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2021-04

4月11日~17日のみことば - 2021.04.10 Sat

先日の日曜日(4月4日)はイースターでした。
昨年は新型コロナウイルスの流行第一波の真っ最中でしたから、イースターエッグを配ることも、イースター礼拝に積極的に集まることすらできなませんでした。
今年も引き続きコロナ禍の中ではありますが、今年は感染予防を行いながら、礼拝をすることができましたし、イースターエッグ(ゆでたまご)も直接触れないように準備して配ることができました!
やっぱり、イースターは「みんなで」祝うのがうれしいなと思った今年のイースターでした。
※はしゃいでいたら、イースターエッグと講壇のユリのお花の写真を撮り忘れました(^^;)

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今年は扉にもイースターの飾りつけをしました♪

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イラストはこどもたち。ありがと~♪


また、先日は今年度初めての礼拝でもありました。
新しい1年、どんなことが待っているのか。
ちょっぴり不安もあるけれど、「絶望しても必ずその先に希望がある!」と示してくださった復活のイエスさまの希望を胸にわくわくしながら新しい1年をまた歩んでいきたいと思います。

みなさんも、新しいとし、一緒に礼拝に参加してみませんか?
皆さんとお会いできることを心からお待ちしています♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

11日(日) マタイによる福音書14章34-36節
一言メッセージ:イエスさまは13-21節の5,000人の供食物語の後、舟に乗り、嵐を鎮めて、ガリラヤ湖の北西岸にあるゲネサレトの地域に戻ってきました。ガリラヤ湖の西側はイエスさまの故郷ナザレを含むガリラヤ地域でした。すると大勢の人たちが「イエスさまが戻ってきた」と噂して集ってくる。病人たちを連れてきた人々はイエスさまに「服の裾にでも触れさせてほしい」と願います。普通は「先生、病気を癒してやってくれんですか」と頼みそうですが、「服の裾にでも触れさせてほしい」という願いには、イエスさまが一人ひとりに向き合えぬほどに超多忙だったことが背景にあるように思います。でも、そこで注目したいのは最期の言葉です。「(服の裾に)触れた者は皆いやされた。」以前も書きましたが、当時の病気は、罪を犯し、神さまの守りから外れたから悪霊に憑りつかれてなるもの、と理解されていました。逆を言えば、癒されたということは、神さまがその人の罪を赦したから癒されたと理解されるのです。その視点で読むとき、聖書のメッセージが見えてきます。「神さまは、イエスさまをもみくちゃにするほどに殺到した人々の一人ひとりの事情も、痛みも、思いも、全てを受け止め、愛し、赦し、癒してくださったのだ」と。今朝の箇所は、神さまが神さまの御業を求める一人ひとりと向き合ってくださることを示しているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、イエスさまの超多忙さの中で、あなたは一人ひとりの病人としっかりと向き合ってくださったことを知りました。私たちは自分たちが小さな存在だと思い込み、時に「祈っても神さまには届かない」と勝手に考えてしまいます。でも今朝の箇所は、神さまが全ての者とちゃんと向き合ってくださると勇気づけてくれます。神さま、私たちはあなたに祈ります。どうぞ祈りの言葉も、言葉にできぬ思いも、呻きすらも受け止め、あなたの御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

