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2021-06

6月6日~12日のみことば - 2021.06.05 Sat

梅雨と言いつつまだまだ晴れの日も多いですね。
とはいえもう6月。
明日の講壇のお花は教会のメンバーのお庭に咲いたあじさい。

20210606flower.jpg
てんこ盛りに生けてくださいました。
大迫力で、まるで絵画のようです!


絵画といえば、じつは久留米教会には大きな絵画が2作品飾ってあります。
ひとつはまさにあじさいの絵画。
202106kaiga_ajisai.jpg
こちらは、既に天に召された教会員の方の作品です。
元応接室(今は事務室として使われています)に飾ってあります。


もうひとつは、多目的ホールに飾られているノアの方舟をモチーフにした作品です。
202106kaiga_noa.jpg
こちらは、以前神学校(牧師となるための学びをする学校)に通っていて、私たちの教会で研修していた方のお連れ合いの作品です。

どちらもどこか優しく、でも力強く、神さまの業を賛美しているような、見ていると色んな表情を見せてくれる作品です。

今は「ぜひどうぞ!」といいにくいですが、教会に来られた際はぜひ本物を見てみてくださいね(^-^)

それでは、今週もみことばと共にまた新たな一歩を歩みだしましょう♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
 ページの下のほうにある「書名・章・節から探す」に以下の事項を選択・入力してください。
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
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6日(日) マタイによる福音書26章17-25節
一言メッセージ:過越しの食事は過越祭の先日夜の食事です。家族や近しい人たちで集まり、イスラエル祖先が奴隷とされていたエジプトから神さまが遣わしたモーセを指導者にして脱出した出来事(出エジプト記)を思い起こしながら食事をするのです。イエスさま一行も過越祭の前日に過越の食事をしました。イエスさまはその席で「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と預言します。弟子たちは「それは誰か」「わたしは潔白だ」と騒ぎ、場が混乱していきます。緊迫した場面ですが、この箇所ではあるギリシア語の単語の訳し方がまずい。それは「裏切る」と訳された「パラドィドウミ」です。福音書では「裏切る」と訳されていますが、正確な訳は「引き渡す」です。この訳の違いはかなり大きい。「裏切る」は「イエスさまが十字架で殺害される」という結果に引っ張られ過ぎています。本来の「引き渡す」では、ユダはイエスさまをユダヤ教指導者たちに引き渡すことの結果まで見えていなかったことが分かる。実際27.3以下を見ますと、ユダはイエスさまが殺害されると知り、ユダヤ教指導者たちに銀貨を返して、イエスさまの釈放を求めますが拒否され、絶望し、自ら命を絶つのです。ユダは事の顛末を理解していなかったのです。だから「引き渡す」の訳が的確です。一方、この時点で全ての顛末を理解しておられるのはイエスさまだけでした。だから、ユダの最後を考え、今朝の箇所24節で「人の子を裏切るその者は不幸だ」と語ったのです。この物語に私たちは考えさせられます。私たちが物事を決断する時、自分たちなりの算段や思惑、展望によって判断します。けれど、見通しと違う結果が生じ、「こんなはずじゃなかった」と騒いでしまう。自分たちの人生を振り返ると何度経験したでしょうか。では、どうすれば正しい決断ができるか。それは、自分たちの願望以上に神さまの御心を模索しながら物事を決断することです。そうする時、たとえ一時的に願った結果と違っても、安心して「神さま、あなたの御心を模索して決断しました。私の思惑と違っても、ここからどうぞあなたの御心のままに導いてください」と祈り続けることができます。今朝は礼拝の日です。今朝も共に御心を模索しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝、「御心を模索し続けること」の大切さを再確認しました。私たちは視野狭く、良かれと思って決断しても、物事が見えておらず、とんでもない事態に発展することがあります。ユダもイエスさまを引き渡した後、「まさか!」と苦しみました。神さま、私たちはあなたの御心を模索する者でありたいと願います。どうぞ、日々あなたの御心をお示しください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(月) マタイによる福音書26章26-30節
一言メッセージ:昨日、私たちも礼拝の中で主の晩餐を行いました。といっても、緊急宣言下なので、式の意味を分かち合いました。この主の晩餐の意味を示すのが今朝の箇所です。端的に言いまして、主の晩餐の目的は28節「罪が赦されるように」です。私たちは昨日のユダのように先が見通せないがゆえに、良かれと思った決断が思惑と食い違い、とんでもない過ちとなることがある。同じように、知らずに神さまの御心から離れてしまうことがあるのです(聖書では、神さまの御心から離れることが「罪」です)。イエスさまはそんな私たちの「罪の赦し」のために、主の晩餐を定められ、私たちがいつもイエスさまの十字架による赦しを想起するように示唆されたのです。
  ここで皆さんと1つ深めてみたい。「罪赦されるため」と言われますが、では、どこまで赦されるのでしょう。ヒントは昨日の箇所です。よく読んでみますと、イエスさまをユダヤ教指導者に引き渡すユダも、主の晩餐に同席したことが分かります。イエスさまはユダを前にしても「罪赦されるため」と語っているのです。つまり、ユダさえも赦されるのです。
