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2021-03

3月28日~4月3日のみことば - 2021.03.28 Sun

いよいよ今年度も終わりになります。
今年度最後の礼拝はイエスさまの十字架の受難を思い起こす受難週礼拝です。
礼拝堂にて、直接・またライブ配信を通して画面越しにお会いしましょう♪
今週もみことばをどうぞ♪♪

***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
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28日(日) マタイによる福音書12章43-45節
一言メッセージ:今朝のみことばも、昨日のみことばと続けて読んでみましょう。昨日の箇所でイエスさまは「悔い改めて、信じて従いなさい」と促されました。そして今朝の箇所です。イエスさまの言葉を聞いて自分の行いを悔い改め、生活を正した人がいる。でも彼は時間が経つと、彼はまた「これくらいは問題ないんじゃないかな」と自分を甘やかし、自分の都合に走った。「これくらい、これくらい」はどんどんと自制を奪い、結果的に、以前よりも過ちを大きくしてしまう。これが「出て行った悪霊が帰って来て…」という例話で語られています。神学者ウィリアム・バークレーはこの箇所で「律法は『~してはならない』という消極的な禁止事項を語るが、イエスは『御心に従いなさい』と積極的な促しを語る」と指摘します。つまり、信仰を単なる知識に留めるのでなく、実践することを促しているのです。私たち、信じて御心を生きる者になりたいものです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは「信じて御心を生きる」ことを示されました。イエスさまの救いを信じて従いたいと願っても、それが一時的な感情の高ぶりのままだと、私たちは、すぐに自分を甘やかしてしまいます。だからイエスさまは私たちに「信じて従いなさい。御心を生きる者になりなさい」と促されます。立ち止まるのでなく、一歩ずつでもイエスさまに従いなさいと促してくださいます。神さま、イエスさまに励まされながら、一歩ずつ従います。どうぞ御心によって私たちを強め、信仰を喜びとする者とならせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(月) マタイによる福音書12章46-50節
一言メッセージ:今朝の箇所は疑問が生じる箇所です。「イエスさまは家族に冷たくない?」と感じるからです。でも、改めてじっくり考えてみましょう。私たちは教会で「兄弟姉妹」と呼び合います。それはどういう意味ですか?それは、「私たちは神さまを父とし、イエスさまを長兄とした家族になった」からこその呼び方です。だから、どれだけ年齢が離れていても「兄弟姉妹」と言います(最近は「兄弟姉妹」には性別意識が強いため、「この呼び方を止めよう」との議論もあります。今朝は「神の家族」を強調するために、この表現を例に挙げました)。それは、私たちは神さまの家族にされたことを大事にしているからです。なのに、私たちは時に、血の繋がりを優先的に考えてしまう。だから今朝の箇所にも戸惑うのです。
  私が高校生、大学生の頃です。育って西南教会の中で、非常に「牧師の子ども」ということをプレッシャーに感じていました。自覚と違い、親からは「あなたは子どもたちの中で非常に自由に育った」と言われますが、でも、周囲から「将来はお父さんみたいに牧師さんやね」と言われることが重荷でした。今だから言いますが、大学生の頃、教会で人前に立つのが恐くてクリスマス礼拝の聖書朗読前に何度も礼拝を抜け出してトイレで落ち着こうとしたこともありました。でもそんな私が献身を決意した後、父が話してくれた言葉にとても安堵しました。聖書で神さまが人間に出会う際に自らを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介される箇所が多々あるのですが、父はその1つを示しながら、「これは『アブラハム、イサク、ヤコブ』という血の繋がりで『私はお前の神である』と言っているのではない。これは『わたしはアブラハムとも出会った、イサクとも出会った、ヤコブとも出会った。そのわたしが今、あなたとも出会う』と言って、人の前に現れてくださる言葉だ。お前はお前として、神さまと向き合いなさい。」
  今朝の箇所もそうです。イエスさまは血の繋がり以上に神さまによって結び付けられる繋がり、神の家族の繋がりが私たちに与えられていると示してくださったのです。久留米教会も大家族です。感謝ですが、私はこの喜びの家族に新たな方が次々と加わってくださることを祈っています。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の箇所は私たちに、神さまを父とし、イエスさまを長兄とした、神の家族の祝福を示してくれます。私たちは時に血の繋がりに固執してしまいますが、でもイエスさまは私たちを神さまの大家族としてくださいました。どうぞ久留米教会を、互いのために祈り合い、喜びも悲しみも、時には諫めさえも受け止め合う家族としてください。同時に、この繋がりに新たに加えられる方々を起こしてください。救い主であり、私たちの長兄、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(火) マタイによる福音書13章1-9節
一言メッセージ:13章はマタイ福音書にあるイエスさまの5つの説教群の3つ目です。たとえ話の説教です。3節にあるように、イエスさまは「たとえを用いて多くのことを語られ」るのです。内容については、明後日に説明があるので、今朝はあまり触れません。今朝考えたいのは、イエスさまのたとえの特徴です。福音書にはイエスさまが語った言葉が多々残されていますが、かなりの数、たとえ話を用いています。例えば、今朝の「種まく人」もそうですし、24節からの「独麦」もそうです。「空の鳥、野の花」、「地の塩、世の光」「私は良い羊飼い」「命の泉」「命のパン」などなど、次々に思い浮かびます。これらのたとえ話には1つの特徴があります。それは、聴いている人たちの生活に根差した話ばかりなのです。ここに大事な示唆がある。イエスさまの話は、どこか自分たちと隔たった出来事なのでなく、正に私たちの日常の生活で、「あるある」「分かるなー」と共感できて、だからこそ、聴く人々にしっかり問いかける話でした。仮に今、イエスさまが目の前におられたら、「コロナウイルスを思い起こしなさい」と言われたとさえ思います。ここに、みことばの読み方が示されていますね。私たちも、イエスさまのみことばを過去の話と聞くのでなく、「今の私の生活にどう当てはまるだろう」と考えながら、みことばと自分の生活に重ねて読みましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝からイエスさまのたとえ説教に入りました。どうぞ、私たちがイエスさまの、生活に根差したたとえ話を聞いて、自分たちの日々の生活と重ねて受け止めることができますように。表面的な文言からグイと深めてみことばを聞く姿勢をお与えください。救い主イエスさまの御名でお祈りします。アーメン。

