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2021-01

1月10日~16日のみことば - 2021.01.08 Fri

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木曜日から雪が降り始め、降ったりやんだりしながら久留米にも雪が積もりました。
10センチ積もったかどうか…というところでしょうか。
附設幼児園の子どもたちはあちこちから一生懸命に雪を集めて雪だるまや、かまくらをつくっていました♪
まだしばらく雪が降ったりやんだりの天気予報が続いています。雪遊びは楽しいけれど、路面の凍結や水道管の凍結など、また寒さで風邪をひかないように、皆さんも気を付けてあったかくしてお過ごしくださいね。
それでは日曜日からの毎日のみことばメールをどうぞ♪

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : 箴言
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

10日(日) 箴言30章1-6節
一言メッセージ:今朝からは賢者アグルの言葉と記されます。ただし、アグルがどういう人物であるかは不明です。アグルは1節で「わたしは疲れた、疲れ果てた」と語ります。彼は、極めて秀でた人間だと人々に思われるように生きることに疲れ果てたのです。何故ならば、どれほど知恵を知り、人々から賢者と呼ばれるようになっても、神さまの知恵は果てが無く、物事を知り尽くせないと痛感したからです。そこでアグルが到達したのが5-6節です。「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。御言葉に付け加えようとするな。責められて偽る者と断罪されることのないように。」アグルは「神さまの御心は完璧であり、その御言葉は私たちが生きる上で全き指針」と語ります。「律法はこう書かれていても、こういう場合はこう考えてもよくて…」みたいに自分の都合で神さまの御心を捻じ曲げる愚を犯すことなく、ただただ神さまを信じ、実直に生きることが最善だと語るのです。
  私は生まれた時から教会で育ちました。でも反抗期の頃は教会で聞く言葉が何だか綺麗ごとに感じられ、「聖書はこう書いているけど、僕らの現実の生活にはそぐわない」と思っていました。でも不思議です。今、私はあの頃、否定した言葉を自分自身が語っている。それも、極めて実感を持って語っています。あれこれ書けませんが、42年間で、人間がいかにいい加減で、身勝手で、弱く、我が身可愛さで卑怯なこともするかを見てきましたし、自分自身にも感じてきました。でも、そんな私たちだと知れば知るほど、御言葉が変わりなく、尊く、真実を語りつづけているかを痛感するのです。アグルが語るように、「神の言われることはすべて清い」とつくづく思わされます。
  さて今日は日曜日。今朝も共に礼拝に集い、神さまの御言葉を分かち合いましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。賢者アグルはあなたの知恵、あなたの御心がいかに深く、強く、真実であるかを告げます。神さま、あなたの御言葉は綺麗事ではなく、いかに人間が弱くとも、その人間を正し、整え、導くための真実のことばでした。神さま、どうぞ私たちもアグルのように、あなたにまっすぐに生きる者であることを願い、一歩ずつ努力できますように。あなたの導きに期待し、救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

11日(月・休) 箴言30章7-9節
一言メッセージ:賢者アグルは2つのことを神さまに願います。1つは「むなしいもの、偽りの言葉を自分から遠ざけてほしい」ということ、もう1つは「自分を貧しくもせず、かといって金持ちにもせず、神さまの必要と判断されるもので生きていきたい」ということです。何故ならば、9節にあるように、彼は自分が飽きるほどに豊かであれば神さまを侮ってしまうだろうし、貧しすぎると神さまから目を背けて悪事を働くであろう、と考えたからでした。アグルは人間の弱さを知っているのです。事実、今の社会を考えてみたらよく分かります。豊かさの格差が広がった今の日本では、力を持つ者たちはどれだけでも自らの力や財を蓄えようとする一方、貧しい人たちは他者を助ける余裕を失い、殺伐とした雰囲気が社会全体に漂っています。アグルの言葉は時代に関係なく、人間の欲を見事に見抜き、だからこそ「神さまに整えられながら、貧しくもなく、富過ぎずに生きていきたい」と願ったのでした。アグルの願いは主の祈りの「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」にも引き継がれる祈りなのです。今朝は主の祈りを祈って、歩み始めましょう。
祈り:天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン。