  私たちは今改めて、神の赦しがどれほどまで深く、広く、強く、尊いかを知らされます。今週、イエスさまに贖われ、赦された私たちであることを想起し、歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは主の晩餐の記述を読みました。「罪赦される」と聞きますが、その「赦し」がどれほど深く、広く、強く、尊いか、改めて想起しました。今日から一週間の働きが始まります。どうぞいつも、あなたの赦しによって生かされていることを想起して歩めますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(火) マタイによる福音書26章31-35節
一言メッセージ:今朝の箇所は「ペトロの離反の予告」です。イエスさまは弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく(見捨てる)」と語ります。その言葉にペトロが反発します。「他の誰が躓いても、私だけは決してつまずきません」と断言します。けれどイエスさまは「今夜鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言う」と告げる。ペトロは「たとえご一緒に死ぬことになろうと、決してそのようなことはない」と強弁します。他の弟子たちも同様に断言します。その結果は私たちが知るとおり、26.69-75でイエスさまを見捨て、逃げ出し、その晩に鶏が鳴く前に三度、イエスさまを「知らない」と言ってしまうのです。私はペトロのこの言葉を不誠実と断じることができません。彼の気持ちは一切、嘘偽りが無かったと思います。でも、人間は弱いのです。予期せぬ事態に揺さぶられ、思いもしなかった言動をやらかしてしまう。イエスさまはそんな人間の弱さを百もご承知です。そして、裁かない。こんな罪人である私たちを受け止め、私たちのために十字架にかかってまで赦しを与えてくださるのです。今朝は人の弱さと、そんな弱さを理解して受け止めて下さる救い主を想起して一日をスタートしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ペトロの思いに嘘偽りはありませんでした。でも、人は弱いのです。その弱さは私たちにも見られます。神さま、どうぞ弱い私たちを憐れんでください。弱くても、あなたを信じ、従いたいのです。ペトロを否定せず、受け止めてくださったように、私たちも受け止めてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(水) マタイによる福音書26章36-46節
一言メッセージ:ゲッセマネの祈りはとても大事な箇所ですので、2日に分けて読んでいきます。今朝は人間の弱さに注目したいと思います。今朝の箇所で目が留まるのは、イエスさまが怯えきっている姿です。エルサレム入場以来、何があろうとも泰然とし、どんな議論にも的確に答えてきたのに、今朝の箇所でイエスさまは37節「悲しみもだえ始め」、38節では「死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていてくれ」と懇願し、39節では「父よ、できることなら、この杯(事態)をわたしから遠ざけてください」と祈る。神の子なのに、救い主なのに弱いのです。
  でも、わたしはこのイエスさまの姿にとても救われる。イエスさまは私たち人間を超越した神の子としてではなく、私たちと同じ弱い人間として十字架と向き合っておられたのです。そう理解して物語を読む時、次に目に留まるのはイエスさまの祈りの終わりの言葉です。39節では「しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈ります。自らの願望が御心と違うと知っているのです。でも恐いものは恐い。そんな私たちと同じギリギリの気持ちで、イエスさまは御心に踏みとどまられたのです。注目したいのは42節の「あなたの御心が行われますように」です。実はギリシア語原典を見ますと、42節はマタイ6.10、イエスさまが主の祈りを教えた時のことばと完全に一致しています。私はこれを「イエスさまも恐怖の中で主の祈りを祈っていた」のだと思う。普段の祈り、これまで何十回も何百回も祈り続けた言葉がこの時のイエスさまを踏みとどまらせたのです。
今朝の物語は私たちにとって、生き方のヒントです。向き合いたくない出来事に直面せねばならない時、私たちはイエスさまに倣って出来事に向き合いましょう。その時、自分の素直な気持ちを祈ると同時に、主の祈りを祈ってください。イエスさまを身近に感じられるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはゲッセマネのイエスさまを見てきました。イエスさまは私たちを超越した神の子という特別な存在ではなく、私たち同様に恐怖に怯える弱い人間のまま、十字架と向き合っておられました。また、そんなイエスさまは恐怖と向き合うため、日々繰り返し祈っていた主の祈りを祈っておられました。主の祈りは単なる教えでなく、イエスさまの日々の祈りでした。神さま、私たちも改めて主の祈りを祈ります。どうぞ、祈りながら、その言葉の1つ1つにイエスさまを身近に感じさせてください。今も私たちに寄り添い生きる救い主を感じさせてください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(木) マタイによる福音書26章36-46節
一言メッセージ:今朝も昨日同様にゲッセマネの祈りです。昨日は「イエスさまも弱い人間として十字架に向き合われた」こと、「ゲッセマネでの祈りは主の祈りだった」と分かち合いました。
  今朝、注目したいのは最期、46節の言葉です。「立て、行こう」です。厳密に訳すと「立て」は2人称複数ですので、「あなたがたは立ち上がりなさい」です。一方、「行こう」は1人称複数ですので、「私たちは歩み出そう」です。
