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2021-01

1月17日~23日のみことば - 2021.01.16 Sat

先週はブルブル震えていたのに、昨日今日は3月の陽気。
天気の目まぐるしいこの頃です。
また、福岡県にも13日に再び緊急事態宣言が出て不安な毎日が続いています。
久留米教会も17日の礼拝ののちは、再びライブ配信を中心とした礼拝にする予定にしています。
また詳細は正式に教会ホームページ(トップページ)にお知らせを掲載する予定です。

新型コロナウイルスによって、集まり、直接顔と顔とを合わせる機会を自粛することが日常化してきていますが、そんな中だからこそ人と人とが「繋がる」ことの大切さ、必要性をひしひしと感じます。
教会も、今しばらく物理的に集まることには慎重になりますが、形は制限されているなかでも、礼拝によって、祈りによって、聖書の言葉によって、そして私たちの信じるイエス・キリストによって「繋がる」ことを大事にしながら過ごしていきたいと思っています。
この「繋がり」に制限はありません。どなたにも開かれている、いえどなたでも神様によって招かれている「繋がり」です。
どうか、この確かな、切れない「繋がり」に、これを読んでいる皆さんも加わってくださることを願っています。

新しい週も皆さんの歩みの上に平安と祝福がありますように。


**今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 新約聖書
・書名選択     : マタイによる福音書
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

17日(日) マタイによる福音書1章18-25節
一言メッセージ:昨年のイブ礼拝で取り上げた箇所です。全く予期せぬマリアの妊娠という事実にヨセフは動揺します。身に覚えのない妊娠に「いったい誰の子か?」と苦しんだことでしょう。その苦しみの中でヨセフが行った決断は19節「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切る」ことでした。事情を知らぬ周囲は突然の離縁に驚き、ヨセフに尋ねるだろう。ヨセフは何も言わない。でも月日が経ち、マリアのお腹が大きくなる中で周囲は、「ヨセフは結婚前にマリアと性行為を行ったが、その後にマリアを棄てたのだ。最低だ」と憶測で批判するでしょう。ヨセフはそんな批判が自分に来ることでマリアの命だけは守りたいと思った。そんな悲痛な決断に対して天使は「マリアのお腹の子は聖霊によって身ごもった救い主だ。彼は民の罪を赦し、救う救い主だ」と告げたのです。23節でマタイ福音書はさらに説明を加えます。生まれ来る子は「インマヌエル」と呼ばれ、その意味は「神は我々と共におられる」だと告げるのです。私たちが注目したのは「共におられる」の「共に」というギリシア語がメタという言葉だったことです。そのニュアンスは「ぬくもりが伝わるほどぴったりと傍に、ギュッと抱きしめる」ほどの「共に」です。ヨセフは予期せぬ出来事に、全て自分で受け止め、無理やり解決させようとしました。けれど、そこに救いはありません。天使は告げます。「ヨセフ、救いは神さまにこそあるんだよ。そして神さまは今、大混乱し苦しむお前をギュッと抱きしめて、共に生きようとしてくださっている。お前を愛し、お前を顧み、お前を整え、お前を導き、お前を救ってくださるのは神さまなんだよ。」ヨセフは天使のお告げを聞き、マリアを迎え入れ、そしてイエスさまが生まれるのです。神さまが私たちと共にいてくださる。ギュッと抱きしめてくださるほど傍らにいてくださる。それは今のコロナ禍にも変わらぬ真理です。私たちは神さまの伴いを思い起こし、元気と勇気と希望とを持って歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。みことばは、神さまが私たちをギュッと抱きしめるほど傍にいてくださること、共に生きて下さることを示します。コロナ禍で人と人との関係が希薄になったような今、でも神さまは私たちの傍らにいてくださり、共に生きて下さる。私たちはそんな神さまを思い起こし、また神さまによって繋ぎ合わせられた兄弟姉妹たちと共に生きていく。それは慰めであり、元気の源であり、希望です。どうぞ今日からの一週間も、あなたの伴いを実感して歩めますように。御子イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

