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2021-02

2月28日~3月6日のみことば - 2021.02.26 Fri

2月も終わり、まもなく3月です。
ようやく暖かくなり春を感じる日が増えてきましたね。
付設幼児園の子供たちが植えたチューリップの球根もつぎつぎと芽を出し始めました。
イースター(復活祭)の讃美歌に「球根の中には」という讃美歌があり、1番の歌詞は「球根の中には花が秘められ さなぎの中から命輝く 寒い冬の中春は目覚める その日その時をただ神が知る」です。今は何かと忍耐のときですが、球根から花が開くように今の忍耐もいつの日か報われるときが来ることを願いつつ、その日その時を知る神さまに祈りつつ歩みたいと思います。
今週も皆さんの上に神さまの守りがありますように♪



**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

28日(日) マタイによる福音書8章5-13節
一言メッセージ:イエスさまの傍に一人の百人隊長が近づいてきたことから今朝の物語は始まります。百人隊長とはローマ軍の隊長であり、当時の社会的な地位でみれば、かなりの「お偉いさん」でした。しかし彼は自分の僕の中風の癒しを願うため、イエスさまに懇願します。とても不思議なことに、彼はイエスさまが「そら大変、すぐ行こう」と言われるのに、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と辞退し、「ただ一言、『癒されよ』と命じてください」と願います。これ、どういうことかと言えば、ユダヤ教的な文化では異邦人と交わることはその人が汚れてしまうと考えるため、交わりそのものを禁じていました。百人隊長は社会的身分ではかなり上の人なのに、とても謙遜にユダヤ教的な文化を尊重し、イエスさまにへりくだりつつ、神さまの御業を信じていたのです。イエスさまは10節「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と称賛し、百人隊長の願い通りに癒しを宣言しました。この物語の中でイエスさまが「良し」となさったのは、社会的地位に左右されず、神さまの前にへりくだる信仰です。そして、イエスさまはそんな信仰に感心し、病人自身でなく、彼の信仰の故に御業を行ってくださるのでした。私たちはこのみことばに、大切な可能性を見出します。私たちもこの百人隊長のように、自分たちの大事な家族や友人の救いを純粋に祈れると感じるのです。ぜひ、以下の祈りの〇〇の部分にあなたの祈りたい方の名を当てはめて祈ってみてくださいね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝私たちは百人隊長の信仰の物語を読みました。イエスさまは彼の信仰のゆえに、彼の僕を癒してくださいました。神さま、今、私たちはこの物語に励まされ、同じように祈り、願います。どうぞわたしの大事な○○をお救いください。どうぞ私たちと共に御前に集い、礼拝することができるように御業を行ってください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3月1日(月) マタイによる福音書8章14-17節
一言メッセージ:時々、「キリスト教に入ったら、家の宗教を否定したり、墓を拒否したり、家族を蔑ろにしたりしないといけないのでは?」という疑問を持つ人と出会います。結論を言えば、そんなことはありません。例えば、私の家も母方の祖父母は仏教徒でした。祖母は私が生まれて半年で亡くなったので、佐世保の母の実家に行った際には骨が納められていたお寺さんに出向き、花を手向けたりしていました。祖父が亡くなった後は親戚のお寺さん(母方の遠縁がお寺の住職さん)に祖母ともども、遺骨を移して永代供養をお願いしています。祖父たちの納骨の時には近しい親戚が集まりましたが、お寺で14人中クリスチャンが10人、内、牧師2人いました。でも我が家は「お寺さんにお願いするなんて」みたいな感覚は何一つ感じません。私が大事にしているのは「“人は死んだら仏(神)になる”という理解ではなく、自分のルーツにありがとうと感謝する気持ちと理解すること」であって、家の宗教や墓や家族を蔑ろにすることは全く求めません。その区別をしっかりつけながら、自分のルーツに感謝しています。
実際、今朝の箇所を見ると、イエスさまは信じて従う者の家族のこともちゃんと理解し、働きかけてくださっています。イエスさまは弟子のペトロの母の病を知り、駆け付け、自ら手で触れ(手当てした)、癒されました。イエスさまは「家族を棄てろ」と言うのでなく、「何よりも先ず神さまを信じ、従いなさい。そうすれば全ては整えられる」と示されました。
その上で、今朝の最期に17節のイザヤ53.4の引用に注目しましょう。ここは「苦難の僕」と呼ばれる箇所です。一人の神の僕が一身に人々の罪を背負って死に、全ての罪人を救うと記される箇所です。マタイ福音書はその箇所を引用し、「イエスさまは私たちの実際の生活の様々な出来事においても、私たちを負い、担ってくださる(「病を取り去り、無くした」のではなく「自らが背負い、担った」ということにも注目したい)」と示したのです。私たちは今日もイエスさまに背負われ、担われています。安心して、感謝して、一日を始めていきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝わたしたちは、「イエスさまを信じると家族を棄てねばならない」といった誤解を解く物語を読みました。イエスさまは「人間を神にしてはならない」と示されますが、自分の家族や家を大事にすることをイエスさまも大事にしてくださいました。神さま、私たちは安心してあなたに従い、また周囲の大事な家族や仲間たちにもあなたをお伝えできます。どうぞ、どうぞ私たちの家族や仲間たちにもあなたの救いを実感させ、信じさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2日(火) マタイによる福音書8章18-22節
一言メッセージ:今朝の箇所は、昨日の「イエスさまは私たちの家族のことを大事に思ってくださる」というメッセージと相反するように見えるみことばです。でも、そうではありません。新共同訳聖書の表題に示されるように「覚悟」、言い換えるならば「姿勢」を問うたのです。
  今朝の箇所を読む際に、3つのことを覚えながら読みたいと思います。1つ目はイエスさまの基本理解です。イエスさまは4.17で「神さまの国はもうすぐにでも実現するかもしれない。だから、早急に悔い改めて神さまを信じなさい」と語っています。今朝の箇所を読む上で覚えたい1つ目のことは、この切迫した「信じなさい」という感覚です。
2つ目は、今朝の物語が起こった時間です。今朝の箇所には、この出来事がいつ起こっているのかが記されていません。でも直前の16節を見ますと、「夕方」と記されています。そこから大勢の群衆が集まってきて、次々に癒しを求められ、イエスさまは癒し続けていました。けれど、今朝の箇所でイエスさまは弟子たちに「(ガリラヤ湖の)向こう岸に渡ろう」と言われます。ユダヤ社会では一日は日暮れから始まります。つまり、「夕方」とは一日の終わりの時間でした。
3つ目は、昨日の物語や6.33で見たように、「神さまに従うことが最優先されれば、必要は皆加えて与えられる。だから神の国と神の義を最優先しなさい」でした。
この3つを覚えて、改めて今朝の物語を読むとこうなります。イエスさまは律法学者に「狐には穴があるが…人の子には枕する所もない」と語りましたが、それは「今、神さまの救いまで時間がない。だから、悠長に構えずに、神さまに従うことを最優先しなさい」でした。「父を葬りに行かせてください」と語る弟子には「神さまによる復活は既に約束され、間もなく迫っている。あなたの悲しみが祝福に変わろうとしていることを先ず覚えなさい」でした。イエスさまはいつも私たちに最善を示し、「信じて従いなさい」と示されるのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは「あなたを信じ、イエスさまに従うことは、人生も家族も棄てる厳しいこと」との誤解を生じさせていました。でもイエスさまの真意は「何よりも神さまの御心に従いなさい。その時、全ては整えられる」でした。神さま、私たちはあなたを信じ、イエスさまに従います。どうぞ私たちの不安も困難も後悔も、全てがあなたの御手の中で整えられますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

