5月16日~22日のみことば - 2021.05.15 Sat
5月も半ば・・・なのに!まさかの梅雨入り!!
観測史上2番目の早さだそうですね。
観測史上2番目の早さだそうですね。
植物が育つのに雨は大切ですが、あまりに早いので「この先しばらく雨なのか…」
とちょっぴりしょんぼりしてしまいます。
とちょっぴりしょんぼりしてしまいます。
まだまだ春のさわやかな風にふかれていたかったなぁと思いつつ、ふと「雨」が出てくる讃美歌って
あったかな?と思い、思い立ったのは新生讃美歌104番「雨を降り注ぎ」。
元の英語のものでは「There shall be showers of blessing」。
ざっくりとした意味は「雨のように恵みと祝福をくださる神さま」を賛美する内容ですが、4番まである歌詞の様々な場面で「祝福の雨」を願ったり、与えられている「祝福の雨」に気づいたりしています。
うっとおしく感じる雨ですが、神さまの恵みに例えて考えたら、ちょっと幸せな気持ちになれるかも・・・?
こんな風になんでも神さまへの賛美に変えてしまえるのはクリスチャンの特権かもしれませんね。
これを、個人的には「キリストにおける楽観主義」と名付けています。おすすめです(笑)
とはいえ、梅雨の時期は体調を壊しやすい時期でもありますから、皆さんどうぞ体に気を付けてお過ごしください。
礼拝は今しばらくオンライン中心で行っています。
左下のリンクのYouTubeページでライブ配信、同じくリンクの中の教会ホームページから音声配信などをチェックしてみてくださいね。
今週も皆さんの上に神さまの祝福が雨のようにありますように!!
***
※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択 : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
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16日(日) マタイによる福音書21章28-32節
一言メッセージ:昨日の箇所から、イエスさまの最後の説教群が始まりました。神殿の境内での議論などです。昨日、イエスさまは祭司たちにバプテスマのヨハネについて「彼はどこから派遣された存在だったか」という問いかけをされました。今朝の箇所は、同じくバプテスマのヨハネへの対応について、二人の息子のたとえ話をします。イエスさまは「徴税人や娼婦たち」を兄にたとえ、「祭司長や民の長老たち(23節)」を弟に例えました。内容から言えば、逆の方がすんなり読めると思いませんか?「最初は素直に聞いたのに結局畑に行かない」兄が祭司長や律法学者で、「最初は『行かない』と言ったのに、結局畑に行った」弟が徴税人たち、という方が私たちには分かりやすい。実際、口語訳聖書ではそのように訳されています。この訳の違いは聖書の原典研究による違いです。原点研究上、ギリシア語聖書の第25版では口語訳聖書のように、第27版では新共同訳聖書や最新の聖書協会訳聖書のようになっています。原点研究では議論のあるところですが、新共同訳聖書の読みの方が違和感があるので、「こちらがそもそもの本文だろう」という研究が有力になっています。聖書研究の話は私たちにはどちらでも良さそうですが、この話を最初に聞いた祭司長たちにすれば、とんでもない違いでしょう。そもそも、自分たちが「神さまのみことばを聞いて信じたはずなのに、その御心を踏みにじった」と言われたことで十分に腹立たしいのに、加えて、その自分たちが「弟」と言われ、罪人であるはずの徴税人や娼婦たちが家を継ぐ権利を有する「兄」とされている。それは彼らの誇りを傷つける表現でした。でも、私たちはそこにイエスさまの意図を見出す。イエスさまは祭司たちに「最も大事なことは、プライドじゃなくて神さまの御心を受けること」と示したのです。また31節で救いの順序が語られますが、イエスさまの指摘は順序の問題であって、どちらも最後には救われています。それもまた、神さまが全ての民を救おうとされていることの表れです。今朝の箇所で気づかされることは「不要なプライドにしみがついて神さまの御心を蔑ろにするのではなく、神さまの御心にこそ誠実でありなさい」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝のみことばから、不要なプライドでなく、あなたに誠実に向き合い、信じることが大事と知らされます。考えれば、罪人が信じて救われるなど全くの恩寵です。にも拘わらず、人ちはちっぽけなプライドのために、互いに優劣をつけたがります。神さま、どうぞ私たち、あなたを素直に信じ、従う者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
17日(月) マタイによる福音書21章33-46節