18日(月) マタイによる福音書2章1-12節
一言メッセージ:イエスさま誕生物語の1つ、占星術の学者たちの物語です。彼らは今のバグダッドあたりから来たと考えられます。遠い距離だけでなく、多大な時間、その道中の安全を守る自警団、全員分の食料や水分の確保、持参した贈り物などを考えると、彼らがそこまでしてやってこようとした動機が気になります。1世紀ごろの中東の資料によりますと、当時の中東では「平和の君が西方に誕生する」という理解があったそうです。この理解と合わせて考えると、占星術の学者たちは「力によって民を支配する王ではなく、民に平和をもたらし、誰もが当たり前に生きられる世界を守る王、平和の君の到来」を願い、そんな王の誕生としてイエスさま誕生を祝いにやって来たのです。彼らは最初、エルサレム王宮に赴き、ヘロデと対面します。けれどヘロデは、古代の歴史書によれば、自分の王位を守るためには我が子すら殺害した、我欲の塊のような王でした。学者たちは失望し、改めて星に導かれてイエスさまに出会うのです。彼らはイエスさまの姿を見てひれ伏し、拝み、歓喜します。なぜなら、民を救うべく民のただ中に生まれ、民に寄り添い生きる神の子の姿を見出したからです。この物語は今も私たちに大事な真理を告げています。それは、「神さまは私たちを救うべく、私たちのただ中に伴っていてくださる」です。共に生きる神、インマヌエルは今の私たちにも約束され、実現している出来事なのです。私たちも学者たちのように、救い主イエスさまと出会うべく、今日も歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。占星術の学者たちはベツレヘムにて救い主イエスさまと出会いました。彼らが見出したイエスさまは貧しい大工の家に生まれた普通の男の子でした。でも、彼らはその姿の中に、主なる神さまが民を救うために、民のただ中に生まれてくださったことを、誰もが当たり前に生きられる平和は民の傍らから実現していくことを悟りました。神さま、どうぞ今の時代に生きる人に、寄り添って生きてくださる救い主イエスさまの福音を伝えさせてくださいますように。イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

19日(火) マタイによる福音書2章13-18節
一言メッセージ:今朝は、イエスさま誕生に自分の王位が奪われるのではないかと恐れたヘロデによる暴挙の記事です。ヘロデはベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を殺害しました。私たちはこの物語を読みながら、「子どもたちの死はイエスさまが助かるための犠牲だったのか」と疑問を持ちます。聖書はその考えを否定します。17節を見ますと、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とありますが、「こうして」と訳されたギリシア語の原意は「その時」です。その意味は、「神さまの御心によって2歳以下の子の殺害が起こった」のではなく、「預言者を通して警告されていたにも関わらず、人の悪意によって暴挙が実現してしまった」となるのです。
  私たちがこの物語から知らされることは2つです。1つは、「人間の暴挙によって悲しい悲劇が生み出されてしまう」という事実です。もう1つは、「神さまはその悲しみを受け止めるべく、救い主イエスさまを私たちの傍らに誕生させられた」ということです。母親たちの悲痛な叫びは虚しく響くだけではありません。神さまがその現実を引き受けてくださるのです。そして、彼女たちの悲しみは時を経て、救い主イエスさまの十字架で確かに受け止められていくのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は、私たちにはすっきりと読めません。ヘロデの暴挙によって悲しみが生じました。どうして、あなたはこの悲劇を止めてくださらないのか、と思うのです。でもその一方で、私たちの現実の社会にも説明がつかない悲劇が多々起こるものであることも知っています。今、私たちの生きる時代も新型コロナもそうですし、自己責任の風潮によって必要な助けすら声にできず、頼る者を失って追い詰められる人々が多々あります。今の日本では食べる者が無くて飢える人がいるほどに、社会は弱い人々を追い詰めています。でも神さま、あなたはそんな民の現実を見過ごしにされるのでなく、その人々に寄り添うべく、救い主イエスさまを与えてくださいました。神さま、どうか一刻も早く、慰めを実現してください。助けをお与えください。私たち自身も受けるばかりでなく、共に平和を分かち合い、味わう者であれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