3日(水) マタイによる福音書8章23-27節
一言メッセージ:昨日の物語の続きです。8.5以降、カファルナウムに入って百人隊長の僕を癒し、ペトロのしゅうとめを癒し、大勢の病人を癒し、舟に乗り込んでガリラヤ湖を渡ろうとしたイエスさまはよっぽど疲れ切っていたのでしょう、舟の中でぐっすりと眠り込んでしまった。舟がガリラヤ湖を進みますと、途中、激しい風のために転覆しそうになる。当時の舟は10数人乗りの手漕ぎの舟ですが、操船するのはついこの間までプロの漁師だったペトロたちです。その彼らにして、「やばい、沈む」と恐怖するような大風でした。彼らは25節で「主よ、助けて」と訴えて起こす。イエスさまは起き上がると、「信仰が薄い!なぜ怖がるか」と叱ると、風と湖を叱って鎮めるのです。この話の大事なポイントは「イエスさまの寝起きが悪かった」ではなく、「なぜ信じ抜こうとしないのか」ということです。今、弟子たちは誰と共にいるのか?イエスさまです。にも拘わらず、彼らは自分たちの経験や常識に捉われました。でも、彼らも恐れながらも、大事な選択をしています。それは「主よ、助けて下さい」とイエスさまに頼ったことです。もし彼らがイエスさまに頼らなければ、イエスさまは「信仰が皆無の者たちよ!」と叱ったでしょう。でもイエスさまは彼らがギリギリでまだ信じていることを認めておられた。だから「信仰の薄い者」なのです。さて、私たちの信仰はどうでしょう。8.5の百人隊長のように「これほどの信仰は見たことがない」と言われるか、それとも「薄い」のか、はたまた「皆無」なのか?「薄く」とも、信じ抜く者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語で私たちは自分たちの信仰を振り返ります。決して賞賛されるような信仰者ではないと自覚していますが、でもどうか「薄い」と叱られながらもいつもあなたに頼る私たちであれますように。どうぞ如何なる時にもあなたを見失わないで生きる者であらせてください。時に今、コロナ禍で多くの人が希望を失い、先の展望が見えずに苦しんでいます。その中で、私たちは薄くとも、あなたを信じ、従い続けることを周囲に示すことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

