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2021-03

3月14日~20日のみことば - 2021.03.14 Sun

3月も半ば。教会の桜もそろそろ開花の予感!
今週もみことばに養われながら歩みたいと思います。

**日々のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
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14日(日) マタイによる福音書10章16-25節
一言メッセージ:今朝の箇所は私たちにとってあまり喜ばしくない、迫害と苦難の預言です。イエスさまの福音を告げることが人々の怒りや敵意の対象になると書かれます。現在の私たちから見れば、信仰のゆえに命の危険を感じる苦難はありませんが、でも、信仰ゆえに「何だか規制されているように見える」といった誤解を受けるということはある。根本的なことですが、信仰と人間の本能とは相反する部分があるからです。「自由」は本来、責任を伴いますが、多くの人が「身勝手」とはき違えがちです。例えるならば、自分の自由を押し通すために、他人の自由を踏みにじることは「自由」ではなく、身勝手に過ぎません。では本当の「自由」、誰にとっても祝福に満ちた最善の解放とはどこで得られるのか。それは、神さまの御手の中でこそ与えられるものです。なぜなら、神さまに従う自由は、人には乗り越えがたい困難さえ整え、未来における祝福を約束してくれるからです。人は目先の出来事に翻弄されがちですが、信仰は人間の理解の及ばぬ先に目を向けることを求めます。人は感情に捉われがちですが、信仰は時に、感情を超えた決意を求めるのです。例えば、以前も紹介しましたが、公民権運動の中でキング牧師が語った説教「汝の敵を愛せ」では、イエスさまの「汝の敵を愛せ」とのみことばを取り上げながら、「私たちは自分たちを暴行する敵を好きになれない。好きになるは感情の事柄だ。けれど、イエスさまは私たちに『好きになれ』でなく『愛せ』と語られた。それは決意の出来事だ」と語りました。その結果、キング牧師の運動から50年後、アメリカではオバマさんというアフリカにルーツを持つ人が大統領になるという変化を生み出しました。信仰は私たちに感情を超えた要求をします。けれど、その要求に従うからこそ、自分たちの理解や限界を超えた神さまの御業が実現するのです。
イエスさまもそうでした。人々から誤解を受け、迫害されると弟子たちに語りながらも、25節で言葉遊びをしています。ベルゼブルは悪霊の親玉(9.34参照)という意味ですが、そもそもの言葉はベエルが「家」、ゼブルは「主人」です。イエスさまは弟子たちに「人々は私のことを悪霊の親玉のように言うが、それに従うあなたたちも同じようにが敵意は燃やされるだろう。でも、笑い飛ばそう。だって、あなたたちが私並みに思われているってことだ。こりゃ、すごいことじゃないか(爆笑)」と笑ったのです。苦境でのユーモア、その根底にあるのは「人がどれだけ騒いでも、真理は神さまにこそあるんだから、大丈夫」との信頼です。大事なことは、他人からあれこれ言われて動揺するのでなく、私たちが信じ従うのは誰か、です。私たちは神さまに従っているのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは時に、信仰ゆえに誤解を受けることがあります。でも神さま、イエスさまは誤解を受けていてもユーモアを交えて語って下さいました。神さま、私たちは追い込まれ、余裕を失う時も、いつもあなたを信じ、従っていることを忘れず、あなたによる希望をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

