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2020-12

12月27日~1月2日のみことば - 2020.12.26 Sat

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クリスマス礼拝、クリスマスイヴ礼拝が無事に終わりました。
今年は様々な制限のある中でしたが、なんとか礼拝を守ることができ感謝でした。
お話の中で「今年は何をするにも制限があり、また人との距離を取らなければならない中でどこか人と人との心の距離まで離れてしまうような年でしたが、そんなことは関係なくクリスマスの喜びは私たちのもとに来る。」ということが語られました。本当にそうだなあと思います。
私たちの人生には色んなことが起こる。良い時もあれば悪いときも。でも、クリスマスの喜びは、そこにあらわされた神さまの愛は、私たちの状態とは関係なく、いつも最高のものとして与えられているのです。
むしろ、私たちが苦しいときにこそいよいよ輝きを増して私たちに迫ってくるように思います。
クリスマスシーズンは終わりですが、クリスマスに与えられた「神さまはその独り子をこの世に与えてくださったほどに私たちを愛された」という素晴らしい知らせは、いつも私たちに与えられています。そして、教会は毎週そのことを思い起こし礼拝を守っています。
クリスマスには参加できなかったという方も、ぜひ毎週の日曜日にこの礼拝に加わってくださるようにと思います。
また、クリスマスの礼拝のライブ配信のアーカイブもYouTubeにアップされていますから、そちらもぜひ見てみてくださいね。(YouTubeチャンネルは ⇒こちら )

さていよいよ2020年も大詰め。みなさん、良い年をお迎えください~♪

***今週のみことば***

※聖書の箇所は日本聖書協会の聖書本文検索から読むことができます。⇒こちら
・訳名選択     : 新共同訳
・旧新約・続編選択 : 旧約聖書
・書名選択     : 箴言
・章選択      : 該当章数を入力(章まで入力するとその章すべてが表示されます。)

27日(日) 箴言26章13-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は「怠け者」についてのことばです。昨日に続き、賢者は口が悪いです(笑)。13節では怠け者が訳の分からない言い訳をしている様子を揶揄し、でも14節では「寝床でゴロゴロしているだけで何もしない」と指摘します。賢者から見れば、怠け者たちは15節、「食事をt食べたいと思うのに、食べることさえ億劫がって何もしない者」、つまり、一歩踏み出せばちゃんと神さまの祝福があり、成長できるのに、変な言い訳ばかりで何もしない様に見えるのです。さらにたちが悪いことに、16節ではそんな怠け者は「聡明な人々を前に、自分のことを『俺って賢いわぁ』と思い込んでいる」と指摘します。ね、賢者、口悪いでしょ?
  でも、このみことばは一年を振り返る時、とても私たちの生活と重なり合います。今年の新型コロナウイルスは私たちの生活も環境も一変させました。その中で私たちはどう過ごしてきたでしょう。私たちは「怠け者」のように、状況を見定めようと努力せず、チャレンジせずに過ごしてきたでしょうか。いいえ、私たちは日々、神さまのみことばと向き合い、今神さまが何を示し、どう導こうとされているかを模索してきました。教会だけ見ても、コロナ禍でどう礼拝をまもれるか試行錯誤し、ネット礼拝を開始し、行事ではなく礼拝によって教会が教会たらしめられていることを再発見し、人と人とが分断される中でも礼拝によって繋ぎ合わされて生きるとの示唆を見出し、だからこそ礼拝に集えない人々のために、特に医療関係の仲間たちがどれだけ献身的に今働いてくれているかを想像し、祈って支えたいと願い、また病の仲間たち祈ってきました。新しい伝道のツールとして、小さなトラクトを始めました。先日のクリスマスでも、コロナ禍であっても何ひとつ変わることなく救い主誕生のクリスマスを祝い合える幸いを再確認してきました。私たちはこの一年、怠ける暇も無いほど、神さまと向き合い、チャレンジしてきたのです。
  今朝は一年の終わりの礼拝です。この一年の神さまの示唆に感謝し、礼拝に集いましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。昨日から、賢者が口悪いなぁと思。います。でも、そのことばはとても適格です。神さま、今年はコロナ禍で本当に苦労しました。でも、その分、あなたと向き合い、チャレンジすることの大切さを示されてきました。一年の導きを感謝します。今日は一年の最後の礼拝です。どうか今日も私たちを礼拝に集わせてください。礼拝に来れない仲間たちにも、どうぞ私たち同様、慰めと恵みと伴いと希望とを満ち溢れさせてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