31日(水) マタイによる福音書13章10-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は、弟子たちがイエスさまに「なんでたとえ話をされるんですか?」と尋ねた箇所です。イエスさまの意図は端的に言えば、「だって、神さまのことを、そのままに話してもちんぷんかんぷんだから。だから、少しでも、『あー、なるほど』って分かってもらえるように、生活に根差したたとえ話を用いて話すの」と言われました。
  これ、自分たちのことと重ねてみると分かります。私たちが話を聞く時、自分の経験に当てはめて理解しようとします。でも、それはあくまでも自分の経験の範囲であり、既に解釈が生じています。例えば、今の時期、夜に外で「ニャギャー」みたいな声がすると、「どこかで赤ん坊が泣いてる」と考える人がいたり、「いや、猫が鳴いてるんだ」と理解する人もいる。それって、それぞれの経験で「ニャギャ―」という声を解釈しているわけです。これだけ、同じ言葉でも受け止め方が変わる。まして、神さまの御心、神さまの御国をイエスさまがそのまま語っても、私たちには理解できないでしょう。だから、イエスさまはたとえ話をよく用いるのです。たとえ話自体が、イエスさまの配慮でもあるのです。だから私たち、少しでもイエスさまの意図が分かるように考えながら聖書を味わいましょう。と、この話を解説するために、私も「ニャギャ―」というたとえを用いました。たとえって便利ですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまがたとえ話を用いられるのは、私たちへの配慮と知りました。私たちはいつも自分たちの常識や思惑、願望によって物事を判断しがちです。でも、あなたの御心を、あなたの御業をどうぞ素直に受け止める私たちであれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4月1日(木) マタイによる福音書13章18-23節
一言メッセージ:今朝は「種を蒔く人」のたとえをイエスさまが自ら説明された箇所です。イエスさまが語った種を蒔く人とは、みことばを聞く人です。みことばを聞く人は多いのですが、その人の受け止め方の違いが、土壌の違いになる。道端に蒔かれた種は鳥に食べられますが、それは聞いても「我が事」と受け止めない人です。石だらけの所に蒔かれた種はすぐに芽を出しますが、土が少ないため根を張れません。それは、みことばを喜んでも、すぐに挫ける人でした。いばらの中に蒔かれた種は芽を出しても成長しません。それは、みことばを聞いても、すぐに世の中のことに翻弄され、みことばを忘れる人です。一方、良い土地に落ちた種は100倍、60倍、30倍と実りをつけます。その人は、みことばを我が事と受け止め、みことばを生きる人です。その人は祝福が多い。
  さて、このままでは聖書を読んだままになりますので、この物語のニュアンスをもうちょっと考えます。18節でイエスさまが最初に語った「御国の言葉を聞いて…」ですが、この「言葉」はギリシア語のロゴスという言葉ですが、おそらくイエスさまご自身が語っていたアラム語(ヘブライ語の方言。日本語のちっご弁みたいな感覚)ではダーバールという言葉です。そのダーバールは「ことば」だけでなく「出来事」という意味を持ちます。つまり、イエスさまは「みことばを聞く」ということを、具体的に聖書を読むことに加えて、日々の出来事で神さまの意志を模索することも含んで考えています。私たちも同じように、日々の出来事の中で神さまの御心を模索しましょう。さぁ、今日はどんなロゴス、ダーバールを見出すでしょうか。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは素直に読みます。どうぞ聖書のみことばも、日々の出来事からも、あなたの御心を模索する私たちであれますように。どうか、あなたを正しく受け止め、従い、豊かな祝福をいただき、周囲と分かち合える私たちであらせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(金) マタイによる福音書13章24-30節、36-43節
一言メッセージ:今朝は「毒麦」のたとえと説明の箇所です。内容は読んでください(笑)。その上で、思うことです。このたとえ話は「どうして世界にはなお、悪い出来事が多いのか」という問いに答える話です。それは刈り入れの時(神さまの国の完成時)まで混在しているからだと語られます。
ここで、少し観点を変えて考えましょう。今日はキリスト教の暦ではイエスさまの「受難日」、十字架にかかって亡くなったことを想起する日です。だから、イエスさまの十字架から考えてみたいのです。神さまは、イエスさまの十字架によって、罪人たちをも救おうとされた。今朝のたとえ話と重ねるならば、畑を全て整えて、救おうとされた。イエスさまは畑を丸ごと救いたいのです。「救いたい」というのは、ある意味では「まだ世界が救われていないから」です。それは今も同じです。私たちの時代はイエスさまの十字架と復活を知らされていますが、未だ神の国の完成には至っていません。ということは、まだ多くの人にイエスさまの救いをお伝えする時間が与えられている。お伝えするのは私たちです。私たちは自分がイエスさまの救いを聞いて満足するのでなく、この知らせを伝える役割もいただいている。だから勇気を出して、「教会来てみらん?聖書読んでみらん?」と声かけたいものです。必要なら教会のトラクトやギデオン聖書も使ってくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまの受難日であり、「毒麦」のたとえを読みました。重ねて読みながら、私たちはイエスさまの救いを知らされましたが、まだ伝えられていない人々のことも思います。どうか、「教会来てみらん?聖書読んでみらん?」と声かける勇気をお与えください。イエスさまの救いに感謝し、祈ります。アーメン。

