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2021-04

4月4日~10日のみことば - 2021.04.04 Sun

4月になり、いよいよ新年度がスタートしました。
まだまだコロナの収束は見えない中ですが、今年1年も神さまの導きに期待しつつ、歩んでいきたいと思います。

久留米教会では、最近ちょっとした変化が。
それは・・・教会の駐車場がアスファルトになりました!
雨が降るとどうしても水たまりができ、埋めてもやっぱりえぐれてくる…
付設幼児園の送迎の車も頻繁に出入りするので不便でしたが、すっかりきれいになりました!
202104tyuusyajou_2.jpg

なんだか、ひろ~くなったように感じます。
そして、このアスファルトの上にある白い点々・・・拡大すると・・・

202104tyuusyajou_1.jpg
見えにくいですが、桜の花びらです!!
幼児園のアーチ横に咲いている教会の桜の花びらが風で舞って、真黒な駐車場を素敵に飾ってくれています。
桜も葉桜になり、いよいよ新緑が力ずよく芽吹いてきました。
明日はイースター!
イエスさまの復活を覚える礼拝から教会の新年度が始まっていきます。
喜びのうちに、この1年をスタートしましょう♪

今年度も教会の礼拝堂で、またライブ配信の画面ごしにお会いできるのを楽しみにしています♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

4日(日) マタイによる福音書13章44-50節
一言メッセージ:みなさん、イースターおめでとうございます。今年は礼拝だけでなく、みことばメールでもイエスさまの復活を祝えることを感謝します。当初の予定では、今朝のみことばメールでイエスさまの復活の記事を読もうと思っていましたが、いざ始めてみるとまだマタイが半分終わっていない(苦笑)。あと数ヶ月、マタイ福音書の講解にお付き合いください。
  さて、今朝は「天の国(神の国)」の3つのたとえ話です。一読しただけだと最初の2つの話と最後の話は色合いが違います。最初の2つは「天の国は何ものにも代えがたい素晴らしいもの。すぐに信じ、受け入れなさい」という促しですが、最後のたとえは36-43節の「毒麦のたとえ」のように「終末には悪人は救われない」という厳しい内容になります。ただし、最後の話について研究書を調べますと、49節以下の「より分けて悪人を棄てる」の話は本来のイエスさまの話には無く、福音書記者が付加したものと考えられています。つまり、本来のイエスさまの話しは47-48節だけでした。そこだけを読むと「天の国には、よい魚と悪い魚が混在していて、終末にはその魚がより分けられる。だから、あなたたちは一刻も早く、よい魚に育ちなさい」です。それこそ44節、45-46節のように、まだ畑の宝や高価な真珠を手にする前の人たちがとにかく一刻も早く手に入れようとしたように、「あなたも神さまの救いをいただくべく、信じて受け入れなさい」と促されたのです。
  私たち自身を振り変えると、良い面も悪い面も混在します。それを否定するのでなく、そんな自分でもそこから神さまの救いを信じられるのです。さぁ、イエスさまを信じましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまの復活のイースターです。イエスさまが罪人でしかない私たちをも顧み、私たちの罪も弱さも痛みも涙も、全てを丸ごと引き受けて救ってくださったことを喜び、私たちもイエスさまの救いを感謝して受け入れることができますように。救い主であり復活の主なるイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(月) マタイによる福音書13章51-52節
一言メッセージ:今朝の箇所はマタイ福音書に記されたイエスさまの3つ目の説教、たとえ話説教群の終わりの言葉です。イエスさまの言葉は「天の国のことを学んだ学者とかけまして、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人と説く」という謎かけのようです。「その答えは?」と問えば、イエスさまはその答えを言わない。聴衆に考えさせるのです。だから、私たちも考えてみましょう。私は「学者は真実を突き止めるべく研究するのが役割だが、彼はあまりに神さまの国が素晴らしいから、単なる研究を超えて、自ら信じて生きようとする。それが、倉の中身を入れ替える家の主人と似ている」のだと考えました。それくらいに神さまの国は素晴らしく、イエスさまは「何を躊躇しとると?早う信じて従えばいいとって」と促されるのです。信仰とは頭だけの事柄でなく生き方の事柄なのです。私たちも「信じて従う者、信じて生きる者」になりましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。イエスさまの言葉は度々、謎かけのようです。「あなたは神の御心をどう受け止め、どう理解し、どう生きるのか」と問われます。神さま、どうか私たちがいつもあなたの御心を模索し、応答して生きる者であれますように。救い主イエスさまの促しに正しく応えるあれますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(火) マタイによる福音書13章53-58節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまが故郷ナザレで受け入れられなかったという物語です。人々は「ありゃ、マリアんところのイエスやなかか(父親ヨセフの名前が挙げられていないから、既に亡くなっていたと考えられます)」と口々に言い、イエスさまも「預言者は故郷では敬われない」と語ります。私なんかも休暇などで出身教会に行き、お世話になった方々にお会いすると、「あら、しんちゃん。元気してた?もう、しんちゃんなんて言っちゃいけんね」と言われたりします。言われる分には、何だか自分が昔に戻ったようで、それはそれでありがたい面もあるのですが、イエスさまの状況は違います。54節を見ると、ナザレの人々はイエスさまのみことばと奇跡に驚愕しています。彼らは神さまの御業を体験しているのに、神さまに目を向けるのでなく、「あのイエスがこげなことができるげな」と、イエスさま個人の力としか受け止めず、「なんで、こんな力があるとね?」と自分たちの常識や経験の中だけで判断しようとするのです。イエスさまは、神さまに目を向けず、自分たちの繋がり、理解、常識だけで判断する人々に落胆しました。「神さまを神さまとして敬う」、当たり前の事柄ですが、改めて大事なことと胸に刻みたいです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所を見ながら、私たちもナザレの人々のように、みことばが語られながらも自分たちの人間関係や理解でしか受け止めず、あなたの御心を矮小化する自分たちに気付かされます。どうかいつも、あなたへの畏敬を忘れずに過ごさせてください。あなたの御心に気づき、喜び、従える私たちでありますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