一言メッセージ:イエスさまが語ったファリサイ派たちへの批判の話です。話そのものは非常に分かりやすいです。そして42節では人間の思惑と神さまの御心が違うことを告げます。注目したいのは43節で「自分たちだけ救われる」との選民意識を痛烈に批判したことです。ここでイエスさまは「民族」の話をします。イスラエルの民はアブラハム以降の救いの約束を民族的な選びと捉え、神さまの誠実に向き合いませんでした。「律法さえ守っておけばいいんだ」と考えてしまったわけです。それに対してイエスさまが語った43節「ふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」との言葉を別の訳をしますと、「実を結ぶのであれば、どの民族にでも与えられる」です。神さまの救いは広く開かれているのです。45節で祭司長たちは自分たちが批判されていることに気づき、イエスさまを捕らえようと考えるほどに怒ります。けれど、彼らが思いとどまったのは、「群衆」を恐れたからでした。神さまと向き合うのでなく、人の目、評価にしか目が留まらない。それこそがイエスさまが指摘したことであるのに…。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝のみことばから、「信仰の本質は神さまと真正面から誠実に向き合うこと」と教えられます。けれど私たちは、あなたと向き合う前に周囲の目ばかりを気にしてしまいがちでした。神さま、どうぞ、いつもあなたに誠実に向き合い、あなたの知恵によって示唆をいただき、あなたの御心に基づいて物事に判断を下し、一歩踏み出せる私たちでありますように。一つずつ私たちを整え導いてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
18日(火) マタイによる福音書22章1-14節
一言メッセージ:今朝の箇所のルカ福音書版を4月末の宣教で分かち合いました。ルカ版とマタイ版は少し話が変わっています。注目したいのは、イエスさまのたとえの中で王(神さま)が僕を遣わしてまちの人々を招く時に10節「善人も悪人も」集めたとあるのに、たとえ話の後半で王が宴席から退場させる人は「礼服を着ていない者」であって、彼は「悪人」と表記されていないのです。そこに気づかされるのは、「イエスさまは『善人だから救われる、悪人だから救われない』とは言っていない」ということです。イエスさまの判断基準は「礼服を着ていないこと」、言い換えるならば、「今が王にとってどういう時か、知ろうとしなかった」です。また、今朝の箇所の前後を見ると、今朝の箇所はイエスさまがエルサレムに入場し、十字架にかけられる数日前です。もうすぐイエスさまの十字架によって神さまの救いは実現しようとしている。その時に際して、まだ自分のプライドや既得権で他人を裁いて悦に入る者、神さまの御心を無視する者が叱責されているのです。今朝のたとえ話でイエスさまは、祭司長たちに「もういい加減に気づけ!」と呼びかけたのでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、神の国の譬えでした。イエスさまはたとえ話を通して、「自分たちのプライドや既得権、都合に固執するのでなく、神さまの御心を模索し、悟るよう」にと呼びかけます。神さま、私たちもあなたの呼びかけに真摯に向き合う者であれますように。あなたの救いを、喜びをもって、感謝して、受け入れる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
19日(水) マタイによる福音書22章15-22節
一言メッセージ:イエスさまから散々に批判された人々は、どうにかしてイエスさまを排除しようと考えます。そのために、イエスさまと議論し、イエスさまの周りにいる群衆を失望させ、孤立させて捕え、処刑しようと考えるのです。今朝の箇所ではファリサイ派の人たちがヘロデ派の人たちを連れてきます。ファリサイ派は律法遵守をモットーとした宗教者ですが、ヘロデ派はローマ帝国の支配に従ってイスラエルを監督していたヘロデ王の支持者です。彼らは社会的な既得権益を受けていました。本来は一緒に行動するはずのない両派が一緒にイエスさまを排除する目的の下にやってきた。彼らの問いかけは「ローマ皇帝への税金は納めるべきか、納めないべきか」でした。イエスさまが「納めるべき」と語れば、ファリサイ派の人たちが「この男は神を第一と言いながらローマにしっぽを振った」と騒ぐでしょう。「納めてはならない」と言えば、ヘロデ派が「この男はローマ帝国に反逆した」と訴え出る。イエスさまがどう答えても、彼らは目的を達成できると思った。けれど、イエスさまは彼らの企みを見抜き、彼らにデナリオン銀貨を出させ、その肖像を示します。デナリオン銀貨はローマ通貨で、そこにはローマ皇帝の肖像と、ある言葉が刻まれていました。その言葉は「アウグストゥスの子、神の子、ティベリウス・カエサル」です。