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2021-07

7月11日~17日のみことば - 2021.07.10 Sat

各地で大雨の被害が続いています。
先日は熱海、また今日は九州を中心にかなりの雨量が降り、河川の氾濫・道路の冠水などニュースになっていました。
久留米もここ数年、頻繁に水害が起こっています。
各地のニュースを聞くと、筑後川のライブ映像とにらめっこしながらハラハラしていたことを思い出します。とにかく、これ以上各地に大きな被害が出ませんようにと祈るばかりです。

近年は水害だけでなく様々な災害が頻発しています。
教会では、地域に根差した教会として久留米の地に立つために、こういった災害の時にも何か教会として皆さんのサポートをすることができないかと模索中です。
もちろん、できること・できないことありますが、私たちの信じるイエス・キリストはいつも助けを求めている人、弱い立場にさせられている人々と共にいる方です。
私たちも小さいものですが、そんなイエス様のあしあとを踏みながら自分たちにできることをしていけたらなと思い、模索しています。

さあ、新しい週もまず礼拝から!
会堂で、YouTubeであなたのお越しをお待ちしています。

それでは、今週のみことばをどうぞ♪
***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : 創世記
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

11日(日) 創世記11章1-9節
一言メッセージ:今朝は「バベルの塔」の話です。大まかには知っていても、細部を読むと、さらに深みがある物語です。そもそも高い塔を作ろうとする際に、人々は「天まで届く塔のある町を建て…」と語ります。この「天まで届く」というのは「神に並ぶ存在になろう」という意味です。そこで神さまは人の驕りを罰するのです。深い物語だと思うのは、人々は同じ言葉で意思疎通している時には良好だったのに、言葉が乱れた途端、一致できなくなります。よくわかる記述です。私たちも他人の考えに疑いを持った途端に、関係がぎくしゃくしてしまう。この物語は人間の驕りと脆さが描かれるのです。では、希望は無いのか。いいえ、ちゃんとあります。ヘブライ語を見ますと、9節の「混乱」はバラルという言葉ですが、ヘブライ語の母音を読み替えると、バラルはバーブ・イル(「神の門」という意味)と読めるそうです。驕り高ぶって神と並ぶと考えた時、人はその結果、「混乱(バラル)」を経験する。一方、神さまを信じ、正しく従う時、私たちは「神さまの救いの門(バーブ・イル)」を得る。今朝は日曜日、礼拝の時です。共にバーブ・イルを経験したいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「バベルの塔」の物語を読みました。神さま、人間は調子乗りで、自分たちの力を威張る時には、まるで自分たちがあなたに並ぶほどの存在と、あなたがいなくても自分で何でも行えると考えてしまいます。でも、その結果、私たちは手痛い失敗を経験することでしょう。神さま、どうぞ私たち一人ひとり、あなたを信じ、正しく従う者で荒れますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(月) 創世記12章1-8節
一言メッセージ:今朝からはイスラエルの原点である族長アブラハムの物語を読み始めます。アブラハムは聖書を理解する上で大前提となる人物です。彼の物語のクライマックスは22章のイサク奉献です。なので、クライマックスに向けて、1つの問いを考えていきます。その問いとは「アブラハムは神さまの命令とはいえ、どうして大事な息子イサクを捧げよう(殺害して、燃やし尽くそう)とできたのか」です。この問いに向けて、数日、アブラハム物語を読み進めます。
  今朝は12章、アブラハム登場のシーンです。まだアブラムと名乗っています。ある日、神さまがハランにいたアブラムに現れ、「わたしが示す地に行きなさい」と命じます(新共同訳や聖書協会訳聖書には後ろに地図があるので参照ください)。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と続きますが、私たちが自分をアブラムに置き換えた時、不安になるのは、神さまの示す土地がどこであるか分からないことであり、当時のアブラハムは75歳であったことです。現代は長寿社会となり、元気な方も多々おられますが、それでも「今から、身寄りは無いし、未だどこか分からないけど、神さまが示すから、その土地に引っ越して暮らしてね」と言われると、「何で慣れ親しんだ土地を離れないといけないの」と思うことでしょう。でもアブラムは一家をまとめ、妻や甥のロトを連れて、当てもない旅を始めるのです。アブラハム物語の始まりは敬虔というか、まっすぐな彼の姿が描かれています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝から私たちはアブラハム物語を読み始めました。どうぞ、「自分だったらどう考えるだろう」とアブラハムと自分を重ねながら読み進めさせてください。アブラハムを通して、私たちも自分たちの信じ方、従い方を問い直す時となりますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(火) 創世記12章10節-13章1-17節