7日(水) マタイによる福音書14章1-12節
一言メッセージ:今朝の箇所は、イエスさまにバプテスマを授けたヨハネの死の物語です。死の経緯は聖書の通りですが、「領主ヘロデ」はヘロデ・アンティパスという人物で、彼はイスラエルを4分割した内の1つの領主でした。彼は異母兄弟フィリポの妻へロディアを奪い取り、自分の妻としたのですが、そのことをヨハネから糾弾されます。兄弟の妻との結婚は禁じられていたのです。ヘロデはヨハネを憎み、捕らえますが、彼の民衆への影響力を恐れ、手が出せません(これは、古代の歴史家ヨセフスも指摘しています)。そんな折、ヘロデは自分の誕生祝いの席上、みょんなことから、妻の前夫との子からヨハネの死を求められ、殺害することになるのです。
  この物語は非常に理不尽です。権力者の横暴を批判したため正しい者が殺害される。赦されてはならない暴挙ですが、しかし、今朝の箇所の中で注意したいのは2節と5節です。ヘロデはヨハネの死後もその陰に怯えます。それは、自分の行いが罪だと知っているからであり、民衆の怒りが恐いのです。これは今の時代も同じです。権力者が恐れるものは民衆です。けれど、民衆の側がこのことを理解していない。「自分たちが無力であり、何を言っても無駄だ」と思い込み、口を閉ざしてしまう。それこそが権力を持つ者の思うつぼなのに、勝手に無力感に諦めてしまう。この事実に対して、マタイ5.9でイエスさまは言われていました。「平和を実現する人々(民衆)は幸いである。その人たちは(他ならぬ神さまから)神の子と呼ばれ(祝福を受け)るだろう。」私たち、神さまを信じ、その祝福を期待するからこそ、「否は否」と言い抜く信仰者でありたいと願います。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。ヨハネの死はあまりの理不尽で、民衆は無力かのように感じました。けれど聖書は権力者が自らの罪と民衆を恐れていることを記します。それは今の私たちにも大事な示唆です。神さま、私たちはあなたによって祝福と尊厳をいただいた命です。どうぞ「自分を無力」と勘違いして、声を発さないのでなく、あなたの御心に基づいて声をあげる私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

8日(木) マタイによる福音書14章13-21節
一言メッセージ:今朝の箇所は有名な「5,000人の供食」の物語です。イエスさまの周りに集まった人々は成人男性だけで5,000人にも及びます(当時の社会で社会的に数えられたのは成人男性のみ。女性や子どももいたと考えると単純計算で倍の10,000人ほど?とか言われる)。イエスさまは傍にあった5つのパンと2匹の魚を祈り、神さまの奇跡によってこれらの人々が満腹になるほどの食事を提供したという物語です(少年が5つのパンと2匹の魚をくれたというのはヨハネ福音書だけの記述です)。有名な話なのですが、今朝、わたしはこの時のイエスさまの心境を考えてみたいのです。13節でイエスさまは「これを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」とあります。「これを聞くと」とは直前、イエスさまにバプテスマを行ったヨハネの死の知らせです。それを聞くと、イエスさまは舟に乗って、その場を離れた。解釈者によっては「イエスさまが身の危険を感じて退いた」と理解する人もいますが、私は「ひとり人里離れたところに退かれた」といいう記述に、「祈るため」だったと考えます。明日の箇所22-23節に、イエスさまは「祈るためにひとり」残り、弟子たちは「強いて」舟に乗せて向こう岸に行かせているからです。この時のイエスさまはバプテスマのヨハネのことで祈りたかったし、心痛んでいたのでしょう。けれど群衆が来た。イエスさまは14節、「大勢の群衆を見て深く憐れみ」、心痛めます。それは、群衆と御自分が同じように理不尽な現実の中で神さまの希望と御業を求めていると重なって理解できたからでしょう。イエスさまはいつも、民衆と一緒に生きた方なのです。以前、説教で紹介した山浦玄嗣さんのケセン語訳聖書では19節でイエスさまが「群衆には草の上に座るように」言った言葉がこう訳されます。「さぁ、皆の衆、草の上に腰を下ろして、飯にすべぁ!(ケセン語)」。私たち民と一緒に生きてくださる救い主イエスさまの姿が思い浮かびます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、わたしたちは、イエスさまが民のただ中で、民と同じように心痛めながら、でも神さまを示して生きて下さったことを知ります。私たちは心痛める出来事があると、そればかりに捉われてしまいます。でもイエスさまはそんな中でも民と自分を重ねながら、慰めと希望が神さまにあることを示されました。神さま、私たちは改めて、あなたにこそ慰めと希望があることを悟ります。どうぞいつも、あなたを見上げて生きる者であらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

