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2021-05

5月30日~6月5日のみことば - 2021.05.27 Thu

梅雨の中休み。気持ちのいい晴れの日が続いています。

福岡は引き続き緊急事態宣言が延長されることとなりました。
久留米の感染者数は一時に比べれば落ち着いてきましたが、県内の病床使用率なども高く、まだまだ気を付けなければならないなと感じています。
緊急事態宣言の延長もやむをえないとは思いますが、1年以上の新型コロナによる自粛の日々にかなり疲れてきているというのが正直なところです。
そういう時こそ、心まで引きこもってしまわないように、神さまに祈り心を注ぎだしていたいと思わされています。
さあ。明日は礼拝!
新しい一週間も、神さまの力、聖霊の新しい風を受けながらまいりましょう♪

20210530fliwer.jpg
こちらは明日の礼拝のための生け花。
写真ではちょっと色が飛んでいますが、カーネーションはピンクにオレンジ系のライン(?)の入った可愛い色です。礼拝の時にはユリがもう少し開いているといいなぁ♪


***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

30日(日) マタイによる福音書24章36-44節
一言メッセージ:今朝は「神の国がいつ実現するか分からないのだから、常に神さまを思うようにしなさい」との呼びかけのことばです。ここで用いられる「ノアの箱舟の洪水」や「泥棒」という譬えはきつめのブラックジョークですが、でも「神さまの救いはいつ起こるか分からない」ということはよく伝わる。皆さんも自分を振り返ってみてください。皆さんが神さまを知った背景、教会に来たきっかけ、信じたいと願った発端は何だったでしょうか。きっと多くの人が「神さまを信じたい!」という強い意志で信じたというよりも、「まさかこのことがきっかけになるなんて」という不思議な事柄が多かったのではないでしょうか。私も、教会に行き出したのは「親が牧師だったから」という、自分の意志と関係ない発端でした。信じたのは小学生の全国キャンプに参加して、何となく気持ちが盛り上がったからでした。献身は挫折がきっかけでした。献身後、本気で牧師になろうと決意し、神さまの意志を感じたのは神学部の先輩の突然死がきっかけでした。そういえば、友人が教会に行ったきっかけは、当時付き合っていた女性から理不尽に振られ、彼女が通っていた教会に怒鳴り込んだことがきっかけです。彼は今、牧師です(笑)。多くの場合、私たちが神さまを知るきっかけや信じた発端は予期せぬ時、予期せぬ形です。でも今は、その偶然の背後に神さまが働いておられたと思う。イエスさまは語ります。「神さまがいつ、どこで、どうあなたに働きかけ、神の国を実現されるか分からない。だから、いつも神さまを意識して生きていなさい」と。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたの働きかけは思いもよらぬ時、予期せぬ仕方だと分かち合いました。イエスさまの「泥棒の譬え」は苦笑しますが、でも、実際、神さま、あなたの働きかけは予期できません。だからこそ私たちは期待します。きっとこのコロナ危機の最中にもあなたは素晴らしい御業を実現されておられるでしょう。私たちは自分たちの生活でできなくなることを数えて嘆きがちですが、どうぞ、今この時にも行われているあなたの御業に気づかせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(月) マタイによる福音書24章45-51節
一言メッセージ:2週間ほどかけて23-24章を読んできました。23章は律法学者やファリサイ派への「己が都合で神を利用せず、また思い上がらず、誠実に神に従いなさい」との警告でした。24章は教会に向けた警告でした。「いかなる困難があろうと、揺るがずに神を信じ、神の御業の実現を意識して待ちなさい」でした。どちらも、神さまに誠実であることを求めました。今朝の箇所では「忠実な僕と悪い僕」が語られますが、両者を分かつのは「仕事ができるかどうか」ではなく、「主人のタイミングを理解しているかどうか」です。神学者エドゥアルド・シュヴァイツァーは忠実な僕を「神を計算にいれる本当のリアリスト」と表現しています。