4日(木) マタイによる福音書8章28節-9章1節
一言メッセージ:今朝の箇所は昨日の「ガリラヤ湖の向こう岸」での物語です。28節で「ガダラ人の地方」とありますので、ユダヤ人の居住地ではありません。後に「豚」が出て来ますが、ユダヤ人は豚を穢れた生き物と見ていましたから、飼育しません。その豚が飼育されているとなると、やはりユダヤ人ではない人たちの住む土地です。さて、イエスさまがやってくると、悪霊に憑りつかれた人が二人出てきて、「神の子、かまうな」と騒ぎます。ここで「神の子」と叫んでいるのは、当時「霊的な存在の名前を知ることで相手を支配できる」と理解されていたことと関係して、イエスさまの素性を宣言することで、少しでも優位に立とうとした叫びでした。でもイエスさまは「知らんがな!」と言わんばかりに悪霊を二人の人から追い出すのです。豚に乗り移った悪霊が豚ともども崖から飛び降りて死んだことで、町の人たちがイエスさまのところにやってきます。てっきりお礼のひとつも言うのかと思いますが、彼らはイエスさまに「出て行ってくれ」と言うのです。こうしてイエスさまはまた舟に乗って、対岸のカファルナウムに帰るのです。
  さて、この物語で大事なポイントが1つ。そもそも、イエスさまは何故夕方から(昨日のみことばメールを思い起こしてください)ガリラヤ湖を渡ったのか。イエスさまの本拠地がカファルナウムだとすると、何のために湖を渡ったのか、理由が分からないのです。でも、そこで発想の転換をしましょう。イエスさまがガリラヤ湖を渡った理由は、この悪霊に憑りつかれた二人の人を救うためだったのではないか?同胞のユダヤ人でもないし、彼らは墓場に住み、町の人たちから見捨てられた存在でした。でもその彼らをもイエスさまは救いたいと願い、嵐の舟中で寝入るほどくたびれきっていたのに行動くださったのです。今朝の物語にて示される本当に奇跡は「悪霊が追い出された」よりも「イエスさまは見捨てられた民にここまで親身に寄り添われた」ことなのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝わたしたちは、イエスさまがどれほど一人ひとりの人間に向き合ってくださったを知りました。悪霊に憑りつかれ、町の人たちや家族さえ見捨てた人にもイエスさまは自ら出会い、救いに来てくださいました。神さま、私たち自身もイエスさまに出会っていただき、救いを知りました。あの感動を思い起こしました。神さま、ありがとうございました。加えてお願いします。どうぞ私たちの大事な家族や友人、まだ出会っていなくともあなたを必要とする人々にもこの救いを伝えさせてください。久留米教会が多くの人と「共に礼拝し、共に生きる」よう用いられますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