12日(月) マタイによる福音書15章1-9節
一言メッセージ:ガリラヤにて神さまの御言葉を宣べ伝え、癒しを行うイエスさまの所へ、ユダヤ教の中心地エルサレムからファリサイ派と律法学者の集団がやってきます。いわば、保守本流の人たちです。彼らはイエスさまに「あなたの弟子たちは、昔からの伝統を破る。食事の前に手を洗わない」と批判します。するとイエスさまは逆に問います。「あなたたちが自分たちの伝統を守るために神の掟を破るのは何故だ?」4節の「父と母を敬え」は十戒の第五戒ですが、この律法の解釈として「『父母を敬う』は大事だけれど、世代交代して家長となった息子が扶養すべき父母に対して、『あなたがたに差し上げるものは神さまへの献げものにする』と告げる場合は、神さまを最優先することだから養いの義務は免除される」という理解がありました。そして、この解釈を言い訳にして親への義務を蔑ろにしながら、「あの人は敬虔だ」と思われようとする人々が多々いたようです。イエスさまは神さまを言い訳にしながら、神さまの御心を踏みにじる人々を極めて腹立たしく思い、イザヤ29.13を取り上げながら厳しく批判します。人間は「自分たちが守ってきたものこそが正しい」と思いがちです。けれど、本質を見失った伝統は形骸化し、人を裁くために基準にされてしまいます。今朝のファリサイ派たちのように、です。連盟や連合の集まりでもよく「教会に若者が少なくなった。信仰の継承が大事だ」と話題になりますが、私はいつも信仰の継承は形の継承ではなく祈りの継承でありたいと思います。先達がどういう状況下で、神さまとどう向き合い、どんな覚悟と希望を持って決断したか、その背後の祈りを知ることが本当の継承であり、形式の押し付けを継承と考えるのは浅はかです。私たちはイエスさまから「神さまの御心を台無しにしている」と叱責されないように、ちゃんと神さまの御心という本質から物事を考える者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまの叱責から、「神さまの御心にこそ誠実にあれ」ということを再確認しました。時に私たちは長年慣れ親しんだ形に固執し、本質を見失いがちになります。教会の伝統を重んじるあまりに、イエスさまの御心を見失い過ちを犯します。どうぞ、私たちが過ちを犯さないように、いつもあなたの御心を模索する私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(火) マタイによる福音書15章10-20節
一言メッセージ:昨日の箇所の続きです。イエスさまは自分たちの伝統に固執して神さまの御心を蔑ろにする宗教指導者たちによっぽど腹が立ったのでしょう。10節では自ら群衆を呼び寄せ、指導者たちの過ちを批判します。11節の内容は痛烈です。「穢れているから食べてはならない」との食物規定を真っ向から批判したのです。ファリサイ派はその規定を一言一句過たずに守っていました。だから弟子たちは12節で、「先生、ファリサイ派の人たちが決定的に敵意を持ちました」と告げ、留めようとします。けれどイエスさまは14節では「そのままにしておきなさい(ストレートに言うと「放っておけ!」)」と断じます。この際の譬え話の意味を尋ねられると、さらに17節では「食い物が『穢れ』だなんだと騒ぐ連中がいるが、食い物は必ず便所でひり出すから、人を穢すものか!より悪質なのは、人間の言葉だ。その言葉に含まれた悪意、殺意、すけべ心と行動、盗み、嘘、悪口が、人間を神さまの御心から引き離すんだ。正に、あの宗教指導者たちがその典型だ」と告げたのです。イエスさまは非常に激昂しています。それは、神さまが救いたいと願っている民衆を「罪」に定め、神さまから遠ざける者たちへの怒りでした。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所でイエスさまは珍しいくらいに激昂していました。それは、自分たちの伝統の固執して神さまの御心を蔑ろにするに飽き足らず、神さまが救いたいと願う民を神さまから遠ざける者たちへの怒りでした。私たちはこの箇所でも、イエスさまの行動原理が神さまの御心に従うことであったと悟ります。どうぞ私たち自身がイエスさまの怒りに合わないように、あなたの御心を模索して生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(水) マタイによる福音書15章21-28節