12日(火) 箴言30章10-17節
一言メッセージ:今朝の箇所は人の欲望についての記述です。人間の中には、他者よりも秀でるものでありたいという自己肯定願望が強くあります。だから、時に冷静に見るとすぐにばれる嘘をついたり、「バカだなぁ」としか思えないのに虚勢を張ってしまいます。
11-17節で賢者は、若い世代の自己肯定願望や優越感の危うさを語ります(10節の「僕」を「未熟な者」と理解した場合、「若い世代」を指すと理解できる)。でも同時に、10節では大人たちにも「彼らを馬鹿にしないように」と諭すのです。ここでは世代間の対立をうまないためですが、私は誰しも自己肯定願望を持っていて、特に若い時にはあれが表出しやすいと思うのです。
今年はコロナ禍のため、各地で成人式が中止されたようですが、例年であれば各地の成人式ではど派手なメイクや衣装の子、虚勢を張って喧嘩する子、飲んだくれて暴れちゃう子の事件が報じられます。そこまでひどくはなくとも、成人式会場に入らず、同窓会の感覚で仲間たちと大騒ぎする新成人が多々いました。あまりに未熟な行動に見えますが、でも私もかつて、成人式ではしゃぎ、会場に入らず、騒いだ者のひとりです。先日、正月で帰省した時に福岡国際会議場の前を通りました。私の時の成人式会場です。22年前を思い出して「うわっ」と赤面してしまいました。人は失敗を積み重ねて成長するもの。今日は若い世代に理解をもって接してくださいませ。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は人の欲望についての格言でした。私たちは誰しも自己肯定願望や優越感を得たいとの欲求があります。それが時に恥ずかしい過ちを引き起こしてしまいます。神さま、どうぞ私たちは互いにそんな弱さがあることを認め合いながら、優しく諭せる者、素直に受け入れる者であれますように。世代を壁にせず、互いを理解し合えますように。全ての人に伴ってくださる救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

13日(水) 箴言30章18-33節
一言メッセージ:今朝の箇所において、賢者は「〇〇なことが三つ、△△なことが四つ」というパターンで様々な格言を語りますが、ひときわ目を惹くのが32-33節です。ここでは「絞ると出てくる」が3つ記載されています。「乳脂を絞るとバターが出てくる」は良いとして、「鼻を絞ると血が出てくる」は鼻をねじ上げている光景です。痛いけど、何だか笑ってしまいます。でも、その流れで賢者は3つ目にドキッとすることを語ります。「怒りを絞ると争いが出てくる。」小さな怒りが解決されぬままに刺激を受けてしまうと、取り返しのつかない争いを生じさせてしまうのです。賢者の語った3つの表現、その並びは面白いですが、内容は極めて現実的です。私たち、怒りを解決する術を互いに身につけましょうね。失敗したと気付いたら早急に謝罪し、あとくされを無くすこと。長引かせて大ごとにするよりも、早い段階で解決する方が賢いのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のアグルの格言は「〇〇が3つ、△△が4つ」シリーズが語られました。そんな中、私たちは「怒りを絞ると争いが出てくる」との言葉に、自分たちの生活を重ねました。言われる通り、小さな怒りのつもりが絞るように次の刺激を受けると、争いに発展することが多々あります。どうぞ、早期に怒りを解決する術と、相手に働きかける勇気とをお与えください。和解の主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

14日(木) 箴言31章1-9節
一言メッセージ:今朝の箇所は「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」とされています。マサは北部アラビアの部族と考えられますが、その王レムエルがどういう人物かは分かりません。ただ、面白いことに、この格言は母親が王である息子に語ったという形式になっています。王が先代王である父から諭されるという形式なら分かるのですが、母親から諭されたというのはとても珍しいし、だからこそでしょうか、その諭しは非常に情が深く、配慮に富んでいます。
  3-5節では異性や酒におぼれることを禁じます。異性にのめり込むと自分の行わねばならない務めを見失うし、酒を飲み過ぎれば聡明でなくなる。ここからが情深い諭しになるのですが、6-7節では「強い酒は没落した者、苦い思いを抱く者に与えよ」と語ります。彼らこそが一時的にでも忘れたい現実があるからです。また8-9節では「ものを言えない人、犠牲になっている人の訴えを聞く王であれ」と告げます。居丈高に振舞うのでなく、弱い者に寄り添うことが指導者として正しい姿であると示すのです。今朝の箇所のレムエルがどういう王であったか、一切、分かりません。でも、母の諭しを受けたレムエルは正しい指導者であったろうと思います。新型コロナウイルスの感染が拡大する今、責任転嫁と安易な打算で正しい指導力を発揮せず、補償もせず厳しい現実を現場に丸投げするだけの指導者とは大違いだと痛感させられます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は王レムエルが母から受けた諭しを見てきました。その諭しは情が深く、配慮に富んでいます。神さま、私たちは今こそ、レムエルが受けた諭しが社会で実現してほしいと願います。日に日に新型コロナウイルスの感染者数が拡大する中で、「自助、自己責任」で弱者を追い詰める指導者でなく、民に寄り添う指導者を願います。神さま、どうぞ配慮に富み、民に寄り添う指導者を私たちにもお与えください。正しい裁きを行われる主なる神さまに祈ります。アーメン。