ローマ帝国は皇帝を「神の子」と定め、神の権威によって支配地の民衆を統治しようとしていたのです。イエスさまはそんな通貨を示しながら、「皇帝が『おれは神の子だから税金を納めろ』と騒ぎ、わざわざ自分の肖像まで刻むんだったら返してあげたらいい。一方、神のものは神に返したらいい」と語ります。結局のところ、「あなたの判断で決めなさい」と質問を投げ返したのです。今度は彼らが問われます。ファリサイ派が「税金を納めるべきだ」と言えば「神を冒涜した」と言われ、「納めてはならない」と言えばローマ帝国の目が光る。ヘロデ派が「納めるべき」と言えば民衆に敵意を持たれ、「納めてはならない」と言えば自分たちの既得権を棄てることになったのです。イエスさまの言動にはいつも「信じなさい」と促しながら、最後の決断は本人に委ねるのです。それは私たちに対しても同じです。今、私たちも「信じるか?どう従うか?」と問われているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は人の知恵に優る、神さまの示唆が見出されます。神さま、私たちも日々の生活の中で決断に迷うことが多々あります。どうぞ今朝のイエスさまのように、あなたの御心に基づく、最善の決断ができる者であらせてください。あなたの知恵と言葉と力とをいただけますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
20日(木) マタイによる福音書22章23-33節
一言メッセージ:昨日の箇所ではファリサイ派とヘロデ派の人たちがイエスさまを追い詰めるべく、議論をふっかけていました。今朝の箇所ではサドカイ派です。サドカイ派はユダヤ教の一派ですが、彼らは数としては多くないものの、主に神殿のお偉いさんたちグループでした。その信仰の特徴は23節にあるように「復活は無い」と考えていたことです。そんな彼らがふっかけてきた議論は「ある夫婦に子どもが出来ぬまま、夫が死んだ。すると申命記25.5-6に記されるレビラート婚という律法によって、その弟の妻になります。でも弟も子が生まれる前に亡くなる。同じことが7人兄弟全員に起こった。さて、仮に復活があるならば、復活後、この女性は誰の妻になるのか」でした。余談ですが、レビラート婚は女性の人権を軽視する掟ではなく、当時の社会では立場の弱い女性が嫁ぎ先から放り出されないために家に留めるための掟でした。しかし、サドカイ派はその掟の意図を歪めて、イエスさまに議論をふっかけたのです。
イエスさまの答えは明快です。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、勘違いしている。」繰り返しますが、サドカイ派はユダヤ教のエリート層です。その彼らが「お前たちはモノを知らん」と言われた。これには彼らだけでなく、33節にあるように群衆も度肝を抜かれています。
でも、イエスさまの言葉は非常に明快です。サドカイ派に限らず、人間の知恵や知識は自分たちの経験や常識に縛られ過ぎており、神さまの御心や御業を理解できているわけではないのです。神さまの御業は私たちの理解を超えて深いのです。事実、イエスさまは論証として31節で、サドカイ派に「復活について」の示唆も行います。取り上げたのは聖書によく出てくる神さまの自己紹介の言葉です。神さまは「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自らを紹介します。人々はその言葉を「神は『わたしは、あなたたちの先祖たちの神である』と語った」と理解していました。でもイエスさまは「神はアブラハム、イサク、ヤコブという父祖を今、すでに復活させておられ、今も彼らは神さまの御許にて生きている」と説明したのです。サドカイ派に当てはめて指摘するならば、「あなたたちはアブラハムの子孫を自称しているが、その父祖たちは復活し、神の国に与っているのに、自分たちの理解に固執し『復活が無い』と騒ぐ。だから、あなたたちは無知だ」と語り、悔い改めを求めたのです。議論の内容は非常に難解ですが、今朝、私たちが覚えておきたいことは、「自分たちの常識や経験で神さまを小さく枠付けしてはならない」です。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のイエスさまの議論は大変難しく、私たちは「復活」を理解し尽すことなどできないです。でも、それでいいとも知りました。何故なら、神さまの御業を理解し尽すことなどできないからです。そして、だからこそ私たちは安心もします。神さまが自分たちで完全に理解できないほど大きな方だからこそ、私たちは自分たちの常識や理解を超えて、神さまに期待できます。どうぞ、いつもあなたへの期待と信頼をもって生きる私たちであらせてください。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