15日(月) マタイによる福音書10章26-31節
一言メッセージ:今朝は昨日の続きのみことばです。イエスさまは「周囲の人々を恐れ、翻弄されてはならない。あなたは人々を信じ、従っているのでなく、主なる神さまを信じ、従っているのだから。だから、後ろめたく隠れるのでなく、堂々と福音を実践しなさい」と促されます。
  そんなみことばの中で注目したいのは29節です。先日、恩師の青野太潮先生が最新の著書『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』(ヨベル新書)を献呈くださいました。恩師から「ちゃんと勉強するように」と促されたのですが、その中で29節にびっくりする指摘がされていました。この「(一羽の雀さえ)父のお許しがなければ、地に落ちることはない」を原文で読むと、「お許しが」という言葉は翻訳者の補足であり、原文は「一羽の雀であっても、父なしには落ちることがない」なのだそうです。その意味は「父が一羽の雀にすら伴い、共に苦難を経験してくださる」のです。その最も明確な現れが十字架のイエスさまです。私たちは今朝のみことばを通して、苦難の中でも共なって下さる神さまの姿を見出すのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちはみことばから、苦難の中で私たちを見捨てるのでなく、苦しみに伴ってくださる神さまの姿を知らされました。あなたは私たちをどこか遠くから見ているだけでなく、私たちと共に生きてくださるお方です。どうか私たちはそんな神さまをいつも身近に感じ、あなたの御心を模索しつつ、生きる者であれますように。私たちの救い主にして、永遠の同伴者イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(火) マタイによる福音書10章32-33節
一言メッセージ:今朝のみことばも昨日の続きとして読むと、より分かりやすいです。苦難の中で共にいてくださるイエスさまは、わたしたちがいついかなる時にも「わたしはイエスさまを信じている」と言い表すことを喜んでくださる。以前、ある牧師の説教集を読んでいる時に衝撃的な記述に出会いました。彼は、私たち人間が神さまの御心に従わない罪人であることを語りながら、その私たちがこの世での命を終え、天に帰る時に神さまの前に立たされ、自分も生涯を振り返る時の光景を、こう語りました。「その時、私たちの傍らに御子イエス・キリストが立ち、父なる神に対してこう告げるでしょう。『父よ、この者は確かにあなたの御心を悟らず、己が願望に生きてきた罪人です。しかし、にもかかわらず、この者はわたしが愛し、救わんと願い、十字架にかかって贖った者です。父よ、この者は私に属する者なのです。どうぞ、この者を赦し、お救いください』と。私たちの救い主は神の前にて私たちの側に立つ方です。」このイエスさまのイメージに、私は度肝抜かれながら、共感しました。私たちも素直に、イエスさまを信じ抜く者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、自分たちがあなたの御心に反れる罪人であると思い起こしました。けれど、あなたはそんな不完全な私たちであっても、あなたを信じ抜く者を喜び、ご自分の仲間、ご自分に属する者と言い抜いてくださることを知りました。イエスさまの深い愛に感謝します。どうぞ私たちもいつ如何なる時にもイエスさまを信じる者であり続けられますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