9日(金) マタイによる福音書14章22-23節
一言メッセージ:今朝は昨日の続きの物語です。あえて、短く刻みました。イエスさまはひとり祈るために弟子たちを舟に乗せてガリラヤ湖を渡らせた。22節で「強いて」とありますから、弟子たちは「先生、お祈りが終わるまで待っています」と言ったのでしょう。でもイエスさまは「いいから、先に行きなさい」と行かせた。そして群衆を解散させて、ひとり山に登り、祈るのです。「山」は出エジプト記3章のモーセの物語でも見られるように、神さまと出会う場所です。イエスさまは弟子や群衆の前と違い、ひとりで神さまと向き合いたかった、それが今朝の箇所です。
  私たちは周囲に人がいますと、どうしても周囲の目を意識してしまう。むかし、恩師から「誰かと一緒に祈ることも大事だけれど、誰もいないところで一人での祈りも大事にしなさい。そして自分の素直な思いを神さまにぶつけなさい。普段は心の奥底に秘めている思いを口にすることであなたは解放されるし、自分の全てを受け止めてもらえることで神さまへの信頼は強まる。ありがたいことに、神さまは口が堅く、決して口外されない(笑)」と言われました。皆さんもぜひ、一人の祈りを行ってみてください。教会を使ってもらってもいいですよ。会堂の入り口に張り紙して、誰も入らない状態にしますから。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまも一人で祈っていたことを知りました。イエスさまもあなたの前では全く素直な一人として、全てを曝け出して祈っておられたのでしょう。神さま、私たちもイエスさまに倣い、あなたに祈ります。周囲には言えないあれこれも、あなたにお話しします。どうぞあなたが私たちを丸ごと受け止めてくださっていることを、私たち自身がちゃんと自覚することができますように。私たちの模範になってくださったイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

10日(土) マタイによる福音書14章24-33節
一言メッセージ:イエスさまが祈るため、先にガリラヤ湖を渡るように言われた弟子たちは、舟を出します。彼らの中には元漁師のペトロたちがいる。舟の操船などお手の物だったでしょう。けれど、その彼らをして、舟が進まないほどの逆風が起こった。24節で「舟は既に陸から数スタディオンか離れており」とあります。1スタディオンは約185m。10スタディオンでも1.9km弱。ペトロたちは何とか湖を渡ろうとしますが、舟は進まないのです。夜明け頃、イエスさまが湖を歩いて弟子たちのところに向かいます。「なんて無茶な」と思いますが、弟子たちも同じように思ったのでしょう。恐怖でパニックになり、「幽霊だ!」と騒ぐ。するとイエスさまは27節で「安心しなさい。わたしだ」と語る。この「わたしだ」をギリシア語で見ますと、「ほかの誰でもない、わたしだ」と強調されています。ペトロはイエスさまを確かめるべく、これまた素っ頓狂なことに「わたしも歩いて行かせてください」と言います。イエスさまが「来なさい」と言うと、ペトロは歩いてイエスさまへと近づく。けれど「風が恐い」と思った瞬間にドボンと沈むのです。イエスさまはすぐに手を差し伸べ、「信仰の小さな者、なんで疑ったか」と問う。そして、舟に乗り込むと嵐が静まる。非常に不思議な物語ですが、福音書記者が強調したかったのは、「人の手に負えぬ出来事の中で、私たちは自分たちの経験や常識で物事を判断し、恐怖に捉われる。でも大事なことは、他の誰でもなくイエスさまを想うこと。イエスさまが私たちに助けの手を差し伸べてくださっているから、その手を掴み、安心して出来事を乗り越えていきなさい」でした。私たちもイエスさまをいつも思いながら、日々を過ごしましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、自分たちの経験や常識だけに頼るのでなく、イエスさまを信じ従うことを示されました。コロナ禍の昨年を思い起こす時、私たちは先の見えぬ不安の中で、それでもイエスさまを信じて元気に乗り切ってこれました。イエスさまへの信仰は確かな希望であり、平安です。どうぞ、この平安を私たちだけで味わうのでなく、家族や友人たちに伝えることができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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