28日(月) 箴言26章17―28節
一言メッセージ:今朝の箇所でも賢者は口が悪いです。もう笑ってしまうほどです。でも、その指摘は適格です。17節は「自分に関係ない争いに首を突っ込むのは、犬の耳を引っ張って噛みつかれるようなものだ」と書かれます。18―19節では「モノが見えない者の言動は非常に危険。そのくせ、指摘されると『冗談だよ、冗談』と言う」と指摘します。これ、ドキッとしますね。自分が冗談のつもりでも、相手にとっては心抉られるような言葉、ものすごい疎外感を感じる行動があると賢者は指摘します。その上で、20―21節では「そういう者とは距離をとりなさい。今は真正面から向き合わないで良い」と諭します。23―26節も秀逸です。23節では「言葉は情熱的でも、本心では悪意を抱く者は、一見、土器の上薬に銀を使用したように見えても、実は酸化した鉛を塗ったまがい物にすぎない」と語ります。上っ面じゃなくて、腹の底で相手を見ないと分からないと指摘するのです。じゃあ、逆を見ればどうでしょう。上っ面は辛らつな言動に見えても、その言葉に嘘は無く、その行動は実直で誠実な者は、耳を傾け、向き合うべき人なのだろうと思うのです。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝、賢者は、上っ面の言動に騙されるのでなく、また私たち自身も嘘なく、実直に生きる者であることを勧めます。今、一年を振り返りつつ、自分の至らなさを思い返します。今年も何度、物事を見誤り、いさかいを生じさせ、傷つき傷つけてきたでしょうか。そんな自分たちを思い返す時、私たちはそんな私たちの傍らに生まれ、共に生き、赦してくださるイエスさまの救いに心から再度感謝し、「ここから改めて改めて歩み出さねば」との決意を強くします。神さま、どうぞ私たちがきちんと自分の一年を振り返り、今年の過ちを今年のうちに認め、解消することができますように。年の瀬、自分たち自身の中身も大掃除させてください。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

29日(火) 箴言27章1-11節
一言メッセージ:今朝の箇所は謙虚に生きることを勧める格言です。1節では「先の見えぬ私たちだから、驕るな」と語り、2節では「己を誇るのでなく、他人が認めてくれるほどに自分を高めよ」と諭します。何故なら、3節「愚か者(1節、2節で警告されるような者)は周囲の重荷となる」からです。賢者は、私たちがそのような「愚か者」にならないように、5節「的確な批判は『いつか分かるだろう』という愛よりも勝る」と語り、自分を高めることを勧めるのでした。
  大変自らに厳しい格言ですが、だからこそ、神と人に正しく生きることの幸いを語ります。9節では「友情は香木よりも素晴らしい」と語り、11節では神さまに正しく生きる者に神さまが与えてくださる祝福と未来を示しているのです。
  今年はコロナ禍のため、他人との繋がりが希薄になりがちな一年でした。でも、そんな一年を締めくくろうとする今、私は神さまと皆さんの繋がりと支えをいただいて歩めたことを振り返ります。どうぞ引き続き、的確な批判は寄せてください。まだまだコロナは続くでしょうが、共に繋がって2020年から2021年へと移行していきましょうね。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝のみことばは、私たちが一人で生きているのでなく、神さまと周囲の人々との繋がりの中で生かされていることを思い起こさせてくれます。この一年、私たちは自分に甘すぎましたか?もしそうであれば、どうぞ自分を律し、神と人を愛し、愛されて生きる私たちへと高めてください。私たち自身が、よりいっそう、あなたの喜びとなれますように。救い主イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