一言メッセージ:今朝はアブラハムの人柄を知る物語です。12章ではエジプトに滞在したアブラムが、妻サライの美しさのために「王が妻を奪うために私を殺すかもしれないから、妹と偽ろう」と算段しています(ちなみにアブラハムは20章でもう1回、息子イサクも26章で同じことをしています)。結果的には神の「ダメ!」との意思のために算段は明らかになるのですが、アブラムにはこういう算段深い面があったことが分かります。一方13章では、甥のロトと争うことを避け、家長であるにも拘らず、土地の選択権を与えるような、思慮深さを持っていたりもします。読み飛ばすつもりですが、14章ではさらわれたロトを救い出すために一族を率いるような勇壮さもあります。私たちにも善良な面もあれば、意地悪い面もあるように、アブラムには様々な面が見られるのです。
  聖書の面白さですが、聖書は「聖なる書」であるはずなのに、そこに登場する人々は私たちと変わらない人間です。良い点も悪い点もある。聖書はそんな人間をそのままに描きます。では、聖書は何が「聖」なのか。聖書が語る「聖」なる存在は神さまです。聖書とは「聖なる神さまが私たち普通の人間と向き合い、関わってきてくださった記録であり、同時に今の私たちにも同じように関わってくださっていることを示す書」なのです。さぁ、今日の一日はどんな一日になるでしょうか。喜ばしいことも、そうでないこともあるかもしれません。でも、そのあなたに今日も神さまは目を留め、守り導いてくださっているのです。安心して今日を歩み始めましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちはアブラハムの人物像を見てきました。彼には良い面も悪い面もありました。それは、私たちと同じです。神さま、私たちは物語を読みながら、そんな私たち人間に、聖なるあなたが関わり続けてくださっていることを確認し、感謝します。どうぞ、引き続き、私たちに目を留め、守り、時に諫めながら、お導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(水) 創世記15章1-6節
一言メッセージ:今朝の箇所はものすごく重要な箇所です。この箇所は新約聖書にも、また今の私たちの教会や信仰にも多大な影響を与える箇所です。何が重要か、分かち合っていきましょう。
  1-5節はアブラムが神さまから祝福の約束をいただき、信じたという話です。重要なのは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」「義と認める」とは簡単に言うと「救いを約束された」です。ポイントは「アブラムが信じたことを神さまは喜び、救いを約束された」ということです。明日の17章で見ますが、今朝の16章は割礼の指示が与えられる前です。割礼はユダヤ人にとって、神さまの救いの約束の証です。けれど、今朝の箇所では救いの約束である割礼の前に既に神さまはアブラムを「義と認め」ておられる。この箇所に注目したのは、新約聖書のパウロです。先日の宣教ガラテヤ3.6で指摘しています。アブラム以降、「人は律法の遵守によって救われる」と伝統的に考えてきたのに、イスラエルの族長たるアブラムが最初に「義と認められた」のは律法の遵守や割礼の実行ではなく、ただ「信じること」においてだった。パウロはこの箇所から「人は信じることで救われる」という信仰義認を確信していきます。そこには彼自身の回心体験があってこそです。今朝、ぜひ覚えていただきたいことは、今、私たちが「私たちは信じて救われる」と素直に受け止めている信仰義認の旧約聖書の論拠がこの箇所なのです。
ぜひ、私たちの身近な人々にも信じて救われてほしい、と心から祈らされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは信仰義認の根拠となった箇所を分かち合いました。私たちは今、「神さまを信じて救われる」と素直に思えます。その真理に到達するためにパウロはやはり聖書に根拠を見出しました。みことばが人間に真理を示しました。神さま、あなたの救いに心から感謝します。同時に、私たちは身近な人々があなたを信じてくれるようにと心から祈ります。どうぞ、私たちが祈る一人ひとりに、あなたへの信仰をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(木) 創世記17章1-14節
一言メッセージ:今朝はものすごく大事な箇所です。どうか何度も読み返して理解を深めてください。今朝の箇所で神さまはアブラムに改名と割礼の指示を与えます。割礼は神さまの救いが約束された民の証となりました。ここで、昨日の箇所との関連で決して忘れてはならないことが明確になります。神さまの掟(命令、指示)とは「守らなければ救われないもの」ではなく、「既に信じて救われるとの約束が与えられたからこそ、神さまを信じて、応答して生きるために守るもの」です。この順序を逆にとらえてはいけません。もし「掟を守らなければ救われない」のであれば、救いは人間の努力の結果に成り下がってしまいます。そうではなく、「神さまの救いが先に約束されていて、その救いに感謝して応答する生き方としての掟」だからこそ、救いは神さまから私たちへの素晴らしい贈り物なのです。神さまの救いが先、だから私たちは神さまに応えて生きるのです。
