。兄に最も遠いしんがりには最愛のラケルと息子ヨセフを、真ん中にはレアとその子どもたち、前面には「側女」とその子どもたちとし、自分は最前列に立ちます。兄が攻めてきた時、自分が最前線にいる間に後続の妻と子どもたちが逃げられるように、最愛のラケルほど逃げるための時間を稼ごうとしたのです。けれど、再会は彼の恐れと真逆の仕方で起こります。エサウは4節、走り寄るとヤコブを抱きしめ、首を抱えて口づけし、泣いてくれたのです。ヤコブは兄と「共に泣」きました。ヤコブがエサウを恐れた20年、エサウもまた、ヤコブのことを思い続けてくれた。ヤコブは兄エサウが自分のことを許してくれたと理解し、彼もまた安堵や感謝の涙を流しました。ここに兄との和解が実現しました。神さまがヤコブの人生を1つ1つ整え、兄との再会、和解をも実現してくださったのです。人には不可能でも、神さまに不可能は無い。私たちには御業のタイミングは分かりません。でも神さまは御業を行われる。その時を待ちながら、今を過ごしたいと思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、ヤコブと兄エサウの和解の記事を読みました。人には乗り越えがたく思える敵意や恐怖さえ、あなたは1つずつ和解へと導いてくださいます。神さま、あなたの御業を賛美します。そして、私たちにもその御業が起こることを期待します。どうか、私たち一人ひとりの胸にある、どうしたらよいか分からぬ課題にも後悔にも、あなたの御業が実現しますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

27日(火) 創世記35章1-15節
一言メッセージ:エサウとの和解を果たし、故郷で生活を始めたヤコブは、20年前にエサウから逃れた際に野宿した土地、ベテルへと上ります(28.10以下参照)。そして、20年前に枕にした石を立てて記念碑にした場所に祭壇を作り、その土地に住むようになるのです。神さまはヤコブを祝福して10節、再度「あなたの名はイスラエルとなる」と宣言されたのでした。11-12節で祝福の言葉は続きますが、注目したいのは12節です。「わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」神さまはヤコブに「この土地はあなたの祖父アブラハムの土地であり、父イサクの土地だから、引き継ぐが良い」とは言わず、「祖父、父に与えた土地を、あなたに(改めて)与える」と告げています。ここに神さまとの向き合いのこと、信仰の継承のヒントがあるのです。
  今、多くの教会で若い世代が減り、「若者の育成、信仰の継承」と言われます。誤解を恐れずに言うと、私は「継承というのが間違い」と思うのです。何故なら、信仰は土地や遺産のように引き継ぐものではなく、自分で聖書を読み、自分で神さまと向き合い、自分たちで「イエスさまはわたしの救い主だ」と確信しなければならないものなのです。近しい人の信仰を引き継ぐような感覚では神さまとの関係が親や祖父母や恩義ある人への愛着の話になってしまう。本当に若い世代に信仰を伝えようとするなら、引き継がせるのでなく、彼ら自身が神さまと向き合っていけるように手助けをすることが最善です。今朝の箇所でも、神さまはヤコブに「アブラハムの孫だから、イサクの子だから…」でなく、ヤコブはヤコブとして出会い、導き、祝福してくださったのでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所で、ヤコブは20年前の誓願を果たし、神さまを礼拝するべくベテルで祭壇を築きました。あなたはそのヤコブを祝福し、かつてアブラハムと出会ったように、イサクと出会ってくださったように、ヤコブと改めて出会い、彼の信仰を喜んでくださいました。神さま、私たちも「信仰の継承」という言葉を耳にしますが、誰かから信仰を引き継ぐのではなく、あなたと出会い、それぞれに信仰を得させてください。また、私たちにも新たにあなたと出会う方の助力をさせてください。その方もまたあなたと向き合い、信仰を得られますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(水) 創世記37章1-11節
一言メッセージ:昨日までの族長物語は終わり、今日からはヨセフの物語です(ちなみに、ヨセフは族長ではありません。族長はあくまでアブラハム、イサク、ヤコブです)。今朝の箇所ではヨセフがいかなる少年であったかを記した物語です。一読すると、頭は良いのだろうけど、偉そうで可愛げのないです。でも不思議なのは、3節でヤコブがヨセフを溺愛していることです。「年寄り子であった」だけで、他の息子以上に可愛がり、一張羅まで作ってやっているのです。他の兄弟から見れば、鼻持ちならない出来事だったでしょう。このヤコブのえこひいきを理解するにはヨセフの母のことを知る必要があります。ヨセフの母ラケルは29.15以下でヤコブが叔父の家で14年働いて認めてもらった最愛の妻でした。ようやく故郷に戻り、昨日読んだベテルで新しい生活をスタートさせたのに、その直後の35.16ではラケルは息子ベニヤミン出産後に亡くなっている。ここから見えてきますが、ヨセフとベニヤミンやヤコブにとって最愛の妻ラケルの忘れ形見でした。だから劇愛しました。これが兄たちの激しい嫉妬を引き起こすのです。明日からヨセフ物語をじっくり読んでいきますが、この素地を思い起こしながら読んでくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所はヨセフ物語の導入部でした。ヨセフが父から溺愛され、兄たちからねたまれる理由を分かち合いました。父の溺愛ゆえの兄たちの嫉妬でした。時代や場所が違えども、いつの時代も人は自分と他人を比較し、嫉妬や優越感に浸って生きています。でも神さま、ヨセフ物語はそんな私たちに、周囲に翻弄されないためにどう生きるのかを示すヒントでもあります。明日から続けてヨセフ物語を見ますが、どうぞ、今の私たちに必要な示唆をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(木) 創世記37章12-36節