一言メッセージ:昨日の箇所の続きです。ファリサイ派や律法学者たちの敵意を受けたイエスさま一行はティルス、シドンの地方に行きます。新共同訳聖書の後ろの地図を見ますと、この地域はイスラエルの北部で地中海沿岸地域です。ローマ帝国の影響が特に強く、ユダヤ人の少ない地域です。イエスさまは宗教指導者たちの、神さまの御心を踏みにじりながら自分たちの伝統に固執する傲慢さに嫌気がさしたからか、この地域に行くのです。すると、カナン人の女性がやってきて、「娘が悪霊に憑りつかれ、病に苦しんでいます。どうか癒してください」と願います。イエスさまはその呼びかけに無視するくらいに、活動にもやる気を失いかけていた。でも彼女は叫びながらついて来る。弟子たちは「先生、追い払ってください」と願う。そこで24節、イエスさまは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされてはいない」と告げ、拒否をします。でも彼女はなおもひれ伏し、願うのです。そこで26節、イエスさまは「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない」と告げ、再度拒否します。ここで女性の言葉に注目しましょう。彼女はこう言います。ニュアンスを活かして訳しますと27節、「主よ、その通りです。小犬は主人の食卓から落ちるパン屑をいただくものです。」彼女はイエスさまの拒否の言葉を肯定的な返答につなげ、「小犬ならば、パン屑をいただけるのですね」と返した。さらに注目したいのはイエスさまへの呼びかけです。22節では「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。「ダビデの子」は極めて政治的な期待を超えた言葉です。けれど27節で彼女は「主よ」とだけ呼びかけます。それは政治的な意味合いのない、純粋に神さまの救いを求める者の「救い主よ」との呼びかけでした。イエスさまは彼女が神さまに純粋に期待するからこそ自分のところに来たと悟り、28節で「あなたの信仰は立派だ」と告げ、彼女の娘を癒すのでした。この物語において癒されたのは女性の娘です。けれど、イエスさま自身もどれだけ勇気づけられたでしょう。ユダヤ人ではない女性も、神さまを純粋に求めている。イエスさまは民衆の神さまを求める姿勢にもう一度元気づけられた。それが今朝の物語なのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、一人の女性のしなやかで強さとユーモアを兼ね備えた信仰を見せられました。その信仰は算段にまみれた駆け引きではなく、ただただ神さまへの純粋な期待であり、その信仰にイエスさまをももう一度元気づけていきました。神さま、私たちも彼女のような信仰者でありたいと願います。純粋でしなやかな信仰によって、教会の家族も、未だイエスさまを知らない方々にもイエスさまへの信仰を求めさせる、そんな私たちであらせてください。どうぞ、これまで以上に厚かましく(笑)、あなたを信じる者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(木) マタイによる福音書15章29-31節
一言メッセージ:今朝の箇所は何気ない、イエスさまの活動報告と読めそうな箇所です。けれど、昨日の箇所を読んだ私たちは、29節でイエスさまが「ガリラヤ湖のほとり」に戻り、改めて多くの人を癒し、神さまの御業を実現しておられることに気づきます。イエスさま自身がティルスで出会った女性の信仰に元気づけられ、再度、活動を始められたのです。イエスさまは31節で「(人々が)イスラエルの神を賛美」する姿に、さらに確信と喜びを強くしたことでしょう。「偉そうな指導者たちは神さまの御心を蔑ろにしながら、自分たちの伝統に固執するが、民衆は神さまを純粋に求めている」と確認し、だからこそ人々と向き合い続けてくださったのでしょう。私は今、この群衆の一人のようにありたいと願います。私たちにも様々な課題がある。でもその時に、算段ではなく純粋に神さまの御心を求め、誠実にイエスさまを信じ従う者でありたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまがガリラヤで活動を再開された物語を読みました。正直、イエスさまも疲れを覚え、苛立ち、失望していたことに安心もします。でも、同時にそんなイエスさまを再度元気づけたのが、民衆の純粋な信仰であったことが嬉しいです。神さま、どうぞ私たちも民衆のひとりとして、いつもあなたとイエスさまを信じ、誠実に生きるものであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(金) マタイによる福音書15章32-39節