  私たちは時として、予期せぬ事態や自力で乗り越えられる困難に直面します。へたり込み、「何で私だけが!一体わたしが何をした!」と喚き散らしたくなる、そんな経験をします。今朝の物語の直後の弟子たちは正にそんな気持ちだったでしょう。イエスさまが逮捕された時、自分たちは雲の子散らしたように逃げた。イエスさまを見捨てた。それは悔んでも悔やんでも悔やみきれない大失態でした。でも、その弟子たちに対してイエスさまは語られていたのです。ニュアンスを保持して意訳しますが、「お前たち、立ち上がりなさい。さぁ、わたしと共に歩み出そう」です。イエスさまは「私が一緒に歩み出す」と言ってくださるのです。
  もし今、あなたが大きな課題に直面しているなら、このみことばを何度も何度も思い起こしてください。イエスさまはあなたがへたり込むような気持ちであると知っていて、あなたを見捨てない。だからあなたを立ち上がらせ、「さぁ、共に歩み出そう」と呼びかけてくださるのです。私たちは今、イエスさまと共に困難にも向き合い、歩み出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはイエスさまの呼びかけの言葉が、苦難や困難の中にいる者を何度でも何度でも立ち上がらせ、一歩踏み出させる言葉であると分かち合いました。イエスさま自身、十字架を前にして恐怖しながらなのに、それでも私たちに伴ってくださいます。神さま、どうか私たちが日々、イエスさまに伴われていることを忘れず、救い主イエスさまを身近に感じられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(金) マタイによる福音書26章47-56節
一言メッセージ:イエスさまが逮捕される場面です。ユダに手引きされたユダヤ教指導者たちはゲッセマネの暗闇の中でイエスさまを逮捕します。ユダが手引きしたのは、暗闇の紛れて逃げられないようにですが、イエスさまは逃げも隠れもしません。というよりも、あまりにあっさりと、無力に捕えられています。イエスさまの傍にいた一人が、手下に打ち掛かり、その耳を切り落としたことを聖書は記します。暗闇の中で耳だけ切り落とすことは難しいでしょうから、おそらく、彼は切り捨てるつもりで剣を振るったのでしょう。けれど、イエスさまは彼を諫めます(ルカだけは、イエスさまは手下の耳を癒します)。53節の言葉を見ると、イエスさまが「暴力で対峙するならば、私は天使の大軍勢を呼ぶことだってできる」と書いています。けれどイエスさまはそうしない。暴力に暴力で対峙するのでなく、あくまでも神さまの御心で向き合う。同じように55節、群衆に対しても「暴力ではなく、神さまの前に誠実に向き合うように」と求めるのです。私たちも肝に命じましょう。いかなる強者が、己が力を振るおうが、本当に実現するのは神さまの御心なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまは逮捕される際にも、決して暴力によらず、あなたの御心によって人々と向き合いました。彼らをも救うために、力で屈服させることを拒否されました。神さま、私たちはイエスさまの姿勢に「従う」ことを知らされます。短気で、目先ばかりに目が留まる私たちは、思い通りいかないと、すぐに信仰が揺さぶられます。でも、どうかいつも、あなたの御心と御業にこそ注目し続けられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(土) マタイによる福音書26章57-68節
一言メッセージ:当時のイスラエルはローマ帝国の植民地でしたが、ローマ帝国は支配地域である程度の自治を認めました。その1つがユダヤ教の議会(サンヘドリン)です。議長はユダヤ教大祭司で、構成員は宗教指導者や地域の名士などです。議会の行う裁判は普通、日中に広場で行われます。それが夜中に大祭司の館で、というのは異例です。それほどに彼らは「とにかくイエスを冒涜罪で有罪にする」と考えていました。だから偽証人を立てて、結論ありきで裁判したのです。
物語を読みますと、彼らはイエスさまの有罪とする理由を見出せません。そこで大祭司は目の前で言質を取ろうとします。63節「生ける神に誓って答えよ。お前は神の子、メシア(救い主)なのか。」イエスさまは64節「それはあなたが言ったことだ」と返し、「わたしが自称したのではない」と告げますが、大祭司は直後の64節の言葉で強引にイエスさまを訴えます。65節「神を冒涜した。これでもまだ承認が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。」なんていう矛盾か。なんという驕りか。人間が神の子を「神への冒涜」と騒ぎ立て、「有罪だ、死刑にすべきだ」と断罪し、暴行する(67-68節)。自分たちを救ってくださる救い主を、自分たちの都合のために裁くのです。私たちは今朝、人間の罪深さと、それでも人間を救おうとする神の子の姿を示されるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、人間の愚かさと神の子の姿を見せられます。人間は己が願望や結論のために神の子を殺害しました。でも、イエスさまはそんな私たちを罵り、否定するのでなく、全てを受け止められました。神さま、私たちは人間の罪に自らの姿を知らされ、同時に、救い主の愛に心打たれます。どうか私たちをお赦しください。そして、一人ひとり、あなたを信じて洗礼を受けた時の思いに立ち返らせてください。あなたを信じ、従うと決意した、あの決意と喜びで、もう一度イエスさまと向き合わせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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