17日(水) マタイによる福音書10章34-39節
一言メッセージ:マタイ10章のイエスさまの「弟子派遣説教」も佳境に入ってきました。今朝の箇所も信仰に生きることと、己の本能に生きることの異質性が際立つ箇所です。イエスさまは「わたしは争いをもたらすために来た」と語ります。神さまに従うか、自分や周囲の都合に従うか、という選択が迫られるのです。でも、誤解してはいけません。神さまに従うことは、自分や周囲の都合を切り捨てることではありません。38-39節で言われるように、「イエスさまに従う者は、かえって全てを得るのだ」と言われるのです。言うなれば、「あなたは神さまに従って、あなたの家族や友人や全ての事柄において、神さまの最善の判断と整えをいただいて生きるか、それとも己が都合を優先し、限られた出来事だけで生きるのか」と問われるのです。
今、私は42歳。献身して神学部に入ると決めてからまもなく20年になろうとします。不思議なもので、私は神さまに従う決意をしてから、強い不足を感じたことがありません。いや、一時的な必要を感じることがありますし、必要以上は与えられません。でも、必要分は満たされますし、何より、未来に対する安心がある。「あなたに従って生涯を献げたのですから、あとのことは、どうぞひとつよろしくお願いしますね!」という厚かましいまでの信頼があるのです。みことばは真実です。どうぞ皆さんも安心して、信じて、委ねてみてください。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは最初に読んだ時には少し不穏に感じました。あなたの従うことが争いを生じさせると感じました。でも、イエスさまの意図は敵対関係ではなく、あなたの御心に従うことによって、全てが整えられていくとの促しでした。神さま、私たちは先の見えぬ不安の中で臆病になりがちです。でも、あなたは私たちの見えぬ先さえ見据えながら、「信じなさい、従いなさい」と促されます。どうぞ、日々、あなたを信頼し、従う私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(木) マタイによる福音書10章40節-11章1節
一言メッセージ:イエスさまの「弟子派遣説教」のラストです。イエスさまがこの説教の最後に語ったのは、協力者たちへのススメの言葉です。弟子たちを受け入れる者をイエスさまもまた喜び、受け入れるとの約束の言葉です。42節で「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と書かれています。この「冷たい水一杯」は当時の水がめを思い起こす必要があります。当時は今のように蛇口を捻れば水が出るわけではありませんから、朝夕に井戸に出向き、水がめに水を汲み、家の甕に入れて使っていました。家の水甕には幾種かあったのか、ここで言われた水は多孔質といって、水がにじみ出るように細かいヒビが入った甕の水です。水が少しずつ滲み出るのですが、そのことによって水の冷たさが保持された水です。滲み出るから、また朝夕には汲みにいかねばならない。だから、家族用の飲み水なのです。イエスさまはそんな「冷たい家族用の冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は…」と語り、神さまに従う者を家族同様に対してくれる人に神さまの祝福は大きいと告げたのです。今の世知辛い世の中において、信仰による家族の存在の有難さを思い起こします。さぁ、今日も兄弟姉妹、共に祈り合いながら、繋がっていることを覚えて歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは「弟子派遣説教」の終わりを読みながら、あなたによる家族を受け入れ合うことを分かち合いました。今の社会は世知辛く、人と人との距離が遠くなっている時代ですが、でもイエスさまは信仰による家族が神さまの御前にしっかりと繋がっていることを示してくださいました。神さま、どうぞ私たちが、あなたによって繋げられた家族であることを喜び合い、ますます共に生きる者であれますように。またどうぞこの繋がりに新たな方々も加えてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(金) マタイによる福音書11章2-19節
一言メッセージ:イエスさまがバプテスマのヨハネの弟子とやり取りをし、続けて弟子たちに語る箇所です。どちらの話にもイエスさまに共通するのは、「人間は己の都合や理解で物事を判断する。しかし、あなたたちは今、わたしが何を語り、何を行い、何を示しているのか、真っすぐな眼で見極めなさい」という示唆でした。
  今の時代は情報に溢れた時代です。調べものしようと思えば、ネットですぐに分かる時代です。けれど、ネットの弱点は情報があり過ぎて、見解が割れるケースが多い。例えば、コロナ禍当初を思い起こしますと、「トイレットペーパーが無くなる」というデマが流れ、買いだめする人が出て来ました。そんな折に、教会に注文していたトイレットペーパー100個が届いて大笑いしましたが、これなんて、人間がいかに情報に流されやすいかという一例です。情報が多くなりすぎますと、人間は自分にとって都合の良い情報ばかりを選びやすくなります。今と言う時代はそういう特徴があるでしょう。でもイエスさまは言われます。「あなたたちは、神さまが今何を語り、何を行い、何を示しておられるのか、を何にも捉われない真っすぐな眼で見極めなさい。」私たちは冷静に、神さまに立って物事を判断するように心がけましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは、情報に翻弄されず、あなたに御心を模索して生きること、冷静さと信仰を持って生きることを諭されました。コロナに対しても正しく恐れ、対処することができますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(土) マタイによる福音書11章20-24節
一言メッセージ:今朝の箇所、イエスさまは悔い改めない町々を叱ったと記されています。このイエスさまの怒りを理解するには、「奇跡とは何か」を知る必要があります。
  イエスさまの奇跡を経験した人々にとっての奇跡とは「問題が解決された」という出来事だと受け取ったでしょう。でもイエスさまの意図は「奇跡は、神さまの御業を目の当たりにして、神さまに誠実に立ち返るための機会」でした。だから、イエスさまは町の人々が奇跡を通して、神さまに立ち返ることを求めた。けれど、町の人々が自分たちの課題が解決したら、その後は神さまそっちのけになった。そのことをイエスさまは怒って指摘したのです。でもこの怒りは裏返すならば、「神さまに従えばいいのに。なんてもったいないことを…」という促しです。
  このイエスさまの怒りについて、私たちも自分たちに当てはめて考えてみたいと思います。私たちは、それぞれの過去を振り返りますと、神さまによって問題の解決をいただいたり、知恵や助けをいただいてきました。それが過去の課題解決で「良かった、よかった」で留まっているならば、もったいない。神さまの御業は過去の一回きりの出来事なのでなく、今の私たちに繋がっている神さまの守りの1つなのです。言うなれば、私たちは今も神さまの御手の中で歩めているのです。そこでは過去の後悔も、今の課題も、未来への不安も、神さまの御手による整えを期待できるはずなのに、神さまを意識しないならば全てを自分の力で解決せねばならないと勘違いしてしまう。それはもったいないのです。私たちは神さまの御業を過去の点で捉えるのでなく、今に続く線で受け止めたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、あなたの奇跡が、単なる課題解決ではなく、あなたに立ち返るためのチャンスだと気付きました。あなたの守りは過去の一回だけの出来事ではなく、今もずっと続いている祝福と気付きました。神さま、御手の中で生かされていることを感謝します。あなたの御手の中にあるからこそ、私たちは過去の後悔も、今の課題も、未来の不安も、あなたにお委ねしながら歩むことができます。どうぞあなたの最善のご判断の中で私たちをお導きください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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