その理解に立つ時、私たちの生き方も大きく示唆されるのではないでしょうか。私たちの生き方は「御心に背いたら神さまに見捨てられるんじゃないかな」と怯えながら生きるのでなく、「こんな私でさえ救ってくださった神さま、ありがとう。精いっぱいあなたに誠実に生きていきます。時々は失敗もやらかすけど、ごめんね。その都度、悔い改めて、あなたに導かれて生きることができますように」となるのです。「素晴らしき哉、クリスチャン人生!」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、何故あなたの御心に従うのかを分かち合いました。それは、あなたに救われるためのハードルではなく、既に愛し、救ってくださったあなたに感謝して応答するため、でした。そりゃ、既にご存知のとおり、私たちは知ってか知らずか、未だにあなたの御心から離れて、多々過ちを犯しています。でも神さま、「やっべぇ、やらかした」って気づいたら悔い改めます。どうか、そこから私たちを正しく導いてください。いつも私たちに伴い、御心へと導いてくださるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(金) 創世記17章15節-18章15節
一言メッセージ:今朝は少し長いのですが、2つの同じ話を選びました。それは、アブラハム100歳、サラ90歳に子どもが与えられるとの神さまの約束に、アブラハムもサラも「無理無理、ないない」と笑った話です。そりゃ当然です。18.11では「サラは月のものがとうになくなっていた」とあります。つまり、二人は身体的な限界を感じていたのです。けれど、神さまは「今、笑っただろ?なんで笑ったん?」と問い直します。そして「じゃあ、生まれてくる子どもの名前、イサクね」と決められます。その名前の意味は「彼は笑う(17.19)」でした。
  子どもに名前を付ける時、親は真剣に名前を考えます。そして、子どもの名前に自分たちの願いやメッセージを込めて名を付けます。イサクの場合は神さまに命名されたわけですが、アブラハムとサラにとってその名は大事な意味を持ちました。でも、その名前には2つの意味があったでしょう。1つは、少し先になりますが、21章でイサクが誕生した時、サラは「神はわたしに笑いをお与えになった」と言うように喜びです。けれどもう1つの意味は戒めです。「わたしたちはそれぞれ、神さまから祝福の約束をいただいた時、自分たちの常識で『無理無理、ないない』と笑ってしまった。しかし、神さまは人の常識を軽々と超えて御業を行われる。私たちはもう二度と神さまを疑ってはならない」との戒めなのでした。今朝は、アブラハムとサラにとって大事な物語でした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。アブラハムもサラも、それぞれに神さまの約束を「無理」と笑いましたが、彼らの姿を見ながら、私たちは自分たちを思います。私たちも常識や経験に捉われ過ぎて、あなたの御心を勝手に「無理」「無駄」と判断して足蹴にしてきたことがどれほどあったでしょうか。いや、今も行っているでしょう。でも神さま、今朝の物語が示すように、あなたが決断される時、私たちの常識も憶測も算段も経験も軽々と飛び越え、御業を起こされます。だから神さま、いつも私たちに、自分たちの常識だけで物事を考えるのでなく、あなたの御心をこそ問う信仰と、あなたの御心だと確信したら一歩踏み出す勇気をお与えください。そしてどうぞ御心のままに導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(土) 創世記18章16-33節
一言メッセージ:今朝の箇所はアブラハムのソドムとゴモラへの執り成しの物語です。ソドムとゴモラの街の悪行に怒った神さまが「2つの街を滅ぼすからね」とアブラハムに告げるのです。その時、アブラハムは神さまに食い下がります。「あの街に50人の正しい人がいれば、お赦しにならないのですか」と問いかけます。すごいのは25節で、神さまに対して「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と意見までしている。その後は「50人」という正しい人の数を「45人だったら?」「40人なら?」「いや30人でも大事ですし」「よし20人で」「最後の最後10人でどうでしょう?」と交渉し続けるのです。「この粘り強さが私も見習わないと」と思うのですが、この粘り強さの動機は「正しい者を救いたい」という一心、つまり、他者を思う誠実な思いでした。19章を見ますと、それは甥のロトたち家族であったかもしれません。でも、それで良いと思うのです。
  ここ数年の日本では「ヘイト」を煽る人々の動きが目につきます。私も天神で何度か見かけました。非常に残念な運動ですが、彼らが韓国や中国などへの敵意を煽ろうとする度に私は、韓国や中国の友人たちのことを想い起こし、「どれだけ煽られたって、彼らの国を敵視なんてするもんか」と考えます。敵意に振り回されて生きるのでなく、友を想い、共に生きることを選ぶ者でありたい。アブラハムを見ながら、そう思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はアブラハムのソドムとゴモラへの執り成しの物語を読みました。アブラハムの粘り強さはロトをはじめ、正しい人を思う気持ちでした。神さま、私たちの国でも今、周辺国への敵意を煽る活動が目につきます。けれど、私たちは決して、友人の国を敵視することなどありません。そしてあなたはそんな私たちを「良し」としてくださることでしょう。どうぞ、私たちが共に生きることを選び続ける信仰者であらせてください。私たちに最後まで伴ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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