一言メッセージ:今朝の箇所は14章で見た「5,000人の供食」とそっくりの話です。人数が男性だけで4,000人であることや、そこにあったパンが7つで、食べた後のパンを集めた時の籠の数が7つなど、数字が若干違いますが、内容はほとんど同じです。
  では、こういう箇所をどう読むか。私は直前の話のつながりで読もうと思います。イエスさまと三日間いっしょにいて空腹だった民衆は、29-31節でイエスさまの傍にやってきた人々です。大勢の病人と、連れてきた人々です。病人は癒され、人々もイエスさまの傍を離れず、一緒に神さまを賛美していた。でも、彼らも帰らねばならない。イエスさまは共に礼拝し、神さまの御業を喜びあった人々が空腹のまま帰ること、まして空腹で行き倒れることを心配された。そこで、この奇跡を起こされた。そう思ってこの物語を読む時、「7」という数字が意味を持ちます。聖書では数字は意味を持ちます。例えば、3は神さまを表す数字ですし、6は悪魔をイメージする数字です。12は12弟子やイスラエル12部族など完成を表す数字です。では7は何かと言えば、それは神さまの御業を表します。つまり、この物語における「7つのパン、7つの籠いっぱいのパン屑」とは、彼らの今も、そして彼らの行く末も、神さまの守りと整えの中で導かれていくことを示唆するのです。
  私たちの人生にも課題や困窮は起こります。けれど、この話は、その時に、イエスさまが私たちと共にいて、私たちに先立って私たちを心配してくださっていること、そして私たちのために御業を行ってくださること、その一連の流れにも神さまの御業があることを知らせてくれるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は、イエスさまが私たちの生活を御存知であり、配慮くださっていることを知ります。私たちは困窮の時、自分の目の前の危機だけに目が留まり、不平不満ばかりに目が留まります。でも、その時にもイエスさまのご配慮と神さまの御業が与えられていることを忘れずに過ごさせてください。どうぞいつもあなたへの信仰を守る者としてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(土) マタイによる福音書16章1-4節
一言メッセージ:今朝は「時代のしるし」という印象的なことばが出てきました。どういう流れで出てきたかと言えば、ある時、イエスさまのところにファリサイ派とサドカイ派の人々がやってきた。どちらもユダヤ教の一派ですが、ファリサイ派は通常の仕事を持ちながらも律法遵守をモットーにする、民衆に近い宗教指導者でもある。一方、サドカイ派はユダヤ教の上位階級の人々です。両者の信仰には決定的な違いがあり、ファリサイ派は復活を信じますが、サドカイ派は信じないので、両者は議論を戦わせる相手でした。けれど、ここでは一緒になってイエスさまに「お前が神から遣わされたのであれば、証拠をみせろ」と騒ぐ。イエスさまはウンザリしたのでしょう。「あなたたちは天気を予想するのに時代のしるし、時代の流れは見極められないのか。神の御心を知らぬ民らは証拠を求めたがるが、あなたたちには(旧約の)ヨナのしるし以外は与えられない」と告げて去る。では「ヨナのしるし」とは何か。それは、15.21-39で見てきたように、日々を必死に生きるために律法の掟を守れず「罪人」とされていた民や、神を知らぬ民(異邦人)たちがイエスさまを通して、神さまを知り、信じていく様子です。つまり、神さまへの信仰がユダヤ人の指導者層の自己満足ではなく、民の喜びとなって広がって行く様であり、ヨナ書を見ても分かるように神さま自らがそのことを喜ばれること、それが「ヨナのしるし」なのです。私は今の時代も「ヨナのしるし」が現れているように思います。多くの人が希望を求め、つながりを欲している。この時にこそ、教会はイエスさまの福音を証し、みことばを伝える群れでありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。時に、人間はプライド高く、自分の願望や都合を優先し、神さまの示唆に目を閉ざします。けれど、イエスさまは常に民のただ中で生き、人々がどれほど神さまの福音を、慰めを、救いを求めているかを知り、神さまのみことばを語り、実践していかれました。神さま、どうぞ私たちもイエスさまに倣い、多くの人にあなたの福音を伝えさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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