30日(水) 箴言27章12-16節
一言メッセージ:今朝の箇所は落語のようです。2020年の終わりで大掃除や家族の帰省などで忙しい人もあるかもしれませんが、笑って一日を始めたいと思います。取り上げる箇所は2箇所です。
  ①14節「友人への祝福も、早朝に大声でするなら呪いと見なされる。」神学部時代、単身寮に住んでいました。変わった人たちが多かったですが、その中で一人、早朝の新聞配達をするため生活時間帯が僕らと違う神学生がいました。夜は8時には休み、早朝3時過ぎくらいから動き出すのです。夜、友人と廊下で立ち話をしていると、彼の部屋のドアがギ―っと開き、「あのぉ、もう休んでいますので、お静かにお願いします」と言われるのです。「失礼しました」と言って談話室で話すのですが、翌朝、3時過ぎから、洗濯室で盛大に洗濯機が回っている。寝ぼけ眼で見に行くと、彼の洗濯籠が置かれていたものです。早朝の騒音は単なる呪いでした。ちなみに、彼の名誉のため、誰であったかは伏せておきます。
  ②15節は謎かけのようです。皆さんも考えてみてください。「降りしきる雨の日に滴り続ける雨漏りとかけまして、いさかい好きな妻と説く」。「その心は?」(お考えください)「どちらも逃げ場がないでしょう。」挙句、賢者は16節で悪ふざけ(?)を重ねます。「いさかい好きな妻、風、油まみれの手」を並べ、「捉えようがない」と語りました。どれほど尊敬を集めた賢者も、自分の最も身近な人にはしっかりととっちめられていたようです。何だか安心しますね。
  さて、今日は叱られないように、しっかりと大掃除いたしましょう。皆さんの一日がハッピーであれますように。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は何だか朝からリラックスさせられました。もう何も言いません。どうぞ今日一日、みことばを思い出してはクスリと笑わせてください。ユーモア大好きなイエスさまの御名で祈ります。アーメン。

31日(木) 箴言27章17-22節
一言メッセージ:今日は大みそか、皆さん、一年本当にありがとうございました。一年の締めくくりのみことばを読んでいきましょう。今朝の箇所も、いかに生きるのか、を語る箇所です。
  17節では「人は人の中で鍛えられる」と語り、机上の空論で生きるのでなく、清濁併せ吞むようにしながらも、人との関わりで時に葛藤し、時に貫きと、試行錯誤しながら生きることが、私たちの信仰生活をも成長させると語られます。18節の「いちじく」を育てる人の譬えが語られます。家庭の庭に生えているいちじくは勝手に放置していてもそれなりに実がなりますが、農園で育てる農夫たちは大変な手間がかかります。賢者は根気よくいちじくを育てる農夫の姿と、神さまへの生き方を守る者の誠実な一歩一歩を重ねました。19節では「その人の心は相手に対する時の姿に現れる」と語りました。20節では、人の欲望には限りが無いことを示し、21-22節では「だからこそ、他人からの賞賛によって調子に乗るのでなく、自分を律すること」を警告してくれるのです。
  どれひとつとっても、決して簡単ではありません。でも、そんな時に、私は恩師から言われたことを思い出します。彼は説教作りについて話してくれたのですが、それは正に生き方を示すものでした。「聖書と向き合って説教を作る時、説教者は『自分がこの聖書の御言葉のように正しく自分を律して生きていない』と打ちのめされるだろう。そんな時、説教者は完全にみことば通りに生きられなくても、たった一つでいい。たった一つ、自分で葛藤し、でも決断して取り組んだ経験を持ちなさい。その経験一つを持って語る時、説教に君の生き様が乗るのだ。そうやって一つに取り組むと、私たちは次の一つへと歩みが進められていく。最初から全てでなくても、一つずつ歩めばいい。」今朝の箴言のみことば、2020年の自分を振り返らされると同時に、新しい年に向けて、一つから、一歩から歩み出そうと思わされます。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。2020年はコロナ禍という今まで経験したこと無い災害があり、多くの人が不安と困惑に陥る中、私たちはみことばに生かされながら歩んでこれました。一つずつ、一歩ずつではありますが、あなたに支えられ、歩んでこれたことを心より感謝します。どうぞ新しい年もあなたの導きと整えをいただき、御心に従って歩むことができますように。今年を感謝し、新年に期待し、イエスさまの御名で祈ります。アーメン。