自分たちの日々の生活の中で、神さまが何を考え、どう動き、どう御業を行われるかを意識しながら生きる人のことです。物事を決断する時には「神さまだったらどう思われるかな」と考え、精いっぱい努力しながらも「神さま、あとはひとつよろしくお願いします」と期待し、先に見えぬ事態には「神さま、あなたの導きを信じます」と祈り、自分たちの限界を超える出来事に直面したら「でも神さまがおられる」と希望を失わない人です。それが「忠実」の意味です。今日から今週の働きが始まります。今週の私たちは「忠実」に歩みましょうね。お一人おひとりの一週間のために祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は「忠実な僕」について分かち合いました。イエスさまは、いつも神さまを意識して生きる者を「忠実」と語られました。私たちは日々の生活の中で神さまを忘れがちです。でもどうぞ先ず今週の歩みで、神さまを意識しながら歩むことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6月1日(火) マタイによる福音書25章1-13節
一言メッセージ:今朝の話は昨日同様に「賢さと愚かさ」の話です。神の国が祝宴に譬えられていて、祝宴に入れた賢いおとめと、入れなかった愚かな乙女の違いを記した話です。ちなみに「おとめ」は婚礼の席上で祝い踊る少女たちだそうです。さて譬え話では、婚宴に際して、花婿の到着が遅れます。夜中に花婿が到着すると、寝入っていた少女たちは驚いて飛び上がり、出迎えの用意をします。しかし5人の少女は灯りにするための油が足りない。今のように電気がありませんから、灯がなければ誰が誰だかわかりません。それで油を用意していなかった5人の少女は油を購入しに走ります(祝い事は村中の祝いになるので店も開いているのです)。しかし買って帰ると、既に家の戸は閉じられ、彼女たちは締め出されるという話です。さて、ポイントとなる「賢さ、愚かさ」は端的にいって「神さまを自分たちの理解や常識内で枠付けするか、私の理解や常識を超える方と受け止めるか」です。イエスさまは私たちに「己が理解を超える方であると期待して生きられるか」と問われたのです。厳しい問いかけのようですが、イエスさまの譬え話に希望も感じます。8節で油を求めるおとめたちはこう語っています。「油を分けて下さい。わたしたちのともし火は消えそうです。」まだ油は尽きていません。まだ気づくチャンスは残されているのです。今朝から6月です。神さまを想いながら歩むひと月としましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝も私たちは「あなたを想いながら歩むこと」が示されました。今日から6月に入りましたが、コロナの感染収束もまだ先が見通せません。でも神さま、この月も私たちが目の前の現実に翻弄されるのでなく、いつもあなたを意識し、期待して日々を過ごせますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(水) マタイによる福音書25章14-30節
一言メッセージ:今朝は有名な「タラントンの譬え」です。イエスさまが「天の国(神の国)」を例えた話で、聞きなれた解釈は「タラントンは才能(タレント)の語源。この話は神さまが私たちに才能を与えてくださったから、その才能を神さまのために用いていこうという奨めの話」でしょう。確かにそういう話ですが、私はこの話を「神さまは私たち一人ひとりをちゃんと理解くださっているから、互いを比較せずに、神さまに誠実に生きよう」だと理解しています。解説をしましょう。
この話には3つの不可解な部分があります。①どうして主人は僕たちに預けた額に差をつけたのか。えこひいきなのか?②主人(神)は結果によって僕の善し悪しを判断したのか。これは結果を出さねば救われないという話なのか?③最後の僕は1タラントンを隠していたが、何の損失も無かったのだから、叩き出されるのはかわいそうだ、です。1つずつ考えていきましょう。