21日(金) マタイによる福音書22章34-40節
一言メッセージ:今朝の箇所は聖書を理解する上で、最も基礎となる箇所です。この箇所が、イエスさまが神さまとの向き合い方である信仰の骨子を語った箇所だからです。イエスさまによると、信仰は2つのポイントがあります。1つ目は「神さまを全身全霊で愛すること」(申命記6.4-5)、2つ目は「他人を自分のように愛すること」(レビ19.18)です。この2つの方向性は、例えば出エジプト記20章の十戒でも現れます。よく読みますと、第一戒から第四戒までは神さまと私との向き合い方であり、第五戒から第十戒までは私と他者との関係となっています。
さて、この2つの方向をぜひ覚えておきたいのですが、私はこの2つの生き方を同時に生きることを「十字架を生きる」と理解しています。どういう意味か解説を加えますと、1つ目の掟「神さまを全身全霊で愛すること」は、神さまと私たちの関係をきちんと規定し続けることです。私たちは自分に甘く、時に自分の願望を神さまの御心と同定し、都合よく神さまを利用したくなります。けれど、それをせず、神さまを神さまとし続けること、神さまを私たちの上に置き続けることが第一の掟です。方向で表すならば、神さまを上に、自分を下にする縦の関係です。続けて、2つ目の掟「隣人を自分と同じように愛する」は、他者を自分よりも上とか下に見ないことです。誰もが私と同じく、神さまに愛されている存在であると意識すること。それは横の関係です。第一が縦の関係、第二が横の関係です。では、それを組みあわせると何ができあがるか。それは十字架です。私はこれを「十字架を生きる」だと思っています。そして、この十字架の生き方を貫徹なさったのが他ならぬイエスさまでした。だからこそイエスさまはいつでも私たちの模範なのです。どうぞ「十字架を生きる」こと、覚えていてください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちは「十字架を生きる」ことを、みことばと重ねてイメージ出来ました。あなたを全身全霊で愛すること、そして隣人を自分と同じように愛すること。そして、その具体的な示唆はイエスさまがいつも与えてくださいます。神さま、どうぞ私たちも自分たちの生活の中で、あなたを信じ、イエスさまに従い、小さくとも自分たちの十字架を生きることができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
22日(土) マタイによる福音書22章41-46節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまからファリサイ派に対して問われた話です。ファリサイ派に限らず、当時のイスラエルの人々は救い主(メシア)を「ダビデの子」と理解していました。というのは、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、彼らは自分たちをローマ帝国から救い出す救い主を期待していたのです。その時に彼らがイメージしたのは、旧約の英雄であるダビデ王です。ダビデはイスラエルを強国に育て、周辺の国の支配から独立を保った王でした。イスラエルの民はそんなダビデのイメージと救い主を重ね合わせ、「自分たちが求める救い主(メシア)はダビデ王の子」と考えていたのです。でも彼らの理解は、聖書の示す救い主の理解とは違い、自分たちの願望が先行しています。イエスさまはそこを指摘するべく、詩編110.1を引用します。分かりやすく説明しますと、詩編110.1には「わたしダビデは、神が救い主に告げる言葉を聞いた。『わたしの右の座につきなさいと…』」と書かれています。イエスさまは「ダビデ自身が救い主を認識しているのに、どうしてそれが彼の子孫になるのか」と問うたのです。
この指摘の本質はとても大事です。私たちも自分たちの願望や都合を優先して神さまの御心を理解がちですが、それはダメです。神さまの御心ではない。イエスさまでさえ、自分の願望による神さま理解を遠ざけ、聖書のみことばから神さまの御心を模索しておられた。イエスさまでさえそうであれば、私たちはなおさらですね。自分たちの先入観でなく、みことばそのものをしっかりと読み、考え、御心を模索する者でありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまは、自分たちの都合で神さまの御心を左右する私たちの弱さを指摘されました。私たちは自分たちを振り返り、自分たちの願望ありきでなく、みことばから神さまの御心を模索する者でありたいと願います。どうぞ、そのような私たちへと成長させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。
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