20日(水) マタイによる福音書2章19-23節
一言メッセージ:今朝の箇所は、エジプトに避難していたヨセフたちがヘロデの死を知り、イスラエルに帰ってくるという記事です。今、意図的に「帰ってくる」と書きました。昨日の2.13以下でエジプトに行ったのだから、「帰ってくる」で良いはずです。でも今朝の箇所の20節で天使はヨセフに、意図的に「(イスラエルの地に)行きなさい」と命じます。マタイ福音書は、旧約の出エジプトのように、民を救うべく、イエスさまがエジプトからイスラエルへと旅立たれたと伝えるのです。
  ここで私たちは2つのことを考えましょう。1つは「イエスさまの終着点はどこか?」です。エジプトを旅立つイエスさまの終着点はエルサレムのゴルゴダです。イエスさまの救いはあのゴルゴダの十字架にて完結するのです。だからこそ、2.11で占星術の学者たちが持参した贈り物は「黄金、乳香」だけでなく、「没薬」がありました。死者の体に塗る油です。マタイ福音書はその始まりから、イエスさまがゴルゴダにて救いを完成されると示唆しているのです。もう1つの問いは「イエスさまに救われる民は誰か」です。それは、理不尽な現実に直面し嘆きながらもイエスさまに寄り添われる民です。言うなれば、私たちなのです。マタイ福音書は今、私たちに告げます。「この物語は救い主イエスさまがあなたを救うために何を語り、何を為されたかを示している」と。私たちはマタイ福音書を読み進める時、「これは私たちのための物語」と覚えながら読んでいきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝の物語は非常に難解で、普段は読み飛ばしています。でもこの物語が、イエスさまが私たちを救ってくださることを予啓していたことを分かち合いました。これからも、みことばメールにてマタイ福音書を読み進めていきますが、どうぞ記される物語が今の私たちのための物語であることをしっかりと味わって読むことができますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

21日(木) マタイによる福音書3章1-12節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまの先達、バプテスマのヨハネが登場します。彼はヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマを促します。彼のもとにはユダヤ教の指導者たちも大勢やってきます。けれど、ヨハネは彼らを批判します。批判の主旨は8節の「本気で悔い改めるならば、悔い改めにふさわしく生きろ」です。10節を見ると、彼は「斧は既に木の根元に置かれている」と告げています。ギリシア語の原文を見ますと、「木」は複数形であるのに対して、「根」は単数形です。何を意味しているかと言うと、人の罪の根本は1つ「神さまの御心を蔑ろにすること」であり、それによってあれこれと起こってしまう出来事が複数の木(枝)だということです。ヨハネは「口先や小手先でなく、神さまと真正面から向き合い、本気で救われることを願いなさい」と告げたのです。私たちはヨハネの勧めをもらいながら、自分自身を振り返りましょう。様々な罪を思い起こしながら、そんな私たちを愛し、赦し、救ってくださっているイエスさまに改めて感謝しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。バプテスマのヨハネは私たちへの問いかけでした。私たちはちゃんとあなたに向き合えていましたでしょうか。口先だけの祈り、小手先の信仰に陥っていませんでしたでしょうか。もしそうならば、どうぞ私たちの悔い改めを受けとめてください。大きな出来事はできなくとも、小さな働きにも心を込めて、あなたのために行う者となれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