一言メッセージ:ヨセフの人生初の大転落の記事です。ヨセフは父親の言いつけで、羊の放牧に出た兄たちの様子を見に行きます。兄たちがいたドタンは父ヤコブのいる土地から100kmほど北の地域です。その距離は兄たちに「やるなら今だ」と思わせます。兄たちはヨセフ殺害を計画します。長男ルベンは必死になって殺害を止めますが、三男ユダはヨセフをエジプトに下る商人に奴隷として売ってしまいます。そして兄たちはヨセフの晴れ着に血を浸し、父ヤコブに見せます。父は思ったとおり、「ヨセフは野獣に食われてしまった」と嘆き悲しみ、兄たちの悪事は闇に隠蔽されたのです。しかし、36節で聖書は「一方…」と、エジプトに売られたヨセフの物語を始めていきます。全てが終わったと思った兄たちの思惑と違い、これがヨセフ物語の始まりとなったのです。神さまの思惑は人の思いを超えて始まっていくのです。続きはまた明日です。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。ヨセフはエジプトに奴隷として売られました。それまで、家庭ではちやほやされる父お気に入りの息子だったのに、彼は突如、奴隷にされてしまいました。「なぜ、どうして」と自問し続けたことでしょう。けれど、あなたはこのヨセフをそのままにしませんでした。神さま、ヨセフ物語を読み続ける私たちですが、どうぞヨセフの「なぜ、どうして」と私たちの「なぜ、どうして」を重ね、ヨセフの心境を模索しながら、この物語を読ませてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(金) 創世記39章1-23節
一言メッセージ:エジプトでヨセフを買い取ったのはエジプト王の宮廷の侍従長ポティファルでした。彼はヨセフを使用人として使うのですが、非常に有能だったので家の管理をすべてヨセフに任せます。すると、ポティファルの妻はヨセフに色目を使います。ヨセフは受け流すのですが、ポティファルの妻はいっそうヨセフを我が物にしようとします。ある日、家に誰もいないタイミングに彼女はヨセフの着物を掴み、寝床に連れ込もうとします。ヨセフは着物を脱ぎ棄て、逃げ出します。面目を潰された彼女は、家の僕たちを呼び寄せ、偽りの訴えをします。14節からの彼女の訴えは悪質ですが、しかし、「あるある、こういうでっちあげ」と思わされます。彼女は先ず、民族的な違いを批判材料にしました。その上で「わたしたちはいたずらされる」と、周囲の人々にも危害が及ぶ可能性をでっちあげます。そして、ヨセフの着物を状況証拠として悪用するのです。考えてみると、ヨセフはよくよく着物に関係するようです。悲しいことに、主人ポティファルは妻の訴えに激怒し、ヨセフを投獄します。ヨセフからすれば、奴隷にされ、精いっぱい誠実に生きていたのに、今度は罪人として入牢させられた。「なぜ?どうして?」の思いは強まっていく。ヨセフにとっては最悪の展開なのですが、しかし聖書に注目しましょう。2節、21節、23節と三度にわたって「主がヨセフと共におられ…」と書かれています。実はヨセフ物語において「主が共におられ」という記述は今朝が最初です。ヨセフにとって苦しい時のはずですが、その時にこそ、神さまはヨセフと共にいると繰り返し記述されたのです。明日もヨセフ物語の続きを味わっていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ヨセフは冤罪で入牢させられました。彼にとって「なぜ?どうして?」という口惜しさの極みだったはずです。ですが、あなたはその時、ヨセフと共にいてくださったことを聖書は繰り返します。私たちの思いだと、順風満帆の時にこそあなたがいて下さるイメージですが、あなたは時が良くとも悪くとも、共にいてくださるお方です。神さま、私たちが「なぜ?どうして?」と問う時にも、あなたが伴っていてくださることを強く感じさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(土) 創世記40章1-23節
一言メッセージ:ヨセフは牢の中で出会った二人の男の夢を解きます。夢の内容と意味は聖書そのものを読んでください。14-15節でヨセフは、三日後に助けられる給仕役に自分が無理やり連れて来られたこと、冤罪で牢屋に入れられていることを語り、「あなたがファラオと会えた際には、自分のことを思い出してください」と嘆願します。ヨセフの夢解きは全てその通りになりますが、1つだけ彼の言葉が違えられたのは、この給仕役がヨセフのことを思い出すのは41.1にある「二年の後」でした。それまでの二年間、ヨセフは労の中で「なぜ?どうして?」と自問自答し続けます。
人生は時々、不条理に思えます。「わたしが何か悪いことでもしたか」と訴えたい出来事は起こりますし、「どうして周りは助けてくれないのだ」と嘆きたくなります。いや、むしろ、思い通りにいかないことの方が多いのです。そういう時、私たちも思います、「神さま、祈っているのですから、助け出してくださいよ」って。きっとヨセフも同じだったでしょう。でもヨセフが助け出されるのは2年後。でも、この2年が、後には全てが感謝に変わっていくのがヨセフ物語です。神さまの御心を悟るまで、ヨセフはしばらく忍耐の時を過ごさねばなりません。
私たちも同じです。神さまの御心をすぐに悟ることはできなくても、神さまは必ず、後にびっくりする仕方で全てに答えてくださる。だから、私たちはその時を信じて、今を精いっぱい生きるのです。忍耐は辛いですが、先が見えない時は「先ず一日、また一日」と積み重ねていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ヨセフが牢から出されるのは二年後です。それまで彼は労の中で「なぜ?」と自問し続けます。神さま、私たちは牢には入っていなくても、数年経っても「なぜ?どうして?」と問いたい出来事があります。まだ、あなたのお答えの時でないだけと信じます。どうぞいつか、あなたの御心を悟り、感謝し、賛美する時をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。


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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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