5日(金) マタイによる福音書9章2-8節
一言メッセージ:今朝は有名な「中風の人の癒し」物語です。細部はマルコ2.1-12の方が詳細です(2019年にマルコ版で落語的説教をしたくて取り上げました。サゲで皆さんに笑ってもらえませんでしたので、そのうちまたチャレンジしますからね(笑))。マルコで読みますと、4人の友人が中風の男を癒して欲しいと戸板に乗せてやってくるのですが、既に人がいっぱいでイエスさまの前まで病人を連れて行けない。そこで屋根を引っぺがして癒してもらおうとします。「なんて無茶な!」という物語ですが、実はイエスさまの反応も飛んでいます。イエスさまは2節、病人を連れてきた「その人たちの信仰を見て」、喜び、病人を癒すのです。けれど、そんな癒しの行為を見ていた律法学者は「神を冒涜している」と思うのです。何故なら、当時、「病気は何らかの罪のために神さまの守りから外れた人が悪霊に憑りつかれてかかるもの」と思われていましたから、病の癒しは「神さまから権限が与えられた祭司の専売行為」と思われていたのです。だから、祭司で無いイエスさまが癒しを宣言したことに、律法学者は「神さまへの冒涜」と考えたのです。イエスさまは「杓子定規にモノを考えた挙句に本質が見えなくなってる。ほら、ちゃんと気づかんね」と示したのです。私たちもちゃんと目を見開いて、神さまの御業に気づく者でありたいですね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、私たちはイエスさまが、泥臭くても、親身になって他人のことを案じる人を喜び、神さまの御業を行ってくださった物語を読みました。一方、イエスさまは杓子定規に規定でモノを測ろうとした律法学者には「本質を見なさい」と示しました。神さま、どうぞ私たちも「今、イエスさまの御心を模索しながら、誰とともに、どう生きるのか」を考え、行動する者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

6日(土) マタイによる福音書9章9-13節
一言メッセージ:何気ない物語のようですが、実はこの物語ってものすごい話です。イエスさまはたまたま道を歩いていて徴税所に座るマタイを見つけ、「従ってきなさい」と声かけたように書かれています。でも徴税人はローマ帝国の手先として既定の税金を集めるだけでなく、さらに自分の収入を上乗せしていました。だから同胞から毛嫌いされていました。でもイエスさまはそんな徴税人マタイに自ら声をかけ、弟子にしたのです。マタイは喜び、徴税人を止めます。先ずは自宅で大宴会。その場には徴税人や罪人がわんさか集まります。おそらく、身を売って生活する男女や、ヤクザまがいの人たちもいたでしょう。彼らは皆で仲間であるマタイが救われたことを喜び、宴会していた。すると、律法遵守をモットーにするファリサイ派が眉をしかめ、イエスさまの弟子たちに言うのです。「おたくの先生は何であんな連中と一緒に食事をして、仲間になってるのか」と。するとこの発言を聞きつけたイエスさまが語る。ホセア書6.6を引用しながら、「医者を必要とするのは健康な人間じゃなくて病人やろうもん。じゃあ、神さまを本当に必要と考えるのは誰やろうな。」このイエスさまの言葉で私たちが今最も聞きたいのは13節「(ホセア書の御言葉が)どういう意味か、行って学びなさい」と言われたことです。「行って学ぶ」とは「出会いなさい」です。現代の私たちに向けて言うなれば、「教会の中のことであれこれする前に、今、神さまの救いを必要としている人たちに出会い伝えるべく、ほら、一歩踏み出しなさい」です。ずっと語っていますが、本当に今、コロナ禍で多くの人が「変わらないもの、永遠のもの、私をモノ扱いしない救い」を必要としています。今ほど福音が必要とされる状況は無いのです。だから、私は皆さんにお願いしたいのです。どうか、あなたの周囲で福音を必要とする人に神さまを伝えてほしい。教会のトラクトを配ってくださっても、youtubeを紹介してくださっても、礼拝に連れてきてくださっても、毎朝のメールを転送してくださっても構いません。一人で伝えられる人は少なくても、皆が声をかけてくだされば、多くの人にイエスさまのことを知ってもらえる。イエスさまは今日も徴税人のように「えっ?この人にも?」という人に出会っておられます。私たちもそんなイエスさまに倣いたいのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、徴税人マタイがイエスさまに声をかけていただき、弟子になった物語を読みました。周囲が「えっ?あいつに?」と驚いても、イエスさまは福音を必要とする人に自ら出会い、救いを告げてくださいました。神さま、今の時代も多くの人があなたの救いを欲しています。本人が気づいていなくても、不安定な時代の中で変わらぬ希望を求めています。どうぞ、私たちにお伝えする勇気を与えてください。かつて私たちに福音を伝えてくださった先達と同じだけ、私たちにも勇気をお与えください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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