22日(金) マタイによる福音書3章13-17節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けた記事です。イエスさまがバプテスマを希望した時、ヨハネは「わたしの方があなた(イエスさま)から洗礼を受けるべきではないですか。それなのに、なぜ私から洗礼を受けようとなさるのですか」と、思いとどまらせようとします。その時、イエスさまは答えます、「正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです」と。私はこのことばにとても励まされます。私たちは本当に不完全な者です。神さまの救いをお伝えすることや、神さまの御業の一端を担わせてもらうなど、本当に畏れ多いし、きっと、職人の作るケーキの飾りつけを赤ん坊がするくらいに、神さまの御業を不格好なものにしてしまうでしょう。でもイエスさまは「不完全であっても、その働きが神さまの喜ばれることならば自粛してはいけない。大胆に担いなさい」と促してくださる。私たちはその言葉に励まされながら、今日も神さまの御業の一端を担わせていただきましょう。出会う人たちへの笑顔、小さな手助け、聖書のみことばをお伝えするメール、誰かを想っての誠実な祈りなどなど。小さな働きを喜んで大きく用いてくださる神さまに期待し、今日もスタートいたしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝のみことばをありがとうございます。今朝、私たちは励まされました。あなたに救われ、あなたの御業に参与させていただきながら、私たちは思っていました。「神さまの御業に参与するなんて畏れ多く、神さまの完全な御業をダメにしちゃってないか」と。でもイエスさまはそんな私たちの未熟な働きでも、まるで親が我が子の精いっぱいの誠意を心から喜ぶように、心から喜んで受け止めてくださると教えられました。神さま、どうか私たちの小さな行為を祝福して大きく用いてください。足らぬ力もことばもあなたが補い、御業の一端に用いてくださいますように。一日の始まりにいただいた勇気と元気に感謝し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

23日(土) マタイによる福音書4章1-11節
一言メッセージ:今朝の箇所はイエスさまが宣教を開始する前に、悪魔の試みを受けられた、という箇所です。3つの試練を読む前に、小説家の遠藤周作が1972年(49年前!)の朝日新聞の夕刊に掲載したコラム「善魔について」を分かち合いたいと思います。遠藤周作は「フランスの詩人ボードレール(遠藤は学生時代、ボードレールの研究をしていた)によれば、悪魔は自分が悪であることを分からなくするらしい。しかし現代の悪魔は『善魔』と表記するほど、さらに狡猾で、自分が悪どころか正しい者であると思わせようとする」と記しています。この示唆を手掛かりに、今朝の箇所を読んでみたいのです。
  最初の試練で、悪魔は空腹のイエスさまに「死んだらいかん。奇跡の力で、石をパンに変えて食べなさい」と告げました。一見、間違ったことを言っていないですが、イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と聖書のことばで退けました。それは「人はただ食べてりゃいい」のではなくて、「人は神さまと向き合いながら生きる存在だ」という本質を示したのでした。
  次の悪魔は、イエスさまを神殿の屋根に連れていき、「飛んでごらん。神の子なら、神さまが天使に命じてあなたを助けると聖書にも書かれているし」と言うのです。善魔たる理由が見えますが、彼は聖書のみことばを根拠にイエスさまを揺さぶろうとします。でも、イエスさまは「神を試してはならない」と、別のみことばで退けます。悪魔が、自分の都合でみことばさえも利用することを指摘したのです。
  最後に悪魔が行った試練は高い山の頂上にイエスさまを連れていき、「もしわたしにひれ伏して拝むならば、この世界を全て与える」と言いました。イエスさまが世界を治めてくださるならば、それが最善にも思えます。けれど注意すべきは、悪魔は「わたしにひれ伏して拝め」と、つまり「神ならぬ者を神として拝み、礼拝せよ」と迫ったのです。イエスさまは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と告げ、悪魔を退けたのです。
  日常生活をおくりながら、私たちも度々、試練に襲われています。神さまの御心ではないのに、まるで正しいことかのように私たちを揺さぶる試練です。でもイエスさまは最善の対処法を示してくださいました。それは、神さまの御言葉であり、神さまの御心を模索して生きることです。今週、私たちは試練に打ち勝ってこれたでしょうか。一人で不安なことも多いでしょうが、大丈夫。明日は礼拝の日、教会の仲間たちと共に神さまの御前に集い、新しい週へと備えをしましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝はイエスさまが受けられた試練の物語を読みました。悪魔は私たちに何が正しいことであるかを惑わし、あなたの御心から私たちを引き離そうとします。振り返れば、確かに私たちの日常は多々、あなたの御心にそぐわないこと、「これくらいならば…」と自分を甘やかすことも多かったように思います。神さま、どうぞ今、改めてみことばを示されましたから、私たちを御心に基づいて整えてください。いつもあなたに誠実に生きる者、イエスさまと共に一歩ずつ確かに歩む者としてください。今週の歩みに感謝し、来週に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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