15日(金) 箴言31章10-31節
一言メッセージ:今朝は箴言最後の御言葉です。賢者は箴言の最後に「有能な妻」について記しました。ここで言われる「妻」のイメージは性別的な意味合いというよりも、家庭の中で役割を担ってくれる存在のことです。一読すれば気づきますが、ここで言われる「妻」は世間的に大きな成果を上げたとか、敵を退けたとか、そういう結果を出した存在ではありません。ほとんどは家族のために日々の働きを実直に担ってくれている存在です。賢者はそんな働きを1つ1つ列挙しながら、家庭を保つように実直に日々働いてくれる「妻」への深い感謝と賞賛を告げています。
  私の親しい方で、以前、宣教師として東南アジアで働いた方がおられ、彼の話に大笑いしました。彼が派遣されていた国では、女性は男性を立てることが常識だそうですが、女性たちはユーモアに富み、夫にこう言うそうです。「あなたは家の頭。私は首。私がいなければ、あなたは身体から転げ落ちるだけだからね。」皆さんの御家庭はどうですか?どうぞ今日は、それぞれ家族に感謝して過ごしましょう。日曜日に皆さんから、「今日は俺が(私が)飯を作るよ」と言った(言われた)報告を楽しみにしています(笑)。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は箴言の終わりの言葉でした。賢者はその終わりの言葉として、最も身近な人への感謝を語りました。普段、私たちは「当たり前」と思い込み、改めての感謝を伝えていなかったかもしれません。でも、身近な人が配慮し、サポートしてくれていることに改めて気づかされます。神さま、どうぞ今日は互いに身近な人に感謝し合える一日として過ごさせてください。「当たり前」でなく「有難う」と伝えあえる日とさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

16日(土) マタイによる福音書1章1-17節
一言メッセージ:昨日をもって箴言が終わりました。今日からはマタイ福音書を読み始めます。できれば、4月4日のイースターくらいを目途に読み終えられたらと思っています。
  さて、今朝はマタイの初め、イエスさまの系図です。新約聖書を読み始めた人が、意味が分からなくて早速挫折しそうになる箇所ですが、じっくり読むと実に面白い。この系図には5人の女性が登場します。3節の「タマル」、5節の「ラハブ」と「ルツ」、6節の「ウリアの妻(バト・シェバ)」、そして16節「マリア」です。彼女たちはそれぞれ事情のある女性たちです。
  タマルは創世記38章に登場する女性です。元々、ユダの息子の嫁でした。けれど子どもが生まれる前に夫が亡くなり、律法の規定により、その弟と結婚して子どもを産むことが求められましたが、その夫も死別。義父のユダは息子が続けて亡くなったことから、「末の息子が結婚できる年になったら呼び戻す」と語ってタマルを実家に帰し、そのまま済し崩しに縁を切ろうとしました。しかし、タマルは自分が縁を切られることを良しとせず、遊女に化けてユダと関係を結び、息子ペレツが生まれたのでした。
  ラハブはヨシュア記2章に出てくるエリコの街の娼婦でした。
  ルツはモアブ人です。モアブは元来、創世記のアブラハムの甥ロトの家系ですが、当時のイスラエルでは異邦人(同胞ではない民族)と扱われ、神さまの救いには加えられない、と考えられていました。でも、そのルツがイスラエルの英雄王ダビデの曾祖母になるのです。
  ウリアの妻バト・シェバはサムエル記下11-12章で、ダビデ王に見初められ、夫ウリヤ不在時に関係を迫られて妊娠。不貞の発覚を恐れたダビデはウリヤに策を弄して戦死させ、バト・シェバを自分の後宮に迎え入れました。ダビデは神さまの怒りを買い、その時、妊娠していた子は生後すぐに亡くなりますが、その後に生まれたのが次の王ソロモンでした。
  こうやって見ていくと、系図に登場する女性たちにはそれぞれ事情、男性中心社会に翻弄されてきた女性たちです。でも、この系図を見ながら最も強く感じるのは、「イエスさまは人間の労苦の現実のただ中に生まれてきてくださった救い主だ」ということです。そしてマタイ福音書はこの系図を示しながら、次の箇所において「そんなイエスさまはインマヌエル(我らと共に生きて下さる)救い主だ」と語っていくのです。私たちと共に生きる救い主イエスさまは今も、私たちの現実の困難をしっかりと受け止め、私たちと共に生きて下さっている。その喜びを日々思いながら、今日からご一緒にマタイ福音書を読み進めていきましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。私たちは今朝からマタイ福音書を読み始めました。毎日のメールを通してイエスさまの御言葉や行動を学んでまいります。どうぞ4月のイースターに向けて、イエスさまがどんな救い主であり、今も私たちに寄り添ってくださるのだと身近に感じ、喜び、いっそう信じるに至れますように。感謝し、期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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