2021年1月1日(金) 箴言27章23-27節
一言メッセージ:皆さん、明けましておめでとうございます。新しい年もどうぞよろしくお願いします。新しい年も早速、みことばで歩み出しましょう。21年は丑年なのだそうですが、みことばに従い、羊の話をさせていただきます(笑)。
  賢者は羊と財産(金銀などの金銭)を別物と考えています。財産は価値あるものだけれど、永遠に続くものではない。一方で、羊は手間がかかるし、問題を起こす。でも、羊は共に生き、共に成長し、助け合える存在だと語る。26-27節では例として、毛は着物に、雄山羊は畑を買い取るために売ることもでき、雌山羊の乳は家族の食事になる、と語ります。だから、賢者は23節「羊の様子(直訳は「羊の顔」)をよく知っておけ、群れに心を向けよ」と諭すのです。
  私はこの箇所を読みながら、ヨハネ10.14からのイエスさまの言葉を思い出しました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊は群れで生きるし、羊を愛してくれる羊飼いに養われるのです。私たちは、私たちの顔をよく見定め、時に応じて必要な手を差し伸べてくださるイエスさまに養われて生きていくのです。
  さらにイエスさまは言われました。ヨハネ10.16「わたしには、囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」2021年、私たちの教会に新たな羊が加えられていくこと、共に礼拝し、共に生きる兄弟姉妹が与えられることも願いながら歩み始めたいと思います。
祈り:天のお父さま、今朝は新年のはじまりの日、今日もみことばをありがとうございます。神さま、今年は丑年ですが、私たちは羊であり、イエスさまこそが良き羊飼いです。新しい年もイエスさまに伴われ、導かれて歩めますように。どうぞ私たちだけでなく新たに、共に礼拝し、共に生きる仲間もお与えください。年の始まりに、あなたの御業に期待し、祈ります。アーメン。

2日(土) 箴言28章1-10節
一言メッセージ:今朝の箇所は誠実に生きることの勧めです。その中で特に目に留まるのは5節です。「悪を行う者らは裁きを理解しない。主を尋ね求める人々はすべてを理解する。」注目したのは「主を尋ね求める」という行動です。私たちの人生には時に「何でこんなことが?」と言いたくなるようなトラブルや課題が生じるものです。そんなトラブルの際、「悪を行う者(対比で言えば、主を尋ね求めない人)」は自分の理解できる理屈でトラブルを意味づけようとします。例えば、「誰それが悪かった」とか「運がなかった」と言って、出来事を終わったことにしようとします。でも「主を尋ね求める人」は文字通り、神さまに「これは一体どういうことなのでしょう?あなたは私に何を示しておられるのですか?」と尋ね続けます。それが、自分への警告なのか、それとも何らかのトラブルでしかないのに神さまがここから私を顧み、整え、祝福へと導こうとしてくださっているのか、を考えるのです。賢者はその結果の違いを語ります。神さまに尋ね求める人々は後に、「あぁ、あの出来事はこの時のためだったんだ」とか「神さまは私を顧みて、こんな風に導いてくださったんだ」という気付きを得るのです。今は分からなくとも、後に分かる祝福があるのです。
  今から5年ほど前のことです。年が明け、実家に帰省するため運転していた私は、疲れてたんでしょうか、渋滞の最中にブレーキが緩み、のろのろと車が進み、前の車にコツンとぶつけてしまいました。すぐに車を寄せて謝り、警察を呼んで、あとは保険屋さんを介して、処理を行いましたが、「新年早々、何やってんだ」とへこみました。それから数年後、市民運動に力を入れていた時期、一人の女性から「覚えていますか?」と声をかけられました。まるで覚えていなかったのですが、実はあの事故の相手でした。それがきっかけでグンと親しくなり、一緒に活動することとなりました。まさか、ここに繋がるのかとビックリして、神さまの業の不思議さに大笑いしたものです。
  賢者は語ります。「主に尋ね求める人々は、後日、すべてを理解する」と。2021年、神さまの導きに期待しながら歩み出しましょう。
祈り:天のお父さま、今朝もみことばをありがとうございます。今朝は、あなたに尋ね求めて生きることを示されました。あなたの導きは私たちには不可解で、一時的には単なるトラブルにしか見えない事柄もあります。でも、あなたに尋ね求める時、後々になれば、あなたの導きの意図に気づかされることもあると知らされます。神さま、2021年も私たちの思惑でなく、あなたのユニークな導きの中で歩ませてください。期待し、救い主イエスさまの皆で祈ります。アーメン。

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Author:久留米キリスト教会
福岡県久留米市にある久留米キリスト教会のブログです。
わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟する、プロテスタント派のキリスト教会です。
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