  ①まず「どうして主人は僕たちに預けた額に差をつけたか。えこひいきなのか?」ですが、注目したいのは15節。主人が僕に預けた額に差をつけますが、その根拠は「それぞれの力に応じて」です。つまり、主人はそれぞれの僕が、どれだけ預けられた時に最良の働きを担えるか、その個性をちゃんと理解し、最善の判断をしたのです。そもそも1タラントンは金額に直すと6,000ドラクメです。ドラクメとデナリオンは同じ価値です。1デナリオンが労働者の一日分の賃金であり、1つの家族が1日生活するのに必要な額ですから、1タラントンと言えば6,000日分、16年以上も生きられる額になる。つまり、そもそも主人が1タラントンを預けたこと自体が比較するような話ではない。僕たちはえこひいきされたのでなく、誰もが主人から莫大な信頼を寄せられているのです。
②続けて「主人は結果を重視するのか。この物語は結果を出さねば救われないという話か」ですが、これも違います。21節と23節に注目しましょう。5タラントン儲けた僕と2タラントン儲けた僕への賞賛の言葉ですが、この2つの言葉は一言一句違いがありません。つまり主人の賞賛の言葉には僕の比較がないのです。比較は私たちの誤解です。私たちこそが比較ばかりの生き方なので、この話も比較で読もうとしてしまったのです。21節、23節にある主人の喜びの理由は「お前は少しのものに忠実であったから」です。主人の信頼に応えようと忠実であったことが賞賛の理由です。
③最後は「1タラントンの僕は損失を出さなかったのだから、叩き出すのは可哀想」ですが、これも誤解です。確かに主人は26節で「怠け者の悪い僕」と叱責しています。しかし、実はその前にこの僕自身が24節で主人である神を「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方(「冷酷な」「計算高い」の意味もある)と告げています。つまり、この僕は主人である神さまを恐怖の対象としてしか見ていないのです。この話のスタート地点は主人の信頼から始まっているのに、この僕は神の信頼を「ノルマ」としか受け取らなかった。それが叱責の理由なのです。
イエスさまはこの話を示しながら私たちに告げます。「神さまは私たち一人ひとりをちゃんと理解くださり、比較ではなく、一人ひとりが神さまに誠実に応えていくように促しておられる。」私たち、神さまの信頼に応え、誠実に今日も過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。あなたは私たち一人ひとりを理解し、信頼してくださっています。けれど私たちはすぐに自分と周囲を比較してしまうため、この話を誤解しました。神さま、今、私たちはあなたの信頼を素直に感謝します。どうぞ、今日もあなたに誠実に生きることができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(木) マタイによる福音書25章31-46節
一言メッセージ:今朝の話はマタイに記されるイエスさまの説教群の最後の話です。イエスさまは神の国の完成の様子を語りました。ここでは救われる者と救われない者という対比がされています。とても面白いなぁと思うのは、神さまから祝福される人たちは、主人から35節「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれたからだ」と言われた際に、「わたし、そんなことしましたっけ?」と尋ねるのに、神さまから叱責される人々は42-43節で「(同じことを)してくれなかったからだ」と言われると「いえ、わたしはやったじゃないですか」と言い返すのです。イエスさまが求めたのは困窮する人々を見捨てず、「共に生きること」ですが、共に生きることについて、両者の理解は違う。何故なら、前半の人々にとって他者を労わることは当たり前だから、いちいち覚えていない。でも後半の人々にとって「共に生きなさい」との示唆はノルマでした。だから、彼らは「自分たちはノルマをちゃんとこなしてきました」と主張したのです。私たちはこの物語を読みながら、出会う人々に変に構えず、自然に手を差し伸べる、そんな自分たちでありたいと思います。同時に、そんな当たり前の小さな事柄すら目を留めてくださっている神さまなのだと喜びたいですね。さぁ、今日も一日、小さな優しさを持って歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語でイエスさまは私たちに「共に生きる者であれ」と促します。それは今のコロナ危機渦中に私たちにとって、大事なチャレンジです。今こそ、あなたの福音に後押しされて、「共に生きる私たち」へと小さなことからチャレンジしていくことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(金) マタイによる福音書26章1-5、14-16節