3日(土) マタイによる福音書13章31-35節
一言メッセージ:今朝のたとえでは、からし種とパン種の話がされています。どちらも、ちっぽけな存在ですが、大きく育つ種の話です。ちっぽけな信仰が生活の中で大きく育っていくように、天の国は小さな民の信仰からぐんぐん広がって行くと言われています。
今朝こだわって考えたいのは「パン種(イースト)」について、です。当時の女性たちは毎朝、パンを作ります。小麦粉と水を捏ねて、その中に、前日少量残しておいたパン種を入れて発酵させました。ここで興味深いのは、ユダヤ教の祭儀で用いられるパンは過越祭のように種入れぬパンであり、パン種入りのパンは不浄とされていたことです。でも人々はおいしいから食べていました。このあたりの大らかさは真似したいところですが、今朝面白がりたいのは、イエスさまはその不浄であるはずのパン種を、こともあろうに「天の国」に例えたということです。当時の人たちからすれば、衝撃的な言葉だったでしょう。でも私たちはそのイエスさまの発言の意図が分かる気がする。イエスさまは宗教的に「清くない」とされた人に寄り添い、彼らの友となり、彼らにも神さまの救いが実現すると告げ続けた。貧しくて、必死に毎日を生きる民にイエスさまは寄り添い、神さまの救いは彼らにも与えられることを告げたのです。それが、このパン種の譬えにも表れている。
私たちはこの物語から思わされるのです。神さまの救いを一部の者たちだけの救いにしてはいけない。この時代、この状況の中で、変わらない慰め、希望を求める多くの人たちにも福音を伝えたい、と思うのです。明日はイエスさまの復活を喜ぶイースターです。キリスト教の暦では今日は、イエスさまは墓に埋葬されています。私たちも静かに、でも、イエスさまの復活が何の始まったか、問うて過ごしたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のパン種のたとえは、私たちにイエスさまの福音があらゆる人たちに向けて示されていたことを分かち合いました。当時の社会では不浄とされたパン種をたとえに用いながら、民衆の隅々にまで福音が届くようにイエスさまは語られました。神さま、私たちもまた、福音をお伝えしたいと願います。しゃちこばって、偉そうに…ではなく、自分ばかり救われたかのような顔でなく、自分自身もイエスさまの救いを知り、どれほど喜んだか、信仰の原点を思い起こしながら、お伝えする者であれますように。イエスさまの十字架に感謝し、祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
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