一言メッセージ:マタイ26章に入りました。ここからイエスさまの十字架まで物語は急速に動き出します。今朝の箇所はイエスさまが亡くなる前日の話です。2節でイエスさまは「過越祭が迫ってきたので、自分は十字架につけられる」と弟子たちに語ります。具体的には祭の前に殺害されると意識しています。一方、神殿のお偉いさんたちはイエスさまを排除したいが、「民衆が騒ぐとまずいから、祭りの後に」と語り合います。時間の食い違いが発生しています。この計画が前倒しになるのは14-16節でイスカリオテのユダの申し出を祭司長たちが「好機」と見たからです。でも、その結果は2節でイエスさまが預言した通りになりました。私たちはこの変更とイエスさまの預言を見比べながら、十字架の背後で神さまが1つずつ1つずつ着実にご計画を進めておられることを見出します。神さまは人の思惑を超えて、独り子の死という悲しみや痛みを受け止めながらも、私たちの救いを着実に進められたのです。私たちはこうして贖われ、救われました。今朝はイエスさまの救いを思い起こしながら一日を過ごしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語以降、イエスさまの十字架に向けて物語は急速に動いていきます。私たちは改めてみことばを読みながら、あなたの救いとイエスさまの贖いに心から感謝します。どうぞ私たちがあなたに赦され、生かされた命を誠実に生きることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(土) マタイによる福音書26章6-13節
一言メッセージ:この箇所は2/28の宣教の箇所です。お時間ある方はどうぞyoutubeで聞き直してください。この物語は伝統的に「一人の女性が食事の席でイエスさまに香油を注ぎ、弟子たちは憤慨した。しかしイエスさまはその行いを自らの葬りの準備と喜んでくださった話」と理解します。けれどじっくり読むと、不可解なことの数々に気づきます。例えば、①当時、病人は「神に罪を犯した罪人で、神の救いから外れた」と理解されていたから、街や村から追い出されるのが常なのに、「重い皮膚病の人シモン」はベタニヤに家を構えているのは何故か、②なぜ、この女性は食事の席上に入って来れたのか、③なぜこの女性はこれほど高価な香油を持っていたのか、④弟子たちが憤慨した時、なぜ家の主人シモンは一緒に憤慨していないのか、です。これらの問いに答える解釈はこうです。「ベタニヤ村は病の人々や罪人たちの隔離村であり、その村にイエスさまは来て下さった。その行動を村の人々は『神さまは私たちを見捨てておらず、救うとの御心を示すため、このイエスさまを遣わしてくださった』と理解し、シモンを含め、皆で神さまへの応答を示すべく、高価な香油を購入し、この一人の女性が代表してイエスさまに香油を注ぎ、神さまに応答した。イエスさまは彼らの思いを受け止め、『十字架が語り継がれる時には必ず、この人々の誠実な応答は一緒に語り継がれる』と喜んでくださった」です。
私はこの物語を読みながら、「私たちもまた神さまの救いに応えよう」と促されます。いかに応えましょうか。それは一昨日25.31-46で読んだように、大きな働きで無くていい。小さな事柄からでいい。今朝の物語のベタニヤの人々のように皆で1つの行いでいい。マザーテレサが語ったように、「小さなことに心を込めて行う」私たちでありましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今、私たちはイエスさまに香油を注いだ人々の物語を通して、小さくとも、心を込めて神さまに応えることの大切さを分かち合いました。このコロナ危機の中で私たちは、自分たちの周囲にもいる人々の姿が目に留まります。あなたの御心に応え、共に生きるべく、どうぞ声をかけ、あなたの福音を何らかの仕方でお伝えできるように、言葉と勇気と力とを出させてください。また教会も、今この時に、あなたの福音を人々にお伝えする器として用いられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
(※ブログに掲載した文章の無断転載はご遠慮ください)

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